私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

警告 奇人変人狂人覚悟 悟りを目指す人の心構え‼

           

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

警告 奇人変人狂人覚悟 悟りを目指す人の心構え‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は14回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私の動画を視聴されている人の中には、もしかしたら悟りとか解脱という言葉に神秘的な響きを感じて、私も「私は無い」を感じてみたいとか真我の直接体験をしてみたいと思われている人がいるのではないでしょうか。

 私は、そういう人に対して予め警告を発します。安易な気持ちから悟りや解脱に挑戦しようと絶対に思ってはいけません。下手をすれば通常のまともな考え方が出来なくなり普通の日常生活に支障をきたすおそれがあります。時間や場所、場面といったTPOをわきまえることができなくなり、所かまわず他人が見れば異常ともいえる言動をしてしまう虞があります。私の過去動画を視聴されてきている人ならお分かりでしょうが、私は、神や悪魔はいない、神は善と同じように悪を愛している、何人も人を殺した犯罪者であっても神はその人をひとしく愛しているなどというようなことを常人なら普通言わないし、言えないことを平然と動画にして誰が見ているか分からないユーチューブのようなところに載せています。そのことだけを見ても私は明らかに普通の人とは感覚が違っていることがお分かりになるのではないでしょうか。一般常識のある人間なら自分の世間体や保身を考えるはずであるにもかかわらず、そんなことお構いなしに非常識な言動をする私は常軌を逸していると思います。人は私を見て気がふれている奴と言うのは間違いないでしょう。

           

 たとえばインドの聖者であるニサルガダッタ・マハラジについて書かれた著作を読めば分かりますが、マハラジは生や死について尋ねられると「生まれたり死んだりする人は誰もいない」などと平然と言い放ちます。普通の人が、これを聞けば頭がおかしいと思うはずです。ですが聖者の心は常に真我にあるので本当のことを正直に言っているに過ぎません。それが真実であるがゆえに自然と破天荒な言動にならざるを得ないのです。あなたは、そういう人になりたいと本当に思っているのでしょうか。私などはまだ、常人と違うことを言っているという自覚があり、ユーチューブ以外では悟りの話しをすることは一切なく、そもそも言っても無駄だと知っているので、わきまえた発言をしているだけましな方と言えるかもしれません。

 視聴者の皆さん想像をしてみて下さい。もし、あなたが真理に気づいたとします。そのあなたが、親や子、配偶者、友人や会社の同僚に対して突然、私は無い。私は真我であり創造主だ。私は体ではない。私は何もしていない、ただの観賞者だ。などと言いだしたら、どうなるでしょうか。たとえ、そのことを人に対して直接言わないにしても私のようにユーチューブで不特定多数の人が見られるように動画配信のようなことをし出したら、その動画を見たあなたを知っている人たちは、あなたに対してどのような対応をするでしょうか。周囲の人は当然の反応として、訳の分からない宗教の本なんか読んでいたから、あなたの頭が急に変になりだしたと口を揃えて言うのではないでしょうか。精神病にかかったとか、誰か怪しい人に騙され洗脳されたとか、はたまた迷信深い親などには狐か狸に憑かれたなどと言われるかもしれません。会社の同僚・友人からは何か嫌なものを見てしまった時のように扱われ、陰口をたたかれ、あなたには誰も近づかないようになるかもしれません。特に、あなたの親や配偶者、子供といった近親者たちは、あなたが何でもないと言えば言うほど、あなたが前と違って見えるようになり本当に頭がおかしくなったと感じるようになります。あなたの周囲の人たちが精神世界に何の関心もなく何の知識もなく、宗教に全く関わりなく生きていた人たちであればあるほど、あなたの言動を異様に感じるでしょう。

 従って、人々は、あなたを頭が変になった人として扱い、特に身内は精神病院に行くことを勧め、時には強制してくるおそれがあるでしょう。真理を理解できない人たちからは間違いなく奇異な目で見られるようになって、疎まれ疎外され嫌厭され、いわれなき風評が立ち、それまであった家庭や会社での、あなたの安全な居場所がなくなる可能性があります。あなたは、それを覚悟しなければなりません。古来より真理を極めた人は凡夫たちから迫害や弾圧を受けてきた歴史があることを忘れてはなりません。現代にあっては信教の自由があるので直接的な形で命までは取られないでしょうが、しかし、現代にあっても大なり小なり陰に陽に信仰を解しない人たちから不利益を被ることがある可能性は否定できません。悟りや解脱を目指すというのなら、あなたは真理に生き真理に死ぬ覚悟を持つ必要があります。

 私には、そんな覚悟を持つことなど無理、周囲から変人奇人狂人、果ては危険思想の持ち主と思われたくない、私は普通の日常生活を送りたいと思うのであれば、うかつに悟りや解脱をしたいなどとは絶対に思わないことです。安易な気持ちで、悟りや解脱に近づくのは本当に危険です。

 あなたが独身で一人住まいで会社のオーナーか自営業者、若しくは、職を転々とし、いつ辞めても良い職業に就いて周囲にどう思われようと構わないというのなら良いのですが、既婚で成長期の子供がいて人から評価される辞めるつもりのない雇われの職業に就いているというのなら下手に悟りや解脱をしたいなどとは思わない方が身のためです。せいぜい、悟り系の本を読んで全く理解からほど遠いにもかかわらず頭で分かったつもりになっているのが一番安全だと思います。

 私の場合は何気なく読んでいた悟り系の本を読んでいる最中にいきなり「私は無い」に気づいてしまったことから成り行きでこうなってしまったという感じなのですが、それでさえも全て抗うことなどできるはずもない創造主の思し召しのままに事が進んでいることを理解しているので仕方がないと受け入れ諦めています。そして私は、ユーチューブで今やっている悟り系の動画配信をすることで私の気づきが他の悟りを心から望む、たとえ、それがたった一人の人であったとしても、その一人の人も創造主に選ばれた人であることから、その一人のためになるのなら自分がやれることはとにかくやろうという覚悟を持ってやっています。

 その人にはその人なりの考えややるべきことがあるので、既に悟りや解脱をした人にまで同じようなことをして下さいとは言いませんが、少なくともこれから悟りや解脱を目指すという人なら、目覚めた後には他の誰かの目覚めのために自分に出来ることはするという、それくらいの気持ちを持って取り組んでもらいたいなと思います。

 結局のところ唯一の存在は真我だけなので悟りや解脱をする人などどこにもいない、行為者はどこにもいないというのが真理ですから、社会的立場などどうでもいいといえばどうでもいいのですが、なんにせよ今いる幻想の世界における自分の置かれた社会的立場をよく考えた上で立ち振る舞いを決めてもらえれば、それで良いのかもしれません。自分が思う悟り後の功罪をそろばん勘定して、それでも悟りを目指したいというのなら、私は悟りの世界にようこそと歓迎しますが、たとえば超能力を得たいとか、それで有名になりたいとかといった損得で悟りを考え、そろばん勘定する人が本当にいたとするならば、そういう人は自我に支配された自我丸出しの人ですから、そんな執着まみれでは自我を捨て去った先にある悟りを開くなど到底無理であると、そのように私は感じていることも付け加えておこうと思います。なぜなら、自らのうちにある真我は私という想念が立ち現れることで見えなくなってしまうものであり、その私という想念を打ち消すことが出来てはじめて、その姿を垣間見ることができるからです。

            

 最後に、先ほど本文内でちょっとだけ触れたニサルガダッタ・マハラジについて書かれた「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」という本をご紹介しようと思います。マハラジさんは、1897年4月17日にインドのボンベイに生まれ1981年9月8日に咽頭癌のため 84歳で亡くなられました。34歳の時に出会ったグルが言った「あなただけが存在する」という言葉を疑うことなく信頼し、ある時それが絶対の真理であると真我を実現することで悟った方です。しかも、ただ悟っただけではなく、もしかしたら真我への常在があった方かもしれません。本の中から、そういったものを私は感じました。

 以前の動画で私は真我への常在はあり得るはずがないと不覚にも発言しましたが、それは今ここで訂正をさせていただきます。最近の私の新たな気づきとして、真我への常在は可能であることに気づきました。まだまだ私の気づきは浅いことが私自身分かったのですが、これにより新たな目標ができました。それは私の意識の真我への常在です。私の場合は、真我の直接体験があることから、全く山が見えないという訳ではなく山自体は見えているところに立っているので、目指すべき方向が分かっている分挑みやすさがあると思います。どんなに険しくとも、そこを目指して着実に歩を進めて行こうという思いでいますが、だからといって特別に何かをするというわけではありません。今まで通り悟り系の本を読んでいきながら、自分の目を通して見る世界を分離の無い一体の世界として見つつ自らの言動を第三者的に客観視し続けること、そして既に体験済みの真我を常に心に思い続けることを日常の生活習慣として淡々とこなしていく、それだけです。真我はどんな時であろうともそこに在り続けている世界の鑑賞者ですから、自分の内なる真我こそが唯一の存在であり、全ての始まりであり終わりであり、全ての全てであることを念頭に置いて忘れないようにしているだけです。私の努力は、その程度のもので誰にでも出来るものです。やろうと思えば直ぐに出来る程度のものです。従って、これを聞いている人のどなたであっても今直ぐにでも取り組める簡単な悟り方です。あなたはあなたの内なるグルに帰依するだけで良いのです。外側にある何かを崇拝する必要性は全くありません。とても簡単なことです。

 難行苦行は既に2500年前にお釈迦様が否定されています。さらに私は瞑想や座禅といった特別なスタイルさえもいらないとそこに付け加えようと思います。日々の心構えだけで十分だと思います。もちろん、そういった形に囚われ、はっきり見える外形的なことをやりたいという人の気持ちを否定はしません。難行苦行や瞑想座禅をやりたい人は納得いくまで存分にすれば良いと思いますが、そんな努力は、私は必要ないと思います。悟りとは結局のところ自らの内にある真我を見出すことでしかないので本来は何の努力も必要ないことです。努力が必要であると思い込んでいること自体に間違いがあります。そういうことですので、やり方に囚われの無い方で、なおかつ楽な方法で悟りたいという方は私がお勧めする簡単なやり方で是非取り組んでいただけたらと思います。  

 ただただ自らの内にある真の自己を求め真の自己を愛し続けることをするだけで良いのです。あなたの人生を創造し常に共にあった真の伴侶は真我であったことに気づけば、あなたは真のしあわせを得られるのではないかと思います。あなたの本当の幸せは外側にあるのでなく自らの内にあることに気づいてもらいたいなと思います。

 本の方に話しを戻しますが、この本は巻末の用語解説も含めると577ページにもなるけっこう厚みのある本です。しかも1ページ中に書かれている文章は上下二段に分かれており字も小さいです。質問者に対するマハラジさんの答え方は簡潔にズバッと要点だけを答えるスタイルではありません。もちろん必要なこととして仰っていることではあるのですが、たとえ話しや回りくどい言い方がされていたりすることから、それがかえって難しいと感じさせるかもしれません。はっきり言ってマハラジさんの本はかなり難しいです。気づいている人であっても相当に難易度が高いです。

 その理由としては、気づき自体にも段階があることから「私は無い」に気づいていれば分かるという代物ではありません。私の経験上、「私は無い」に気づいているだけの段階では理解に時間がかかるかもしれませんし、全く理解が出来ないところもあるかもしれません。私は時折、苦しみの矢面(やおもて)に立たされている自我の視点に立てば真我はそう見えますねという感じで真我のことをサディストとかサイコパスなどと冗談めかして言ったりしますが、マハラジさんは終始一貫して真我に立脚した視点からの発言をしていることから、この本の真の理解のためには、読者には内なる真我への気づきの段階が要求される高度な教えとなっています。そういう意味においては上級者向けと言えるものです。いずれにしても相当に読み応えのある本なので頑張って完読してもらいたいと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。