私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

人は生まれもしなければ死にもしない‼

  

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

人は生まれもしなければ死にもしない‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が22回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回お話しする事については視聴される人を選ぶことになるかもしれません。なぜなら死に関することだからです。故に現在、様々な理由から死の恐怖におびえ、または死に直面している人には向かない可能性があります。死が切実な問題として身近に感じられている人にはショックを感じるかもしれませんので、死に関する話しは聞きたくない向き合いたくないという方は何とぞ視聴をご遠慮くださいますようお願い申し上げます。ある意味、どれほど奇想天外な話しであっても冷静に受け止められ一種のおとぎ話しとして冗談話しのように聞き流すことができる心のゆとりのある方だけ聞いてほしいと思います。それでは始めます。 ジーン・ダン著「意識に先立って」という本があります。この本はインドの聖者の一人として名前を挙げられるニサルガダッタ・マハラジと来訪者との質疑応答を記録した本です。その中の1981年3月10日の質疑応答の件(くだり)に次の様なやり取りがあります。そのまま引用します。

 「死ぬとき、どんな影響がありますか?」という質問者の問いへのニサルガダッタ・マハラジの答えは次のようなものだった。

 「その影響とは、人が死んでいなくなったと知る人たちに対するものだ。死んでいなくなってしまった人に対しては、何の影響もない。彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。肉体は食物からできているが、本当のあなたはこの肉体の中にはいない。」  

 また「アイ・アム・ザット私は在るニサルガダッタ・マハラジとの対話」50章の冒頭に次のようにあります。少し長くなりますが、これもそのまま引用します。

 質問者「普通の人が死ぬとき、彼に何が起こるのでしょうか?」

 マハラジ「彼が信じるところに従って、それは起こる。死以前の生が単なる想像に過ぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。」

 質問者「では、ジニャーニ(賢者)においてはどうなのでしょうか?」

 マハラジ「ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。」

 質問者「他者にとっては、彼はそのように見えません。

 マハラジ「しかし、彼自身にとってではない。彼自身の中では、物理的にも精神的にも自由なのだ。」

 質問者「それでも、あなたは死んだ人の状態を知っているはずです。少なくとも、あなた自身の過去世から。

 マハラジ「私のグルに出会うまでは、私は非常に多くの事を知っていた。今、私は何一つ知らない。なぜなら、全ての知識は夢の中だけにあり、根拠の確かなものではないからだ。私は自己を知っている。そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在―これでもあれでもなく、ただ在ることだけがある。」

 最初、これらの文章を読んだ時、私は書かれていることが理解できませんでした。意識に先立っての中の「彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。」、アイ・アム・ザットの中の「ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。」とは、どういう意味なのか見当もつきませんでした。その時の私は、既に「私は無い」に気づいて2年近く経っていたのですが、まだ真我の直接体験をする1年以上も前の事でしたので依然として、それまでの幼い時から頭の奥に染み込んで有ると思い込んでいた死後の世界を否定しきれずにいました。

 なぜなら、私は小学生の時から心霊研究家と言われる人たちが書いた死後の世界を肯定する沢山の本を読んできていたからです。そのために、この死後の世界を否定する「彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。」「彼はけっして生まれてこなかったからだ。」と断言するニサルガダッタ・マハラジの言葉を、そこに書かれているからという理由だけで素直に受け入れられるものではなかったのです。

 私はそれまでに、全ては物語であり、私やあなた、見る者見られるものといった世界の二極性は錯覚であり、それらは全てスクリーン上に一体となって映し出されるいる一つのものであって、根底にはその現れを切望する存在が有るという気づきを得ていたにも関わらず、その一方では、死後の世界は有って当然という観念がしつこくこびりつき離れることがなかったのです。

 人の子として、この世に生まれたと思い込んだ日以来、刷り込まれ続けた誤った既成の知識は脳裏に深く刻み込まれ、自分でいうのも何ですが、それまでかなり深い気づきを得ていたにもかかわらず既成概念に反しているというだけで抵抗を感じマハラジの言葉を半信半疑で頭から信じることはできないという気持ちでいました。それほど、死後の世界を否定するニサルガダッタ・マハラジの言説は素直に受け入れられるものではなかったのです。この事を何の疑いもなく心底理解し受け入れられるようになるのは今年の5月に真我の直接体験をするまで待つしかありませんでした。  

 前にもお話しした通り、真我とは純粋意識です。ただ在るだけの存在です。そこには一切の感覚も思考も感情もありません。何かしらの形を有しているなどということは一切ありません。それが、それ自身について何かを考えるということもありません。それ自体が「私は在る」などと言葉を発したりすることはありません。それは、ただ在るのみなのです。真我とは純粋な気づき、ただ在るだけの存在なのです。それが旧約聖書出エジプト記に書かれているようにモーセに対し「私は在るという者だ」などと言うことが出来るようになるのは自身を投影する現象世界が生じた後の話しです。私たちがいると思っている有為転変(ういてんぺん)し悲喜こもごもが映し出される現象世界は、真我が真我自身の中で見ている幻影に過ぎません。現象世界は観念の世界なのです。

 分かりやすくいうなれば純粋意識が発する光が投影する立体映像の世界です。実体はどこにもありません。真我は、自らが生み出した空想世界の中に我を忘れて没入しているのです。その人の人生が死を迎え、それ以上のストーリーが設定されていないのであれば、その人の人生はそこで終わります。それは映画の主人公が死んで、その映画が終わるのと同じです。ただそれだけのことです。今は人類に限定しても同時かどうかまでは分かりませんが80億本以上の映画が上映されている状態です。私たち個々の人生は、その80億本を超える映画の中の一本に過ぎません。その80億を超える映画の中の一本に登場する人物が死んで終焉を迎えたからといって、それが何だというのでしょうか。他にも80億本以上の映画が上映されているのです。

 はっきり言います。私やあなたは映画の中の登場人物ではありません。死ねば、私やあなたは元の純粋意識に戻るだけです。私やあなたは紛れもなく純粋意識なのです。私やあなたは映画の中で生き死にする登場人物ではなく、あくまでも登場人物に一体となって観賞するというやり方で映画を楽しんでいる存在なのです。

 ニサルガダッタ・マハラジはそれを悟っていました。もちろん、マハラジだけではないはずです。大昔から多くの賢人や聖者といわれる人たちは様々な方法で、真理を解明しその境地に至ろうと努力をしてきたことは残されている多くの記録や言い伝えから分かっていることです。その人たちの中には実際に悟りの境地や解脱に至った人もいたはずです。その悟りや解脱に至ることができた様々な方法が、哲学や宗教という形を取り古来より語り継がれているのではないかと私は思います。従って、私たちの本質は永遠不滅の存在である以上、この世を必要以上に悲観し悲しんだりする必要性がどこにあるのでしょうか。

 人は生まれもしなければ死にもしません。生まれた時から自分と思い込んでいる体は間違いなく私やあなたではありません。私やあなたは一つなるものである真我なのです。

 故に、先ほどの引用文の中にあった死んだ者は自分が死んだことを知らないのは当然ですし、ジニャーニが生まれもしなければ死にもしないというのは真実です。死んだ人は純粋意識である真我に、その時戻るだけですから自分が死んだことは知らないのは当たり前です。その人の物語りはそこで終わるのですから、臨死体験をして生き返るといったストーリでもない限り死んだ人の物語りはそこで終わるのです。賢者であるジニャーニは自分が真我であることを自覚しているので元から生まれていないことや死ぬこともないことを知っています。死ぬように見えるのは、あくまでも映画の中の登場人物でしかありません。

 もしかしたら純粋意識があるというのなら、その純粋意識がその人生の死を理解しているだろうと考える人も中にはいるでしょうが、前述した通り純粋意識は完全なるただの純粋意識なので、それ自体で何かを感じたり考えるということはありません。それはただ在ることしか出来ない存在です。純粋な気づきでしかないのです。ここが難しいところかもしれませんが、あらゆるものの源は、表現することが不可能でありながら確かにそれは在るという存在なのです。

 多分聞いている人のほとんどは私が言っていることが全然分からないと言うと思いますが、私自身も最初はそうだったので分からないことに対し落胆することは全くありません。とにかく関心を持ち続け学ぶことが大切だと思います。

 そして視聴されている人の中には、ここまで私が話してきた事を聞いて、それなら、この世界が幻想で死後の世界もないというのなら、これまで多くの人たちが語ってきた死後の世界は何だったのだろうかと疑問に思う人がいるかもしれません。私も真我の直接体験をするまでは、その疑問を感じる一人でした。しかしながら、その疑問も私は真我の直接体験をしたことで晴れました。その答えは次のようなものになります。

 たとえ臨死体験者や霊能力者といわれる特殊な能力があると称する人たちが死後のあの世の世界を語り、その話しを聞く人がいたとしても、それもまた、その話しをする人、聞く人たちの人生の中において、そのような経験をするように物語りが設定されているだけのことなのです。臨死体験も霊能力も現象世界の一部に過ぎません。つまり、死後の世界も、単純にその人があると思い込んでいるに過ぎないただの幻想の物語りでしかないということです。ですから、それに気づけば冒頭で引用した「普通の人が死ぬとき、彼に何が起こるのでしょうか?」という質問に対するマハラジの「彼が信じるところに従って、それは起こる。死以前の生が単なる想像に過ぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。」という答えの意味を理解できるようになるのではないでしょうか。

 いずれにせよ臨死体験はあっても、聖書に書かれているイエスやラザロの復活以外で死者が蘇ってあの世の事を語ったことは一度もないのですから、いわゆる霊界など無いといっても何ら差し支えがないことです。実際のところ、死後の世界があろうとなかろうと本当のところどうでも良いことなのです。魂にしても有ろうが無かろうがどちらでも良いことなのです。たとえ有ったとしても、それも幻想の一部でしかないということです。もちろん、私が言っていることもただの妄想だろうという人もいると思います。そう思う人がいても一向に構いませんし、私としては何ら差し支えありません。所詮、私もあなたも神によって設定された物語の人生を経験しているだけですから、どの様に考え生きようとも幻想の中を生きているに過ぎません。唯一の実在は、それら全てを超越したところにある沈黙の観賞者といえる存在です。私は、その存在こそが真実の私であることに既に気づいています。本当は最初から元から、それしかないのですから本来は超越自体もないのですが、現象世界の中の私という観点からみて、そういう説明の方が分かりやすいかもしれないと思い、その様にお話ししたまでのことです。 なんにせよ死ねば分かることです。

 ちなみに私はイエスやラザロの死からの復活は本当の事だと思っています。それらの復活は、この世が現象世界だからこそ可能なのです。映画やアニメの世界において奇想天外なストーリーが何でもありであるのと同じように、この世界は真我の見る夢の世界ですからイエスが三日後にラザロが四日後に生き返ったとしても何の不思議もありません。まさに、この世については、ヨブ記23章13節の通り「神がいったん定められたことについては誰も翻(ひるがえ)すことはできません。神は望むがままに行われる。」世界なのです。

 結局、マハラジを含め多くの覚者が指摘するように悟る者など最初からおらず悟りなど存在しません。なぜなら私やあなたは、一度たりとも真実の私から離れたことなどないのですから、私たちは元から真我である以上、悟る必要など本来はありませんし悟る者などどこにもいないというのが本当のところです。

 それは感情もなく思考もなく感覚もなく善悪も無く無慈悲で冷徹無比な不動の絶対的存在であると同時に愛であり愛でないものであり、見る者であり見られる者であり、相対し合う現象世界の全ての全て、始まりであり終わりであり、無であり有であり、空であり充なのです。そして、それらの全てが真の私であることに気づくことこそが真実の気づきなのです。

 真我の直接体験をしたことがある人ならば分かると思うのですが、私は全くと言っていいほど死を忌み嫌ったりしません。永遠の至福でいられるのですから、むしろ歓迎すべきものだと思っていますし、死ぬのがとても楽しみです。単純に一つの物語りが終わったに過ぎないからです。今この瞬間にも世界中で子供は誕生し続けているわけですから、まだまだその先にも、登場人物と自己同一化し鑑賞しなければならない人生という映画は沢山あります。もしかしたら、次々に映画の登場人物と自己同一化していくことを輪廻と言うのかもしれません。いずれにせよ、私やあなたは死ぬことはないのです。私やあなたは元から生まれてなどいないのですから死ぬことはないのです。私やあなたは永遠なる存在です。死があると思い込んでいる人にだけ死が迫りきて、その恐怖におののくという体験が起こります。罪が有ると思っている人にだけ永遠の業火で焼かれる地獄があるという恐怖が生じるのです。逆に懺悔し改悛し、もはや私には悔いる罪など一切なく命は永遠であると心から言える人には、生前から天国の門は開かれ偽りの生死を偽りと見破れる者となることができ、それにより死の恐怖はなく死後の地獄におびえることもなく、幻でしかない誕生と死に惑わされることなく永遠の命を得て真実の生を生きることが出来るようになるのです。これを受け入れられるようになるには真我の直接体験をしなければ難しいかもしれませんが、まぎれもない真実です。

 ですから、これをお聞きの視聴者の皆さんはどうか安心してください。命は永遠です。宗派によって違いはあるでしょうが一般的に仏教で死ねば誰でも仏様になると言われているのは本当です。誰でも極楽浄土にいくことができます。また悟りの書とも言える新約聖書からも引用すると、ヨハネによる福音書第11章25節から26節にかけてイエス・キリストがマルタに言った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」というのは本当のことですし、同じくヨハネによる福音書第3章16節から21節にかけて書かれている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるために。」というのも本当の事です。

 従って、これをご覧になっている人で生きている間に真理を知り救われたいと思うのであれば、自分が心から信じる神仏に対し、けっして欲のためではなく、ただ信じるために信じるという気持ちに基づいて一心に帰依し、かつ宗教の違いにこだわることなく仏教やヒンズー教キリスト教などを学ばれることをお勧めします。なぜなら、それらの宗教の教えの本質は同じだからです。その本質に是非とも気がついてほしいと切に願います。マタイによる福音書第7章7節から8節にかけて書かれている「求めよ、そうすれば、与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、開かれる。すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者には開かれるからである。」と、群集や弟子たちを前にして言ったイエス・キリストの言葉を何とぞ現実のものとして実現して下さいますよう視聴者の皆様に心から要望いたします。

 ちなみに、先ほど申し上げたヨハネによる福音書第3章16節から21節にかけて書かれていることは、今に始まったことでもないでしょうがユーチューブで時折目にする世界の終末を予言するような動画にも当てはまります。私は、世界は滅亡することなど無いと思っています。ですから、その様な動画には私は全く興味がありません。なぜなら、私は常に光を見ているからです。光の方を見ている者には恐れるものはありません。光を見ている者には世の終末は無いのです。しかしながら光の方を見ない人は違うのかもしれません。多分、世界の終末を予言する動画ばかり見ている人は光より闇の方が好きなのだろうと思います。それはそれで何も悪いことではありませんが、世界の終末は、そういう動画ばかりを見ている人たちにとって真実味のあることとして存在していることなのかもしれません。もし、そのような動画を見ている人で恐怖や不安にかられるようであるならば、「それが、もう裁きになっている。」ということになると私は思います。   

 それでは最後にヘルメス・J・シャンプさんが書かれたナチュラルスピリットから出ている「ヘルメス・ギータ―」をご紹介して終わろうと思います。

 2年前に初めて、この本を読んだ時私は本当にびっくりしました。何に驚いたかと言うと、当時私が常日頃真理について考え理解していたことと全く同じことが書かれていたからです。これほどまでに自分の頭の中で考えていた同じ内容の考えが書かれていることに対し信じられないというくらいに驚きました。私は彼ほどに文才はありませんが、まるで私が普段考えていることを著者が代わりに代筆してくれたのではないかと思えるほど、私が考えていたことが、そのまま書かれていたことには我ながら本当に驚いたことを覚えています。これをシンクロニシティと言わずに何というのでしょうか。

 しかしながら、よくよく考えてみると、どこにも驚くようなことはないのです。私たちは誰であろうとも元から一つのもの一者であり、最初から真我として一つなのですから真我について同じ考えの人がいたとしても何の不思議もありません。ユングは、これを集合的無意識による交流と考えたようですが、全ては一つなるものが根底にあるが故の共時性なので説明の仕方は人によって違えども言っていることは同じです。

 真理についての私の思考とヘルメスさんの思考とが、あまりにも似ている共時性には驚かされたものの、これも茶目っ気たっぷりな真我のやりそうなことだと思えば、逆に、彼の最初の著作である「それは在る―ある御方と探求者の対話」で「私は無い」の気づきを私に与えてくれたヘルメスさんと考えが同じになったことは当然の成り行きではなかろうかと思います。

 2年前ほど前に至ることが出来た私の気づきに対する基本的な考え方を知りたいのであれば、どうぞヘルメス・J・シャンプさんが書かれた「ヘルメス・ギータ―」を読んでください。なぜなら彼は私であり、私は彼であるからです。そこには何の違いもありません。多分、彼もそう言うでしょう。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。