私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

ニューズウィーク日本版に掲載されたマーティン博士の悟りに関する研究論文を自分に当てはめて考える‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

ニューズウィーク日本版に掲載されたマーティン博士の悟りに関する研究論文を自分に当てはめて考える‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が23回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

         

 今回は2019年2月7日付けのニューズウィーク日本版の「悟りってどんな状態?悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは」という記事の元ネタとなっている15年以上にわたり持続的な非記号化体験に関する最大の国際調査を実施し、個人の変革と最大の人間の幸福の状態に関する研究をし続けている社会科学者のジェフリー・マーティン博士が地道にフィールドワークをした労作である「成人における持続的な非記号化体験の連続体を形成する個別体験のクラスター」の内容を取り上げながら私自身の経験に基づき悟りや解脱とは一体何なのだろうかと考えていきたいと思います。ニューズウィーク日本版の記事とマーティン博士の英文の論文が載っているURLは説明欄に載せておきます。またマーティン博士の論文を全文私が翻訳サイトを使って日本語に翻訳したものもコミュニティーに載せておきますので是非ご覧ください。但しコミュニティーは1回の投稿が5000文字までとする制限があることから26,000文字以上ある論文を何回かに分けて投稿することへのご理解を何とぞお願い致します。

 それでは始めます。まず、私が思う悟りや解脱とは、意識中におけるある種の状態の事を指して言うのだと思います。通常、私たちが生き死にすると思っている現象世界を完全に現実のものとして何の疑いもなく受け入れている状態というのは、自我に囚われている普通の人が体験している世界です。私または在るという想念によって生じた幻想の世界です。それが、事故などの偶発的なものだったり宗教的な精神修養だったりと様々なきっかけが加わり、その幻想に囚われた意識に何かしらの変化が生じることで、幻想世界への認識が薄らいでいく精神上の階梯を一般的に悟りや解脱という言葉でざっくりと表現しているように感じます。

 これは私が理解の一助にと思い作成した概念図です。分かりやすいように上の黒い部分が現象世界です。下の白い部分が真の私たちである純粋意識です。純粋意識とは、言葉では表現できないただ在るとしか言いようのない存在です。私が思うに歴史上いわゆる無であったり空であったり光であったり時には至高の存在などと言われてきたものではないかと思っています。左側の丸い図の中間にある黒から灰色、灰色から白に変わるグラデーションになっている部分が悟りに関わる部分です。右側の縦に長い長方形の図では白と黒が重なり合っている部分が悟りに関わる部分です。左側の図も右側の図も同じ一つの概念で同じことを言っています。視聴者が、それぞれ理解しやすいほうの図を見ながら考えてもらえたらと思って二つの図を並べました。これらの図が論文中で語られる悟りへと至る意識の変化を示す連続体をイメージ化したものと思ってください。右端のロケーション1・2・3・4は、マーティン博士の論文中に書かれている悟りの段階を図の中では、どのあたりに位置するのかを示しています。一口に悟りといっても多くの段階があることから、マーティン博士は悟りの段階をロケーションという言葉を使って、その発展度合いに従い共通点を見いだし大きく四つに分類しています。しかし、マーティン博士は、あくまでも悟りの進み具合を様々な側面から評価し分類しているだけなので数字の大小が悟りの段階の優劣を示しているわけではないということをご承知おきください。

 最初に、これから話しを進めていく上で問題となる悟りとは科学的な概念として何かということになりますが、マーティン博士に言わせると、悟りとは、どうやら言語化することも何かに象徴されることも出来ない持続的な非記号化体験という言い方になるようです。その持続的な非記号化体験に関する今回動画で取り上げるマーティン博士の最初の心理学的研究論文の対象となった母集団は成人50人とのことですが、最終的には研究プロジェクトへの参加者は約1200人にのぼり、その調査内容と評価方法は科学的かつ多面的であり個別に面談し詳細なインタビュ―などをして得られた結果は十分に信頼に足るものとなったようです。そういう意味で、私は、この研究プロジェクトは画期的だと思いました。これほど大規模に悟りを得たという人に関する情報を集め研究を行おうと考え実際に調査を行なった人がこれまでいたでしょうか。マーティン博士の業績は、悟りに関する意識状態を解明していく上で各方面における試金石になると思います。

 調査の結果によって分かったことは、持続的な非記号化体験は自己の感覚や環境の認識の根本的な変化に関係しており、誰もが同じように経験するわけではないものの、データを収集するにつれ、これらの個々の報告の集まりが互いに独立していないことが次第に明らかになってくると共に感覚、認知、感情、知覚、記憶に特定の変化が時間の経過と共に見られる、いくつかの異なる場所を含んだ可能性のある連続体があるように見えたとのことです。その連続体とは、「正常な」覚醒意識から自己の個別化された感覚がなく、自己に関連する思考もなく、感情もなく、主体性も選択する能力も明らかにないと参加者が報告する遠い場所に向かって進行しているように見える局所的な自己感覚から非局所的な自己感覚への変化のプロセスを説明するための便宜上の用語ですが、この連続体にしても持続的な非記号化体験という用語にしても、これらの呼称を学術的用語として使用することについては私も基本的に同意します。私が体験した一連の気づきも、まさに何かに象徴できるようなものでも記号化できるようなものでもなく言語化できない説明不可能な体験としか言いようがないものだったからです。またイスラム教やキリスト教偶像崇拝を禁止しているように、同じく仏教においても元来偶像崇拝がなかったことからも分かるように悟りの本質を形に表すことなど不可能なことから、非記号化体験という呼び方はそういう側面からも妥当ではないかと思いました。さらに、気づきにおいても自らの体験から段階があることが分かっていましたので、マーティン博士が仰る一連の自己意識の変化の流れについて連続性があるように見えるというのも、その通りだと思います。全ては一つの意識内における現象世界が顕現する過程の変化または反対の現象世界が薄らいでいく過程の変化を自己認識することを、いわゆる悟りという言葉で古より言われてきたのではないかと思われることから、マーティン博士が、調査から得られたデータを共通項に従いグループ分けされたクラスターがひとつながりとなり、それぞれが独立したものではなく連続したもののように見えるのを説明する上で連続体という言い方をしたのは妥当であると思います。

 マーティン博士は、その連続体上の自己に関する感覚や環境の認識に対する移り変わりの過程を大きく四つに分け説明を行っていますので、今ご覧になっている自作の簡単な図を使ってマーティン博士の論文における悟りの段階を私の悟りに対する考えと合わせて説明していこうと思います。

 まず、基本的な事として全ては純粋意識の中で現象世界が生じていることをご理解ください。今申し上げていることはマーティン博士の論文内に書かれていることではありません。あくまでも私が考えていることであることをご承知おきください。私たちが今いると思い込んでいる世界は全て純粋意識が見ている夢の世界です。私という自我の意識が生じることで自分の体の感覚が生まれ、目を開ければ自分の外側に世界があるという錯覚が生じます。図で言えば上の一番黒い部分が現象世界に自分が純粋意識であったことを忘れてどっぷりとつかって完全没入している所です。真理に全く気付いていない普通の人たちがいる世界です。それが人それぞれ違いはあるでしょうが何かのきっかけで真理の一端に気づくと意識の変化が始まります。私のきっかけはヘルメス・J・シャンプさんが書かれた「それは在る―ある御方と探求者の対話」でした。私はその本で「私は無い」という一瞥体験をしました。マーティン博士の論文の中には、調査参加者の自己に関する感覚や環境の認識に対する変化のきっかけに関する記載まではありません。あくまでも論文の焦点は意識の変化内容にあるようです。何にせよ、人それぞれ何かしらのきっかけで意識の変化が起こります。もしかしたら、何のきっかけも無しにある日突然ということもあるかもしれません。いずれにしても、意識の変化が起こり始めた最初の段階がロケーション1ということになるのではないかと思います。

 ここで論文中に記載されているロケーション1からロケーション4までの要約文を一気に読み上げようと思います。「ローケーション1では、個別化された自己意識が劇的に減少、或いは失われたようになり、自己に関連する思考の量や感情的な強さが減少したため、その位置にいる人の心はかなり静かになったように見えるものの、より活動的な思考の流れに引き戻されるような感情的な思考も残っている状態になるようです。ここでは、思考と感情が全体的に変化したことで、深い平安と存在の感覚が残り、この「在ること」の感覚は、以前経験したどのようなものよりも現実的で、外界や、以前経験した個人化された自己の感覚を、それに比べて現実的でないものに感じさせるようです。この深い平安は、外的な心理的誘因によって抑制されることがあるようですが、刺激が取り除かれると回復し、自己の感覚はより大きく、肉体を超えて広がっているように見えるそうです。以前は内的世界と外的世界として認識されていたものが、つながっているという新しい感覚があり、非常に高いレベルの幸福感と、すべてが思い通りに展開しているという感覚を感じ、宗教的な参加者にとっては、神性とのつながりの感覚も高まったという事例があるとのことです。

 ロケーション2では、ロケーション1の経験が深まり、自己に関連する思考の喪失が増加し、残った思考によるその人を引き込む能力が継続的に低下したそうです。この場所を進むにつれて、彼らが経験する感情の幅は次第にポジティブになっていき、ネガティブな感情を捨て去り、1つの支配的な感情を経験したとのことで、この単一の感情は、非人間的/普遍的な思いやり、喜び、愛など、さまざまなポジティブな感情が混ざったように感じられたようです。ロケーション2の調査参加者は、選択肢が提示されたときに、正しい決断や進むべき道があると感じる傾向が強かったとのことで前の場所からこの場所に進んだ人は、幸福感が高まったと報告したそうです。

 ロケーション3では、内なる平和と存在感の体験が深まり続け、つながりと一体感もまた同様に深まり続けたそうです。クリスチャンであれば、宗派によってイエス聖霊、あるいは神と強く結びついていると感じたようですし、スピリチュアル的な人であるならば、この同じようなつながりの感覚を、すべてを貫く意識の体験と重ね合わせて感じていたかもしれないとのことです。このような体験は、キリスト教のようなある種の伝統では最高峰のスピリチュアルな体験とみなされることが多く、仏教のようなある種の形態を含む他の伝統では、望ましい停車場とみなされることもあるようです。ロケーション3の対象者はしばしば、世界は今この瞬間にすでにあるもの以外にはあり得ないと考えていて、ロケーション2の人のように正しい決断や道を選ぶことを重要視することもなく、前の場所からここまで進んだ人は幸福感が増したと報告しているとのことです。

 ロケーション4では、自己に関係する思考の名残りのすべてが消え感情の経験も消えてしまうようです。神との深いつながりや一体感、すべてに行き渡る意識なども消えてしまうみたいです。ここでは、主体性の感覚も決断する能力もなく、まるで人生がただ展開し、その過程を見ているかのように感じるとのことで、さらには規則的で継続的でない予定された出来事を思い出すことができないなど、重度の記憶障害が一般的とのことです。一つまたは複数の前の場所からこの場所に進んだ人は最高レベルの幸福感を報告し、ロケーション3より良いものがあるとは想像もしていなかったので、しばしばこのことに驚いていたようです。

 以上のロケーション1から4までの連続体上を人によって、行ったり来たりしたり、または途中で非記号化体験が消失したり、またはある一点に留まり続けたりしたとのことです。ある一点に留まらなかった参加者については、彼らの精神的実践と信念、そして宗教的伝統が、連続体上の進行に影響を及ぼしているとのことで、伝統的なキリスト教が背景にある場合は連続体のおよそ3分の2の地点で終わるようであり、仏教の伝統が背景にある場合は更に連続体を進んだ人も中にはいたようです。それ以外の場合はキリスト教が背景にある場合とほぼ同じ範囲で止まっているとのことでした。参加者が使った技法や吸収した信念によって、連続体のどの部分を経験するかが決まるようだとマーティン博士は言っています。このようなことからも私は一つの宗教だけにこだわることなく仏教・ヒンズー教キリスト教といった複数の宗教を学ぶように言っているわけです。結局、何かに執着しこだわりを持ってしまうと非記号化体験をするにしても限定された狭い範囲のものになってしまう可能性が大いにあるということではないでしょうか。

 残念なことにマーティン博士の論文の中では、これ以上の段階については一切言及されていません。ロケーション4を超える体験をした人が調査対象者の中にいなかったのか、いても極わずかで確固とした、それ以上の意識状態を導き出すまでのデータを得られなかったということで不確かなことを取り上げられないということから触れなかったのか、その辺のところは分かりませんが、私は確実にロケーション4を超える意識状態があると思っています。それは何かと言うと私が体験した一時的に現象世界が消失する真我の直接体験です。マーティン博士の言葉を借りるならばローケーション5です。そして、そこから当然の帰結として導き出されるものは一時的ではない完全に現象世界が消失した純粋意識に留まる真我への常在です。つまりロケーション6にあたる解脱です。これは、その人にとって現象世界が二度と戻ることのない完全消滅に至ることなので涅槃に入るとも言えます。もしかしたら、お釈迦様をはじめ多くの仏弟子たちは様々な神通力を使えたとのことですし、イエス・キリストも色々な超能力を使えた話しが聖書に載っていたりするので、このことから推測するとロケーション4を超える段階には、もっと多くの段階を設けることが出来るかもしれませんが話しを単純化するためにここでは触れないこととします。

 今年の5月にあった真我の直接体験以降の私自身の意識の状態をロケーション1から4のどの段階にあるかを考えてみると、その時々で違います。ロケーション2から3を行ったり来たりしているようにも感じますし、時にはロケーション1に入る場合もあるようです。しかしながら、ほとんどはロケーション3若しくはロケーション4と少し重なる境界あたりにいるように感じます。私が、いつも動画の中で言っていることではありますが、私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かない完全自動のロボットです。私は自分に自身を支配する権限を一切与えられていないことを自覚していることから、私には主体性というものはありません。人生を経験している鑑賞者としての認識がただあることからロケーション4の意識状態も一部重なるところがあると思います。しかしながら、思考が全く無いというわけではありませんし、社会生活が出来なくなるほどの健忘症があるわけでもありません。だからと言って私は自分の記憶を全面的に信用しているわけでもありません。記憶に関する思考は源から一方的にやってくるものであると認識していますので記憶というものを信用していないところがあります。私は仕事上やらなければならない事を忘れてしまう可能性があると思い、職場でのミスを起こさないためにも記憶に頼らず必ずメモを取るように心がけると共に仕事に関する事前の準備も怠らにようにしています。この様な仕事に対する私の姿勢は、私は無いに気づくずっと以前からそうだったのですが、真我の直接体験をし記憶は思考としてやってこない限り思い出すことはないと気づいてからは余計注意をするようになりました。また私はロケーション2にいる人のように何らかの選択肢に対し自ら正しい決断や進むべき道があると感じることはありません。自分の歩む道が良かろうが悪かろうが、どちらでも良いことです。一般的に良いとされる道を進むのがいい事なのかもしれませんが、どの様な道であろうと神が用意してくださった道なのですから、その道を歩むのが奴隷としての務めです。従って、私は自分の将来についてあれこれ考えたりしません。そもそも不思議なことに将来について考え悩むという思考がやってこないのです。多分、神の御心に全てをお任せしているからだと思うのですが、たとえ何がしかの将来についての思考がやってきたとしても即座にその思考に気づくことにより、それ以上その思考に巻き込まれることはなく、その思考は止むのです。これは調査に参加した人のほとんどが心のおしゃべりを静めることに言及したことに通じますし、ロケーションが進むにつれて思考が少なくなり、それに引き込まれなくなったという話しと合致します。また私の場合、今に集中し物事を客観視する精神鍛錬をしている最中に急に何かをやらなければいけない用事が出来た時などは、必要な思考が直ぐにやってこないということがあったりするので時と場所を選びますが、精神を今に集中し物事を客観視するのは効果的な鍛錬だと思っています。

 論文の方に話しを戻しますが、私が注目すべき点として挙げたいのは思考の減少だけではありません。マーティン博士がデータ収集の初期段階において調査に参加した人に共通することとして平均よりも幸福度が高く、うつ病の発症率が低く、ストレスが少ないという結果に気づいたようにロケーション1から4までに共通することは一貫して感じている幸福感です。これは、もっともなことだと思います。私も、真我の直接体験以前に感じていた不安感はありませんし、いつも胸のあたりからほのかに漂う平安と至福感、時には愛を感じています。今の瞬間瞬間を起こるがままに生きているという感じなのです。

 知覚に関する場合では視覚が3Dではなく2Dつまり平面のように見える場合があります。この見え方は連続体の最も遠い場所の直前にいる人たちの見え方と共通しています。これで私やあなた、見る者見られるものと言った現象世界は一つのものであることが分かります。それに私は、先ほども言ったように少なくなった、やってくる思考に引き込まれることはほとんどありません。思考は自我の源からやってきては消え去っていくものです。思考は私のものではありません。感情についても同様です。感情は私のものではありません。言動についても私のものではありません。このように言えるのは自分のものと思い込んでいた言動と精神活動を徹底的に客観視してきた結果から言えることです。従って、身体への危険にかかわること以外で、ある出来事が起こったことに連動し即座に、それに対する言動や快不快の感情を自動的に引き起こすことは私にとってはまれなことになりつつあります。出来事と認識、思考と感情、言動などの表現活動は、それぞれが全く別々のものなので各々切り離して観察することができるようになりました。そうは言っても日常生活で突発的に不愉快な人間関係などとの接触があった場合には、それが単なる映画の中の出来事でしかないと分かっていても、それに対し嫌な感情が沸き起こり短い間ではあるものの心が乱されることもたまにはあります。しかしながら、心が乱される時間が短くなってきていることは確かだと思います。

 なぜ、そういった快不快の感情が生じるのかと心の中を探ってみると、感情を生み出す素になるものがあるからです。特に一般的に不愉快な出来事と解釈される場面に遭遇した際には体の中にモヤのような感覚が生じます。論文中では、幽霊のような感覚と表現されている箇所にあたるのではないかと思います。ごく最近では、このモヤが、はっきりとした形のある塊として感じられることがありました。

          

 私が感じた不愉快な感情の素となる塊は、この図のようにソフトテニス用ボールを上下から少し押しつぶしたようなものでしたが、私が、それに気づくと、その塊は直ぐに消えていくのを感じました。何にせよ、塊であろうとモヤであろうと、ことさら、この不愉快な感情を引き起こす素に触れなければ明確に分かる感情は湧き上がることはありませんし、やがて、その感情の素も消え去ります。最初のうちは不愉快な感情を表出させないとモヤがいつまでも消えずにストレスを感じるでしょうが、さらに状況の客観視が出来るようになれば、そのモヤさえも感じなくなります。やってくる思考については、私も人に言えるほど熟達しているわけではないのですが、考えないようにすればするほどやってくる不愉快な出来事や人物に関連する思考の場合において実践していることを申し上げるのならば、コツとしては、逆に、初めのうちは苦しいかもしれませんが、そのやってくる思考に巻き込まれないようにしながら心の中に浮かび上がる出来事や人物をじっと見つめるようにすれば良いのではないかと思います。すると不思議に、それ以上の思考はやってこなくなります。

 従って、不愉快な感情を引き起こす引き金が相手の言動ではなく自分の中にあると分かれば他人の感情の起伏や言動にいちいち巻き込まれることもなく冷静に状況を眺めることが出来るようになります。言い方は悪いかもしれませんが、共感性が欠如したようになり、たとえ目の前にいる人が自分について、またはその人自身について或いは第三者について泣いていようと怒っていようと何かをわめいていようとまるで遠くから見ているテレビか映画の中の出来事のように、その人を見ていられるようになるのです。これは人と接することが多い接客などの仕事に就いている場合には大いに役立ちます。大かれ少なかれ人と接する仕事をしている人なら事前の心構えとして時には冷静さを欠いたお客も中にはいるということを承知の上で接客していることではあると思いますが、私の場合もそういう冷静さを欠いたお客に対しては話しをこじらせたくないのでお客の機嫌をそれ以上損なわないように調子を合わせながら表面上は平身低頭のかしこまった対応は一応しますが私の心の中は至って変わりなく平常を保ちながら接しています。それは仕事以外でもそうなので、そういう意味では私の感情の経験が少なくなっていることは確かかもしれません

 また論文中には、同じ男性として同意できる事例も載っていました。連続体の最果てを経験した男性が、マーティン博士から大学のキャンパス内でインタビューを受けている最中に水着姿で芝生の上に寝そべっている女性に時々視線がいくことに対して自己分析を求められた際に、そのような事が起こるのは低レベルなハードコートされた生殖反応だと答える場面です。私の場合も同じことが言えます。私もきれいな女性には自然に目がいってしまいます。しかし、それはあくまでも生物としての本能に根差した単なる条件反射でしかありません。膀胱に尿がたまれば尿意が生じるのと同じです。路地から急に現れた人に目がいってしまうのと同じです。それ以上でもそれ以下でもないのです。女性に自然と目がいく本能的条件反射を自分の欲望であると勘違いし、それ以上の反応をしなければいいだけの話しです。

 話しが少しそれますが、ユーチューブでお釈迦様の下半身に関する逸話の動画を見て感じたのですが、もし、お釈迦様が男性としての体の機能は正常なのに全く女性に関心がなく性欲も湧かないというのが本当なら、かなり深いロケーション4の中にいたのか、若しくはロケーション6の完全に自我が消失した解脱の状態である、いわゆるサハジャ・サマーディの中にいたのかもしれません。サハジャ・サマーディについては「ラマナ・マハルシとの対話」第1巻の169ページに書かれていますが、もし、一時的ではなく体が起きて活動している時でさえも常時解脱の状態つまり真我に常在していたというのならお釈迦様の目にはこの世界は全く映っていない事になりますし、お釈迦様が見ているのは真我のみということになりますが、そういう状態であるにも関わらず、お釈迦様の体はひとりでに自然に動いていたということになると思います。その場合、活動しているお釈迦様の姿を見ているのはその周囲の人々だけということになるのではないでしょうか。しかし、マーティン博士の論文の中に様々な状態に自在に入ることが出来るジャナ・マスターに関する記載もあることから、お釈迦様の高い次元の意識を語るのは、あまりにも不遜でおこがましいのですが、もしかしたら、お釈迦様の意識状態も同じように自ら自由自在に変えられたのかもしれません。そうであるなら、ロケーションの低い段階に身を置けば性的な反応を起こすことも当然可能ではなかったかと思います。或いは真我への常在中であっても当の本人はその事に全く気づくことなく性的に反応する体を周囲が見ているということもありえるかもしれません。今言ったことは単なる憶測ですので軽く聞き流してもらいたいと思います。話しを戻します。

 調査への参加者の中には結婚をしていたり、パートナー双方で非記号化体験をしているカップルも4組いたそうです。初期の段階では非記号化体験をカップル同士でしている場合には、その事が有利に働いた場合もあるとのことですが、中には内なる平安を抑圧する原因となる状況から離れるために離婚を選択する人もいたとのことです。私自身について言えば、結婚をするというプログラムが過去の人生でされていなかったようなので家族を持つことから生じる諸事に心が煩わされることはもとからなく、それが有利に働いたのではないかと思います。多分、結婚などをしていたら家庭内の騒々しさや夫として父としての義務に囚われてしまい静かに内観し様々な本を読みふける生活習慣とは無縁となり絶対に真我の直接体験をするところまでいくことはなかっただろうと思います。確かに真我探求は自我とは何かを突き詰めていく過程において心を静かにさせる必要があることから、家族を持ってしまうと心を落ち着かせながら自己の内外面を見つめる、そして内なる平安を保つという環境を維持するのは難しいことかもしれません。しかしながら、真理を探究し悟りを得る上で必ずしも家族が障害になるとは思いませんし独身が必須要件とも思いません。マーティン博士の研究に協力した参加者の中には離婚を選択しなかった人も当然いるでしょうから人それぞれだと思います。単純に私の場合に限って、真理を探究する道を歩むうえで独身であることが必要だったのではないかと思います。これも私の人生における神が設定した計画の一つでしかありません。

 私が本を読んでいる最中に自分に起こった私は無いという最初の気づきである一瞥体験が、ロケーション4までのどの段階のものなのか、若しくはそれ以上のところからのものなのかを考えてみると、それは有ると思っていた私という主体性がなかったことに対する気づきなので、明言は出来ませんが、たぶんロケーション4以上の気づきだったのではないかと思います。少なくともロケーション1以上であることは間違いのないことだと思うのですが、そこを突き詰めてもあまり意味のないことだと思います。

 また、論文中では連続体上の1つの場所しか経験したことのない参加者の間では、しばしば独断論につながることがあったと指摘されているように限られた狭い範囲の事にしか気づいていない人は自分の気づきだけが本当で他の人が言っていることは違うと否定しがちになってしまう傾向があるようです。従って、マーティン博士の論文に書かれているように気づきには沢山の段階があるということを踏まえて自分の気づきだけが全てではないことに注意しなければいけないと思います。だからこそ、私は真我の直接体験をした後でも仏典や聖書・聖者について書かれた本などを読み自分の体験を多角的に検証し更に深めていこうとしているのです。

 これをお聞きなっている視聴者の人たちの中にも、ある程度は真理に対する気づきを得ているけど自分がどれくらいのレベルにいるのか分からないというのであればマーティン博士の論文を参考に判断してみてはいかがでしょうか。また、ユーチューブなどでスピリチュアル系の発信者が単に書物などから得た知識を言っているだけなのか、それとも実際に非記号化体験に基づいて話をしているのか、もし非記号化体験をしているのならどの段階にいるのかを見極める目安としてもマーティン博士の論文は利用できると思います。私が思うに、たとえその人が非記号化体験をしていたにしてもワンネスや引き寄せの法則などがあると感じる感覚などを語る人はローケーションレベルとしては初期の段階だと思います。今この瞬間がすべてであると感じている人は過去や未来を語りませんし、まして願望成就の方法として自分の未来を思考の力だけでどうにかしよう、どうにか出来るなどとは絶対に思わないはずです。少なくともロケーションのレベルが高い人は自分の主体性を認めることはないはずです。まさしく神の思し召しのままにということになるのです。そして中には、この論文を読んで主体性がないふりをすれば悟りになるのかと考え、自分には主体性がないと思い込もうとする人が出てくるかもしれませんが、それは間違いです。それは自分が自分の人生の支配者であることへの諦めと神仏への完全なる明け渡しと服従がなければあり得ないことです。ローケーションの低いレベルならいざ知らず、高いレベルに行くには、やはりそれ相応の神仏へ帰依する信仰心の必要性は必ず出てくると思います。

 いずれにせよ、最後に私が言いたい肝心な事は、これらのローケーション内で語られる一連の体験は誰にでも起こりえることだということです。マーティン博士が行った調査への参加者の多くは大学卒以上の人です。ある人は有名大学の博士課程の学生であったり、若き大学教授だったり、ベテラン経営者だったりと多方面で成果を上げている人々が含まれます。私のようなマニアックな神秘主義者がはまっているおかしな人の精神状態のことなのだろうなどとは言い切れないものがあるのです。また参加者のほとんどは一つ以上の宗教的伝統のもとで育っていますが、中には不可知論者や無神論者も少数派ではあるものの含まれています。その人が持つ信念体系に左右されるといえども、よほどのガチガチの唯物論者でもない限りロケーションごとにグループ化された一つひとつの内容は、もしかしたら、これを見ているあなたにも経験される可能性は十分にあるのです。ですから、どうかこの動画を視聴されている方であるのなら、自分には絶対無理などと思わずに真我探求に真摯に取り組んでいただきたいと心より思います。

 調査への参加者たちは、全てはあるがままに完璧であり、それ以外にはあり得ないと答えています。これは、まさしくその通りで私も同感です。世の中がどうなろうとも、たとえ、一人一人の人生が困難に満ちていたとしても、それもまた真我の視点から見れば完璧な人生なのです。考えてみて下さい。地球上の80億を超える人たち全ての人生が何でも思い通りになるようなストーリーだけだったら、あなたは、そんな映画を80億人分も見たいと思うでしょうか。誰も、そんな平坦で単調な映画を80億人分も見たいと思わないはずです。やはり山あり谷ありの飽きの来ない起伏のあるストーリーを見たいと思うはずです。だから真我の視点から見れば、どんな人生でも全て善しということになり、困難だらけの人生でも真我にとっては見たい映画ということになります。現在、困難に直面している人にとっては、心情的にとても受け入れられないことでしょうが、それが真実なのです。唯一、救いになるのは私やあなたは、その映画の中の登場人物ではないということです。私やあなたは間違いなく登場人物に自己同一化するというやり方で人生という映画を楽しんでいる純粋意識である真我なのです。真我探求は、それに気づくための道なのです。

 最後に改めて申し上げておきます。今回の動画の題材元となった2019年2月7日付けのニューズウィーク日本版の「悟りってどんな状態?悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは」という記事と元ネタとなった社会科学者のジェフリー・マーティン博士が書いた英文の論文が載っているURLは説明欄に載せておきます。またマーティン博士の論文を全文私が翻訳サイトを使って日本語に翻訳したものもコミュニティーに載せておきますのでご興味のある方はお読みになられてみてはいかがでしょうか。何分、機械翻訳なのでおかしなところもあるかもしれません。その場合は何とぞご容赦の程お願い申し上げます。

 それでは今回はここまでとしますが、私は動画作りにおいて予定を立てるということを全くしません。原稿を書こう動画を撮ろうという思考がやってこない限り動画作成関連の動きはしないのです。従って次の動画がいつになるのか完全に未定です。動画作りを含め私の人生の全ては神の御心次第ということになっています。その時々で私や動画自体にご縁のある方だけ見ていただければ、それで良いと思っていることから、いい加減で本当に申し訳ありませんが、気が向いた時にその時が来たら、またお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。