私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性‼

  

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が17回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 前回の動画の最後の方で私は「悟りや解脱を目指すのなら諦めは必須要件の一つになります。諦めはすなわち人生に対する作者であるという錯覚の手放しであり、神、造物主、真我、呼び名は何でも良いのですが、私たちを創造した存在に対する完全なる信頼と人生の明け渡しがあって始めて、ようやく悟りや解脱への下地が出来たと言えるのではないかと私は思います。」と申し上げたことを覚えていらっしゃるでしょうか。

 今回は悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性をお話ししようと思います。なぜ諦めが必要かと言いますと、今に集中するためです。今しか存在しない今の在るに集中するためです。過去や未来は存在しません。過去は常に過ぎ去り消え去ったものであり、時々過去に関する記憶が思考としてやってくるものでしかありません。人はそれを思い返しとして認識するだけです。未来は未来で、当然まだ存在しないものであり、たとえ一秒先の未来であっても創造主の胸先三寸でどうにでもなるようなものでしかありません。あなたが、どんなに先のことをやってくる思考として、あーなって欲しい、こーなって欲しいと望む未来をこい願ったとしてもあなたの思い通りになることは一切ありません。あなたが、もし未来において思い通りになった願った通りになった予想通りになったと思ったとしても、それは最初からそうなるストーリーでしかなかったに過ぎません。その時、起こったことに対して、過去に願った通り望んだ通り予想した通りのことが叶ったという思考がただやってきて、その思考とその思考から沸き起こる嬉しいという気持ちと共に達成感や満足感といった感情を認識しているに過ぎないのです。そもそも本当にその事を過去に願ったのか望んだのか予想したのかさえ怪しいものです。それは、ただの記憶でしかないからです。全ては創造主が設定したプログラム通りの状況と反応が起こっているに過ぎません。あなたが過去に願ったことを何らかの方法で記録していたとしても、その記録でさえも疑わなければいけません。あなたが今見ていると思い込んでいる目の前で繰り広げられているものは立体的に見えるただの映像であり、体で感じられる感覚と頭の中で感じられる思考と感情は自然に生じて感じるものではなく、全て創造主により計画され創作された物語通りに設定され展開される作為的な映像に過ぎないからです。あなたは物語の中の登場人物に自己同一化しているために自分が経験しているのものとして認識しているだけなのです。

 現れている現象としては今見えているものだけが全てです。それ以外にはありません。今見えている現象こそが、あなたや私にとって必要な経験すべきこととして創造主たる真我によりもたらされた最高の贈り物です。今目の前に現れている現象以外に何を経験したいというのでしょうか。他に経験しなければならないことは何もありません。私やあなたにとって経験すべきことだけが現象として現れていることに気づけば他の事を望む必要がなくなります。余計なことに神経を使い煩わされることが無くなります。どうぞ今目の前で繰り広げられている事象だけに集中し、目の前の物事だけをありのままに見続けて下さい。過去に目を向けて苦しんだり、必要以上に未来の事に目を向けて、しなくてもいいような取り越し苦労を避けるようにしていただきたいと思います。自分の言動も含め、全ては神の御業であることを知り神に全てを委ねれば、そこには安心しかありません。

 従って、誰であろうと人生に対して物語りを書いている真実の作者が他にいるというトリックを見破るためには、この人生に自分は一切かかわっていないと見切る若しくは見限ることが必要になってきます。もちろん、人生に対して自分は何も関わっていない、元から関わることはできなかったと認め諦めることは容易でないことは分かります。「私は無い」に気づいた私でさえも人生が展開されていくことに私というものが一切関わっていない事を受け入れ諦め自我がおとなしくなるのに3年以上かかったほどなので、何の気づきもない人が自分の人生は創造主が書いた筋書き通りにしか進まないものであるという真実を同じように受け入れて諦め、自分は人生に対して何も関わることができないただの操り人形でしかなかったことを素直に認めることは到底できそうにもない困難なものに思えるのは容易に分かります。事実上、普通の考えの人では自分の人生そのものへの関与はないものとして諦めることは不可能だと思います。

 そういった、人生そのものへの自分の関与の全否定が出来ない人、人生の全ては筋書きに従って完全自動で起きていることだと受け入れられない人は、せめて未来に対する期待だけでも諦める努力をしていただきたいと思います。本当は今現在の行為でさえも自動で起きていて、そこに自分というものは一切かかわっていないことを認め受け入れて欲しいのですが、それは無理でしょうから、どうしても受け入れられないというのであれば、出来る範囲で良いので未来の出来ごとに対して、あーなって欲しい、こーなって欲しいといった期待を持つことだけでもしないように心がけていただきたいと思います。未来は、まだ来ていません。存在していないからです。未来は、やってくる思考によって予想は出来てもどうなるか分からないからです。どうなるか分からないものを心配したり不安になったりしてもしょうがないのではないでしょうか。

 しかしながら、心配や不安をただ感じないようにして下さいと言っても、これも無理な話しであることも私は分かっています。考えないようにすればするほどストレスがたまり、かえって不安や心配に意識が向いてしまい余計に心が不安定化してしまうのは私も経験済みです。だからこそ、そこで必要になってくるのが、あなたが信じるあなたの内なる神仏への絶対的帰依なのです。決して外に祀られている既に何かしらの名前がついている姿形ある神仏への帰依ではありません。あなたはあなたの内なる神仏を心から信じ、その神仏に帰依することをするだけで良いのです。

 神や仏は単独で私たちから完全に分離して私やあなたの外側にはありません。神や仏は常に私たちと共にあり一瞬たりとも私たちから離れて存在したことはないのです。神仏は、私たちの内側であり外側であり、始まりであり終わりです、聖書の中のアルファでありオメガであり、今おり,かつており,これから来る者,全能者です。日本の神社仏閣で仁王 (におう)像 や狛犬 (こまいぬ)で表現される 阿吽(あうん)でもあるのです。全ての全てなのです。

 なぜ、そう言えるのか。なぜなら私は体の感覚のない状態から、体の感覚が生じる過程において真我の直接体験をしているからです。私は、私の本質が何であるのかを知っています。体は眠っていようと起きていようと、たとえ体が死んで灰になったとしても純粋な意識として気づいていることに気づいている鮮明な気づきとしての意識、在るとしての存在であることをしっかりと理解しているからです。私は旧約聖書出エジプト記3章14節に出てくる「私は在る」であり、ヨハネ福音書8章24節に書かれている「私は在る」なのです。わたしは,有りて在るものです。

 だからといって私は自分の事を神などとは全く思っていません。なぜなら、これまで何度も繰り返し言ってきた通り現象世界における私は、何一つ自分の自由意思を持つことの出来ない、ただの操り人形であり奴隷でありプログラム通りにしか動かないロボットだからです。私は、神が娯楽として遊ぶために使うゲーム盤の上に置かれたただの駒に過ぎません。私は、ゲームの一環として神が使う駒の一つとして、ゲームの進行上、自らの本質が何であるのかを神の御業により知らされただけに過ぎないのです。どこまでいっても私は神が使う、ただの道具に過ぎません。そして、その事は世界の80億を超える人々を含めた全ての存在にも等しく当てはめることができます。現象世界の全ての存在の根底には「私は在る」という神の本質があります。在るという神の本質なくして世界は成り立ちません。だからこそ神は物事のアルファでありオメガなのです。ただ、それに気づいているかいないかの違いでしかないのです。

 世界は、真実の私やあなたである真我が創造しています。現象の私やあなたが眠りについた時、当然の事として世界と共に私やあなたは消滅します。そして、目覚めた時に改めて世界は現象としてあなたや私の体と共に現れ出るのです。現象として現れている私やあなたは真実の存在そのものとは言えません。真実の存在は有りて在るもの、言葉として表現することが不可能な在るという神の本質です。仏教的には無相の法身と言われるものです。私たちは、その真実の存在の一部として現れたものです。

 従って、絶対的存在である神を信頼し全てを委ねることが大切になってくるのです。少なくとも、将来について取り越し苦労はしない。余計なことを考えて体のエネルギーを無駄に消費しないようにしていただきたいと思います。今できることを全てやったのであれば、後は天に任せて何も考えないのが良いのではないでしょうか。善くも悪くも答えがどう出ようとも、未来に対する期待を諦めるだけでもする努力をして頂けたら良いのではないのかなと思います。

 ちなみに、「私は在る」を取り上げた次いでと言っては何ですが、この際なのでヨハネ福音書8章24節前後に書かれていることについて私の解釈を忌憚なく簡単に言わせてもらおうと思います。ヨハネ福音書8章24節前後に書かれていることは仏教でいう因果応報からの解脱の話しをしているというのが私の考えです。自らの内にある真我を見出し自分の本質を悟れば、この世の業から受ける罪を背負う必要はなくなることから、故に自由を得ることになるということをイエスは話しているのではないかと思います。私はそのように感じました。イエス・キリストもまた、自分が神の操り人形であることを認識していたのではないかと思いますし、間違いなく悟りの境地にいたと思います。そうでなければ、ヨハネ福音書8章23節、「イエスは彼らに言われた。あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。 24節、だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」などということは言えないと私は感じました。だから、イエス・キリストは悟りの境地にいたと私は言えるのです。神の子ですから当然と言えば当然のことです。しかしながら言っておきますが、地球上に生まれた全ての人、全ての存在が神の子です。彼だけが特別な存在ではありません。それは間違いのないことですが、イエス・キリストが偉大なところは「有るとして在る」神の真実の姿に気づき、当時も今も無知がはびこるこの世にあって真理を知り、その真理を、勇気を持って人々に対して説いたことです。

 私のように私は無いや真我に気づくと、聖書の中や仏典の中、ヒンズー教聖典の中のあちらこちらに容易く共通する真理を見出すことができるようになります。だから私は特定の宗教を信仰する必要はないのです。私が帰依する唯一の存在は宇宙に遍在する根本原理でありブラフマンである真我であり、「私は在る」である有りて在る神であり、色・形なく常住し一切にあまねく満ちている絶対の真理そのものとして仏の中にある無為法身(むいほっしん)なのです。従って、日本中世界中のどこの神社仏閣教会に祀られているどのような神様やどのような仏様であっても崇めていいですし、あなたの親兄弟祖父母・夫や妻・子供・職場の同僚を神のように思い崇めてもいいのです。極端な話し庭に生えている草木を神として崇めても良いのです。全ては神の現れであり、全ての中に神は在るのです。それが私の考えであり真実です。

               

 それでは最後にナチュラルスピリットから出ている「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」をご紹介しようと思います。この本に書かれているマハルシさんの教えは本当に分かりやすいです。難しいことは何も書かれていません。すらすらと読んでいくことができます。しかし、それは私にとっての事なので他の人が読んで私のように理解できるかは分かりません。その人の真我についての理解がどれほどのものであるのかに左右されるのではないかと思います。この本には、真我を探求する上で知っておかなければならない基本的なことが沢山書かれています。私にとっても大変参考になることばかりが書かれていました。

 先ほど申し上げた通り私は特定の宗教を信仰しているわけではないので、それが聖書であろうとコーランであろうと大乗仏典であろうと他の新興宗教の経典であろうと悟りと解脱へ至る道につながるものであるなら、最初から理由なく拒否することなく何でも取りあえず読んでみようと心がけています。それが自分の精神の成長につながると考えているからです。従って出来ることなら、他の宗教を信仰している方であっても是非とも読んでいただきたい本であると思うので、私の言葉を悪魔の誘惑などと思わずに素直な気持ちで先入観や偏見に囚われることなく、まさに幼子の目と心で読んでいただきたいと思う次第です。

 特筆したいのは、私が体験した真我の直接体験が体験としてはどのように分類されるのかもしっかりと書かれていることです。私の直接体験は、第14章の冒頭に真我を直接体験した人の状態を三つに分けたうちの中のケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディというものだそうです。これは真我実現直前の段階で、自我が完全に消去されていないにもかかわらず、一時的に努力を要せずして自己覚醒をした状態を指していうそうです。

 確かにそこに書かれているその通りのことが私の身に起こりました。その時の事を簡単に説明すると次のようなものになります。それは今年の5月18日に起こりました。私はその時仕事でとても疲れていました。家に帰るなり着替えて直ぐに座椅子に寝そべるようにもたれかかり、その後についてはよく分かりません。体が寝ていたのかどうかも分かりません。とにかく体の感覚と私という感覚が無い状態の中で私は気づいていることに気づいていました。何も無いはずなのにキラキラとしていて光輝いている印象の鮮明な気づきとして私はただ在るだけでした。その時間が数秒なのか数十分なのかは分かりません。そして徐々に私という感覚と体の感覚を取り戻し、目を開けたことで部屋の中にいることが分かる現象世界も見えるようになり、それを知覚し、その後にその体験が真我の直接体験だったのだと考えられるようになりました。どういうことかと言うと、まず純粋な状態があり、その純粋な状態が薄れるにしたがって感覚を伴う現象世界が立ち現れ、それにより考えるという思考がやってきた感じです。私にとっては、その体験は間違いなく真我の直接体験だったという直感があります。その体験中に感じていた純粋な意識、その状態こそが本当の自分の状態であることを理由なく感じるのです。気づいていることに気づいている鮮明な気づきの中では私という想念と私という感覚は一切ありませんでした。お分かりいただけるでしょうか。それが私の一時的な真我の直接体験であるケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディでした。

 その時の体験を記録した日記を読み返してみると私は次のように書いていました。「真我という言い方も違うように感じる。相応しくない。純粋な気づきという言い方の方がより正確で適切な感じがする。ただ在る気づき。純粋な気づき、ただ気づいていることに気づいている。それこそが正しい言い方かもしれない。全ては想像の産物なのだ。純粋な意識内における想像の産物なのだ。ありとあらゆることが純粋な意識の中で想像されていることなのだ。人が夢想や空想をするのと全く同じ理屈だ。だから、その夢想や空想をしているのが終われば、純粋な意識は何もないただの純粋な意識に戻るだけなのだ。」今申し上げたことは体験したその日のうちに書き記した事でした。

 真我の直接体験、それが意図しない一時的に起こった偶発的なものであろうとも真我を直接体験することは神の福音であり恩寵であり至福以外の何ものでもありません。それが本来の私たちの真の在りようなのですから、古今東西、人々がそれに戻り至ろうと血のにじむ努力をしてきた事は当然の事として理解が出来るようになりました。私は再度、真我の直接体験をしたいと心から願っています。いえ、本当は一日も早くこの生を終えて真我に戻りたいとさえ思っています。それが出来ないのなら、せめて自我を完全に消し去った真我実現の状態であるサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディに至りたいと思っています。それほど真我の直接体験は人の心を魅了し虜にするほどの魔力があります。

 そういった悟りや解脱を目指す上で知っておきたい基本的なことが、この本には書かれているので、とてもお勧めしたい本であることには間違いがありません。もし、ご興味ご関心があるのでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 そして最後の最後に、これまで何度も繰り返し警告してきましたが、やはり改めて警告します。真我探求はそれを求める人の人生を大きく変えるおそれがあります。一度でも真我を自らの内に見出すと、それまでの多くの普通の人が当たり前のこととして行ってきた欲のために欲を求める生き方や考え方を否定し、真我を真剣に追い求めるようになり、そのためにかえって苦しむようになる可能性があります。なぜなら度を越した真我探求も執着になるからです。これは私の経験から得たことですが、必要以上に苦しまない為には、熱心さは大切ではありますが真我を探求するにしても気が向いた時にやるといった程度にしておく、ほどほどが良いと私は思いますし、欲を全否定しないようにした方が事はスムーズに進むように感じます。過去多くの偉人賢人が言ってきた中庸の精神が大切だと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。