私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

悟りとはあきらめることなり‼

       

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

悟りとはあきらめることなり‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が18回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は前回に続いて諦めの重要性についての第二弾になりますが、本動画では、たとえ仏典を全く読んだことのない人であっても、どこかで一度は聞いたことのあるだろうと思われるくらい有名な般若心経の中から諦めの教えを取り上げて諦めの重要性をお話ししようと思います。

 まず、なぜ諦めが重要なのかについては、前回の動画で今しかない今の在るに集中するためであることは既にお話しした通りです。今回は前回動画中でお話ししきれなかった、その補足的なことになります。

 諦めは自分の人生を、現象世界の創造者たる真我或いは神仏へ完全に明け渡す上で欠かすことのできない過程であります。それまで自分のものと頭から信じて疑うことのなかった自分の人生に対して、自分が本当は全く何も関わることの出来なかった無力な存在であることに絶望し、その事実を、苦しみを伴う自我との葛藤の末に受け入れ、あなたが心から信じ帰依した神仏(かみほとけ)などと呼ばれる姿かたちのない絶対的存在に自分の人生を明け渡すためには必ずと言っていいほど通らなければならない道でもあるのです。

 私は無いを知り、その私は無いを受け入れるということは、自我にとっては自分自身になされた死亡宣告を受け入れるようなものであり、生き残りを望む自我の苦悶たるや言語を絶するほどであることはそれを経験したことのない人でも容易に想像できるのではないでしょうか。

 だからこそ心の安心を得、安定するためにも自らの内にある姿かたちの無い神仏への絶対的帰依が必要にもなってきます。自らが信じる神仏があるから諦められるし、諦めがあるから神仏を完全によりどころとすることが出来るのです。従って諦めと自らが信じる神仏への絶対的帰依は切っても切れないお互いに依拠し合った関係と言えるのではないかと思います。

 そして諦めが必要であることは、お釈迦様が悟りを開かれて最初に説かれたといわれる四諦八正道(したいはっしょうどう)という教え中にもはっきりと見ることができます。

 四諦八正道ってなに、という方のために簡単に四諦八正道を説明します。四諦の諦(たい)は真理を意味します。そして諦(たい)には、四つの諦があります。一切は苦であるという真理の苦諦、つきない欲望が苦を生起させているという真理の集諦(じったい)、苦の原因を知ってそれを滅に至る真理の滅諦(めったい)、苦の滅に至る実践に関する真理の道諦(どうたい)、この四つの真理を総称して四聖諦(ししょうたい)と言います。サンスクリット語ではcatur-ārya-satya(チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)四つの尊い真理と言われています。そして八正道は、苦の滅に至る実践に関する真理である道諦(どうたい)の八つの具体的内容になります。

 その八正道のうちの一つ目は正見(しょうけん)です。正見は、正しいものの見方をすることです。二つ目は正思惟(しょうしゆい)です。正思惟(しょうしゆい)は一つ目の正しいものの見方により正しい考えを持つことです。三つ目の正語(しょうご)は一つ目の正しいものの見方により正しい言葉遣いをすることです。四つ目の正業(しょうごう)は一つ目の正しいものの見方により正しい行いをすることです。五つ目の正命(しょうみょう)は一つ目の正しいものの見方により正しい生活をすることです。六つ目の正精進(しょうしょうじん)は一つ目の正しいものの見方により正しい努力をすることです。七つ目の正念(しょうねん)は一つ目の正しいものの見方を正しく心に留めおくことです。八つ目の正定(しょうじょう)は一つ目の正しいものの見方により心を一つの対象に集中して安定させることです。

 以上が四諦八正道(したいはっしょうどう)の教えになりますが、もしかしたら、今言った説明の中のどこに諦めの教えがあるのだろうと思った方がいるのではないでしょうか。実は今言った全ての教えが諦めの教えなのです。私は、そう考えています。よく四諦八正道の文字を見てください。そこに諦めるを漢字を含めて書くときに使われる諦(たい)という字が使われていることにお気づきになられたでしょうか。この教えの根底には人生に対する「あきらめ」の境地が含まれると私は考えます。「あきらめ」の境地があって始めて真の理解が出来るようになると私は思っています。

 そしてここからが私のそもそも論の話しになります。この四諦八正道の総称には諦(たい)という漢字が使われていますが、この諦(たい)、(てい)とも読みますが、この諦(たい)にはあきらめる、望みを捨てる、断念するという意味がある一方、仏教用語として真理や悟りを意味し、ものごとをつまびらかに明らかにするという意味があります。では、なぜ、ここに「あきらめ」という意味もある諦(たい)という漢字が使われているのでしょうか。そもそも、なぜ、この諦(たい)という漢字は、真理や悟りという意味の他に、望みを捨てる、絶望する、断念する、 放棄するといった意味として使われる場合の「あきらめる」を表わす漢字として使われるようになったのでしょうか。そこには鶏が先か卵が先かの話しもあると思いますが、もしかしたら、最初から真理とあきらめるという意味の両方が諦(たい)の字にあったのではなく、当初はどちらか一方の意味しかなかったのではないでしょうか。

 私は言語学者ではないので経緯は分かりません。あくまでも当初はどちらか一方の意味しかなかったという仮定の説として私のとんでも説としてお聞きください。諦(たい)の字が真理とあきらめるという両方の意味として使われ出した理由としては、単に長い歴史の中で理由もなくいつのまにかそうなったとか、他に適当なものがなかったから便宜的に使われだしたといったものでは絶対にないと思います。そこには意識的に意図的に若しくは結果的に、はっきりとした理由があって「あきらめる」を表す漢字として真理や悟りを表す諦(たい)の字が使われたのではないかと感じます。なぜなら物事をつまびらかに明らかにして、真理に気づくという悟りや解脱に到達するためには、まだ未達ながらも私の経験上、自分の自我を放棄し世俗の中で一般的に言われる成功するというような欲を断念することが必然的に要求されることが分かっているからです。

 従って、その昔インドから中国に仏教が伝わり、その教えを中国語で書き表そうとした時、または三蔵法師さんなどが艱難辛苦を乗り越えインドから持ち帰ったサンスクリット語で書かれている経典を中国語に翻訳しようとした時、中国の仏教の僧侶たちは、当然の事として、その事はちゃんと分かっていたはずです。だからこそ諦(たい)は、真理であると同時に「あきらめる」という意味も含むようになったのではないかと私は思います。 

 1,000年以上もの昔、当時の悟りを目指す中国の僧侶たちを思い浮かべながら想像するに、諦(たい)は、最初は純粋に真理の意味として使われていたものが、真理のためには自我と世俗の欲を断つ必要があることから、僧侶のなかの誰かが「悟りとはあきらめることなり」と言い出したことで僧侶の間で「あきらめる」という意味も段々と諦(たい)の字に加味されて使われるようになり、それが次第に俗世間でも付加された形で使われ出したのではないか、というのが私の考えです。

 むさぼり、いかり、おろかさという貪瞋痴に囚われた迷いの世界である現象世界を真理の面から理解する上では「あきらめ」は切っても切れない必要な道筋として求められる精神上の作業工程であることに間違いはありません。そのことから、あきらめは真理を得る上で欠かせないこととして真理のうちに加えられることとなり、それが故にあきらめるという意味に諦(たい)の字が使われるようになったというのが事の始まりではないのか、というのが私のとんでも説です。つまるところ、「あきらめる」ことは真理を悟ることにつながるので、「あきらめ」も真(まこと)の理(ことわり)の一つになったのです。

 どうでしょうか。ご納得いただけるでしょうか。もしかしたら今回の内容には真面目に言語や思想を研究されている方からすれば看過できないこととしてお叱りを受けても仕方のない内容が含まれていたかもしれません。しかしながら、これはあくまでも諦めることは、悟りや解脱を目指す上で欠かすことの出来ない一過程としての重要性を理解してほしいがための方便です。

 従って、私の勝手な空想であり何の根拠もなくただの憶測から述べただけなので間違っている可能性は大いにあることなので本気で受け止めないようにして取り留めのない冗談ばなしとして、もしかしたらそういう事もあるかもしれないという感じで受け流していただきたいと思います。ただただ諦めは重要ですということを言いたかっただけなのです。

                                       

 それでは最後に角川ソフィア文庫から出ている「真釈 般若心経」をご紹介しようと思います。この本には般若心経を理解する上で知っておきたい基本的なことが書かれています。用語解説書として読まれるのが良いのではないでしょうか。

 般若心経には、私たちが実際にそこに居ると勘違いしている現象世界の基本的性質を知るうえで欠かせない知識が載っています。たとえ単なる知識としての理解であったとしても、これを理解できれば現象世界がどんなものかがおぼろげながらも何となく分かるのではないかと思います。

 私たちは、そこに居るように見えても本当はどこにも居ない存在です。従って、何かを感じているように思えても本当は感じる感覚などどこにも無いのです。頭の中に後から後からやってくる自分の思考だと思い込んでいる思考の全てもどこにも無いのです。同じように老いも病も死もどこにも無いにもかかわらず有ると思い込んで苦しんでいるだけなのです。本当に、どこにも無いものを有ると思いこんでいるだけなのです。しかしながら、有ると思い込んでいたものの正体が、ただの幻想であり実体はどこにも無いと知ったところで、実際に有るものは有るとして感じる以上、悟りに至る様々な方法を実践し物事の本質を知ったからといって、これといって何か物質的な得をするということもないのも事実です。故に私たちの本質が唯一絶対の存在である真我であり世界に対する無知など元々ないと言ったところで、それが分からない人々にとっては、真実は知りようがないのですから依然として人々の間から無知がなくなることはないのです。

 そうは言っても、自らが真我であることを知り自我を捨て去り真我に至ることは、無いものを有ると錯覚することにより生じる不安と恐れを消滅させ、少なくとも自らの苦しみを取り除くことにつながります。それが結果として、人々の救済にもなることなので悟りや解脱をすることは、やはり、おめでたいことと言えるのではないかと思います。般若心経には、悟りの境地に達した者にしか分からない明白な真実が書かれています。

 少し話しがそれてしまうかもしれませんが、私がユーチューブを見始めたのは2015年の春頃のことです。その時には、もう既に引き寄せの法則なるものは花盛りでユーチューブを含めネットでも本でも引き寄せの法則に関する情報が氾濫していました。昔はスピリチュアルと言えば、もっと純粋に心霊とか魂とか精神的で宗教的なものを指していたと記憶しているのですが、そういった本来の意味でのスピリチュアルな話しを含め幼い時から霊的なものに関心を持ち、その手の本をたくさん読んできた私であっても、アセッションとか二極化の時代とかゲートが閉まるなどというような話しに関しては残念ながら全く分かりません。一生懸命にアセッションの話しをされている方には本当に申し訳ないのですが悟りや解脱には何の関係もないように感じてしまいます。

 むしろ、その手の話しはこの世に属するものなので、悟りや解脱のためには、それらの話しから離れる必要があります。

 また、悟りや解脱を目指す宗教界の本流・本筋の方からすればただの自己流で得たものに過ぎないと言われるかもしれませんが、私が動画の中で言っていることは、私がこれまでに意識的に意図することなく、自然に起こった自分の体験を通して会得した私なりの悟りや解脱に関する事柄をお話ししているに過ぎません。

 そして、私は、その自分が体験した事を視聴されている方にお話しすることにより、同じように悟りや解脱に関心がありながらも、直接的に既存の宗教団体に関わることなく悟りや解脱をするにはどうしたらよいのか分からないという方の一助にしてもらえるのであるならば、という気持ちで本当に我流で申し訳ないのですが自らの内に沸き起こる思いのままに製作した動画を公開させていただいております。従って、自己流に解釈したものであっても私の話しは伝統的な悟りや解脱の話しから1ミリたりとも離れたものでは決してないと自分では思っています。おそらく何万年何千年にもわたり数えきれないほどの先人たちが成し遂げようと歩んできた悟りや解脱の道を、どうして私のようにしがない一介の探究者が、そこから離れて話しをすることができるというのでしょうか。私が体験した私は無いや自らの内に見出した真我の直接体験は、それをまだ体験していない人であっても、これからいくらでも、それを体験できる可能性は誰であっても等しく持っており、悟りや解脱の道は誰に対しても常に開かれていると私は思っています。悟りや解脱の道が狭まったり閉じるということは絶対にありません。

 そもそも、この世界そのものが元から、最初から二極化している世界なのですから、今のスピリチュアル界隈で言われる二極化が進むとか、アセッションのための時間に限りがあるとか、ゲートが閉まるなどという言葉には、少なくとも悟りや解脱を目指す人であるならば惑わされることがないようにしていただいて、たとえ私のように自己流であっても伝統的な悟りや解脱の道をしっかりと学び歩んでいただきたいと思います。悟りや解脱の道は、この現象世界の出来事に一喜一憂することではなく、恐れや不安、引き寄せの法則なども含めた欲を駆り立てる言葉などは全てこの世のものであるとして見限り、そこから離れて根源へ向かう道であることを肝に銘じて忘れないようにしていただきたいと思います。

 本の方に話しを戻しますが、わざわざ、この本を買わなくてもネットを検索すれば般若心経を解説してくれているサイトは沢山あります。しかしながら、般若心経を解説しているサイトなら何でも良いというわけではありません。元のサンスクリット語の原文の意味に近いように忠実に現代語訳されている般若心経を読まなければ、そこに書かれている本当の意味を理解できなくなります。従って、何を読むにして正確に現代語訳された般若心経以外は避けた方が良いと思います。たとえば、一般的な人間の生き方などの教えとして、いわゆる人生訓として般若心経を取り上げ解説しているものなどは暇つぶしの娯楽としては良いかもしれませんが悟りや解脱の理解には全く意味をなさないので、そのようなサイトの解説や本は避けていただきたいと思います。そして今言った、正確に現代語訳された翻訳本を選ぶ必要があるのは聖書や聖典などを読む場合にも当てはめることができるので、その点も注意していただけたらと思います。

 そういう意味で、この本の現代語訳は本来の言語の意味に忠実のようなので私としてはお勧めです。ご興味ご関心がおありでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。