私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

凄絶 生か死か 生き残りをかけた自我との戦い‼

  下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 凄絶  生か死か 生き残りをかけた自我との戦い‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が15回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 もし、あなたが真我を直接体験したいというのなら、あなたはあなたを捨てなければなりません。真我は、私という立ち現れた想念に囚われることにより見えなくなるものであることから、真我を直接体験したいのであれば、どうしても私という想念への囚われを消し去る必要があります。

 私の「私は無い」という気づきが起こる以前の私は、何となく悟りという言葉に関心と興味があったことから、近くにあるお寺での座禅会や瞑想サークル的なところに何度か参加したことがありました。しかし、それも数える程度のもので、それ以外で特に具体的に何かをするということはありませんでした。その私が真我の直接体験に至るまでの過程の始まりとしての「私は無い」という気づきを得たのは、それを意識して得ようとしていたわけでは全くなく、たまたまアマゾンのプライム会員になっていた時、キンドル電子書籍の中に無料で読める悟り系の本があったことから暇つぶしになると思い読んでいた最中のことでした。私にとって「私は無い」という気づきは思いもよらないこととして全くの偶然の産物として生じたものとしか言いようがありません。つまり、最初から、はっきりと「私は無い」という気づきを得ることを意識し、それを望みながら、その悟り系の本を読んでいたわけではないということです。そもそも気づきの始まりが「私は無い」で始まることなど思ってもいませんでした。そして、その後に待ち受けていることになる、自我との間でお互いの生死を欠けた戦いが始まることになろうとは本当に思いも及ばぬことでした。

 前回の動画では悟りを目指すことで生じる可能性のある自分を取り巻く環境から受ける人的圧力に対して警告を発しましたが、今回は、外側ではなく内側、それまで自分の味方だと思っていた自らの内にある自我より生じる内的圧力との間で起こる葛藤に対して警告を発しておこうと思います。

 動画を視聴されている人の中には葛藤という言葉を聞いて日常の生活の中の人間関係で起こる様々な事柄に対する悩み程度のことだろうと軽く受け止める人もいるかもしれませんが、「私は無い」ということに気づくことによって生じる自分の中の自我との間で起こる葛藤は、そんな生やさしいものではありません。まさにお互いに生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるほどの殺し合いに発展する非常に危険なものなのです。なぜなら、自我にとっては「私は無い」を認めることは、たとえそれが単なる幻想でしかなかったとしても、それまで肉体や精神を支配し影響力を行使してきたのは自分であると思い込んできた支配権の消滅を意味するからです。従って、自我にとっては文字通り生存を欠けた戦いになるのです。自我は自分が生き残るためなら、ありとあらゆる手段を講じてきます。そして自我は、どうしても自分が生き残れないというのなら、お前も道ずれにしてやるとばかりに玉砕戦法で自分を主張し続けるのです。

 私の最初の気づきである「私は無い」ですが、それは、生まれてから死ぬまでの人生において一切の選択権は無かったことに気づくことです。自分で選んだものは何一つなく、人生は創造主が敷いたレールの上を走ることしか出来ない鉄道であり、創造主が決めた時刻表通りに運行される列車でしかないことに気づくことです。全ては創造主のプログラム通りにしか動かない操り人形だったこと気づくことです。既に完成しているストーリーに従って、なにぼうなにがしの人生を、ただ経験していることに気づくことなのです。

 それは取りも直さず、それまでの人生の岐路を選択し決定してきたのは自分だと思い込んでいる自我の支配は実は空虚なもので何の力も有していなかったと嫌がうえにも認めざるを得ないことにつながります。しかしながら自我は、そう簡単に自分の無力さを認めません。自分の存亡がかかっているからです。どんな手を使ってでも、たとえ肉体と精神を滅ぼしてでも自らの存在を誇示しようとしてくるのです。私は、自我が自分自身に対してそんな事をしてくることなど露にも思いませんでしたし全く知りませんでした。知りようがなかったのです。

 なぜなら、私には悟りについて指導をしてくれるグルと言えるような存在はいなかったからです。ただ私は、悟り系の本を読んでいるだけだったからです。悟り系の本には悟りを得た後の境地は書かれていますが、悟りを得るまでの様々な困難や苦悩については何も書かれていません。従って、私は「私は無い」に気づいた後にやってくるお互いに生き残りをかけた自我との戦いがあるなどとは夢にも思いませんでした。「私は無い」に気づいた当初の私は、自分の不思議な体験により得た普通の人には感じることができない特別な境地を誰かに伝えたいという気持ちになり無料でやれるサイトでブログを書きはじめたり、他の人がやっているユーチューブのスピリチュアル系の動画を見ては、見当違いなことを話している内容に対して一人で突っ込みを入れては一人悦にいっていたりしました。しかし、それも今に思えば自我の生き残り戦法の一つだったのだろうと思います。それじゃ今やっている動画配信は何なんだという方もいるでしょうが、この動画は自我の満足のためにやっているわけでないので心の持ちように違いがあると思います。

 話しがそれてしまいましたが、「私は無い」に気づいた後の「私は無い」という直感的理解がしっかりとした揺るぎのない考えになるにしたがって、その後の生き残りをかけて人生に対してあるはずもない己の支配力を主張してくる自我の戦法に3年以上も悩まされることになります。

 自我の戦法は巧妙です。当たり前ですが心理戦においては一枚も二枚も自我の方が上手です。あらゆる過去現在未来に関わる思考を駆使して感情を沸き立たせ心をかく乱してきます。たとえば過去に関連する数々の罪悪感や無力感、羞恥心、怒り、未練、後悔、改悛の情等々の平穏な気持ちでいることが出来なくさせるような、ありとあらゆる感情を呼び起こす嫌な記憶または嫌な記憶ではないけれど気分を高揚させたり懐かしませるような記憶を総動員し、それこそ何十年も前の記憶、子供の時の記憶それも幼児の時の記憶さえも持ち出して、自我はそれで正負の感情を惹起させることで心を何が何でも落ち着かせないようにし動揺させようとしてきます。現在であるならば家庭や職場などの人間関係や生活に関連する不平や不満、心配事を利用して不安感や不足感を絶妙にまぜ合わせながら味合わせようとしてきます。それがどんなに些細な事であっても事あるごとに思い出させ、また精神や肉体、物質的な欲求に関わる思考を自在に操り意識を物欲に向けようとしてきます。未来にあっては、家庭や職場それ以外の人間関係に関連して、または自分自身の身の上に関連して将来起こるかもしれない金銭的・身体的・精神的な不安をこれでもかと煽ってきます。これにより、ひと時も休まることのない正の感情と負の感情の両方に常にさらされ続けることで私の心は平常ではいられなくなり平穏ではいられません。いつも心は動揺し心配事で一杯になり不安におびえ精神的にも肉体的にも安定しない毎日を私は送らざるを得なくなりました。私はいつも限界ぎりぎりで精神的に追い詰められた本当にみじめな気持ちでいるようになり、とても苦しい毎日を過ごしていたのです。そして、ついには、こんな苦しい思いを続けるしかないのなら死んだほうがましだと、もちろん、私は人前ではそんな事をおくびにも出すことはありませんでしたが、あまりの苦しさから私は死にたい気持ちになっていたのでした。

 しかし、それは今になって思えば自我が私に対し自分の影響力を見せつけ、お前の人生の支配者は俺様なんだと支配力を誇示し自我の人生への影響力を認めさせようとするための戦法だったと言えます。私は心の平安を望んでいるにもかかわらず、それに反抗するように、いつも心をざわつかせる記憶と感情を持ち出してきては嫌な気持ちにさせていたものの正体は、実は幼い時からいつも一緒でどんな時も自分の味方だと思っていた自我そのものだったのです。私は苦しみのまっ最中の只中にいた時でも、何となくではあったのですが、もしかしたらと、うすうすその事を疑い感じてはいたものの、それが自我自身の生き残りをかけて仕組んできている戦法であるという明確な認識まではまだありませんでした。まさか、私に対する自分の支配権を守るためなら私を道連れにしての自爆もじさないほどのナルシストだったことには全くと言っていいほど考えが及びませんでした。

 この事からも分かるように自我に対しては生半可な気持ちでは太刀打ちできません。それはそうです。それが幻想のもので単なる勘違いの思い込みから生じていた錯覚に過ぎず、実際には何の力もない無力な存在だったとしても、それまでの人生を支配し影響力を常に行使してきたのは自分であると自負する自我なのですから、ただの裸の王様だったと分かったあとでも、はいそうですかと簡単に権力者の座を降りようとはしません。無理に権力者の座から引きずり降ろそうとすれば自我は死に物狂いで抵抗し、それならば、お前もあの世への道ずれにしてやると言わんばかりに更に心をかき乱してきて苦しませ死に対して考えさせるようにし心中を図ろうとしてきます。自我は自分の存在を否定されるくらいなら、その宿る人間を殺しにかかり自分も死ぬことを選ぶ存在なのです。誇り高いのか執念深いのか、その両方なのかは分かりませんが、自分の存在を脅かされるのをとにかく嫌がります。いずれにしても一筋縄ではいかない存在であり、自分自身の自我であっても、その取り扱いには高度な技術と慎重さを要するほどのものであり、一歩間違えば最悪の場合も予想される非常に危険な存在なのです。その自我に打ち勝とうとするならば、自我の巧みな戦術に巻き込まれることなく心の混乱を目的としている戦法に惑わされることなく、心を平穏に保つためには自我は心理戦を仕掛けてきているという認識のもと、自我の戦術に直接対峙するのではなく、加えて心の動揺を無理に抑えようとするのでもなく俯瞰しやり過ごす柔の心持ちで受け流す忍耐強さを要求されることは間違いありません。従ってまかり間違えば本当に自我と心中することになるので、そういう意味でも安易な気持ちから悟りや解脱に近づくことは禁物であると言えます。

 何にしても自我をおとなしくさせるには、どれほど自我が自分の力を誇示してこようとも、どんなに精神的肉体的に苦しかろうとも「私は無い」の確信をしっかりと保ち忍の一字で耐えるしかありません。具体的には、やってくる思考は私ではない、沸き起こる感情は私ではない、この体は私ではない、この人生に私は一切かかわっていない、全ては既に筋書きが決まっている映画が目の前で上映されているだけという信念と自分の心の中で生じている事を含めた現象世界を鳥の視点から見るようにして映画の中に巻き込まれないように客観視し続けることです。しっかりと忍耐強く「私は無い」の確信を維持し続ければ、それに自我が根負けをして次第に自分を主張しなくなり静かになります。     

  私の場合は、自我がおとなしくなるのに3年以上かかりました。本当に静かになってきたと思えるようになったのはつい最近のことです。自我が自分を全く主張しなくなったというわけではありませんが、ひところと比べるとだいぶ大人しくなり心の中も、それほど騒々しくなくなりました。かつてはあれほど頭の中に途切れることなくひっきりなしにやってきていた思考もめっきり少なくなり、逆に、そんな頭の中の静けさになかなか慣れないでいます。早く、この静けさに慣れ、少しずつでも、この思考がやってこない時間を長くし思考の無い時間を楽しめるようになりたいと思います。そして副産物として次のようなことも分かりました。それは生理的欲求といった肉体に起因するもの以外の欲求は、やってくる思考で沸き起こるものであるということが分かったということです。あれが欲しいこれが欲しい、ああしたい、こうしたいといった物質的活動的欲求は思考がやってこなければ沸き起こらないことを、いま身をもって体験しています。

 この私の中の騒々しい思考が、なぜ静まってきたのかについては本当のところ私もよく分かりません。単純に、いつも言うように創造主により書かれた物語の設定が最初からそうなっていたということなのかもしれませんが、今回お話しした「私は無い」に気づいてからの3年以上に及ぶ自我との戦いの過程については、もう少しお話ししたいことがあります。それは、もしかしたら騒々しい自我が静かになった理由として自分の中心が後頭部に移動し落ち着いたことに関係しているかもしれないからです。視聴者の方の中には、自分の中心が後頭部に移動し落ち着いたと聞いて何を言っているんだと思われる方もおられるでしょうが、その事については次回の動画で、より詳しくその過程をお伝えしようと思います。

             

 それでは最後に、ナチュラルスピリットから出ているウェイン・リカーマンさんが書かれた「無力の道」という本をご紹介しようと思います。

 著者は長年、自身の薬物とアルコールからくる中毒の問題で苦しんできた人です。ある時、アルコホーリクス・アノニマスという飲酒問題を解決したいと願う人々の相互援助を目的とした集まりに参加したことがきっかけで薬物中毒から更生し、さらにはスピリチュアルの世界に目覚めるようになった人です。アルコホーリクス・アノニマスの薬物中毒から更生するためのプログラムには12のステップがあるそうですが、そのステップを実際に読んでみると科学的というよりも宗教色の強いスピリチュアル的なものです。それもそのはずで、この12のステップは20世紀初頭のキリスト教運動組織であるオックスフォード・グループが提唱した純潔・正直・無私・愛の四つの実践の影響を受けて書かれているからです。しかしながら、今では、このアルコホーリクス・アノニマスは世界に広がり、いかなる宗教、宗派、政党、組織、団体にも縛られることなく運営され、アルコール依存の回復のためのミーティング会場は世界各国にあるとのことで日本各地でもさまざまな場所でミーティングが行われているとのことです。また、この12のステップの手法は他のタイプの依存症からの回復にも利用されているとのことです。

 リカーマンさんは、その12のステップを通して個人の無力から生まれる安らぎへの最初の理解がもたらされたことによりスピリチュアルに目覚め、道教、禅、スーフィズム、アドヴァイタ、ユダヤ教キリスト教の多くの神秘主義の著作にある非二元のスピリチュアルな教えに共通した原理を見出し、アルコール中毒に陥り飲んだくれていた時には考えもしなかったアドヴァイタの非二元論を教える教師となり世界中を飛びまわるようになったそうです。

 リカーマンさんは本の中で「人生の苦しみはコントロールする力を持っているという錯覚の直接的な結果だ」「自己を超えた力に委ねるしかない」「あなたより偉大な力が問題を解決する」というように生きる上で生じる苦しみと解決法について書いています。

 普通に人が生きる上で当たり前のように感じている自分の人生を選択し決定をしている支配権者は自分であるという認識それ自体に間違いがあることを指摘し、人生に対して自分が物事の作者だという間違った認識を作者錯覚と言っています。そして、人生に対する個人の無力を知ることの大切さを説きます。そこには薬物中毒により廃人となる一歩手前までいきながらも再び前向きに人生を生きる喜びを手にすることが出来た経験から得られた生きた知恵があると思います。

 本の題名である「無力の道」というのは悟りの道そのものだと私は思います。誰であろうとも人生に対して完全に無力であることを認め受け入れることは悟りへの第一歩につながります。これなくして悟ることは絶対に無理だと思います。なぜなら自我の人生への支配力を少しでも認めている間は真我への気づきはあり得ないからです。リカーマンさんがアルコホーリクス・アノニマスの12のステップの最初のステップである、私たちは人生に対して無力であることを素直に認め現状をありのままに受け入れたことが非二元への気づきにつながったことは当然のなりゆきだったと思いますし、不思議なことでもなんでもないと思います。

 ナチュラルスピリットから出ている「無力の道」という本は、とても分かりやすい読みやすい文章で書かれているので入門編初級編として良い本だと思います。ご興味ご関心のある方は読まれてみてはいかがでしょうか。

 ここからは本の内容そのものからは外れてしまいますが、私は、コカインやアルコールといった薬物への依存と中毒からリカーマンさんを立ち直らせるきっかけとなったアルコホーリクス・アノニマスの12のステップには素晴らしいものがあると思います。そこでアルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィスの公式ウェブサイトに書かれている英文の12のステップをグーグルで翻訳したものをご紹介して終わろうと思います。それでは始めます。

  1. 私たちはアルコールに対して無力であること、つまり自分たちの生活が手に負えなくなったことを認めました。

 

  1. 自分たちよりも偉大な力が私たちを正気に戻すことができると信じるようになった。

 

  1. 私たちが理解した神に合わせて、私たちの意志と人生を神の配慮に委ねる決心をしました。

 

  1. 自分自身について、恐れることなく探索的に道徳上の棚卸しを作成しました。

 

  1. 神に対して、私たち自身に対して、そして他の人間に対して、私たちの間違いの正確な性質を認めます。

 

  1. 神にこれらすべての性格上の欠陥を取り除いてもらう用意ができていました。

 

  1. 私たちの欠点を取り除いてくださるようにと謙虚に神に願いました。

 

  1. 私たちが傷つけたすべての人々のリストを作成し、彼ら全員に喜んで償いをするようになりました。

 

  1. そのような人々に、自分や他人を傷つける場合を除いて、可能な限り直接補償を行います。

 

  1. 個人的な棚卸しを継続し、私たちが間違っていた場合はすぐにそれを認めました。

 

  1. 私たちが神を理解する際に神との意識的な接触を改善するために祈りと瞑想を通して探求し、私たちに対する神の意志の知識とそれを実行する力だけを祈りました。
  1. これらのステップの結果として霊的な目覚めを得た私たちは、このメッセージをアルコール依存症患者に伝え、すべての事柄においてこれらの原則を実践しようと努めました。

    いかがでしたでしょうか。さすが、他の依存症回復のためにも利用されているだけのことはあります。キリスト教的精神に基づいて作られたものであっても、そこに個人の無力と諦め、絶対的存在に対する信頼と明け渡しの教えがあるのを私も感じます。やはり本当の真理というものは多くの宗教の根底に共通してあるものと思います。そこに真理があるからこそ他の依存症回復にも利用されているのだと思いました。

 説明欄にアメリカのアルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィス公式ウェブサイトのURLと日本のアルコホーリクス・アノニマスのウェブサイトのURLを貼り付けておくので関心のある方はご覧になられてみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

 

 アルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィスの公式ウェブサイト

 https://www.aa.org/

 

 アルコホーリクス・アノニマスの日本ゼネラルサービスのウェブサイト

 https://aajapan.org/