私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

ヨハネの黙示録は潤色された悟りの書⁉

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が24回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は新約聖書ヨハネの黙示録について私の解釈を述べようと思います。この動画を挙げるきっかけになったのはユーチューブで世界を滅ぼす最終戦争や放射能汚染、或いは巨大隕石の落下などがヨハネの黙示録で予言されているという内容の動画を見かけたからです。検索窓でヨハネの黙示録で検索をしてみると、ヨハネの黙示録は世俗的な意味での世界の終末を予言したものだという動画ばかりが出てきます。まるでヨハネの黙示録は本当に人類の滅亡を予言している低俗で安っぽい予言書であると言わんばかりの有り様なので、私の考える解釈を動画にすることでヨハネの黙示録はけっして自然の脅威や宇宙からの脅威、または人の手が加えられた人工物などによって人類が滅亡する予言をしているようなものではないということを明確に指摘しておこうと思います。

 まず、ユーチューブの動画を見てヨハネの黙示録が人類の滅亡を予言するものだと思う人には、まず、ちゃんと聖書を読んでいただきたいと思います。しっかり読めば、何かしらの原因による人類の滅亡を意味するようなことは書かれていないということがお分かりになるのではないでしょうか。確かにウィキペディアには色々ある解釈の中の一つとして、起こっていない未来の出来事を予言するものとして書かれたとする解釈も載っています。その解釈は、ある一面正しいと言えば正しいのですが、その未来における予言とは、未来は未来でも、将来悟りを開き解脱をするであろう人の内面における心的変化についての予言であり、その心的変化について大形(おおぎょう)に説明しているものなのです。ある意味、悟りを開き解脱をした人にとって物質的世界はもはや意味をなさないものになってしまうことから、その人にとっての世界は終末を迎えます。もし、黙示録が予言の書であると言うのであれば、その中で語られる世界の終末とは、悟りを得た人若しくは解脱をした人、或いは、その途上にある人の予想される経験のことであり、精神上の変化の過程で引き起こされる可能性のある自己を中心とした内外面に対する見え方の様変わりから生じる現象世界に対して感じる無意味さ、若しくは現象世界の消失を指して言っているのです。黙示録は、簡単に言えば悟りに関する説明をしている解説書であると言えます。いずれにせよ、人類の滅亡などと解釈する人は文字の表面上の意味や文章全体から受けるおどろおどろしい印象だけを捉えて、そこに書かれた真の意味を見ていないだけだと思います。

 また、ユーチューブに限らず、ヨハネの黙示録を人類の終焉を予言したものとして取り上げているものの中には、聖書に書かれている本当の内容や意味などどうでもよく、人の恐怖心や不安感を利用し興味や関心を引いて視聴者数を稼ごう、利益を得たいという思惑を持つ人たちによってエンターテインメント性のみを重視して製作されたものもあるのではないかと私は思います。従って、ヨハネの黙示録の内容について語られる動画などについては、それを見る目的によって見たり聞いたり読んだりする対象を慎重に選ばなければいけないと思います。

 そこに書かれている内容が、本当に人類が滅亡する未来を予言している文章なのかどうかを自分で判断し、また、これからお話しする、私の解釈の真偽を確かめたいと思うのであるのなら、まずは自分の目でしっかりと聖書を真面目に読む必要があるのではないでしょうか。ありがたいことにネットで検索すればキリスト教の聖書全文が読めるサイトがいくらでも出てきますので是非この機会にヨハネの黙示録と一般的に同じ人物が書いたと言われているヨハネ福音書及び第一第二第三まだあるヨハネの手紙を読んで、それらの内容を比較することからはじめていただきたいと思います。どのサイトの聖書を読めばいいのか分からないというのであれば、私も普段利用しているサイトがあることから、説明欄にURLを載せておきますので、もし宜しければご活用してみてはいかがでしょうか。それに今回は聖書の内容を多く取り上げることから該当する箇所をご紹介したサイトの聖書などを実際に読みながら動画をご視聴されることをお勧めします。

 それでは、ここから黙示録の中身の話しになりますが、私はヨハネの黙示録は、もしかしたら違う人が書いた可能性があるのではないかと感じます。ヨハネ福音書ヨハネの手紙の第一から第三までの文章を読み比べると文体と語調に違いがあることから同一人物が書いたことに対し疑問が生じます。なぜなら、ヨハネはイエスと出会った時、兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたからです。使徒言行録の4章13節には、イエスの弟子のペトロとヨハネの二人が無学で普通の人であったことが書かれています。ネットで検索すると当時のパレスチナ識字率は3%程度で地方の村では1%に満たなかったという記述が見つかることから、学校制度もない当時、イエスの弟子となった最初の頃のヨハネもご多分に漏れず読み書きができなかったとみるのは自然なことではないでしょうか。しかしながら色々な説があるにせよ、ヨハネ福音書、第三までのヨハネの手紙、ヨハネの黙示録といった一連の文章はヨハネが70歳以降の晩年に書いたものではないかという説が、どうやら濃厚なようなので、ヨハネはイエスの弟子の中で唯一殉教することなく94歳まで生きたとされる人ですから、その長い人生の中で読み書きを勉強し、それなりの知識を身に着けていったのではないかと考えるのは、それほど不自然なことではないと思います。但し、最低限の読み書きが出来たであろうことまでは推察できても神学上の高度な知識と教養がなければ到底書けないのではないかと思えるようなヨハネの黙示録に見られる一見すると仰々しくもある独特な言い回しを、宗教を学問として専門に学んだこともなく文学上の特別な訓練をしてきたわけでもないであろうと推測できる人が他のヨハネ文書とは違う書き方による文章を簡単に使い分けができたと考えるには少し無理があるのではないかと私は思います。だからこそ、ヨハネの黙示録を書いたのは別人ではないかという説があるのもうなずける話しだと思います。私は、このヨハネの黙示録については別人が書いた可能性を否定はできないのではないかと思っています。しかしながら、今回の論点はそこではないので他のヨハネ文書を書いた同一人物のヨハネが書いたことを前提として話しを進めていきたいと思いますが、私が思うに一つの可能性として多分ヨハネが書いた元となる文章があって、それを後世の人がその文章及び聖書全体に権威付けをしたいがために、いかにも、もったいぶった感じで大げさにうやうやしく重々しく格式ばった感じになるようにわざと書き換えた可能性もあるのではないかと感じます。従って、これをヨハネ文書から外す考えには反対です。なぜならヨハネの黙示録は、けっして世界の終末を予言したものではなく悟りに至る過程とイエスの教えを礼賛(らいさん)する話しをしているのではないかと思うからです。そして、なぜそう思うのかということをこれからお話ししていくことになるのですが、具体的にこれから黙示録について私が、お話しする内容はあくまでも現段階における見解であり、それもほんの一部分に関するものです。なぜ、そんな事をいちいち言わなければならないかというと、私の気づきは発展途上にあるからです。よって今回申し上げることは現段階における限定的なもので絶対的であるとは言えません。あくまでも現状認識を申し上げているだけですので、これから先私の気づきが深まった場合には、将来ヨハネの黙示録に対する見方が変化する可能性があることを何とぞご理解の上お聞きくださいますようお願い申し上げます。なんにせよ、私なりに少しずつであってもヨハネの黙示録の核心に近づいていこうと思います。

 私は以前の動画内で新約聖書は悟りの書であると言ったことがあります。悟りの書である以上、ヨハネの黙示録も例外なくそこから漏れることはなく悟りに関することが書かれていると私は思っています。黙示録を書いたヨハネイスカリオテのユダを含めたイエスの12人の弟子のうちの一人ですが、ウィキペディアによればイエスの母マリアを連れエフェソスに移り住んだヨハネは、のちにパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を記したと書かれています。時系列的には第三まであるヨハネの手紙を書いたあとの96年あたりに書かれた説が有力なようです。一説によるとヨハネは西暦6年頃に生まれ亡くなったのは西暦100年頃と言われていますから、それが正しいなら西暦96年といえばヨハネは90歳ということになり、94歳で亡くなる4年ほど前にこの黙示録は書かれたことになると思います。そういう事を考えれば1章3節と22章10節の「時が近づいているからである。」が意味することはヨハネ自身が自分の死期が間近であることを自覚して、そう書いたのではないかと思います。

 黙示録を読むと、仰々しくおどろおどろしい言葉の持つ表面的な意味のインパクトの方が大きく、それに惑わされてしまい一体何が書かれているのか分からないと感じる人がほとんどではないでしょうか。しかしながら、これらの言葉の多くは比喩であると捉えた方が良いと思います。なぜかというと、ヨハネ福音書16章25節の「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。」という一文からも分かるようにイエス自身がそれまで話してきたことについて譬えを用いていたことを打ち明けています。ルカによる福音書8章10節にも群集の前で話した譬え話には、どんな意味があるのか弟子に尋ねられた時、イエスは次のように答えています。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」また、イスラム教の聖典であるコーランの雌牛の章26節には「本当にアッラーは、蚊または更に小さいものをも比喩にあげることを厭われない。信仰する者は、それが主から下された真理であることを知る。だが、不信心者は、アッラーはこの比喩で一体何をお望みなのだろうかと言う。彼は、この様に多くの者を迷うに任せ、また多くの者を(正しい道に)導かれる。彼は、主の掟に背く者の外は(誰も)迷わせない。」と書かれています。さらに、仏教においても人々を教え導く巧みな手段として方便という仮に設けた教えで真実の教法に誘い入れるやり方があるのは皆さんもご存知の通りです。つまり、教えを説く宗教者は、それを聞く人のレベルに合わせて真理を説きます。ヨハネの黙示録はその最たるもので、たとえ話によって神の教えを伝えようとしていたと考えた方が良いのではないかと思います。従って、上辺の言葉に惑わされることなく真の意味を捉えなければいけないと思います。もちろん、ここまで言っても黙示録は間もなくやってくる人類の終焉を伝えようとしている予言書だと思いたいのであれば、そのまま思い続けてもらっても構いません。イエスやその弟子たちほどの悟りまでいかずとも神の国の秘密の一端に触れることが許されているのは私や私の解釈が正しいのではないかと感じる人ではなく、人類滅亡の予言の書或いはそれ以外のことであると考える人かもしれないので自分の信じる道を進むのが、その人にとっての最善だと思います。

 話しを戻します。もし、黙示録が譬え話の最たるものだとして、それではヨハネは譬え話によって、一体何を伝えようとしていたのかということになりますが、それはもちろんイエス・キリストはこの世の真理を悟られた方であり、ヨハネはその悟った方の弟子として悟りの神髄を広めることに生涯をかけた人ですから、その書かれた内容は当然悟りに関することではないかと考えるのが妥当ではないでしょうか。加えて、この黙示録が悟りの書であると言えるもう一つの理由としては悟った人に共通する考え方が書かれていると感じるからです。私は仏典や聖書の外にインドの聖者といわれる人について書かれた本も色々読んでいますが、新約聖書の中の、特にイエスが語ったとされる言葉とインドの聖者などが話す内容には多くの共通点を感じます。そこから、イエスは悟りを得ていたのではないかと私は感じるのです。それと同じように黙示録の中には悟った人でなければ書けないような事柄が書かれています。わざと分かりにくくなるように遠回しな比喩の部分が多いので理解できないところもあるのですが、たぶん間違いはないだろうと思う主だったところを挙げながら話しを進めて行こうと思います。

 3章までは、七つの教会に対して送る手紙という形で神への愛から離れることなくサタンに負けることなく、あなたが住むサタンの世界の諸々の欲望に惑わされることなく真の自分をしっかりと保つことの大切さが書かれています。そこで、この文章の中のサタンを自我に、神を真我に置き換えてみると次のようになります。真我への愛から離れることなく自我に負けることなく、あなたが住む自我の世界の諸々の欲望に惑わされることなく真の自分をしっかりと保つことの大切さが書かれています、というように言い変えることができます。つまり、ヨハネは自我に勝利した者は悟りを得たものとして権威と栄光が与えられると言っているように私は感じるのです。これを聞いた視聴者の方は、私の単なるこじつけとお考えになられるでしょうか。

 気になるのは2章11節の第二の死とは何なのかということですが、これは、この世における人の死のことではないかと思います。それなら第一の死とは何なのかと当然なりますが、それはこの世に生まれ出ることを意味しています。私やあなたは純粋意識の真我ですから、この世に真我であることを忘れて生まれ出ることが第一の死ということになります。3章1節の「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」というのは、この世界は現象世界である以上、私やあなたはただの幻想で非実在であることを言っているのです。そこに命はありません。スクリーンに映る人の映像を指さして、この人は生きているとは誰も言わないはずです。だから2節で「目を覚ませ」と言われているのです。

 次の3節の「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」というのは、もし真我に目覚めないのなら、いつの日か第2の死を迎えることになると言っているのです。もちろん、これは単にイエスの教えをちゃんと守らないならお説教しに行きますよと言っているだけかもしれませんが、どの教会にあてた手紙を読んでも同じことを言っているように感じます。真我に気づき自らが真我であることを悟った者は神と共にあるという勝利を得ることができると書かれているように感じました。

 4章以降では右手に七つの封印がされた巻物を持った神様がいきなり出てきます。子羊に代表される悟りを開いた者、ここではイエス・キリストを連想する人に巻物が渡されます。その封印が解かれる度に白・赤・黒・青色の馬が出現しますが、その馬に乗っている者によって地上の災厄が象徴されていると思います。

 次いで7章14節に登場する神の僕としての刻印が額にある144,000人は男性とのことですが、その人たちは女性に触れて身を汚したことのない童貞だそうです。この144,000人はイスラエルの12の各部族から12,000人ずつ選ばれた人々です。12,000は12を1,000倍すると出てくる数で12の倍数ですが数の説明については後ほどしようと思います。その童貞の清らかな男性たちは「小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」人たちです。これは、欲望に囚われない精神と神の奴隷としての忠誠心を持つ人たちが子羊に付き従うことを言っているわけですが、この144,000人という数字が多いと考えるのか少ないと考えるのかは人それぞれでしょうが、いずれにせよ貴重な存在と言える人たちであることに変わりがないのではないでしょうか。14章の5節には「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。」と、その144,000人について書かれた、その直ぐ後の8節に「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」と続くことから、欲望への執着心の無い清らかな心こそが自我に打ち勝つ重要な点であることを説いているのではないかと思います。ここで見誤っていけないのは、お釈迦様も出家前に結婚して子供をもうけていたということです。実際に童貞であるかどうか純潔であるかどうか男性であるかどうかは関係ないと思います。あくまでも性別に関係なく欲望に囚われない心、執着しない心こそが大切であり、それが一番重要なのだと思います。

 そして144,000という数ですが、この数に何か意味があるのかという疑問が私を含め皆さんにもあるのではないでしょうか。そこで私は、この数にどういう意味があるのか計算をしてみることにしました。なぜかは分かりませんが割り切れる約数を出して約数の和を出してみようという思考がやってきたのです。

 それで144,000の約数を出してみるとご覧の通り(1, 2, 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 15, 16, 18, 20, 24, 25, 30, 32, 36, 40, 45, 48, 50, 60, 64, 72, 75, 80, 90, 96, 100, 120, 125, 128, 144, 150, 160, 180, 192, 200, 225, 240, 250, 288, 300, 320, 360, 375, 384, 400, 450, 480, 500, 576, 600, 640, 720, 750, 800, 900, 960, 1000, 1125, 1152, 1200, 1440, 1500, 1600, 1800, 1920, 2000, 2250, 2400, 2880, 3000, 3200, 3600, 4000, 4500, 4800, 5760, 6000, 7200, 8000, 9000, 9600, 12000, 14400, 16000, 18000, 24000, 28800, 36000, 48000, 72000, 144000)96個あることが分かり全部たすと517,140になります。次に、この5・1・7・1・4をたすと18になり1と8をたすと9になります。さらに、144,000の中の1に二つの4をたすと9になります。9はマタイの福音書18章12節の99匹の羊やルカの福音書15章7節の99人の義人など、イエスが言った言葉の中に9を見つけることができます。マルコによる福音書15章25節によれば、イエスが十字架に磔になった時間は午前9時です。黙示録の14章1節と4節には、この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちであり子羊と共にいると書かれています。そしてキリスト教では10は完全数であり神の完全性を象徴する数です。また物事の全体性や総計の意味もあります。出エジプト記34章28節の「十の戒め」、ルカの福音書19章13節に「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し」というように出てくる数字でもあります。それらのことを考えあわせると、それより一つ少ないということですから神ではないけれど子羊と一緒にいるということで神の近くに行くことができる選ばれた存在ということになるのではないでしょうか。9は完全数の10より1足りない不完全なものではありますが、逆を言えば1をたせば完全になる数字でもあることから完全に近い数字とも言えます。従って、心がけ次第で神のように完全な存在に成れることを暗に示しているのかもしれません。次に、これについても理由は分かりませんが私はなぜか96の約数を出すことにしました。96の約数は12個です。そして次々に出た約数の数の約数を出しました。12の約数が6個、6の約数が4個、4の約数が3個、3の約数が2個、2の約数が2個になりました。そうやって出した約数の96・12・6・4・3・2・2をたすと125となり、1・2・5をたすと8になります。8はキリスト教では復活を意味するようで、旧約聖書の創世記6章以降において神が起こした大洪水の時に箱舟に乗って生き延びることができた人間は神に従う無垢な人であるノアとその妻及び三人の息子とその妻の8人だけだったことから、8に関連する数は選ばれた聖なる数と言うことができるのかもしれません。

 次に12という数字の説明をします。12は、創世記49章28節に書かれるイスラエルの12部族の12です。イエスの12人の弟子の12です。キリスト教における12は、神の行政における絶対的完全と永遠の完成を意味する数です。この12で144,000を2回割ると1,000になります。2は、救い主キリストの神なる性質と人なる性質の二つの性質を象徴する意味を持つ数です。また創世記41章32節の「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」に由来すると思われる、ある事が二度繰り返されることは神の決定事項という意味があります。他にも申命記 17章6節に「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」と書かれているように、証人が二人いると,ある事柄が真実であると確証される意味にもなります。次いで、この1,000を完全数である10で3回割ると一致を意味する1になります。それは取りも直さず父と子と精霊を意味する三位一体の三一ということになるのではないかと思います。またヨハネ福音書17章21節にはイエスの言葉として「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。」と書かれています。このことから、1は神との合一を意味するのではないかと思います。

 ちなみに1,000という数は黙示録の中に千年という言葉で6回出てきます。6の数については、歴代誌第1巻20章6節の「指が6本ずつ合わせて24本ある巨人」、ダニエル書3章1節の「金の像を造った。高さは60アンマ、幅は6アンマ」という記述からも分かるように不完全なものや神の敵に関連するものを指すと考えられます。なぜなら6は、7より一つ少ない数だからです。7については、創世記2章の2節から3節にかけて「すべてを創造し終えると、神は七日目には休まれ、この日を祝福して、聖なる日と定めました。この日、天地創造の働きが完了したからです。」と書かれているように、またヨシュア記6章15節、マタイの福音書18章22節、レビ記4章6節、詩篇119章164節などにも7の数字が見られるように、人の行為や神の行為の正当性が7に関連させて語られていて7は神の活動における完全数を表します。従って6は神の活動における完全数に一つ満たないことから不完全なものや神の敵に関連するものを指す数になるのです。

 もしかしたら黙示録内にキリストが直接地上を支配する千年王国の千が6回出てくることや、キリストの統治期間が二千や三千ではなく千であることには何か特別な意味があるのかもしれません。まさかキリストの王国が神の敵ということはあり得るわけがありませんから、これが意味するところは一時的で不完全な悟りの状態を指しているのかもしれません。もちろん1の意味もありますから真の悟りは、その後に訪れる神が人と共に住み人は神の民となる新天新地が現れ出た時であることを暗示しているのかもしれません。それこそが至高の存在である真我と合一した解脱の瞬間なのではないでしょうか。

 また、人を表す数として666という数が13章18節に出てきますが、これはエゼキエル書21章27節に「ああ破滅、破滅、破滅、わたしはこれをこさせる。わたしが与える権威をもつ者が来る時まで、その跡形さえも残らない。」と書かれているように三度の繰り返しは物事の確実な立証や強調を意味することから人の不完全さが666という数字の繰り返しによって強調されていることが分かります。この666を割る場合で割り切れる数の約数には1, 2, 3, 6, 9, 18, 37, 74, 111, 222, 333, 666の12個があります。同様にある数字とある数字をかけた場合の答えが666になる数字の組み合わせは今画面に出ている通り(1 × 666 = 666,  2 × 333 = 666,  3 × 222 = 666,  6 × 111 = 666,  9 × 74 = 666,  18 × 37 = 666,  37 × 18 = 666,  74 × 9 = 666,  111 × 6 = 666,  222 × 3 = 666,  333 × 2 = 666,  666 × 1 = 666)12個あります。つまり666が割り切れる12個の約数同士を掛け合わせて666になる組み合わせは同じく12個あるということになります。これが、どういう意味になるのかというと12は神の行政における絶対的完全と永遠の完成を意味する数であるということから察するに、これはあくまでも私見ですが666に象徴される不完全な人間も神の支配の内にあるということを意味しているのではないでしょうか。また、6たす6たす6は18になり、その1と8をたすと9になります。完全数の10より1足りないということになりますが、やはり先ほど144,000の数のところで説明した通り、人間は神に近い存在ではあるものの神になり切れない不完全な存在であり、獣として生きるのか、或いは神に近い存在として生きるのかは、その人の心がけ次第ということを意味しているのかもしれません。

 次いで、144,000人の清らかな男性たちの出現の後に7章9節以降で「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆」が子羊の血で洗われた白い服を着て玉座と小羊の前で神を礼賛するところが描写されています。

 これは7章16節 「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」17節「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」と書かれている通り、どんな困難にあっても信仰を守り抜いた人たちは神の庇護のもと救われることを言っているのではないかと思います。

 8章では巻物の第7の封印が解かれラッパを与えられた7人の天使が順次ラッパを吹くたびに地上の三分の一が焼かれ、海の三分の一が赤くなると共に海の生き物の三分の一が死に、ニガヨモギという星が落ちて川の三分の一が苦くなり、多くの人が死んでしまいます。第4のラッパが吹かれると太陽・月・星の三分の一が暗くなり昼も夜も三分の一が現れなくなりなります。この後の8章13節では、ヨハネを象徴する一羽の鷲が飛びながら「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」と3の数字に関連したことを言います。思うにこれは、悟りの段階が進むにつれて欲望が消えていくことに対し自我の立場からすれば、それは不幸なことだと嘆いていることを表わし強調しているのだと思います。また、三分の一という言葉で何度も3と1の数字を出してくるのは三位一体を言いたかったのかもしれません。つまり現象世界と自我、そして真我とは一体であり分離していない意味なのかもしれません。そして、第5のラッパが吹かれた後には人の顔をしたイナゴが現れて額に神の刻印がない人を5か月間苦しめます。5は、イエスが磔にされた際に体に受けた両手首、両足首の釘の傷と右脇腹の槍の傷の計5箇所の聖なる傷を連想させます。つまり、額に神の刻印がない人はイエスが十字架上で感じた同じ苦しみを受けることを言っているのかもしれません。どういうことかというと、悟りを目指す人は自我との戦いにおいて精神的肉体的苦痛を味わうかもしれないことを言っているのだと思います。

 第6のラッパでは、4人の天使が人間の三分の一を殺しますが、生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んでいます。これは何度も真理への気づきを重ねても現象世界への関心が残り、現象世界を生み出す自分の中にある堅牢な牙城に住む自我をちょっとやそっとでは倒せないことが表現されていて悟りに達するのはなかなか難しく至難の業であるという譬えではないでしょうか。第7のラッパが吹かれる前には、ヨハネは口には甘いものの腹には苦いという巻物を天使から食べるように言われ、それを食べますが、これは自我との戦いに伴う困難さに苦しみながらも自らの内に神の真理を受け入れるさまを表わしているのではないかと思います。また11章の1節と2節に「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、42か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。」というようにヨハネは命じられますが、これは神殿の外側は現象世界であり神殿は真我の譬えと見れば、神殿の外側の庭は現象世界であるから、そこを量ることはせずそのままにしておけと言われたのは当然ではないでしょうか。11章の3節には「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、1,260日の間預言をさせよう。」とありますが、この1,260という数は前節の42という数と共に何か意味があることなのではないかと思います。しかしながら、正直私にはよく分かりません。そうは言っても、一応色々と計算をしてみることにしました。1,260に関しては、その約数がご覧の通り (1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 9, 10, 12, 14, 15, 18, 20, 21, 28, 30, 35, 36, 42, 45, 60, 63, 70, 84, 90, 105, 126, 140, 180, 210, 252, 315, 420, 630, 1260 )全部で36個あり3と6を足すと9になり、約数の和は4,368になります。その4・3・6・8を足すと21になります。2と1を足すと3になります。3は物事の確実な立証や強調を意味します。1,260の中の1たす2たす6は9になって、ここでも9の数が出てきます。36の約数は9個で、9の約数の数は3個です。3の約数は1と3の2個です。2の約数は2と1の2個で、2が2回繰り返されて、これ以上約数の数を出すことは出来ません。2は先ほど申し上げたように救い主キリストの神なる性質と人なる性質の二つの性質を象徴する意味を持つ数であり、また、ある事が二度繰り返されることは神の決定事項という意味があります。さらに、1,260から導きだされた約数の数の36・9・3・2・2を全部たすと52になり、5と2を足すと7になります。7は神の活動の完全数です。そうなると二人の証人による1,260日間の預言には良い預言と悪い預言の両方があり、その全てに神が関与していることを示しているのではないでしょうか。

 次に42ですが、約数は、1, 2, 3, 6, 7, 14, 21, 42 の全部で8個あり約数の和は96です。9足す6は15で1たす5は6です。4と2を足しても6になります。6は不完全なものや神の敵に関連する数です。42の約数には8個ありますから、先ほどと同じように8の約数は4個、4の約数は3個、3の約数は2個、2の約数は2個、2の約数は2個というように約数の数を出していくと8・4・3・2・2となり2が繰り返される解釈は1,260の時と同じでイエスが持つ神と人の二つの性質から、それには両面性があると考えられます。さらに、この8・4・3・2・2 を全部たすと19になり、1と9を足すと10になります。10は完全数で、例えば、出エジプト記20章に書かれている、いわゆるモーセ十戒は神の全き要求を表します。そうなると、42か月のあいだ異邦人により聖なる都が踏みにじられることには良い側面と悪い側面の二面性があり、かつ、それは神の望みによる決定事項という解釈になるのではないかと思います。加えて、1,260と42のどちらにも導き出された約数の数が5つあり、5には先ほど申し上げた通りイエスが磔にされた際に体に受けた5箇所の聖なる傷の意味があることから、1,260と42の二つの数は聖なる数でイエスと同じ苦しみを受ける可能性を暗示します。たとえ、2は繰り返さないと考えて導き出される約数の数は4だとしも黙示録7章1節の「大地の四隅」、イザヤ書11章12節にも「四方の果てから」と表されるように4は形や機能の完全さを表わす数と解釈されます。要するに、どの様に解釈しようとも神の行いの完全性に行きつきます。

 14章20節には酒ぶねから流れでた血が1,600スタディオンにわたって広がったとのことで、ここにも1,600という数が出てきます。この約数もご覧の通り(1, 2, 4, 5, 8, 10, 16, 20, 25, 32, 40, 50, 64, 80, 100,160, 200, 320, 400, 800, 1600)21個です。1,600の約数の和は3,937になります。その3・9・3・7を足すと22になり2と2を足せば4になります。4は形や機能の完全さを表わす数です。ある数とある数をかけて1,600になる組み合わせも21通りあります。2と1を足せば3です。3は物事の確実性や強調を意味します。21の約数は4個で、4の約数は3で、3の約数は2で、2の約数は2です。出た約数の21・3・2・2を足すと28になり、2と8をたすと完全数の10になります。1と6を足せば、これも神の活動の完全数を表す7になります。つまり、14章の天使が鋭い鎌で地上のぶどうを刈るのは正当な神の意思による行為であることを言おうとしているのではないでしょうか。これを悟りと結びつけるのならば自分の中の現象世界を滅ぼすことの大切さが語られていると思います。ちなみに1,600スタディオンはイザヤ書に出てくるボズラからハルマゲドンまでの距離に相当するとのことです。

 この事から黙示録の中に出てくる数はイエスの言葉や旧約聖書に起源を見て取れるのではないかと思います。つまり、144,000、1,600、1,260、666といった数は旧約聖書やイエスの言葉に由来するものであり、ヨハネが聖なる数或いは邪な数と考える数を駆使して、この世の全ての事には神の意思が働いているという意味付けと文章に神秘性を醸し出したいがために編み出した苦心の数ではないかと思います。数に神秘的な意味が隠されていると考え、その秘密を解き明かし人の運勢などを占おうとする数秘学、または東洋占術や西洋占術などをやっている人で数に詳しい方は計算をしてみてはいかがでしょうか。私としては、これらの数に深く固執しない方が良いと思います。囚われすぎると144,000人は地球を救う光の戦士の数とか、666は悪魔の数とか本当に荒唐無稽な話しになってしまいます。ヨハネは、あくまでも悟りを開いたイエスの弟子であることを忘れてはいけないと思います。

 次に第7のラッパが吹かれると「死者の裁かれる時が来ました。」と11章18節にありますが、これは悟りを目指し修行を行っていた人が現象世界の中でそれまで生きていたと勘違いしていたことに気づくことを指しているのだと思います。誰も映画やテレビの中の登場人物を生きていると言わないのと同じです。真理に気づいた人は自分の本性は他にあることに気づきます。現象世界の全てには実体がないことを悟り、そこに真実がないことを理解します。それは仏教において般若心経を理解する段階に入っていくようなものなので、次の19節において「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。」と表現されるわけです。

 そして、ここから、いよいよクライマックスに向かってヨハネは話しを盛り上げていこうとして色々と脚色のために凝った演出をしながら物語りを過大な言葉で飾って盛っていくわけです。真理の探究者は、真理の奥深さを知り、さらに深奥へ意識をどんどん向けて探究を深めて行くわけですが、サタンやその手下どもである様々な欲望として現れる竜やヘビたちは、そうやすやすと自分たちの支配を明け渡すことはありません。なぜなら自分たちの生存がかかっているからです。探究者に悟られてしまえば、サタンやその手下の竜やヘビの欲望の出番はなくなるからです。従って、サタンと手下の欲望は自分たちの生き残りをかけて命がけでこれでもかというほどの手練手管を使って悟りを得ようとする者を惑わし続けようとします。しかしながら、一度でも真理の一端を垣間見た者にはもうそれまでの欲望による誘惑の手段は通用しません。欲望の正体を見抜いているからです。欲望はサタンから生じます。つまり、サタンとは自我のことなのです。自我は欲望を使って自らの存在を誇示します。欲望に執着することは自我に囚われていることになり、すなわちサタンの虜になっていることになるのです。自我に打ち勝つためには12章11節で「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」と書かれているように自分の命でさえも惜しむようなことをしてはいけないのです。お分かりいただけるでしょうか。

 12章以降では、サタンとその手下どもは激しく天使たちと戦い地上に投げ落とされます。天使たちとは、悟りを目指す探究者の内にある聖なる欲求のことです。サタンである自我は、自分の命にさえ執着しない悟りを目指す者の聖なる欲求に打ち勝つことは出来ません。地上に投げ落とされたサタンは、それでも負けを認めず執念深く抵抗をし続け、時には自我が優勢になる時もありますが、結局、14章5節にあるように悟りを一心に希求する人の「偽りがなく、とがめられるところのない者たち」が最後には勝利するのです。その勝利の時こそが、14章7節に「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」とあるように探究者が、いよいよ悟りを得るに相応しい人であるかを神が判断される時の到来になるのです。

 15章以降では悟りを目指す探究者が段階を経ながら真理に気づいていく様を描写していると思います。悟りへの気づきの深まりと共に自我から生じた現象世界は探究者自身の強い意思で滅ぼしていかなければなりません。それができれば18章2節に書かれているように「倒れた。大バビロンが倒れた。」と描写されるように自我に勝利することができるのです。同じ18章の9節以降は欲望によって快楽にふけり富を得ていた地上の者たちは自我を象徴する強大な都バビロンがあっという間に神の裁きにより壊されたことを嘆き悲しみますが、これは自我の視点からの嘆きなのです。

 19章では現象世界を欲望に満ちさせた自我が敗れさったことを賛美しています。だから1節2節で「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を彼女になさったからである。」というように書かれているのです。悟りを目指す探究者が自我の欲望に打ち勝つ過程を劇的にまさに芝居がかった感じで描写しているのです。

 7節には「わたしたちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。」とあります。ついに悟りを得た探求者と真我との合一の日がやってきました。それが子羊の婚宴なのです。

悟りを得た者に、この世の死は何の意味もありません。この世はただの現象であることを知っているからです。悟りとは自分が真我であることを知る第一の復活なのです。故に20章6節に書かれている通り「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」ということになるのです。

 しかしながら安心はできません。サタンである自我はしぶとく執念深いのです。油断をすればいくらでも自我は、その力を取り戻そうと狡猾な手段を講じて蘇ろうとしてきます。ですから一時的な真我の直接体験をしたからといって、これでもう良しと思ってはいけないのです。しっかりと自己の基盤を真我に立脚するためにも絶え間なく精神の鍛練を続けなければいけないと思います。お釈迦様が悟りを開いた後に遊びほうけたでしょうか。イエスが人々に教えを説いて回っている最中に世俗的な遊びをしたでしょうか。遊びが悪いわけではありませんが、やはり真理を知ったあとでも、その真理の認識を保つ努力は怠ることがなかったと思います。そうすることでサタンである自我の欲望が息を吹き返し再び執着が甦ることを阻止できるのではないかと思います。

 そして21章以降は真我との合一が完全になされることを描写しているのではないかと思います。それが新しい天と地という形で言い表されているのではないかと思います。宝石のように輝く栄光に満ちた聖なる都であるエルサレムが神のもとから下ってきます。21章の3節から4節にかけて次のように書かれています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住み人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 また、5節に玉座に座っておられる方が万物を新しくすると書いているように悟りを得た者の世界を見る目は変わります。真理を知る以前の欲に囚われた人のままでいることは不可能です。その人にとっての世界は新しく生まれ変わるのです。しかしながら、悟ろうとしない者、真理を知ろうともしない人は変わりない人生をそのまま生き続けます。だから8節には次のように書かれているのです。「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」つまり、本当は死などというものが存在しないにもかかわらず真理を知らないが故に死が存在するものとして死を意識し、さらには死後の地獄の恐怖におびえ続けることを言っているのです。

 そして、21章7節から8節に次のように書かれています。「事は成就した。私はアルファでありオメガである。初めであり終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」

ここでの成就するべき事とは、自らが世界を創造した真我であり神であったことに気づくことです。それこそが真の悟りであり成就されるべき神の計画なのです。

 21章には、また12,000と144という数字が出てきますが、12,000は12の千倍、144は12の12倍で共に12の倍数です。絶対的な完全と永遠の完成を象徴し神の完全な取り決めを表わします。この世の真理を知り悟りを得る者は、神の計画に基づく予定調和の一つです。さらに真我に常在し解脱ができるほどの覚者は、現代においてはそう多くはないと思います。そういう意味で神に選ばれた者とも言えます。だからこそ、そこには神が託した深い意味があるはずです。故に真我探求は、単に真我の直接体験をすれば終わりではなく、人生が終わるその日まで真我探求は続けていくことになるのです。数に関してはもう十分だと思いますので、これ以上は数の計算はしません。関心のある方はご自分で色々と試してみてはいかがでしょうか。

 22章15節には先ほど言った21章8節に似た文章があります。「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」今言ったことに該当する人々は現象世界の中では私たちの周囲で普通に暮らしていたりします。それらの人々が都の外にいるというならば、ここでいう都は現象世界でないことは明白です。それなら、その都はどこにあるのでしょうか。ヨハネの黙示録に書かれている聖なる都の在りかは私たち一人一人の内側にあります。ルカによる福音書17章20節から21節にかけて「イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われたように神の国は私たちの中にあるのです。自分自身を含め、この世をどうにかしよう、どうにかできると考える心を捨て去り、他人の生死、自分の生死を含め現象世界に囚われなくなった心境こそが神の国へ向かう道なのです。その道の先にはイエス・キリストがいて私たちが来るのを待っています。なぜなら22章17節にこうあるからです。「“霊”と花嫁とが言う。来てください。これを聞く者も言うがよい、来てくださいと。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」

 もし、これを聞いた人で、この現象世界に嫌気がさして神の国に行きたいと思うのならば、是非真我探求をして下さい。私が体験した一時的な真我の直接体験程度なら熱意があれば十分成し遂げられます。いつでも神の国は、それを探し求める人には開かれています。自分の中に神の国を見つけることは、私はそんなに難しいことではないと思っています。

 以上のことから比喩を使いながら悟りの境地を伝えようとしたヨハネの真意を曲解して、表面上の言葉の意味合いだけに囚われて、黙示録は未来における人類の滅亡を予言していて最終戦争を描写しているなどと考える人は、正しく自我であるサタンの誘惑に惑わされた人々であると言えるのではないでしょうか。もちろん、それが悪いわけではありません。惑わされるのも、その人の人生だからです。惑わされたい人は、そのまま惑わされ続ければ良いのです。現象世界の中で遊び続けたい人なのですから、他人の遊びを邪魔してはいけません。しかしながら、ヨハネの黙示録が本当に人類滅亡を予言したという説に疑問を感じるのなら他の可能性を考える必要があるのではないでしょうか。

 私は、少なくとも最終戦争や天変地異などによる人類滅亡を予言している文章でないことは明言できます。そもそも創世記8章21節と22節で「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」と神は言われました。さらに9章1節から2節にかけて『神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」』と仰せられたのです。神が、その様に言われたのに、どうして人類が神によって滅ぼされるというのでしょうか。或いは神ではなく人類自らが人類のすべてを滅ぼすような核戦争をすることを言っているのであり、それをヨハネが予言しているのだと言う人がいるのであれば、それほど大規模な核戦争では核の冬が到来するのは免れないでしょう。それは人類のみならず他の動植物も巻き添えにして滅ぼしてしまうことになります。そんなことを神がお許しになるわけがありません。そもそも指一本でさえ神の意思に反して動かすことは出来ないのですから、全ては神の計画通りにしか進まないのです。当然、神の意思に反して人類が滅びるようなことが起こるはずはないのです。ヨハネが創世記の8章9章の神の言葉を知らないはずがありません。ヨハネが神の言葉に反することを書くはずがないのです。人類滅亡の予言などという人は先ほどの創世記8章9章に書かれている神の言葉を知らない人か信じない人たちです。それこそ不信心者です。そんな不信心者の言うことなど聞く必要はどこにもないのです。今地球上に80億人以上にまで人口が増えたのは神のご意思そのものです。神の栄光そのものです。故に、私は神の栄光を心から賛美し讃えます。私は神を心から愛しています。なぜなら、神を愛することは世界を愛し人々を愛しあらゆる生き物たちを愛し、そして自分自身を愛することになるからです。それら全ては神が創造されたものだからです。だから私は神を心から愛するのです。もし、黙示録に書かれていることが最後の審判について書かれているというのなら、その最後の審判というのは悟りを目指す人が、その悟りを得るに本当に相応しい段階に至ったかどうかが神によって品定めされることを言っているのです。サタンとは自我のことです。バビロンとは自我によって顕現した現象世界です。バビロンの滅亡とは欲の世界の現象世界が消え去ることです。子羊の婚宴とは、これも抽象的な表現であって悟りを得た人による真我との合一を指す霊的結婚を意味しています。この場合の霊的結婚とは一種の比喩であり譬えであり精神的な意味でのつながりを言います。梵我一如でありなさい。性別に関わりなくキリストと結婚する花嫁になりなさいと言っているのです。

 なぜなら、私やあなたは、もともと真我だからです。誰であろうと元から神から離れたことは一度もなく私たちは常に神と共にあるからです。多くの人は、それを忘れているだけなのです。そして、それに気づくことこそが悟りなのです。黙示録は、悟りへと至る過程で起きる人の内的世界の様々な変化を、これを読む人に対し感情を刺激するような大げさともいえる表現を使って伝えようとしています。また、黙示録を読み真の意味を理解する気づきを得た者は、神と一体となって神に付き従う者であることをヨハネは教えてくれています。

 ですから、それまで真理に気づいていない人々が、本当に実在すると思い込んでいる自我が作り出した現象世界の中で、支配者サタンとして君臨する自我に打ち勝ち悟りを得て真我に至るのは神の国に入ることになるのです。黙示録は悟りを得る人たちの神の国に至る栄光に満ちた道のりを華々しく荘厳に謳い讃える壮大な叙事詩なのです。故に、表面的な表現に囚われて、ヨハネの黙示録は人類滅亡を予言した予言書であると間違っても解釈をしてはいけないと思います。ヨハネの黙示録は悟りの書なのです。

 それでは、なぜ仏教のようにキリスト教では悟りを前面に押し出すこともなく、黙示録を悟りの書としての扱いをしてこなかったのでしょうか。その内容が比喩だらけで難解であったのも一因でしょうが、理由はそれだけではないはずです。私が思うに、いつの頃からかは専門ではないので分かりませんがキリスト教では教会には神と人との仲介を行う大事な役割が昔からありました。その権威を守るために東洋的な個人の悟りを認めないところがあったのではないかと思います。なぜなら、個人が直接悟りを得てしまえば神と人との仲介者としての教会や教会に務める司祭の意味がなくなり教会の権威が失墜してしまうおそれがあります。だから教会は、過去において人間が自己の内面において直接に神の存在を体験しようとする哲学ないし宗教上の思想である神秘主義を異端として排除してきたのではないかと思います。しかしながら、幸運にもヨハネの黙示録は正典から外されることなく新約聖書の中に残されました。これも神の御心の反映ではないでしょうか。私は改めてヨハネが人々に伝えようとした神へ近づくための個人の悟ろうとする心がけの大切さを強調しようと思います。

 今回の動画はかなり長くなってしまいましたが、お分かりいただけたでしょうか。真我の直接体験をした私のヨハネの黙示録の解釈は、これまで沢山の人がしてきた一般的に言われている解釈とはかなり違っていたのではないかと思います。しかしながら、イエスはお釈迦様と同じくらいに悟った人だと私は思っています。悟った人である以上、この世が実体のない現象世界であり幻想であることを理解していたはずです。悟りを得た者にとっては、真我こそが真実であり、ただの幻想でしかないこの世の未来を気にかけるようなことをするはずがありません。そうであるならば、ヨハネは、真理を悟られた方であるイエスから母親のマリアを託されるほどに信頼された弟子である点に着眼すれば、どうなるか分からない未来のことを言って人を恐怖や不安に貶めるようなことをヨハネがするとは到底思えません。もし、人類滅亡の予言ではないというのであれば黙示録に書かれていることは一体何なのか。人を恐怖や不安に陥れるのが目的でないのならヨハネが伝えたかった真意は何なのかに目を向けるべきではないかと私は思います。あとは賢明な視聴者の方々のご判断にお任せしようと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。