私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

偽書扱いされる外典トマスの福音書は聖典だった‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。文中で5番目の文章の次にくる6番目を勘違いして7番目と書いてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。

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 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が26回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 最近、昨今大きく取りざたされているLGBTQの問題とトマスの福音書の一節を絡ませて話しをされている動画をユーチューブ内において拝見させていただきました。説明欄に、その動画のURLを張り付けておきますので興味のある方はご覧になられてみてはいかがでしょうか。

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 LGBTQに関しては今のところ私が何か世間一般で言われている話し以上の特別な事を言えるほどの考えもないことから、わざわざLGBTQに言及する動画を作らなければならないと考え、その為の行動を誘発するような思考でもやってこない限り本動画内で触れる以上の話しはありません。しかしながら、トマスの福音書については私なりに言えることがあるので今回はトマスの福音書に書かれていることについて少しばかり述べさせていただこうと思います。

 ウィキペデイアによりますと、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書の中に114の文からなるイエスの語録集というものがあったそうです。その文中には、使徒トマスによって書き記されたとあったことから、その文章はトマスによる福音書と呼ばれるようになったとのことです。この福音書は教会の権威などを認めないグノーシス派的とされることから異端の書として扱われキリスト教の正典としては今のところ認められてはいません。しかしながら、今回、このトマスの福音書を読んで、その書かれている内容から私はイエス・キリスト本人が言われた言葉ではないかと感じます。なぜかというと、悟りの境地にいる人が話す内容には一種独特の共通する特徴があるのですが、この福音書には明らかにその悟っている人にしか言えないようなことが書かれていると感じたからです。これだけの真理を語れる人は本当に悟っている人でなければ出来ないはずです。加えて教会の権威などを認めないグノーシス派的というところが私からすれば、それだけで本当っぽい感じがします。考えてみてください。キリストであられるお方が後世の教会の権威などというみみっちいものを考慮していちいち発言したりするでしょうか。教会の権威のために真理を歪曲して話したりするでしょうか。イエスは神が命じるまま真理を守り抜くために死んだのですから教会の権威など気にするはずがありません。

 ちなみにグノーシス派とは、物質と霊の二元論に特徴を持つ、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求めるという思想を持つ一派のことですが、私自身の考えに対しては誤解を抱かれないようにするために、ここではっきりとお断りしておきます。私はグノーシス的なものなら何でも認めるわけではありません。確かにグノーシスに近い考えではありますが基本的に私は、真実の存在は唯一の実在である真我のみであるという考えを自分の実体験に基づいて持っています。ですから私の考えの根底にあるものは梵我一如であり不二一元論的なものの見方ということになります。従って、教団の長い歴史と伝統までは否定しませんし尊重はしますが、キリスト教に限らず、どこであろうと宗教団体の権威自体を認めるようなことを私はしません。なぜなら、それも現象世界の相対性ゆえの産物であり偶像崇拝になると思うからです。むしろ、そこから離れなければ悟りを得られることはないのですから、心のよりどころ程度なら良いかもしれませんが、外側の絶対的権威などというものに固執してはいけないと思います。神の権威、仏の権威、真理の権威は外側の教団にあるのではなく、それらの権威は一人一人の内側にあるものではないでしょうか。故に悟りとは、神や仏、真理の権威を自らの中に見出すことと言えるのではないかと思います。一人一人が悟っていけば、外側に権威を求めることはなくなりますし、教団の権威などというものを気にする必要もなくなります。つまり外側の権威、見栄えや見かけを気にしている間は悟ることなど到底無理ということになると思います。

   

 話しを戻します。私は以前の動画内でも言ったと思うのですが、イエスは確実に悟っている人です。現在キリスト教が正統と認めている聖書の中のイエスが話したと言われる文章を読むだけでもイエスが悟っていたであろうことを私は感じます。そのことからトマスの福音書レベルの内容を語れるのは、その時代その地域ではイエスくらいしかいなかったのではないかと思います。もし、イエスの言葉ではなく、誰か別の人が自分の考えていることを書いたというのなら、これだけのものを書いた人もイエス並みに有名になっていてもおかしくないと思います。そういう事から前置きが長くなってしまいましたが、今回は新約聖書外典であり人によって偽書扱いされることもあるトマスの福音書の中に書かれていたという文章のいくつかを取り上げて私なりの解釈をしていこうと思います。

 なお、文章の引用元はイエスという人の人物像を独自に探究しておられる有本康夫さんという方が書かれたブログ内から引用しています。引用元のURLは説明欄に張り付けておきますので114のトマスの福音書全文をお読みになりたい方は、そちらをご覧になられることをお勧めします。

http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_tomas.html

 あと、ささくら修道会さんのホームページにも「トマスによる福音書」が載っていたので、そちらも参考にさせていただきました。ささくら修道会さんのURLも説明欄に張り付けておきます。

http://manga.world.coocan.jp/purotesutanto-14-6.html

 それでは始めます。最初は1文目の「そして彼は言われた。”だれでもこれらの言葉の解釈を見出す者はけっして死を味わうことがないであろう”。」です。

 この説明は簡単です。私たちは誰であろうとも真我ですから死などというものはもとからありません。この世は真我が夢見る現象世界であることが分かれば死を恐れる必要はもうなくなります。

 2文目はこうです。「イエスは言われた。”探す者は見出すまでやめてはならない。見出すときに、彼は当惑するであろう。当惑してさらに彼は驚くであろう。その時、彼は天地万物を支配する”。」

 探究者は真我を自らのうちに見出すまで探究をやめてはいけません。真我を見出した暁には、それはその人にとって素晴らしい体験になるのは間違いありません。しかし真我の直接体験を言葉でもって、その経験をしたことのない人に説明することはできません。なぜなら、未体験者が頭で考えて理解できるものではないからです。直接にその体験をして初めて理解できるものなのです。そして自分の中に真我を見出した時、自らが天地万物の造り主であったことを知るに至るのです。

 出エジプト記3章の13節から14節にかけてモーセが神の名を尋ねた時に神は「私はあるというものだ。」と答えたことが書かれていますが、これは何も神が自分は神だからということで、お高く留まって気取ったものの言い方をしているのではなく真実そのままのことを言っているのです。神が人間に対して気取る必要など全くありません。神は純粋な存在なので、ただ存在することしかできない性質を嘘偽りなく真実を語っているだけなのです。故に現象世界を超えたものである、ただあることしかできない真我のことを、あれやこれやと語るのは本当に不可能なのです。そして、自分がその真我であることを知れば現象世界を創造したのは自分自身であったことを知ることになります。

 3文目の「イエスは言われた。”あなたがたを惑わす者たちが[見よ、神の国は天にある]とあなたがたに言うならば、空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。彼らが[それは海にある]とあなたがたに言うならば、魚があなたがたより先にそこにいるであろう。しかし神の国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、自分自身を知るならば、知られるであろう。そして、自分が生ける父の子らであることを知るであろう。しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、貧困の中にいるのだ。そしてあなたがた自身が貧困なのだ”。」

 これも説明する必要がないほど簡単ではないかと思います。神の国は一人一人の中にあると言っているのです。これも本当のことです。その事に気づけば自分が真我であることを知るに至ります。自分は既に神の国にいたことを知ります。真我とこの現象世界は別々の物ではありません。真我と現象世界は一体です。しかし、自分自身が真我であることを知らないままなら、その人の心の貧しさからくる苦しみがなくなることはないと言っているのです。

 私は神のことを思うだけで心の中が神への愛で満ち溢れます。そして神も同じように愛でもって返してきてくれます。私は神からの愛に包まれながら神への愛と感謝で、とても幸せな気持ちになるのです。これは単に想像で話しているのではありません。真我を直接体験すれば神の国は自分の中にあったことを本当に知ることになるのです。

 四つ目の文章はこうです。「イエスは言われた。”日で満ちた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。そうすれば彼は生きるであろう。多くの最初の者は最後となり、そして彼らは単独者として生きる事になるであろうから”。」

 これも説明が要らないくらいです。マタイによる福音書18章2節から3節にはこう書かれています。『そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

 つまり、生後間もない乳児こそが永遠の命のありかを一番知っていることから、死期がまじかな老人で永遠の命を得たいと思うのならば、この世の善悪を知る前の赤子のようになりなさいと言っているのです。それが出来れば、この世に生まれ出る前の真我の状態に戻ることができ、唯一の実在である真我として生きることが出来ると言っているのではないかと思います。

         

 私は10年くらい前にテレビの番組内容に関心がなくなりテレビは捨ててしまいました。同じく10年くらい前から新聞・雑誌なども読まなくなりました。現在の私は世間に対する関心はほとんどありません。私が関心を持って読むのは思想と宗教に関する精神世界に関する本だけです。それでも生きていくことに何の支障もありません。その時々の必要な情報はパソコンで検索すれば出てくるので、それで十分です。なんの不自由さも感じません。

 数年前には世界的な流行病がちまたであったようですが、新聞・テレビがないことで世間の騒々しさの影響を一切受けることなく、流行病に対しては一喜一憂することなく私は平然としていられました。私が働いている会社でも職域接種がありましたが、予防接種をしていないのはたぶん私だけだと思います。予防注射の類は中学生か高校生の時に打った集団接種が最後で、大人になってから予防注射を打ったことは一度もありません。年相応にあちこちにガタは来ていますが、私は酒やたばこはやりませんし、職場からの帰りに地下鉄や自転車を使わずに時たま歩いて帰るようにもしているので今のところ特に大病を患ったことはありません。ただ目が悪く疲れるので5、6年くらい前から抗酸化力が高いと言われているルテインコエンザイムQ10そしてビタミンCなどのサプリメントは飲んでいます。そのおかげなのかどうかは分かりませんが、単なる思い込み効果であっても風邪一つひかないのは事実です。それ以外で健康のことを考えることはありません。

 次は5番目の文章です。「イエスは言われた。”あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに現れされるであろう。明るみに出ないまま隠されているものはないからである”。」

 これもまた幻想でしかない現象世界の真実を見抜く大切さを言っています。幻想を幻想として捉えれば真理はおのずと明らかになると言っているのではないかと思います。

 次は7番目になりますが、このまま最後まで一つ一つの解釈を言っていくと長時間動画になってしまうので飛び飛びであと三つほどで終わろうと思います。

 次は11番目です。「イエスは言われた。”この天は過ぎ去るであろう。そして、その上のものも過ぎ去るであろう。そして、死者たちは生きない。そして生きている者たちは死なないであろう。きょう、あなたがたは死んだものを食し、それらを生かす。しかし、あなたがたが光の中にいるとき、あなたがたは何をするであろうか。あなたがたがひとつであった日に、あなたがたはふたつになった。しかし、あなたがたがふたつになったとき、あなたがたは何をするであろうか”。」

 これは簡単に言えば諸行無常といったところでしょうか。色即是空 空即是色と言ってもいいです。この世に永遠不滅というものはなく常に変化し消滅していく様を言っています。この世の人や動物などに命などというものはありません。魂などというものもありません。あるのは真我のみです。それ以外のすべては物語です。何もないのですから、死後の世界に生きるということもありません。もともと私たちは真我ですから死ぬことはないのです。故に、実在である真我に気づいた人たちには死という概念は存在しなくなります。また、この世の人は食事をすることで自分の肉体を維持していると思い込んでいますが、それは自分たちがただの映像であることを知らないからです。もちろん、この現象世界で生きていく限りにおいては、私もおなかが減りますし何かを飲み食いしなければ生きてはいけません。しかしながら、私たちはもともと一つの真我であることを忘れて相対性の世界の中に誕生してきていることを忘れてはいけないと言っているのではないかと思います。その忘れていたことに気づくことが悟りなのだと思います。

           

 ユーチューブなどでお釈迦様に関する動画を視聴している人や仏典を読んでいる人は分かると思いますが、お釈迦様の教えでは頻繁に前世の話しをする場面が描写されます。しかし、それは、あくまでも悟りのさの字にも達していない人を納得させるための方便でしかありません。前世という架空のおとぎ話しに関連させることで、その話しを聞く人々を仏の道に導こうとしているに過ぎないのです。真我に至ればすべては空(くう)であることが理解できるようになるので前世も現世も来世もないことが分かります。

 突拍子もないことと笑われるかもしれませんが、なぜかは分からないのですが時間を割いて私の動画を視聴されている方に対しては、洞察力が働いて真理に関してはそれなりの高い境地に達している方々がほとんどであるとお見受けすることが出来ます。或いは私の言っていることが理解できる素地が既に出来ている方であると感じることが出来ます。そのようなことから私の動画を視聴されている方に対しては前世などという架空のたとえ話をする必要はないと感じています。従って、既に高い境地にいる方に対して、ありもしない前世などのたとえ話をして回りくどい言い方をするのは逆に失礼になると思いますので私の話しでは基本的にそのものズバリのことしか言いません。ですから私は魂も死後の世界もなければ前世も現世も来世もないとはっきりと明言するのです。

 次の13番目の文章は長いですが結構重要なことを言っています。「イエスは彼の弟子たちに言われた。”わたしを比べてみよ。そして、わたしがだれに似ているかわたしに言いなさい”。シモン・ペテロは彼に言った。”あなたは聖なる御使いのようです”。マタイは彼に言った。”あなたは賢者、哲学者のようです”。トマスは彼に言った。”先生、わたしの顔はあなたがだれに似ているかを理解してそれを言い表わすことはまったくできません”。イエスは言った。”わたしはあなたの師ではない。なぜならばあなたはずっと飲んでいるからである。わたしに属し、わたしが広げた湧き出ずる泉であなたは酔っているのだ”。それから彼は彼を連れ、わきへ引き寄せ、三つの言葉を彼に語られた。トマスが仲間たちのところにもどると、彼らは彼に尋ねた。”イエスはあなたに何を言われたのか”。トマスは答えた。”彼がわたしに語られた言葉のひとつをわたしがあなたがたに告げるならば、あなたがたは石を取ってわたしに投げつけるであろう。そして、その石から火が生じ、あなたがたを焼きつくすであろう”。」

 トマス以外のペテロやマタイはイエスの人としての外側の姿だけを見ています。だから、現象世界の中にある聖なる御使いとか、賢者あるいは哲学者などと形あるものを持ち出して譬えました。一方トマスは、イエスの内なる存在に目を向けて、それは言葉として何かに譬えることはできない存在だと言いました。しかもトマスは自分のことを「私は」ではなく「私の顔は」という言い方をしました。つまり自分の体を主体的に捉えているのではなく客体化したものの言い方をしたということです。それを聞いたイエスは最高の賛辞をトマスに贈ります。あなたは既に真理を会得し私はもうあなたに教えることは何もないほどになっていると言ったのです。そのあとのイエスが個人的にトマスに言ったことは憶測になります。たぶん私が今言ったことをトマスに話したのではないかと思います。だから他の二人が、そのことを知ればトマスに石を投げるほどに嫉妬し自分たちの未熟さからくる怒りに囚われてしまうだろうと言いたかったのではないかと思います。

 次の22番目の文章が今回この動画を撮ろうと思ったきっかけになった文章です。「イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。そして彼は弟子たちに言われた。”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。彼らは彼に言った。”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。イエスは彼らに言われた。”あなたがたがふたつのものをひとつにするとき、そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、そして一つの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりにひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、一つの像の代わりに一つの像をつくるとき、あなたがたは神の国に入るであろう”。」

 4番目のところでも説明しましたが御国に入れる資格があるのは一切の善悪の判断などをしない子供のような人です。つまり、世界をあるがままに見ることが出来る人だけです。それくらい無垢な人しか入ることは出来ないと言っているのです。この世界は一つなるものが鑑賞している現象世界です。鑑賞者としての真我の視点に立てばすんなり理解できることではないでしょうか。世界を見ていると思い込んでいる自分と自分の外側にあると思っている世界は一体です。つまり、二つに分かれていると感じている見る者と見られる物は、どちらも観賞される対象として常に一つなのです。私のものと思い込んでいる自分の体は真我が現象世界を体験するための道具に過ぎません。一つの目、一つの手、一つの足、一つの像とは真我のことです。つまり真我の分身として代わり身として自分の体と思い込んでいる目、手、足、像をつくったということなのです。私たちの内側で感じると思い込んでいる感情・感覚・思考などは観賞者たる真我からすれば観賞する対象ですから外側のものです。また、目などの感覚器官を通して体の外側にあると認識している人や物などは観念が生み出した現象ですから、それらの物の全ての発生原因は内側にあります。同じく、人が上にあると思い込んでいる空も、観賞者たる真我からすれば自らが生じさせたものですから下にあるようなものです。結局、単なる映像であり、ただの観念ですから上も下も右も左もないということです。お分かりいただけるでしょうか。

 一連の、こういった私の説明は、私の過去動画を見てきた人ならば容易に理解ができるのではないかと思います。イエスに限ったことではありませんが悟りを得た人の話す内容は、真我の視点から言っていることなのです。それを理解すれば、それほど難しいことは言っていないことがお分かりになるのではないでしょうか。

 冒頭のトマスの福音書の一節に絡ませて昨今のLGBTQの問題を語る動画内で触れられた一節というのは、今ご紹介した文章のことですが、動画内ではグノーシス派と悪魔崇拝とを結びつけていました。私から言わせれば両者を結ぶつけようとするのは考え過ぎですとしか言いようがありません。どうしてLGBTQを批判する自分の考えを正当化するためにトマスの福音書を持ち出し、しかも悪魔崇拝と結びつけてグノーシス派を語るのでしょうか。はっきり言わせてもらいますがトマスの福音書はLGBTQとは一切関係ありません。また、グノーシス主義悪魔崇拝も全く関係ないと私は考えます。その人はアメリカの牧師さんのようでしたが、もし、トマスの福音書に書かれていることはイエスが言ったことであったと将来証明された場合に、悪魔崇拝にかかわりがあるような言い方をしてトマスの福音書の内容を話した、その人はどのように自分の発言に対して弁明されるのでしょうか。ですから、自分の考えていることだけが正しく、それ以外は悪魔の教えなどというようなことを軽々しく言ってはいけないのではないかと思います。

 悟りの観点から言えば、善悪二元論や神と悪魔の対立という視点に立つこと自体が既に自己を主張する自我の生き残り戦略にまんまと乗せられている証拠ではないかと私は思います。一般的に悪や悪魔と言われているものも含め現象世界は神から離れ分離していると考えるのは間違いです。世界は片時たりとも神から離れたことはありません。世界が神から分離し分裂していると見るのは、それこそサタンの誘惑に囚われた代表的な分離思考です。世界のどこにも分離はないと見極めるのが真理であり悟りです。もしかしたら、これを聞いた人の中には、今言った私の言葉自体をサタンの誘惑と考える人もいるかもしれません。そういう人がいても私は一向に構いません。前にも言いましたが、人それぞれ自分の信じる道を進むのが、その人にとっての最善です。疑問に思う必要はありません。なぜなら、それも神が設定したその人の人生だからです。神や真理を探し求めて、あちこちの宗教の教会や集会に参加し迷い続けるのもその人の人生です。各個、自分の正しいと思う道を是非進んでいただきたいと思います。サタンの誘惑に惑わされているのは私なのか、それとも私の言葉をサタンの言葉と考える人なのかは神がご存じですので、全ては神の御心にお任せしますということになります。

 また私事の余談になりますが、いくら世間に対する関心がほとんどなくなったといっても私にはまだまだ心の内に既存の価値観に基づいた潜在的傾向が残っています。そのことから、私は性別に関しては、男は男であり女は女であるべきと基本的に考えています。しかし様々な諸事情から、昔からある枠組みの中に納まることの出来ない人がいることも理解しています。その事から社会の仕組みを変えることで様々な諸事情から生きづらさを感じている人が生きやすい世の中になることは良いことだと思います。しかし、だからといって、それが行き過ぎて、これまでの日本の伝統や文化が破壊されるようなことがあってはいけないと一方では思っています。何事もバランスだと思っているので両者のつり合いがうまく取れる箇所が見つかることを私は願っています。

 今私が言ったようなことは、もしかしたら悟りや解脱を目指している求道者にとってはあるまじき行為なのかもしれません。何があるまじき行為かというと、この世のもの一切は移り変わるものとして、いちいち判断を加えることはせず起こる出来事をあるがままに受け入れることが大事なのかもしれないということです。先ほど取り上げた22番目の文章に書かれている通り「乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている」とイエス様が言われた通りであると思います。そうは言っても、私の心の中には幼少の頃より培われてきた既存の価値観に基づく潜在的傾向がなくなることなく厳然として有るのも事実です。そういうこともあり、いつになるかは分かりませんが、世の中の出来事に対して余計な判断をすることなく本当の意味でこの世界を赤子のようにあるがままに見て、そして受け入れられることが出来るようになればと思っています。

 話しを戻します。前作動画を見ていただけたのであれば分かると思いますが、私はユダが自殺をした点に引っかかりを感じることからユダの悟りには懐疑的で、そのためユダの福音書についてはそれっぽいことが書かれていることは確かですが、やはりユダの自殺が本当であるのであれば内容の真偽性や正統性は今後も問われ続けることになると思います。一方、トマスの福音書に関して言えば、これを聞いたとき私はすぐさま、これは私たちが今いる現象世界を真我の視点から語っているのだと感じました。いわゆるワンネスを理解できる者が神の世界を知る者であるということを言っているのではないかと思います。言い換えれば全ては一つであり、世界は一つなるものの現れであるという視点に立つ者だけが神の世界に入ることができると言っているのです。従ってユダの福音書とトマスの福音書は分けて考える必要があると思います。

        

 トマスの福音書は正統派の教会からは偽の福音書扱いをされ異端とされていたりします。しかし、私から見ると、その内容は悟りを得たイエスだからこそ言えるものだと感じますし、その当時に書かれたことが確かならばイエス以外に言えるはずがないとも思います。まさしく、その内容は悟った者にしか言えないものであると感じるからです。それにもかかわらずトマスの福音書は原始キリスト教において、その存在が知られていたにもかかわらず、なぜ、正統な福音書としてキリスト教会に受け入れられずグノーシス主義とみなされ異端とされてきたのでしょうか。それを私なりに考えてみると、トマスによる福音書の中には言うまでもなくイエスの悟りの境地が書かれているからではないかと思います。そこに書かれている言葉は、悟りの境地に立った個人としての観点からイエスが人々に対して述べられたことが書かれています。その一つ一つを読んでいくとイエスは自分と同じように世界を見ることができるようになれば、その人も同じように悟ることができると話しているように受け取れます。つまり、イエス以外の人たちの悟りの可能性をイエスは示唆していると感じます。考えてみて下さい。もし、キリスト教の普通の信者の人たちが、ひょっとすると、この世の真理を自ら知ることができるかもしれないと思いイエスの考えを真に理解したいと考え直接悟りを目指すようになったらどうなるでしょうか。当然の事として、人と神との仲介役を担ってきた教会の存在意義は失ってしまいます。だからこそ、人と神との仲介役としての教会の存在意義を保ち権威を維持するためには人々がイエス同様悟れる存在であってはいけないのです。そういった教会の思惑もあって、人々の悟りの可能性を示唆するトマスの福音書は異端として扱われるようになったのではないかと思います。これもまた私のとんでも論ですが、その様に考えればトマスの福音書が異端扱いされるのはもっともな話しではないでしょうか。いま私が申し上げたことは正統派のキリスト教徒の方には受け入れられないことかもしれませんが、お怒りになられることなく、なにとぞ私の妄言だと思い聞き流してくださいますようお願い申し上げます。

 いずれにせよ、世界には真我という真の自己しか存在しません。唯一の実在である真我は一つしかないからです。一人一人のうちにある本質は一つであり同じです。ただ、人生と呼ばれる80億を超える違う人の表現があるだけです。それが真理です。その真理を知りたいと思うのであれば、是非真我探求をされることをお勧めします。真理が明かされることが許されている人ならば、真我探求によって真理とはどういうものか、その一端が分かるのではないかと思います。

 本来なら114すべての文章を取り上げ一つ一つ説明をしなければいけないのでしょうが文章は114もあることから、また別の機会にでもトマスの福音書を取り上げようと思います。ご自身でトマスの福音書をお読みになられる場合は、人の視点ではなく神の視点、つまり鑑賞者である真我の視点に立って理解するように心がけてみられることをお勧めいたします。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。