私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

イスカリオテのユダは神とイエスの忠実なる奴隷だった!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が25回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は、神によって定められた大切な使命を果たしたにも関わず裏切り者としての汚名を着せられ続けてきたイスカリオテのユダの名誉を是が非でも回復しようと思い、真理の一端に気づいた私の考えをお伝えすることによって、決してイスカリオテのユダは裏切り者ではなく、むしろ神の忠実なる僕であり、この世の命を失うだけでなく2,000年以上ものあいだ裏切り者という不名誉を背負い続けながらも他の11人の弟子の中の誰よりもイエスのために貢献した人であったということを明らかにしていきたいと思います。

 世間一般ではユダはお金のためにイエスを裏切ったことになっていますが、私はこれを裏切りだとは全く思っていません。ユダは、命を狙っていた祭司長にイエスの居場所を知らせました。しかし、それは神から仰せつかった大事な役目を果たしただけに過ぎません。イエスもその事を分かっていました。ヨハネ福音書13章27節にイエス自身が「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言ってユダに対し行動を促していることから全ては神が事前に予定された計画が遂行されただけなのです。その行為がなければイエスの磔も復活もなくキリスト教世界宗教になることもありませんでした。19章30節のイエスが息を引き取る際に言われた「成し遂げられた」という言葉を熟考すれば分かると思いますが、全ては神の栄光が世に示されるために神自身によって書かれた物語が滞りなく展開されたことを言っています。イスカリオテのユダは大役とも言える重要な役どころである敵役(かたきやく)を任せられた役者です。それにユダは後悔の念から首を吊って自殺をしたとマタイの福音書27章3節から5節にかけて書かれています。使徒言行録1章18節では不正によって得たお金で買った土地で悲惨な死に方をしたと書かれています。どちらにしても、このことからユダは自らの過ちに気づき罪の重さに苦しんだであろうことは容易に想像できます。ユダが自責の念に堪えられなくなり非業の死を遂げることも含めて神の設定した物語なのです。マルコによる福音書14章21節でイエスは次のように仰いました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」これはユダを非難しているのではなく、その後にやってくる2,000年にもわたる恥辱をユダが背負わなければならない過酷な運命を憐れんで同情しての発言なのです。イエスの居所を祭司長に教えるユダの行為は神の御心にかなった行いだったのです。ユダは神から任せられた役目を遂行しただけであり、その任された役目を果たさなければ神の計画は完了しなかったことを考えれば、イスカリオテのユダは神の奴隷としてイエスの弟子として誰よりも忠実であったことに間違いは無いのです。

 いま私が申し上げた、ユダは神から与えられた使命を果たしただけに過ぎないという考え方は何も私だけの発案というわけではなく昔から多くの人によって論争されてきたことです。その代表的な考え方が、ウィキペディアイスカリオテのユダの欄のところにも記載されている、スイスの神学者であるカール・バルトによる、『ユダはイエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」』とする説です。私は、カール・バルトのこの説を全面的に支持します。また、その説が書かれている少し下に記載されている『すでに2世紀後半のキリスト教父文書には、異端の説としてユダの福音書の影響を受けたとみられる「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えがあったことを告げている。」』という箇所にも同様にある程度までは私も支持します。なぜなら、全ては神の計画だからです。

 私は人間の自由意思などというものは一切認めません。ユダもイエスの弟子の一人として悟りを得ていたのならば、このことを当然理解していた可能性はあります。しかし、先ほど申し上げた通り後悔をしたユダが自殺をしたという話しもあることから、人間には一切の自由意思はないという悟りにまでは達していなかったのかもしれません。もし、全ては神の考え通りにしか進まない、人間は神の操り人形でしかないという段階にまで悟りを得ていたのなら、外形的には自分の裏切り行為でイエスを死に追いやったように見えることであっても、たとえイエスの死後、平然と生きていたとしても、元から人間性のかけらも無かった場合を除いて、それは一切合切が神のご意思に基づくものであることを理解したうえでの事として、周囲の人々からいくら非難を浴びても深刻な状況に至るほどの良心の呵責に苛まれ自殺をすることはなかったのではないかと思います。しかしながら、ユダの自殺が真実なら、そこまで悟っていたとは言えないことになります。もしかしたら、これは憶測ですが密告に関しては、ユダがまだ十分な悟りを得ていなかったにもかかわらず、若しくは皆無だったにもかかわらず自殺をすることも分かったうえで神の計画通りに行動するようにイエスはユダを促していたことも考えられます。いずれにせよ、ユダの真理に対する理解は限定的なものだったために自らの行動に自責の念を感じ、それに耐えられなくなってしまい死を選んでしまったのではないかと思います。なんにせよ、その事さえも神が人間に対して御望みになられたことであると言えるのです。つまり、そういったユダの裏切り行為があったればこそイエスは磔になり、死から復活したあと昇天し、さらに使徒たちの宣教と殉教があるという一連の流れが生じてイエスの教えは世界宗教へと発展していくことになったのです。

 そして今、ユダは決して裏切り者ではなく、真実は、その逆であり当の本人にその自覚があったかどうかは別として、神に対してもイエスに対してもユダは誠実で忠実なる奴隷であり、12人の弟子の一人であることに何ら変わりがないと考え、加えて、その事を伝える動画を制作してユーチューブで配信し、2,000年という長きにわたって着せられた裏切り者という濡れ衣を晴らすための私の行動、さらに、この動画を視聴して納得する人あるいは反感を感じる人さえも含めて、それらの事すべてが神の計画の一部として既に2,000年前に、或いは宇宙が誕生した時にはもう決められていたことかもしれないということを認識しなければいけないと思います。神は、それほど偉大なのです。その事を歴史の流れの中で理解すればユダの行為は正当化され、そこには裏切りという行為はもとからなく、あるのはただ神の意思に忠実に従ったユダの姿しかないということが分かるのではないでしょうか。だからこそイスカリオテのユダの行為について歴史上、神学上の観点から「裏切りの神秘の達成」というウィキペデイアに書かれている言葉の意味が成り立つのではないかと思います。

 もっと簡単にわかりやすく説明をするならば、この世は真我が夢見る現象世界です。現象世界ですから現象世界全てを含めて、そこに登場する人物はただの映像です。従って、ただの映画ですからいいも悪いもないのです。人によって平凡な人生であったり、波乱に満ちた人生であったり、貧しい人生であったり、大金持ちの人生であったり、それらがミックスされた人生であったりと人によって様々なジャンルの映画が上映されているだけと言えます。戦争映画や恐怖映画のように狂気と殺りくに満ちた映画がある一方、愛とロマンに満ちたファミリー映画やファンタジー映画があるのと一緒です。それは私やあなた、これを見ている人ばかりでなく世界中の全ての人がそうなのです。

 ユダに関して言えば、その人生は宗教的伝記映画にジャンル分けできるのではないでしょうか。そのように考えれば、ユダは役者の一人にすぎません。悪役を演じただけのことです。ユダは、誰も引き受けたがらないような悪役を演じただけなのに2,000年ものあいだ裏切り者のレッテルを張られ続け汚名を着せられてきました。イエスの教えが世界宗教までになったのはユダの功績があったればこそです。むしろ非業の死を遂げ憎まれ続ける悪役という大役を引き受け演じてくれた陰の功労者とも言えるユダこそ褒め称えられなければいけない存在なのではないかと私は思います。敵役や悪役があってこそ主人公が際立ち光り輝くというものです。きっとイエスもユダに感謝しているはずです。イエスとユダは一つであり、そこに分離はありません。私は、神とイエスとユダは三位一体であると考えます。そこに分離があると見るのは間違いです。

 この動画を視聴している人で、もし悟りを得たいというのであれば、この世の中の出来事に対し分別をつけて見るようなことは決してしないでください。いいも悪いも平等に見ることです。そこに違いを見るのではなく善も悪も同じもの一つのものコインの裏表でしかないと見るように心がけることが大事だと思います。善悪という考え方は、あくまでもこの世のものでしかありません。現象世界を鑑賞している純粋意識である真我は善悪を超えています。神も悪魔もありません。真我に至れば善悪といった観念は、そこには無いことが分かります。ただ在ることしか出来ない純粋意識に考えるというようなことはありません。それは純粋な気づきだからです。気づいていることに気づいている純粋な気づきなのです。それは明白です。言葉では説明できませんし、頭で考えて理解できるものでもありません。ただ体験を通してでしか理解できないものなのです。そして、その体験をするためには未来への期待を捨て、この世の物質的な事に対する執着心を捨てる必要があります。

 それはどういうことかというと、何かしらの行為をした後の見返りに対する期待を諦めることが大切ということです。成すべき行為の結果が良かろうと悪かろうと結果を一切期待することなく、ただ今やるべきこと、しなければならないことを淡々と行い、成果によって人から与えられる損得を考えることなく、行為の貴賤や優劣にもこだわりなく、するべき行為をしっかりとやり遂げることだけに専念するということです。そして、行為をし終わった後においても、私は、これだけのことをやったのだから、これだけの報酬があって当然だとか、あんなにも色々なことをしたのに何の見返りがないのは不当だなどと思わないようにすることです。また自分のやるべき行為をちゃんとやり遂げたにもかかわらず結果的に望んだ通りには物事が進まず期待したほどの成果を得られなかったとしても嘆いたり憤ったりしないということです。行為に対する評価から得られる何かしらの精神的物質的満足は、あくまでも自然の成り行きに任せておくようにするということです。少なくとも行為をしている間、つまり人生を生きる中で生じる全ての行為は運命として定められた行為として受け止め、神に対して誰に対しても報酬を期待することなく今しなければならない行為に集中し、唯々やるべき行為をすることが大切です。私は、私の人生において今言ったようなことを常に心がけています。なぜなら、この現象世界で起きることは、起こるべきことが、ただ起きているだけの事であり、体験すべきことをただ体験しているだけであり、真我として鑑賞すべきことをただ鑑賞しているだけの事なのだと理解しているからです。従って、私たちがやらなければならないことは、今に集中し余計な事を考えずに自分の行為をただただ無心にやりさえすればいいだけのことなのです。これは一朝一夕にはいかないかもしれませんが、それが、精神活動も含めた自己の内外面における活動を客観視することにつながります。

 話しをイスカリオテのユダのほうに戻しますが、私たち人間は誰であろうと神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットです。神に帰依した私一人だけが奴隷であり操り人形でありロボットであると言っているわけではありません。神を信じていなくても全ての人が例外なくそうなのです。これを聞いた人が、その事を認めようと否定しようと、それが真実なのです。誰であろうと神の意思通りにしか動くことができません。従って、自覚の有無にかかわらずユダも当然神の命令通りプログラム通りに動いただけに過ぎません。だから私は、ユダはイエスと並ぶほどに神に忠実なる僕であったと考えるのです。もちろん、神の忠実なる僕であるという点では古今東西の全ての人が例外なく誰もが忠実な僕と言えます。

 こういった考えは、私のように人間には自由意思がないと考える人には容易く受け入れられるでしょうが、個人の自由意思を信じる人には受け入れがたく当然私のこの考えを否定すると思います。しかし、私からすれば、その否定する考えさえも神が設定したプログラム通りということになります。この世界は相対性の世界ですから相反する考え方があって当然です。善は悪があって成り立つように真逆の考え方がなければ、この世界の存在意義はなくなります。

 この世界は神が神自身の栄光を自ら体験するために作り出したものではないかと思います。神にしてみれば、この世界はただのゲームです。神は、自分が神であることを忘れるようにして一人一人の人間に同一化して人生ゲームを楽しんでいます。しかし、時たまイエスやお釈迦様のような真理に目覚める人生の物語も設定し自分が神であったことを思い出すようにしているのではないかと思います。

 以上の事から、イスカリオテのユダは決して裏切り者ではなく神とイエスの忠実なる僕であり12人の弟子のうちの一人であることに変わりはないのです。私としては一日も早くユダの名誉が回復されることを切に願うばかりですが、これさえも神の御心次第ということになります。

 いかがでしたでしょうか。これを聞いた視聴者の皆さんは、どのようにお考えになられるでしょうか。ユダは本当に裏切り者なのかどうかという論争は、これからも尽きることはないと思います。しかし、私は、この世に敵役や憎まれ役、悪役はいても本当の悪人はいないと思っています。当の本人が、自分は根っからの悪人で人を苦しめるのが大好きだと自負する人であっても、それも神が、そのような性格として、この世に誕生させ悪人としての人生を歩むようにプログラミングしているだけの事です。神はサタンさえもご自分でお創りになられ、わざと神に抵抗するようにさせています。それもこれも神の力と栄光を自ら体験するためです。人類の科学が進歩すれば、そう遠くない未来において自分が自由に設定した仮想空間の中に自己を忘れて没入し色々な物語をあたかも現実のように体験できる装置が売り出されるかもしれません。まさに、その作り出された仮想現実の世界では体験者が創造主になります。仮想現実の中の登場人物はただの映像に過ぎないにもかかわらず体験者が登場人物に同一化しているため、自分は現実に存在していると思い込むことになります。要するに、この世界は今説明したようなシュミレーションゲームの世界だと考えれば良いのではないかと思います。だから、この世界は幻想に過ぎないことを見破るためには、この世界への欲と執着から離れることが必要になるのです。 

 なんにせよ、ユダは自ら命を絶つほどの後悔の念に囚われてしまい死んだ後も裏切り者の烙印を張られ今も消えることはありません。しかもそれは神によって、そのような人生を生きるようにさせられたのですから同情の余地が十分にあるのではないかと思います。私は、イスカリオテのユダは従順な神の奴隷として死んだのであり彼自身には一切の罪はないと私は信じています。まぎれもなくイスカリオテのユダはイエスの12人の弟子のうちの一人なのです。これを聞いた視聴者の皆さん、イスカリオテのユダが本当に裏切り者だったのかどうか、或いは神の設定した物語を忠実に演じただけの役者に過ぎなかったのかどうかをなにとぞ考えていただきたいと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。