下記文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。
VIDEO youtu.be
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で46 回目の動画になります。今回の動画は「純粋意識と現象世界の関係性を式にしてみた!」というタイトルでお話しようと思います。
私は前回の動画で取り上げたスウェーデンにあるウプサラ大学に所属するマリーア・ストロッメ (Maria Strømme )教授らのチームが2025 年11 月に物理学専門誌『AIP Advances 』(AIP アドバンシズ) に発表した「基礎的場としての普遍意識: 量子物理学と非二元哲学の理論的な架け橋」という論文の読み返しを行いストロッメ教授が提唱する理論をより深く理解することに努めていました。しかしながら、どうもしっくりこないものがありました。私の真我の直接体験などと突き合せた場合、腑に落ちないことがあるのです。彼女の理論の前提にはビッグバン以前の普遍原理として普遍的な意識と普遍的な思考と普遍的な心の三つをあげています。それ以外にも多くの名だたる科学者の見解を多用し、それらとの整合性をとろうとしています。私としては自らの体験に基づいた純粋意識という永遠不滅の存在としての単一なる普遍的意識という考え方なら受け入れられますが、事物の成立に関する法則的な関係性や仕組みといった意味としての原理に基づいた普遍的な意識や普遍的な思考や普遍的な心といったものを認めるわけにはいきません。
また、量子物理学者であるデヴィッド・ボームが提唱した「すべてが潜在的に折りたたまれた根源的次元から世界が展開されている」というインプリケイト・オーダーといわれる宇宙観などは考え方としては理解できるものの諸手を挙げて受け入れられるものでもありません。なぜなら、暗在系と言われる目に見えない全体性の秩序の中に宇宙のすべての情報が畳みこまれた状態で内蔵されてなどいないからです。そんなものは体験上、存在しないからです。毎回毎回、私が動画で言ってきているように、純粋意識ともいえる真我には概念と言われるものが何もありません。概念がないのですから考えるということがありません。考えるということがないので自分を顧みることがありません。自分を顧みるということがないので自分自身の存在にも気がついていません。自分の存在にも気がついていないのですから現象世界のことについては完全に何も知らないのです。そこには心も知性のかけらさえもありません。何らかの潜在的な情報の断片さえも感じることはありませんでした。当然、純粋意識は全ての情報が折りたたまれた根源的次元なんていうものではないことになりますし、まして量子重力の巨人と言われるジョン・アーチボルド・ウィーラーが提唱する「宇宙は“観察者なしには存在しない”。 観察者は宇宙の受動的な見物人ではなく、 宇宙の成立に積極的に参加している。」などというような参加型宇宙などはあり得ないのです。理由は既に言った通り純粋意識は現象世界のことについては何も知らないからです。ウィーラーが言う観察者という存在は現象世界の中でなら成り立つ考えかもしれませんが、現象世界の外に一歩出た瞬間に成り立たなくなるのです。
確かに事象の最果てを研究している科学者の立場にしてみれば、容易に想像がつく、いわゆる定型の全知全能の神の存在をはっきり口にしないまでも、そのような存在を意識しないことには宇宙の成り立ちを説明できないところまで来ているのは分かります。ですが純粋意識が何かを知っている私からすれば、それらの考えも既に人格神の存在を暗に認めているように見えてしまいます。
ストロッメ教授についてもまたキリスト教圏であるフィンランドに生まれ育った影響なのかどうかは分かりませんが、論文の読み手に対し人格神とまではいかないまでも神的な何かを想定しているのではないかと感じさせてしまうほどに宇宙を創造へと方向付ける仕組みとして何らかの知性的な働きを持つ力が作用する構造が原理としてあるのではないかと考えたのであろうことが推察できます。無理もありません。ストロッメ教授としては、そのように考えるしかなかったのだろうと思います。そうでなければ、こんなにも秩序だった宇宙が出来るわけがないと思うのも仕方がありません。気持ちは分かります。しかし、残念ながら現象世界を超えたところには宇宙を誕生させる仕組みなどというものは一切ありません。人智を超えた神的なものであろうと非人格的なものであろうと宇宙の創造原理などといったものを見つけることは出来ません。まして、何らかの意思や感情を持ち判断を下す人格神などというものは現象世界の外にはいません。個々人が見て感じている完全に独立したそれぞれの世界は、理由も原因もなくただ起きるのです。実際に真我の直接体験をしていない人には理解は不能なのは分かります。この世界には原因と結果という因果律がありますから、その常識からすれば宇宙創造にも何らかの因果律があるのは当たり前と感じるのは致し方がないことです。ある意味、そこが普通の人間が理解しうる限界と言えるのではないかと思います。従って、宇宙創造に関する根本を理解したいのであれば通常の人間の意識状態を越えなければならないということになります。それはつまり、私がいつも言っているように真我の直接体験をすればいいということになるのです。仏教的に言えば悟りを開いて涅槃寂静に入ればいいだけですし、ヒンズー教的には解脱してブラフマンとの一体性を得ればいいだけです。キリスト教的に言えば主の僕として新しく生まれ変わったうえで神の国を見ればよいことです。もしかしたら、今の私の発言を聞いた人によっては宗教的に聞こえたかもしれません。或いは神がかった頭のいかれた奴の虚言と思われたかもしれません。昔から言い尽くされた安易で安っぽい言い方で随分といい加減に聞こえたかもしれません。しかしながら、人間が生きながらにして宇宙誕生以前の根源を自ら知る方法はそれしかないのです。真実、今言ったどの宗教もみな同じ方向を指さしているのです。そして、そこに達する方法論については過去様々な人が論じてきたことであり、私がここでいちいち言うまでもないことではないかと思います。ただ、私の経験上から言えることを一つ申し上げるならば、それは過去動画で言ってきた通り、神の奴隷として、神の操り人形として、神が設定したプログラム通りにしか動かないロボットとして身も心も滅することに徹することです。なぜなら、その様に神の手足となるために自らを滅ぼし尽くした者を神は放っておかれることはないからです。神は、常にその様な者を愛し懐に抱き続けてくれるのです。それによって神と一体になれるのです。神を否定しておきながら神を口にするのは矛盾しているかもしれませんが、これが悟りを目指す人に伝えられる唯一の私の極意です。
前回の動画ではストロッメ教授の理論は大筋ではいい線は言っていると言いましたが、宇宙中に遍満している愛の要素が抜け落ちていることや現象世界は理由も原因もなくただ現れるといった私自身の体験の事実から鑑みれば大幅な見直しが求められるのは必定ではないかと思います。そこで私は、最初はCopilot 、次にChatGPT 、最後にGemini の助けを借りて全ての源ともいえる純粋意識である真我と個々の宇宙との関係性を私なりに式に表してみることにしました。表記上、ストロッメ教授の論文中で普遍的意識として表されていたΦ₀ は、これ以上の適当な表記がないので、ここでも純粋意識である真我を表す記号として使わせていただくことにしました。なお、1月4日付けのユーチューブ投稿の中にストロッメ教授の式を下地にして私なりの考えを提示した式がありましたが、それらも一旦全部白紙に戻して自分の体験を基に一から式を練り直していこうと思います。私が目指す式は単純明快・簡単明瞭・平易簡潔・一目瞭然・瞬間理解を可能にするような出来る限り短くした式です。複雑で一目では何を意味しているのか分からないような難解な式は最初から避けようと思っています。誰にでも理解でき、これ以上省略できないほどに美しくまとめ上げた式こそが本物の式であるというのがコンセプトです。
では、結論から先に言うと色々と模索した結果、式は二つの短い式にまとめることが出来ると思います。
①|Φ₀ ⟩ ⟿ |Φ₀ ;W⟩
(ファイゼロ・ケット・波矢印・ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット)
②|Φ₀ ⟩ =|Φ₀ ;W⟩ , |Φ₀ ⟩≡|Φ₀ ;W⟩
(ファイゼロ・ケット・イコール・ ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット・カンマ・ ファイゼロ・ケット・コングルエント・ ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット)
簡単に説明すると、①純粋意識|Φ₀ 〉(ファイゼロ・ケット)という非二元としか言いようがなく、確かにそれはあるとしか言いようがない何かである何かが、 理由も原因もなく自然に現象世界W (ダブリュ) としてありとあらゆる全現象を映画として立ち現わせているように見えるものの、②本質的にはΦ₀ とW は等価であり同値であり同じ一つの実在の表情(相)の違いでしかないという意味です。これが最終系です。ここまで来るにはCopilot やChatGPT の助けが必要でした。何せ数学や物理学に関しては浅学菲才であることから、ここで私があたかも熟知しているかのように普通に使っている量子力学における量子状態を記述するための標準的な記法であるブラケット記法でさえもストロッメ教授の論文を読むまでは、その読み方さえも知らなかったことでAI の助けなしでは到底到達できなかった地点です。そういう意味では科学の発展とAI 技術のすさまじい進歩は、真我の直接体験など無縁な人々に対しても悟りの領域を分かりやすく説明するための道具としては優れていると思います。なお、最初のお断りとして、ここでのブラケット記法 |…⟩ は量子力学的な意味ではなく、非二元である Φ₀ を基底として二元の現れが生じると読まれ扱われる際に、その状態と全体構造をまとめて存在論的に表すための形式的記法です。時おり、簡略して場という時もありますので何とぞご了承ください。また、後半で詳しく説明いたしますがΦ₀ と現象世界W との区別は両者の分離ではなく仮の見え方としての設定です。ここで使われる基底・場・地平という語は、現象側からの比喩的な読みに過ぎず、そのように感じられるし、そのように見えるし、その様に読めるという体験を記述していることもご理解いただきたいと思います。それでは、ここからは式の最終系に到達するまでの過程を説明していこうと思います。
当初、私は次のように考えました。
|Φ₀⟩ ⟿|W⟩⟿ | W,P⟩ ⟿ |W,Pᴀ⟩
(ファイゼロ・ケット・波矢印・ダブリュ・ケット・波矢印・ダブリュ・カンマ・ピー・ケット・波矢印・ダブリュ・カンマ・ピーサブエイ ・ケット)
|Φ₀⟩ から簡単に説明していきますと、まず|Φ₀⟩ には思考や知性や心といった人としての普通の通常の意識状態は完全になく世界もありません。ただの気づいていることに気づいている気づきの場であり純粋な意識だけの場です。 そして、Φ₀ という記号は何かを定義するためのものではありません。源流の『これ以上さかのぼれない地点』に仮の名前を付けただけのことです。次に波矢印ですが、これには「あとから起きる」「時間が流れる」という概念は含まれておらず非時間的な湧出といったニュアンスを含んだ自然な発現あるいは自然な展開という意味です。波矢印には、いかなる原因やメカニズムはないのです。ですから、何かの作用である演算子を置くことはありません。P の意味は見えている世界に対する「通常の人間としての認識」(Perception as a normal human being / パーセプション アズ ア ノーマル ヒューマン ビーイング)です。たとえば、ほとんどの人が持っている「私は、ここにいる人である」というような通常の人間が持つ認識を表す記号としてPerception (パーセプション)の頭文字をとってP にしました。すなわち、それは自分という感覚、観察者としての認識、映画を観る主体を代表します。つまり、「私という主体」です。そして、その人間としての通常の認識は映画でしかない現象世界W の中で生じるのです。それが|W,P⟩ です。本来、P はW を構成する要素の一部でありW の中で変化していくものなのですが分かりやすいように便宜的にW から抽出して視覚化しました。P は後述するようにW に吸収されるまで表記されることになります。ここでのW はWorld の事で思考や感情、体の感覚を含めた内外の現象全てのことです。 カンマは人としての状態が複数の要素で構成されていることを示す区切りです。 この同レベルでの複数の要素が複合的に絡み合って「私は、ここにいる人である。」という錯覚が生じ、主体がそこにあると認識するのです。しかしながら、ここで矛盾が生じました。Φ₀ 場に現象世界W が自然に立ち上がり、その結果として通常の人としての認識P が生じるとしても、それは「自分という感覚」「観察者としての意識」「映画を観る主体」である「私という主体」があって成り立つ式です。数年前の「私は無い」に気づく前であったなら成り立つ式だと思いますが、今の私には「人としての私という主体」は消え失せ、それは過去のものとなってしまいました。要するに、私にとっての主体は目の前に見えている人の体や感覚ではなく純粋意識Φ₀ そのものなのです。つまり、ここでのP は成り立たないのです。加えて、原点のΦ₀ の中では宇宙中に遍満する赦しと無条件の愛は感じることはできず、あくまでも現象世界の中でしか感じることができません。従って、いくら現象世界を受容する支える力として宇宙中に広がる赦しと無条件の愛を感じたからといって、それは現象世界の中でしか感じることができない以上、現象世界の外から作用している力であるかどうかなど断定することができないのです。ちなみに、なぜ宇宙中に広がる赦しと無条件の愛A がP の右下に小さく表示されるかというと、一般的に科学の世界で相や状態、属性を表すためには下付き文字(SubScript )を使うからです。略してサブ(sub )と言います。それらの事を踏まえたうえで、最後の|W,Pᴀ⟩ の中の赦しを含んだ無条件の愛ᴀ(サブエイ)は現象世界の中の現象の一部であるとしか言いようがありません。しかも赦しを含んだ無条件の愛を感じたからといって世界が変わることはありません。変わるのは赦しを含んだ無条件の愛を感じたことによる認識の質です。簡単に言えばW の物語として宇宙中に広がる赦しと無条件の愛を感じたことで、この世界のありとあらゆる事柄には何一つ間違いはなく、そのまま無条件に受け入れられているという気づきが生じるのです。より俯瞰した大局的な把握の仕方が出来るようになるということです。よって、Pᴀ (ピーサブエイ)は変容後の認識状態を表していることになります。だから赦しと無条件の愛は世界の外にあって世界を支える力ではないということになります。愛もまた現象の一部でしかないことから「何かを変える作用」を表すハット演算子^を神の愛を表すAgape のA に被せる必要はないのです。まとめると、純粋意識のΦ₀ 場に映画としての現象世界Wが自然と立ち上がり映し出された結果、自分という人としての通常の認識P も生じるようになるというわけです。さらにW の物語として赦しと無条件の愛を感じることにより、その映画を観ている認識の質が変化し残酷な世界でさえも容認し抱きとれるようになったという意味がP のᴀ (サブエイ)です。この式の変化の過程で通常の人の精神段階はどこかというと| W,P⟩ が相当するのではないかと思います。その次の段階である|W,Pᴀ⟩ は、いわゆる目覚めた人の領域と言えるかもしれません。
さらに、上記の式を深めて純粋意識の場に世界が自然と立ち上がり人としての認識も生じるわけなのだから| W,P⟩ をΦ₀ 場の中にまとめて表せるのではないかと考えました。その式を作り上げる過程においては当初Copilot は私の考えを基に悟りの動的モデルを連立微分方程式として書き下すことができるなどと言って私の理解力を超えた数字と記号の羅列を見せてきましたが、その式には私は違和感しか感じず直感的にそれは違うなと思いました。私がイメージしている式は単純にして明快、簡潔であり一言で言い表すことができ誰にでも意味として理解できるような式です。連立微分方程式のように式が複雑になればなるほど、それはこの世の二元の世界を象徴するものでしかなく分離と分節、多相を意味します。そもそも数字と記号の羅列を見て、それが美しいと感じるでしょうか。一握りの数学マニアを除いてほとんどの人は嫌気がさすのではないかと思います。ですから複雑な式であればあるほど多相へ向かう分節した二元性と分離を意味し、逆に単純な式であればあるほど単相の方向へ舵が切られたことを意味し非二元性と単一へと向かうことになります。この事から、私は少しでも単純になるような式を目指しました。最終系に辿り着く過程においてはCopilot やChatGPT との間でやり取りを何度も繰り返しながらテンソル積や集合、或いは可換性や写像の概念を使うことなどを互いに提案し合い模索を続けた結果、次のような判断をしました。Φ₀ と現象(W,P )は「独立した二つの系」ではないこと、Φ₀ が“外側”にあって現象はその“内側”にあることで二つの系を並べる構造ではないことからテンソル積の記号を使った式は適当ではないこと、集合や写像については、Φ₀ 自体は「集合」ではなく「単一的で根源的な場」であること、W やP といった現象は「その場の中に現れた意識の振る舞い方」であり離散的な要素が対応し合ったりする関係ではないことなどで、やはり集合記号や写像記号も私が感じた世界観には合わないことが分かりました。可換性についても、どのように演算の構成が変わっても同じ結果に収束するというΦ₀ の性質にそぐわないことから、同様に可換性では弱いと判断しました。 結局、色々とあーでもないこーでもないとAI たちとやり取りした結果、次のような形になりました。 |Φ₀ { W,P }⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)、これはΦ₀ という根源の中にW とP が現象として立ち現れているという構造をそのまま表わしています。ここでの中カッコと中カッコ閉じ { } の記号は外延的または内包的記法としての集合を表しているのではなく、文字通りΦ₀ が内包している内的現れであることを示しています。
話が少し前後しますが補足として私は当初、|Φ₀ {Â (W,P )}⟩ (ファイゼロ・中カッコ・エイハット・カッコ・ダブリュ・カンマ・ピー・カッコ閉じ・中カッコ閉じ・ケット)つまり、カッコ内の世界(W )や通常の人としての認識(P )に外から作用する演算子がついた Â (エイハット)を式として組み込もうかとも考えました。しかし、前述通り宇宙中に広がる赦しと無条件の愛は、あくまでも現象世界と人の認識の中でしか感じられないものなので、現象の一部であることは間違いないことから、この式のようにÂ が外から(W )や(P )に働きかけるなどありえないと結論付けて Â を式に入れるのをやめました。しかしながら、宇宙中に広がる赦しと無条件の愛A 自体を式から外すことは出来ないので、その代わり次のような式にしました。|Φ₀ {Wᴀ,P}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)やはり、これが途中経過を表す式としては今のところ一番相応しい式ではないかと思います。
この式|Φ₀ {Wᴀ,P}⟩ が先ほどの|Φ₀ {W,P}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)の式と何が違うのかというとW にᴀ(サブエイ)が付いたことです。私が過去何度かユーチューブ上で映画制作者たちのたとえ話をしたことを覚えていらっしゃるでしょうか。映画作りに日夜熱い情熱を傾ける現場の制作者同様に神は自ら創造した現象世界を心の底から愛しているというたとえ話です。真実、神は、この世界のありとあらゆる事柄をそのまま赦し同時に無条件の愛で何から何まで一切の区別なくこの世の物語として抱擁しています。たとえ、通常の人の認識しか持ち合わせていない視聴者が、その愛に気がつくことができなくても神の愛自体は世界中の至る所の隅々に常に存在しています。だから式にするのなら|Φ₀ {Wᴀ ,P}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)というようになるのです。これが宇宙中に広がる赦しと無条件の愛を含んだ式になります。そして、この式は何も悟っていない通常の人の意識の状態を表したものになります。この世界には遍満する愛が常にあるにもかかわらず、大概の人はその愛に気づくことなく世界の表層的なところばかりを見ては怒りや憎しみ、恐怖や悲しみといった負の感情に支配された人生を生きていることを表した式ということです。だから、実際の見た目としてはW からサブエイを取り去った|Φ₀ {W,P}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)と書くのが目覚めていない人の実情を素直に表わした現実的な式になるのではないかと思います。言葉で説明すると、様々な感情や思考、出来事が生じる世界W が展開されることで通常の人としての認識P は個があり主体性を持った私が生きていると錯覚し、あたかも人生が実在であると思い込んでいるものの、実は、それの全てはΦ₀ 場の中で起こっている映画に過ぎないという式です。言い方を変えれば、目覚めていない普通の人は、至る所に満ちている愛にもΦ₀ にも気がついていないという構図でもあるのです。
それでは、次は悟りに至る気づきを繰り返すと式はどの様に変化するのか見てみようと思います。
|Φ₀{Wᴀ,P}⟩⟿|Φ₀{Wᴀ ,Pᴀ}⟩
まず、波矢印の左側の|Φ₀{Wᴀ,P}⟩ (ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット)は今しがた説明した通り通常の人の意識の状態を式にしたものです。波矢印は自然発現です。全ては起こるべきことが起こるべきこととして、ただ起きているに過ぎないものですから、そこに理由や原因はありません。全てはΦ₀ の中で、ただ起きている現象です。Φ₀ の意図しない具象の顕現と言えるべきものです。自由意思も当然幻想ですから、人の考えや言動の変化に理由や原因を求めても無駄なことです。全ては物語であり、誰が書いたのか知りませんが筋書き通りでしかないことです。いえ、本当は誰が書いたのかは分かっているのですが、あまりにも現象世界の常識からかけ離れ過ぎているので、その様に言うしかないのです。なぜなら、物語は既に決まっていることで映画の中の登場人物でしかない現象世界側の住人である私たちには筋書きを書き換える能力はありませんし、驚くべきことにΦ₀ 自身も現象世界のことを何も知らないことで筋書きを書き換える能力は無いのでそのように言ったまでのことですが、話を進める中でその点にも触れていこうと思います。そして、波矢印の先の右側のファイゼロ場の中のように理由も原因もなく現象世界の物語として宇宙中に広がる赦しと無条件の愛をまざまざと体感することで、元々あった宇宙中に広がる赦しと無条件の愛に気づいたことにより通常の人の認識P の理解も変わりᴀ( サブエイ)が付くことになるのです。それが|Φ₀ {Wᴀ ,Pᴀ}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピー サブエイ・中カッコ閉じ・ケット)という式です。
ここでの注意点は通常の人の認識P はW の中の物語としての気づきを重ねていくことにより変容する可変性があるということです。どういうことかというと真理への気づきを重ねることにより最後には|Φ₀ {Wᴀ,Pø }⟩⟿|Φ₀ {Wᴀ}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピーサブ空集合・中カッコ閉じ・ケット・波矢印・ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・中カッコ閉じ・ケット)というように私という主体性を持った通常の人としての認識は完全に消滅することで独立した個としての役目が終わる式へと移行する可能性があるのです。その結果、右側のようにP はW の中に吸収されてしまい式の中からは消えてしまいます。これが無我です。Pø (ピーサブ空集合)の空集合は文字通り「私」にまつわる一切の要素を持たないことを意味する無相でもあります。仏教で自他不二とか自他一如といわれるものでもあります。だから、それまで周囲から完全に分離独立しているというように感じていた個としての通常の認識が消滅してしまった「主体なき私」は目の前で上映されている映画の中の一登場人物でしかなくなったことでP としての表記の意味もなくなり、残るのは元々あった一人称の視点を通した人生映画が上映され続けているだけということになるのです。要するに、いま目の前で人それぞれの個人名が付いた映画の内容が客観的に見て世間一般的には苦しく最低に見えるようなものであろうと、或いは逆に人から羨まれるものであろうと、人生劇場のストーリー展開がどんなものであろうとも上映されている映画の隅々にまで遍満する赦しと無条件の愛に満ち溢れた、そのままで全てが完ぺきな映画が残るのみということになるのです。ですから映画の内容は変わりません。元から、そのようなストーリーだったことが分かるだけです。目覚めたからといって映画の内容自体が変わるわけではないのです。誰であろうと全ての物語は最初から最後まで決まっています。それが真実です。
それでは、いよいよ話は核心部分へと入っていきます。先ほど私は、私という主体性の消滅によりP はW の中に吸収されてしまい式の中からは消えてしまうと言いました。それが|Φ₀ {Wᴀ}⟩(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・中カッコ閉じ・ケット)です。これは取りも直さず|Φ₀ ;W⟩ (ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット)と言い換えることが出来ます。Φ₀ の説明はもう十分でしょうから省きますが、;(セミコロン)は存在論的な包含関係を区別して示すための区切り、W (ダブリュ)は現象世界のWorld のことで人としての感覚・思考・感情を含めた内外面で起こる出来事すべての人生映画です。;の左側は基底・場・地平を意味し、右側はその中に現れている内容です。この場合、Φ₀ はどこまで行っても変わりません。人生物語にとっては始まりの起点であり終わりの終点ではあるものの、Φ₀ そのものは最初から最後まで完全であり不変であり不動であり永遠です。生まれもしなければ死にもしない永遠の命です。当然、死にもしません。人が、この世に生まれたと思っているのは錯覚で最初から生まれてなどおらず、私たちは元から、それだったのです。肉体の死は、個人名がついた映画の上映が終わるだけに過ぎません。私たちが死と呼んできたものの正体は単純に現象世界が現れていない見え方をしているΦ₀ (ファイゼロ)の在り方だったのです。ですから、少なくとも私にとっては元来死というのは神の祝福であり恵みであると思っています。私は、その様に感じています。死を恐れる必要はどこにもないと思います。現象世界側の観点で言えば死は安らぎである実家への帰郷であると同時に、文字通り新たな人生の始まりのように見えるのですが、Φ₀ の観点で言えば別の人生映画の上映が始まるに過ぎないのです。それと関連して短く輪廻についても言及しておきます。私は輪廻も単なる現象側の物語に過ぎないと思っています。そもそも、一般的に巷で言われているような死んでもあの世において生前の記憶と人格性を持った魂などというものはありません。もちろんΦ₀ をどのように呼ぶかの問題ではありますが、あるのは私が繰り返し言ってきた通りのΦ₀ だけです。そのΦ₀ の中で沢山の人生映画が繰り広げられているので、それで複数の魂が数多(あまた)の転生(てんしょう)を繰り返す輪廻があると言われてきたのではないかと思います。何はともあれ、幽霊も魂も霊界も輪廻も全て現象側の物語に過ぎません。だから、私は幽霊とか霊界とかの話には何の関心も興味も湧きませんし、いくつかある自分の過去の心霊体験もただの現象でありW の中の物語でしかないと思っています。式のほうに話を戻します。ここでの;セミコロンは、Φ₀ という非二元の中にW という二元が現れていること、W はΦ₀ と並列ではなくΦ₀ の表現であること、Φ₀ の自己及び世界の非認知性は変わらずW だけが“現れ”として読まれることを存在論的な関係性として示しています。 , カンマは単なる「並列列挙」であり、 存在論的な上下関係や内包関係を表わしていません。従って;セミコロンは、Φ₀ と W が同じレベルの二つの要素 ではなく、基底のΦ₀ とその現れW という構造を表しています。ここまでは「Φ₀ 場+その中の現象」という二層的な構造を説明してきました。よろしいでしょうか。お分かりいただいているでしょうか。
それでは、ここで少しおさらいをしておきます。このW で表される現象世界の物語というものは最初から起こる出来事が決まっているので変わりません。変化するのはW に吸収される前の通常の人の認識P で世界の捉え方は気づきの度合いによって変化していきます。アガぺーのA は、宇宙中に遍満し全てを赦し無条件に愛する愛ですが、あくまでも現象世界の中でしか感じることができません。よって、赦しと無条件の愛でさえも現象世界の中の現れの一つでしかありませんし、まして宇宙を変えたり支えたりする作用などではないのでハット演算子がついたA も無用ということになります。そういう事ですので、わざわざ愛を普遍的な原理として規定する必要性はありません。愛は、現象世界の外にあって現象世界に影響を与える力などではないからです。あえて強いて言うなら、愛は内側から全体を支える柱や梁、壁のようなものなのかもしれません。建物の内部構造が建物自体を支えるような構造と言えば分かりやすいかもしれません。しかし、その場合であっても現象世界の中の物語の一部であることに変わりがありません。また、だいぶ以前の動画内で宇宙中に広がる赦しと無条件の愛を感じたら自分が見ている世界の中で愛の表現をより多く見かけるようになったという話をしたことがあると思いますが、それさえもW の中の物語でしかありません。ですから、愛の有無を感じたり、その愛をいかに表現するかといったことも人生の物語ですからWの中に含まれます。
それに関連して少しまた横道に逸れますが2026年1月4日のユーチューブの投稿の中で|Φ₀ 〉=Â|Φₖ 〉(ファイゼロケット・イコール・エイハット ・ファイケーケット)が、Â|Φₖ 〉=|Ψᵢ 〉(エイハット、ファイケイケット、イコール、プサイアイケット)というようにエイハットが分化したファイケイケットに作用して個人の意識としてのプサイアイケットが励起すると書いたことに触れておこうと思います。あのように書いたのはストロッメ教授の考えを尊重してなるべく教授の式を壊すことなく合致するように普遍的意識の中で愛が作用するような形にして|Φ₀ 〉が作為的に世界を創造しているような式にしたらどうだろうと、その時はそれが正しいと思い提示したものでした。実際は既に説明してきた通り|Φ₀ 〉が何かを意図して世界を創造することはありませんし、いかなるどのような愛も現象世界の中のただの物語に過ぎません。今回、改めて自分自身の気づきの体験を振り返り純粋意識内における現象世界の立ち現れ方や相互の関係性を整理し式として落とし込むモデリング作業のおかげで曖昧だったところも明確になった点が多々ありました。私が感じた宇宙中に広がる赦しと無条件の愛もその一つで、神の愛でさえも現象世界への外側からの作用ではなく現象内の物語の一部であったことがはっきりしました。2026年1月4日の投稿をご覧になられた方々には、結果として間違った私の考えを伝えてしまい大変申し訳ございませんでした。ここで謝罪と共に訂正をさせていただきます。本当にすいませんでした。
それでは話を式の説明に戻します。更に通常の人の認識P のあり様について言わせてもらえば、気づいている人と気づいていない人の違いは現象レベルW 内の話であって、両者においては、そこに何の違いもありません。Φ₀ 場からすれば同一コップ内での出来事なのでP にサブA があろうがなかろうが同じことです。それは「1× 6=6,6× 1=6,2× 3=6、3× 2=6、1+5=6、5+1=6、2+4=6,4+2=6」といった演算の結果が常に6になるような同値類の計算式が成り立つ同値関係、さらには異なる構成・異なる表現が最終的には同じ不変量に帰着する構造と言っても過言ではありません。不変量の例としては、図形の面積や周囲の長さは図形を変形させても一定の値を保つことを思い浮かべれば分かりやすいと思います。言うなれば、私がここで例として挙げた八つの簡単な計算式は6を不変量とする同値類です。つまり、通常の人としての認識P がどんな認識状態であろうとも、見える世界W がどんな動きをしていようとも最終的には|Φ₀ 〉という不変量に収束するということです。
式として表すなら、次のような三本線のコングルエントで結ばれた関係です。
|Φ₀{Wᴀ,P}⟩≡|Φ₀{Wᴀ,Pᴀ}⟩
(ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピー・中カッコ閉じ・ケット・コングルエント・ファイゼロ・中カッコ・ダブリュサブエイ・カンマ・ピーサブエイ・中カッコ閉じ・ケット)。
イメージとしては閉じられたコップの中に色とりどりのビーズを詰め、それを振って隣り合うビーズの位置関係を変化させるようなものです。その時々で模様は変化してもコップ内のビーズ自体には何らの変化はありませんし、コップの持ち主であるΦ₀ にも当然何らの影響はありません。だから等価であり同値でもあると言えるのです。なぜ、このような関係が生まれるかというと、もっと深い存在レベルでの実在としてはΦ₀ だけしか存在していないからです。つまり次のような式が成り立ちます。
|Φ₀{Wᴀ,P}⟩ =|Φ₀ {Wᴀ,Pᴀ}⟩=|Φ₀ {Wᴀ}⟩=|Φ₀ ;W⟩=|Φ₀ ⟩
|Φ₀{Wᴀ,P}⟩≡|Φ₀{Wᴀ,Pᴀ}⟩≡|Φ₀{Wᴀ}⟩≡|Φ₀;W⟩≡|Φ₀⟩
お分かりいただけるでしょうか。これは論理というよりも、 私の直接体験をそのまま式にしたものです。実際のところ、真理に気づこうが気づくことがなかろうが世界も愛も変わりません。元からそれはあったからです。 変わるのは「それをどう観ているか」だけ。気づきの視点があるかないかだけのことなのです。そして、さらに考えを深めていくと、W もP もᴀ ( サブエイ ) も全てはΦ₀ の表情或いは模様、または波立ちにすぎず実在としてはΦ₀ しかないことになります。故に最終的・究極的には、ありとあらゆるものは Φ₀ に収束してしまいます。なぜなら、Φ₀ しかないからです。ですから本当は、式は記号一つのΦ₀ だけを示しさえすれば事足りてしまうのですが、それでは視聴者側は「はっ? 何それ!」ということになってしまうので、こうやって長々と途中の式も含めて説明しているのです。
それでは、次は「世界をどう観ているか」といった気づきの視点が変化していく過程も式にして終盤に入ろうと思います。この場合の視点の変化とは、通常の人の認識P が気づきによってどのように変わっていくかということです。つまり、次のような式と集合条件です。
|Φ₀{Wᴀ,P𝓧 }⟩ ⟿ |Φ₀{Wᴀ,P𝓨 }⟩
P∈{𝒳,𝒴∈W|𝒳,𝒴 は人の様々な個々の認識状態} (内包的記法)、
𝒳,𝒴 ={A,E,F,I,S,T,N,W,∅,… } (外延的記法)
内包的記法で書かれたほうを説明すると「人の通常の認識P は、現象世界W に属している現在の認識状態の属性を示すサブスクリプト𝒳と𝒴の条件を満たす集合に属する」という言い方になるのではないかと思います。 外延的記法のほうは、具体的にP の状態を決めるサブスクリプト𝒳と𝒴に当てはめることが出来る要素の集合です。なお、P については前述のとおり「場の中に現れた意識の振る舞い方」であることから種々雑多な概念を要素とし集合として扱えると考えました。そして、ここで用いる集合記法は厳密な集合論の定義ではなく、現象世界W の中に現れる人の様々な認識状態の領域を概念的に示すための記号的表現として用いています。従って、 P∈ の表記も厳密に数学的用法に従った数学的帰属関係というより、通常の認識領域の位置づけを示す概念的記号として理解していただきたいと思います。少々おかしなところがあっても、そこは大目に見ていただきたいと思います。ここで、もう一度P の定義を確認しておくとP は作用ではなく純粋意識であるΦ₀ の現象世界内での在り方と言えます。集合条件の内包的記法で示した通り人の様々な認識状態ではあるもののP はΦ₀ の相として表現されます。ここでの𝒳⟿𝒴(サブスクリプトエックス・波矢印・サブスクリプトワイ)は、 認識のあり様の変化とか質の変化のことで「心の変容」「気づきの深化」を意味します。つまり世界をどう観るか、或いはどう捉えるのかといった認識上の一つの振る舞い方の自然変容を表します。そしてサブ𝒳やサブ𝒴には、たとえば次のような概念を当てはめることが出来ます。
A (Agape/ 神の愛)、E (Equanimity/ 平静)、F (Fear ・フィア/ 恐れ)、F (Forgiveness/ 赦し)、I (Individual/ 個人)、S(Sorrow/ 悲しみ)、S (Stillness/ 静寂)、T (Trust/ 信頼)、N (Nothingness/ 無)、N (Non-possession/ 無所有)、N (Non-identity/ 非同一性)、W (Wu wei/ 無為自然)、∅(空集合 / 無相・主体の消滅)
A は神の愛のAgape (アガペー)のことです。E は平静のEquanimity (エクワニミティ )のことです。F は恐れのFear( フィア) や赦しのForgiveness (フォギヴネス)のことです。I は個人を意味するIndividual (インディヴィヂュアル)のことです。S は悲しみのSorrow (ソーロウ)や静寂のStillness (スティルネス)のことです。T は信頼のTrust (トゥラスト)のことです。N は無のNothingness (ナッスィングネス)、無所有のNon-possession (ノンポゼション)、非同一性のNon-identity (ノンアイデンティティ)のことです。W は無為自然の無為、Wu wei (ウーウェイ)のことです。 空集合(∅)は要素を一つも持たない集合のことですが、ここでは無相または主体の消滅といったことを意味します。集合条件の外延的記法で示した中カッコ内は人の様々な個別の認識状態を意味し、A,E,F,I,S,T,N,W,∅, といったアルファベットと記号はその様々ある人の認識の中のごくごく一部を代表例として提示した要素の集合であって、人の認識P は提示された条件によって状態変化をしていることを表わしています。もちろん、その認識の変化は現象世界W の中の物語として現れているに過ぎません。P の条件によってW のほうの物語が変わるわけではありません。
たとえば例を挙げるならば、次のような式です。
|Φ₀{Wᴀ,Pɪ,ꜰ,ꜱ}⟩⟿|Φ₀{Wᴀ,Pɪ,ᴀ,ꜰ}⟩
これを言葉で説明するなら、当初世界Wᴀ に対して個人(Individual) として恐れ(Fear) と悲しみ(Sorrow) を抱いていた認識P が気づきを得ることにより世界Wᴀ には神の愛(Agape) と赦し(Forgiveness) が元からあることを理解できる認識P に変化したという式です。
|Φ₀{Wᴀ,Pɪ,ᴀ,ꜰ}⟩⟿|Φ₀{Wᴀ,Pø ,ɴ,ɴ,ᴡ}⟩⟿|Φ₀{Wᴀ,Pɴ,ꜱ}⟩
そして次の式は、世界には神の愛と赦しが元々あったことを理解できるように変化した個人の認識から、さらに私という主体は完全に消え失せ(∅)、見て感じている様々な感覚の無所有(Non-possession) ・非同一性(Non-identity) によって世界をそのまま受け入れてあるがままに生きられるような認識の無為(Wu wei) に変化し、最後は無の境地(Nothingness) としての静けさ(Stillness) のみになったという意味です。どうでしょうか。私としては、とても分かりやすいシンプルな式になったのではないかと思っています。なお、人によっては気づきの順番が異なる可能性があると思います。必ずしも、この順番で認識P が変化するとは限らないと思います。宇宙中に遍満する赦しと無条件の愛を知るほうが私という主体の完全消滅のあとに来ることもあると思いますし、どの段階で真我の直接体験をするかによっても認識の変化は前後すると思います。真我の直接体験自体については過去動画で何度も言ってきているので、ここでは割愛させていただきます。私の場合は最初の一瞥体験であろうと言える「私は無い」に気づいてから今のように確固とした確信をもって私という主体性の消滅を宣言出来るようになるまでは漸次的進展があったように感じるので、やはり人それぞれで気づきの順序と認識の変化は一様ではないと言っておいたほうがおそらく無難ではないかと感じます。そして、さらに忘れてはいけないことは、これらの一連の変化は、私がいつも言っているように起こるべきことが起こるべきこととして起きているに過ぎないということです。私が何かを起こそうとして意図して起こしているわけではありません。この世界の全てについて言えることですが、意図して何かを起こすことなど不可能です。なぜなら、自由意思などないからです。全てはW の物語として、そうあるべきことが、そうあるべきこととして起きているだけに過ぎないのです。
念のため補足しておくと、先ほど静けさ(Stillness) という言葉を使いましたが、この静けさという言葉を使ったことで勘違いをしてほしくないことがあります。それは、いくら静かと言っても頭の中に何も思考がやってこないという意味ではないからです。全く感情が湧かないということではありません。自分の周囲または自分自身に対して何も大きな出来事が起きなくなったというわけではありません。それらの事はそれまで通りごくごく自然にやってきますし起こります。静かな心境になる以前も静かな心境になった後も変わりなく身体の内外で起きる様々な事象は従来通りで変わりません。やってくる思考や感情も起こる出来事も今まで通りで何一つ変わりません。それでは何が変わったのかというと、数年前までごく自然にそれが自分であると思っていた身体とその身体の内外で起きる様々な事象に必要以上に執着することがなくなり囚われなくなったということです。その理由として挙げられる事といえば、私という主体性の消滅に伴う身体と身体の内外で起きる出来事を自分のものとして受け取っていた認識の変化です。すなわち、自分のものとして受け取らないという認識に変わったのです。なぜなら、受け取る私という主体はどこにもいないからです。私がいないのですから、受け取りようがないのです。私のものとして受け取りようがないが故に、やってきては去っていくだけの思考や感情や出来事だけがあるのです。まるで、ただ点けている状態のテレビ画面のごとく、何の関心もない興味もないCM やドラマのごとく音と色の変化のみが画面上で起きているように流れていくだけのことなのです。身体内外の変化を自分のものとして受け取る私はそこにはいない以上、何が起ころうともそれは私ではないのです。簡単に言えば他人事なのです。他人事だからこそ他人に対していちいち証明や証拠の提示を必要としない無我の境地は揺らぐことはないことから静かなのです。ほんの数年前まで自分のものと思っていた目の前に見えている身体が生きようが死のうがどうでも良いことです。私の本性は純粋意識であり、この現象世界はただの映画であることが分かっているからです。故に、その様に、この身体精神への自己同一化がないことで生死に大した関心も湧かないことから、だから静かでいることが出来るのです。
それでは、ここから佳境に入ろうと思いますが、存在論レベルにおいては|Φ₀ 〉しか存在しません。元から、これしか存在していないからです。これの存在を証明しろと言っても無理というものです。いかなる言語をもってしても説明できないものです。それ自体を説明しようとすればするほど、それから遠くなるものです。ですから、それは古来より説明できない唯一絶対なる一者としての存在として崇拝されてきたわけです。ですから私も、これ以上の説明は不可としか言いようがありません。この世と言われものはΦ₀ 場の中で繰り広げられる夢幻(ゆめまぼろし)でしかありません。そして、その夢幻(ゆめまぼろし)は現象レベル的には|Φ₀;W 〉のように表記でき、ありとあらゆる身体内外で起きる全ての事象はΦ₀ 場の現れと言えます。それを何の気づきも得ていない普通の人の視点レベル的に表記するならば|Φ₀ {W,P }〉という書き方になります。これらの表記の違いについては、どれがいいとか悪いとかの話ではありません。他者は存在していないのですから、普通の人の視点レベルしか持ち合わせていなくても、それさえもΦ₀ の現れなので、それも完ぺきなのです。要するに現象世界がいかにどのように現れていようとも、または現れていなくともΦ₀ はΦ₀ のままなのです。だから普通の人の視点レベルからでも式はこうなります。
|Φ₀{W,P}⟩ =|Φ₀ ⟩ , |Φ₀{W,P}⟩≡|Φ₀⟩
最初に、イコールのある式のほうを説明すると、この式は現象の吸収と統一を意味します。数学上の等号イコールは、左右が等価であることを表していますが、この場合においては簡単に言えばイコールを挟んだ左と右は同じものという意味です。どういう事かというと、通常時においては、私はあると思い込んでいる人の認識P とただの映像でしかない現象世界Wは、普段は別々なものとして見えているはずだと思います。私がいて、世界があって、その中で思考や感情が起きているという構造です。しかし、深く観察していくと、“私” という感覚も、“世界” という体験も、どちらも同じ一つの場Φ₀ から現れていることが分かります。要するに上記の式からは、私と世界を合わせても、結局は Φ₀ という一つの実在に行き着くことが分かるのです。観念論的には私というP も世界というW もΦ₀ の中に吸収されてしまい統一されてしまいます。だから、イコールを挟んだ左も右も同一の実在を指しているので等価ということになるのです。
次は真ん中に三本線のコングルエントが使われている式のほうを説明します。この式は三本線のコングルエントを使うことで同値・不変量・本質の一致を意味します。見え方は違ってもコングルエントを挟んだ左と右で本質的には同じと言うことが出来ることを意味します。先に例示した「1× 6、2× 3、1+5、4+2」のような見た目も構造も違う計算式でも全て6に収束するように、違う形、違う経路、違う構成であっても本質たる不変量は同じ同値類であると言うことが出来るのです。言い換えるならば、「私がいて世界があるように見える状態」も「私がなく世界が幻想にしか感じない状態」も、或いは「気づいている状態」も「気づいていない状態」も全てはΦ₀ という不変量に属する同値類ということになります。要は、見え方や感じ方が違っても本質は同じΦ₀ で変わらない。ここでのコングルエントは、不変性の三本線と捉えることが出来ます。そして、それは取りも直さず永遠で不変なら、そこには時間さえもないということになります。
なんにせよ、気づきが起ころうが起こるまいが世界の見え方が変わろうが変わるまいが人の認識であるP の変化によってW は変わりません。気づきや見え方自体がW の中の物語だからです。だからこそ、最終的には私という主体性の消滅によりP はW に吸収され式の中でのP の役目は終了し、その後は、ただ人生の流れに身を任せるだけになるのです。要は真我の直接体験とか悟りと言われるものは、このΦ₀ に一旦戻って自分は身体でも心でもなかったことに気がつく事でしかなく、更に言わせてもらえば、真の実在である自らの本性に気づいたからといってどうという事はないのです。なぜなら、誰もが人生が終わった後には好むと好まざるとにかかわらず、唯一無二の一者たるΦ₀ に戻ることになるからです。蛇足かもしれませんが、この事から誰であろうとむやみに死を嫌厭し忌避する必要はないのではないかと思います。むしろ、私は死は喜ばしいものであると思います。なにせ本来の自分にただ戻るだけなので死を忌み嫌うなどお門違いもいいところです。死とは、この世のありとあらゆる物語性からの解放です。それに、どうせ死んでも、また別の人生を体験するために別人として生まれ変わってくるので私は安心して死んで行こうと思いますし、同じく、これを観ている視聴者にも安心して死んでいただきたいと思います。ただ、次の人生が、いつの時代の、どんな人生かは生まれてみなければ分かりません。ひょっとすると別の惑星の住人として生まれるかもしれません。こればかりは蓋を開けてみなければ分からないとしか言いようがありません。だから、人の人生の生き死には、びっくり箱と思っていればいいのではないかと思います。開けた後のお楽しみといったところでしょうか。もし、ここで僭越ではありますが何か教訓めいたことを言わせてもらえるのであるならば、次のようなことを言わせてもらおうと思います。私やあなたが来世の人生を少しでも善きものでありたいと願うなら、私やあなたは今の世の中を誰にとっても生きやすい良い世の中になるように日々努力すべきなのではないかと思います。なぜかというと、たとえば障害や病気を抱えている人が苦しむことなく安らかに生きられる社会であるならば、次に自分が生まれ変わってきた時に運悪く障害や病気を抱えて生まれてきても安心していられます。つまり、今のこの世が少しでも良い方向に進むように努力するのは他人のためではなく今を生きる自分自身のためであると同時に自分自身の未来に生まれた場合の来世のためでもあるのです。理由は、自分しか存在していないからです。その様に考えた時、結局自分のためであるならば社会のため人のために少しでも良いことをして世界が明るくなるようにしなければならないと思うのは至極当然ではないかと思います。そうは言っても自由意思はない以上、これを観た人が努力をするもしないも既に決まっていることなので、その人の物語次第ということになると思います。いずれにしても、今から来世の事を心配してもどうしようもありませんが、今この瞬間に自分にできる範囲で社会のため世界のために役立つ事をしていれば良いのではないかと思います。何はともあれ、Φ₀ の観点から言えば、苦も楽も上下貴賤の高低はありません。最悪な悪党としての人生や清廉潔白な聖人の人生であっても、または激烈で過酷な奴隷の人生や王侯貴族の優雅で華麗な人生であっても全て同価値です。何もない平たんな物語よりも山あり谷ありの物語のほうが単純に映画としては面白いというだけのことです。皆さんも映画を観る理由は、そこにあるのではないでしょうか。しかも、それらの色々なジャンルの映画の登場人物を演じるのは観客自身なのです。従って、やらされる役者の立場からすれば大変ですが色々と乗り越えなければならないハードルが高いほうが映画を観る観客側の立場からすれば醍醐味があって面白味があるというものです。だから、艱難辛苦を嫌がるのではなく、それを楽しむくらいの気持ちでいたほうがよいのではないかと思います。そもそも私たちは、この世に現れ出た瞬間から役者であり、その自覚はなくとも映画の中の登場人物でしかありません。当然のごとく、映画の中の登場人物は予め決められた筋書き通りの言動しかすることが出来ません。登場人物が、ある日突然勝手なことをやりだすことなどありえないことです。私が過去動画の中で話してきた真我の直接体験や気づきの体験を様々な修行をすれば出来るようになるのかどうかさえも既に決まっていることです。世界中の科学者たちが宇宙の始まりと始まり以前の状態を解明しようと日夜研究に励んでおられるでしょうが、たとえ解明できたとしても、実はそれは誰かが予め仕組んでいたシナリオ通りだったことをどうして否定出来るのでしょうか。科学の世界で解明できたと思い込んでいる事でさえも真実であると思い込まされているだけのことで本当の真理からは全くかけ離れているのかもしれません。
では、最初のほうで最終系として提示した式に戻ってまとめに入ろうと思います。ここまでご視聴してくださった方であるならば十分に式の意味をご理解していただけているのではないかと思います。難しいことは何も言っていないはずです。私の式は数学や物理学のモデルと言えるような代物では到底ありませんが、様々な気づきによって得られた意識と世界との関係性について、誤解を最小限に抑えながら合理的に納得していただくための手法として擬似数式を使って一応モデル化しています。これにより、下世話な言い方になりますが少しでもこの世とあの世の構造を理解する手掛かりにつながればという思いで式化を試みた次第です。また、非二元の純粋意識を表す記号としてΦ (ファイ)を選んだ理由にしても、皆さんがご承知の通りΦ (ファイ)は、数学・物理学・建築などといった様々な分野で使われていて各分野ごとで色々な意味合いがあります。幾何学なら座標を表す時に使われますし、電磁気学では場の磁束を表します。建築なら直径を表します。簡単に言えばΦ (ファイ)は、ある体系の中で意味付けをされたものを代表する記号といったところでしょうか。それと要素が一つも含まれていない集合の事である空集合を表す記号にも何となく似ています。従って、場そのものや場の現れを表す記号としてはうってつけではないかと思いました。そこに0 (ゼロ)をつけることで、派生以前、区別以前、定義以前、意味付けできない基底というニュアンスを自然に入れることが出来るのではないかと思います。要するにΦ₀ は何かでありながら何かではない、しかし確かに在るという両義性を含むことになるのではないかと思います。
それでは改めてΦ₀ とは何であるのかを申し上げますと、私がこれまでずっと言い続けてきた通り、不動であり不変であり、現象が始まる前であり、現象が始まるところであり終わるところであり、現象が終わった後の永遠の命と言えるところであって、更に何も無いけれど、かといって完全に無であるといったところでもなく、確かに何かが在ると言えるところのものと言えます。そこには一切の概念が存在せず、自分自身のことにさえ気がつくことがなく、二がないところのものなのです。故に、私の式の中ではΦ₀ は常に安定していて変わることがありません。変わるのはW の物語だけです。それを前提に今ご覧になられている①と②の式を簡単に説明していこうと思います。
①|Φ₀ ⟩ ⟿ ∣Φ₀;W⟩
(ファイゼロ・ケット・波矢印・ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット)
②|Φ₀⟩ =|Φ₀;W⟩ , |Φ₀⟩≡|Φ₀;W⟩
(ファイゼロ・ケット・イコール・ ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット・カンマ・ ファイゼロ・ケット・コングルエント・ ファイゼロ・セミコロン・ダブリュ・ケット)
①は、純粋意識|Φ₀ 〉(ファイゼロ・ケット)という、確かにそれはあると言えるものでありながら非二元としか言いようがないものである何かである何かから、 理由も原因もなく自然に現象世界W (ダブリュ)としてありとあらゆる全現象が映画のように立ち現れているように見えるという意味です。②は、本質的にはΦ₀ とW は等価であり同値であり同じ一つの実在の表情(相)の違いでしかないという意味です。
①は現象相の記述です。②は本質相に関しての記述になります。①と②の式を含め、動画内で示してきた式は、現段階におけるこれまでの数々の気づきを体系化して理解しやすいようにモデル化したものになりますが、究極的には前述したように式は極限まで短縮され|Φ₀ ⟩だけが最後に残り言語は不要になってきます。なぜかというと、それを知らない第三者に対して如何なる言語を使おうとも理解させるなど不可能であると同時にΦ₀ の性質上から必然的に沈黙へ向かうことになるからです。
先ほど①と②の式に対して説明しますと言いましたが実際のところこれらの式は、あくまでもそこへ向かうための方向を指し示しているだけに過ぎません。繰り返しになりますが、私が体験で知った純粋意識の何たるかを言語で説明するのは到底無理です。言語を超えたところの何かでしかない何かを、それを全く知らない人に対して理解させるなど出来ません。出来る事と言えば先に真理を知った者の務めとして損得勘定を抜きにして自分が知った体験の内容についてのイメージをなるべく真理に近いものとして思い浮かべることが出来るように色々な手法を使って、その何かである何かを探求途上にいる人に対して道に迷わないように道しるべを残しておいてあげることぐらいです。これらの式は、その道標のようなものです。本来の宗教の存在意義もそのようなものではないかと思います。
では最後に、仏教的見地に立って色即是空・空即是色を私の考えに当てはめてみようと思います。簡潔に言うと、現象世界のW も通常の人としての認識P も宇宙中に広がる赦しと無条件の愛であるA も全て形や色(いろ)としての色(しき)として一括りにまとめることが出来ると思います。Φ₀ は、それら全てが溶け込んでいる純粋意識。これこそが空(くう)です。私は、W もP もA も本質的にはΦ₀ と別々のものではないと思っています。全てはΦ₀ と一体であり同一です。Φ₀ そのものと言っても過言ではありません。W もP もA もまた一つの実在Φ₀ の別の表情(相)であると読み解くことが出来るのではないかと思います。別の仏教的表現を借りるならば「本来無一物」と言えるのではないかと思います。私は、この原稿を書いている最中に、ある一つの体験をありありと、かつ、まざまざと感じました。それは、色(しき)は空(くう)であると同時に空(くう)は色(しき)であるという体感です。その時の私の脳裏には真我の直接体験をした際の真我の記憶が蘇り、空(くう)は色(しき)、色(しき)は空(くう)であることを実感しました。色(しき)と空(くう)は一体で不可分、空(くう)と色(しき)も一体で不可分です。どちらがコインの裏表ということはありません。どちらが主で従ということもありません。どちらが外で内であるかということもありません。どちらも表であり、どちらも主であり、どちらも内と外の両方なのです。だから、悟っていらっしゃったイエス様もヨハネによる福音書10章30節で「わたしと父とは一つです」と言われたのです。現象世界W とΦ₀ を区別するなど無意味です。元々分かれてなどいないのです。もはや、Φ₀ の中にW があるという階層構造または内包構造すら仮の見え方でしかありません。W もP もA も全てはΦ₀ の現れであり、どれだけ多様に見えたとしても実在としてはΦ₀ しかなく、同時に現象世界のありとあらゆる全てがΦ₀ なのです。
分かりやすく式にするならこうなります。
|Φ₀{W,P,A}⟩=|Φ₀⟩ , |Φ₀{W,P,A}⟩≡|Φ₀⟩
これらの事を総合し結論づけるとすると現象世界W はΦ₀ と一体であり不可分であり、主従関係や内外関係、或いは内包関係といった区分け自体が無意味となり現象世界も実在として捉えても何らおかしくないのではないかと思うようになりました。実際、現象世界の非実在性を問うても無意味です。Φ₀ が実在なら、そこに生じている現象世界W も実在ということになるからです。空(くう)も色(しき)も同時に存在していて分ける必要などないのです。故に一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言い方も、また真であると言えます。
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、生きとし生けるものすべてに例外なく仏としての本性が備わっているという意味です。何が言いたいのかというと、繰り返しになりますが通常の人としての認識P はΦ₀ の現れ、現象世界W もΦ₀ の現れであって内容もまたΦ₀ の現れ、それが映し出されるスクリーンもΦ₀ であり、宇宙中に広がる赦しと無条件の愛AもΦ₀ であるのなら、Φ₀ でないものは、この世界には何一つないことになります。故に、どの様な生き物であろうと、どんな悪人であろうと仏としての本性は元から備わっているのも当然ですし、同時にそれに気づけば救われる可能性も出てくるということになるわけです。もちろん、どの様な存在でもΦ₀ なので、その生死にかかわらずΦ₀ であることに変わりがないのですが、生きている間に回心し神仏を前にして恥じない生き方が出来るようになればなお善いというだけに過ぎません。
色即是空・空即是色・一切衆生悉有仏性を式で表すなら、この式になります。
|Φ₀;W⟩ =|Φ₀⟩ , |Φ₀;W⟩≡|Φ₀⟩
まずイコールで示されている左側の式で説明します。現象世界の中では「私」という主体は消えています。しかし「愛」はあります。世界はあります。しかし、それを観ている“誰か”はいません。そこにあるのは、無いとも言えない、あるとも言えない空(くう)のみしかありません。世界W が現れていようがいまいが、実在としては何も増えておらず、何も減っていない。あるのは、いつでもただのΦ₀ だけ。色即是空、それは色(しき)= 空(くう)であり、空即是色は空(くう)=色(しき)のこと。視聴者の中には信じられない人もいるでしょうが色(しき)W は、空(くう)Φ₀ によって意図され派生した何かではありません。なぜなら、空(くう)Φ₀ は色(しき)W について何も知らないからです。だから、色(しき)W が空(くう)Φ₀ の現れでありながら、あってもなくても、空(くう)Φ₀ は変わらない。従って、色(しき)W の顕現の有無にかかわらず、空(くう)Φ₀ は空(くう)Φ₀ のままなのです。左側のイコールの式は空(くう)Φ₀ の存在論的な同一性を意味しています。
では次にコングルエント≡で示された右側の式を説明します。こちらの式は、本質的同一・不変量としての一致を表しています。ここで強調されているのは、見え方がどうであれ、どんな物語が展開されていようが、どれほど多相があろうが、本質としては常に空(くう)Φ₀ であるというものです。これは、一切衆生悉有仏性の「悉有(ことごとく既に持っている)」の部分と共鳴し合っています。どんな認識P であろうとも、どんなカルマであろうとも、無数に分節があろうとも本質(不変量)としては同じであり、そこには仏性としての変わらない空(くう)Φ₀ があります。赦しと無条件の愛A についてもまた同じです。赦しと無条件の愛A は外側から降ってくる神仏(しんぶつ)の力ではなく現象の根底に常に流れている慈悲そのものであり仏性としての空(くう)Φ₀ の現れであると言えますが、空(くう)Φ₀ 自体には何の変化もないのです。この事から、生物に限ったことではありませんが生きとし生ける全てのものは死ねば例外なく根源の空(くう)Φ₀ に戻ることになります。だから、全てのものには仏性があると言えるのです。つまり、「=」は世界があってもなくても実在は変わらない。「≡」はどんな見え方をしていても、本質は常に同じ空(くう) Φ₀ であることに変わりがないということです。これらの側面から、世界W は 空(くう)Φ₀ の現れでありながら、 空(くう)Φ₀ と世界W は本質的に二つではなく一体であり常に一つであるという非二元の真理を仏教の教えは同じように伝えているということになるのではないかと思います。故に、私もあなたも安心して死んでいくことが出来ると言えるのではないかと思います。
では、最終結論に入って終わろうと思います。最終結論とは、イコール=やコングルエント≡の更に奥にあるところのものです。式すら不要になる表現の場所です。Φ₀ そのものが自分自身を語る地点での目にみえる形としての最少言語による表現です。これは私がこれまで積み上げてきた全ての式体系の終点であり、同時に出発点でもあります。なぜ、そこでは式が不要になるのか、その地点では何が語られるのか、どんな表現が可能なのかを慎重に注意深く手繰っていこうと思います。
私は過去一貫して次のようなことを言ってきました。人それぞれの見え方や感じ方などの認識が違っても、また体験する物語が違っても本質は常に純粋意識Φ₀ であると話してきました。しかし、これはまだ「見え方」と「本質」を区別している段階です。従って、イコール=やコングルエント≡の更に奥にあるところでは、その区別すら消えることになります。どういう事かというと、現象世界における見え方という概念も本質という概念も違いという概念も同じという概念もすべて Φ₀ 自体の相の変化として吸収されてしまうことから、そこでは比較したり対応させたりして等価や同値や同一かどうかを判断する必要がなくなります。もう一度、私の最終系の式を見ていただきたいと思います。その式は次のようなものでした。
①|Φ₀ ⟩ ⟿ ∣Φ₀;W⟩
②|Φ₀ ⟩=|Φ₀ ;W⟩ , |Φ₀⟩≡|Φ₀;W⟩
①と②のこれらの式にはまだ「左側」と「右側」がある構造で、しかも上下二段になっています。記号が不要になる地点とは、左も右もない、上も下もない、何らの比較もない、一切の関係もない、二項構造・二層構造が完全に溶けてしまっている地点です。そこは、式を書く必要がない、式を書くことが出来ない、式が意味を持たない地点です。なぜならば、Φ₀ は既に「それ自身」で完結しているからです。よって、究極の究極、視覚化できる言語での最終表現は次のようになります。
Φ₀
以上です。
これ以上は書けません。なぜなら、書いた瞬間に分節が生まれるから。だから、これ以外には何もない遡ることもできない全一を表すΦ₀ のみになるのです。Φ₀ は分節以前の基底であり、分節を超えた不変量であり、分節を生み出す源であり、なおかつ分節を吸収し統一する場でもあり、分節が消えたあとに残る唯一のものだからです。従って、Φ₀ はΦ₀ 以外の何ものでも表せません。空(くう) は空(くう)でしかないのです。 すべての式、すべての概念、すべての区別、すべての物語、すべての認識、すべての気づき、すべての世界、すべての私という感覚は、ただΦ₀ の中で起こっている模様にすぎません。そして、その模様があろうがなかろうが、Φ₀ はΦ₀ のままなのです。その為、ケットもいりません。セミコロンもいりません。中括弧もいりません。W もP もA もいりません。= も ≡(コングルエント) もいりません。なぜなら、Φ₀ は関係ではなく、唯一そのものだからです。それ故に究極の究極、視認できる言語での最終表現では、式を書く必要がなくなることで残るただ一つのΦ₀ ということになるのです。お分かりいただけたでしょうか。これを視聴しているあなたは今、主体が消え、二者は一者となって対立も無くなり、世界は吸収され融合し合い一つになった、ただΦ₀ だけがある地点にいます。非二元の伝統が「言葉にならない」と言ってきた地点です。ここには過去も現在も未来もありません。時間的感覚を感じることはありません。途切れることのない気づきしかありません。この地点では、あなたしかいません。あなた以外の他者はどこにもいません。そもそも元から他者は存在しないのです。他者がいない以上、あなたが求めていた答えは既にあなたの中にあったのです。これを観ているあなたにとっての動画の意義は、忘れていたに過ぎないあなたが既に知っていた答えをあなた自身が思い出すためにあったのです。世界は、今ここに在るものが全てであり他にはありません。世界の全ては、今ここにしかないのです。世界とは、あなたが今、見て感じているもの全てであり、それ以外には存在していません。あなたが世界です。他者とはあなたです。世界とはあなたです。宇宙とはあなたです。神仏(かみほとけ)とはあなたです。空(くう)とはあなたです。そして、この世界でのあなたと言える主体は、どこにもありません。しいて言うなら全てです。なぜなら、本当のあなた自身はΦ₀ だからです。そのΦ₀ の現れが世界だからです。だから、世界全てがあなたなのです。創造主とは、あなたです。今あなたが見ている世界が、これから地獄のような世界になり破滅に向かうのか、それとも全ての生き物たちが互いに愛し合い愛にあふれた世界に向かうのかはあなたの双肩にかかっています。なぜなら、あなたが今見ている世界を創造したのはあなた自身だからです。あなたが創り主だからです。ですから、全てはあなた次第ということになります。そして、ここが最大の矛盾でもあります。自由意思がないのに世界の行く末は一人ひとりの「私」次第であり、Φ₀ は現象世界のことを何も知らないにもかかわらず創造主ということです。現象世界の常識では考えられないことですが、本当に不可思議としか言いようがありません。故に、起こるべきことが起こるべきこととして、ただ起こっているとしか言いようがないのですし、全ての現象は相互の関係性の中で成立しているとしか申し上げようがないのです。ここまでくれば、これ以上の説明は最早必要ないのではないでしょうか。世界は一なる不可思議なるもので成り立っているとしか言えません。
よって、私はこれ以上話すことはもうありません。というよりも話せません。なぜなら、何かを話そうとした瞬間に分離が始まるからです。すべての記号を含めた言語と概念は現象側の道具でしかないからです。その為、究極の究極、さらにその先にある言語や概念を超えたところのものである絶対的極限を示すことが可能な表現がもしあるとするならば、それは永遠の沈黙です。言語で表せるところまで表し、最後はその言語を手放すのです。 Φ₀ 、純粋意識、非二元、現象世界。これらの言葉もすべて説明のための仮の足場にすぎませんでした。しかしながら、Φ₀ 自体には視覚・聴覚を感じる身体が無いことで音声言語や身体言語を元から持ち合わせていません。よって、この沈黙でさえも現象世界の中の出来事であり、非言語コミュニケーションの範疇である以上、物語の一部でしかありません。全ては起こるべきことが起こるべきこととして、ただ起きているに過ぎないからです。悟ったからといって、真理を知ったからといって何がどうなるわけではありません。なら、私やあなたはどうすれば良いのか。それについては、自分の身に起きる出来事と自分を取り巻く周囲の世界の出来事は何から何まで決まっていることを理解しつつも、多少なりとも他人や社会のことを考え世の中が良い方向に進むように今自分が出来る範囲のことをしながら、あるがままに、感じたままに、思うがままに寿命が尽きるその日まで精一杯悔いがないように人生を生きればいいのではないかと思います。それが私の考えであり答えです。
では、今回の動画の締めとして最後まで視聴してくださったあなたにあともう少し伝えたいことを話して終わろうと思います。それは何かというと、この動画の中で私が言ったことを信じる必要はないということです。真理は信じるものではないからです。かといって頭から否定するのも違うようにも思います。ここで私が言ったことの真偽は、あなた自身の真理探究の過程において自ら気づきの実体験をすることによりおのずと分かってくるのではないかと思います。そして、真理探究においては、あなたが特定の宗教の教義を盲信するだけの単なる信者に過ぎないのか、それとも教条主義に陥ることなく真理を本当に心から希求する探求者であろうとするのか、その姿勢の違いによっても見え方や捉え方、体験する内容までも天と地ほどの開きが出てくるのではないかと思います。真理探究には定型の型はありません。通勤途上でも、仕事中でも、雑踏の中でも、家族と過ごしている最中でも、日常生活の中で余計なことを何も考えることなく、ただただ目の前のことだけに集中し自己を冷静に見つめ客観視し続けることは出来るはずです。悟りのために出家や誰もいない山野での瞑想を一人続ける必要はありません。無論、それを否定はしませんし、したい人はすればいいと思いますが、絶対条件のように考えるのも執着であり囚われでしかありません。Φ₀ に型などないからです。こうであらねばならないという固定観念を捨てて何ものにも囚われない純粋な気持ちで探求に取り組んでいけば、もし、あなたが悟りを得られる体験が今世の中に設定されているのであれば、そのうち私が言っていることも実体験として理解できるようになるのではないかと思います。そうである事を切に願っています。今回は随分と動画が長尺になってしまいましたが、十分すぎるほどにご理解いただけたのではないかと思います。
それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。