
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で48回目の動画になります。今回の動画は前回と同じく私が読んだ本のご紹介になります。これから取り上げる本については前回でご紹介したマイスター・エックハルトの「神の慰めの書」同様に読まないよりは読んだほうが絶対によく、読んだ方にとっては必ず何かしらの今後の為になるのではないかと言えるほどの本ではないかと思います。では、ご紹介します。その本は「あなた自身を知りなさい 存在一性論の解説」というものでナチュラルスピリットから出ています。値段は新品だと税込み1,430円です。著者については、この本においてはイブン・アラビーとアウハド・アルディン・バルヤニという人物の二人の名前が併記される形になっていて、バルヤニに関しては姓のバルヤニとだけ書かれています。

まずイブン・アラビーという人物について簡単に説明します。ウィキペディアには次のように書かれています。今のスペインやポルトガルがあるイベリア半島の南部に1023年から1091年まで存在していたイスラム教国のセビリア王国というのがあって、そのセビリア王国が支配していたアンダルシアのムルシアというところでアラブ系の名門の家の子としてヒジュラ歴560年ラマダーン月の8日に生まれました。西暦になおすと1165年7月26日に生まれたとのことです。ちなみにヒジュラ歴とはイスラム歴のことでイスラム教徒が使用する太陰暦のことです。その起点は、預言者ムハンマドがメッカからメディナへ移住した西暦622年とされています。話を戻します。イブン・アラビーは青年期頃から多くのイスラム教神秘主義のスーフィー行者に師事し、また三人の妻を娶り晩年は現在のシリアのダマスカスで過ごしヒジュラ歴638年のラビー・アル=アーヒル月の21日に没したとのことです。西暦だと1240年11月16日に没したとのことです。彼の肩書は多様でスーフィー派の神秘主義者、哲学者、詩人、旅行者、そしてムスリム学者というものです。スーフィーとは修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一を目指す人びとのことです。ムスリムとは一般的には非イスラム圏では男性・女性・子どもを問わずイスラム教徒全般を指しますが、イスラム圏では女性信者は「ムスリマ (Muslima)」と呼ばれるそうです。話を戻します。イブン・アラビーは、存在一性論・完全人間論を唱えてイスラーム神秘主義(スーフィズム)の確立に寄与し、もっとも重要かつ高度な思想家として後世一部のキリスト教思想家と全てのイスラーム教徒に大きな影響を与えた人物と評されているようです。
次はアウハド・アルディン・バルヤニです。バルヤニについてもウィキペディアで記載がないか調べてみました。するとバルヤニについてはウィキペデアの日本語版はないようで、次に検索した英語版においても、もしかしたら見落としがあったのかもしれませんが、なぜか甥にあたる神秘主義者で詩人のアミン・アルディーン・バルヤニの欄はあるもののアウハド・アルディン・バルヤニについての欄は見つけることはできませんでした。沢山の言語で取り上げられているイブン・アラビーと違って、どうやらバルヤニは、かなりマイナーな人物のようでフランス語版やペルシャ語版・アラビア語版で検索してようやく出てくる人物でした。あと、文部科学省委託事業によって構築されたイブン・アラビー学派文献目録データベース (CDSIA)の中に数行ほどのバルヤニの項目があるのを見つけました。それらの情報を総合すると彼はヒジュラ歴の613年、西暦1216年に現在のイラン・イスラム共和国内にあるファールス州カゼローン郡のバリャン村またはバリャン村からおおよそ東へ直線距離で約83kmほど離れている同じファールス州内のシーラーズという町で生まれたとのことです。1216年当時そこはモンゴル帝国に滅ぼされる1231年まで、1077年から154年間続いたホラズムシャー帝国の領域内でした。ウィキペディアのペルシア語版ではバルヤニが亡くなったのはヒジュラ歴683年、西暦で言えば1284年とのことですが本には1287年と書かれています。ウィキペディアのアラビア語版だと没年がヒジュラ歴686年、西暦1288年と書かれていたりしますので没年がはっきりしません。なお、太陰暦と太陽暦の違いからヒジュラ歴の年齢と西暦の年齢は合致しません。1216年の4月27日からヒジュラ歴の613年は始まり、ヒジュラ歴の613年は1217年4月16日で終わります。そして、ペルシア語版で亡くなった年とされるヒジュラ歴の683年は1285年の3月15日で終わります。アラビア語版で没年とされるヒジュラ歴の686年は1288年の2月12日で終わります。つまり西暦で計算すると68歳から71歳の間で亡くなったということなのだろうと思います。数え年だと70歳から73歳の間で亡くなったことになります。どんな人物だっかというと、彼についての情報は限定的で多くのことが知られていないのですが極わずかな情報をまとめると次のようになります。スーフィーの家系の生まれで彼自身もスーフィーであり詩人でありバルヤニ教団の創設者とのことです。子供も二人はいたようです。スーフィーとしてのキャリアとしては何歳くらいで始めたのかは分かりませんが11年間一人で山で過ごしたあと、禁欲主義者と共に修行し、その後、彼はバリャン村で弟子を取り教え始めたそうです。その弟子の中で有名なのが甥のアミン・アルディーン・バリヤニとのことでした。アウハド・アルディン・バルヤニの著作としては統一論とも訳される絶対的一体性に関する書簡が知られているとのことですが、とにかくこの人物に関しては情報量が少ないといった印象です。
ところで、バルヤニの正確な生まれた日付は分からないものの生まれた年は分かることから、この二人の年齢差は50歳か51歳ということになります。イブン・アラビーは晩年シリアのダマスカスに住み、アウハド・アルディン・バルヤニが23歳か24歳の時に75歳で亡くなっています。お墓もダマスカスにあります。二人の接点はウィキペディアなどの参考文献を読む限りではなさそうです。実際問題として、たとえばイランのシーラーズとシリアのダマスカスとでは直線距離で1603kmも離れていますし、年齢的にみればイブン・アラビーが70代の時にはバルヤニは全くの無名で多分スーフィーとしてはただの駆け出しに過ぎなかったのではないかと思われます。そんな二人が顔見知りだったとは考えられません。それなのに、なぜ本の表紙に二人の名前が併記されているかというと当初この本の著者はイブン・アラビーであると考えられていたそうです。しかし、最新の研究によって本当の著者はアウハド・アルディン・バルヤニであったことが分かってきたそうです。そのため、著者の名前としてアウハド・アルディン・バルヤニの名前だけを載せると、これまでイブンアラビーの著作であると思いこんでいた人たちには別人による別の著作物であるという誤解を生じさせてしまう虞があるため、それを避けるために両者の名前の併記をすることにしたということが69ページに書かれています。察するところバルヤニに関する情報量の少なさから、著者に関する誤解が生じたのかもしれません。
ここまで二人の人物について説明をしてきましたが、正直なはなし私にとっては誰が書いたかなどということにはあまり関心がありません。問題は本の中身です。何が書かれているかが問われなければならないと思います。そこで私が、これを読んで感じたことは、これを書いた人は間違いなく悟っているということです。真我の直接体験をかなりの高い確率でしているだろうと考えられます。しかしながら、ほとんどの人にとっては何を言っているのか、何が言いたいのか全然分からないと感じるのではないかと思います。禅の公案のようでもありますし、謎かけ問答のようでもあります。迷路に迷いこんだように考えれば考えるほど理解が困難になるかもしれません。そして、それは実は私にとっても同様です。なぜなら真理の理解は人それぞれであり、真理の説明の仕方も様々であって、その表現は百人百様です。まして育った環境や文化や言語などの時代や背景が異なる世界で生きていて、加えて表現能力などの個人の力量が違えば全く同じものを見て感じたものであっても、それを他者に伝えるために表現された物は自分が体験したものとは違う異質なものに映る可能性があります。当然、発信する側の能力だけではなく、受け取る側の能力も問われることになります。また、この本に関しては、どうやら原本は見つかっていないようなので長い年月をかけて写本され続けた時の間違いや翻訳時のニュアンスの違いも考慮に入れなければいけないと思います。それ故に、ここに書かれている全てについて原本通りに私が理解できているのかというとそれは違うだろうとしか言いようがありません。しかしながら、あらかた私は理解が出来ているのではないかと思います。多分、この著者が観たものと私が観たものは同じであると感じます。私がこれまで語ってきた真理と同じ真理を語っていると思います。生まれた地域と時代、育った環境は全く違うでしょうが、それにもかかわらず私と彼は同じ真理を垣間見たと思います。従って、彼が語る真理は本物です。是非、この「あなた自身を知りなさい 存在一性論の解説」という本を買って読んでいただきたいと思います。

それでは、ようやく本の中身のほうに移ろうと思いますが、この本自体はとても薄いです。8mmほどしかありません。「あなた自身を知りなさい」というタイトルがつけられた文章そのものも短く28ページ分しかありません。それ以外はイブン・アラビーとアウハド・アルディン・バルヤニの生い立ちや用語解説、翻訳までのいきさつなどで占められています。内容を理解できるかどうかは別として誰でも短時間で読み終えることが出来ると思います。翻訳者である福田カレンさんの日本語訳も実に平易でとても読みやすいです。しかしながら、文章自体はやさしくても書かれている内容はとても甚深であるが故に難解です。何らの気づきのない人にとっては理解が困難どころか不能であろうと思います。おそらく、かなりの気づきを得ている人でもストンと腑に落ちる理解は難しいのではないかと思います。先ほど禅の公案のようでもあると言いましたが、それは文章の出だしから始まります。
24ページです。
「神のワンネス(単一性)をおいて他に、神より前というものはなく、あるとすればそれは神だけである。神のシングルネス(単独性)をおいて他に、神の後というものはなく、あるとすればそれは神だけである。神とはそうした存在で、神と共にあるものはなく、神の前や後、上や下、近くや遠く、どのようにして、どこで、いつということもなく、時間や瞬間も期間も、顕現した存在も場所もない。『これまで常にそうであったように、神とは今である』。神はワンネスのない一つであり、シングルネスのない単独である。」
どうでしょうか。最初から最後までこんな感じです。しょっぱなからこれでは頭が混乱するのではないかと思います。これを聞いて正直なんのこっちゃと思われた方もいるのではないでしょうか。しかしながら、真我の直接体験をした私からすれば、ここに書かれている事は不思議な事でも何でもなく神の性質そのままのことを説明しているに過ぎません。神というものは何の事はない、はじめなく終わりなく際限なく全てに遍満し、こことか、あそことかというように限定されるものではなく、見えるもの見えないもの全てが神であるからには、神ではない別の存在が神と共にあることなどないと言っているのです。ぶっちゃけた話、私もあなたも、それ以外のものも例外なく神だと言っているのです。全てが神である以上、神から何かが現れ出るなどということもないのです。神には過去も現在も未来もない以上、あるのは今ここしかないのです。そもそも元からそれしかないのです。わざわざ単一性とか単独性といったことを言う必要もないのです。なぜなら、それだけしかないからです。とどのつまり、神だけしか存在していないと言っているのです。お分かりいただけるでしょうか。イブン・アラビー或いはアウハド・アルディン・バルヤニのどちらが書いたにせよ、著者は文章の書き出しから全力疾走をしている感じです。多分、著者は単刀直入な物言いをする直截的な性格だったのではないかと思われますが、真実というものは虚飾を嫌がります。聞き手の理解力に応じて方便としてたとえ話をする程度なら良いかもしれませんが、ごてごてと言葉を並べて飾り立てるなど邪道です。真理には簡潔な表現が一番です。しかし、無明な人はその簡潔に書かれた真理でさえも訳が分からないものとして受け取るのです。
著者は、24ページの書き出しから神の真理そのままを何らの飾りつけもせずにありのままの真実を書いていることは明白です。しかしながら、著者は、それでも分からず屋の無明な者にでも理解できるようにと、やさしくヒントを与えようとしています。
25ページです。
「この事を理解するためには、受肉を信じる者のような思い違いをしてはならない。神は何かの中にあるのではないし、神の中に何かがあるのでもない。何かが神の中に入って行くことも、出て来ることもない。このようにして神を知るべきであり、理論的な知識、理屈、理解、推測に基づいて、或いは感覚や外的な目、内的な視点、認識によって神を知ってはならない。神以外に神を見る者はなく、神以外に神に到達する者はなく、神以外に神を知る者はいない。神は神を通じて神を知り、神は神を通じて神を見る。神だけが神を見る。」
もう、これほどまでに真理を分かりやすく教えてくれている人は他にはいないのではないでしょうか。先ほど、私にとっては誰が書いたかなどということにはあまり関心がありませんとは言ったものの、もし、タイムマシンがあったなら、既に真我の直接体験をした私でも時代を遡って弟子の一人になりたいくらいです。その人柄に直に触れてみたいなと思います。この文章に関しては、私が改めて何かを付け足す必要がないと思われます。そこに書かれているように真理は頭で理解するものではありません。体得するものです。しかし、実際は神との合一においては体はもはや消滅してしまっているので、そこに在るのは純粋意識の空(くう)だけです。なら空(くう)とは一体何なのかということになりますが、それを言葉で説明するのは不可能です。言語を超えたものを言語で説明するなど出来ません。やはり、体得するしかないと思います。そうは言いつつも何とか言葉で説明をしてみようと思います。もしかしたら、これを観ている視聴者の中にも空(くう)になった経験を持つ人がいるかもしれませんが、私が空(くう)であった時は身体や心というものがなくなって、加えて一切の概念もないことで自らを空(くう)と認識することが出来ませんでした。なぜでしょうか。身体や心、一切の概念がないということは何も知覚することが出来ないということだからです。当然、何かを考えることなどは出来ませんし自らを顧みることもできません。そこには、気づいていることに気づいている気づきしかありません。簡単に言えば、純粋な存在としての意識しかないのです。従って、空(くう)には過去も現在も未来もないことになります。今しかないことになります。永遠の今しかないのです。空(くう)とは永遠の今なのです。だから24ページ、29ぺージ、37ページにあるように「神とは今である。」と書かれているのです。そして、それなら次の疑問として、いつ自分が空(くう)であったことを認識するのかという話になりますが、それは身体と心がある現象世界に戻ってきてはじめて、一時的にせよ現象世界という厚い雲が取り払われ意識の最深部の存在に気づいたことで、その対比として空(くう)としての自分が空(くう)であったことを知ることになるのです。それが、自らを空(くう)であることを知り体得するということなのです。つまり、空(くう)が空(くう)を知るには現象世界が必要なのです。
それでは次に本の中で著者が神と言っているものに対する理解を深めるために、今言った、この空(くう)に神という言葉を当てはめて途中を少し端折りながら繰り返してみようと思います。では繰り返します。しかしながら、私が神であった時は身体や心というものがなく、加えて一切の概念がないことで自らを神と認識することが出来ませんでした。神には過去も現在も未来もありません。今しかないのです。永遠の今しかないのです。神とは永遠の今なのです。現象世界に戻ってきてはじめて、一時的にせよ現象世界という厚い雲が取り払われ意識の最深部の存在に気づいたことで、その対比として神としての自分が神であったことを知るのです。それが、自らを神であることを知り体得するということなのです。つまり、神が神を知るには現象世界が必要なのです。
どうでしょうか。神と空(くう)の関連性を少しはお分かりになられたでしょうか。この事から仏教は神を説かないという見方も、また逆の一神教が多神教を否定する考えにしても悟りという観点からみると私はどちらも不正確であると思っています。それらを調和させる見方こそが真の理解へと向かう見方であり正しい見方ではないかと思います。なぜなら、全ては神の現われであり、かつ全ては空(くう)であるからです。これを聞いて神と空(くう)は絶対に違うものと主張する人もいるでしょうが、それは所詮、それまで蓄えてきた既成の知識から頭で考えられたものでしかありません。私の話を否定する前に、まずあなた自身が神や空(くう)に達する努力をしていただきたいと思います。
次に読み上げる文章は正にその様な努力を日々し続けている人々に向けた神からの福音ではないかと思います。十戒を記した石板が納められた契約の箱が開かれたがごとく今まで隠されていた真実は白日のものとなり真理は特定の誰かの隠匿物としてではなく万人の共有物になるのです。では、少し長いですがお聞きください。
26ページから27ページです。
「であるから、神が祝福し平安を与える預言者はこう言った。『自己を知る者は主を知る者である』。こうも言った。『主を通じて主を知る』。つまり預言者が言いたいのは、あなたはあなたではなく神であり、あなたという存在はいないということだ。神があなたの中に入るとか、あなたが神の中に入るという意味ではない。神があなたの中から出たり、あなたが神の中から出るという意味でもない。それは、あなたが存在し、そうした属性によって条件付けられているという意味ではない。意味するのは、あなたを通じてにせよ、神を通じてにせよ、神の内にせよ、神と共にせよ、あなたは決して存在しなかったし、これからも存在しないということである。あなたは存在しなくなったのでも、存在するのでもない。あなたは神で、神はあなただ。いかなる不完全さもなくそうである。もし、あなたが己の存在をこのようにして知っているなら、あなたは神を知っている。そうでないなら、あなたは神を知らない。」
これを聞いてどのように思われたでしょうか。私は、この内容は素晴らしい福音であると感じました。というのも、これを聞いた視聴者は真理を知ったからです。悟りを得た一部の神秘主義者や修行者だけが知っていた秘密はもはや秘密でもなんでもなくなりました。これまであなたにとって秘匿されていた真理は今明かされました。800年ほど前の中東で書かれた本の中に既に真理は解き明かされていたのです。それをあなたは今聞き知りました。このメッセージは、神であるあなたが自分自身に対して本当の自分についての知識を思いださせるための知らせだったのです。
この本の中で語られていることを仏教的に簡単に言うならば、色即是空、空即是色、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)ということになるのではないかと思います。ちなみに一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)というのは、いきとし生けるものすべてには例外なく仏としての本性が備わっているという意味です。私は空(くう)とは神のことであり、神とは空(くう)のことであると理解しています。ただ、時代と地域の違いによって、その表現が違っているだけなのではないかと感じます。もし、この考えをあなたが頑なに否定するというのなら、何度でも言いますが、まず、あなた自身が実際に神や空(くう)に達してから反論をしていただきたいと思います。既に本の中で指摘されているように、頭で理解されるものには何の価値もないからです。あなた自身が神や空(くう)に達していなければ同じ土俵で議論することなど出来ません。しかしながら、あなたが神や空(くう)に達した時、あなたの中にあった無知は消えることから私への反論も必然的に消えることになります。それは間違いありません。
45ページから46ページにかけて次のように書かれています。
「このようなスピリチュアルの段階に到達した者の存在は、内的にも外的にももはや彼ら自身の存在ではなく、まさに神の存在である。彼らの言葉は神の言葉であり、彼らの行動は神の行動であり、彼らの神への知識の主張は、神が神自身を通じて神自身について持っている知識への主張である。しかし、その人物が主張しているかのように聞いたり、その人物が行動しているかのように見るのは、あなたが彼らを神ではないと見ているからで、それはあなたが自分の本当の存在を知らないために、自分自身を神以外のものと見ているのと同じことだ。」
お分かりいただけるでしょうか。つまりは、私が動画の中で言っていることを理解できない理由は、あなたがあなた自身の真実を知らないからに他なりません。まずは、私の言葉を否定する前に自分の至らなさに目を向けるべきではないでしょうか。
ところで、私は過去動画の中で私自身が神であるとは言ってこなかったのではないかと思います。それはなぜかというと、頭のいかれた教祖気取りの奴と思われたくなかったからです。ですから、そのあたりの表現は慎重になり自分が神だという代わりに、この動画を観ている人に向けてあなたが神であると言ってきました。従って、実際のところ私の本質は神なのです。しかしながら、それは取りも直さず、私が神であるのなら、私以外の全ての人や物も同時に神以外のものであろうはずがないということになります。単純に私とあなたの違いは自分が神である自覚が有るか無いかの違いでしかないのです。よって、一つの神の現われとしてみるのなら多神教もまた真なのです。なぜなら全てが一つの神だからです。もしかしたら、これを聞いた人の中には、自分は神であるはずがない、自分が神だなんて、そんな身の程もわきまえずに畏れ多いことを言う人は誇大妄想に取り憑かれた人か尊大な人間に違いないと思う人もいると思います。ですが、その様に思う人は神が何であるかを知らない証拠です。神を知らないが故に神という独立した存在がいると思いこんでいるだけなのです。もし、あなたが我々森羅万象から完全に独立し切り離された別個の神という存在がいると思っているのであるならば、それこそ本書の中で指摘されている多神教徒であると言わざるを得ません。
42ページです。
「存在を消滅し、消滅することが消滅するのであるから、絶滅であり全滅だ。そのような表現、つまり神以外に消滅するものがあることを認めるのは、紛れもなく多神教徒である。」
どうでしょうか。ご理解いただけるでしょうか。これはつまり、神から完全に独立した神ではない何かを認めるか認めないかの問題です。或いは空(くう)から完全に独立した空(くう)ではない何かを認めるか認めないかの問題です。これを理解するには相対し合うもの同士はそれぞれ別個の存在といった分離の意識から離れなければなりません。
43ページから44ページにかけて書かれている詩の一部にこうあります。
「あなたの融合は分離であり、あなたの分離は融合、あなたの距離は近接であり、それにより、あなたは適者となる。」
最後のほうのまとめのところでも似た話をしますが、一見すると対立し合っているように見えるもの同士でも実は相互に相手を必要とし合っていることに気づかなければならないということなのです。対極は一極、二極は一極、棒の両端は棒がなければ端は生じません。つまり、この世もあの世も、天国も地獄も、天使も悪魔も、いかなる例外もなくどちらも一なるものとして包含されることを理解するということです。この43ページから44ページにかけて書かれている詩の一節に言及するならば、あなたは肉体という幻想の感覚に同一化しているために自分は心と体を持った人間であると勘違いしているだけなのです。あなたは心と体の感覚に「融合」しているために神から「分離」した神ではない別の存在と思いこんでいるだけなのです。だから自分のものと思い込んでいる肉体という幻想の感覚から「分離」することで元来一度も離れたことのない神である自分に立ち戻る必要があるのです。それこそがスピリチュアル界隈で随分前から言われている統合であり、ここに書かれている「分離は融合」という意味なのです。要するに、別の言い方をするならば分離も分節も分割も分裂も全ては幻想であり、同じく統合も統一も合一も融合も幻想でしかないということです。そんなものは元からないということです。はじめから分かれたことは一度もないからです。どれもこれも神だからです。全ては、ただの分離の物語であり融合の物語だからです。いつの時代でも神は常に探究される対象でしたが、それを探究する探究者自身も実は神だったに過ぎません。神は探究を通じて神自身を知るのです。ですから、この様な体得があるからこそ私は過去動画の中で何度も繰り返し動画を観ている視聴者に対して「あなたが神である」と言えてきたのです。そして再度繰り返し、それを言おうと思います。この世のありとあらゆるものは神の現われであり、これを観ているあなたは紛れもなく神です。あなたは神以外の何物でもないのです。この様に声高らかに宣言しようと思います。
「لا إله إلا الله(ラー・イラーハ・イッラ・アッラー)」発音が完璧に正しいかどうかは分かりませんが、今言ったのはアラビア語です。文字は右から読みます。アッラーの他に神はいないという意味です。アッラーは神のことなので、結局、直訳すると神のほかに神はいないという意味になります。全てが神であるという考えに立つならば、正しく、その通りではないかと思います。この「神のほかに神はいない」といった文章に似た構造の文章や同じ意味の文章は、たとえば旧約聖書の申命記の4章35節や39節に「主こそ神であり、ほかに神はいない」とありますし、イザヤ書45章の複数個所に「わたしが主、ほかにはいない。」とか「わたしは神、ほかにはいない」というように書かれています。新約聖書においてもテモテヘの第一の手紙2章5節で「神は唯一であり」と書かれていますし、コリント人への第一の手紙8章の4節には「唯一の神以外にいかなる神もいない」と書かれています。興味深いのはその6節に「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。」とはっきりと書かれています。しかしながら、全てが神だからといって神が複数存在すると思うのは間違いです。神は、あくまでも単数です。一つの意識しかないからです。その一つの意識が同時に複数の人生、若しくは一つずつの人生を経験しているのではないかと思います。ただ現時点では一つの意識が80億人分以上の複数の人生を同時に経験している確信を得ていないので、今のところは一つの意識が人間の生涯又はその他の生涯を一つ一つ経験しているのであろうとしか言えません。むしろ、その見方が正解なのかもしれません。故に当然ながら次のような事も成り立ちます。あなたが今見ている世界はあなたそのものです。そこには、あなた以外の他者は存在しません。神である一つの意識が個々の人生を通して世界を見ているのです。世界とはあなたです。あなたが世界なのです。あなたが今観ている個々に完全に独立した世界の創造主は、あなた自身です。あなたが神なのです。
私が今言ったことは31ページから32ページを読めば分かります。
「この秘密が明かされる時、あなたは自分が神以外のものでないことを知り、自己が探究の対象であることを知る。あなたは自己を取り除く必要はない。すでに述べたように、あなたが存在をやめることはないし、今後そうなることもない。時間も瞬間もないのだから。あなたは神の性質をあなたの性質として見、あなたの外面を神の外面として見、あなたの内面を神の内面として見、あなたの始まりを神の始まりとして、あなたの最後を神の最後として見る。いかなる疑念も不確実さもなくして。あなたの性質は神の性質で、あなたの本質は神の本質なのだ。あなたが神になるのでも、神があなたになるのでもまったくない。外的にも内的にも『彼の顔以外のすべては消滅する』。これが意味するのは、神以外は存在しないということである。神以外に存在を有するものはなく、であるから何が消滅しようと神の顔は残る。神の顔以外には何もない。」
お聞きの通り著者は、私たちが神であることを神以外の何ものでもないことを揺るぎない確信をもって明確に明示してくれました。この全ては神であるという真理を何らの疑問を挟む余地なく、しかも頭での理解ではなく実体験として体得できた時、あなたの中から無明は消えます。あなたは覚者として生まれ変わるのです。ですが、あなたが覚者となるためにはあなたは一度死ななければなりません。あなたには、その覚悟があるでしょうか。いつ死んでもいい覚悟があり、その上で実際の死とも言える身体と心と世界が消滅し、そして、その後の復活を遂げた者だけが覚者となることが出来るのです。しかしながら、全ての出来事は起きるべきことが起きるべきこととして起きているだけのことなので、これを観ているあなたが、いかにそうなろう、そうであろうと思っても、あなたが、そうである場合に限って、そのようになるだけのことに過ぎません。もちろん、私はあなたがそうであることを願っていますが、謙虚な姿勢と神に対する滅私的な従順さがないと、そうなることは難しいと思います。理由は簡単です。自分のすべてを神の前に投げ捨てることが出来た人だけを神はお認めになるからです。
では35ページです。
「預言者が『死ぬ前に死ね』と言ったのは、『死ぬ前に己を知れ』ということなのである。預言者はこうも言った。『神はこうおっしゃった。私のしもべは、私が彼を愛するまでは自由意思を持って私に近づいて来る。そうして私が彼を愛するようになると、私は彼の耳になり、目になり、手になる……』。これが意味するのは、己の自己を知る者は、己の本質や性質は少しも変えることなくして、己の存在のすべてを神の存在とするという事実である。なぜ変える必要がないかと言えば、己の本質によって存在している者などなく、そう考えるのは自己について無知だからだ。あなたが自己を知る時、あなたの自我は消え、自分は神以外のものでないことを知る。」
お分かりいただけるでしょうか。死ぬ前に死ぬということは自我が消え去るだけでなく身体と心、現象世界の全てが消滅するということです。すなわち神との合一が果たされることなのです。そして、その合一が起きたことで、その人は空(くう)となります。復活後、つまり現象世界に戻ってくることにより自分は神以外の何ものでもなかったことを知り、その人から自由意思があるといった幻想がなくなることで代わりに神の現身(うつしみ)として、その後は生きることになるのです。
もしかしたら、これを聞いた人の中には首を傾げる人もいるのではないかと思われます。神しか存在していないと言っておきながら、どうしてそこに神との合一や復活や神の現身(うつしみ)などということがあり得るというのかという疑問です。でも、大丈夫です。その答えはちゃんと用意されています。
39ページです。
「誰かがこう尋ねたとしよう。あなたは神をおいて他に何もないと言っているのに、どうやって融合するのか? 一つのものが、それ自身と融合すると言うのか?」
「答えはこうである:実際のところ、融合も分離も、遠く離れていることも近くにいることもないことに疑いの余地はない。融合とは二つの物事の間でのみ可能であり、もし、一つしかないなら、融合も分離もない。融合には二つのものが必要であり、それらが似ている場合は同等であり、似ていない場合は反対となる。しかし神は反対も同等も遙かに凌駕している。そのため融合は融合でない何か、近さのない近さ、距離のない距離のところにある。融合なくして融合があり、近さなくして近さがあり、距離なくして距離があるのだ。」
これを聞いて、ちんぷんかんぷんで何の事やらさっぱり分からないと感じた人がいると思います。ですが理解するのは簡単です。「下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとく」です。つまり、私たち人間の意識に置き換えて考えればいいだけのことです。私たち人間は日常的に色々なことを想像したり空想したりして、その一方的にやってくる思考に知らず知らずのうちに没入していたりします。いわゆる白昼夢と言われるものです。言うなれば、この現象世界は神が観ている白昼夢だと考えるのが一番理解しやすいのではないでしょうか。この世界を神である純粋意識が観ている白昼夢に見立てた場合、白昼夢の中の全てのものは当然にして神そのものであり神でないものは一つもないことになります。それは神にとって全てが平等であり、近さのない近さであり、距離のない距離のところにあり、融合なくして融合があり、神と一続きのものと言えるものです。従って、白昼夢は神と常に一体であり離れたことなど一度もなく分離など元からなかったことになります。この考えに立てば、人であろうと動物であろうと物であろうと何であろうと、私たち現象世界側の住人は全てにおいて神が思い描いた神の中の白昼夢として現れた幻想であると言えるのではないでしょうか。その様に考えれば、容易く理解が可能なのではないかと思います。しかしながら、これも所詮はたとえ話でしかなく、理屈として概念として捉えることが出来たとしても、それは本当の理解とは程遠いものです。
本当の理解とは40ページに書かれている通り、「知る時には、あなたは自分自身ではなく、神を通じて神を知る。」ことにならざるを得ないのです。
この理解の仕方こそが本当の理解に通じるのであって、その時こそ何の疑いもなく自分自身が神であったことを知るようになるのです。
それ故に42ページにあるように「神以外に消滅するものがあることを認めるのは、紛れもなく多神教である。」という考えが成り立つのです。
なぜなら、神以外に存在するものがないからです。ご納得いただけたでしょうか。
ここでお断りしておきますが、先ほど私は神人合一後は神の現身(うつしみ)として生きることになるということをお話しましたが、何も神の現身(うつしみ)として生きているのは私だけではありません。これを観ているあなたも神の現身(うつしみ)であることに変わりはありません。神人合一が起ころうが起こるまいが何れであっても、これを観ているあなたは正真正銘の神の現身(うつしみ)です。断言します。ただ、その自覚が有るか無いかの違いでしかありません。神の現身(うつしみ)でありながら、自分は神ではないと単に思いこんでいるだけの神の現身(うつしみ)なのです。
従って、40ページから41ページにかけて書かれている「マハムッドが自分がマハムッドであってムハンマドでないと知った時、マハムッドは自身でもって自身を知ったのであって、ムハンマドを通じてマハムッドを知ったのではない。」といったマハムッドとムハンマドのたとえ話のごとく、この動画を観ているあなたがやるべきことは、この世においてつけられた名前や容姿は仮のものでしかなく本当の自分は神だったと単純に思い出せば良いだけのことなのです。

では、まとめに入ろうと思います。
47ページです。
「最後に、見る者と見られるもの、発見する者と発見されるもの、知る者と知られもの、創造者と創造物、知覚する者と知覚されるものは一つだと知ることが必要である。神は、あらゆる視覚、知識、知覚を超えて、視覚、知識、知覚という形の存在なしに、神の存在によって神の存在を見、知り、知覚する。神の存在があらゆる条件を超越しているように、神が神自身について持つ視覚、知識、知覚にも条件はない。」
この文章の最初の「 見る者と見られるもの、発見する者と発見されるもの、知る者と知られもの、創造者と創造物、知覚する者と知覚されるものは一つだと知ることが必要である。」といったくだりの考え方はスピリチュアル界隈ではお馴染みで主体と客体は一体であるという主客一体論と呼べるものでありますが、それではなぜそのような事が言えるのかというと個々の人物の目などの感覚を通して見て感じている現象世界という物語の中に出てくる創造主といった登場人物も、それによって創られたとされる人や動物といった登場人物も対比される両者が揃ってこそ成り立つものと言えるからです。たとえば教師は生徒がいなければ成り立ちませんし、医者は患者がいなければ成り立ちません。商人は客がいてこそ売買ができます。人類という種も男と女がいなければ成り立ちません。そこにあるのは二は一、一は二という構図です。これは古代中国に端を発する森羅万象のあらゆる物事を相反する陰と陽の2つの要素に分けて説明する思想である陰陽二元論に通じるものがあります。また、それと同じように旧約聖書の創世記に書かれている天地創造も新約聖書のヨハネの黙示録も私からすれば単なるたとえ話に過ぎません。それはつまり、創世記のアダムとエバの話などは一から二に分かれて蛇に象徴される自我が生じたたとえ話であり、ヨハネの黙示録では悟りを得て解脱することにより、大いなるバビロンという都に象徴される自我が崩壊し二が一に帰った後で再び二として現象世界に戻ってくる神人合一の過程を荘厳なまでに脚色し説明しているたとえ話にしか思えないということです。
実際に自分の心身を含めて自分の外側と内側の全てを冷徹に客観視する見方をし続けると、自分の体とその周囲のものは一つながりになり区別がなくなって、自分の体と周囲の違いは単なる色の違いでしかなくなり全ては一つの映像を見ているみたいに感じられるようになってきます。これはどういうことかというと、自分の心身を含んだ現象世界を俯瞰して見ている別の独立した観察者としての視点を獲得するということです。つまり、見ている者と見られるものの二者をさらに外側から見ている第三者の視点の獲得です。この第三者の視点が私の普段の視点です。しかしながら、本当の意味での神の視点は、さらにその奥にあります。それは真我の直接体験をしたことで獲得した第四者の視点と呼べるものです。言うなればスクリーンに映った映画とその映画を見ている観客を含めた場全体を眺めている視点です。これが真に悟りし者の絶対視点です。それは、一切の概念の無い純粋意識としての視点で、もはや視点と言えない視点としての見方です。なぜなら、純粋意識には身体も心もなく何かを考えるということがないからです。だから文章の中頃で「神は、あらゆる視覚、知識、知覚を超えて、視覚、知識、知覚という形の存在なしに、神の存在によって神の存在を見、知り、知覚する。」と書かれているのです。終わりの文章は説明するまでもなく神の不可思議さを言っているわけです。純粋意識それ自体では己自身や世界を認識することは出来ませんから、正しく神は人智を超えた方法で世界を創造したうえで己自身と世界を認識する存在なのです。
次は48ページです。
「この会話は神との会話であり、神以外とのものでも、内的に盲目である者との会話でもない。このようなスピリチュアルの段階に達した者は、己を神以外の何者でもないと知っている。私たちは、神を知るために自己の知識を求める決意と熱意を持ち、神との融合を求め、切望するイメージを心に新鮮に保つ人と話しているのであり、目的や意図のない人と話しているのではない。」
かなり厳しめの言葉ですが、これだけ著者が強く言うのには理由があります。それは内的視覚の欠如からくる盲目である者には私の言っている事、本に書かれている事は全く理解不能であるからです。数多くの古今東西の聖典や聖者について書かれた本を読み、書物に書かれた額面通り字づら通りの知識だけをいくら蓄えたとしても神に到達することは出来ないからです。むしろ頭で理解しようとしたり形にこだわる姿勢が邪魔になります。その事に気づかなければなりません。必要なのは神あるいは悟りに対する渇望と言ってもいいほどの希求する思いと神あるいは仏に対する謙虚さと従順に基づく完全なる明け渡しです。
ウィキペディアの日本語版でイスラム教を検索しイスラームという言葉の語源を調べてみると、そこには次のように書かれていました。
『預言者ムハンマドはこのイスラームという語を唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという姿勢に当てはめてイスラームという語を用いた。そして、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリム (مسلم muslim) と呼び、このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と奴隷の関係として表現される。』
私は、これを読んではっとさせられました。私は、けっしてイスラム教の信者ではありませんが、この定義に従えば私は間違いなくムスリムです。私は私の全てを完全に神に委ねているからです。私は誰よりも神の奴隷としてのムスリムである自覚を持っています。とはいえ、これはあくまでも私の場合であり、これを聞いている悟りを目指す視聴者にまで私と同じ心境になることまで求めません。しかしながら、これだけは最低限必要なことであると私は思っています。それは、心身共にどんなに苦しかろうが、自分の身体精神を含めて現象世界を客観視し続けて「私は無い」を確固たる信念を持って文字通り毎日実践することです。それが出来ないなら神や悟りを追い求めるのはやめておくのが無難です。実際それが出来ない人は神への到達や悟ることなど到底できませんから、真理探究は入手できる範囲内での既存の情報に対する学問としての比較研究か趣味程度の範囲に留めておくのが賢明ではないかと思います。間違っても本当に自分が悟りを目指そうと思ってはいけないと思います。なぜなら人生の道を踏み外す虞があるからです。
では最後に蛇足かもしれませんが、それでも普通の生活をしながら悟りたい、もっと深い真理探究を自らしたいという方々に私なりの考えをここで簡潔に申し上げておこうと思います。それは結婚などの家庭生活は真理を悟る上で障害になるような相反する関係なのかという疑問についてです。動画の冒頭のほうでご紹介したプロフィールにある通りイブン・アラビーとアウハド・アルディン・バルヤニには子供がいます。当然、二人とも厳格なイスラム教徒だったでしょうから両人ともに正式に結婚をしたうえでの子供だったのではないかと思います。イブン・アラビーに関しては奥さんは三人いたようです。一方、アウハド・アルディン・バルヤニの奥さんの数についてはウィキペディアに記載がないので分からないのですが、クルアーンの婦人章3節に男性は公平に扱うという条件で4人まで妻を持つことが出来ることが書かれているので複数人の妻がいたとしてもおかしくはないと思います。これは推測ですが、たぶん二人とも若い頃はスーフィーとして厳しい修行に明け暮れる毎日だったのではないかと思います。そして、修行の段階もある程度進み悟りにも一定の成果が出たところで結婚生活に入ったのではないかと考えられます。ネットで調べてみるとイスラム教では、全ての信者は平等とされることから他の宗教にみられるような聖職者や僧侶階級は存在せず、ウラマーと呼ばれるイスラム法の学者が礼拝の指導や法解釈の発布、学校での教育などを通じて信徒を導く役割を担っているそうです。このウラマーは、建前上聖職者ではないことから妻帯禁止や禁欲などの制限はないそうです。この事から、禁欲的修行により神との完全な合一を果たすことを根本教義とするイスラム教神秘主義のスーフィズムを実践するスーフィーたちもアラビーやバルヤニに子供がいたことを鑑みれば悟った人だからといって霞ばかりを食べる生活をする必要もないと思いますし、まして一生涯独身でいる必要もないことが分かります。
大体、王族のお釈迦様も出家前は贅沢の限りを尽くした生活をし結婚して子供を作っています。それを考えれば結婚や子供がいること自体が障害になるとは思えません。第一、お釈迦様でさえ息子のラーフラを弟子の一人に迎え身近に置いています。また、ニサルガダッタ・マハラジに代表されるインドの近現代における覚者と言われている人たちの中にも生業を持ち普通に妻子を養いながら日常生活を送っていた人がいたりします。それらの事からも悟りと結婚生活、悟りと社会生活は矛盾しないことが分かります。むしろ、悟るためにはこういう生活をしなければならない、悟った人間はこうであらねばならないといった固定観念が悟りを目指すうえでの妨げになると思います。形にこだわることこそが、神が観る白昼夢でしかない此の世の幻想に既に囚われていることになるからです。
クルアーンの蜜蜂の章20節と21節にはこうあります。
20節「そして彼らがアッラーを差しおいて祈っているものは、何一つ創造することなどないし、それらは創られるものなのだ。」21節「死んだものであり、生きているものではない。それらはいつ蘇らされるか、察知することがないのだ。」
これはつまり、簡単に言えば偶像でしかない此の世のものに何の力もないから囚われるなということではないでしょうか。
これと同様のことは旧約聖書にも書かれています。申命記4章の16節から19節にかけてです。
16節「堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、」17節「地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、」 18節「地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。」19節「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。」
また本の44ページに書かれている詩の後半にも「他と神を結びつけることは堕落だ。」とあります。
本書からの引用はこれで終わりです。この場合の「他」とは自分は神ではなく神から独立していると考えることで生じた様々な偶像を指しているのではないかと思います。
とどのつまり何が言いたいのかというと、目と鼻の先よりももっと近いところに自分という神がいるのに自ら創り出した此の世という偶像に目と心が奪われてそれが神だとか、人の道に反してまで手に入れなければならない何かがあるなどと思いこむようなことがあってはいけないということです。ですから、必ずしも隠遁生活などをする必要はないと思いますし、あくまでも山野に引きこもるのは物欲にまみれた俗世間の生活に囚われないためのものであって、何ものにも執着しない生き方が出来るのであれば何も世捨て人になる必要はないと思います。従って、お釈迦様は我が子に対しては他の弟子同様に平等に接していたようですから、それに倣って、自分の妻子に対する接し方も万人に対する平等の愛でもって接していれば特に問題はないのではないかと思います。
なぜ、私がこういう話をするのかというと真理探究において大事なのは禁欲的な肉体的純潔さではなく精神的純潔性ではないかと思うからです。ヒンドゥー教の宗派の一部にはタントラと呼ばれる性愛または性交を通じて宇宙の最高真理を認識することを目指す秘儀的な教義と儀礼があったりしますから、この事から導き出される答えは、此の世のものに囚われて執着することなく一心に悟りだけ神だけを求める純粋性こそが大切なのではないかと私は思います。妻子にしてみれば不満はあるかもしれませんが、たとえ結婚していてもその妻子に対し殊更(ことさら)に執着することなく、それでいて夫として親としての義務を怠りなく果たしながら万人に対する平等の愛と変わらぬ愛を持って接することが出来るのあれば何も問題はないと私は思います。もちろん、これは悟りを目指す夫側だけの話ではなく、悟りを目指す妻側にも全く同じことが言えると思います。
いかがでしたでしょうか。最後は横道に逸れてしまいましが、この「あなた自身を知りなさい 存在一性論の解説」という本を買って読んでみたいという気持ちになられたでしょうか。これは私自身自覚していることですが、私には聞き手に対し情報や考えを効果的に伝え、理解と納得をさせたうえで行動を引き出す総合的なスキルであるプレゼンテーション能力があるとは全然思っていません。むしろ、その様な事は不得手です。ですから、視聴者の方に対して本を買いたい気持ちにさせることが出来たとは到底思えないのですが、それでも悟りたい、真理に少しでも近づきたいという方であるならば是非読んでいただきたい一冊ではないかと思います。いつの日か、あなたが悟る運命であるのなら真理に到達した時に、そこに書かれていることが本当であったことが分かるようになるのではないかと思います。何とぞ、それを信じて精進に励んでいただきたいと思います。
なお、説明欄に今回の動画を作る上で参考にしたウィキペディアや本書に関連した内容が記載されていたいくつかのサイトのURLを張り付けておきますので更に思索を深めたい方はそちらもご覧いただけたらと思います。
それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。
参考にしたウェブサイト
(なお、動画内でのAwhad al-Din Balyaniの読み方は本の通りにアウハド・アルディン・バルヤニに統一しました。)
ウィキペディア・日本語版・イブン・アラビー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%BC
ウィキペディア・ペルシア語版・イブン・アラビー
https://fa.wikipedia.org/wiki/%D8%A7%D8%A8%D9%86_%D8%B9%D8%B1%D8%A8%DB%8C
イブン・アラビー学派文献目録データベース・Awhad al-Din Balyani(アウハド・アッディーン・バリヤニ)
https://kias.sakura.ne.jp/ibnarabi/index.php/Awhad_al-Din_Balyani
ウィキペディア・アラビア語版・アブドゥラ・アル、バリヤニ
https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%B9%D8%A8%D8%AF_%D8%A7%D9%84%D9%84%D9%87_%D8%A7%D9%84%D8%A8%D9%84%D9%8A%D8%A7%D9%86%D9%8A
ウィキペディア・フランス語版・アウハド・アルディーン・バリヤーニ
https://fr.wikipedia.org/wiki/Awhad_al-din_Balyani
ウィキペディア・ペルシャ語版・シャイフ・アブドゥッラー・ベリヤニ
https://fa.wikipedia.org/wiki/%D8%B4%DB%8C%D8%AE_%D8%B9%D8%A8%D8%AF%D8%A7%D9%84%D9%84%D9%87_%D8%A8%D9%84%DB%8C%D8%A7%D9%86%DB%8C
ウィキペディア・英語版・アミン・アルディーン・バリヤニ
https://en.wikipedia.org/wiki/Amin_al-Din_Balyani
ウィキペディア・日本語版・イスラム教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99
ウィキペディア・日本語版・スーフィズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
ウィキペディア・日本語版・キリスト教における独身制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8B%AC%E8%BA%AB%E5%88%B6
ウィキペディア・日本語版・タントラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9#HeroSection
Nodualidad.info・スペイン語 Awhad al-din Balyani
https://www.nodualidad.info/maestros/awhad-al-din-balyani.html
アウハド・アルディーン・バリヤニ - 自分自身を知る
https://nomindsland.blogspot.com/2019/09/awhad-al-din-balyani-know-yourself.html
2022年3月18日バリヤニの『自分自身を知る:存在の一体性の説明:彼の命題の要約』
https://andrewjtaggart.com/2022/03/18/balyanis-know-yourself-an-explanation-of-the-oneness-of-being-a-summary-of-his-propositions/











