私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

偽書扱いされる外典トマスの福音書は聖典だった‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。文中で5番目の文章の次にくる6番目を勘違いして7番目と書いてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。

   youtu.be

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が26回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 最近、昨今大きく取りざたされているLGBTQの問題とトマスの福音書の一節を絡ませて話しをされている動画をユーチューブ内において拝見させていただきました。説明欄に、その動画のURLを張り付けておきますので興味のある方はご覧になられてみてはいかがでしょうか。

   youtu.be

 LGBTQに関しては今のところ私が何か世間一般で言われている話し以上の特別な事を言えるほどの考えもないことから、わざわざLGBTQに言及する動画を作らなければならないと考え、その為の行動を誘発するような思考でもやってこない限り本動画内で触れる以上の話しはありません。しかしながら、トマスの福音書については私なりに言えることがあるので今回はトマスの福音書に書かれていることについて少しばかり述べさせていただこうと思います。

 ウィキペデイアによりますと、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書の中に114の文からなるイエスの語録集というものがあったそうです。その文中には、使徒トマスによって書き記されたとあったことから、その文章はトマスによる福音書と呼ばれるようになったとのことです。この福音書は教会の権威などを認めないグノーシス派的とされることから異端の書として扱われキリスト教の正典としては今のところ認められてはいません。しかしながら、今回、このトマスの福音書を読んで、その書かれている内容から私はイエス・キリスト本人が言われた言葉ではないかと感じます。なぜかというと、悟りの境地にいる人が話す内容には一種独特の共通する特徴があるのですが、この福音書には明らかにその悟っている人にしか言えないようなことが書かれていると感じたからです。これだけの真理を語れる人は本当に悟っている人でなければ出来ないはずです。加えて教会の権威などを認めないグノーシス派的というところが私からすれば、それだけで本当っぽい感じがします。考えてみてください。キリストであられるお方が後世の教会の権威などというみみっちいものを考慮していちいち発言したりするでしょうか。教会の権威のために真理を歪曲して話したりするでしょうか。イエスは神が命じるまま真理を守り抜くために死んだのですから教会の権威など気にするはずがありません。

 ちなみにグノーシス派とは、物質と霊の二元論に特徴を持つ、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求めるという思想を持つ一派のことですが、私自身の考えに対しては誤解を抱かれないようにするために、ここではっきりとお断りしておきます。私はグノーシス的なものなら何でも認めるわけではありません。確かにグノーシスに近い考えではありますが基本的に私は、真実の存在は唯一の実在である真我のみであるという考えを自分の実体験に基づいて持っています。ですから私の考えの根底にあるものは梵我一如であり不二一元論的なものの見方ということになります。従って、教団の長い歴史と伝統までは否定しませんし尊重はしますが、キリスト教に限らず、どこであろうと宗教団体の権威自体を認めるようなことを私はしません。なぜなら、それも現象世界の相対性ゆえの産物であり偶像崇拝になると思うからです。むしろ、そこから離れなければ悟りを得られることはないのですから、心のよりどころ程度なら良いかもしれませんが、外側の絶対的権威などというものに固執してはいけないと思います。神の権威、仏の権威、真理の権威は外側の教団にあるのではなく、それらの権威は一人一人の内側にあるものではないでしょうか。故に悟りとは、神や仏、真理の権威を自らの中に見出すことと言えるのではないかと思います。一人一人が悟っていけば、外側に権威を求めることはなくなりますし、教団の権威などというものを気にする必要もなくなります。つまり外側の権威、見栄えや見かけを気にしている間は悟ることなど到底無理ということになると思います。

   

 話しを戻します。私は以前の動画内でも言ったと思うのですが、イエスは確実に悟っている人です。現在キリスト教が正統と認めている聖書の中のイエスが話したと言われる文章を読むだけでもイエスが悟っていたであろうことを私は感じます。そのことからトマスの福音書レベルの内容を語れるのは、その時代その地域ではイエスくらいしかいなかったのではないかと思います。もし、イエスの言葉ではなく、誰か別の人が自分の考えていることを書いたというのなら、これだけのものを書いた人もイエス並みに有名になっていてもおかしくないと思います。そういう事から前置きが長くなってしまいましたが、今回は新約聖書外典であり人によって偽書扱いされることもあるトマスの福音書の中に書かれていたという文章のいくつかを取り上げて私なりの解釈をしていこうと思います。

 なお、文章の引用元はイエスという人の人物像を独自に探究しておられる有本康夫さんという方が書かれたブログ内から引用しています。引用元のURLは説明欄に張り付けておきますので114のトマスの福音書全文をお読みになりたい方は、そちらをご覧になられることをお勧めします。

http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_tomas.html

 あと、ささくら修道会さんのホームページにも「トマスによる福音書」が載っていたので、そちらも参考にさせていただきました。ささくら修道会さんのURLも説明欄に張り付けておきます。

http://manga.world.coocan.jp/purotesutanto-14-6.html

 それでは始めます。最初は1文目の「そして彼は言われた。”だれでもこれらの言葉の解釈を見出す者はけっして死を味わうことがないであろう”。」です。

 この説明は簡単です。私たちは誰であろうとも真我ですから死などというものはもとからありません。この世は真我が夢見る現象世界であることが分かれば死を恐れる必要はもうなくなります。

 2文目はこうです。「イエスは言われた。”探す者は見出すまでやめてはならない。見出すときに、彼は当惑するであろう。当惑してさらに彼は驚くであろう。その時、彼は天地万物を支配する”。」

 探究者は真我を自らのうちに見出すまで探究をやめてはいけません。真我を見出した暁には、それはその人にとって素晴らしい体験になるのは間違いありません。しかし真我の直接体験を言葉でもって、その経験をしたことのない人に説明することはできません。なぜなら、未体験者が頭で考えて理解できるものではないからです。直接にその体験をして初めて理解できるものなのです。そして自分の中に真我を見出した時、自らが天地万物の造り主であったことを知るに至るのです。

 出エジプト記3章の13節から14節にかけてモーセが神の名を尋ねた時に神は「私はあるというものだ。」と答えたことが書かれていますが、これは何も神が自分は神だからということで、お高く留まって気取ったものの言い方をしているのではなく真実そのままのことを言っているのです。神が人間に対して気取る必要など全くありません。神は純粋な存在なので、ただ存在することしかできない性質を嘘偽りなく真実を語っているだけなのです。故に現象世界を超えたものである、ただあることしかできない真我のことを、あれやこれやと語るのは本当に不可能なのです。そして、自分がその真我であることを知れば現象世界を創造したのは自分自身であったことを知ることになります。

 3文目の「イエスは言われた。”あなたがたを惑わす者たちが[見よ、神の国は天にある]とあなたがたに言うならば、空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。彼らが[それは海にある]とあなたがたに言うならば、魚があなたがたより先にそこにいるであろう。しかし神の国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、自分自身を知るならば、知られるであろう。そして、自分が生ける父の子らであることを知るであろう。しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、貧困の中にいるのだ。そしてあなたがた自身が貧困なのだ”。」

 これも説明する必要がないほど簡単ではないかと思います。神の国は一人一人の中にあると言っているのです。これも本当のことです。その事に気づけば自分が真我であることを知るに至ります。自分は既に神の国にいたことを知ります。真我とこの現象世界は別々の物ではありません。真我と現象世界は一体です。しかし、自分自身が真我であることを知らないままなら、その人の心の貧しさからくる苦しみがなくなることはないと言っているのです。

 私は神のことを思うだけで心の中が神への愛で満ち溢れます。そして神も同じように愛でもって返してきてくれます。私は神からの愛に包まれながら神への愛と感謝で、とても幸せな気持ちになるのです。これは単に想像で話しているのではありません。真我を直接体験すれば神の国は自分の中にあったことを本当に知ることになるのです。

 四つ目の文章はこうです。「イエスは言われた。”日で満ちた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。そうすれば彼は生きるであろう。多くの最初の者は最後となり、そして彼らは単独者として生きる事になるであろうから”。」

 これも説明が要らないくらいです。マタイによる福音書18章2節から3節にはこう書かれています。『そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

 つまり、生後間もない乳児こそが永遠の命のありかを一番知っていることから、死期がまじかな老人で永遠の命を得たいと思うのならば、この世の善悪を知る前の赤子のようになりなさいと言っているのです。それが出来れば、この世に生まれ出る前の真我の状態に戻ることができ、唯一の実在である真我として生きることが出来ると言っているのではないかと思います。

         

 私は10年くらい前にテレビの番組内容に関心がなくなりテレビは捨ててしまいました。同じく10年くらい前から新聞・雑誌なども読まなくなりました。現在の私は世間に対する関心はほとんどありません。私が関心を持って読むのは思想と宗教に関する精神世界に関する本だけです。それでも生きていくことに何の支障もありません。その時々の必要な情報はパソコンで検索すれば出てくるので、それで十分です。なんの不自由さも感じません。

 数年前には世界的な流行病がちまたであったようですが、新聞・テレビがないことで世間の騒々しさの影響を一切受けることなく、流行病に対しては一喜一憂することなく私は平然としていられました。私が働いている会社でも職域接種がありましたが、予防接種をしていないのはたぶん私だけだと思います。予防注射の類は中学生か高校生の時に打った集団接種が最後で、大人になってから予防注射を打ったことは一度もありません。年相応にあちこちにガタは来ていますが、私は酒やたばこはやりませんし、職場からの帰りに地下鉄や自転車を使わずに時たま歩いて帰るようにもしているので今のところ特に大病を患ったことはありません。ただ目が悪く疲れるので5、6年くらい前から抗酸化力が高いと言われているルテインコエンザイムQ10そしてビタミンCなどのサプリメントは飲んでいます。そのおかげなのかどうかは分かりませんが、単なる思い込み効果であっても風邪一つひかないのは事実です。それ以外で健康のことを考えることはありません。

 次は5番目の文章です。「イエスは言われた。”あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに現れされるであろう。明るみに出ないまま隠されているものはないからである”。」

 これもまた幻想でしかない現象世界の真実を見抜く大切さを言っています。幻想を幻想として捉えれば真理はおのずと明らかになると言っているのではないかと思います。

 次は7番目になりますが、このまま最後まで一つ一つの解釈を言っていくと長時間動画になってしまうので飛び飛びであと三つほどで終わろうと思います。

 次は11番目です。「イエスは言われた。”この天は過ぎ去るであろう。そして、その上のものも過ぎ去るであろう。そして、死者たちは生きない。そして生きている者たちは死なないであろう。きょう、あなたがたは死んだものを食し、それらを生かす。しかし、あなたがたが光の中にいるとき、あなたがたは何をするであろうか。あなたがたがひとつであった日に、あなたがたはふたつになった。しかし、あなたがたがふたつになったとき、あなたがたは何をするであろうか”。」

 これは簡単に言えば諸行無常といったところでしょうか。色即是空 空即是色と言ってもいいです。この世に永遠不滅というものはなく常に変化し消滅していく様を言っています。この世の人や動物などに命などというものはありません。魂などというものもありません。あるのは真我のみです。それ以外のすべては物語です。何もないのですから、死後の世界に生きるということもありません。もともと私たちは真我ですから死ぬことはないのです。故に、実在である真我に気づいた人たちには死という概念は存在しなくなります。また、この世の人は食事をすることで自分の肉体を維持していると思い込んでいますが、それは自分たちがただの映像であることを知らないからです。もちろん、この現象世界で生きていく限りにおいては、私もおなかが減りますし何かを飲み食いしなければ生きてはいけません。しかしながら、私たちはもともと一つの真我であることを忘れて相対性の世界の中に誕生してきていることを忘れてはいけないと言っているのではないかと思います。その忘れていたことに気づくことが悟りなのだと思います。

           

 ユーチューブなどでお釈迦様に関する動画を視聴している人や仏典を読んでいる人は分かると思いますが、お釈迦様の教えでは頻繁に前世の話しをする場面が描写されます。しかし、それは、あくまでも悟りのさの字にも達していない人を納得させるための方便でしかありません。前世という架空のおとぎ話しに関連させることで、その話しを聞く人々を仏の道に導こうとしているに過ぎないのです。真我に至ればすべては空(くう)であることが理解できるようになるので前世も現世も来世もないことが分かります。

 突拍子もないことと笑われるかもしれませんが、なぜかは分からないのですが時間を割いて私の動画を視聴されている方に対しては、洞察力が働いて真理に関してはそれなりの高い境地に達している方々がほとんどであるとお見受けすることが出来ます。或いは私の言っていることが理解できる素地が既に出来ている方であると感じることが出来ます。そのようなことから私の動画を視聴されている方に対しては前世などという架空のたとえ話をする必要はないと感じています。従って、既に高い境地にいる方に対して、ありもしない前世などのたとえ話をして回りくどい言い方をするのは逆に失礼になると思いますので私の話しでは基本的にそのものズバリのことしか言いません。ですから私は魂も死後の世界もなければ前世も現世も来世もないとはっきりと明言するのです。

 次の13番目の文章は長いですが結構重要なことを言っています。「イエスは彼の弟子たちに言われた。”わたしを比べてみよ。そして、わたしがだれに似ているかわたしに言いなさい”。シモン・ペテロは彼に言った。”あなたは聖なる御使いのようです”。マタイは彼に言った。”あなたは賢者、哲学者のようです”。トマスは彼に言った。”先生、わたしの顔はあなたがだれに似ているかを理解してそれを言い表わすことはまったくできません”。イエスは言った。”わたしはあなたの師ではない。なぜならばあなたはずっと飲んでいるからである。わたしに属し、わたしが広げた湧き出ずる泉であなたは酔っているのだ”。それから彼は彼を連れ、わきへ引き寄せ、三つの言葉を彼に語られた。トマスが仲間たちのところにもどると、彼らは彼に尋ねた。”イエスはあなたに何を言われたのか”。トマスは答えた。”彼がわたしに語られた言葉のひとつをわたしがあなたがたに告げるならば、あなたがたは石を取ってわたしに投げつけるであろう。そして、その石から火が生じ、あなたがたを焼きつくすであろう”。」

 トマス以外のペテロやマタイはイエスの人としての外側の姿だけを見ています。だから、現象世界の中にある聖なる御使いとか、賢者あるいは哲学者などと形あるものを持ち出して譬えました。一方トマスは、イエスの内なる存在に目を向けて、それは言葉として何かに譬えることはできない存在だと言いました。しかもトマスは自分のことを「私は」ではなく「私の顔は」という言い方をしました。つまり自分の体を主体的に捉えているのではなく客体化したものの言い方をしたということです。それを聞いたイエスは最高の賛辞をトマスに贈ります。あなたは既に真理を会得し私はもうあなたに教えることは何もないほどになっていると言ったのです。そのあとのイエスが個人的にトマスに言ったことは憶測になります。たぶん私が今言ったことをトマスに話したのではないかと思います。だから他の二人が、そのことを知ればトマスに石を投げるほどに嫉妬し自分たちの未熟さからくる怒りに囚われてしまうだろうと言いたかったのではないかと思います。

 次の22番目の文章が今回この動画を撮ろうと思ったきっかけになった文章です。「イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。そして彼は弟子たちに言われた。”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。彼らは彼に言った。”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。イエスは彼らに言われた。”あなたがたがふたつのものをひとつにするとき、そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、そして一つの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりにひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、一つの像の代わりに一つの像をつくるとき、あなたがたは神の国に入るであろう”。」

 4番目のところでも説明しましたが御国に入れる資格があるのは一切の善悪の判断などをしない子供のような人です。つまり、世界をあるがままに見ることが出来る人だけです。それくらい無垢な人しか入ることは出来ないと言っているのです。この世界は一つなるものが鑑賞している現象世界です。鑑賞者としての真我の視点に立てばすんなり理解できることではないでしょうか。世界を見ていると思い込んでいる自分と自分の外側にあると思っている世界は一体です。つまり、二つに分かれていると感じている見る者と見られる物は、どちらも観賞される対象として常に一つなのです。私のものと思い込んでいる自分の体は真我が現象世界を体験するための道具に過ぎません。一つの目、一つの手、一つの足、一つの像とは真我のことです。つまり真我の分身として代わり身として自分の体と思い込んでいる目、手、足、像をつくったということなのです。私たちの内側で感じると思い込んでいる感情・感覚・思考などは観賞者たる真我からすれば観賞する対象ですから外側のものです。また、目などの感覚器官を通して体の外側にあると認識している人や物などは観念が生み出した現象ですから、それらの物の全ての発生原因は内側にあります。同じく、人が上にあると思い込んでいる空も、観賞者たる真我からすれば自らが生じさせたものですから下にあるようなものです。結局、単なる映像であり、ただの観念ですから上も下も右も左もないということです。お分かりいただけるでしょうか。

 一連の、こういった私の説明は、私の過去動画を見てきた人ならば容易に理解ができるのではないかと思います。イエスに限ったことではありませんが悟りを得た人の話す内容は、真我の視点から言っていることなのです。それを理解すれば、それほど難しいことは言っていないことがお分かりになるのではないでしょうか。

 冒頭のトマスの福音書の一節に絡ませて昨今のLGBTQの問題を語る動画内で触れられた一節というのは、今ご紹介した文章のことですが、動画内ではグノーシス派と悪魔崇拝とを結びつけていました。私から言わせれば両者を結ぶつけようとするのは考え過ぎですとしか言いようがありません。どうしてLGBTQを批判する自分の考えを正当化するためにトマスの福音書を持ち出し、しかも悪魔崇拝と結びつけてグノーシス派を語るのでしょうか。はっきり言わせてもらいますがトマスの福音書はLGBTQとは一切関係ありません。また、グノーシス主義悪魔崇拝も全く関係ないと私は考えます。その人はアメリカの牧師さんのようでしたが、もし、トマスの福音書に書かれていることはイエスが言ったことであったと将来証明された場合に、悪魔崇拝にかかわりがあるような言い方をしてトマスの福音書の内容を話した、その人はどのように自分の発言に対して弁明されるのでしょうか。ですから、自分の考えていることだけが正しく、それ以外は悪魔の教えなどというようなことを軽々しく言ってはいけないのではないかと思います。

 悟りの観点から言えば、善悪二元論や神と悪魔の対立という視点に立つこと自体が既に自己を主張する自我の生き残り戦略にまんまと乗せられている証拠ではないかと私は思います。一般的に悪や悪魔と言われているものも含め現象世界は神から離れ分離していると考えるのは間違いです。世界は片時たりとも神から離れたことはありません。世界が神から分離し分裂していると見るのは、それこそサタンの誘惑に囚われた代表的な分離思考です。世界のどこにも分離はないと見極めるのが真理であり悟りです。もしかしたら、これを聞いた人の中には、今言った私の言葉自体をサタンの誘惑と考える人もいるかもしれません。そういう人がいても私は一向に構いません。前にも言いましたが、人それぞれ自分の信じる道を進むのが、その人にとっての最善です。疑問に思う必要はありません。なぜなら、それも神が設定したその人の人生だからです。神や真理を探し求めて、あちこちの宗教の教会や集会に参加し迷い続けるのもその人の人生です。各個、自分の正しいと思う道を是非進んでいただきたいと思います。サタンの誘惑に惑わされているのは私なのか、それとも私の言葉をサタンの言葉と考える人なのかは神がご存じですので、全ては神の御心にお任せしますということになります。

 また私事の余談になりますが、いくら世間に対する関心がほとんどなくなったといっても私にはまだまだ心の内に既存の価値観に基づいた潜在的傾向が残っています。そのことから、私は性別に関しては、男は男であり女は女であるべきと基本的に考えています。しかし様々な諸事情から、昔からある枠組みの中に納まることの出来ない人がいることも理解しています。その事から社会の仕組みを変えることで様々な諸事情から生きづらさを感じている人が生きやすい世の中になることは良いことだと思います。しかし、だからといって、それが行き過ぎて、これまでの日本の伝統や文化が破壊されるようなことがあってはいけないと一方では思っています。何事もバランスだと思っているので両者のつり合いがうまく取れる箇所が見つかることを私は願っています。

 今私が言ったようなことは、もしかしたら悟りや解脱を目指している求道者にとってはあるまじき行為なのかもしれません。何があるまじき行為かというと、この世のもの一切は移り変わるものとして、いちいち判断を加えることはせず起こる出来事をあるがままに受け入れることが大事なのかもしれないということです。先ほど取り上げた22番目の文章に書かれている通り「乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている」とイエス様が言われた通りであると思います。そうは言っても、私の心の中には幼少の頃より培われてきた既存の価値観に基づく潜在的傾向がなくなることなく厳然として有るのも事実です。そういうこともあり、いつになるかは分かりませんが、世の中の出来事に対して余計な判断をすることなく本当の意味でこの世界を赤子のようにあるがままに見て、そして受け入れられることが出来るようになればと思っています。

 話しを戻します。前作動画を見ていただけたのであれば分かると思いますが、私はユダが自殺をした点に引っかかりを感じることからユダの悟りには懐疑的で、そのためユダの福音書についてはそれっぽいことが書かれていることは確かですが、やはりユダの自殺が本当であるのであれば内容の真偽性や正統性は今後も問われ続けることになると思います。一方、トマスの福音書に関して言えば、これを聞いたとき私はすぐさま、これは私たちが今いる現象世界を真我の視点から語っているのだと感じました。いわゆるワンネスを理解できる者が神の世界を知る者であるということを言っているのではないかと思います。言い換えれば全ては一つであり、世界は一つなるものの現れであるという視点に立つ者だけが神の世界に入ることができると言っているのです。従ってユダの福音書とトマスの福音書は分けて考える必要があると思います。

        

 トマスの福音書は正統派の教会からは偽の福音書扱いをされ異端とされていたりします。しかし、私から見ると、その内容は悟りを得たイエスだからこそ言えるものだと感じますし、その当時に書かれたことが確かならばイエス以外に言えるはずがないとも思います。まさしく、その内容は悟った者にしか言えないものであると感じるからです。それにもかかわらずトマスの福音書は原始キリスト教において、その存在が知られていたにもかかわらず、なぜ、正統な福音書としてキリスト教会に受け入れられずグノーシス主義とみなされ異端とされてきたのでしょうか。それを私なりに考えてみると、トマスによる福音書の中には言うまでもなくイエスの悟りの境地が書かれているからではないかと思います。そこに書かれている言葉は、悟りの境地に立った個人としての観点からイエスが人々に対して述べられたことが書かれています。その一つ一つを読んでいくとイエスは自分と同じように世界を見ることができるようになれば、その人も同じように悟ることができると話しているように受け取れます。つまり、イエス以外の人たちの悟りの可能性をイエスは示唆していると感じます。考えてみて下さい。もし、キリスト教の普通の信者の人たちが、ひょっとすると、この世の真理を自ら知ることができるかもしれないと思いイエスの考えを真に理解したいと考え直接悟りを目指すようになったらどうなるでしょうか。当然の事として、人と神との仲介役を担ってきた教会の存在意義は失ってしまいます。だからこそ、人と神との仲介役としての教会の存在意義を保ち権威を維持するためには人々がイエス同様悟れる存在であってはいけないのです。そういった教会の思惑もあって、人々の悟りの可能性を示唆するトマスの福音書は異端として扱われるようになったのではないかと思います。これもまた私のとんでも論ですが、その様に考えればトマスの福音書が異端扱いされるのはもっともな話しではないでしょうか。いま私が申し上げたことは正統派のキリスト教徒の方には受け入れられないことかもしれませんが、お怒りになられることなく、なにとぞ私の妄言だと思い聞き流してくださいますようお願い申し上げます。

 いずれにせよ、世界には真我という真の自己しか存在しません。唯一の実在である真我は一つしかないからです。一人一人のうちにある本質は一つであり同じです。ただ、人生と呼ばれる80億を超える違う人の表現があるだけです。それが真理です。その真理を知りたいと思うのであれば、是非真我探求をされることをお勧めします。真理が明かされることが許されている人ならば、真我探求によって真理とはどういうものか、その一端が分かるのではないかと思います。

 本来なら114すべての文章を取り上げ一つ一つ説明をしなければいけないのでしょうが文章は114もあることから、また別の機会にでもトマスの福音書を取り上げようと思います。ご自身でトマスの福音書をお読みになられる場合は、人の視点ではなく神の視点、つまり鑑賞者である真我の視点に立って理解するように心がけてみられることをお勧めいたします。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

イスカリオテのユダは神とイエスの忠実なる奴隷だった!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が25回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は、神によって定められた大切な使命を果たしたにも関わず裏切り者としての汚名を着せられ続けてきたイスカリオテのユダの名誉を是が非でも回復しようと思い、真理の一端に気づいた私の考えをお伝えすることによって、決してイスカリオテのユダは裏切り者ではなく、むしろ神の忠実なる僕であり、この世の命を失うだけでなく2,000年以上ものあいだ裏切り者という不名誉を背負い続けながらも他の11人の弟子の中の誰よりもイエスのために貢献した人であったということを明らかにしていきたいと思います。

 世間一般ではユダはお金のためにイエスを裏切ったことになっていますが、私はこれを裏切りだとは全く思っていません。ユダは、命を狙っていた祭司長にイエスの居場所を知らせました。しかし、それは神から仰せつかった大事な役目を果たしただけに過ぎません。イエスもその事を分かっていました。ヨハネ福音書13章27節にイエス自身が「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言ってユダに対し行動を促していることから全ては神が事前に予定された計画が遂行されただけなのです。その行為がなければイエスの磔も復活もなくキリスト教世界宗教になることもありませんでした。19章30節のイエスが息を引き取る際に言われた「成し遂げられた」という言葉を熟考すれば分かると思いますが、全ては神の栄光が世に示されるために神自身によって書かれた物語が滞りなく展開されたことを言っています。イスカリオテのユダは大役とも言える重要な役どころである敵役(かたきやく)を任せられた役者です。それにユダは後悔の念から首を吊って自殺をしたとマタイの福音書27章3節から5節にかけて書かれています。使徒言行録1章18節では不正によって得たお金で買った土地で悲惨な死に方をしたと書かれています。どちらにしても、このことからユダは自らの過ちに気づき罪の重さに苦しんだであろうことは容易に想像できます。ユダが自責の念に堪えられなくなり非業の死を遂げることも含めて神の設定した物語なのです。マルコによる福音書14章21節でイエスは次のように仰いました。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」これはユダを非難しているのではなく、その後にやってくる2,000年にもわたる恥辱をユダが背負わなければならない過酷な運命を憐れんで同情しての発言なのです。イエスの居所を祭司長に教えるユダの行為は神の御心にかなった行いだったのです。ユダは神から任せられた役目を遂行しただけであり、その任された役目を果たさなければ神の計画は完了しなかったことを考えれば、イスカリオテのユダは神の奴隷としてイエスの弟子として誰よりも忠実であったことに間違いは無いのです。

 いま私が申し上げた、ユダは神から与えられた使命を果たしただけに過ぎないという考え方は何も私だけの発案というわけではなく昔から多くの人によって論争されてきたことです。その代表的な考え方が、ウィキペディアイスカリオテのユダの欄のところにも記載されている、スイスの神学者であるカール・バルトによる、『ユダはイエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」』とする説です。私は、カール・バルトのこの説を全面的に支持します。また、その説が書かれている少し下に記載されている『すでに2世紀後半のキリスト教父文書には、異端の説としてユダの福音書の影響を受けたとみられる「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えがあったことを告げている。」』という箇所にも同様にある程度までは私も支持します。なぜなら、全ては神の計画だからです。

 私は人間の自由意思などというものは一切認めません。ユダもイエスの弟子の一人として悟りを得ていたのならば、このことを当然理解していた可能性はあります。しかし、先ほど申し上げた通り後悔をしたユダが自殺をしたという話しもあることから、人間には一切の自由意思はないという悟りにまでは達していなかったのかもしれません。もし、全ては神の考え通りにしか進まない、人間は神の操り人形でしかないという段階にまで悟りを得ていたのなら、外形的には自分の裏切り行為でイエスを死に追いやったように見えることであっても、たとえイエスの死後、平然と生きていたとしても、元から人間性のかけらも無かった場合を除いて、それは一切合切が神のご意思に基づくものであることを理解したうえでの事として、周囲の人々からいくら非難を浴びても深刻な状況に至るほどの良心の呵責に苛まれ自殺をすることはなかったのではないかと思います。しかしながら、ユダの自殺が真実なら、そこまで悟っていたとは言えないことになります。もしかしたら、これは憶測ですが密告に関しては、ユダがまだ十分な悟りを得ていなかったにもかかわらず、若しくは皆無だったにもかかわらず自殺をすることも分かったうえで神の計画通りに行動するようにイエスはユダを促していたことも考えられます。いずれにせよ、ユダの真理に対する理解は限定的なものだったために自らの行動に自責の念を感じ、それに耐えられなくなってしまい死を選んでしまったのではないかと思います。なんにせよ、その事さえも神が人間に対して御望みになられたことであると言えるのです。つまり、そういったユダの裏切り行為があったればこそイエスは磔になり、死から復活したあと昇天し、さらに使徒たちの宣教と殉教があるという一連の流れが生じてイエスの教えは世界宗教へと発展していくことになったのです。

 そして今、ユダは決して裏切り者ではなく、真実は、その逆であり当の本人にその自覚があったかどうかは別として、神に対してもイエスに対してもユダは誠実で忠実なる奴隷であり、12人の弟子の一人であることに何ら変わりがないと考え、加えて、その事を伝える動画を制作してユーチューブで配信し、2,000年という長きにわたって着せられた裏切り者という濡れ衣を晴らすための私の行動、さらに、この動画を視聴して納得する人あるいは反感を感じる人さえも含めて、それらの事すべてが神の計画の一部として既に2,000年前に、或いは宇宙が誕生した時にはもう決められていたことかもしれないということを認識しなければいけないと思います。神は、それほど偉大なのです。その事を歴史の流れの中で理解すればユダの行為は正当化され、そこには裏切りという行為はもとからなく、あるのはただ神の意思に忠実に従ったユダの姿しかないということが分かるのではないでしょうか。だからこそイスカリオテのユダの行為について歴史上、神学上の観点から「裏切りの神秘の達成」というウィキペデイアに書かれている言葉の意味が成り立つのではないかと思います。

 もっと簡単にわかりやすく説明をするならば、この世は真我が夢見る現象世界です。現象世界ですから現象世界全てを含めて、そこに登場する人物はただの映像です。従って、ただの映画ですからいいも悪いもないのです。人によって平凡な人生であったり、波乱に満ちた人生であったり、貧しい人生であったり、大金持ちの人生であったり、それらがミックスされた人生であったりと人によって様々なジャンルの映画が上映されているだけと言えます。戦争映画や恐怖映画のように狂気と殺りくに満ちた映画がある一方、愛とロマンに満ちたファミリー映画やファンタジー映画があるのと一緒です。それは私やあなた、これを見ている人ばかりでなく世界中の全ての人がそうなのです。

 ユダに関して言えば、その人生は宗教的伝記映画にジャンル分けできるのではないでしょうか。そのように考えれば、ユダは役者の一人にすぎません。悪役を演じただけのことです。ユダは、誰も引き受けたがらないような悪役を演じただけなのに2,000年ものあいだ裏切り者のレッテルを張られ続け汚名を着せられてきました。イエスの教えが世界宗教までになったのはユダの功績があったればこそです。むしろ非業の死を遂げ憎まれ続ける悪役という大役を引き受け演じてくれた陰の功労者とも言えるユダこそ褒め称えられなければいけない存在なのではないかと私は思います。敵役や悪役があってこそ主人公が際立ち光り輝くというものです。きっとイエスもユダに感謝しているはずです。イエスとユダは一つであり、そこに分離はありません。私は、神とイエスとユダは三位一体であると考えます。そこに分離があると見るのは間違いです。

 この動画を視聴している人で、もし悟りを得たいというのであれば、この世の中の出来事に対し分別をつけて見るようなことは決してしないでください。いいも悪いも平等に見ることです。そこに違いを見るのではなく善も悪も同じもの一つのものコインの裏表でしかないと見るように心がけることが大事だと思います。善悪という考え方は、あくまでもこの世のものでしかありません。現象世界を鑑賞している純粋意識である真我は善悪を超えています。神も悪魔もありません。真我に至れば善悪といった観念は、そこには無いことが分かります。ただ在ることしか出来ない純粋意識に考えるというようなことはありません。それは純粋な気づきだからです。気づいていることに気づいている純粋な気づきなのです。それは明白です。言葉では説明できませんし、頭で考えて理解できるものでもありません。ただ体験を通してでしか理解できないものなのです。そして、その体験をするためには未来への期待を捨て、この世の物質的な事に対する執着心を捨てる必要があります。

 それはどういうことかというと、何かしらの行為をした後の見返りに対する期待を諦めることが大切ということです。成すべき行為の結果が良かろうと悪かろうと結果を一切期待することなく、ただ今やるべきこと、しなければならないことを淡々と行い、成果によって人から与えられる損得を考えることなく、行為の貴賤や優劣にもこだわりなく、するべき行為をしっかりとやり遂げることだけに専念するということです。そして、行為をし終わった後においても、私は、これだけのことをやったのだから、これだけの報酬があって当然だとか、あんなにも色々なことをしたのに何の見返りがないのは不当だなどと思わないようにすることです。また自分のやるべき行為をちゃんとやり遂げたにもかかわらず結果的に望んだ通りには物事が進まず期待したほどの成果を得られなかったとしても嘆いたり憤ったりしないということです。行為に対する評価から得られる何かしらの精神的物質的満足は、あくまでも自然の成り行きに任せておくようにするということです。少なくとも行為をしている間、つまり人生を生きる中で生じる全ての行為は運命として定められた行為として受け止め、神に対して誰に対しても報酬を期待することなく今しなければならない行為に集中し、唯々やるべき行為をすることが大切です。私は、私の人生において今言ったようなことを常に心がけています。なぜなら、この現象世界で起きることは、起こるべきことが、ただ起きているだけの事であり、体験すべきことをただ体験しているだけであり、真我として鑑賞すべきことをただ鑑賞しているだけの事なのだと理解しているからです。従って、私たちがやらなければならないことは、今に集中し余計な事を考えずに自分の行為をただただ無心にやりさえすればいいだけのことなのです。これは一朝一夕にはいかないかもしれませんが、それが、精神活動も含めた自己の内外面における活動を客観視することにつながります。

 話しをイスカリオテのユダのほうに戻しますが、私たち人間は誰であろうと神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットです。神に帰依した私一人だけが奴隷であり操り人形でありロボットであると言っているわけではありません。神を信じていなくても全ての人が例外なくそうなのです。これを聞いた人が、その事を認めようと否定しようと、それが真実なのです。誰であろうと神の意思通りにしか動くことができません。従って、自覚の有無にかかわらずユダも当然神の命令通りプログラム通りに動いただけに過ぎません。だから私は、ユダはイエスと並ぶほどに神に忠実なる僕であったと考えるのです。もちろん、神の忠実なる僕であるという点では古今東西の全ての人が例外なく誰もが忠実な僕と言えます。

 こういった考えは、私のように人間には自由意思がないと考える人には容易く受け入れられるでしょうが、個人の自由意思を信じる人には受け入れがたく当然私のこの考えを否定すると思います。しかし、私からすれば、その否定する考えさえも神が設定したプログラム通りということになります。この世界は相対性の世界ですから相反する考え方があって当然です。善は悪があって成り立つように真逆の考え方がなければ、この世界の存在意義はなくなります。

 この世界は神が神自身の栄光を自ら体験するために作り出したものではないかと思います。神にしてみれば、この世界はただのゲームです。神は、自分が神であることを忘れるようにして一人一人の人間に同一化して人生ゲームを楽しんでいます。しかし、時たまイエスやお釈迦様のような真理に目覚める人生の物語も設定し自分が神であったことを思い出すようにしているのではないかと思います。

 以上の事から、イスカリオテのユダは決して裏切り者ではなく神とイエスの忠実なる僕であり12人の弟子のうちの一人であることに変わりはないのです。私としては一日も早くユダの名誉が回復されることを切に願うばかりですが、これさえも神の御心次第ということになります。

 いかがでしたでしょうか。これを聞いた視聴者の皆さんは、どのようにお考えになられるでしょうか。ユダは本当に裏切り者なのかどうかという論争は、これからも尽きることはないと思います。しかし、私は、この世に敵役や憎まれ役、悪役はいても本当の悪人はいないと思っています。当の本人が、自分は根っからの悪人で人を苦しめるのが大好きだと自負する人であっても、それも神が、そのような性格として、この世に誕生させ悪人としての人生を歩むようにプログラミングしているだけの事です。神はサタンさえもご自分でお創りになられ、わざと神に抵抗するようにさせています。それもこれも神の力と栄光を自ら体験するためです。人類の科学が進歩すれば、そう遠くない未来において自分が自由に設定した仮想空間の中に自己を忘れて没入し色々な物語をあたかも現実のように体験できる装置が売り出されるかもしれません。まさに、その作り出された仮想現実の世界では体験者が創造主になります。仮想現実の中の登場人物はただの映像に過ぎないにもかかわらず体験者が登場人物に同一化しているため、自分は現実に存在していると思い込むことになります。要するに、この世界は今説明したようなシュミレーションゲームの世界だと考えれば良いのではないかと思います。だから、この世界は幻想に過ぎないことを見破るためには、この世界への欲と執着から離れることが必要になるのです。 

 なんにせよ、ユダは自ら命を絶つほどの後悔の念に囚われてしまい死んだ後も裏切り者の烙印を張られ今も消えることはありません。しかもそれは神によって、そのような人生を生きるようにさせられたのですから同情の余地が十分にあるのではないかと思います。私は、イスカリオテのユダは従順な神の奴隷として死んだのであり彼自身には一切の罪はないと私は信じています。まぎれもなくイスカリオテのユダはイエスの12人の弟子のうちの一人なのです。これを聞いた視聴者の皆さん、イスカリオテのユダが本当に裏切り者だったのかどうか、或いは神の設定した物語を忠実に演じただけの役者に過ぎなかったのかどうかをなにとぞ考えていただきたいと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

ヨハネの黙示録は潤色された悟りの書⁉

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が24回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は新約聖書ヨハネの黙示録について私の解釈を述べようと思います。この動画を挙げるきっかけになったのはユーチューブで世界を滅ぼす最終戦争や放射能汚染、或いは巨大隕石の落下などがヨハネの黙示録で予言されているという内容の動画を見かけたからです。検索窓でヨハネの黙示録で検索をしてみると、ヨハネの黙示録は世俗的な意味での世界の終末を予言したものだという動画ばかりが出てきます。まるでヨハネの黙示録は本当に人類の滅亡を予言している低俗で安っぽい予言書であると言わんばかりの有り様なので、私の考える解釈を動画にすることでヨハネの黙示録はけっして自然の脅威や宇宙からの脅威、または人の手が加えられた人工物などによって人類が滅亡する予言をしているようなものではないということを明確に指摘しておこうと思います。

 まず、ユーチューブの動画を見てヨハネの黙示録が人類の滅亡を予言するものだと思う人には、まず、ちゃんと聖書を読んでいただきたいと思います。しっかり読めば、何かしらの原因による人類の滅亡を意味するようなことは書かれていないということがお分かりになるのではないでしょうか。確かにウィキペディアには色々ある解釈の中の一つとして、起こっていない未来の出来事を予言するものとして書かれたとする解釈も載っています。その解釈は、ある一面正しいと言えば正しいのですが、その未来における予言とは、未来は未来でも、将来悟りを開き解脱をするであろう人の内面における心的変化についての予言であり、その心的変化について大形(おおぎょう)に説明しているものなのです。ある意味、悟りを開き解脱をした人にとって物質的世界はもはや意味をなさないものになってしまうことから、その人にとっての世界は終末を迎えます。もし、黙示録が予言の書であると言うのであれば、その中で語られる世界の終末とは、悟りを得た人若しくは解脱をした人、或いは、その途上にある人の予想される経験のことであり、精神上の変化の過程で引き起こされる可能性のある自己を中心とした内外面に対する見え方の様変わりから生じる現象世界に対して感じる無意味さ、若しくは現象世界の消失を指して言っているのです。黙示録は、簡単に言えば悟りに関する説明をしている解説書であると言えます。いずれにせよ、人類の滅亡などと解釈する人は文字の表面上の意味や文章全体から受けるおどろおどろしい印象だけを捉えて、そこに書かれた真の意味を見ていないだけだと思います。

 また、ユーチューブに限らず、ヨハネの黙示録を人類の終焉を予言したものとして取り上げているものの中には、聖書に書かれている本当の内容や意味などどうでもよく、人の恐怖心や不安感を利用し興味や関心を引いて視聴者数を稼ごう、利益を得たいという思惑を持つ人たちによってエンターテインメント性のみを重視して製作されたものもあるのではないかと私は思います。従って、ヨハネの黙示録の内容について語られる動画などについては、それを見る目的によって見たり聞いたり読んだりする対象を慎重に選ばなければいけないと思います。

 そこに書かれている内容が、本当に人類が滅亡する未来を予言している文章なのかどうかを自分で判断し、また、これからお話しする、私の解釈の真偽を確かめたいと思うのであるのなら、まずは自分の目でしっかりと聖書を真面目に読む必要があるのではないでしょうか。ありがたいことにネットで検索すればキリスト教の聖書全文が読めるサイトがいくらでも出てきますので是非この機会にヨハネの黙示録と一般的に同じ人物が書いたと言われているヨハネ福音書及び第一第二第三まだあるヨハネの手紙を読んで、それらの内容を比較することからはじめていただきたいと思います。どのサイトの聖書を読めばいいのか分からないというのであれば、私も普段利用しているサイトがあることから、説明欄にURLを載せておきますので、もし宜しければご活用してみてはいかがでしょうか。それに今回は聖書の内容を多く取り上げることから該当する箇所をご紹介したサイトの聖書などを実際に読みながら動画をご視聴されることをお勧めします。

 それでは、ここから黙示録の中身の話しになりますが、私はヨハネの黙示録は、もしかしたら違う人が書いた可能性があるのではないかと感じます。ヨハネ福音書ヨハネの手紙の第一から第三までの文章を読み比べると文体と語調に違いがあることから同一人物が書いたことに対し疑問が生じます。なぜなら、ヨハネはイエスと出会った時、兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたからです。使徒言行録の4章13節には、イエスの弟子のペトロとヨハネの二人が無学で普通の人であったことが書かれています。ネットで検索すると当時のパレスチナ識字率は3%程度で地方の村では1%に満たなかったという記述が見つかることから、学校制度もない当時、イエスの弟子となった最初の頃のヨハネもご多分に漏れず読み書きができなかったとみるのは自然なことではないでしょうか。しかしながら色々な説があるにせよ、ヨハネ福音書、第三までのヨハネの手紙、ヨハネの黙示録といった一連の文章はヨハネが70歳以降の晩年に書いたものではないかという説が、どうやら濃厚なようなので、ヨハネはイエスの弟子の中で唯一殉教することなく94歳まで生きたとされる人ですから、その長い人生の中で読み書きを勉強し、それなりの知識を身に着けていったのではないかと考えるのは、それほど不自然なことではないと思います。但し、最低限の読み書きが出来たであろうことまでは推察できても神学上の高度な知識と教養がなければ到底書けないのではないかと思えるようなヨハネの黙示録に見られる一見すると仰々しくもある独特な言い回しを、宗教を学問として専門に学んだこともなく文学上の特別な訓練をしてきたわけでもないであろうと推測できる人が他のヨハネ文書とは違う書き方による文章を簡単に使い分けができたと考えるには少し無理があるのではないかと私は思います。だからこそ、ヨハネの黙示録を書いたのは別人ではないかという説があるのもうなずける話しだと思います。私は、このヨハネの黙示録については別人が書いた可能性を否定はできないのではないかと思っています。しかしながら、今回の論点はそこではないので他のヨハネ文書を書いた同一人物のヨハネが書いたことを前提として話しを進めていきたいと思いますが、私が思うに一つの可能性として多分ヨハネが書いた元となる文章があって、それを後世の人がその文章及び聖書全体に権威付けをしたいがために、いかにも、もったいぶった感じで大げさにうやうやしく重々しく格式ばった感じになるようにわざと書き換えた可能性もあるのではないかと感じます。従って、これをヨハネ文書から外す考えには反対です。なぜならヨハネの黙示録は、けっして世界の終末を予言したものではなく悟りに至る過程とイエスの教えを礼賛(らいさん)する話しをしているのではないかと思うからです。そして、なぜそう思うのかということをこれからお話ししていくことになるのですが、具体的にこれから黙示録について私が、お話しする内容はあくまでも現段階における見解であり、それもほんの一部分に関するものです。なぜ、そんな事をいちいち言わなければならないかというと、私の気づきは発展途上にあるからです。よって今回申し上げることは現段階における限定的なもので絶対的であるとは言えません。あくまでも現状認識を申し上げているだけですので、これから先私の気づきが深まった場合には、将来ヨハネの黙示録に対する見方が変化する可能性があることを何とぞご理解の上お聞きくださいますようお願い申し上げます。なんにせよ、私なりに少しずつであってもヨハネの黙示録の核心に近づいていこうと思います。

 私は以前の動画内で新約聖書は悟りの書であると言ったことがあります。悟りの書である以上、ヨハネの黙示録も例外なくそこから漏れることはなく悟りに関することが書かれていると私は思っています。黙示録を書いたヨハネイスカリオテのユダを含めたイエスの12人の弟子のうちの一人ですが、ウィキペディアによればイエスの母マリアを連れエフェソスに移り住んだヨハネは、のちにパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を記したと書かれています。時系列的には第三まであるヨハネの手紙を書いたあとの96年あたりに書かれた説が有力なようです。一説によるとヨハネは西暦6年頃に生まれ亡くなったのは西暦100年頃と言われていますから、それが正しいなら西暦96年といえばヨハネは90歳ということになり、94歳で亡くなる4年ほど前にこの黙示録は書かれたことになると思います。そういう事を考えれば1章3節と22章10節の「時が近づいているからである。」が意味することはヨハネ自身が自分の死期が間近であることを自覚して、そう書いたのではないかと思います。

 黙示録を読むと、仰々しくおどろおどろしい言葉の持つ表面的な意味のインパクトの方が大きく、それに惑わされてしまい一体何が書かれているのか分からないと感じる人がほとんどではないでしょうか。しかしながら、これらの言葉の多くは比喩であると捉えた方が良いと思います。なぜかというと、ヨハネ福音書16章25節の「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。」という一文からも分かるようにイエス自身がそれまで話してきたことについて譬えを用いていたことを打ち明けています。ルカによる福音書8章10節にも群集の前で話した譬え話には、どんな意味があるのか弟子に尋ねられた時、イエスは次のように答えています。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」また、イスラム教の聖典であるコーランの雌牛の章26節には「本当にアッラーは、蚊または更に小さいものをも比喩にあげることを厭われない。信仰する者は、それが主から下された真理であることを知る。だが、不信心者は、アッラーはこの比喩で一体何をお望みなのだろうかと言う。彼は、この様に多くの者を迷うに任せ、また多くの者を(正しい道に)導かれる。彼は、主の掟に背く者の外は(誰も)迷わせない。」と書かれています。さらに、仏教においても人々を教え導く巧みな手段として方便という仮に設けた教えで真実の教法に誘い入れるやり方があるのは皆さんもご存知の通りです。つまり、教えを説く宗教者は、それを聞く人のレベルに合わせて真理を説きます。ヨハネの黙示録はその最たるもので、たとえ話によって神の教えを伝えようとしていたと考えた方が良いのではないかと思います。従って、上辺の言葉に惑わされることなく真の意味を捉えなければいけないと思います。もちろん、ここまで言っても黙示録は間もなくやってくる人類の終焉を伝えようとしている予言書だと思いたいのであれば、そのまま思い続けてもらっても構いません。イエスやその弟子たちほどの悟りまでいかずとも神の国の秘密の一端に触れることが許されているのは私や私の解釈が正しいのではないかと感じる人ではなく、人類滅亡の予言の書或いはそれ以外のことであると考える人かもしれないので自分の信じる道を進むのが、その人にとっての最善だと思います。

 話しを戻します。もし、黙示録が譬え話の最たるものだとして、それではヨハネは譬え話によって、一体何を伝えようとしていたのかということになりますが、それはもちろんイエス・キリストはこの世の真理を悟られた方であり、ヨハネはその悟った方の弟子として悟りの神髄を広めることに生涯をかけた人ですから、その書かれた内容は当然悟りに関することではないかと考えるのが妥当ではないでしょうか。加えて、この黙示録が悟りの書であると言えるもう一つの理由としては悟った人に共通する考え方が書かれていると感じるからです。私は仏典や聖書の外にインドの聖者といわれる人について書かれた本も色々読んでいますが、新約聖書の中の、特にイエスが語ったとされる言葉とインドの聖者などが話す内容には多くの共通点を感じます。そこから、イエスは悟りを得ていたのではないかと私は感じるのです。それと同じように黙示録の中には悟った人でなければ書けないような事柄が書かれています。わざと分かりにくくなるように遠回しな比喩の部分が多いので理解できないところもあるのですが、たぶん間違いはないだろうと思う主だったところを挙げながら話しを進めて行こうと思います。

 3章までは、七つの教会に対して送る手紙という形で神への愛から離れることなくサタンに負けることなく、あなたが住むサタンの世界の諸々の欲望に惑わされることなく真の自分をしっかりと保つことの大切さが書かれています。そこで、この文章の中のサタンを自我に、神を真我に置き換えてみると次のようになります。真我への愛から離れることなく自我に負けることなく、あなたが住む自我の世界の諸々の欲望に惑わされることなく真の自分をしっかりと保つことの大切さが書かれています、というように言い変えることができます。つまり、ヨハネは自我に勝利した者は悟りを得たものとして権威と栄光が与えられると言っているように私は感じるのです。これを聞いた視聴者の方は、私の単なるこじつけとお考えになられるでしょうか。

 気になるのは2章11節の第二の死とは何なのかということですが、これは、この世における人の死のことではないかと思います。それなら第一の死とは何なのかと当然なりますが、それはこの世に生まれ出ることを意味しています。私やあなたは純粋意識の真我ですから、この世に真我であることを忘れて生まれ出ることが第一の死ということになります。3章1節の「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」というのは、この世界は現象世界である以上、私やあなたはただの幻想で非実在であることを言っているのです。そこに命はありません。スクリーンに映る人の映像を指さして、この人は生きているとは誰も言わないはずです。だから2節で「目を覚ませ」と言われているのです。

 次の3節の「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」というのは、もし真我に目覚めないのなら、いつの日か第2の死を迎えることになると言っているのです。もちろん、これは単にイエスの教えをちゃんと守らないならお説教しに行きますよと言っているだけかもしれませんが、どの教会にあてた手紙を読んでも同じことを言っているように感じます。真我に気づき自らが真我であることを悟った者は神と共にあるという勝利を得ることができると書かれているように感じました。

 4章以降では右手に七つの封印がされた巻物を持った神様がいきなり出てきます。子羊に代表される悟りを開いた者、ここではイエス・キリストを連想する人に巻物が渡されます。その封印が解かれる度に白・赤・黒・青色の馬が出現しますが、その馬に乗っている者によって地上の災厄が象徴されていると思います。

 次いで7章14節に登場する神の僕としての刻印が額にある144,000人は男性とのことですが、その人たちは女性に触れて身を汚したことのない童貞だそうです。この144,000人はイスラエルの12の各部族から12,000人ずつ選ばれた人々です。12,000は12を1,000倍すると出てくる数で12の倍数ですが数の説明については後ほどしようと思います。その童貞の清らかな男性たちは「小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」人たちです。これは、欲望に囚われない精神と神の奴隷としての忠誠心を持つ人たちが子羊に付き従うことを言っているわけですが、この144,000人という数字が多いと考えるのか少ないと考えるのかは人それぞれでしょうが、いずれにせよ貴重な存在と言える人たちであることに変わりがないのではないでしょうか。14章の5節には「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。」と、その144,000人について書かれた、その直ぐ後の8節に「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」と続くことから、欲望への執着心の無い清らかな心こそが自我に打ち勝つ重要な点であることを説いているのではないかと思います。ここで見誤っていけないのは、お釈迦様も出家前に結婚して子供をもうけていたということです。実際に童貞であるかどうか純潔であるかどうか男性であるかどうかは関係ないと思います。あくまでも性別に関係なく欲望に囚われない心、執着しない心こそが大切であり、それが一番重要なのだと思います。

 そして144,000という数ですが、この数に何か意味があるのかという疑問が私を含め皆さんにもあるのではないでしょうか。そこで私は、この数にどういう意味があるのか計算をしてみることにしました。なぜかは分かりませんが割り切れる約数を出して約数の和を出してみようという思考がやってきたのです。

 それで144,000の約数を出してみるとご覧の通り(1, 2, 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12, 15, 16, 18, 20, 24, 25, 30, 32, 36, 40, 45, 48, 50, 60, 64, 72, 75, 80, 90, 96, 100, 120, 125, 128, 144, 150, 160, 180, 192, 200, 225, 240, 250, 288, 300, 320, 360, 375, 384, 400, 450, 480, 500, 576, 600, 640, 720, 750, 800, 900, 960, 1000, 1125, 1152, 1200, 1440, 1500, 1600, 1800, 1920, 2000, 2250, 2400, 2880, 3000, 3200, 3600, 4000, 4500, 4800, 5760, 6000, 7200, 8000, 9000, 9600, 12000, 14400, 16000, 18000, 24000, 28800, 36000, 48000, 72000, 144000)96個あることが分かり全部たすと517,140になります。次に、この5・1・7・1・4をたすと18になり1と8をたすと9になります。さらに、144,000の中の1に二つの4をたすと9になります。9はマタイの福音書18章12節の99匹の羊やルカの福音書15章7節の99人の義人など、イエスが言った言葉の中に9を見つけることができます。マルコによる福音書15章25節によれば、イエスが十字架に磔になった時間は午前9時です。黙示録の14章1節と4節には、この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちであり子羊と共にいると書かれています。そしてキリスト教では10は完全数であり神の完全性を象徴する数です。また物事の全体性や総計の意味もあります。出エジプト記34章28節の「十の戒め」、ルカの福音書19章13節に「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し」というように出てくる数字でもあります。それらのことを考えあわせると、それより一つ少ないということですから神ではないけれど子羊と一緒にいるということで神の近くに行くことができる選ばれた存在ということになるのではないでしょうか。9は完全数の10より1足りない不完全なものではありますが、逆を言えば1をたせば完全になる数字でもあることから完全に近い数字とも言えます。従って、心がけ次第で神のように完全な存在に成れることを暗に示しているのかもしれません。次に、これについても理由は分かりませんが私はなぜか96の約数を出すことにしました。96の約数は12個です。そして次々に出た約数の数の約数を出しました。12の約数が6個、6の約数が4個、4の約数が3個、3の約数が2個、2の約数が2個になりました。そうやって出した約数の96・12・6・4・3・2・2をたすと125となり、1・2・5をたすと8になります。8はキリスト教では復活を意味するようで、旧約聖書の創世記6章以降において神が起こした大洪水の時に箱舟に乗って生き延びることができた人間は神に従う無垢な人であるノアとその妻及び三人の息子とその妻の8人だけだったことから、8に関連する数は選ばれた聖なる数と言うことができるのかもしれません。

 次に12という数字の説明をします。12は、創世記49章28節に書かれるイスラエルの12部族の12です。イエスの12人の弟子の12です。キリスト教における12は、神の行政における絶対的完全と永遠の完成を意味する数です。この12で144,000を2回割ると1,000になります。2は、救い主キリストの神なる性質と人なる性質の二つの性質を象徴する意味を持つ数です。また創世記41章32節の「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」に由来すると思われる、ある事が二度繰り返されることは神の決定事項という意味があります。他にも申命記 17章6節に「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」と書かれているように、証人が二人いると,ある事柄が真実であると確証される意味にもなります。次いで、この1,000を完全数である10で3回割ると一致を意味する1になります。それは取りも直さず父と子と精霊を意味する三位一体の三一ということになるのではないかと思います。またヨハネ福音書17章21節にはイエスの言葉として「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。」と書かれています。このことから、1は神との合一を意味するのではないかと思います。

 ちなみに1,000という数は黙示録の中に千年という言葉で6回出てきます。6の数については、歴代誌第1巻20章6節の「指が6本ずつ合わせて24本ある巨人」、ダニエル書3章1節の「金の像を造った。高さは60アンマ、幅は6アンマ」という記述からも分かるように不完全なものや神の敵に関連するものを指すと考えられます。なぜなら6は、7より一つ少ない数だからです。7については、創世記2章の2節から3節にかけて「すべてを創造し終えると、神は七日目には休まれ、この日を祝福して、聖なる日と定めました。この日、天地創造の働きが完了したからです。」と書かれているように、またヨシュア記6章15節、マタイの福音書18章22節、レビ記4章6節、詩篇119章164節などにも7の数字が見られるように、人の行為や神の行為の正当性が7に関連させて語られていて7は神の活動における完全数を表します。従って6は神の活動における完全数に一つ満たないことから不完全なものや神の敵に関連するものを指す数になるのです。

 もしかしたら黙示録内にキリストが直接地上を支配する千年王国の千が6回出てくることや、キリストの統治期間が二千や三千ではなく千であることには何か特別な意味があるのかもしれません。まさかキリストの王国が神の敵ということはあり得るわけがありませんから、これが意味するところは一時的で不完全な悟りの状態を指しているのかもしれません。もちろん1の意味もありますから真の悟りは、その後に訪れる神が人と共に住み人は神の民となる新天新地が現れ出た時であることを暗示しているのかもしれません。それこそが至高の存在である真我と合一した解脱の瞬間なのではないでしょうか。

 また、人を表す数として666という数が13章18節に出てきますが、これはエゼキエル書21章27節に「ああ破滅、破滅、破滅、わたしはこれをこさせる。わたしが与える権威をもつ者が来る時まで、その跡形さえも残らない。」と書かれているように三度の繰り返しは物事の確実な立証や強調を意味することから人の不完全さが666という数字の繰り返しによって強調されていることが分かります。この666を割る場合で割り切れる数の約数には1, 2, 3, 6, 9, 18, 37, 74, 111, 222, 333, 666の12個があります。同様にある数字とある数字をかけた場合の答えが666になる数字の組み合わせは今画面に出ている通り(1 × 666 = 666,  2 × 333 = 666,  3 × 222 = 666,  6 × 111 = 666,  9 × 74 = 666,  18 × 37 = 666,  37 × 18 = 666,  74 × 9 = 666,  111 × 6 = 666,  222 × 3 = 666,  333 × 2 = 666,  666 × 1 = 666)12個あります。つまり666が割り切れる12個の約数同士を掛け合わせて666になる組み合わせは同じく12個あるということになります。これが、どういう意味になるのかというと12は神の行政における絶対的完全と永遠の完成を意味する数であるということから察するに、これはあくまでも私見ですが666に象徴される不完全な人間も神の支配の内にあるということを意味しているのではないでしょうか。また、6たす6たす6は18になり、その1と8をたすと9になります。完全数の10より1足りないということになりますが、やはり先ほど144,000の数のところで説明した通り、人間は神に近い存在ではあるものの神になり切れない不完全な存在であり、獣として生きるのか、或いは神に近い存在として生きるのかは、その人の心がけ次第ということを意味しているのかもしれません。

 次いで、144,000人の清らかな男性たちの出現の後に7章9節以降で「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数えきれないほどの大群衆」が子羊の血で洗われた白い服を着て玉座と小羊の前で神を礼賛するところが描写されています。

 これは7章16節 「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」17節「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」と書かれている通り、どんな困難にあっても信仰を守り抜いた人たちは神の庇護のもと救われることを言っているのではないかと思います。

 8章では巻物の第7の封印が解かれラッパを与えられた7人の天使が順次ラッパを吹くたびに地上の三分の一が焼かれ、海の三分の一が赤くなると共に海の生き物の三分の一が死に、ニガヨモギという星が落ちて川の三分の一が苦くなり、多くの人が死んでしまいます。第4のラッパが吹かれると太陽・月・星の三分の一が暗くなり昼も夜も三分の一が現れなくなりなります。この後の8章13節では、ヨハネを象徴する一羽の鷲が飛びながら「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」と3の数字に関連したことを言います。思うにこれは、悟りの段階が進むにつれて欲望が消えていくことに対し自我の立場からすれば、それは不幸なことだと嘆いていることを表わし強調しているのだと思います。また、三分の一という言葉で何度も3と1の数字を出してくるのは三位一体を言いたかったのかもしれません。つまり現象世界と自我、そして真我とは一体であり分離していない意味なのかもしれません。そして、第5のラッパが吹かれた後には人の顔をしたイナゴが現れて額に神の刻印がない人を5か月間苦しめます。5は、イエスが磔にされた際に体に受けた両手首、両足首の釘の傷と右脇腹の槍の傷の計5箇所の聖なる傷を連想させます。つまり、額に神の刻印がない人はイエスが十字架上で感じた同じ苦しみを受けることを言っているのかもしれません。どういうことかというと、悟りを目指す人は自我との戦いにおいて精神的肉体的苦痛を味わうかもしれないことを言っているのだと思います。

 第6のラッパでは、4人の天使が人間の三分の一を殺しますが、生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んでいます。これは何度も真理への気づきを重ねても現象世界への関心が残り、現象世界を生み出す自分の中にある堅牢な牙城に住む自我をちょっとやそっとでは倒せないことが表現されていて悟りに達するのはなかなか難しく至難の業であるという譬えではないでしょうか。第7のラッパが吹かれる前には、ヨハネは口には甘いものの腹には苦いという巻物を天使から食べるように言われ、それを食べますが、これは自我との戦いに伴う困難さに苦しみながらも自らの内に神の真理を受け入れるさまを表わしているのではないかと思います。また11章の1節と2節に「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、42か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。」というようにヨハネは命じられますが、これは神殿の外側は現象世界であり神殿は真我の譬えと見れば、神殿の外側の庭は現象世界であるから、そこを量ることはせずそのままにしておけと言われたのは当然ではないでしょうか。11章の3節には「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、1,260日の間預言をさせよう。」とありますが、この1,260という数は前節の42という数と共に何か意味があることなのではないかと思います。しかしながら、正直私にはよく分かりません。そうは言っても、一応色々と計算をしてみることにしました。1,260に関しては、その約数がご覧の通り (1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 9, 10, 12, 14, 15, 18, 20, 21, 28, 30, 35, 36, 42, 45, 60, 63, 70, 84, 90, 105, 126, 140, 180, 210, 252, 315, 420, 630, 1260 )全部で36個あり3と6を足すと9になり、約数の和は4,368になります。その4・3・6・8を足すと21になります。2と1を足すと3になります。3は物事の確実な立証や強調を意味します。1,260の中の1たす2たす6は9になって、ここでも9の数が出てきます。36の約数は9個で、9の約数の数は3個です。3の約数は1と3の2個です。2の約数は2と1の2個で、2が2回繰り返されて、これ以上約数の数を出すことは出来ません。2は先ほど申し上げたように救い主キリストの神なる性質と人なる性質の二つの性質を象徴する意味を持つ数であり、また、ある事が二度繰り返されることは神の決定事項という意味があります。さらに、1,260から導きだされた約数の数の36・9・3・2・2を全部たすと52になり、5と2を足すと7になります。7は神の活動の完全数です。そうなると二人の証人による1,260日間の預言には良い預言と悪い預言の両方があり、その全てに神が関与していることを示しているのではないでしょうか。

 次に42ですが、約数は、1, 2, 3, 6, 7, 14, 21, 42 の全部で8個あり約数の和は96です。9足す6は15で1たす5は6です。4と2を足しても6になります。6は不完全なものや神の敵に関連する数です。42の約数には8個ありますから、先ほどと同じように8の約数は4個、4の約数は3個、3の約数は2個、2の約数は2個、2の約数は2個というように約数の数を出していくと8・4・3・2・2となり2が繰り返される解釈は1,260の時と同じでイエスが持つ神と人の二つの性質から、それには両面性があると考えられます。さらに、この8・4・3・2・2 を全部たすと19になり、1と9を足すと10になります。10は完全数で、例えば、出エジプト記20章に書かれている、いわゆるモーセ十戒は神の全き要求を表します。そうなると、42か月のあいだ異邦人により聖なる都が踏みにじられることには良い側面と悪い側面の二面性があり、かつ、それは神の望みによる決定事項という解釈になるのではないかと思います。加えて、1,260と42のどちらにも導き出された約数の数が5つあり、5には先ほど申し上げた通りイエスが磔にされた際に体に受けた5箇所の聖なる傷の意味があることから、1,260と42の二つの数は聖なる数でイエスと同じ苦しみを受ける可能性を暗示します。たとえ、2は繰り返さないと考えて導き出される約数の数は4だとしも黙示録7章1節の「大地の四隅」、イザヤ書11章12節にも「四方の果てから」と表されるように4は形や機能の完全さを表わす数と解釈されます。要するに、どの様に解釈しようとも神の行いの完全性に行きつきます。

 14章20節には酒ぶねから流れでた血が1,600スタディオンにわたって広がったとのことで、ここにも1,600という数が出てきます。この約数もご覧の通り(1, 2, 4, 5, 8, 10, 16, 20, 25, 32, 40, 50, 64, 80, 100,160, 200, 320, 400, 800, 1600)21個です。1,600の約数の和は3,937になります。その3・9・3・7を足すと22になり2と2を足せば4になります。4は形や機能の完全さを表わす数です。ある数とある数をかけて1,600になる組み合わせも21通りあります。2と1を足せば3です。3は物事の確実性や強調を意味します。21の約数は4個で、4の約数は3で、3の約数は2で、2の約数は2です。出た約数の21・3・2・2を足すと28になり、2と8をたすと完全数の10になります。1と6を足せば、これも神の活動の完全数を表す7になります。つまり、14章の天使が鋭い鎌で地上のぶどうを刈るのは正当な神の意思による行為であることを言おうとしているのではないでしょうか。これを悟りと結びつけるのならば自分の中の現象世界を滅ぼすことの大切さが語られていると思います。ちなみに1,600スタディオンはイザヤ書に出てくるボズラからハルマゲドンまでの距離に相当するとのことです。

 この事から黙示録の中に出てくる数はイエスの言葉や旧約聖書に起源を見て取れるのではないかと思います。つまり、144,000、1,600、1,260、666といった数は旧約聖書やイエスの言葉に由来するものであり、ヨハネが聖なる数或いは邪な数と考える数を駆使して、この世の全ての事には神の意思が働いているという意味付けと文章に神秘性を醸し出したいがために編み出した苦心の数ではないかと思います。数に神秘的な意味が隠されていると考え、その秘密を解き明かし人の運勢などを占おうとする数秘学、または東洋占術や西洋占術などをやっている人で数に詳しい方は計算をしてみてはいかがでしょうか。私としては、これらの数に深く固執しない方が良いと思います。囚われすぎると144,000人は地球を救う光の戦士の数とか、666は悪魔の数とか本当に荒唐無稽な話しになってしまいます。ヨハネは、あくまでも悟りを開いたイエスの弟子であることを忘れてはいけないと思います。

 次に第7のラッパが吹かれると「死者の裁かれる時が来ました。」と11章18節にありますが、これは悟りを目指し修行を行っていた人が現象世界の中でそれまで生きていたと勘違いしていたことに気づくことを指しているのだと思います。誰も映画やテレビの中の登場人物を生きていると言わないのと同じです。真理に気づいた人は自分の本性は他にあることに気づきます。現象世界の全てには実体がないことを悟り、そこに真実がないことを理解します。それは仏教において般若心経を理解する段階に入っていくようなものなので、次の19節において「そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。」と表現されるわけです。

 そして、ここから、いよいよクライマックスに向かってヨハネは話しを盛り上げていこうとして色々と脚色のために凝った演出をしながら物語りを過大な言葉で飾って盛っていくわけです。真理の探究者は、真理の奥深さを知り、さらに深奥へ意識をどんどん向けて探究を深めて行くわけですが、サタンやその手下どもである様々な欲望として現れる竜やヘビたちは、そうやすやすと自分たちの支配を明け渡すことはありません。なぜなら自分たちの生存がかかっているからです。探究者に悟られてしまえば、サタンやその手下の竜やヘビの欲望の出番はなくなるからです。従って、サタンと手下の欲望は自分たちの生き残りをかけて命がけでこれでもかというほどの手練手管を使って悟りを得ようとする者を惑わし続けようとします。しかしながら、一度でも真理の一端を垣間見た者にはもうそれまでの欲望による誘惑の手段は通用しません。欲望の正体を見抜いているからです。欲望はサタンから生じます。つまり、サタンとは自我のことなのです。自我は欲望を使って自らの存在を誇示します。欲望に執着することは自我に囚われていることになり、すなわちサタンの虜になっていることになるのです。自我に打ち勝つためには12章11節で「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」と書かれているように自分の命でさえも惜しむようなことをしてはいけないのです。お分かりいただけるでしょうか。

 12章以降では、サタンとその手下どもは激しく天使たちと戦い地上に投げ落とされます。天使たちとは、悟りを目指す探究者の内にある聖なる欲求のことです。サタンである自我は、自分の命にさえ執着しない悟りを目指す者の聖なる欲求に打ち勝つことは出来ません。地上に投げ落とされたサタンは、それでも負けを認めず執念深く抵抗をし続け、時には自我が優勢になる時もありますが、結局、14章5節にあるように悟りを一心に希求する人の「偽りがなく、とがめられるところのない者たち」が最後には勝利するのです。その勝利の時こそが、14章7節に「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」とあるように探究者が、いよいよ悟りを得るに相応しい人であるかを神が判断される時の到来になるのです。

 15章以降では悟りを目指す探究者が段階を経ながら真理に気づいていく様を描写していると思います。悟りへの気づきの深まりと共に自我から生じた現象世界は探究者自身の強い意思で滅ぼしていかなければなりません。それができれば18章2節に書かれているように「倒れた。大バビロンが倒れた。」と描写されるように自我に勝利することができるのです。同じ18章の9節以降は欲望によって快楽にふけり富を得ていた地上の者たちは自我を象徴する強大な都バビロンがあっという間に神の裁きにより壊されたことを嘆き悲しみますが、これは自我の視点からの嘆きなのです。

 19章では現象世界を欲望に満ちさせた自我が敗れさったことを賛美しています。だから1節2節で「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を彼女になさったからである。」というように書かれているのです。悟りを目指す探究者が自我の欲望に打ち勝つ過程を劇的にまさに芝居がかった感じで描写しているのです。

 7節には「わたしたちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。」とあります。ついに悟りを得た探求者と真我との合一の日がやってきました。それが子羊の婚宴なのです。

悟りを得た者に、この世の死は何の意味もありません。この世はただの現象であることを知っているからです。悟りとは自分が真我であることを知る第一の復活なのです。故に20章6節に書かれている通り「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」ということになるのです。

 しかしながら安心はできません。サタンである自我はしぶとく執念深いのです。油断をすればいくらでも自我は、その力を取り戻そうと狡猾な手段を講じて蘇ろうとしてきます。ですから一時的な真我の直接体験をしたからといって、これでもう良しと思ってはいけないのです。しっかりと自己の基盤を真我に立脚するためにも絶え間なく精神の鍛練を続けなければいけないと思います。お釈迦様が悟りを開いた後に遊びほうけたでしょうか。イエスが人々に教えを説いて回っている最中に世俗的な遊びをしたでしょうか。遊びが悪いわけではありませんが、やはり真理を知ったあとでも、その真理の認識を保つ努力は怠ることがなかったと思います。そうすることでサタンである自我の欲望が息を吹き返し再び執着が甦ることを阻止できるのではないかと思います。

 そして21章以降は真我との合一が完全になされることを描写しているのではないかと思います。それが新しい天と地という形で言い表されているのではないかと思います。宝石のように輝く栄光に満ちた聖なる都であるエルサレムが神のもとから下ってきます。21章の3節から4節にかけて次のように書かれています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住み人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 また、5節に玉座に座っておられる方が万物を新しくすると書いているように悟りを得た者の世界を見る目は変わります。真理を知る以前の欲に囚われた人のままでいることは不可能です。その人にとっての世界は新しく生まれ変わるのです。しかしながら、悟ろうとしない者、真理を知ろうともしない人は変わりない人生をそのまま生き続けます。だから8節には次のように書かれているのです。「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」つまり、本当は死などというものが存在しないにもかかわらず真理を知らないが故に死が存在するものとして死を意識し、さらには死後の地獄の恐怖におびえ続けることを言っているのです。

 そして、21章7節から8節に次のように書かれています。「事は成就した。私はアルファでありオメガである。初めであり終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」

ここでの成就するべき事とは、自らが世界を創造した真我であり神であったことに気づくことです。それこそが真の悟りであり成就されるべき神の計画なのです。

 21章には、また12,000と144という数字が出てきますが、12,000は12の千倍、144は12の12倍で共に12の倍数です。絶対的な完全と永遠の完成を象徴し神の完全な取り決めを表わします。この世の真理を知り悟りを得る者は、神の計画に基づく予定調和の一つです。さらに真我に常在し解脱ができるほどの覚者は、現代においてはそう多くはないと思います。そういう意味で神に選ばれた者とも言えます。だからこそ、そこには神が託した深い意味があるはずです。故に真我探求は、単に真我の直接体験をすれば終わりではなく、人生が終わるその日まで真我探求は続けていくことになるのです。数に関してはもう十分だと思いますので、これ以上は数の計算はしません。関心のある方はご自分で色々と試してみてはいかがでしょうか。

 22章15節には先ほど言った21章8節に似た文章があります。「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」今言ったことに該当する人々は現象世界の中では私たちの周囲で普通に暮らしていたりします。それらの人々が都の外にいるというならば、ここでいう都は現象世界でないことは明白です。それなら、その都はどこにあるのでしょうか。ヨハネの黙示録に書かれている聖なる都の在りかは私たち一人一人の内側にあります。ルカによる福音書17章20節から21節にかけて「イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われたように神の国は私たちの中にあるのです。自分自身を含め、この世をどうにかしよう、どうにかできると考える心を捨て去り、他人の生死、自分の生死を含め現象世界に囚われなくなった心境こそが神の国へ向かう道なのです。その道の先にはイエス・キリストがいて私たちが来るのを待っています。なぜなら22章17節にこうあるからです。「“霊”と花嫁とが言う。来てください。これを聞く者も言うがよい、来てくださいと。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」

 もし、これを聞いた人で、この現象世界に嫌気がさして神の国に行きたいと思うのならば、是非真我探求をして下さい。私が体験した一時的な真我の直接体験程度なら熱意があれば十分成し遂げられます。いつでも神の国は、それを探し求める人には開かれています。自分の中に神の国を見つけることは、私はそんなに難しいことではないと思っています。

 以上のことから比喩を使いながら悟りの境地を伝えようとしたヨハネの真意を曲解して、表面上の言葉の意味合いだけに囚われて、黙示録は未来における人類の滅亡を予言していて最終戦争を描写しているなどと考える人は、正しく自我であるサタンの誘惑に惑わされた人々であると言えるのではないでしょうか。もちろん、それが悪いわけではありません。惑わされるのも、その人の人生だからです。惑わされたい人は、そのまま惑わされ続ければ良いのです。現象世界の中で遊び続けたい人なのですから、他人の遊びを邪魔してはいけません。しかしながら、ヨハネの黙示録が本当に人類滅亡を予言したという説に疑問を感じるのなら他の可能性を考える必要があるのではないでしょうか。

 私は、少なくとも最終戦争や天変地異などによる人類滅亡を予言している文章でないことは明言できます。そもそも創世記8章21節と22節で「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」と神は言われました。さらに9章1節から2節にかけて『神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」』と仰せられたのです。神が、その様に言われたのに、どうして人類が神によって滅ぼされるというのでしょうか。或いは神ではなく人類自らが人類のすべてを滅ぼすような核戦争をすることを言っているのであり、それをヨハネが予言しているのだと言う人がいるのであれば、それほど大規模な核戦争では核の冬が到来するのは免れないでしょう。それは人類のみならず他の動植物も巻き添えにして滅ぼしてしまうことになります。そんなことを神がお許しになるわけがありません。そもそも指一本でさえ神の意思に反して動かすことは出来ないのですから、全ては神の計画通りにしか進まないのです。当然、神の意思に反して人類が滅びるようなことが起こるはずはないのです。ヨハネが創世記の8章9章の神の言葉を知らないはずがありません。ヨハネが神の言葉に反することを書くはずがないのです。人類滅亡の予言などという人は先ほどの創世記8章9章に書かれている神の言葉を知らない人か信じない人たちです。それこそ不信心者です。そんな不信心者の言うことなど聞く必要はどこにもないのです。今地球上に80億人以上にまで人口が増えたのは神のご意思そのものです。神の栄光そのものです。故に、私は神の栄光を心から賛美し讃えます。私は神を心から愛しています。なぜなら、神を愛することは世界を愛し人々を愛しあらゆる生き物たちを愛し、そして自分自身を愛することになるからです。それら全ては神が創造されたものだからです。だから私は神を心から愛するのです。もし、黙示録に書かれていることが最後の審判について書かれているというのなら、その最後の審判というのは悟りを目指す人が、その悟りを得るに本当に相応しい段階に至ったかどうかが神によって品定めされることを言っているのです。サタンとは自我のことです。バビロンとは自我によって顕現した現象世界です。バビロンの滅亡とは欲の世界の現象世界が消え去ることです。子羊の婚宴とは、これも抽象的な表現であって悟りを得た人による真我との合一を指す霊的結婚を意味しています。この場合の霊的結婚とは一種の比喩であり譬えであり精神的な意味でのつながりを言います。梵我一如でありなさい。性別に関わりなくキリストと結婚する花嫁になりなさいと言っているのです。

 なぜなら、私やあなたは、もともと真我だからです。誰であろうと元から神から離れたことは一度もなく私たちは常に神と共にあるからです。多くの人は、それを忘れているだけなのです。そして、それに気づくことこそが悟りなのです。黙示録は、悟りへと至る過程で起きる人の内的世界の様々な変化を、これを読む人に対し感情を刺激するような大げさともいえる表現を使って伝えようとしています。また、黙示録を読み真の意味を理解する気づきを得た者は、神と一体となって神に付き従う者であることをヨハネは教えてくれています。

 ですから、それまで真理に気づいていない人々が、本当に実在すると思い込んでいる自我が作り出した現象世界の中で、支配者サタンとして君臨する自我に打ち勝ち悟りを得て真我に至るのは神の国に入ることになるのです。黙示録は悟りを得る人たちの神の国に至る栄光に満ちた道のりを華々しく荘厳に謳い讃える壮大な叙事詩なのです。故に、表面的な表現に囚われて、ヨハネの黙示録は人類滅亡を予言した予言書であると間違っても解釈をしてはいけないと思います。ヨハネの黙示録は悟りの書なのです。

 それでは、なぜ仏教のようにキリスト教では悟りを前面に押し出すこともなく、黙示録を悟りの書としての扱いをしてこなかったのでしょうか。その内容が比喩だらけで難解であったのも一因でしょうが、理由はそれだけではないはずです。私が思うに、いつの頃からかは専門ではないので分かりませんがキリスト教では教会には神と人との仲介を行う大事な役割が昔からありました。その権威を守るために東洋的な個人の悟りを認めないところがあったのではないかと思います。なぜなら、個人が直接悟りを得てしまえば神と人との仲介者としての教会や教会に務める司祭の意味がなくなり教会の権威が失墜してしまうおそれがあります。だから教会は、過去において人間が自己の内面において直接に神の存在を体験しようとする哲学ないし宗教上の思想である神秘主義を異端として排除してきたのではないかと思います。しかしながら、幸運にもヨハネの黙示録は正典から外されることなく新約聖書の中に残されました。これも神の御心の反映ではないでしょうか。私は改めてヨハネが人々に伝えようとした神へ近づくための個人の悟ろうとする心がけの大切さを強調しようと思います。

 今回の動画はかなり長くなってしまいましたが、お分かりいただけたでしょうか。真我の直接体験をした私のヨハネの黙示録の解釈は、これまで沢山の人がしてきた一般的に言われている解釈とはかなり違っていたのではないかと思います。しかしながら、イエスはお釈迦様と同じくらいに悟った人だと私は思っています。悟った人である以上、この世が実体のない現象世界であり幻想であることを理解していたはずです。悟りを得た者にとっては、真我こそが真実であり、ただの幻想でしかないこの世の未来を気にかけるようなことをするはずがありません。そうであるならば、ヨハネは、真理を悟られた方であるイエスから母親のマリアを託されるほどに信頼された弟子である点に着眼すれば、どうなるか分からない未来のことを言って人を恐怖や不安に貶めるようなことをヨハネがするとは到底思えません。もし、人類滅亡の予言ではないというのであれば黙示録に書かれていることは一体何なのか。人を恐怖や不安に陥れるのが目的でないのならヨハネが伝えたかった真意は何なのかに目を向けるべきではないかと私は思います。あとは賢明な視聴者の方々のご判断にお任せしようと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

ニューズウィーク日本版に掲載されたマーティン博士の悟りに関する研究論文を自分に当てはめて考える‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

ニューズウィーク日本版に掲載されたマーティン博士の悟りに関する研究論文を自分に当てはめて考える‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が23回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

         

 今回は2019年2月7日付けのニューズウィーク日本版の「悟りってどんな状態?悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは」という記事の元ネタとなっている15年以上にわたり持続的な非記号化体験に関する最大の国際調査を実施し、個人の変革と最大の人間の幸福の状態に関する研究をし続けている社会科学者のジェフリー・マーティン博士が地道にフィールドワークをした労作である「成人における持続的な非記号化体験の連続体を形成する個別体験のクラスター」の内容を取り上げながら私自身の経験に基づき悟りや解脱とは一体何なのだろうかと考えていきたいと思います。ニューズウィーク日本版の記事とマーティン博士の英文の論文が載っているURLは説明欄に載せておきます。またマーティン博士の論文を全文私が翻訳サイトを使って日本語に翻訳したものもコミュニティーに載せておきますので是非ご覧ください。但しコミュニティーは1回の投稿が5000文字までとする制限があることから26,000文字以上ある論文を何回かに分けて投稿することへのご理解を何とぞお願い致します。

 それでは始めます。まず、私が思う悟りや解脱とは、意識中におけるある種の状態の事を指して言うのだと思います。通常、私たちが生き死にすると思っている現象世界を完全に現実のものとして何の疑いもなく受け入れている状態というのは、自我に囚われている普通の人が体験している世界です。私または在るという想念によって生じた幻想の世界です。それが、事故などの偶発的なものだったり宗教的な精神修養だったりと様々なきっかけが加わり、その幻想に囚われた意識に何かしらの変化が生じることで、幻想世界への認識が薄らいでいく精神上の階梯を一般的に悟りや解脱という言葉でざっくりと表現しているように感じます。

 これは私が理解の一助にと思い作成した概念図です。分かりやすいように上の黒い部分が現象世界です。下の白い部分が真の私たちである純粋意識です。純粋意識とは、言葉では表現できないただ在るとしか言いようのない存在です。私が思うに歴史上いわゆる無であったり空であったり光であったり時には至高の存在などと言われてきたものではないかと思っています。左側の丸い図の中間にある黒から灰色、灰色から白に変わるグラデーションになっている部分が悟りに関わる部分です。右側の縦に長い長方形の図では白と黒が重なり合っている部分が悟りに関わる部分です。左側の図も右側の図も同じ一つの概念で同じことを言っています。視聴者が、それぞれ理解しやすいほうの図を見ながら考えてもらえたらと思って二つの図を並べました。これらの図が論文中で語られる悟りへと至る意識の変化を示す連続体をイメージ化したものと思ってください。右端のロケーション1・2・3・4は、マーティン博士の論文中に書かれている悟りの段階を図の中では、どのあたりに位置するのかを示しています。一口に悟りといっても多くの段階があることから、マーティン博士は悟りの段階をロケーションという言葉を使って、その発展度合いに従い共通点を見いだし大きく四つに分類しています。しかし、マーティン博士は、あくまでも悟りの進み具合を様々な側面から評価し分類しているだけなので数字の大小が悟りの段階の優劣を示しているわけではないということをご承知おきください。

 最初に、これから話しを進めていく上で問題となる悟りとは科学的な概念として何かということになりますが、マーティン博士に言わせると、悟りとは、どうやら言語化することも何かに象徴されることも出来ない持続的な非記号化体験という言い方になるようです。その持続的な非記号化体験に関する今回動画で取り上げるマーティン博士の最初の心理学的研究論文の対象となった母集団は成人50人とのことですが、最終的には研究プロジェクトへの参加者は約1200人にのぼり、その調査内容と評価方法は科学的かつ多面的であり個別に面談し詳細なインタビュ―などをして得られた結果は十分に信頼に足るものとなったようです。そういう意味で、私は、この研究プロジェクトは画期的だと思いました。これほど大規模に悟りを得たという人に関する情報を集め研究を行おうと考え実際に調査を行なった人がこれまでいたでしょうか。マーティン博士の業績は、悟りに関する意識状態を解明していく上で各方面における試金石になると思います。

 調査の結果によって分かったことは、持続的な非記号化体験は自己の感覚や環境の認識の根本的な変化に関係しており、誰もが同じように経験するわけではないものの、データを収集するにつれ、これらの個々の報告の集まりが互いに独立していないことが次第に明らかになってくると共に感覚、認知、感情、知覚、記憶に特定の変化が時間の経過と共に見られる、いくつかの異なる場所を含んだ可能性のある連続体があるように見えたとのことです。その連続体とは、「正常な」覚醒意識から自己の個別化された感覚がなく、自己に関連する思考もなく、感情もなく、主体性も選択する能力も明らかにないと参加者が報告する遠い場所に向かって進行しているように見える局所的な自己感覚から非局所的な自己感覚への変化のプロセスを説明するための便宜上の用語ですが、この連続体にしても持続的な非記号化体験という用語にしても、これらの呼称を学術的用語として使用することについては私も基本的に同意します。私が体験した一連の気づきも、まさに何かに象徴できるようなものでも記号化できるようなものでもなく言語化できない説明不可能な体験としか言いようがないものだったからです。またイスラム教やキリスト教偶像崇拝を禁止しているように、同じく仏教においても元来偶像崇拝がなかったことからも分かるように悟りの本質を形に表すことなど不可能なことから、非記号化体験という呼び方はそういう側面からも妥当ではないかと思いました。さらに、気づきにおいても自らの体験から段階があることが分かっていましたので、マーティン博士が仰る一連の自己意識の変化の流れについて連続性があるように見えるというのも、その通りだと思います。全ては一つの意識内における現象世界が顕現する過程の変化または反対の現象世界が薄らいでいく過程の変化を自己認識することを、いわゆる悟りという言葉で古より言われてきたのではないかと思われることから、マーティン博士が、調査から得られたデータを共通項に従いグループ分けされたクラスターがひとつながりとなり、それぞれが独立したものではなく連続したもののように見えるのを説明する上で連続体という言い方をしたのは妥当であると思います。

 マーティン博士は、その連続体上の自己に関する感覚や環境の認識に対する移り変わりの過程を大きく四つに分け説明を行っていますので、今ご覧になっている自作の簡単な図を使ってマーティン博士の論文における悟りの段階を私の悟りに対する考えと合わせて説明していこうと思います。

 まず、基本的な事として全ては純粋意識の中で現象世界が生じていることをご理解ください。今申し上げていることはマーティン博士の論文内に書かれていることではありません。あくまでも私が考えていることであることをご承知おきください。私たちが今いると思い込んでいる世界は全て純粋意識が見ている夢の世界です。私という自我の意識が生じることで自分の体の感覚が生まれ、目を開ければ自分の外側に世界があるという錯覚が生じます。図で言えば上の一番黒い部分が現象世界に自分が純粋意識であったことを忘れてどっぷりとつかって完全没入している所です。真理に全く気付いていない普通の人たちがいる世界です。それが人それぞれ違いはあるでしょうが何かのきっかけで真理の一端に気づくと意識の変化が始まります。私のきっかけはヘルメス・J・シャンプさんが書かれた「それは在る―ある御方と探求者の対話」でした。私はその本で「私は無い」という一瞥体験をしました。マーティン博士の論文の中には、調査参加者の自己に関する感覚や環境の認識に対する変化のきっかけに関する記載まではありません。あくまでも論文の焦点は意識の変化内容にあるようです。何にせよ、人それぞれ何かしらのきっかけで意識の変化が起こります。もしかしたら、何のきっかけも無しにある日突然ということもあるかもしれません。いずれにしても、意識の変化が起こり始めた最初の段階がロケーション1ということになるのではないかと思います。

 ここで論文中に記載されているロケーション1からロケーション4までの要約文を一気に読み上げようと思います。「ローケーション1では、個別化された自己意識が劇的に減少、或いは失われたようになり、自己に関連する思考の量や感情的な強さが減少したため、その位置にいる人の心はかなり静かになったように見えるものの、より活動的な思考の流れに引き戻されるような感情的な思考も残っている状態になるようです。ここでは、思考と感情が全体的に変化したことで、深い平安と存在の感覚が残り、この「在ること」の感覚は、以前経験したどのようなものよりも現実的で、外界や、以前経験した個人化された自己の感覚を、それに比べて現実的でないものに感じさせるようです。この深い平安は、外的な心理的誘因によって抑制されることがあるようですが、刺激が取り除かれると回復し、自己の感覚はより大きく、肉体を超えて広がっているように見えるそうです。以前は内的世界と外的世界として認識されていたものが、つながっているという新しい感覚があり、非常に高いレベルの幸福感と、すべてが思い通りに展開しているという感覚を感じ、宗教的な参加者にとっては、神性とのつながりの感覚も高まったという事例があるとのことです。

 ロケーション2では、ロケーション1の経験が深まり、自己に関連する思考の喪失が増加し、残った思考によるその人を引き込む能力が継続的に低下したそうです。この場所を進むにつれて、彼らが経験する感情の幅は次第にポジティブになっていき、ネガティブな感情を捨て去り、1つの支配的な感情を経験したとのことで、この単一の感情は、非人間的/普遍的な思いやり、喜び、愛など、さまざまなポジティブな感情が混ざったように感じられたようです。ロケーション2の調査参加者は、選択肢が提示されたときに、正しい決断や進むべき道があると感じる傾向が強かったとのことで前の場所からこの場所に進んだ人は、幸福感が高まったと報告したそうです。

 ロケーション3では、内なる平和と存在感の体験が深まり続け、つながりと一体感もまた同様に深まり続けたそうです。クリスチャンであれば、宗派によってイエス聖霊、あるいは神と強く結びついていると感じたようですし、スピリチュアル的な人であるならば、この同じようなつながりの感覚を、すべてを貫く意識の体験と重ね合わせて感じていたかもしれないとのことです。このような体験は、キリスト教のようなある種の伝統では最高峰のスピリチュアルな体験とみなされることが多く、仏教のようなある種の形態を含む他の伝統では、望ましい停車場とみなされることもあるようです。ロケーション3の対象者はしばしば、世界は今この瞬間にすでにあるもの以外にはあり得ないと考えていて、ロケーション2の人のように正しい決断や道を選ぶことを重要視することもなく、前の場所からここまで進んだ人は幸福感が増したと報告しているとのことです。

 ロケーション4では、自己に関係する思考の名残りのすべてが消え感情の経験も消えてしまうようです。神との深いつながりや一体感、すべてに行き渡る意識なども消えてしまうみたいです。ここでは、主体性の感覚も決断する能力もなく、まるで人生がただ展開し、その過程を見ているかのように感じるとのことで、さらには規則的で継続的でない予定された出来事を思い出すことができないなど、重度の記憶障害が一般的とのことです。一つまたは複数の前の場所からこの場所に進んだ人は最高レベルの幸福感を報告し、ロケーション3より良いものがあるとは想像もしていなかったので、しばしばこのことに驚いていたようです。

 以上のロケーション1から4までの連続体上を人によって、行ったり来たりしたり、または途中で非記号化体験が消失したり、またはある一点に留まり続けたりしたとのことです。ある一点に留まらなかった参加者については、彼らの精神的実践と信念、そして宗教的伝統が、連続体上の進行に影響を及ぼしているとのことで、伝統的なキリスト教が背景にある場合は連続体のおよそ3分の2の地点で終わるようであり、仏教の伝統が背景にある場合は更に連続体を進んだ人も中にはいたようです。それ以外の場合はキリスト教が背景にある場合とほぼ同じ範囲で止まっているとのことでした。参加者が使った技法や吸収した信念によって、連続体のどの部分を経験するかが決まるようだとマーティン博士は言っています。このようなことからも私は一つの宗教だけにこだわることなく仏教・ヒンズー教キリスト教といった複数の宗教を学ぶように言っているわけです。結局、何かに執着しこだわりを持ってしまうと非記号化体験をするにしても限定された狭い範囲のものになってしまう可能性が大いにあるということではないでしょうか。

 残念なことにマーティン博士の論文の中では、これ以上の段階については一切言及されていません。ロケーション4を超える体験をした人が調査対象者の中にいなかったのか、いても極わずかで確固とした、それ以上の意識状態を導き出すまでのデータを得られなかったということで不確かなことを取り上げられないということから触れなかったのか、その辺のところは分かりませんが、私は確実にロケーション4を超える意識状態があると思っています。それは何かと言うと私が体験した一時的に現象世界が消失する真我の直接体験です。マーティン博士の言葉を借りるならばローケーション5です。そして、そこから当然の帰結として導き出されるものは一時的ではない完全に現象世界が消失した純粋意識に留まる真我への常在です。つまりロケーション6にあたる解脱です。これは、その人にとって現象世界が二度と戻ることのない完全消滅に至ることなので涅槃に入るとも言えます。もしかしたら、お釈迦様をはじめ多くの仏弟子たちは様々な神通力を使えたとのことですし、イエス・キリストも色々な超能力を使えた話しが聖書に載っていたりするので、このことから推測するとロケーション4を超える段階には、もっと多くの段階を設けることが出来るかもしれませんが話しを単純化するためにここでは触れないこととします。

 今年の5月にあった真我の直接体験以降の私自身の意識の状態をロケーション1から4のどの段階にあるかを考えてみると、その時々で違います。ロケーション2から3を行ったり来たりしているようにも感じますし、時にはロケーション1に入る場合もあるようです。しかしながら、ほとんどはロケーション3若しくはロケーション4と少し重なる境界あたりにいるように感じます。私が、いつも動画の中で言っていることではありますが、私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かない完全自動のロボットです。私は自分に自身を支配する権限を一切与えられていないことを自覚していることから、私には主体性というものはありません。人生を経験している鑑賞者としての認識がただあることからロケーション4の意識状態も一部重なるところがあると思います。しかしながら、思考が全く無いというわけではありませんし、社会生活が出来なくなるほどの健忘症があるわけでもありません。だからと言って私は自分の記憶を全面的に信用しているわけでもありません。記憶に関する思考は源から一方的にやってくるものであると認識していますので記憶というものを信用していないところがあります。私は仕事上やらなければならない事を忘れてしまう可能性があると思い、職場でのミスを起こさないためにも記憶に頼らず必ずメモを取るように心がけると共に仕事に関する事前の準備も怠らにようにしています。この様な仕事に対する私の姿勢は、私は無いに気づくずっと以前からそうだったのですが、真我の直接体験をし記憶は思考としてやってこない限り思い出すことはないと気づいてからは余計注意をするようになりました。また私はロケーション2にいる人のように何らかの選択肢に対し自ら正しい決断や進むべき道があると感じることはありません。自分の歩む道が良かろうが悪かろうが、どちらでも良いことです。一般的に良いとされる道を進むのがいい事なのかもしれませんが、どの様な道であろうと神が用意してくださった道なのですから、その道を歩むのが奴隷としての務めです。従って、私は自分の将来についてあれこれ考えたりしません。そもそも不思議なことに将来について考え悩むという思考がやってこないのです。多分、神の御心に全てをお任せしているからだと思うのですが、たとえ何がしかの将来についての思考がやってきたとしても即座にその思考に気づくことにより、それ以上その思考に巻き込まれることはなく、その思考は止むのです。これは調査に参加した人のほとんどが心のおしゃべりを静めることに言及したことに通じますし、ロケーションが進むにつれて思考が少なくなり、それに引き込まれなくなったという話しと合致します。また私の場合、今に集中し物事を客観視する精神鍛錬をしている最中に急に何かをやらなければいけない用事が出来た時などは、必要な思考が直ぐにやってこないということがあったりするので時と場所を選びますが、精神を今に集中し物事を客観視するのは効果的な鍛錬だと思っています。

 論文の方に話しを戻しますが、私が注目すべき点として挙げたいのは思考の減少だけではありません。マーティン博士がデータ収集の初期段階において調査に参加した人に共通することとして平均よりも幸福度が高く、うつ病の発症率が低く、ストレスが少ないという結果に気づいたようにロケーション1から4までに共通することは一貫して感じている幸福感です。これは、もっともなことだと思います。私も、真我の直接体験以前に感じていた不安感はありませんし、いつも胸のあたりからほのかに漂う平安と至福感、時には愛を感じています。今の瞬間瞬間を起こるがままに生きているという感じなのです。

 知覚に関する場合では視覚が3Dではなく2Dつまり平面のように見える場合があります。この見え方は連続体の最も遠い場所の直前にいる人たちの見え方と共通しています。これで私やあなた、見る者見られるものと言った現象世界は一つのものであることが分かります。それに私は、先ほども言ったように少なくなった、やってくる思考に引き込まれることはほとんどありません。思考は自我の源からやってきては消え去っていくものです。思考は私のものではありません。感情についても同様です。感情は私のものではありません。言動についても私のものではありません。このように言えるのは自分のものと思い込んでいた言動と精神活動を徹底的に客観視してきた結果から言えることです。従って、身体への危険にかかわること以外で、ある出来事が起こったことに連動し即座に、それに対する言動や快不快の感情を自動的に引き起こすことは私にとってはまれなことになりつつあります。出来事と認識、思考と感情、言動などの表現活動は、それぞれが全く別々のものなので各々切り離して観察することができるようになりました。そうは言っても日常生活で突発的に不愉快な人間関係などとの接触があった場合には、それが単なる映画の中の出来事でしかないと分かっていても、それに対し嫌な感情が沸き起こり短い間ではあるものの心が乱されることもたまにはあります。しかしながら、心が乱される時間が短くなってきていることは確かだと思います。

 なぜ、そういった快不快の感情が生じるのかと心の中を探ってみると、感情を生み出す素になるものがあるからです。特に一般的に不愉快な出来事と解釈される場面に遭遇した際には体の中にモヤのような感覚が生じます。論文中では、幽霊のような感覚と表現されている箇所にあたるのではないかと思います。ごく最近では、このモヤが、はっきりとした形のある塊として感じられることがありました。

          

 私が感じた不愉快な感情の素となる塊は、この図のようにソフトテニス用ボールを上下から少し押しつぶしたようなものでしたが、私が、それに気づくと、その塊は直ぐに消えていくのを感じました。何にせよ、塊であろうとモヤであろうと、ことさら、この不愉快な感情を引き起こす素に触れなければ明確に分かる感情は湧き上がることはありませんし、やがて、その感情の素も消え去ります。最初のうちは不愉快な感情を表出させないとモヤがいつまでも消えずにストレスを感じるでしょうが、さらに状況の客観視が出来るようになれば、そのモヤさえも感じなくなります。やってくる思考については、私も人に言えるほど熟達しているわけではないのですが、考えないようにすればするほどやってくる不愉快な出来事や人物に関連する思考の場合において実践していることを申し上げるのならば、コツとしては、逆に、初めのうちは苦しいかもしれませんが、そのやってくる思考に巻き込まれないようにしながら心の中に浮かび上がる出来事や人物をじっと見つめるようにすれば良いのではないかと思います。すると不思議に、それ以上の思考はやってこなくなります。

 従って、不愉快な感情を引き起こす引き金が相手の言動ではなく自分の中にあると分かれば他人の感情の起伏や言動にいちいち巻き込まれることもなく冷静に状況を眺めることが出来るようになります。言い方は悪いかもしれませんが、共感性が欠如したようになり、たとえ目の前にいる人が自分について、またはその人自身について或いは第三者について泣いていようと怒っていようと何かをわめいていようとまるで遠くから見ているテレビか映画の中の出来事のように、その人を見ていられるようになるのです。これは人と接することが多い接客などの仕事に就いている場合には大いに役立ちます。大かれ少なかれ人と接する仕事をしている人なら事前の心構えとして時には冷静さを欠いたお客も中にはいるということを承知の上で接客していることではあると思いますが、私の場合もそういう冷静さを欠いたお客に対しては話しをこじらせたくないのでお客の機嫌をそれ以上損なわないように調子を合わせながら表面上は平身低頭のかしこまった対応は一応しますが私の心の中は至って変わりなく平常を保ちながら接しています。それは仕事以外でもそうなので、そういう意味では私の感情の経験が少なくなっていることは確かかもしれません

 また論文中には、同じ男性として同意できる事例も載っていました。連続体の最果てを経験した男性が、マーティン博士から大学のキャンパス内でインタビューを受けている最中に水着姿で芝生の上に寝そべっている女性に時々視線がいくことに対して自己分析を求められた際に、そのような事が起こるのは低レベルなハードコートされた生殖反応だと答える場面です。私の場合も同じことが言えます。私もきれいな女性には自然に目がいってしまいます。しかし、それはあくまでも生物としての本能に根差した単なる条件反射でしかありません。膀胱に尿がたまれば尿意が生じるのと同じです。路地から急に現れた人に目がいってしまうのと同じです。それ以上でもそれ以下でもないのです。女性に自然と目がいく本能的条件反射を自分の欲望であると勘違いし、それ以上の反応をしなければいいだけの話しです。

 話しが少しそれますが、ユーチューブでお釈迦様の下半身に関する逸話の動画を見て感じたのですが、もし、お釈迦様が男性としての体の機能は正常なのに全く女性に関心がなく性欲も湧かないというのが本当なら、かなり深いロケーション4の中にいたのか、若しくはロケーション6の完全に自我が消失した解脱の状態である、いわゆるサハジャ・サマーディの中にいたのかもしれません。サハジャ・サマーディについては「ラマナ・マハルシとの対話」第1巻の169ページに書かれていますが、もし、一時的ではなく体が起きて活動している時でさえも常時解脱の状態つまり真我に常在していたというのならお釈迦様の目にはこの世界は全く映っていない事になりますし、お釈迦様が見ているのは真我のみということになりますが、そういう状態であるにも関わらず、お釈迦様の体はひとりでに自然に動いていたということになると思います。その場合、活動しているお釈迦様の姿を見ているのはその周囲の人々だけということになるのではないでしょうか。しかし、マーティン博士の論文の中に様々な状態に自在に入ることが出来るジャナ・マスターに関する記載もあることから、お釈迦様の高い次元の意識を語るのは、あまりにも不遜でおこがましいのですが、もしかしたら、お釈迦様の意識状態も同じように自ら自由自在に変えられたのかもしれません。そうであるなら、ロケーションの低い段階に身を置けば性的な反応を起こすことも当然可能ではなかったかと思います。或いは真我への常在中であっても当の本人はその事に全く気づくことなく性的に反応する体を周囲が見ているということもありえるかもしれません。今言ったことは単なる憶測ですので軽く聞き流してもらいたいと思います。話しを戻します。

 調査への参加者の中には結婚をしていたり、パートナー双方で非記号化体験をしているカップルも4組いたそうです。初期の段階では非記号化体験をカップル同士でしている場合には、その事が有利に働いた場合もあるとのことですが、中には内なる平安を抑圧する原因となる状況から離れるために離婚を選択する人もいたとのことです。私自身について言えば、結婚をするというプログラムが過去の人生でされていなかったようなので家族を持つことから生じる諸事に心が煩わされることはもとからなく、それが有利に働いたのではないかと思います。多分、結婚などをしていたら家庭内の騒々しさや夫として父としての義務に囚われてしまい静かに内観し様々な本を読みふける生活習慣とは無縁となり絶対に真我の直接体験をするところまでいくことはなかっただろうと思います。確かに真我探求は自我とは何かを突き詰めていく過程において心を静かにさせる必要があることから、家族を持ってしまうと心を落ち着かせながら自己の内外面を見つめる、そして内なる平安を保つという環境を維持するのは難しいことかもしれません。しかしながら、真理を探究し悟りを得る上で必ずしも家族が障害になるとは思いませんし独身が必須要件とも思いません。マーティン博士の研究に協力した参加者の中には離婚を選択しなかった人も当然いるでしょうから人それぞれだと思います。単純に私の場合に限って、真理を探究する道を歩むうえで独身であることが必要だったのではないかと思います。これも私の人生における神が設定した計画の一つでしかありません。

 私が本を読んでいる最中に自分に起こった私は無いという最初の気づきである一瞥体験が、ロケーション4までのどの段階のものなのか、若しくはそれ以上のところからのものなのかを考えてみると、それは有ると思っていた私という主体性がなかったことに対する気づきなので、明言は出来ませんが、たぶんロケーション4以上の気づきだったのではないかと思います。少なくともロケーション1以上であることは間違いのないことだと思うのですが、そこを突き詰めてもあまり意味のないことだと思います。

 また、論文中では連続体上の1つの場所しか経験したことのない参加者の間では、しばしば独断論につながることがあったと指摘されているように限られた狭い範囲の事にしか気づいていない人は自分の気づきだけが本当で他の人が言っていることは違うと否定しがちになってしまう傾向があるようです。従って、マーティン博士の論文に書かれているように気づきには沢山の段階があるということを踏まえて自分の気づきだけが全てではないことに注意しなければいけないと思います。だからこそ、私は真我の直接体験をした後でも仏典や聖書・聖者について書かれた本などを読み自分の体験を多角的に検証し更に深めていこうとしているのです。

 これをお聞きなっている視聴者の人たちの中にも、ある程度は真理に対する気づきを得ているけど自分がどれくらいのレベルにいるのか分からないというのであればマーティン博士の論文を参考に判断してみてはいかがでしょうか。また、ユーチューブなどでスピリチュアル系の発信者が単に書物などから得た知識を言っているだけなのか、それとも実際に非記号化体験に基づいて話をしているのか、もし非記号化体験をしているのならどの段階にいるのかを見極める目安としてもマーティン博士の論文は利用できると思います。私が思うに、たとえその人が非記号化体験をしていたにしてもワンネスや引き寄せの法則などがあると感じる感覚などを語る人はローケーションレベルとしては初期の段階だと思います。今この瞬間がすべてであると感じている人は過去や未来を語りませんし、まして願望成就の方法として自分の未来を思考の力だけでどうにかしよう、どうにか出来るなどとは絶対に思わないはずです。少なくともロケーションのレベルが高い人は自分の主体性を認めることはないはずです。まさしく神の思し召しのままにということになるのです。そして中には、この論文を読んで主体性がないふりをすれば悟りになるのかと考え、自分には主体性がないと思い込もうとする人が出てくるかもしれませんが、それは間違いです。それは自分が自分の人生の支配者であることへの諦めと神仏への完全なる明け渡しと服従がなければあり得ないことです。ローケーションの低いレベルならいざ知らず、高いレベルに行くには、やはりそれ相応の神仏へ帰依する信仰心の必要性は必ず出てくると思います。

 いずれにせよ、最後に私が言いたい肝心な事は、これらのローケーション内で語られる一連の体験は誰にでも起こりえることだということです。マーティン博士が行った調査への参加者の多くは大学卒以上の人です。ある人は有名大学の博士課程の学生であったり、若き大学教授だったり、ベテラン経営者だったりと多方面で成果を上げている人々が含まれます。私のようなマニアックな神秘主義者がはまっているおかしな人の精神状態のことなのだろうなどとは言い切れないものがあるのです。また参加者のほとんどは一つ以上の宗教的伝統のもとで育っていますが、中には不可知論者や無神論者も少数派ではあるものの含まれています。その人が持つ信念体系に左右されるといえども、よほどのガチガチの唯物論者でもない限りロケーションごとにグループ化された一つひとつの内容は、もしかしたら、これを見ているあなたにも経験される可能性は十分にあるのです。ですから、どうかこの動画を視聴されている方であるのなら、自分には絶対無理などと思わずに真我探求に真摯に取り組んでいただきたいと心より思います。

 調査への参加者たちは、全てはあるがままに完璧であり、それ以外にはあり得ないと答えています。これは、まさしくその通りで私も同感です。世の中がどうなろうとも、たとえ、一人一人の人生が困難に満ちていたとしても、それもまた真我の視点から見れば完璧な人生なのです。考えてみて下さい。地球上の80億を超える人たち全ての人生が何でも思い通りになるようなストーリーだけだったら、あなたは、そんな映画を80億人分も見たいと思うでしょうか。誰も、そんな平坦で単調な映画を80億人分も見たいと思わないはずです。やはり山あり谷ありの飽きの来ない起伏のあるストーリーを見たいと思うはずです。だから真我の視点から見れば、どんな人生でも全て善しということになり、困難だらけの人生でも真我にとっては見たい映画ということになります。現在、困難に直面している人にとっては、心情的にとても受け入れられないことでしょうが、それが真実なのです。唯一、救いになるのは私やあなたは、その映画の中の登場人物ではないということです。私やあなたは間違いなく登場人物に自己同一化するというやり方で人生という映画を楽しんでいる純粋意識である真我なのです。真我探求は、それに気づくための道なのです。

 最後に改めて申し上げておきます。今回の動画の題材元となった2019年2月7日付けのニューズウィーク日本版の「悟りってどんな状態?悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは」という記事と元ネタとなった社会科学者のジェフリー・マーティン博士が書いた英文の論文が載っているURLは説明欄に載せておきます。またマーティン博士の論文を全文私が翻訳サイトを使って日本語に翻訳したものもコミュニティーに載せておきますのでご興味のある方はお読みになられてみてはいかがでしょうか。何分、機械翻訳なのでおかしなところもあるかもしれません。その場合は何とぞご容赦の程お願い申し上げます。

 それでは今回はここまでとしますが、私は動画作りにおいて予定を立てるということを全くしません。原稿を書こう動画を撮ろうという思考がやってこない限り動画作成関連の動きはしないのです。従って次の動画がいつになるのか完全に未定です。動画作りを含め私の人生の全ては神の御心次第ということになっています。その時々で私や動画自体にご縁のある方だけ見ていただければ、それで良いと思っていることから、いい加減で本当に申し訳ありませんが、気が向いた時にその時が来たら、またお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

人は生まれもしなければ死にもしない‼

  

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

人は生まれもしなければ死にもしない‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が22回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回お話しする事については視聴される人を選ぶことになるかもしれません。なぜなら死に関することだからです。故に現在、様々な理由から死の恐怖におびえ、または死に直面している人には向かない可能性があります。死が切実な問題として身近に感じられている人にはショックを感じるかもしれませんので、死に関する話しは聞きたくない向き合いたくないという方は何とぞ視聴をご遠慮くださいますようお願い申し上げます。ある意味、どれほど奇想天外な話しであっても冷静に受け止められ一種のおとぎ話しとして冗談話しのように聞き流すことができる心のゆとりのある方だけ聞いてほしいと思います。それでは始めます。 ジーン・ダン著「意識に先立って」という本があります。この本はインドの聖者の一人として名前を挙げられるニサルガダッタ・マハラジと来訪者との質疑応答を記録した本です。その中の1981年3月10日の質疑応答の件(くだり)に次の様なやり取りがあります。そのまま引用します。

 「死ぬとき、どんな影響がありますか?」という質問者の問いへのニサルガダッタ・マハラジの答えは次のようなものだった。

 「その影響とは、人が死んでいなくなったと知る人たちに対するものだ。死んでいなくなってしまった人に対しては、何の影響もない。彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。肉体は食物からできているが、本当のあなたはこの肉体の中にはいない。」  

 また「アイ・アム・ザット私は在るニサルガダッタ・マハラジとの対話」50章の冒頭に次のようにあります。少し長くなりますが、これもそのまま引用します。

 質問者「普通の人が死ぬとき、彼に何が起こるのでしょうか?」

 マハラジ「彼が信じるところに従って、それは起こる。死以前の生が単なる想像に過ぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。」

 質問者「では、ジニャーニ(賢者)においてはどうなのでしょうか?」

 マハラジ「ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。」

 質問者「他者にとっては、彼はそのように見えません。

 マハラジ「しかし、彼自身にとってではない。彼自身の中では、物理的にも精神的にも自由なのだ。」

 質問者「それでも、あなたは死んだ人の状態を知っているはずです。少なくとも、あなた自身の過去世から。

 マハラジ「私のグルに出会うまでは、私は非常に多くの事を知っていた。今、私は何一つ知らない。なぜなら、全ての知識は夢の中だけにあり、根拠の確かなものではないからだ。私は自己を知っている。そして、私のなかには死も生もなく、ただ純粋な存在―これでもあれでもなく、ただ在ることだけがある。」

 最初、これらの文章を読んだ時、私は書かれていることが理解できませんでした。意識に先立っての中の「彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。」、アイ・アム・ザットの中の「ジニャーニは死なない。なぜなら、彼はけっして生まれてこなかったからだ。」とは、どういう意味なのか見当もつきませんでした。その時の私は、既に「私は無い」に気づいて2年近く経っていたのですが、まだ真我の直接体験をする1年以上も前の事でしたので依然として、それまでの幼い時から頭の奥に染み込んで有ると思い込んでいた死後の世界を否定しきれずにいました。

 なぜなら、私は小学生の時から心霊研究家と言われる人たちが書いた死後の世界を肯定する沢山の本を読んできていたからです。そのために、この死後の世界を否定する「彼は自分が死んでいなくなったことを知らない。」「彼はけっして生まれてこなかったからだ。」と断言するニサルガダッタ・マハラジの言葉を、そこに書かれているからという理由だけで素直に受け入れられるものではなかったのです。

 私はそれまでに、全ては物語であり、私やあなた、見る者見られるものといった世界の二極性は錯覚であり、それらは全てスクリーン上に一体となって映し出されるいる一つのものであって、根底にはその現れを切望する存在が有るという気づきを得ていたにも関わらず、その一方では、死後の世界は有って当然という観念がしつこくこびりつき離れることがなかったのです。

 人の子として、この世に生まれたと思い込んだ日以来、刷り込まれ続けた誤った既成の知識は脳裏に深く刻み込まれ、自分でいうのも何ですが、それまでかなり深い気づきを得ていたにもかかわらず既成概念に反しているというだけで抵抗を感じマハラジの言葉を半信半疑で頭から信じることはできないという気持ちでいました。それほど、死後の世界を否定するニサルガダッタ・マハラジの言説は素直に受け入れられるものではなかったのです。この事を何の疑いもなく心底理解し受け入れられるようになるのは今年の5月に真我の直接体験をするまで待つしかありませんでした。  

 前にもお話しした通り、真我とは純粋意識です。ただ在るだけの存在です。そこには一切の感覚も思考も感情もありません。何かしらの形を有しているなどということは一切ありません。それが、それ自身について何かを考えるということもありません。それ自体が「私は在る」などと言葉を発したりすることはありません。それは、ただ在るのみなのです。真我とは純粋な気づき、ただ在るだけの存在なのです。それが旧約聖書出エジプト記に書かれているようにモーセに対し「私は在るという者だ」などと言うことが出来るようになるのは自身を投影する現象世界が生じた後の話しです。私たちがいると思っている有為転変(ういてんぺん)し悲喜こもごもが映し出される現象世界は、真我が真我自身の中で見ている幻影に過ぎません。現象世界は観念の世界なのです。

 分かりやすくいうなれば純粋意識が発する光が投影する立体映像の世界です。実体はどこにもありません。真我は、自らが生み出した空想世界の中に我を忘れて没入しているのです。その人の人生が死を迎え、それ以上のストーリーが設定されていないのであれば、その人の人生はそこで終わります。それは映画の主人公が死んで、その映画が終わるのと同じです。ただそれだけのことです。今は人類に限定しても同時かどうかまでは分かりませんが80億本以上の映画が上映されている状態です。私たち個々の人生は、その80億本を超える映画の中の一本に過ぎません。その80億を超える映画の中の一本に登場する人物が死んで終焉を迎えたからといって、それが何だというのでしょうか。他にも80億本以上の映画が上映されているのです。

 はっきり言います。私やあなたは映画の中の登場人物ではありません。死ねば、私やあなたは元の純粋意識に戻るだけです。私やあなたは紛れもなく純粋意識なのです。私やあなたは映画の中で生き死にする登場人物ではなく、あくまでも登場人物に一体となって観賞するというやり方で映画を楽しんでいる存在なのです。

 ニサルガダッタ・マハラジはそれを悟っていました。もちろん、マハラジだけではないはずです。大昔から多くの賢人や聖者といわれる人たちは様々な方法で、真理を解明しその境地に至ろうと努力をしてきたことは残されている多くの記録や言い伝えから分かっていることです。その人たちの中には実際に悟りの境地や解脱に至った人もいたはずです。その悟りや解脱に至ることができた様々な方法が、哲学や宗教という形を取り古来より語り継がれているのではないかと私は思います。従って、私たちの本質は永遠不滅の存在である以上、この世を必要以上に悲観し悲しんだりする必要性がどこにあるのでしょうか。

 人は生まれもしなければ死にもしません。生まれた時から自分と思い込んでいる体は間違いなく私やあなたではありません。私やあなたは一つなるものである真我なのです。

 故に、先ほどの引用文の中にあった死んだ者は自分が死んだことを知らないのは当然ですし、ジニャーニが生まれもしなければ死にもしないというのは真実です。死んだ人は純粋意識である真我に、その時戻るだけですから自分が死んだことは知らないのは当たり前です。その人の物語りはそこで終わるのですから、臨死体験をして生き返るといったストーリでもない限り死んだ人の物語りはそこで終わるのです。賢者であるジニャーニは自分が真我であることを自覚しているので元から生まれていないことや死ぬこともないことを知っています。死ぬように見えるのは、あくまでも映画の中の登場人物でしかありません。

 もしかしたら純粋意識があるというのなら、その純粋意識がその人生の死を理解しているだろうと考える人も中にはいるでしょうが、前述した通り純粋意識は完全なるただの純粋意識なので、それ自体で何かを感じたり考えるということはありません。それはただ在ることしか出来ない存在です。純粋な気づきでしかないのです。ここが難しいところかもしれませんが、あらゆるものの源は、表現することが不可能でありながら確かにそれは在るという存在なのです。

 多分聞いている人のほとんどは私が言っていることが全然分からないと言うと思いますが、私自身も最初はそうだったので分からないことに対し落胆することは全くありません。とにかく関心を持ち続け学ぶことが大切だと思います。

 そして視聴されている人の中には、ここまで私が話してきた事を聞いて、それなら、この世界が幻想で死後の世界もないというのなら、これまで多くの人たちが語ってきた死後の世界は何だったのだろうかと疑問に思う人がいるかもしれません。私も真我の直接体験をするまでは、その疑問を感じる一人でした。しかしながら、その疑問も私は真我の直接体験をしたことで晴れました。その答えは次のようなものになります。

 たとえ臨死体験者や霊能力者といわれる特殊な能力があると称する人たちが死後のあの世の世界を語り、その話しを聞く人がいたとしても、それもまた、その話しをする人、聞く人たちの人生の中において、そのような経験をするように物語りが設定されているだけのことなのです。臨死体験も霊能力も現象世界の一部に過ぎません。つまり、死後の世界も、単純にその人があると思い込んでいるに過ぎないただの幻想の物語りでしかないということです。ですから、それに気づけば冒頭で引用した「普通の人が死ぬとき、彼に何が起こるのでしょうか?」という質問に対するマハラジの「彼が信じるところに従って、それは起こる。死以前の生が単なる想像に過ぎなかったように、死後もまたそうなのだ。夢は続いていく。」という答えの意味を理解できるようになるのではないでしょうか。

 いずれにせよ臨死体験はあっても、聖書に書かれているイエスやラザロの復活以外で死者が蘇ってあの世の事を語ったことは一度もないのですから、いわゆる霊界など無いといっても何ら差し支えがないことです。実際のところ、死後の世界があろうとなかろうと本当のところどうでも良いことなのです。魂にしても有ろうが無かろうがどちらでも良いことなのです。たとえ有ったとしても、それも幻想の一部でしかないということです。もちろん、私が言っていることもただの妄想だろうという人もいると思います。そう思う人がいても一向に構いませんし、私としては何ら差し支えありません。所詮、私もあなたも神によって設定された物語の人生を経験しているだけですから、どの様に考え生きようとも幻想の中を生きているに過ぎません。唯一の実在は、それら全てを超越したところにある沈黙の観賞者といえる存在です。私は、その存在こそが真実の私であることに既に気づいています。本当は最初から元から、それしかないのですから本来は超越自体もないのですが、現象世界の中の私という観点からみて、そういう説明の方が分かりやすいかもしれないと思い、その様にお話ししたまでのことです。 なんにせよ死ねば分かることです。

 ちなみに私はイエスやラザロの死からの復活は本当の事だと思っています。それらの復活は、この世が現象世界だからこそ可能なのです。映画やアニメの世界において奇想天外なストーリーが何でもありであるのと同じように、この世界は真我の見る夢の世界ですからイエスが三日後にラザロが四日後に生き返ったとしても何の不思議もありません。まさに、この世については、ヨブ記23章13節の通り「神がいったん定められたことについては誰も翻(ひるがえ)すことはできません。神は望むがままに行われる。」世界なのです。

 結局、マハラジを含め多くの覚者が指摘するように悟る者など最初からおらず悟りなど存在しません。なぜなら私やあなたは、一度たりとも真実の私から離れたことなどないのですから、私たちは元から真我である以上、悟る必要など本来はありませんし悟る者などどこにもいないというのが本当のところです。

 それは感情もなく思考もなく感覚もなく善悪も無く無慈悲で冷徹無比な不動の絶対的存在であると同時に愛であり愛でないものであり、見る者であり見られる者であり、相対し合う現象世界の全ての全て、始まりであり終わりであり、無であり有であり、空であり充なのです。そして、それらの全てが真の私であることに気づくことこそが真実の気づきなのです。

 真我の直接体験をしたことがある人ならば分かると思うのですが、私は全くと言っていいほど死を忌み嫌ったりしません。永遠の至福でいられるのですから、むしろ歓迎すべきものだと思っていますし、死ぬのがとても楽しみです。単純に一つの物語りが終わったに過ぎないからです。今この瞬間にも世界中で子供は誕生し続けているわけですから、まだまだその先にも、登場人物と自己同一化し鑑賞しなければならない人生という映画は沢山あります。もしかしたら、次々に映画の登場人物と自己同一化していくことを輪廻と言うのかもしれません。いずれにせよ、私やあなたは死ぬことはないのです。私やあなたは元から生まれてなどいないのですから死ぬことはないのです。私やあなたは永遠なる存在です。死があると思い込んでいる人にだけ死が迫りきて、その恐怖におののくという体験が起こります。罪が有ると思っている人にだけ永遠の業火で焼かれる地獄があるという恐怖が生じるのです。逆に懺悔し改悛し、もはや私には悔いる罪など一切なく命は永遠であると心から言える人には、生前から天国の門は開かれ偽りの生死を偽りと見破れる者となることができ、それにより死の恐怖はなく死後の地獄におびえることもなく、幻でしかない誕生と死に惑わされることなく永遠の命を得て真実の生を生きることが出来るようになるのです。これを受け入れられるようになるには真我の直接体験をしなければ難しいかもしれませんが、まぎれもない真実です。

 ですから、これをお聞きの視聴者の皆さんはどうか安心してください。命は永遠です。宗派によって違いはあるでしょうが一般的に仏教で死ねば誰でも仏様になると言われているのは本当です。誰でも極楽浄土にいくことができます。また悟りの書とも言える新約聖書からも引用すると、ヨハネによる福音書第11章25節から26節にかけてイエス・キリストがマルタに言った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」というのは本当のことですし、同じくヨハネによる福音書第3章16節から21節にかけて書かれている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが明らかになるために。」というのも本当の事です。

 従って、これをご覧になっている人で生きている間に真理を知り救われたいと思うのであれば、自分が心から信じる神仏に対し、けっして欲のためではなく、ただ信じるために信じるという気持ちに基づいて一心に帰依し、かつ宗教の違いにこだわることなく仏教やヒンズー教キリスト教などを学ばれることをお勧めします。なぜなら、それらの宗教の教えの本質は同じだからです。その本質に是非とも気がついてほしいと切に願います。マタイによる福音書第7章7節から8節にかけて書かれている「求めよ、そうすれば、与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、開かれる。すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者には開かれるからである。」と、群集や弟子たちを前にして言ったイエス・キリストの言葉を何とぞ現実のものとして実現して下さいますよう視聴者の皆様に心から要望いたします。

 ちなみに、先ほど申し上げたヨハネによる福音書第3章16節から21節にかけて書かれていることは、今に始まったことでもないでしょうがユーチューブで時折目にする世界の終末を予言するような動画にも当てはまります。私は、世界は滅亡することなど無いと思っています。ですから、その様な動画には私は全く興味がありません。なぜなら、私は常に光を見ているからです。光の方を見ている者には恐れるものはありません。光を見ている者には世の終末は無いのです。しかしながら光の方を見ない人は違うのかもしれません。多分、世界の終末を予言する動画ばかり見ている人は光より闇の方が好きなのだろうと思います。それはそれで何も悪いことではありませんが、世界の終末は、そういう動画ばかりを見ている人たちにとって真実味のあることとして存在していることなのかもしれません。もし、そのような動画を見ている人で恐怖や不安にかられるようであるならば、「それが、もう裁きになっている。」ということになると私は思います。   

 それでは最後にヘルメス・J・シャンプさんが書かれたナチュラルスピリットから出ている「ヘルメス・ギータ―」をご紹介して終わろうと思います。

 2年前に初めて、この本を読んだ時私は本当にびっくりしました。何に驚いたかと言うと、当時私が常日頃真理について考え理解していたことと全く同じことが書かれていたからです。これほどまでに自分の頭の中で考えていた同じ内容の考えが書かれていることに対し信じられないというくらいに驚きました。私は彼ほどに文才はありませんが、まるで私が普段考えていることを著者が代わりに代筆してくれたのではないかと思えるほど、私が考えていたことが、そのまま書かれていたことには我ながら本当に驚いたことを覚えています。これをシンクロニシティと言わずに何というのでしょうか。

 しかしながら、よくよく考えてみると、どこにも驚くようなことはないのです。私たちは誰であろうとも元から一つのもの一者であり、最初から真我として一つなのですから真我について同じ考えの人がいたとしても何の不思議もありません。ユングは、これを集合的無意識による交流と考えたようですが、全ては一つなるものが根底にあるが故の共時性なので説明の仕方は人によって違えども言っていることは同じです。

 真理についての私の思考とヘルメスさんの思考とが、あまりにも似ている共時性には驚かされたものの、これも茶目っ気たっぷりな真我のやりそうなことだと思えば、逆に、彼の最初の著作である「それは在る―ある御方と探求者の対話」で「私は無い」の気づきを私に与えてくれたヘルメスさんと考えが同じになったことは当然の成り行きではなかろうかと思います。

 2年前ほど前に至ることが出来た私の気づきに対する基本的な考え方を知りたいのであれば、どうぞヘルメス・J・シャンプさんが書かれた「ヘルメス・ギータ―」を読んでください。なぜなら彼は私であり、私は彼であるからです。そこには何の違いもありません。多分、彼もそう言うでしょう。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

真我探求上の心身への悪影響‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

真我探求上の心身への悪影響‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が21回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私はこれまで何度も繰り返し諦めと自分が心から信じる神仏への明け渡しの重要性をお話ししてきました。それほど諦めと明け渡しが大切というのならば、その諦めと神仏への明け渡しがないまま真我の直接体験が起こった場合やそこに至るまでの精神上の何かしかの変化が起こった場合に、どの様な悪影響があるのかを考えてみようと思います。

 みなさんはクンダリーニ症候群という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。手っ取り早くウィキペディアのクンダリーニの欄をご覧になられることをお勧めしますが、その欄の真ん中あたりにクンダリーニ症候群について書かれている箇所があります。今回は、そのクンダリーニ症候群についてお話しをしようと思います。

 まず基本的な知識としてクンダリーニとは、そこに書かれている説明ではヒンドゥーの伝統において人体内に存在するとされる根源的な生命エネルギーを意味する言葉です。そのクンダリーニをクンダリーニ・ヨガなどを通して覚醒させることにより、神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされています。そして、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じた場合に、様々な快・不快の症状をもたらすクンダリーニ症候群が生じる可能性があるようです。

 クンダリーニの覚醒には、大きく分けて能動的アプローチと受動的アプローチの二つがあります。能動的アプローチには体系的な身体運動と集中、視覚化、呼吸法、瞑想のテクニックなどがあるのに対し、受動的アプローチでは積極的にクンダリーニを目覚めさせるようなことはせず、降伏の道とも言える目覚めに対する全ての障害を手放していく方法が取られます。その受動的アプローチの主な部分が、既にクンダリーニが覚醒している指導者による注視、意念、シャクティパットとのことで、それにより一時的ではあるものの指導を受ける者に基礎となる経験を与え、その事で、その人のクンダリーニが目覚めるのを促すとのことです。

 最初私は、このクンダリーニという言葉の意味が全く分かりませんでした。クンダリーニの覚性とは何のことやらというのが正直なところでした。しかしながら、関連する項目を読み進めるうちに、どうやらクンダリーニとは真我である純粋意識のことを指しているのではないかと思うようになりました。ウィキペディアの「ヨーガ」の欄には、ヨーガはインド的・仏教的な伝統において悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法自体と、その世界をトータルに表す言葉であるとするインド思想研究者の説と共に、合一、結合、集中、努力、心の統一、瞑想といった意味もあるとも書かれています。従って、そこに書かれていることに基づいて解釈するならクンダリーニ・ヨガとは真我との合一を目指す修練法、つまり梵我一如法と言えるのではないかと思いました。

 ヨーガは、現代においては心身の健康増進を主眼に置いた身体的エクササイズになっているようですが、もともとは瞑想を主とする古代インド発祥の伝統的な宗教的行法でありバラモン教ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教等の修行法として行われてきたと言われています。当然宗教的行法であるというのであれば、そこには単なる健康法以上の宗教的意味合いがあるはずです。とあるインド哲学研究者の説としてウィキペディアには、ヨーガは基本的に意識を一点に集中する瞑想の技法であり、心の働きを止滅させることを目的とすると書かれています。それでは一体、何のために心の働きを止滅させるというのでしょうか。もちろん、それは悟りを得るためであり解脱をするためであり、至高の存在である真我に至るためです。

 私は、クンダリーニやヨーガに関する説明を読んでいるうちに、これらの説明は真我に至る色々ある方法の中の一つの方法を違う言葉で説明していたということが分かりました。現在の単に心身の健康を目的とするものではなく、それらの方法の本来の目指していたところが分かれば、私が取り組んでいた目標と同じところを目指すための別のやり方であったと気づきます。実際、ウィキペディアのヨーガの説明の中に「仏教でいう禅定や止観、またはマンダラを用いた瞑想法なども広義のヨーガといえ、ヨーガの行法は中国・日本にも伝えられた。」と書かれています。いずれにせよ、悟りや解脱に至る方法には色々あり一つではないということなのでしょう。

 そうしたことを踏まえた上で、それなら、私が過去動画の中でお伝えしてきたことは今申し上げたクンダリーニの覚醒のアプローチの仕方に当てはめた場合、能動的なのか受動的なのか、一体どちらにあたるのでしょうか。私が思うに間違いなく受動的なやり方の方だと思います。自らが心から信じる神仏に対して人生の明け渡しの大切さを私は言ってきた訳ですから明らかに降伏の道であることに間違いはないのではないかと思います。

 いずれにせよ、自分に合ったしっくりくるやり方をやっていけば良いのではないかと思います。以上、ここまででようやく前提として把握しておかなければならない基本的なことが話し終えました。ここからが今回の本題ということになります。

 ウィキペディアのクンダリーニの欄の中ほどにクンダリーニ症候群について書かれた箇所があります。そこには次のように書かれています。霊的・精神的・身体的な準備ができていないにもかかわらず意図的または事故等によりクンダリーニがある程度覚醒してしまったために様々な快・不快の症状を発症することであり、発症要因としては中毒症状や病気、過労、仙骨付近の負傷、臨死体験などにより発症する可能性がある。特に臨死体験経験者が最もクンダリーニ上昇に近い経験をしているという主張が欧米の研究者を中心になされている。他に、急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故などにより身体にかかる衝撃、出産時のショック、過度の前戯などによっても誘発されるおそれがあるという説がある。なお、LSDなど薬物を利用した覚醒は偽りのものであり、アクシデントに陥りクンダリーニが堕胎(だたい)してしまう危険性が高いとされる。症例としては、自律神経系のうち交感神経系の暴走からくる自律神経失調症をはじめ、至福恍惚感、全身の激しい脈動、脈拍数の増加と高血圧、片頭痛、急性または慢性の疲労、性欲の昂進(こうしん)あるいは減退、統合失調症的症状、幻視・幻聴、抑鬱神経症などを発症するおそれがあり、臨死体験や空中浮遊、脳溢血や半身不随、自殺などを招いてしまうなどと主張するグルもいる。元々境界例や自己愛的な病を患っていたり精神病を潜在的に抱えている患者に、クンダリーニ覚醒に先立って元々の病が押し出されるという説もある。

 今読み上げたことは全て真我探求をする上で、とても重要なことなので悟りや解脱を目指すというのであれば必ずウィキペディアのクンダリーニの欄の中に書かれているクンダリーニ症候群の箇所に目を通しておいてもらいたいと思います。

 なぜ私が、過去動画において何度も警告を発してきたのかという理由がこれではっきりとお分かりになるのではないでしょうか。真我探求は、その目的故に自我の消滅を必要とします。その自我の消滅を目指す過程においては下手をすると精神の崩壊を招く恐れがあります。特に自分一人で取り組んでいる場合などは、とても危険な行為になると私は思っています。重度の心身の疾患を患うばかりでなく最悪自分や他人に対して危害を加える可能性もあるのではないかと思います。生半可な気持ちから、特に超能力を身に着けたい有名になりたいなどといった欲を動機としている人は本当に危ないと思いますし、先ほど読み上げた引用文のなかにあった通り、もともと潜在していた精神病が真我探求をすることにより表出する可能性も考えられます。

 なぜなら、私は何かで始まる私は体ではない、私は感情ではない、私は思考ではない、私は感覚ではないというように、自分の内と外で感じていたものを少しずつ薄皮をむいていくように剥いでいきながら核となる心さえも自分のものではないと否定していくわけですから、その自分と思っている自我を小さくしていく過程おいて心身面でどの様な悪影響が生じるかについては私にも見当がつきません。

 私の場合は、感覚・知覚・記憶・思考・意図といった個々の体験の要素を「私の体験」「私の人生」と見なさない解離性や自分が自身の観察者になるような状態を感じる離人症的な感覚がありますが、それは自分の言動や精神活動を徹底的に客観視するという日々の精神鍛練に起因するものなので意識的・意図的に起こしている精神状態とも言えます。日頃から、そういった精神鍛錬をしていない普通の人は何の予備知識もないまま、また意識的に意図的に鍛錬としてその状態を引き起こすわけでもなく望んでもいないことが起こるために、それを病気と捉え苦痛に感じるようですが、私はそれを真我探求上おこなう精神鍛錬のたまものと考えているので全く苦になっていません。逆に起こる事象を遠目で見るかの如く客観的に見ることができるようになってうれしい限りです。従って、たまものと思い全く苦になっていない以上、私にとっては、それは自我意識の障害には当たらず病気ではないのです。また統合失調症の思考内容の障害にあたる妄想の症状の一つに自分は神若しくはそれに近いものなどと思い込む宗教妄想というものがあるようですが、以前にも申し上げた通り私は自分の中に神の本質があるとは思っていますが、それは地球上の80億を超える全ての人々と全ての存在にも言える事なので私だけがそうだと言っているわけではありません。私を含めた見えるもの見えないもの及び世界と宇宙の全てが神の現れであると言っているのです。これは仏教の多くの宗派で唱えられている、この世の全てのものまたは一切の衆生には仏性があるという教えと同じものであると私は思っています。もし、そう考えること自体が病気だと医学者が言うのであるのならば、それをいう唯物論に凝り固まった医学者の方が間違っていることになります。

 それ以外では、ウィキペディアの中に書かれている統合失調症の症状として挙げられる妄想・幻覚・まとまりのない思考・ひどくまとまりのない、または異常な運動行動・陰性症状に該当するものはないと自分で判断できますし、社会的または職業的機能の低下なども特になく職場の人間関係も良好です。正直、真我の直接体験をする直前まではかなり精神的に苦しい時もあったのは事実ですが、真我の直接体験をした後は自分の真の存在は何なのかを知っているので以前のような苦しさはありませんし、神仏への絶対的帰依もあることから心には平安があるのみです。故に今のところ私は自分について特に精神を病んでいるとは思っていません。

 しかしながら、そう言えるのはあくまでも私の場合に限ってということであり、他の真我探求をしている人にも同じようなことが言えるなどと絶対に言えません。やはり自分が何らかの精神疾患を患っているのかどうかを疑問に感じるようであるのならば専門医に見てもらう必要性は出てくると思います。しかしながら真我の探求上、それが本来正しい道の中で生じる乗り越えなければならない予想される通常の困難であり、悟りや解脱を目指す者にとって通らなければならない試練の途上における必然的な精神的・身体的変調であることも考えられます。それにもかかわらず正しい知識が無いがために統合失調症のような精神病であると勘違いをして精神科を受診し、加えて精神科医がクンダリーニ症候群や宗教上の精神鍛錬の厳しさと困難さと苦しさに全くの無知であった場合は、単純に症状だけをみて精神病と決めつけられ薬物治療などを受けてしまうならば、それまでの鍛錬が水泡に帰すということも考えられます。従って、何が病気で何が探求上生じる乗り越えなければならない精神上肉体上の試練であるのかを自分自身でちゃんと見極める必要性があると思います。

 まずは悟りや解脱を目指す真我探求上で待ち受ける数々の試練に伴う精神的肉体的変調にはどのようなものがあるのかを知ると同時に間違われやすい統合失調症のような精神疾患の症状にはどのようなものがあるのかも把握し、両者から生じる可能性のある心身の変化の危険性をしっかりと認識したうえで、それに対応する心構えを事前に持っていなければならないと思います。そして更に、今言った起こりえる心身の変調と危険性の認識に関する知識を踏めたうえで取り組まなければならない真我探求に不可欠と言えるものは、やはり自分が心から信じる神仏に対する帰依心だと思います。

 前述したウィキペディアのクンダリーニ症候群の中に発症要因として、「急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故などにより身体にかかる衝撃、出産時のショック、過度の前戯などによっても誘発されるおそれがあるという説がある。」と書かれています。

 事故などの不測の事態によるクンダリーニの覚性については私は門外漢なので何とも言えませんが、少なくとも意識的に行う真我探求については経験上それなりに言うことができます。それは自らが信じる神仏に対する絶対的帰依心なくして真我への軟着陸は難しいのではないかということです。

 私の場合は幸いにして自己の内側にしっかりとした信仰に基づく神仏への帰依心がありました。私の核となる部分は「私は無い」に気づく前後あたりからワンネスと根底にある愛という認識、つまり全ては一つであり、そこには愛があるという体験に基づく考えが少しずつではありましたが醸成されており、かつ私を含め全ての現象、全ての出来事は神が作ったものであり、私は神の操り人形かプログラム通りにしか動くことができないロボットに過ぎないことを理解し受け入れていました。結果的に、そういった認識が事前に保たれていたからこそ真我の直接体験をした後でも私の心は絶対的な帰依心に基づく明確な神への帰属意識へと変わることはあっても私の精神が崩壊するなどということは一切なく、体にも変調をきたすこともなく通常の社会生活を営むことができました。これは確かな事実です。この一連の体験上の流れから受ける印象をクンダリーニ症候群にならないために関連付けて私なりの考えを申し上げるならば、自分の本質は一つなるものであり根底には愛があるという認識と神仏に対する帰依心は真我探求上の必須の心得であることに間違いはないと思います。

 また、私には準備が整わないまま生じたクンダリーニ覚性後のクンダリーニ症候群と併せて危惧することが他にもあります。それは、どの様なやり方であろうとも単なる好奇心からとか、超能力を身に付けたいからとか、有名になりたいからなどの欲望の充足といった邪心からクンダリーニの覚性をしようとする人がいるかもしれないということに対してです。もし、しっかりとした神仏への帰依心もなく善なる心もなく興味本位や煩悩からくる真我探求を行い自我の消滅を試みようとした場合、一体その人はどうなってしまうのだろうかと考えてしまいます。

 たとえば私がやってきた方法である、自我を帰依心に基づいて神仏への明け渡しを行いながら、私は何かと問いつつ、私は体ではない、私は感情ではない、私は思考ではない、私は感覚ではないというように、自分の内と外で感じていたものを少しずつ薄皮をむいていくように剥いでいきながら核となる心さえも自分のものではないと否定していく方法を、善なる心が自我の根底になく、かつ十分な神仏への帰依心もない人が欲望の充足を目的に行なった場合を皆さん考えてもらいたいと思います。その人は、これまでは教育の成果として心の表層にあった上辺だけの常識や道徳心で普通に社会生活を無難にこなしてきました、しかし、ある日ふと関心が湧いた真我探求上の自我の否定の鍛錬を行うことにより上辺の道徳心や常識を守るという意識が取り払われ自我の奥底にあった悪の心がむき出しになってしまうということが起きてしまった場合、これはとても恐ろしい結果を招くおそれがあるのではないでしょうか。自制心をなくした人の悪の心は自分や他人に向けられ、様々な言動で自分を含め人や周囲のものを傷付つける可能性があると思います。

 時たま重大事件を起こした人の中に罪を犯した理由として神がそう言ったからやったという人がいますが、それと同じように自我の根底にあったものが善ではなく悪の心で、なおかつ、しっかりとした神仏への帰依心がないまま自我を消滅させていく鍛錬をすれば、むき出しとなった悪の心は悪行をする際に言い訳として神仏を口にするのは必定です。

 従って、何度も繰り返しますが、しっかりと善なるものが心の中心を成している人が鍛錬をするのなら良いのですが、もし、悪なる心が自我の中心をなしていた場合、それまで曲がりなりにも悪なる心を抑制していた外側の自制心や道徳心・常識を守る心が鍛錬によって消滅し若しくは抑制力を失って中心にあった悪なる心がむき出しの状態になってしまい、しかも十分な神仏への帰依心もないということになれば、その人は完全に悪なる心に支配されてしまう可能性があります。

 なんだかスターウォーズに登場するジェダイアナキン・スカイウォーカーがフォースの暗黒面に囚われてダースベイダーになってしまう話しと似ているように感じますが、何にせよ、悟りや解脱を目指す真我の探究中においては善なる心を核としたうえで神仏への明け渡しがしっかりと出来ていない人は、悪の道に進んだり精神の平衡を保てなくなり最悪自らを傷つけてしまう可能性があると思います。もちろん最終的に真我であることを悟れば、そこには善も悪もなく神も悪魔もいない生も死もない対立しあうものなど元からない全てが空なるものであることが明白になりますが、問題はそこまでに至る過程において精神を病んでしまう可能性があるということなのです。

 以上の事から、自分の中の核となる部分は善であるという人だけが真我探求の資格があると言えるのではないでしょうか。自分の心の中の本性を見誤(みあやま)ることなく真我探求に取り組んでもらいたいと心底思います。いずれにせよ、宗教団体に所属せず一人で真我探求をするというのであれば探究中に精神を病んでしまうことになったとしても全ては自己責任ということになりますので、クンダリーニ症候群も含めて悟りや解脱の道を歩むうえで起こる様々な心身の障害に関する勉強も行いつつ取り組んでいただきたいと思います。もし、十分な準備が整わないままクンダリーニが覚醒したためにクンダリーニ症候群に当てはまる心身の変調をきたしたり、真我探求の精神鍛錬の段階で自らの内の核となる部分は悪であることに気づいた場合には探究を直ぐに中止するのが無難です。そして、特に自らの内の核となる部分は悪であることに気づいた人は善なる心の修養に努めつつ精神科の専門医を受診した方が良いのかもしれません。ウィキペディアのクンダリーニ内に記載されているゴーピ・クリシュナの体験も参考になると思いますし、ネットでクンダリーニ症候群と検索すれば関連記事が沢山出てくることから、それらにも一通り目を通しておくことをお勧めします。

            

 それでは最後にアマゾンの電子書籍であるキンドル内において現在税込100円でダウンロードできる関カオルさんという方が書かれた「クンダリーニ症候群になってしまった時に読む本: 素人がクンダリーニ覚醒するとどうなる?」をご紹介します。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

 内容はサラリーマンの著者が太平洋上空の飛行機内で突然クンダリーニ覚醒をしてしまったというところから始まるお話しです。著者は、クンダリーニ覚性をしてしまったことでエンジニアの仕事をしているにもかかわらず電磁波過敏症になってしまいパソコンを立ち上げることすらできなくなりました。さらにはパニック発作が毎日のように起こり外出もままならなくなってしまい、統合失調症の症状とそっくりな症状に苦しまされ続け、それらの症状が完全に回復するまで8年もかかったとのことです。その自身の体験であるクンダリーニ症候群の症状と回復までの記録などが書かれている本です。

 著者が言うには、クンダリーニ症候群になる理由としては、精神や肉体の浄化が終わっていないにもかかわらずクンダリーニのエネルギーが上昇してしまうのが原因とのことで、クンダリーニのエネルギーが精神と肉体のブロックとぶつかることで様々な不思議な症状を生みだすのだそうです。また、精神と肉体の準備が出来ていない状態でクンダリーニが覚醒すると高い確率でクンダリーニ症候群になることから興味本位でクンダリーニ覚性を求めるのは、あまりにもリスクが高いとも書いています。

 私も著者の「興味本位でクンダリーニ覚性を求めるのは、あまりにもリスクが高い」という意見には同感です。本文中でも申し上げましたが真我探求では、それを求める人には資格が求められます。なぜなら真我の直接体験は、純粋に何の曇りもなく無垢な赤子のような心を持つ者であり、かつ心から真我を切望する人だけに与えられる神の恩寵だからです。故に何の準備もできていない人が何かしらの突然のきっかけで覚性をした場合には、それなりの副作用があるのは当然だと言えるのではないでしょうか。しかしながら、それもまた神の筋書き通りということなので神のちょっとしたいたずら心から生じていることにもなります。当の本人にしてみれば神のいたずら心に対しては、そんなのたまったものではないと文句の一つも出るでしょうが、本当に真我の直接体験をして、この世の真理を少しでも垣間見た人なら、私の言っている事は理解できるはずです。

 何にせよ。今回、取り上げたクンダリーニ症候群はウィキペディアにも書かれている通り、他の病気にもみられる症状を自分でクンダリーニ症候群だと思い込むケースが多いとも書かれていますし、逆に、実際にクンダリニー症候群であるにもかかわらず単なる精神病と誤診されるケースもあるとも書かれています。著者が体験したむずむず足症候群や統合失調症的症状は、クンダリーニ症候群と症状のうえで重なる点があります。著者は、クンダリーニ症候群と統合失調症を見分ける方法はきっかけにあると言っています。症状が起こる前に頭頂部または尾骶骨に衝撃を受けたことはなかったか、ヒーリングなどの自然療法で治療を受けたことがなかったか、ヨガなどでスピリチュアルなヒーリングを受けたことはなかったかなどを挙げています。

 ちなみに私はこの三つの要件すべてを満たします。私の場合は、「私は無い」に気づく2年ほど前自転車に乗っていた際に転倒し腰の脊椎を圧迫骨折するほどに尾骶骨を強打したことがあります。私は、その為に身長が1センチ縮みました。それほどの衝撃を尾骶骨に受けたことがありました。また、インドの瞑想指導者であるオショーの正式な弟子と認められている人が開催していた瞑想サークルに何回か参加したことがあります。さらにレイキヒーリングを指導している人からもヒーリングを受けたことがあります。加えて、私の小学校の時からの友人が崇教真光の信者でしつこく私を誘ってきて近くの道場に連れて行っては、その友人を含む何人かから「お静まり」と言いながら私の体に手かざしをする仕草を何度もされたことがありました。だからという訳ではないでしょうが、そういう事が「私は無い」に気づく前にあったことは確かですし、何より私には若い時から願望成就のためとはいえ神社仏閣をお参りする習慣がありました。10年くらい前からは何かをお願いするためではなくただ神仏に手を合わせるだけのために自然にお参りすることを心掛けるようになりました。はっきりと自覚できるような帰依心も「私は無い」に気づいてから徐々に涵養されてきたと思います。それにより私の場合は真我の直接体験をしてもクンダリーニ症候群になることなく依然と変わりなく社会生活を送ることができたということなのかもしれません。

 いずれにせよ、しっかりとした考えのもと全ては自己責任という覚悟を持って事前の情報収集により様々な功罪を理解した上で真我探求に臨んでいただきたいと思います。ご紹介した本にご興味ご関心のある方は、現在税込み100円でキンドルから購入できるようなので読んでみてはいかがでしょうか。

 それではいずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

明け渡しの重要性‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

明け渡しの重要性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が20回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これまで私は諦めの重要性を何度も繰り返し言ってきました。この諦めは、単純に自分の未来における何かしらの欲望の成就に関する期待や希望について言っているのではありません。自分がかじ取りをしていると思っている人生そのものに対して、実際は一切かかわることができないことを受け入れるための諦めなのです。その上で、たとえば味噌や醤油が無くなったから買ってこなければいけないなとか、服が古くなったから新しいのを買わなければいけないなという程度の生活上必要とされる物以上の欲を抱くことなく、自分の人生の先行きに対して分を超えた期待や希望を持つことなく今をあるがままに生きるために毎日繰り返される日常を淡々と生きることは、とても大切になってきます。しかしながら、そういった自分の未来に対して何の希望や期待を持たずに、ただ生きることは時には大変つらく苦痛に感じる場合もあると思います。僅かであっても何かしらの希望があるからこそ生きていけるという人もいるでしょう。それが本当に実現可能であるかどうかを問わず、たとえそれが絶対に実現不可能なものであったとしても、また漠然としたものであったとしても、それまで当たり前のように胸中に抱いていた自分の未来に対する期待や希望を完全に捨てて今を生きることだけに集中するのは困難な場合があることは私も認めます。しかし、それは自分の人生が自分のものだという幻想があるから成り立っているに過ぎないのです。

 私は無いに気づいていない人には信じられないでしょうが、私も含め誰であろうとも人生に対して関わることは一切できません。単純に、自分のものと思い込んでいる体の感覚を経験しているに過ぎないのです。その経験の連続を私の人生であると事実誤認しているだけなのです。ただの思い込みなのです。その思い込みを断ち切るためには、出来るだけ体を通して感じる様々な情報を、それは私ではないと自分から切り離す努力をしてみる必要があります。体から受け取る情報は、あなたではありません。体の目を通して見ている映像はあなたではありません。私たちはリアルな感情と体の感覚を伴う映画の中にまさに我を忘れて没入し観賞している存在なのです。

 そして、そういった受け入れがたい真実を真実として真に受け入れていく過程においては、私は無いことに気づいたことにより空白となる主体となるべき私の部分を代わりとなる何かで埋めていくことが必要になってきます。それが、自分の身と心及び人生の全てに関して自分が心から信じ絶対的な信頼に基づいた神仏に対する帰依心から起こる明け渡しなのです。この明け渡しにより全ての行為は神仏によって自動的に起こっているという認識が、それまであった私に、とって代わるのです。つまり、それまで行為の主体となっていた私の部分が神や仏に置き換わられるということになるのです。そこには絶対的な安心があります。脳裏を横切る心配事や胸中を漂う漠然とした不安は明け渡しの度合いに応じて軽減していきます。

 以前の動画でも申し上げた事があると思うのですが、私はある日、神への絶対的な帰依心が急に起こったことがあります。私は、神の操り人形として神の奴隷としてのゆるぎない認識と共に神への絶対的服従心ともいえるものが芽生えました。その時私は、神に属する者として神の命ずるままに神の手足となって動くことを切に願いました。それ以来、生きるも死ぬも私の人生の全ては神にお任せをしていて、私の心は常に神と共にあることで安心と安定を得ています。不思議なのですが神への絶対的帰依心には心の安定作用があります。

 

 また、私は今出ている画像のように神の偉大さを前にして自然と身も心も完全にひれ伏すことが度々あります。ひれ伏すことに理由などありません。とにかく私は神の偉大さを感じると、その圧倒的な大いさに対して自然な感情と敬意の現れとしてひれ伏さずにはおられなくなるのです。神の、その大いなるものとしての存在に対して、あまりの偉大な尊さに対して畏れ敬ずにはいられない気持ちになるのです。加えて感謝せずにはいられなくなります。これらの五体投地の画像のように私の頭は、ただただ地にひれ伏すばかりとなるのです。

         

 さらに、イメージとして私の首はどんどん長くなると同時に地中に潜り込んでいき、私の頭は地球の中心を通て反対側に出てもまだ足りないほどのかしこまり方になってしまいます。そして私は、神は偉大なりと念じるのです。いかにイメージとして頭(こうべ)を垂れ地球の反対側を突き抜けるほどに首を長くしたとしても、まだまだ神に対する謙虚な気持ちを表す表現が足りないような気がしてなりません。どうすれば私の身も心も命さえも神に捧げ忠誠を誓う忠実なる僕として、それを表現すれば良いのでしょうか。私には分かりません。

 しかしながら、私は今ここで、はっきりと世界中の人々に対して明言できることがあります。それは、私は神様を心から愛しているということです。私は神様のことを思うだけで本当に幸せな気持ちになります。神様は私にとって至福そのものです。私は心から神様を愛しています。

 明け渡しの方に話しを戻します。神への明け渡しの重要性は仏教でもヒンズー教でもキリスト教でもイスラム教でも共通して説かれています。仏教では帰依とか帰命と言われています。意味は、優れたものに対して何の疑いも持つことなく信じて身も心も捧げてよりどころとすることです。

 その昔、三帰依文(さんきえもん)という、悟りを開かれたお釈迦様と、そのお釈迦様が説いた教え、その教えを奉じて学び伝える人の集まりといった三宝への帰依を唱える儀式がお釈迦さまの弟子となる際にあったそうです。この三宝への帰依は仏教徒の基本中の基本ともいえるものなので今でも宗派関係なく仏教徒であれば唱える文言になっているようです。

 そして、どうやらこの三帰依文は大乗仏教の仏典の一つである華厳経(けごんぎょう)に由来があるようです。華厳経の浄行品(じょうぎょうほん)の中に以下のように書かれています。

自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意

自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海

自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙

 私は、これをどう読むのか分からないので、手っ取り早く「音読さん」というネット上の音声読み上げソフトを使って読み上げてもらうことにします。

次に中国語です。

 この文章は過去に沢山の人が翻訳されています。ネットで検索すると様々な宗派の方のサイトが出てくることから、そのうちのいくつかを開いて見てみるのですが私には今一つピンとこなかったり、しっくりきません。なんかずれているように感じます。そこで私は、これをDeepL(ディープエル)という翻訳サイトで翻訳してみました。すると次のように翻訳されました。

 

仏に帰依する全ての衆生が大道(だいどう)を悟り、至高の心を育みますように。

法に帰依する一切衆生が経典の奥義を体得し、海のように聡明となりますように。

僧に帰依する全ての生きとし生けるものが、大いなる大衆と一体となり、あらゆる障害から解放されますように。

 

 どうでしょうか。ネット上に掲載されている他の人が過去に翻訳された文章と比較した場合、DeepL(ディープエル)で翻訳された文章の方が一番しっくりくるように私は感じます。どれがいいか悪いかということではなく、単に訳としてはDeepLの訳の方が分かりやすいのではないかと思いました。

 ちなみに私は、宗教団体のどこにも所属していません。従って、私が帰依する存在は全ての見えるもの見えないものの中にあり、同時に自分の中にもある現象世界を生み出す根本原因である唯一絶対と言える至高の存在である真我のみです。宇宙の中心、世界の中心は自分の中にあります。故に私が帰依するのは自分のみです。ですから、これを視聴されている皆さんも、外の何かに帰依するのではなく自分自身の中にある本当の自分に帰依すれば良いと思います。帰依する対象は自分自身です。

 それに関連する話しになるかと思いますが、神社にはご神体として鏡が置かれています。グーグルで「神道 鏡の意味」というキーワードで検索してみると「神社における鏡は、向き合うことで自分の心をありのまま、包み隠さずに写し出すことを意味しています。」という説明がトップに出てきます。私は、全くその通りだと思います。その鏡に反映されるのは自分の姿のみならず万物が一体となって写り込んだものです。この一体となって写っているというところがとても重要です。自分と思い込んでいる体と周囲の物すべては一つであるということを理解できるかが鍵になります。それは体を含めて一体となってこの世に現れ出た神の姿です。それを前にして柏手を打ち頭を垂れるのは、その一体となって現れ出ている現象世界の根底にある神の本質に対して礼拝をしていることになるのだと私は思います。

 次は、ヒンズー経です。ヒンズー教では、信愛とも訳されるバクティと呼ばれる絶対的帰依をすることは、自力だけではなかなか得ることが難しい解脱をする上で最高神の慈悲を頼りとする大切さとして説かれています。またバクティは、尊敬と崇拝の対象であると同時に指導者でもあるグルに対して絶対的な信頼に基づいて帰服する際にも使われる言葉でもあります。さらに、数ある聖典のひとつとして数えられるバガヴァッド・ギーターの中でも、何の迷いもなく願望もなく私という思いもなく、自分が行うべき行為をただ行うことこそが神への絶対的帰依として語られています。

 次はキリスト教です。キリスト教では、聖書の多くの箇所で神にゆだねることの大切さが語られています。神の御心のままにとか御旨のままということが書かれています。中でも最も偉大な明け渡しは十字架上におけるイエスの言葉に象徴されるのではないかと思います。ルカによる福音書23章46節、イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。これこそがイエス自身が身をもって手本を示された最高の明け渡しと言えるのではないかと思います。

 私は、この23章の描写からイエス・キリストの死に対しては手を合わせ心からの感謝をします。なぜなら、自らを犠牲にしてでも愛の尊さを示そうとしたイエスの愛の深さを感じざるを得ないからです。そして私は、神とイエスを愛さずにはいられなくなります。どうか皆さんもイエス・キリストを愛してあげてください。愛すれば愛するほど感謝すればするほど、それは自分自身への感謝と愛という形で帰ってきます。心は満たされます。イエスの復活はイエスを心から愛する人々の中に愛として甦ることになるのです。

 次はイスラム教です。イスラム教でも明け渡しはとても重要な教えとなっています。そもそもイスラームという言葉自体がアラビア語で「平安」を意味するサラームに由来するとのことで、また身を委ねるという意味があり、転じて服従や帰依という意味にもなったそうです。

             

 ところで2023年10月29日現在、楽天電子書籍である楽天Kobo内に0円でダウンロードできる「神聖なコーラン: 日本語の意味の翻訳」という本があるので、もしよろしければそれを読まれることをお勧めします。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

 話しを戻しますが、よくイスラムの過激派がジハードという言葉を使ってテロを行ったりしますが、ウィキペデアを見れば分かる通りアラビア語で奮闘努力をするというのが本来の意味です。コーランに是非眼を通してもらいたいのですが、そこかしこに「アッラーの道のために奮闘努力」という言葉が書かれています。

 たとえば、「神聖なコーラン: 日本語の意味の翻訳」から引用すると第29章蜘蛛の章6節「信仰のために奮闘努力する者は、自分自身のために奮闘努力しているのである。アッラーは、すべてのものに何一つ求めない。」とか第49章部屋の章15節に「本当に信者とは、一途にアッラーとその信徒を信じる者たちで、疑いを持つことなく、アッラーの道のために財産と生命とを捧げて奮闘努力するものである。これらの者こそ真の信者である。」などということが書かれています。時には第9章悔悟の章5節に「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第 殺し、または、これを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だが、かれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」などというように厳しいことが書かれている箇所もありますが、これは多神教徒の不誠実さのために盟約の破棄が宣言されたという話しの上でのことなので、それ以外で理由もなく異教徒の命を無差別に奪って良いなどとはどこにも書かれていないと思います。

 いずれにせよ、第2章雌牛の章21節「人びとよ。あなたがた,またあなたがた以前の者を創られた主に仕えなさい。おそらくあなたがたは(悪魔に対し)その身を守るであろう。」、22節「(かれは)あなたがたのために大地を臥所(ふしど)とし,また大空を天蓋とされ,天から雨を降らせ,あなたがたのために糧として種々(しゅじゅ)の果実を実らせられる方である。だからあなたがたは(真理を)知った上は、(唯一なる)アッラーの外に同じような神があるなどと唱えてはならない。」と書かれている通り神への帰依はイスラム教でも説かれているのです。

 帰依という話しからは少し逸れてしまいますが、ユダヤ教キリスト教イスラム教は共に同じ唯一の絶対神を信仰する宗教です。それらを信仰している当の本人たちはどう考えているかは分かりませんが私には兄弟の宗教のように見えます。今でも世界のどこかで同じ神を信じながら互いに憎しみ合い異教徒扱いをして相手を傷つけていたりしています。いつまで血肉(けつにく)を分けた兄弟同士のけんかをしているつもりなのでしょうか。長い歴史が絡むことですから、そう単純なことではないでしょうが同じ神様を信仰している者同士が相手を認めず骨肉の争いを繰り広げているのは本当に悲しいことだと私は思います。

 イスラム教自体は、コーランを読めば分かることですがユダヤ教キリスト教も認めています。第2章雌牛の章62節「本当に(クルアーンを)信じる者,ユダヤ教徒キリスト教徒とサービア教徒で,アッラーと最後の(審判の)日とを信じて,善行に勤(いそ)しむ者は,かれらの主の御許(みもと)で,報奨を授かるであろう。かれらには,恐れもなく憂いもないであろう。 」と書かれています。コーランには今読み上げたように、それら宗教の信仰者同士でいがみ合えとは書いていないのですから私としては一日も早く融和が訪れることを祈っています。

 ちなみにクルアーンコーランのことです。正確にはアラビア語で「アル=クルアーン」といいます。「アル」は定冠詞で「クルアーン」には「声に出して読むものや声に出して読むこと」という意味があるので、本来、黙読するものではなく読誦(どくしょう)するべきものということになります。

 どうでしょうか。ここまでお話ししてきたことで少しはご理解いただけたでしょうか。どの宗教においても神を全面的に信頼し身も心もそして命さえも神への明け渡しを行うことはとても重要なこととされています。それは自我をおとなしくさせ欲望を生じさせるのを減少させることにつながるからです。この神を心から信じる明け渡しの気持ちがあってこそ絶対の安心と言えるものを得られるのではないかと思います。その絶対の安心という安定した基盤があってはじめて悟りや解脱の道をしっかりと歩むことができるのではないでしょうか。欲望は自我の肥大さと正比例します。つまり、縮小させなければならない自我の大きさに反比例させながら自己の全てを神仏へ移乗していかなければなりません。それら一連の真我探求上の流れが、心から信じる自らの内にある神仏への明け渡しということになるのです。そして、その神仏を信じる心までもが消滅した時、自らがその神仏であったと気づくことになります。それが真我に到達した真我の直接体験ということになります。私の場合は、これといった大した努力をしたわけでもないにもかかわらず、それがたまたま起きたというだけのことです。その真我の直接体験は、それを心から本当に求める人ならば誰にでも起こる可能性はあると私は思っています。

 最後に少しだけ触れておきたいことがあります。宗教については、多くの人は誤解をしていると思います。宗教は本来対立しあうものではないはずです。宗教は、本来自分と世界の存在理由を解明し、創造の根幹に回帰しようとする内なる願望から生じているものです。真理の探究なのですから色々な考え方や探求方法があってもいいはずです。それぞれが自分に合ったやり方で真理を探究し神に至れば良いのです。その神に至る方法として、他の人がやっている自分とは違う別の方法をただ認めれば良いだけのことなのです。私は、とても簡単なことだと思います。そうは言っても物心両面での貧困と偏見と差別が結びついた狭量な心からくる宗教上の対立は、今でも世界のあちらこちらで根強くあるのが現実なわけですから簡単には解決しないというのも事実だと思います。やはり、そこまで人類全体の精神性の平均値はまだ成熟したレベルにまでは達していないということなのかもしれません。なんにせよ、それもまた神が望んだ世界なのですから、神の御心のままにインシャラ―ということになります。

 以上、今回はここまでとします。私は聞いている視聴者が飽きないように動画1本の時間を長くても15分以内に納めようと思っているのですが、あれもこれも言わなければならない、説明がまだ不十分で足りていないという気持ちからついつい原稿を長く書いてしまいます。何とか伝えるべき要点をしっかり捉えて15分以内にまとめようと思うのですが、しかしながら、これもまた神の思し召しのままにということになると思います。

 それではいずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。