私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の文字版です。

仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識‼

 本ブログ内の文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。 

 今回は理解の一助にしていただくため静止画や動画映像を多用しております。私の動画は見づらいかもしれませんが、本編動画をご視聴されることをお勧めいたします。

youtu.be

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で34回目の動画になります。今回の動画では、仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識‼というお話しをしようと思います。

 

 これらの画像は一人称画像と言われているものです。見ている人の視点に立って環境を撮影した画像になります。私も含め普通の人は、画像に写っているように周囲を見ているのではないかと思います。そして、ほとんどの人は目を開けた時に画像の中でいつも一番近くに見えている体を内側で感じる感覚と関連づけて、それが自分であると思い込み、さらに、その体を周囲にあるものとは違う別な物と考え周囲から切り離したうえで見えている状況を認識し把握しているのではないかと思います。そのように把握された中で、あくまでも自分であると思い込んでいる体を除いた周囲のものが認識される対象としての客体であって、自分の体はそれを認識する主体であるとほとんどの人は考えているのではないかと思います。それが通常の人たちにおける世界の把握の仕方であると思います。しかしながら、それは私から言わせると錯覚です。単なる思い込みに過ぎません。

 なぜ、そのような事を私が言えるのか。視聴された方がご納得されるかどうかは分かりませんが、私が現在、この世界の仕組みについて理解している内容をお話ししていこうと思います。それでは、すね毛が生えたゴツゴツした感じが伝わってくる多分男性の足と思われるネットの中で見つけた著作権フリーの今映っている一人称画像を使って普通の人たちが世界を見ている場合の見え方と私が世界を見る場合の見え方に、どのような違いがあるのかをまず簡単にご説明しようと思います。通常、人は誰であろうと最も間近に見える、このような足を持つ人間の形を自分であると思っているのではないでしょうか。そして、周囲にある事物を認識する主体は、このような足をもつ体にあると考えていると思います。その場合、その体を中心として周りに見える布団やベッド、窓際の観葉植物や家具類といった物を認識の対象としての客体と捉えているのではないでしょうか。

 この動画を視聴している人は、パソコンやスマフォなどを通して動画を見ていると思います。視聴者は、画像の中の足の持ち主ではありません。それをはっきりと認識しているはずです。今、画面の中に見ている足を自分の足と思う人はいないと思います。でも、この画像がAI生成画像でない限り画像に写っているモデルになった足の持ち主は、たぶん、この足は自分の足であると思っているはずです。なぜなら、快不快を生じさせる痛みや暑さ寒さを感じる体に、それが自分という観念を結び付けているからです。しかしながら、その自分と思っている体が本当は自分でなかったらどうでしょうか。視聴者の方々は自分自身のことに置き換えて考えてみてください。皆さんも痛みや暑さ寒さなどを感じる体を疑うことなく自分であると思っているはずです。その自分であると思っている体が、実は、まだ見られる対象としての客体だったらどうでしょうか。

 テレビ画面を見ている人のように真実のあなたは今見ている視界の外にいるとしたらということです。 

 

 そして、本当の自分とは全く無関係であるにもかかわらず、一人称で描いた映画やドラマに登場する主人公の誕生から死ぬまでの一生の物語を自分と思い込む方法で観賞している観客だったらどう思われるでしょうか。つまり、視覚で感じる自分と思っている体を含めた目で見えているもの全てと聴覚、触覚、味覚、嗅覚で感じるもの全て、及び、どこからともなく体の内側で湧き起こる思考や感情の全てのものが依然として外側のものであって観賞される対象としての客体だったらという意味です。驚くかもしれませんが、体は主体ではありません。さらに「私は人間である」とか、「私はこの体である」などと考えている人としての思念や思惟、加えて心でさえも主体ではないのです。真実のあなたは、自分のものと思い込んでいる体を通して感じているあらゆる感覚を観賞している人ではない存在なのです。あなたは体でもなければ思考でも感情でも五感でもありません。あなたは、純粋な意識そのものなのです。

 それに関連することではありますが、ここから突然話しは変わります。私はまだ行ったことはないのですが最近の映画館は昔と違って相当に進化して、映画のシーンに合わせてシートが振動し水が降り風が吹きつけ煙も出てフラッシュもたかれ、さらには感情的に盛り上げる香りまでが出るそうです。そういった様々な特殊効果を使って、これまでの目と耳だけで観る映画から体全体で感じる映画へと観賞の仕方が変わってきているとのことです。 今のところ、その様な映画館はまだ数が限られるようですが、これからの映画館はそういった4DX(フォーディックス) デジタルシアターと呼ばれる体感型映画館が当たり前になるのではないかと思います。そして、さらに時代が進めば、これは空想になりますが50年後100年後には一時的に本当の自分の記憶を忘却させて一人称映画の主人公に完全になりきることが出来る完全没入方式の映画観賞スタイルが主流になるかもしれません。

 つまり、私たちは今言った50年後100年後に出現するかもしれない完全没入式の体感型映画館の観客席にいて、元々の自分が何だったのかを忘れるようにして一人称映画の主人公と完全に同一化したうえで物語に沿って人間が外側と内側で感じるもの全てを疑似体験している純粋意識であると、そのように思えば分かりやすいのではないかと思います。

 私について言えば自分の体の内と外で感じる感覚全てを常に俯瞰し客観視しています。私は体でもなければ、やってくる思考でも感情でも感覚でもありません。私は、それを自覚しています。もし、私が体験している人生が実は未来人が見ている過去を舞台にした冴えない人物の物語だとしたら悪趣味もいいところです。そして私の人生を未来人が見ている過去設定のうだつの上がらない男の物語だとした場合、元から自分という主体性がなかった「私は無い」という気づきは、言うなれば完全没入方式による体感型映画の鑑賞途中で本来の自分に気づいていくように最初から設定されたストーリーだったのかもしれません。または映画の終わりが近づいたことで、いきなり未来の記憶を取り戻して驚かないように徐々に本来の自分に気づいていくような仕組みなのかもしれません。若しくは何らかの手違いで間違って観賞中に自己の主体性の無さに気づいてしまったということもあり得るかもしれません。いずれにしても私のような人生を体験したいという未来人は、よほどの暇人か自虐的な変人に違いありません。何にせよ、そういった可能性が無きにしも非ずと言えるのではないでしょうか。或いは、「私は無い」という気づき自体が完全な精神異常による妄想という可能性も考えられるかもしれません。私の「私は無い」という気づき自体が妄想で精神病の症状であるかもしれないという可能性は、ひとまず脇に置いとくとして、私は全ての事柄については起きるべきことが起きるべきこととして、ただ起きているという考え方をしているので私の「私は無い」という気づきについても全てプログラム通りと思っています。いずれにせよ、この世界が未来人が体験している未来の完全没入方式の体験型映画館で上映されている物語の可能性はあるかもしれませんし、コンピューター内だけで展開されているシミュレーションという可能性もあると思います。しかしながら、これはあくまでも空想であり可能性です。

 話しを戻します。この膝から下しか写っていない足の画像を例にとれば、私は画像の中の個別のものを個別のものとして見てはいません。赤枠で囲んだ視野全体を分離なく一体のものとして常に見ています。私は一番近くに見える体と周囲のものとを分離した別々のものとは考えていません。これが一つの目としての物の見え方です。同時に内側で感じている一切のものについても付属物として画像に含めたうえで全体で一つの映像として見ています。私にとっての人の体は主体ではなく、あくまでも全体の中の一部であり客体でしかないのです。私にとっての主体は純粋意識です。私は純粋意識であるという認識のもとで世界を見ているのです。それが一なるものとしての物の見方です。その考えに立てば当然、私以外の人も本来は純粋意識として世界を見ているはずなのですが、人の体を自分であると勘違いしていることから純粋意識としての自分に気がついていないのです。

 従って、この動画を見ているあなたは私同様に純粋な意識です。その純粋意識は、それ自体で何かを考えるということはありません。考えることがないので自分自身にも気がついていません。何かを認識するということはないのです。故に純粋な意識とは一切の概念が存在しない場所です。ただ在ることしか出来ない存在です。分かりやすく表現するならば、今見ている真っ白な画面が純粋意識です。これは、あくまでも比喩的表現でしかありません。他に譬えようがないので仕方なく真っ白な画面を見せているだけです。相対の世界では如何なる方法をもってしても表現が出来ないものだからです。従って、絶対主体と言えるものです。人としての限定された意識状態では理解され得ないものです。スピリチュアル界隈で使われる高次元の自分自身という意味のハイヤーセルフという言い方は的(まと)を射た描写とは言えません。真我とか空(くう)という言い方も全くもって正確ではありません。他に言いようがないから仕方なく、そのような言い方をしているだけです。なるべく、それに近い描写をするならば、『気づいていることに気づいている純粋で明晰な気づき』といったところでしょうか。でも、これでは何のことやら、それを体験したことのない人には全く理解不能であることも分かります。私でも真我の直接体験をする前であれば何を言っているのか分からなかったと思います。頭のおかしな奴の妄言としか感じなかったはずです。ですから、「ある」というような言い方も含め「あれ」「それ」「これ」というような漠然的表現をとらざるを得ないのです。それを知るには自分自身で確かめるしか方法がないのです。

     

 なんにせよ、他に譬えようがないので今見ている真っ白な画面が皆さん一人一人の純粋意識だと思ってください。その純粋意識が曇りだします。段々と暗くなり黒くなっていきます。これは、あくまでも譬えです。何の譬えかというと皆さん一人一人の感覚を生じさせる存在性です。人としての存在性が生じたと思ってください。その存在性によって純粋意識の中に人としての存在が生じはじめるのです。実際、私の場合も存在性が生じたことにより純粋意識が薄れていき純粋な気づきとしての状態がなくなってしまいました。

 ですから、この黒は体の存在を感じる感覚と思ってください。丁度、目を開ける前の目が閉じられている状態と思っていただければ結構です。瞼を閉じて目に体が映らなくなっていても頭や胴体、手足が存在する感覚を感じるはずです。純粋意識が薄れるにしたがって体の存在感を次第に感じるようになるのです。瞼が閉じられた暗闇の中に体の感覚という存在性を伴った人生という映画が映し出されるのです。言うなれば映画館でスクリーンに映像を映し出すために照明を消すのと同じです。自我も、この存在性の中に生じるのです。存在性自体がストーリー性を持った自我そのものと言ってもいいと思います。画面は真っ黒になりましたが、これにより頭や胴体、手や足といった体の全ての感覚が感じられるようになったと思ってください。そして、ここが重要なのですが存在性が現れ始めると、それとの同一化も一緒に生じます。純粋意識は、その存在性から生じた体の感覚と一体となることで自分が純粋意識であったことを忘却してしまいます。言うなれば無明がここで生じるのです。それが世間一般の悟っていない人々の普通の状態です。

 前回の動画でお話しした存在性への愛は、この存在性の中で感じられます。存在性への愛は現象世界の存在性を支える愛です。無条件の無償の愛と言える愛です。この存在性を支える愛なくして、いかなる存在も成り立ちません。それでは存在性への愛と存在性は、いずれが先に生じるのでしょうか。それは、たぶん同時ではないかと思います。なぜなら現象世界が完全に消え去った純粋意識だけでは愛を感じることは出来ないからです。与える愛も受ける愛も、いずれの愛であろうと、いかなるどのような愛であろうと感じることは出来ません。愛を感じるには現象世界が不可欠です。純粋意識は、これまで何度も申し上げてきた通り、ただ在ることしかできない存在です。

 ですから、私たちは何を感じるにしても必ず現象世界を介さなければ何も感じることはありません。だから愛を感じるには現象世界が必要ですし、その現象世界は、現象世界を支える愛がなければ現象世界は成り立ちません。従って、両者同時に現れ出ることが必要になるのではないかと思います。いずれにせよ、現象世界が存立するためには愛が必要です。これは宇宙成立のための根本法則です。

これは動画の背景画ですが、マイクロソフトのコパイロットに
「あなたが考えるアガぺーを描いてみて下さい。」と指示して生成してもらった画像です。
興味深いのは、この中に動物がいないことです。

 もし、あなたが、この根本法則を自分自身で直に知りたいというのであるならば、前回動画でお話ししたようにあなたは愛の人でなければいけません。なぜなら、愛は愛を理解できる人でなければ愛を知ることが出来ないからです。存在性への愛についても同様に無条件の愛や無償の愛を理解できる人でなければ、それを知ることは出来ません。私が真我の直接体験をして1年以上も経ってから、愛と赦しのエネルギーの出どころである胸のハートチャクラの存在を知ったのは、それまでの私では無条件の愛や無償の愛といった高みの愛を理解出来るほどの精神性がなかったのが原因ではないかと思います。全ての存在を愛する神の愛を知るには、それを知りえるだけの高い精神性を持たなければならないのではないかと思います。無条件の愛は現象世界の全てを生じさせる始原の愛と言えるものです。従って、自らの精神性を高め、その無条件の愛に近づけば近づくほど始原に近づくことになるのではないかと思います。だから、私は帰依や悟りには愛が必要ですと言うのです。

 それでは、いつどのようなきっかけで純粋意識の中に存在性が存在性への愛と共に現れ出るのでしょうか。それは、現段階では私には分かりません。私の体験から言わせてもらうならば何の理由もなく何のきっかけもなく存在性とそれへの愛が生じて現象世界が現れ出るとしか言いようがありません。また、なぜ真我の直接体験のほうが先で、ハートチャクラから湧き出る無条件の愛を体験することのほうが後に来るのかといった疑問も感じます。体験の順序にも何か意味があるのかもしれません。私が思うに先に真我である空(くう)の本質を知らなければ、真我がどれほどまでに現象世界の全てを愛しているのかを理解するのは難しいからかもしれません。さらなる探求が必要であると思います。

 では目を開けてみます。本当は周りに医者や看護師或いは助産師さんがいて、自分を抱いて見下ろしている母親の顔が見える生まれたばかりの赤ちゃん目線の動画を使いたかったのですが探しても無料で使える、その様な動画はなかったので、やむなく今お見せしているような動画を使うことにしました。男性らしい人が自転車に乗っています。右端を走っているので外国でしょうか。赤ん坊であろうが大人の男性であろうが同じことです。その人間に予め設定された人生ストーリーに従って、思考や感情も含めて一生を通して体についている目などの感覚器官で感じる現象世界を本来の自分が何であったのかを忘れるようにして体験しているのが純粋意識である私たち一人ひとりなのではないかと思います。それでは純粋意識に戻ろうと思います。目をつぶります。この世の存在性を抜けて純粋意識に戻りました。先ほど申し上げた通り真っ白な画面を純粋意識と思ってください。このあらゆる概念が存在しない根源とも言える純粋意識にまで帰り着くことが真我の直接体験と言われるものです。ここまでが私自身が体験から現象世界の顕現について理解していることです。

 真我についての、これ以上の自分の経験を超えたお話しを何かする場合は、これは自分の経験から得られる推論ですとか、憶測ですとか、誰々さんの言っていたことですがというようにお断りを予めしたうえでお話しをすると思うので基本的に私が動画の中で話すことは、あくまでも私自身が実際に体験した範囲の中から、その時点で理解できたことに限定されます。よって、経典や聖典に書かれている内容を解釈する場合においても実際の自分の体験に基づいた、その時点での理解の中でお話しをしていることになります。その解釈は、ずっと変わらない場合もあるでしょうし変わる場合もあると思います。また、まだ自分が体験しておらず理解が及ばないところにまで安易に触れ軽々しく言及するようなことがあってはいけないとも思っています。従って、チャクラについて私自身がそれを体験するまで、その存在について分からなかったのと同様に真我の直接体験をしたからといって何でも空(くう)について分かっているなどということは全くありません。経験上、これまでの私の大きな気づき体験は大体1年以上の間隔を開けて起きているように感じられます。その事から、これからも大きな気づきを得られる可能性はあるかもしれませんし、ないかもしれません。要するに、私はまだまだ真理の探求途上にある身だということです。その事をご承知の上で、私の動画をご視聴下さいますようお願い申しあげます。

 ここで動画を観ていらっしゃる方々に提案があります。是非試してください。まず大前提として、一人ひとりの目の奥には多分まだ多くの人が気づいていない神様の視点があります。そんなこと信じられないと思うかもしれませんが、とりあえず自分の中に神様がいて、人間の体を通して世界を体験し観賞していると思ってください。その神様の視点になったつもりになっていただきたいと思います。世界を今見ているあなたの視点を移動させて目の奥にある神様の視点までずーと引いて見るように少しばかり努力をしてみて下さい。その様にイメージをしてみて下さい。神様になったつもりで今まで自分だと思っていた体を客観的に俯瞰して見るようにしてみて下さい。

 そして周囲を見渡してください。テーブルの上にあるパソコンや持っているスマフォ、本やコップといった物とあなたの体を比較してみて下さい。神様の視点に立てば自分のものと思っていた、あなたの体は周囲の物と何ら変わりがないように見えるはずです。あなたの体は周囲の物と全く同じであり、分けることの出来ない物として常に一体というのが本当のところなのですから、そのように感じられるまで何も考えずにじっと俯瞰し続けてください。遠近感がなくなり自分の体も含めて周囲の物が平面に見えるようになるまで凝視してみて下さい。体の感覚は、とりあえず無視してください。そして視界内に見えるものが全て平面的に感じられるようになったら、次に意識的に眼を閉じたり開いたりしてみて下さい。

 すると当たり前ですが眼を閉じれば暗くなり、眼を開ければ視界が開けて、そこに何かが在るように見えます。それは単純に色の違いで認識されるはずです。色というものには、その色が見える限られた範囲があり範囲には形があります。私たちは形として見る視覚情報の色を判断の対象としています。そして、形として見る色は光がなければ認識できず世界は真っ暗になります。世界は光と共にあると言っても過言ではありません。光が生じれば世界はそこにあるかの如く生じ、光が消えれば世界は消滅するのです。

 旧約聖書の創世記第13節と4節には次のように書かれています。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」「神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。」

 今読み上げた通り、聖書に書かれているそのままの事が瞼を閉じたり開いたりするたびに日々繰り返される毎日の一瞬一瞬の出来事として私たちの身に起こっていると言えるのではないでしょうか。

 多分あなたは私のこれまでの説明を聞いてもなお、今見ている目の前の直ぐ近くにある体を自分であると思っているはずです。しかし、それは単なる思い込みに過ぎません。ただの勘違いです。あなたは体ではありません。体は神様が現象世界を体験し観賞する対象の中の一部でしかありません。神様は体を含めた目に見えている世界全部を一つの映像として見ているのです。同時に自分の中で感じている感覚や感情,やってくる思考もあなたではありません。神の視点に立てば、それらすべてが観賞する対象なのです。

 ここでまた、先ほど前のほうで話した現段階では空想でしかない未来に出現するかもしれない一時的に自分の記憶を忘れるようにして一人称映画の登場人物に完全に没入するやり方で映画を観賞する体験型映画館についての続きの話しをしようと思います。

 今ご覧になられている動画も一人称で撮影されたもので著作権フリーの動画になります。人がスノーボードに乗って軽快に雪の上を滑っている映像です。そこで少し滑っている本人のつもりになって映像を見てください。映像を凝視してみて下さい。ちょっとはスノーボーダー気分になれるのではないでしょうか。ですが、これを屋内で見ている場合や一度もスノーボードをやったことがないという記憶のある人、また季節が一歩外に出れば暑い日差しが突き刺さる真夏であったなら、眼からの情報だけでは真冬にスノーボードをしている錯覚までを引き起こすことは難しいかもしれません。この映像を現実のものとして感じるようになるには、今は夏という記憶が今は冬という記憶に入れ替わり、スノーボードの経験が十分にあるという自信と屋外にいる解放感や防寒具で身を包んでいても寒いという感覚、加えて風を切る肌感覚と体に感じる大小の様々な衝撃が必要になると思います。それがなければ実際に滑っているという気持ちになるのは難しいのではないでしょうか。逆を言えば、その感覚を疑似的にでも完全に実現できる体験をすることができれば実際は屋内にいても自分はスノーボードで滑っていると脳に勘違いをさせることが出来るのではないかと思います。まさに映画のマトリックスで描かれたカプセルの中でコンピューターにつながれて脳の中で見ている世界を現実のものと勘違いするストーリーと同じではないでしょうか。 

 この場合は人間という生き物が体験者として介在しますが、もう一つの可能性として私たちが見ている世界は、私たち自身も含め生き物が一切介在していないコンピューターの中だけで全てが完結している世界かもしれないということが考えられるのではないかと思います。ただ、その場合、私が体験した一切の記憶もなく、何も考えることもなく、自らを顧みるということもなく、それ故に自分自身の存在に気がついていないけれど純粋で明晰で明白な気づきとしての、ただ「ある」という存在に自らなるという真我の直接体験をコンピューターが再現できるのか疑問です。

 加えて、前回の動画内でお話ししたような私が感じた心臓を中心として胸から湧き出し宇宙の隅々にまで行き渡るような無限大に広がる無条件の愛の感覚をコンピューターが再現できるようになるのか私は疑問に思います。そもそも創造された宇宙に対する存在性への愛や自己を犠牲にしてでも他者の存在性や尊厳を守ろうとする愛を検知し、その大きさや純粋性を測定して数値化できるのでしょうか。そのうえで感情を含め内面で感じる愛を機械が再現できるのでしょうか。それに私は心霊現象と言えるような体験を何度かしたことがあります。また、宅配で訪れた初対面の人を玄関を開けて見た途端に外見は普通なのに、その人の内面に持つ嫌なエネルギーを感じたことがあります。路上ですれ違った見知らぬ人の中にも同じような嫌なエネルギーを感じたこともありました。さらに、どれほど接種推奨を進めるCMが「大切な人を守るために」とテレビなどで言っていたとしても、いかに大多数の8割の国民が流行り病の予防接種をしていたとしても私は予防接種に対して不信感を感じたので打つことはありませんでした。ハートチャクラから溢れ出る無条件の愛を感じた今でさえも流行り病の予防接種は、この不信感が払拭されない限り受けるつもりは全くありません。この心霊現象などの体験やほとんどの人が大丈夫と考えているものに対する内面で感じる不信感というものをコンピューターが再現できるのでしょうか。世の中が、どうであろうと人の言うことよりも自分の感覚のほうを信じ、たとえ、その選択の結果が自分の死であったとしても、その全責任は自分にあることを自覚し受け入れ覚悟したうえで、自分の感じた通りに行動するというような生き方をコンピューターが再現できるのでしょうか。また聖書にはイエス様が生まれつき盲目の人を見えるようにしてあげたり、水上を歩いて見せたり、死んだ人を生き返らせたり、最後には自ら生き返り昇天してみせるといった種々の奇跡を大盤振る舞いしたことが書かれています。私は科学者ではないので全く分かりませんが、私の言動を含めて、このような一般的な社会通念に反するような合理的には考えられない不条理な事をコンピューターが再現するにはとても無理なように感じます。しかし、視点を変えれば、むしろ仮想現実だからこそ映画やゲームの世界のように何でもありの世界を創造することが出来るのかもしれません。一定数、周囲と違う行動をする個体が生まれるように予めプログラミングしておけば私のような反乱分子が出現してもおかしくはないのかもしれません。しかし、そこには心が伴っているわけですから理屈よりも心を重視する行動を機械が理解できるのか、やはり疑問です。

 何にせよ、この世界が人間を全く介在させない完全にコンピューターの中だけの仮想現実と仮定した場合にしても、または未来における体感型映画館内において予め設定された映画の中の主人公に人間の意識を完全に同一化させたうえで映画の仮想現実を体験させていると仮定した場合であっても、いずれの場合であっても、その何でもありの仮想現実を作り出した大本の存在を否定することは出来ないと思います。その大本の存在を神のような存在と考えるのか、やっぱり物質としての人間であると考えるのかは人それぞれであると思います。私は自分の体験から、仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識であると思っています。その純粋意識のことを人々は、その時々で神と言ったり仏(ほとけ)と言ったり空(くう)と言ったり真我と言ったりハイヤーセルフと言ったりしているのではないかと思います。

 繰り返しになるかもしれませんが、仮想現実を作り出した大本の張本人は実際のところ言葉で説明できるものではありません。それは「ある」としか言いようがないものです。または、「あれ」「それ」「これ」としか言いようがないものです。それを知るにはやはり自分自身で確かめるしか方法が無いと思います。私は、心から真理の探究に真摯に取り組める人ならば、それを体験するのは、それほど難しいことではないと思っています。心得としては、この世の固定観念に囚われることなく目に見えないものを否定することなく心から神仏を愛すればいいだけだと思います。また、同じように平等に天地万物を愛するように心がければいいだけだと思います。それまで、うるさい気持ち悪いと言って軽い気持ちで殺していた蚊やハエ、アリや蜘蛛、ゴキブリにも、この宇宙でたった一つしかない人と同じかけがえのない大切な命が宿っていることに配慮し、憐みの心をもってなるべく殺さないように心がければ良いだけです。学習面では宗教の違いにこだわることなく満遍なく世界の宗教を学んでいけばいいと思います。その中から宗教間の違いに目を向けるのではなく共通したところから真理を見いだすように努力すれば良いと思います。なぜなら全ては一なるものであり一者の現れだからです。とりあえずは自分が取っつきやすいと感じる仏教やヒンズー教キリスト教などについて書かれた解説書やインドの聖者について書かれた悟り系のスピリチュアル本などを幅広く読んでいくのが良いかもしれません。実際、私は心得の面でも学習面でも、そのようにしてきました。

 最後に仮想現実のほうに話しをもどすと、お釈迦様やイエス様の時代にはコンピューターなどというものは当然ながら無かったわけですからコンピューターによる仮想現実というようなことまで考える必要はなかったわけです。一方、現代は科学の進歩により機械による悟りの再現性の可能性まで考えなければいけないわけですから一個人の悟りの話しで終わらないという点が今の時代における新しい特徴と言えるのかもしれません。

 いずれにしても、私の探求はまだまだですし、求道は道半ばであると思っています。しかしながら、だからといって何か特別なことをするということはないと思います。今まで通り、これまでしてきたことを、これからもしていくだけです。やること自体は、たぶん何も変わることはないと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

帰依と悟りには愛が必要です‼

 下記文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。

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帰依と悟りには愛が必要です❣

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で33回目の動画になります。今回の動画では帰依や悟りには愛が必要ですというお話しをしようと思います。
 まず、帰依とはどういう意味なのかを調べてみました。これは既に他界している私の母が使っていたもので池田大作監修創価学会教学部編日蓮大聖人御書辞典というものです。

 これによると、帰依とは「帰投依慿(えびょう)して救護(くご)を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信伏(しんぶく)随従(ずいじゅう)の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本となる。」と書かれています。

 帰投は帰依という意味や本拠地に帰るという意味があります。依慿(えびょう)は、 人によりかかり頼みとするという意味があります。救護(くご)は仏教的観点では苦しみや困難からの救い、安らぎや悟りを得るための教えを意味するのではないかと思います。仏教における尊者は、仏教の教えを深く理解し実践することで他者から尊敬される存在のことです。尊者は、他者を導き教えを広める役割を果たします。 勝者は、煩悩や迷いを克服し悟りを達成し慈悲と智慧の実践をして他者を助けることを重視する人のことではないかと思います。信伏(しんぶく)とは、仏教において信仰と従順を意味し、具体的には仏やその教えに対する深い信仰と、それに従う姿勢を指します。 随従とは付き従うという意味ですから、信伏随従の義とは仏教徒が仏法僧の三宝に帰依し付き従う正しい教えという意味になると思います。 

 ですから、それらの意味を総合して簡単に解釈するなら、帰依とは救いや悟りを求めるのなら本来あるべきところである仏法僧のところに戻って、それに絶対の信頼を置いて付き従い信心の頼りとすることなのではないかと思います。
 ところで仏や菩薩が一切衆生の苦しみを救おうと願って、必ずこれを成し遂げようと誓うことを誓願と言います。誓願には、すべての菩薩が修行の初めに必ず起こす願である総願とそれぞれの仏・菩薩が独自の目的でおこした固有の別願とがあります。 別願には阿弥陀如来四十八願 (しじゅうはちがん) 、薬師如来の十二願 、釈迦如来の五百大願などがあります。今回は別願については取り上げません。本動画では総願だけを取り上げようと思います。 
 総願とは何かというと四弘誓願(しぐせいがん)とか四弘行願(しぐぎょうがん)と言われるものです。宗派によって多少言い方が変わるようです。ウィキペディアには「菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。」と書かれています。。
 その四弘誓願(しぐせいがん)とは、どういうものかというと「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願 」「煩悩は無量だが、すべて断つという誓願 」「法門は無尽だが、すべて知るという誓願 」「仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願」の四つです。そして、日本仏教のほとんどの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされているとウィキペディアには書かれています。 
 私が四弘誓願の中で注目したのは最初の「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願」と日本仏教のほとんどの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされているというところです。四弘誓願の四つの誓願の中身に対してはどれももっともなことなので、それ自体にどうこういうつもりはありません。しかしながら、その順番に目が留まったのです。なぜ、二番目や三番目、あるいは四番目ではなく最初の一番目に来るのかということです。
 通常、世間一般の人々が悟りを目指すとき煩悩を何とかし抑え込もうとすることばかりを最初に考えるのではないでしょうか。一体全体、悟りを口にする人のうちの何人が、この世の生きとし生けるもの一切をどのようにしたら救うことが出来るのかを最初に取り組まなければいけない課題として考えているのでしょうか。やはり、悟りを目指すのであれば、その発願(ほつがん)は自分の救済のみならず、いえ自分のことなど差し置いて、まずは他者の救済を真っ先に考えるものでなければいけないと思います。それなら、どうして発願には自分のみならず他者の救済が含まれなければいけないのでしょうか。そして、どうしてそれが四弘誓願の最初に来なければいけないことなのでしょうか。これは、とても重要な問題です。なぜなら宇宙の根本原理に関わることだからです。
 まず、地上のあらゆる生き物すべてを救済したいという考えの背景には他者を思いやる慈しみのやさしい心がなければ、それに目を向けることはないのではないかと思います。そして根底に愛があって初めて成り立つ考えなのではないでしょうか。つまり、悟りの発願の最初には愛がなければならないということを暗に示しているのではないかと思います。だからこそ、愛の重要性を分からせるために日本仏教界のほとんどの宗派では在家檀信徒に日常読経すべきものとしているではないかと思います。つまり仏教に帰依する人は、四弘誓願に書かれている愛に基づいた同じ志を持たなければいけないということだと思います。
 自分だけの救済など我欲の現れです。もちろん、世界を救うためには自分が先に救われる必要があります。自分が救われなければ他者を救うことはできません。しかし、そのためには、まずは自分を後回しにする心、自分を捨てて他者を救済したいと思う心が何よりも大事になるという逆説的なことが必要になるのです。他者を一切顧みることなく動機が自分だけというのであれば、それは我欲の現れとしか言いようがありません。自分だけという考えの中に愛があると言えるでしょうか。そもそも自分だけが救われて一体何の意味があるのでしょうか。他者を顧みない自分だけの心で、いくら悟りを求めても悟ることは永遠にできません。全ては一者の現れであることから自分も他者も一体です。だから他者の救済は自分を救済することになるのです。すなわち、自分を捨てて他者を救いたいという心は即自分を救うことになるのです。故に、「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願 」が一番最初に来るのです。どうでしょうか。仏様に帰依するとは、これだけの深い意味があると私は考えています。
 それでは次に、キリスト教における「帰依」とはどういう意味になるのかをマイクロソフトのCopilot(コパイロット)に尋ねてみました。すると次のように答えてくれました。
 『「帰依」という概念は、仏教のそれとは異なりますが、信仰と献身の重要な側面を持っています。キリスト教徒にとっての帰依とは、以下のような意味を持ちます。
    1. 信仰の告白: キリスト教徒は、イエス・キリストを救い主として信じ、その教えに従うことを誓います。これは、洗礼や信仰告白を通じて表現されます。
    2. 神への献身: キリスト教徒は、神に対する完全な献身を示し、日常生活の中で神の意志に従うことを目指します。これは、祈りや礼拝、聖書の学びを通じて実践されます。
    3. 隣人愛: キリスト教の教えでは、他者を愛し、助けることが重要とされています。これは、イエス・キリストの教えに基づく行動であり、社会的な奉仕や慈善活動を通じて表現されます。
 キリスト教徒にとっての帰依は、神との個人的な関係を深め、信仰を実践することを意味します。これにより、精神的な成長と内面的な平安を得ることが目指されます。』
 とても素晴らしい答えではないでしょうか。カトリックプロテスタント、それ以外の教派で多少なりとも違いはあるでしょうが、イエス・キリストを救い主と信じ教えに従うという点では同じなのではないかと思います。もし違っていたら申し訳ありません。 
 それでは具体的に聖書の中で帰依がどのように語られているのかを見てみようと思います。
 最初は旧約聖書ヨシュア記22章5節です。

 「ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた戒めと律法を守り、あなたがたの神、主を愛し、すべての道に歩み、主の戒めを守り、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えなさい。」
 これは仏教の帰依と全く同じではないでしょうか。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることや仏法僧に絶対の信頼を置いて付き従い信心の頼りとすることなど変わるところは何もありません。「すべての道に歩み」という箇所は四弘誓願の三番目にある仏様の全ての教えを学び知るに通じるところがあるのではないでしょうか。キリスト教と仏教の違いを口にするのは簡単ですし限(きり)がありませんが、私は共通するようなところに目を向けようと思います。
 次は新約聖書のマタイの福音書 22章37節から39節です。

 「イエスは彼に言われた、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが大切な第一の戒めである。第二もこれと同じように大切である。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』」
 イエス様のこの言葉からも分かるように自分の全てを投げうって全身全霊で神を愛することはとても大切です。第二の戒めについても、人間だけに言及しているのではなく自分の視界の中にある全ての人と人以外のものを区別することなく自分と同じように愛しなさいとイエス様は仰ったと私は解釈します。なぜなら、すべては一なるものとしての現れだからです。隣人とは、その視界内に見える自分の体を含めた全てのありとあらゆるもののことです。イエス様は人間の視点でものを言っているのではありません。真我の視点、つまり神の視点から発言していることを忘れてはいけないと思います。
 ヨハネ福音書 13章34節から35節

 「新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるであろう。」
これはイエス様が目の前にいる弟子たちに直接に言った言葉であるとは思いますが、たとえ時代と場所が違おうとも、この言葉は現代の私たちにもそのまま当てはまると思います。私たちが一なるものとして互いに愛し合うことが出来るのなら、私たち皆がイエス様の弟子であることに間違いはないと思います。動画が長くなるので聖書を取り上げるのは次で最後にしようと思います。
 ヨハネの第一の手紙 4章19節から21節

 『私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛してる」と言いながら兄弟を憎むものは偽り者です。現に見ている兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。この戒めを、私たちは神から授かっている。』
 これはとても重要です。私たちの人を愛する時の愛はどこから来るのでしょうか。人だけではありません。動物や単なる物であっても人は愛することが出来ます。その時の愛は一体どこからやってくるのでしょうか。私たちの中に元からあったものなのでしょうか。いいえ、それは神様からやってくるものなのです。ヨハネが言うように神様が私たち全ての存在をあるがままに認め愛してくれているからこそ私たちの中に愛が生まれるのです。私たちの中にある愛は神様の愛そのものなのです。ですから私たちは神様を全面的に信頼し自分の全てを明け渡して完全に身をゆだねなければならないのです。そして、そのように神様を愛した時、兄弟に限らず誰であろうと自分の視界の中にある全ての存在をどうして憎むことが出来るのでしょうか。
 そして今度は「ヒンズー教での帰依とは何かを教えてください。」と、同じように マイクロソフトのCopilot(コパイロット)に質問しました。すると以下のように答えてくれました。
 『ヒンズー教における「帰依」(バクティ、Bhakti)とは、神への絶対的な信愛や献身を意味します。これは、信者が神に対して深い愛情と忠誠心を持ち、自己を捧げる行為を指します。バクティは、ヒンズー教の重要な宗教的実践の一つであり、以下のような特徴があります。
    1. 神への愛と信頼:信者は神を愛し、信頼し、全てを神に委ねます。
    2. 個人的な関係:神との個人的な関係を築くことが重視されます。
    3. 儀式と祈り:日常的な儀式や祈りを通じて、神への帰依を表現します。
    4. 精神的な成長:バクティを通じて、精神的な成長と内面的な平和を追求します。
 バクティは、特にヴィシュヌ派やシヴァ派などのヒンズー教の宗派で広く実践されており、信者が神との深い絆を築くための重要な手段とされています。』

 マイクロソフトのAIであるCopilot(コパイロット)は本当に重宝します。虹色のCopilotのアイコン をクリックし出てきたテキストボックスに知りたいことを入力してクリックすれば膨大な情報の中から最も関連性の高い情報を抽出して教えてくれるのですから使わない手はありません。しかもサムネイルの画像まで生成してくれるのですからマイクロソフトさんにはとても感謝しています。ただ、完全に的外れなことをさも正しいかのように言ってくる時があるので全面的に信用するのは考えものです。必ず確認作業が必要です。Copilotは参考程度に使うのが無難です。

 話しを戻します。以前、動画で取り上げたことのあるヒンズー教の主要な聖典の一つであるバガヴァッド・ギーターは、神への愛と献身の重要性を強調しています。特に第12章では、神への愛と献身が詳細に述べられています。

 主人公であるアルジュナが、最高神ヴィシュヌの化身であるクリシュナに神に対して常に専心し神を念相する信者と不滅で非顕現なものを念相する人々とでは、どちらが最も至高の存在との合一を知る者であるかを尋ねた際に次のようにクリシュナは答えています。少し長いですが12章2節から8節まで読み上げようと思います。

 『私に意(こころ)を注ぎ、私に常に専心して念相する、最高の信仰を抱いた人々は「最高に専心した者」であると私は考える。ただし、不滅で説明され得ず非顕現で至る所にあり、不可思議で揺るぎなく不動であり堅固なものを念相する人々、感官の群を制御して一切に対して平等に考え万物の幸福を喜ぶ人々も他ならぬ私に達する。だが、非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である。というのは非顕現な帰結は肉体を有する人々によっては到達され難いから。一方、すべての行為を私のうちに放擲(ほうてき)し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し念相する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。アルジュナよ。私にのみ意(こころ)を置け、私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑問の余地はない。』
 私は究極的に最終的には偶像崇拝や特定の人格を持ち形を有して目に見えて頭で考えられる限定されるような神的存在は避けるべきものと思っています。実際、そのような神は本当の神ではありません。現象世界の一部として、私やあなた、その人をその人たらしめている自己の存在性が生み出したものです。しかしながら、今読み上げた通り、あるのか無いのか分からない不確かなものを目標にして悟りを目指すのは最高神の一人であるクリシュナが指摘するように困難が伴うと思います。ですから精神鍛錬の導入部分では当面の間、目標になるお釈迦様やイエス様、ヴィシュヌ神といった神仏や特定の人物を思い浮かべるのは有効な手段なのかもしれません。そのことをクリシュナは言っているのではないかと思います。

 そして、このシュリーマッド・バーガヴァタムという聖典も神への愛と献身を中心に据えています。特に第10部では、クリシュナ神への愛と献身が美しく描かれています。いずれ、この日本ヴェーダーンタ協会から出ている「シュリーマッド・バーガヴァタム」についても詳しくご紹介しようと思っていますが、今回は帰依や悟りに必要な愛というテーマなので、それに言及した箇所をいくつか抜粋するだけにしようと思います。
 「主クリシュナは、苦行によっても禁欲によっても、また、経典の研究によっても達することはできません。しかし、ひたむきな信仰をもって主を愛する者にはクリシュナは容易に見出されます。なぜなら、彼らは主に選ばれた者、心に純粋な愛を持つ者だからです。主クリシュナは無限であられますが、愛によって知ることが出来るのです。」(184ページ)
 「シュリ―・クリシュナの聖なる愛を思い、クリシュナとゴービー(牛飼いの少女)たちとの甘美な交わりを瞑想する者は、情欲などの感覚的な欲望から解放されると、まことに真理は語っています。」(192ページ)
 「牛飼いの少女たちは、私を自分たちのまさに魂であると理解している。彼女たちは、私のためにこの世の喜びをすべて捨て、そうしていつも私を愛そうとしている。私は、私のために他のすべてを捨てた者に私の平安と無限の幸福をもたらす。彼女たちはこの世の何よりも私を愛し、しかも、ただ愛のために私を愛している。」(196ページ)
 「私は決してあなた方から離れてはいない。なぜなら、私はあなた方の自己、すべての生き物たちの内なる自己だからである。私は、いつも、あなた方とともにいることを悟らなければならない。大海はすべての川や流れの終点であり目的地であるように、私はすべてのヴェーダ、八段階のヨーガ修行、識別、放棄、義務の遂行、自己制御の終点であり、至高のゴールであり目的である。おお、いと美しき者たちよ。私があなた方から離れているのは、あなた方が私を瞑想してハートのうちに私を見出すためである。従って、心の動揺を鎮めて自らを私に託し私を瞑想せよ。そうすれば、ハートのうちに、すぐにも私を見つけだし私の存在へと至れるだろう。私に会ったことがなく、ただ私を瞑想する者でさえも私を見いだし私の存在へと至れるのである。」(198ページ)
 いかがでしたでしょうか。仏教、キリスト教ヒンズー教とそれぞれ帰依の中核には神仏への信頼と委ねることの大切さ、何よりも愛の重要性が強調されていることが分かるのではないでしょうか。ですから、私は帰依には愛が必要ですと断言したいと思います。
 それでは、ここからは、もっと具体的に帰依や悟りに必要な愛とは、どのような愛なのかをお話ししていこうと思います。

 ご覧になられた方もおいでになられると思いますが、私は自分の30回目の動画になる「阿羅漢は輪廻から解放されることはないのか?」の中でお釈迦様の弟子の一人であるチューダパンタカについてお話しをしたことがありました。

 この30回目となる動画を作るきっかけとなったのは仏陀の教えチャンネルさん制作の【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という動画のコメント欄に「「シュリハンドクの経験は素晴らしい。 しかし、阿羅漢になったからといって輪廻から解放されることはないですよ。 」というコメントを見つけたからです。その事自体については今回の動画の本筋とは無関係なのでこれ以上触れることはしませんが、何のことか分からないという方は私の30回目の動画をご覧になられるか、若しくはHatenaブログ内の私の30回目のブログをお読みになられてはいかがでしょうか。
 私の30回目の動画作りのきっかけとなった仏陀の教えチャンネルさん制作の【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という素晴らしい動画をご覧になられた方であれば分かると思いますが、チューダパンタカはお釈迦様を心から慕っていたであろうことが分かります。動画の中では直接チューダパンタカのお釈迦様への愛について語られることはありませんでしたが、たぶん自分の親以上に親しみを感じ信頼し尊敬し好意以上の信愛の情を抱いていたのではないかと思います。だからこそチューダパンタカは、お釈迦様の言いつけをしっかりと守ることが出来たうえに、様々な試練を乗り越えることが出来たのではないかと思います。チューダパンタカが悟りを開くことが出来たのは、ひとえにお釈迦様への愛があったからではないかと私は思っています。
 ですから南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などの念仏やお題目をあげるにしても、そこには阿弥陀仏やお釈迦様の教えを単に信じるだけでは駄目で、信じることに加えて阿弥陀様やお釈迦様を心から愛する気持ちがなければいけないと思います。
 イエス様の弟子たちについても同じことが言えると思います。弟子たちは間違いなくイエス様を愛していました。なぜなら、イエス様の母親を任せられたヨハネを除いた全員が殉教したと言われているからです。イスカリオテのユダについては裏切り者で、しかも自分から首を吊ったのだから殉教ではないという人もいるかもしれませんが、首を吊った心理的背景には、やはり単なる罪悪感に対する贖罪からだけでなくイエス様に対する愛がそこにあったからではないかと思います。イエス様への愛があったればこそ自分の罪深さに気づいたと言えるのではないでしょうか。裏切り行為をした時は、イエス様への愛にユダ自身がまだ気がついていなかっただけではないかと思います。それに私に言わせれば全ては起こるべきことが起こるべきこととして起こっていることなのでイエス様を形の上では裏切ったように見えたとしても、それもまた神のご意思に従ったことによる殉教であると私は考えています。ユダ以外の他の11人の弟子たちについても、それは同じことで、それぞれ悲惨な最期を遂げています。
 シモン・ペテロは逆さ磔で死に、ゼベダイの子ヤコブとマタイ、そしてトマスは剣で殺され、アンデレはX字型の十字架で処刑されました。フィリポは逆さまに十字架にかけられて石打にされ、 バルトロマイは皮剥ぎ刑に遭い、タダイは斧で殺されました。アルファイの子ヤコブは神殿の屋根から突き落とされたうえに石と棒で叩かれて殺されたとのことです。 熱心党のシモンは、のこぎりで体を二つに裂かれて殺されたという説や、十字架にかけられたという説があります。そして、イスカリオテのユダの後任としてくじ引きで選出され使徒の一人になったマティアは石打の刑のあと斧での斬首になったそうです。
 ヨハネとユダ以外のイエス様の弟子たちは、なぜ自分が殺されるかもしれないことを厭(いと)うことなくイエス様の教えを広めようとしたのでしょうか。イエス様が見せた奇跡に驚いたからでしょうか。しかし奇跡を見て驚いた人は沢山いたはずです。驚いた人すべてがイエス様に付き従ったわけではありません。なら、奇跡を見て神の子と信じたからでしょうか。それも理由の一つに挙げられるかもしれませんが、それなら、その時に奇跡を見て神の子と信じた全ての人がイエス様の教えを広めようと尽力し殉教したはずです。しかしながら、そんな事にはなっていないと思います。それでは、イエス様の弟子だったことが理由でしょうか。しかしながら、イエス様が祭司長たちに捕らえられた時、その場にいた弟子の全員は逃げ出しています。そんな情けない弟子たちが一体どうして伝道に命を懸けられるほどの気概を持つことが出来るようになったのでしょうか。イエス様の復活後の姿を見て驚いたからでしょうか。復活したイエス様から伝道するように言われたからでしょうか。私は、それだけでは不十分ではなかったかと思います。私が思うに、その時においてイエス様を心から愛していたかどうかの違いではないかと思います。殉教した弟子たちはイエス様を神の子だからという理由だけで、ただ信じていたわけではなかったはずです。神の子として信じたうえに、さらに心から愛していたからこそ、その愛する者のためなら、業火で焼かれて、すさまじい苦痛にもがき苦しんだとしても、どのような残酷な方法で殺されたとしても、それを甘んじて受け入れようとする固い決意があったと言えるのではないでしょうか。故に、殉教した弟子たちは自分の命の危険を顧みることなく逃げ出そうと思えば逃げられた状況であっても、人々を愛したからこそ死に立ち向かい人々の罪を背負って亡くなられたイエス様のように自らの死を覚悟しての伝道活動をしたのではないかと思います。そこには、ただ神を信じるといった信仰以上のイエス様への愛があったと言えるのではないでしょうか。
 人は愛する者のためなら死ぬことも厭いません。愛する者を救うためなら、むしろ喜んで死を選ぶこともあります。この世には、たとえば警察官とか消防官といった仕事には職務上危険に立ち向かう義務があります。それも一種の愛ではありますが、そういった職務上の義務のない普通の人々の場合について考えてみた時、自分にとってどういう人のためなら自分の命を犠牲にすることが出来るのでしょうか。私のような普通の人が一般的に死んでも構わないと思う守るべき対象として真っ先に考えつくのは、まずは夫や妻、恋人、親や子、兄弟姉妹に友人といったところではないでしょうか。もしかしたら、中には警察官や消防官といった職務上の義務がないにも関わらず、たとえ見知らぬ人であっても自分の命を懸けて守らなければならない時もあるなどと勇ましいことを言う人も中にいるのではないでしょうか。もっと大きく地域のためや国のために命を懸けることもあるのではないかと言う人もいると思います。なんにせよ、人というのはいざという時は自分以外の何かのために命を捨てて自分よりもはるかに大きい相手に立ち向かうことが出来る存在なのではないかと思います。もちろん、これは人に限ったことではないと思います。仲間や飼い主を助けるために自分よりも強いものに立ち向かう動物たちの映像をユーチューブなどで時折見かけることがあります。
 今言ったことは全ての人や動物に当てはまるわけではないでしょうが、なぜ人間も含めた生き物たちは自分以外の何かのために自分を犠牲にすることが出来るのでしょうか。単なる本能でしょうか。打算でしょうか。人間の場合は特に打算が強く働くように思えますが、それでも時には自己の利益よりも他者の利益を優先する場合があります。特に強いきずなで結ばれている関係性の中で多く自己犠牲が生じるように感じます。これは、何なのでしょうか。そこには、やはり愛というものがあると言えるのではないでしょうか。そして、その愛は一体どこから生じるのでしょうか。
 仏教には四無量心という教えがあります。慈無量心、非無量心、喜無量心、捨無量心という四つの心の働きに関する教えです。浄土宗大辞典Web版
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%BF%83  )
から引用すると、慈無量心は、いつくしみの心によってすべての生きものに楽しみを与えようとする心のことです。 悲無量心は、あわれみの心によってすべての生きものの苦しみを抜こうとする心のことです。喜無量心は、自分を愛し、他をねたむ心を捨てて他人の楽しみをともに喜ぶ心のことです。捨無量心は、私心がもたらす愛憎、好悪(こうお)の心を捨てて他に対し平等に接する心のことです 。これらの衆生を利益(りやく)するにあたって無制限に配慮する慈・悲・喜・捨の四種の心のありようは仏や菩薩のもつ絶対の境地として尊重されると書かれています。 
 このことから悟りとは愛であると言うことも出来るのではないかと私は思います。愛のない人に悟ることは出来ません。誰かが、もし本当に悟りたいと言うのであれば、その人は愛の人でなければいけないと思います。世界に対して、自然に対して、人に対して、動物に対して、物に対して、ありとあらゆるものに対して愛を持たなければいけないと思います。万物に対して等しく愛を持たなければいけないと思います。全ての生類に対して等しく愛を持たなければいけないと私は思います。これは真実です。
 自己満足の愛や執着からくる愛ではなく、他者に対する慈悲心の基になる本当の愛が、その人にあるのなら容易く悟りを得ることが出来ると私は思います。もし、悟りを目指して真理に関する勉強をしつくして座禅や瞑想も何十年とやっているのに悟りを一向に得られないという人がいたとしたら、厳しい物言いになってしまうかもしれませんが、その人には四無量心の基になる愛がないか足りていないということになると思います。それほど悟りには愛は重要な要素ということになります。
 また、あなたは、どうして悟りを得たいと思うのでしょうか。例えば超能力を身に着けたいとか、教祖になりたいとか、金銭欲や名声、優越感などの自我からくる欲求を満たそうとする気持ちが自分の中に絶対ないと言えるでしょうか。自尊心を満たすために他人より優位な立場に立ちたいというのは愛でしょうか。そういった欲の充足から悟りを目指そうと思うのであれば、何よりもそれを取り除くことが先決ではないかと思います。
 ですから、悟りを得たいと言うのなら、まず悟りを口にする前に自らの愛を高める心の修養をする必要があると思います。何も大げさなことをする必要はないと思います。たとえば遠い国の戦争に対しては争っている両国民の存在性を平等に愛そうとする気持ちを持つだけで十分です。自国や地域の人々に対しては同じように、その存在性を平等に愛する気持ちを持てば良いだけです。家庭や職場において日々顔を合わせる人たちに対しては、人それぞれ好悪の感情があったとしても、その感情を表に出すことなく、その存在性に対して愛を持って平等に接すれば良いだけです。精神的に余裕があるのであれば、自分の家の中だけでなく家の周囲を掃除したり職場では誰もしないような汚れているところを掃除したりと本のちょっとした心配りをすればいいだけです。さらに金銭的物質的時間的に十分な余裕があるのであれば、自分に出来る範囲の中で慈善事業にお金を寄付したり、相手が必要としている物を寄付したり、ボランティアをすれば良いと思います。それと、なるべく無用な殺生はしないことが大切です。ベジタリアンになる必要はありません。肉を食べたければ食べればいいと思います。私も量としては少ないですが肉は食べています。ただ食べ物を粗末にしないことと出されたものはなるべく残すことなく全部食べ切るというのは大切だと思います。また、道を歩く時では地面の虫を踏まないように気をつける必要があります。家の中では入ってきた蚊やハエや蜘蛛、蟻、ゴキブリなどといった生き物をなるべく殺すことなく出来る範囲でいいですから外に逃がしてやるという心掛けも大切だと思います。つまり、今まで気にもかけなかった小さな命にも心を向けることが大切であると私は思います。私は、いつもそのように心がけています。今言ったことを動画を視聴している人にまで必ずやってくださいとは言いません。やりたくない人はやらなくても結構です。あくまでも自分の苦にならない範囲で無理をすることなく自分の中にある愛が高まるような愛の実践を自分なりに考えた自分に合った方法で行えばいいと思います。とにもかくにも全てを慈しむ愛の心は悟りには本当に大切だと私は思っているということです。
 なぜなら愛は、この世界を形作る基本にあるものだからです。愛がなければ一瞬たりともこの世界は成り立たないからです。愛によって、愛があってこそ、愛あればこそ私やあなた誰であろうとゴキブリ一匹ダニ一匹であろうと塵や埃であろうと何であろうと世界のありとあらゆるものが現れ出るのです。存在性の根底には切望とも言える存在性への愛があるのです。だから、悟りを望む人は、真に悟りたいのであれば同じようにありとあらゆるものに対して一切の区別をなくして等しく、その存在性を愛さなければいけないと思います。
 私は、真我の直接体験をしてからというもの自分の内側からこみ上げるような愛が沸き上がってくるのを感じることがよく起こるようになりました。この愛は異性に対する愛欲ではありません。血縁関係にある肉親に対する愛情でもありません。友人などの近しい人に対する親愛の情でもありません。私は猫好きで19歳の時から数年前までずっと猫を飼っていましたが、動物に対する愛情でもありません。何か特定のものを対象とした愛ではないのです。もっと大きな全てを包み込むような愛なのです。それには一切の差別はありません。その愛は悪と言われるものでさえも包み込む愛なのです。存在の全てを包み込む愛なのです。
 そして、ごく最近の11月6日の夜明け前の午前3時頃か4時頃、トイレに行ったあと再びベッドの毛布の中に入って、またひと眠りしようとしていた時のことです。その時の内面の体験を表現するのは難しいのですが心臓を中心とした胸のあたりが目には見えないけれども膨大なエネルギーの場になったかのように感じ、まるで愛の源泉が胸の中にあるかのごとく愛というエネルギーがあふれ出る流れを感じました。絶え間なく愛がこみ上げ湧き出てはじわーと周囲のもの全てに広がっていくのをはっきりと感じました。その愛は軽いものではありません。チャラチャラした浮ついたものではありません。とても強くて重たい重量級の愛なのですが宇宙全体の隅々にまで浸透しいきわたるような愛でした。どこにも限定されることのない無辺で時間的にも際限なく汲んでも汲んでも絶えることのない無限で如何なるものにも赦しを与える正(まさ)に無償の愛そのものでした。その愛そのものである愛は存在を存在たらしめている愛であり、宇宙を存立させている愛であると感じました。
 私は以前の動画でもお話したことがあると思いますが、どういうわけか微睡(まどろみ)の中で気づきを得ることが多いように感じます。現象世界の顕現の力が弱まった端境期である微睡んでいる状態は私にとっては気づきを得る絶好の機会なのかもしれません。この動画を視聴している方は、自分の眠りから目覚めた直後の微睡、或いは眠りにつく直前の微睡を注意深く観察するようにしてみてはいかがでしょうか。何か発見があるかもしれません。

 ところで今ご覧のイラストのように人間にはエネルギーが出入りするチャクラと呼ばれる七つの場所があるそうです。チャクラについて分かりやすく図解されていたウィキペディアの中国語版を見てみると胸にはアナーハタ・チャクラという4番目のチャクラがあるそうです。一般的に ハートチャクラと呼ばれているところです。このハートチャクラから出るエネルギーには愛の他に寛容や許し、癒しのエネルギーなどがあるとのことです。私は、このチャクラというものには、それまで全く関心がなく、そんなものが在るのか無いのか全然分かりませんでした。なぜなら、そういったチャクラの存在を示す明確なものを自分の体の中で感じたことがなかったからです。従って、それまではっきりと場所が特定できる形で体感したことが一度もなく興味もなかったこともあって巷でよく言われるチャクラについての知識は皆無に近く、そのため、それに触れないように避けてきました。しかしながら今回の体験で、少なくとも胸のあたりには愛の源泉、それも無条件の愛の出どころと言っていいような場所があることが分かりました。イラストではハートチャクラの色は緑になっていますが、その時、私が感じた胸から湧き出す愛には色は感じませんでした。また不思議なのですが、この時以来、愛という言葉をよく耳にするようになりました。ユーチューブの動画を見ていても愛という言葉を口にする人が多くなったように感じます。私の単なる思い過ごし或いはただの錯覚なのかもしれませんが、私が見ている世界の中で愛を語る人が増えたような印象です。今まで以上に愛を意識するようになったのは確かです。11月6日の早朝に起こった胸の奥から愛のエネルギーが湧き出る体験でハートチャクラが開いたと言えるのなら、もしかしたら私の人生の軌道が、この体験で新たに変化したのかもしれません。
 チャクラの話しについては今回の主たるテーマではありませんし、私はチャクラについての知識が全然ないのでチャクラの話しはこのあたりで早々に終わらせようと思いますが、ただチャクラについては実は胸のハートチャクラ以外で気になるところがもう一か所あります。それは眉間の中央部分です。この6番目のチャクラには直観力や洞察力、創造力や実現力などのエネルギーがあり、アージュニャー・チャクラ とか第三の目チャクラと言うそうです。私は「私は無い」という気づきを得るずっと以前から眉間の部分には圧迫感のような違和感を感じていました。今も眉間に違和感を感じています。しかしながら違和感を感じるというだけで、それで特別すごい神通力が使えるようになったなんてことは全くありません。この眉間の違和感は単なる思い過ごしなのか、それとも何か意味のあることなのか私にはよく分かりません。というか全然わかりません。要するに私が思うに真我の直接体験をしたからといって、それだけで話しが終わることはなく求道の道はまだまだ続くということなのだろうと思います。チャクラの話しは以上になります。
 愛のほうに話しを戻します。いずれにしても、なぜそうなったのか私には見当もつきませんが、自分の胸に開かれた深淵で見通すことが出来ない底知れない深奥から滔々 (とうとう)とあふれ出る極大の愛をその時感じました。その湧き上がる愛は時間が経つにつれ徐々に薄らいできたものの、その日一日は胸から湧き上がる愛をずっと感じながら過ごしていました。そして今は平常に戻っています。しかしながら、愛がなくなったわけではありません。胸の奥には、その時の愛はちゃんと残っています。胸の奥に留(とど)まっているという感じです。それ以後、大量の愛が一気に噴き出すようなことは起きていませんが最小限の愛に落ち着いたといったところではないかと思います。もし、あのまま、その時の宇宙全体にいきわたる後からあとから湧き出るあまりにも大きすぎる愛を四六時中毎日感じていたら、たぶん私の体は消耗しきって到底持ちこたえることはできなかったのではないかと思います。それほど強い愛を私は感じたのでした。
 そして今、私は自分の内面を静かに見つめるとき、私の胸の中、心臓のあたりには小さいながらも力強い愛の炎が灯っていて、そこを中心に暖かい愛の流れが体中に拡散しているのを感じます。私は、その内面から静かにこみ上げ広がる愛に対して手を合わせずにはおられません。私は自分の中の愛に感謝の念を抱きます。なぜなら、それは神の愛だからです。私という存在を存在たらしめている愛だからです。私という存在を常に支えてくれている愛だからです。ですから私は、その神の愛に「ありがとうございます」と静かに心の中でつぶやき自分の中の神に対して合掌し感謝の念を送るのです。
 このことから愛は宇宙の存立には必要なものであり絶対不可欠なものであると私は明言するのです。愛なくして宇宙は成り立ちません。愛こそが宇宙成立の根本原理と言っても過言ではありません。存在は愛によって生じるのです。ですから私は、悟りたいと思うのであれば愛が必須ですと声を大にして言おうと思います。ただ、勘違いしてほしくないのは、この愛はありとあらゆるものを生じさせる愛ですから世間一般の人が思うような愛ではありません。いわゆる悪や地獄と言われるような世界をも生じさせる愛であると言えます。一見すると、誰もが口を揃えてこれは絶対愛ではないと言うようなことであっても、それを生じさせる愛なのです。愛は愛ではないものが一方にあることで、それが愛であることが分かります。愛だけなら、どうしてそれが愛だと分かるのでしょうか。愛は、対比される愛でないものがあってはじめて成り立つことから、常に愛は愛でないものと対になって生じます。存在性への愛は、必ず善と言われるものと悪と言われるもの両方の概念を生み出すのです。なぜなら、この世界は相対性の世界だからです。存在性への愛は、善と悪、真と偽、誠実、不誠実、尊卑といった相対しあうもの、その両方を愛しているのです。だから、覚醒者は世界のありとあらゆるものを等しく等価のものとして見るのです。故に、仏様たちは誰であろうと如何なる極悪非道の罪人であろうと分け隔てなくお救いになるのです。同じようにイエス様もまた、すべての人の罪を背負って十字架に自ら架けられたのです。
 もし悟りを望む人が本心から願うのであればイエス様やお釈迦様を嘘偽りなく心から愛してください。たとえ愛する対象としての神仏がイエス様やお釈迦様でなかったとしても心からあなたが信じる神様や仏様を命を懸けて愛してください。ただ信じるだけでは駄目です。実の親のように、実の子のように、血を分けた兄弟のように、運命の糸でつながった夫や妻のように、寝ても覚めても思い出される恋人のように思って本当に命を懸けて愛さなければいけないと思います。本当に心から愛している人のためなら、その人のために死んでもいいと思うはずです。それと同じように自分の体と命を完全に投げ出す覚悟で、自分が信じる神仏を愛さなければなりません。お釈迦様を愛したチューダパンタカのように、イエス様を愛した弟子たちのように自分が信じる神様や仏様を愛さなければいけないのです。その愛が深ければ深いほど悟りも早まると思います。なぜならイエス様やお釈迦様をはじめとする神様や仏様は真理と同義だからです。つまり、私は真理を命を懸けて心から愛してくださいと言っているのです。但し、他者が信じる神仏よりも自分が信じ愛する神仏のほうを優位に置きたいと考えるあまり、その愛で他者を傷つけたり他者をないがしろにしたりするようなことがあってはいけないと思います。他人が心から信じ愛する神仏をけなしたり貶めたりするのはもってのほかです。それは自我のなせる業です。あくまでも世界を平等に愛する実践の象徴としての神仏であることを忘れてはいけないと思います。
 私自身に関しては、私はいつも、動画内で私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っています。これは嘘や冗談で言っているわけではありません。真実そうなのです。私は神仏を心から愛しています。もちろん、お釈迦様やイエス様も尊敬し愛しています。しかしながら、その愛は限局された排他的で差別的な愛ではありません。抜きんでて、お釈迦様やイエス様だけを特に愛しているというわけではありません。あくまでも等しく万物を愛している中での愛なのです。従って、私の神仏を愛しているという愛は特定の誰かや何かに対して限定されるわけではありません。私は空(くう)の現れです。もちろん私だけではありません。この動画を視聴している人も空(くう)の現われですし、私の動画を見たことがない関心がない人も同じく空(くう)の現れなのです。ただ、私は空(くう)の万物を等しく愛する愛を知っていることから、その空(くう)の愛と同じように私の場合も特定の限られた誰かや特定の何かだけを愛するということはないのです。私は空(くう)の現れとして空(くう)を愛しているのです。故に、その空(くう)への愛は、当然そこから生じた現われ全てに対する愛ということになります。その空(くう)への愛の現れとして私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っているのです。また、同時にそれ自体が空(くう)の現れでもあるのです。つまり空(くう)は空(くう)自身を愛しているということになるのす。
 真我の直接体験をしていない人にとっては空(くう)への愛と言っても見当もつかないことだと思います。それに先ほど申し上げたバガヴァッド・ギーターに「非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である」と書かれている通り空(くう)を思い浮かべるのは、それを体験したことのない人には無理なことであると思います。ですから、まずは自分が心から信じることが出来るイエス様やお釈迦様、シヴァ神様やヴィシュヌ神様、日本の神様なら天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ )様や天照大御神(あまてらすおおみかみ)様といった自分にとって身近にあって想像がつきやすく親しみやすい神様仏様を対象として愛することから始めるのが良いのではないのかなと思います。もちろん今名前を挙げた神様や仏様以外の神仏でも構いません。お地蔵様でも観音様でも、近所の神社に祀られている神様でも良いのです。自分が心底愛することが出来ると思う特定の誰かや何かである神様仏様を愛してみようと心がけることから始めるのがいいのではないのかなと思います。
 もしかしたらこれを聞いている人の中には具体的に神様仏様を愛するにはどうすれば良いのか分からないという人もいるのではないかと思います。そういう人のために私が考える一つの方法があります。それは好きなアイドルを思い浮かべて、ここが肝心なところですが性的欲望の対象としてそのアイドルを見るのではなく、加えて、その人に抱いていた夢や希望が完全に打ち砕かれるひどいスキャンダルがあろうとも、その人の存在をあるがままに認めたうえで、その人の幸せを心から願う純粋な無条件の愛を膨らませたあと、その愛をそのままスライドさせるように神仏のほうに持っていくようにすれば良いと思います。もちろん幸せを願う対象はアイドル以外でも構いません。身近な誰かでも構いませんし、見知らぬ人であっても構いません。動物愛でも自然愛でも人類愛でも地球愛でも宇宙愛であっても何でも良いと思います。この場合の愛とは、なんであろうとも、その存在を無条件に認めるという愛です。その純粋な無条件の愛を膨らませることが出来る対象であるなら何でも構いません。その無条件で全てを包み込むような愛を醸成できるものなら何でも心に思い浮かべればいいのではないかと思います。そのような愛で自分が信じる神仏を愛せるようになれば良いと思います。しかしながら、特定の誰かや何かではなく人類全体、世界全体、宇宙全体を無条件に執着なく平等に愛せるようであれば、それは既に神や仏の視点、空(くう)の視点からの愛であることからわざわざ特定の神仏を愛する必要はないのかもしれません。その場合は、その愛を保持したまま、その愛で真理を愛するようにしながら真理の探究を続けてもらえればいいのではないかと思います。無論、全体愛を持ちながら神仏を同時に愛しても構いません。そこは柔軟に考えればいいと思います。こうでなければならないということはないと思います。
 愛は、とても尊いものであると私は思います。愛が現象世界の存在性を支えているからです。だからこそ愛は、どのような人であろうと救うことが出来るのです。イエス様やお釈迦様は人々を愛しました。故に心から悟りを得たいと思うのであればイエス様やお釈迦様のように自分の中の愛を高めると同時に深めて広げて全てを包含する愛へと純化していかなければいけないのではないかと思います。そのためには、まずは帰依する対象である神仏に対して、自分の命を含めた全てをその前に投げ出して心から愛さなければいけないと私は思います。お分かりいただけたでしょうか。
 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

元修道女 キリスト教徒の神人合一 空(くう)を悟る可能性‼

下記文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。


元修道女 キリスト教徒の神人合一 空(くう)を悟る可能性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で32回目の動画になります。今回の動画ではキリスト教徒の方でも空(くう)の境地に達することが出来るかもしれないという可能性を感じさせてくれるうってつけの本をご紹介しようと思います。それは紀伊國屋(きのくにや)書店から出版されている「自己喪失の体験」という本です。ウィキペディアの英語版で著者であるバーナデット・ロバーツさんの経歴を見てみると、1931年にカリフォルニア州において敬虔なカトリック教徒の両親のもとに生まれ 17歳で裸足カルメル会修道院に入り8年半ほど修道生活を送ったあとユタ大学の医学部進学過程で3年学んだものの、どういう経緯(いきさつ)があったのか分かりませんがカリフォルニアに住む両親の家に戻ったとのことです。その後は南カリフォルニア大学で哲学の学位を取得したあと高校で生理学と代数を教える教師となり、そこで知り合った同僚男性と結婚したようです。1969年には子供の自発性や自主性を尊重し個々の発達段階に応じた教育を重視するモンテッソーリ教育に基づいた学校を開設し、1973年の42歳の時には南カリフォルニア大学で幼児教育修士号を取得したと書かれています。1982年の51歳の時に自身の体験を綴った今回ご紹介する本を出版したとのことです。

 ロバーツさんは残念ながら2017年の11月に86歳で鬼籍に入られ既に空(くう)に戻られている方ですが、この本の中で語られる一連の知覚に対する認識の変容体験をしている最中は四人の十代の子を持つ母親だったとのことです。この本が巷にあふれる他の悟り系のスピリチュアル本との間で一線を画することが出来ると思う点は、ロバーツさんが修道院で研鑽を積んだことや、大学での医学部進学過程を経て哲学の学位や幼児教育の修士号を取り幼稚園から短大までの学校の先生もされただけのことはある才媛才女な方であったことです。もちろん学歴や職歴だけで人も本の内容も判断できるわけではありませんが、ロバーツさんの場合、自分の体験を冷静に論理だてて分析し、人の浅知恵程度では計り知ることが出来ない厚いベールに包まれた深遠な神の領域として不可知論的な宗教文学にありがちな人を煙に巻くような表現だけでごまかすようなことをすることなく、感情に訴えかけてくるような感傷的な表現も最小限に留め、自分の内側で起こる精神面での認識上の変化を脚色することなく率直に語ると共に、その事実を、それまで培った学識で何とか説明をつけようと苦心されているようなところもうかがい知ることが出来るのです。この本は、悟りの内面的変化の過程を科学的視点からアプローチしようと考えている人にも参考になる一冊なのではないかと思います。そうは言っても、この方のものの考え方の基本は信仰篤い元修道女らしくキリスト教カトリックにある方なので多少の宗教的表現があったり婉曲的表現があったり、彼女が最後まで超えられなかった宗教的信念からくる限界があるのは仕方がないことだと思います。

 まず、この人の特徴で言えることは誰もが驚くようなものすごい精神上肉体上の修行をした人ではないということです。もちろん、私も経験した目覚めの過程における精神上肉体上の多少の困難には見舞われはしますが、自ら進んで難行苦行をしたというわけではないようです。ロバーツさんは、どうやら先天的な素質を持って生まれてきた人ではないかと思います。彼女はアメリカ人でカトリックの家庭に生まれ育ったとのことですが、いくら両親が敬虔なカトリック信者といえども通常は周囲の環境の中に子供を自然と悟りへと向かわせてしまうほどの影響を与えるものなどあるはずがありません。しかも幼児の時からですから彼女自身が悟りを意識するはずはないと思います。

 そんなロバーツさんの悟りの萌芽は5歳の頃には既にあったようで神の現存を気にしていたとのことです。そして普通ではない精神状態に入るようになったのは6歳の頃とのことで、最初は海上で父親が漕ぐボートの舳先で波に揺られながら沈黙と静寂の中で安らぎと喜びを感じたことに始まったとのことです。その後、心の空白を意図的に引き起こすことが出来るようにもなり、11歳の時には心の空白の中には祝福も隠されていることも感じるようになったとのことです。これはもう生まれつきの天才的瞑想家としか言いようがありません。15歳の時には、周囲に溶け込む沈黙でも空白でもなく、私という存在の中核にあって常に不動で沈黙し平安と歓喜と活力の源泉である静寂点があることを知ったとのことで、この静寂点の周りを彼女の自己が回っていたと感じていたようです。どうやら、その静寂点を神と感じて、ロバーツさんはそれに向かって生きる決意をして修道院生活に入ったそうで、彼女に言わせると、この沈黙の静寂点も通過点に過ぎず究極の目標は無自己にあったとのことです。

 私について言うならば、過去動画で言ってきた通り、読書中における「私は無い」という気づきによって私には主体性というものが元からなかったことに気づいたことが真我探求に向かう直接のきっかけでした。私は子供のころから瞑想をしてきたわけではありませんが、座禅や瞑想の経験をある程度してきた人なら短い間でも心が静まりかえった穏やかな状態の中で自己の広がりや至福を感じたり、時間の経過が分からなくなるような感覚を経験したことがあるのではないでしょうか。もしかしたら、その事をロバーツさんは静寂点と言っているのではないかと思いました。

 ロバーツさんの瞑想に関する能力は生来のものと言えますが、しかしながら、私の小学生時代を思い返してみると、もしかしたら私も自覚のないまま瞑想状態に入っていた時もあったのかもしれません。私は10歳くらいの時に訳も分からず母によって創価学会に入信させられ、同時に創価学会日蓮正宗から破門される前のことでしたから家の近くの日蓮正宗のお寺で受戒を受けた記憶があります。現在は創価学会を含めていかなる宗教団体にも全く関わってはいませんが、私のこの世の仏縁は、その時の受戒に始まったのかもしれません。そんな訳で、私は小学生の間は毎日、お仏壇の前に正座させられて法華経の方便品第二や寿量品を読み最後は「南無妙法蓮華経 」を数十分唱えさせられていた覚えがあります。もしかしたらその毎日の勤行が私にとっての瞑想だったのかもしれません。でも私の場合は母親に言われたからやっていただけのことで自主的に好きだから始めたものではありません。勤行をするにしても始めから早く終わらせることばかり考えながらお題目をあげていたので、やはり瞑想とは言えないかもしれません。そうは言っても集中して何も考えずにお題目を一心に唱えている時もありましたから、それが瞑想になっていた時もあったのもかもしれません。なんにせよ、そのおかげで10歳くらいで長い間正座をしていても多少足がしびれる時があるくらいで平気にはなりました。今にして思えば小学生くらいの時から1時間2時間くらいは正座をして平気になることを我慢して覚えるのも大切なことなのかもしれません。

 話しを戻します。ロバーツさんは10代前半で意識しない無自覚な瞑想状態で静寂を経験し、その後修道女としての人生経験もするようになりましたが、そういう生い立ちの彼女であっても自己の喪失体験には私自身は感じることのなかった驚愕と恐怖を感じたそうです。当初、彼女はそれまで学んできていた既存のキリスト教の知識や西洋科学の知識が自らの体験を合理的に説明できないことに愕然となり困惑し色々な古今東西の思想に答えを見つけようとして、あちらこちらに迷走を続けたことが書かれています。私は、それはそうだろうと思いました。ロバーツさんが若いころに入った正統派といわれる裸足カルメル修道会には、過去の歴史を見てみると神秘思想家として知られ神との合一を説く十字架のヨハネやアビラのテレサ16世紀頃にいたようですが、たとえ、それらの神秘主義否定神学を含めたキリスト教神学をロバーツさんが学んでいたとしても実際は唯物論実存主義に凝り固まった普通の生活を現実の社会を生きる中でしている以上、いくら神秘思想を学んでいたとしても、それはロバーツさんにとっては非現実的な虚構の話しであり生きた本物の知識として身に付いていたわけではなかったはずです。譬えるならロバーツさんにとっての神秘思想とは、埃をかぶって本棚で置かれている本の中に書かれたただの文字の羅列としての意味しかなかったのではないでしょうか。ですから、どのような学問であっても切実な問題として自分の身に直接結びつけて考えることなく、それが生きた知識として活用されない単なる文字の記憶としての範囲にとどまる限り、たぐいまれな至高の知識でさえも、その人にとっては何の効力も発揮しない意味を為さないものとなってしまいます。従って、いくら心を空白にする瞑想に長けていたとしてもロバーツさんが言うところの神との合一へ向かう神秘体験の知識については無知同然の現状があったと言えるのではないでしょうか。ですから、意識内における自己が喪失するという認識上の内的変化に対して予め自身の問題として捉え漠然的であっても、そのような状態になることを希望し、つまり悟りを求めて、それに対する事前の知識や心構えを備えておくこともしないまま、ある日突然自己の虚無性に気がつけば、たとえ修道女としての経験を積んでいたとしても精神的に動揺するのは当然です。

 もし、これが普通の常識的な思考に基づく行動しか出来ない人がロバーツさんのような尋常ならざる体験を否応なく意に反してしてしまった場合、その人は、その説明を普通の人からすればオカルト的に見える神秘主義の中に見つけようとするよりも、通常の反応として社会一般的な価値観に照らし自分の精神のとてもまともとは言えない状態を病的な異常な状態と捉えたほうが安易といえども、それまで慣れ親しんだ唯物論的に理解したほうが容易く受け入れることが出来ると言えるのではないでしょうか。だからこそ、頭がおかしくなったと考え込むことを予防するためにも事前に神秘体験に関する知識なども学んでおくのは大切ではないかと思います。

 ロバーツさんの場合に関しては、次々に訪れる認識面における新しい内的変化に対する精神的動揺は最初のうちだけだったようです。そこはさすが幼いころから特異な精神状態に慣れ親しんできたことや、かつ幼児教育の修士号を持ち修道女としての精神鍛錬も含めた神学の基礎及び様々な科学分野の基礎がしっかり出来ていたことが幸いしたのではないかと思います。その文面からも論理的思考性を感じるので、それまで得た知識に照らし合わせ、さらにキリスト教以外の宗教にも手がかりを求めることが出来る柔軟性も持ち合わせていたことから、さらに学びを深め冷静に自己分析を行い自分なりの答えを見つけながら、より真理の深奥へと入っていくことが出来たのであろうことが推測できます。

 ロバーツさんは、『瞑想の道の第一段階は自己から無自己に至るものであるならば、第二段階で到達するところは無自己から特定のどこでもなく、ありとあらゆるところ』(83ページ )と言っています。『それはまた、相対的な沈黙から「それ」の絶対的な沈黙への道』(83ページ )とも言っています。『それが知られる道は「それ」が「それ」自身を知ることよりほかにない』(83ページ )とも仰っています。

 まさに、その通りです。この世は真我の現われです。その真我こそが真の自己であり、その真の自己の現われとして現象世界があるのです。全ては真の自己の現われであることから限定される特定の私というものは現象世界の中にはありません。全ては一者の現われであるので、全ては一つなのです。それを知るとは、それとしてあることです。この本の中でロバーツさんが言う「それ」とは、純粋に非相対的な面における『自分自身だけを見る目』(86ページ)とのことです。

 意識内における認識の変化を人生の流れの中で見てみると、ロバーツさんは沈黙と表現する幼少期から続いていた様々な思考の鎮静化や自分の中にあると思っていた自己の喪失を体験したあと一体性を世界の中に見るようになりました。私の場合も少なからず座禅や瞑想をやっていた過去がある中で自分という主体性の喪失があり、その後に自己と他者との境界が薄れていき、そして認識に関連した精神活動の一時停止状態を体験しました。どうやら私とロバーツさんは、やってきた未知の試練に対し誰も頼ることなく一人で立ち向かったことを含めて同じような体験をしているようですし流れ的にも一致が見られるようです。

 ロバーツさんは、選択したり体験したり行為の目的と方向を定める自由を持つ者がそもそもいないと感じるようになったことで、自らの行動に対しては、行為者も行為の対象も不可知であり、行為そのものだけが知られることから、それを純粋な行いと書いて「純粋行」と呼びました。「純粋行」は反省と努力によって意識的に維持される行為ではなく、自己の力が無くなった時に自動的に起こるもので、たとえ汗をかく労働を行うものでも自己の活力は全く関与しないものなのだそうです。そして自己が無くなった後の純粋行で何をするのかについては、草木が自然の定めに従って芽を出し花を開くのと同様、歩く方向を知ることが出来ないままに梁の上を歩くかのごとく定められていて、そこから勝手にそれることは出来ないとのことです。さらに自意識と自己を省みる機能が喪失した後は心は沈黙しますが、その沈黙は、それまでの沈黙とは違う沈黙で、そこではすべての思考は行為によって置き換えられるとのことで、思考なしの行為だけが行われているそうなのです。加えて秩序や美、調和といったものに対する感覚も脱落し、音楽は雑音となり沈黙が楽音になったそうです。個々のものへの注目が出来ないことで物は一つながりの全体として見えるようになり、特定のものに美を見出せないことから実際の用途のないものを所有する意味を見出せず、子供たちの世話をしなくて良いものなら全てを投げ出して森の中での生活をしたいと思ったそうです。ロバーツさんにとっては一なることこそが最高の美であると思われたようです。このようにロバーツさんは、現象世界における究極の一なるものを体験したとのことでした。  

 私についても言わせてもらうならば、この人生の中で何かを主体的に選択し決定し行為をするという自己が存在するという認識の恒常的な消失を迎えています。主体性を持つ自己というものは私の中にはもはや存在しません。全ては起こるべきことが起こるべきこととしてただ起こっているに過ぎません。そこに他からの助けや支配なしで物事を一人で行って自ら立つという意味での自立性と自分で立てた規範に則って自らを律して行動することが出来るという意味での自律性の二つの側面を持った私というものが存在し人生に関与する余地は全くありません。私の人生のすべては自動で起きていることなのです。つまり自由意思など、どこにもないということです。そこに周囲から独立した一個の人間というものはないのです。今言ったことは他の人にも当然当てはまることなのですが、私と他の人との違いと言えば、それに気づいているか気づいていないかだけの差でしかないのです。私も含め他の誰であろうとも、自分の体を含めた現象世界で起こる内外面の感覚全体をただ観賞し味わっている存在なのです。

 この本の前付(まえづけ)の「はじめに」のところでロバーツさんがそれまで学んだ知識としてのキリスト教的無我の観念と実際の経験との違いに一人で立ち向かう過程で分かったこととして自意識が恒常的に消失する瞑想の道には二段階あると言っています。まだ自己は失われていないものの心理面で抱く様々な葛藤から苦悩を感じる内的試練が第一段階にあり、次に来るのが自己が脱落した後に残る「それ」と共に生きる人生が第二段階です。その第二段階における自己の脱落はロバーツさん自身にとっては衝撃的な事件だったようで、自己のない生に入るという言葉だけでは片づけられない自己意識の消失に伴う意識の変化と新しい認識態様への突入には大変な努力が必要だったと書いています。その理由として、自意識のもとになる反省という機能が止まり心が瞬間に固定され不可知なものへの凝視から抜け出ることが出来なくなったからだそうです。

 彼女の表現とは少し異なるかもしれませんが、誰であろうと何であろうと人や物の動きに関しては全て完全自動で起きているというのが真実です。私はそう感じています。従って、真我の視点で見れば故意であろうと過失であろうと何かを傷つけてしまった場合、そこに一切の責任はありません。主体性の消失は確かに反省という人間らしさを失わせることになるかもしれません。しかしながら私の場合、全く反省がないかといえばそうではなく、仕事上や人間関係上のミスやトラブルに遭遇した場合には少なからず感情は残っているので当然不愉快な気持ちにはなります。幸いなことに、また同じ過ちを犯し不愉快な感情を繰り返さないように心がけるという意味での自己を省みる精神活動は多少なりともまだ残っています。ただ私の場合は、その一連の行為や感情の動き、やってくる思考でさえも、全自動で起きているという認識の下で理解がされていることから、社会的関係性の中で、例えば仕事でお客様に対して何がしかの間違いをしてしまい平身低頭な態度で私が謝罪をしたとしても、それもまたプログラム通りの型通りの反省をあたかもしているかのように他者に見える形で対外的に示しているだけということになると思います。私はあくまでも、それを鑑賞している存在なのです。

 ロバーツさんがここで言う反省の機能とは自分の過去の言動についての可否を問う行為という意味もあるでしょうが、それだけではなく、もっと大きく自己の存在性自体を顧みるという意味合いも含んだものと捉えたほうが分かりやすいと思います。不必要な思考が止み自分自身の存在性を意識しなくなったことで過去や未来、現在進行中のことに対しても考えることはなくなり今のこの時点、瞬間瞬間のみを見るようになったということなのではないかと思います。

 私もロバーツさん同様に意識は今にあるので過去や未来について考えることはほとんどありません。実際、考えることが難しいのです。先月の末頃、私はコミュニティに鷲巣山(じゅそうざん)文殊堂に置かれている石像の龍頭観音様との不思議なご縁について書きました。もう何年も前のことだったので、その時のことを振りかえり思い出しながら書く作業というのは、常に今の瞬間に意識がある私にとっては努力を必要とする厄介な仕事でした。 皆さんが悟りを得るための精神状態をどのように考えているのか分かりませんが、人としての通常の意識を捨てたところにこそ悟りがあることから悟りの状態が高度になるにつれて、つまり空(くう)に近づくにつれて日常の生活や仕事に悪影響が生じる可能性があることを悟りを目指す人は覚悟する必要があると思います。従って、重要な判断を求められる職業についているというのなら定年退職をした後に年金生活をしながら取り組んだ方が良いと私は思います。私の場合は、悟りとかに何の関心のない人からすれば異常に見える一種異様な精神状態になっていく過程を悟りには必要なものなのだろうと軽く考えて受け入れていたところがあるので自分の内側で起きている一連の認識の変容過程も自然の成り行きに任せていました。そのため個々の変化自体にはロバーツさんのように恐怖を感じたり戸惑ったりというようなことは特にありませんでした。

 ロバーツさんは自分の中心にあったと思っていた自己がなくなったことに気づいたことで当初は喜びを感じたり生きている感覚のない空虚さを感じたりと、かなり高低差のある精神的な抑揚を感じたとのことです。また、自分に生きている感じがしないことで生活上の動作についても自分で何かをしている感じもなく全て条件反射で動いているように感じたことにも相当な戸惑いがあったようです。そういう体験から分かったことは、人格的な自己がないときは人格的な神もないということだったそうです。つまり逆を言えば、人格を有する神は人格を有する人間の存在を前提としているわけですから、自分に人格があるという幻想がなくなれば人格を持った神の存在も幻想になってしまうというわけです。これは必然というか、言わずもがなの当然の帰結と言えるのではないでしょうか。

 私もロバーツさんが感じた精神面での不安定さついては経験があります。自分に主体性というものが無いという認識自体には全く抵抗なく直ぐに受け入れられたのですが、しかしながら日々を生きる実際の生活の中においては、以前の動画でお話ししたことがあるように自ら自滅する結果になろうとも、欲や感情などのあの手この手を駆使し様々な場面で自己を主張し生き残ろうとする自我との戦いは避けられないものでした。その過程においては私が取り組んでいた事物を俯瞰し客観視する精神鍛錬に抗う自我により精神的肉体的にとてもつらい苦痛を感じていた時がありました。加えて、自分自身のみならず他者の存在に対しても生きている感じがしないというような空虚感がある一方、理由もなく内側から突然沸き起こる悦びに包まれたりというようなアップダウンのある心理状態があったのも確かです。とはいえ、それも乗り越えなければならない試練と思い文字通り歯を食いしばって乗り切りました。その心身の苦しみや浮き沈みも時と共に落ち着いて平たんになり、いつの間にか苦痛を感じるような自我の抵抗がなくなって主体のない無自己の状態を自然に生きられるようになりました。もう少し正確に言うなら自我の主張が完全になくなったわけではなく、何らかのきっかけで正負の感情や欲を利用して自我が主張を始めても、それは真の私ではないということが分かっていることから、それも俯瞰して眺めていられるようになりました。そうやって自我の主張を眺めているといつしか自我の主張は沈静化して消えてしまいます。何というか、自我は自我としての役割があって、その役割を担ってくれていたわけですから一方的に敵対視したのでは自我に失礼ですしかわいそうです。自我に対しては今まで頑張ってくれてありがとうというような感じで、いたわりの眼差しで見ることが出来るようになりました。

 但し、自我の抑制は対外的な感情表現を一切しないという意味ではありません。必要に応じてその場その場で人として相応しい感情表現や実際の感情は伴わなくてもその場に似つかわしい表情を取り繕う必要は厳然としてあることから、たとえばお葬式ではお葬式に相応しい表情や言動を伴う立ち振る舞いがあるように、職場においても相応しい表情や言動を伴う立ち振る舞いがあるように、誰であろうと日常生活においては各自が置かれた状況にふさわしい顔の表情も含めた常識的な礼儀作法を守る必要があるのは当たり前のことではないかと思います。それが出来なければ通常の社会生活は出来ません。ですから、悟った人間がいつも無表情で能面のような顔をしていると思うのは大間違いです。そういうことも踏まえた上で、その場その場で世間一般的に人として求められる顔の表情も含めた感情表現と言動を自然とこなしながら、その自分を客観視し俯瞰することが出来るようにならなければいけないと私は思います。故に、普段の生活そのものが悟りを目指す修行の場になると言えるのです。そういう訳で隠遁生活をやりたい人はやればいいと思いますが、必ずしも山にこもる必要はないと思います。

 ある日のこと、ロバーツさんは救いを求めてなのか司祭に自分の存在が突き止められないことを話したことがあるそうです。けれども、その人には精神病か何かに間違えられたようで気の毒がられただけで分かってもらえることはなかったそうです。これに関しても私の考えを言わせてもらうならば、東洋思想を学び実際に悟りの修行をしたことがある人であっても答えに窮するような難問と言えるものですから、司祭といったところで所詮物質の実在性をもとにした思考しかできない凡夫に過ぎないような人に自己の非実在を尋ねたところで質問の意味さえ理解できず頭の異常性を疑われるのが落ちなだけと言えるのではないでしょうか。

 私などは最初から兄弟や友人知人、職場の人にユーチューブで話しているような私が理解した真理について話すようことを一度もしたことはありません。ユーチューブに動画を載せていることさえも話したことはありません。これからも血縁者も含め身近な人に私がやっているユーチューブチャンネルに関して一切話すつもりはありません。理解できない人間に何を話しても無理なものは無理ですから、無用な論争を避けるためにも、そこは明確に話す相手を取捨選択をする態度が必要になります。当チャンネルは、私の話しが理解できる本当にご縁のある方だけに見ていただければ十分なのです。たかだか多いときで数十人しか見ていないチャンネルですが、その中から空(くう)に至る人が一人でも現れてくれるのであればそれで良いと思っています。

 話しを戻します。ロバーツさんは、人格神としての神の観念と自分が生きているという感覚の両方の消失からの克服は精神的にかなり苦労をされたようです。しかし、その事で逆に何もかも全てが神の中にあり何ものも神から切り離すことが出来ないと考えるようになったことで、全てのものが神であり、全ては生命の中にあることが分かって自分がないという喪失感から救われたようでした。

 ロバーツさんは、捨てるという観念も含めた執着心を捨てることにより、神という概念を捨て自他という区別も捨てて全てを神の現われとしての一つなるものとして見ることが出来るようになったのではないかと思います。27ページに次のように書かれています。「神は人格的でも非人格的でもなく、内でも外でもなく、全体としてはどこにもあり、個別的にはどこにもないのです。要するに全てなのです。ただ自己を除いて。」

 この最後の「自己を除いて」を私なりに解釈すると、自意識という存在性が無くなると自分を中心とした見え方が出来なくなります。すると私やあなた、あそこやここといった彼我の差などを主体と客体に分ける捉え方もぼやけてくるので全てを一つのものとして見るようになってしまいます。そうなると、自己と他の事物が、あたかも一体のものとして見えるようになった後に残るものとして対比されるものは、それを見るという行為そのものということになりますが、ロバーツさんは、その見るという行為でさえも自分のものではないと感じたようです。だから、その時のロバーツさんは自己を認識できないが故に自己を除いた全てが神と感じたのではないかと思います。

 ここまでくると悟りとしてもかなりのものですが、この気づきでもまだ不十分です。しかしながら、観察眼に優れたロバーツさんは見えている個々のものが個別性を失い一つのものとして見える「一なること」に気がつき、次いで、それを見ている「見ること」との間の相対に気づき、さらには、その対照性から「見ること」についても疑問を抱くようになりました。

 ここでもロバーツさんは「見ること」と「一なること」との間の関係性に悩まれたようです。そこで幼児教育に関して学んだ知識を活用して、人の意識の発達段階において意識が主客未分化で、かつ記憶もないことで考えるということもない生まれたばかりの乳幼児の意識に着目し、この反省も自意識もない心をもって生まれた乳幼児の意識こそが、まさに「一なること」やそれを見る「見ること」に相当するのではないかと考えたようです。

 答えを始原の意識状態とも言える生まれたばかりの乳幼児の意識に求めたところまでは良かったのですが、それでも「見ること」と「一なること」といった相対性はまだ残っています。そして、その先にあるその「一なること」を見ている者は一体何者かということに無論なりますが、結局ロバーツさんには分からなかったみたいです。

 その原因として考えられるのは、ロバーツさんの中にある神と自分とはあくまでも別物という考え方にあるのではないかと思いました。この考えは、信仰篤い敬虔なキリスト教徒にとっては本当に悩ましい問題だと思います。特に幼いころから東洋思想に触れることなく育ってきた西洋人にとっては克服しがたいことなのだと思います。全ては神の顕現であると分かるところまで来ていながら、自分の精神も同じ神の現われの中にあることまではどうしても受け入れられないようなのです。自分の体を含めた目で見える情報と体の内部で感じる情報は一体で一つです。真の鑑賞者である真我は内にあって一体となったものを見ています。しかしながらロバーツさんは、自己と外界との区別がなくなり一体となって一つとしてある視野に気がつきながらも、結局自らの内にあって、それらを見ている真我という真の自己としての自分自身を受け入れられなかったのではないかと推察します。その抵抗感が仇(あだ)となって空(くう)を悟るところまでは残念ながら行けなかったと私は思いました。

 もしかしたら、今ロバーツさんが空(くう)まで行けなかった人と聞いてがっかりした人もいるかもしれませんが、ロバーツさんは幼児教育の修士号を持ち修道女や教師としてのスキルを持っていることから、人の心理的側面に精通した論理的思考性に基づく自身の経験に対する考察はキリスト教徒の方やキリスト教徒でなくても悟りを目指す人には十分参考になると思います。悟りを得る全ての人に同じように当てはまることはないかもしれませんが、限定的と言えども悟りの過程における精神面での内的変化を知るには最適な参考書ではないかと思います。

 本のほうに話しを戻します。私も経験した頭が異様に熱く感じたり体が周囲に溶け込む感じは私にとってはどうということはなかったのですが、ロバーツさんにとっては相当に耐えがたいものだったようです。ロバーツさんが言う自身の身体が無いと感じる状況は、よく耳にする体外離脱とは全く別のものとのことです。巷でよく聞く体外離脱で説明されるような自己が二つの部分に分けられるというものではなく、そもそも分けられるべき自己がないとのことです。人の身体などの目に見える物は全て標渺(ひょうびょう)とした仮現(かげん)的なもので、その根底に何か恒久普遍的なものがあるとすれば、それは自己が無くなった後に残っているものと感じたようです。

 これについても私はよく分かります。ファーストインパクトである私は無いという気づきにより自分の主体性が否定されることに始まり、日常の生活の中で自分の体と他の見えている人間を含めた風景が常時ではありませんでしたが無機質で平面的に感じるようになりました。次のセカンドインパクトの気づきでは目の前で見聞きしているものに対する善し悪しを判断する精神活動が一時停止ボタンが押されたがごとく完全に停止し、まるで心自体がないかのように完全に静まり静寂そのものになって見るものと見られるものは一体となり、自分の内側にある神の眼とも言える真の鑑賞者の視点を感じました。それ以外にも、これまで動画の中でお話ししてきたような大なり小なりの気づきを繰り返しながら、この世は幻想であるという認識が醸成され、そしてサードインパクトに当たる真我の直接体験が決定打になって、この世は幻想に過ぎないという認識が確定的になり、今はその認識に基づく見方が物事を判断する普段の基準になっています。私の意識は真我と共にいつもあり、或いは真我の一部として常にあり、はたまた私の視点は真我の視点という感覚があるので、自分の体も含めて眼に見えるものと体で感じるものは、私でありながらも外側のものという感じがあります。

 私は真我の直接体験をしたことで私は体でもなければやってくる思考でもなく感情でもなく、それを鑑賞している真我であるという認識が基本にあることから、感覚器官に生じる内と外で感じる一連の認知されるものは私のものでありながら真の私のものではないと感じます。さらに今言った、その真の私のものではないという感じ方も外側のものなのです。これを聞いた人は、間違いなく私のことを頭がおかしい奴と思うでしょう。二律背反するようですが、私のものでありながら私のものではないという主張は成立するのです。そして、それらは全て空(くう)の中で生じているのです。その空(くう)こそが真の自己なのです。要するに全ては私ということになります。ますますこれを聞いた人は私が支離滅裂なことを言っているようにしか聞こえないでしょう。真理とは、そういうものなのです。ロバーツさんは、それまで慣れ親しんだ神は外にあって当たり前という既成の概念を越えることが出来ないが故に神と自分とを一体と捉え、この現象世界は幻想であり、自分自身が自分自身の世界を創造している創造主であるという見方を最後まで受け入れられなかったのではないかと思います。

 ロバーツさんによると旅のはじめの最初の認識の変化では、あらゆる内面性が脱落し意識は外に向かうものの、その外側にも万物の個別性は感じられることはなく、そこには「一なるもの」しか見えず、次の変化では、その「一なるもの」として見えていた外にあるものさえも脱落したことで何を見てもどこを見ても内にも外にも何も無いという空虚で虚無な状況になったとのことです。ロバーツさんにとっては、それは精神的に大変に恐ろしくつらく苦しい状況だったようです。

 しかしながら、これは言わば通過儀礼のようなものです。全く同じ体験をしたわけではありませんが、先ほどお話ししたように私も内と外で感じる全てを客観視し俯瞰する見方が自然なものとなるまでの意図的で意識的な精神鍛錬中では、生き残ろうとする自我との戦いはどうしても避けることが出来ず、この時の私は精神的にも肉体的にも大変な苦痛を感じていました。ただ、私は、ロバーツさんが感じた一連の無我の境地を悟りと結びつけることが出来る仏教的地盤が元からある日本で生まれ育ち悟り系のスピリチュアル本を読むことで事前の知識もあったことが幸いして特に悟りの境地に向かう過程で感じる認識の変化自体に対する抵抗感は全くなく、その状態を自然に受け入れることが出来ました。違いは人為的にそういう状況を引き起こそうとしていたかどうかの違いではないかと思います。そういう認識の変化の過程では私は内外面で起こる事象を客観視すると共に思考を停止させようとする精神鍛錬の努力を要し、ロバーツさんの場合は特段そういう状況を自ら引き起こそうとしていたわけではなく幼少時に身に着けた心を空白状態にする技術を繰り返すことで自然にそうなっていったということではないかと思います。加えて無我の状況をロバーツさんは不本意で望ましくないものとして受け取っている一方、私の場合はそれを好ましいものとして感じていたわけです。

 ロバーツさんは、こうなってしまった原因として43ページに「神に対して自分を捨てたつもりで実は無に対して捨ててしまった」ことにあると言っています。ロバーツさんは、「いつも神に対して自分を放棄し過ぎることがあるだろうか、ここから先は行くべきではないという限界があるのだろうか」と考えていたそうです。私は、この考えはとても重要だと思います。神仏を絶対的に信頼し覚悟して自分の全てを明け渡すことは何よりも大切だからです。神仏に対し自分の体と命の全てを投げ出す気持ちがあってはじめて、悟りへ向かう道が開けるというものではないでしょうか。これを聞く全ての方に心に留めておいてもらいたいと思います。

 また大事なことだと思うので性的な事にも私なりの考えを申し上げておこうと思います。著者のロバーツさんは、一連の体験をしている最中は十代の四人の子供の母親として忙しい毎日を送っていたとのことです。この事からも分かるようにロバーツさんは若かりし頃は修道女であったものの普通の女性としての結婚生活も手に入れました。何が言いたいのかというと必ずしも悟りへと向かう行程においては性的行為の一切を禁忌し必要以上に遠ざける必要はないと私は考えているということです。ロバーツさんは離婚も経験することになりますが、これについては人に自由意思など元からないのですから、これも起こるべきことが起こるべきこととして起きただけに過ぎません。性行為の有無と悟りの関係、離婚の有無と悟りの関係といった密接な相関は必ずしも成り立たないと思います。円満な夫婦生活があっても悟る人は悟ると思いますし、逆に苦しい禁欲生活をいくらしようとも悟れない人は悟れません。悟る人、解脱をする人は絶対に性的行為をしない人と決めつける考えも一つの囚われではないかと思います。精神鍛錬を行う上では心身を清らかに保つ必要性はあるとは思いますが、それはあくまでも自我の呪縛から解放されるためのものですから、執着心から過度にふけるようなものでない限り性的行為をしたからといって鍛錬の障害になることはないと思います。昔は出家した僧侶の集団生活の中では一定の歯止めとして性的行為に対する厳しい規律は必要だったのかもしれませんが、だからといって今の時代においても同様に、それにならって一般の俗世の中にありながら悟りを目指す人までが厳しい禁欲生活をする必要はないと思います。まず、その行為が社会的に認められる夫婦の間で愛の行為として行われるのであるならば、なんら悟りへの障害にはならないと思います。逆に、その性的衝動を無理に抑制し、いつまでも性的欲求が消えることなく延々と欲求を持ち続け悶々とした毎日を送っている方が障害になりますし、行き過ぎた禁欲で夫婦間に亀裂が入ってしまったのでは、逆にその事が悟りを目指す上で障害になってしまいます。お互いに心に影を作らないようにした方が良いと思います。夫婦円満こそが悟りの成就に結び付くのではないかと思います。ですから夫婦間で愛の行為として行う分には私は悟りの障害にはなることはないと思います。ことさら悟りを意識して性行為を禁忌するほうが逆効果になると思うので、そこは普段通りであれば良いと思います。そして独身の場合においても同様に無理に自分の性的欲求を我慢することはしなくていいと思っています。自分なりのやり方で発散すれば良いと思います。何がなんでも禁欲にこだわるのも執着ですし、性的行為のことだけを考え続けるのも執着です。行為自体にいいも悪いもないのです。単なる生理機能でしかありません。私からすれば性欲も尿意と同じで溜まったものは、つべこべ言わずに単純に排出してしまえば良いだけです。精神的にも肉体的にもすっきりさせて改めて精神鍛錬に取り組めば良いだけなのです。従って、一時的に沸き起こる人の体の生理現象としての性的欲求の解消手段を自ら禁止したが故に性的欲求がいつまでも消えずにかえって高まってしまい精神集中が困難になるというのなら自分なりのやり方で欲求を満たして発散することも大切かと思います。当然のことですが、この自分なりのやり方というのは道徳に反することなく社会的に許されていて、かつ常識の範疇という意味です。よって精神鍛錬の妨げにならない範囲で性的欲求の発散行為をした後に、また精神鍛錬に戻ればいいのではないかと私は思います。お釈迦様は中道を説かれたはずです。快楽ばかりを追うことなく、禁欲ばかりをするのでもなくほどよい生活態度を心掛けるのが肝要ではないかと思います 。ローバーツさんの場合は離婚をする人生ストーリーの中での神秘体験が設定されていただけのことなので、他の人もロバーツさん同様に離婚をしなければ、或いは独身でなければ合一体験が出来ないと考えるのは完全な間違いです。ですから、これを視聴している人は中道的で円満な生き方を心掛けそれを保ちながら、その人なりの個々の人生ストーリーの中で合一体験を目指せば良いと思います。

 話しを戻します。ロバーツさんは当初、内にも外にも何もない無自己の静寂が神ではないかと思ったそうですが、それも違うことに気づいたようです。それはあくまでも「それ」に到達するための過程に過ぎないと語られています。83ページから84ページにかけて次のように書かれています。『覚醒をしたままで「それ」を見る力を得たのです。「それ」の前では他の一切のもの、私の身体も周囲の事物もすべて意識の外にあり、この現前の強烈さに較べれば、自己の喪失など何ものでもありません。無自己を超えた先には、この強烈な現前に出会って「それ」の中に溶け込むしかありません。』

 私は最初ロバーツさんが何を言っているのか分かりませんでした。真我の直接体験をした場合は自分が真我そのもの、つまり空(くう)そのものになってしまい人間の意識など保持しようがありません。ですから覚醒したままで「それ」に到達したというのは一体なにに到達したのか首を傾げてしまいました。そこで自分の体験を思い起こして熟考した結果、はたと気がつきました。ここで言っている「それ」の現前とは内と外で感じていた全てのものを一つのものとして在らしめるということなのではないかと思いました。無自己の先には全てを一つとして見る神の視野とも言える「それ」があり、更にその向こうには認識作用も完全に停止させることにより見るという行為さえも認識されることなく、その一なるものの中に溶け込んで「それ」としてあることしか出来ない意識状態があるのは確かなことです。

 ロバーツさんは言います。『「一なること」を見る限りはまだ相対的で、その反対のものを見る可能性があり、実際私は恐ろしい虚無を見たのです。言いかえれば、たとえ無形なものとしてでも、神を対象とする認識は相対的な面にとどまり神を見失うこともあり得るのです。神は相対的な心、すなわち主客の分離した意識では見ることは出来ないのです。』(85ページ )

 それはその通りなのです。彼女が言う通り純粋に非相対的な面では自己を無いものとして「それ」であらねばなりません。つまり、「一なること」とそれを「見ること」という相対が残っている間は本当の意味での「一なること」ではないのです。その一なるものを見ようとするのではなく、対象を捉えて判断する働きを完全に停止させたうえで自らが一なるものとしてあらねばならないのです。

 ロバーツさんは一連の瞑想の旅の流れについて94ページに以下のように説明しています。まずキリスト教でいうところの自己と神との合一から始めて自己を神の沈黙の中に永遠に消失せしめ、次に仏教でいう無我に入り、そこで自己に伴う一切のものなしに万物と本質的に一つになって生きることを学び、そして最後にヒンズー教で頂点をなすものである自己が無くなった後に残る唯一の「存在」そのもの、すなわち「それ」に達するというのが瞑想の旅の流れであるとしています。ロバーツさんは、どの宗教単独によっても「それ」に達することは出来るかもしれないけれど、体験上、宗教間で協力をしたほうが良く、宗教の違いにこだわるべきではないと語っています。

 この点についても私は全くもって同意します。さすが、ロバーツさんです。ある一定以上の悟りを得た人は、みな同じことを言うと思います。真の覚醒者は宗教の中の違いに殊更(ことさら)こだわることはありません。他の宗教宗派の悪口を言ったり貶めるようなことはしません。なぜなら共通した真理へと目が行くようになるからです。もし、宗教を語る誰かが他の宗教について悪態をついているようであれば、その時点でその人は現象世界を一つのものとして一体のものとして見ることが出来ていないということになります。世界を一なるものとして見ることが出来なければ、本当の意味で等しく万物を見ることも等しく生類に憐れみを持つことも出来ません。だから悪態をつくのです。相対の分離の概念に囚われている間は真我に至ることは出来ません。この世界の中に一なるものを見ることさえも出来ないでしょう。悟りとは概念を話すことではありません。悟りとは自らが真我に留まり真我として在ることです。悟りとは真我を体現することです。具体的には宇宙に遍満する存在性への愛を表現することです。だからイエス様やお釈迦様は愛や慈悲心を説くのです。その人が真の覚醒者であるかどうかは、他の宗教宗派への関わり方が平等であり融和的であり、かつ共通した真理を見ているかどうかという点からでも分かると思います。つまりは簡単に言えば、全てを等価のものとして見ているかどうかに尽きると思います。

 但し、私としてはヒンズー教の唯一の存在であるアートマンとロバーツさんがいう「それ」が一致しているようには思えません。しかしながら、おおむね流れの中身や順序については異論はありません。宗教間の協力についても全くもって同感です。結局、キリスト教においても仏教においてもヒンズー教においても真我の観点から言えば終着点は一つですから、それぞれの参考になる点は大いに取り入れて悟りを目指してもらいたいと思います。

 ロバーツさんは神の死を体験しました。それまで自分が持っていた信じる対象としての神の死を迎えたのです。神を外側のものである客体として考えるのではなく純粋な主体として自らの内に捉えることが出来るようになったのです。これによりキリストもまた同じように神を自らの内に捉えていたことを理解しました。これを知るには純粋主体性を直接に見るしか方法がないとのことで、たとえ直接見たところで人間の理解を超えていることから知性によって把握はできないとのことです。

 では、ロバーツさんが言うところのその純粋主体性とは一体全体なんなのかということになりますが、それは内省と対象化を伴うことなく存在と知と行為が全くの同一のものとして区別なく見聞きされることを指して言っているようです。どういうことか言うと、ロバーツさんは認識活動なく自分を含めて見える物すべてが一個のものとして感知できるようになったということなのではないかと思います。多分、読書中に起きた私の2回目の気づきにおいて感じた、対象を判断する精神活動がまるで一時停止ボタンが押されたがごとく完全停止した状態で目の前にあるものをあるがままに感じとることができた同じ状態のことを言っているのではないかと思います。確かに、その時になってはじめて見るという行為自体を意識することがなくなり、見えているものと一体になって合一したようになりました。おそらく、そのように主体も客体もなく体で受ける感覚を一つのものとして一体として見えるようになった把握の仕方が世界を見る一つの目と感じて、それを純粋な主体性を持つものと考えたのではないかと思います。そして世界を純粋主体性として見るとき、つまり全てを分離なく一体として見るとき、自己の内面では自意識もなく自省機能もなくなっていて一種の空虚な状態になっているのではないかと思いました。この空虚さをロバーツさんは無自己と言っているようです。

 これについても私は十分理解できます。私も、そのような状態で世界を鑑賞しているからです。つまり、自分の内外面の動きも含めて世界は完全自動で起きていて何が起ころうとも一切の責任は私にはないと認識しているからです。もちろん、これを聞いているあなたにも一切の責任はありません。だからといって、自明ですが何をやっても構わないと言っているわけではないので、そこは勘違いをしないようにしてください。人には自由意思がないという話しをしただけのことです。

 ロバーツさん自身は139ページに書かれている通り、神と自己との違いは当然で客体としての神を保持したいという考えを無自己を自覚するようになってもなお持ち続けていたいと考えたようですが、最後は完全に自己を失い主客が合一したことで最後に残った一つなるものである、この純粋主体性を最高の真理として神として認識するようになったようです。また純粋主体性は今ここに生きることにもかかわっていることから、今を生きることにより客体としての神を追い求めることはなくなったとのことです。

 ここまで長々と話してきましたが、結論を言えば前述したようにロバーツさんは空(くう)には至っていないと思います。私の体験に当てはめるのならば、この本に書かれていることは自らが空(くう)となる2歩くらい手前までに感じられる主体と客体の関係性が失われ個別性は全体としての総体性の中に飲み込まれ世界は一体となり一つの映像として感じられるようになったところまでを経験したことが書かれているようです。本の中では目に映るものがテレビ画面や映画館のスクリーンを見ているようになったとは書いていませんが、簡単に言えば見えている世界から生命感が失われただの映像を見ているようになって自分の体を自分のものとは感じられなくなったうえにつまらない他人の人生の映画かテレビドラマをただ見せられているような感覚になったということなのではないかと思います。

 多分ロバーツさんの文章は読みづらいというか把握しづらいと感じるかもしれません。著者の体験談なら、通常その状況を思い浮かべながら読者も読み進めると思うのですが、著者の体験は特異で常人では普通経験しないものですから読者は感情移入したり状況を自分に当てはめづらいところが相当あると思います。そのうえ分かりやすく何かに譬えながら話しを進めるタイプではないことから、自らの体験について感じた感覚についての主観的表現が多いので、私もロバーツさんの体験を自分に当てはめて考えるのが難しかったです。また、ちょくちょく聖書や昔のキリスト教神秘思想家の話しを引き合いに出すので全くの初心者には難しいかもしれません。この本を理解するには、ある程度悟り系のスピリチュアル本を読み込んできた人や神学や哲学、心理学の知識も必要になると思います。

 私が一番興味を引いたのは最後の終りの章です。ある日、ロバーツさんは図書館へ行こうとして裏隣に住んでいる85歳のルーシルという女性と出会い立ち話からルーシルさんも同じ自己の喪失体験をしていたことを知り、さらに個々の状況や対処の態度まで似ていたことに驚かされたことが書かれています。また、ルーシルさんも自分よりも40歳も若いロバーツさんが同じような経験をしていることにびっくりしお互い驚きあったとのことです。私は、そういう場面に対しお隣同士でありながらも、それぞれ同じような体験をしていながら長い間お互いにそのことに気づくことなくそれまで過ごし、そしてこの時になって二人が出会うことになった人生における不思議な縁の面白さを感じました。

 私は最近、数十年前にある出来事で一躍時の人となった方がやっておられていて幅広く東洋思想などの情報発信をされているユーチューブチャンネルを視聴しました。その中で超高齢期にある人のうち2割ぐらいの人が超越的に至福を感じる心理状態にあるということを知りました。社会学者や心理学者によって、そういう事例が報告されているというのです。80歳以上の人たちの中には死の不安や恐怖がなく我欲が減少し寛大になり今に幸せを一番感じ今日生きていられることに感謝の念を抱く、そういう人がいるというのです。

 私は学者の先生方が報告するほどなのですから、少数ながらも超高齢期における超越的精神状態にある人というのは実際にいるのだろうと思います。しかしながら、ルーシルさんが経験していた状態は今日生きられていることにただ感謝する至福の精神状態とは明らかに違うものであり、ロバーツさん同様に無自己の精神状態だったのです。

 ロバーツさんの関心は始めから終わりまで自己が無くなった後に残るものに対してでしたが、ルーシルさんの場合は6年がかりで無自己になった後で、どのように生きらるかに関心があったとのことです。ルーシルさんは、自己を含めてすべてが脱落してしまえば後には神だけが残っていて、それが自分のこの世の生の終りであることを一瞬も疑わなかったそうです。

 残念ながら書かれている内容から推測するにルーシルさんも空(くう)までは行かなかったように感じます。細かいところでの感じ方には違いがあるものの、どうやらルシールさんもロバーツさん同様に無自己となり世界が一なるものとして見える見え方に変わって、それと完全に同化するようになった精神状態が神と合一した状態であると考えているようです。  

 ロバーツさんは自身を神の一部であると考えてはいるようですが、知らず知らずのうちに幼少より培ってきた何者であろうとも神は不可侵的な存在という観念とこの世は実在するという観念の最終的な自己の存在性の抵抗に阻まれてしまったようです。当の本人は、それに最後まで気づかなかったと感じます。 

 とりあえず、その事は差し置いても自己の脱落は空(くう)に至る過程では避けては通れない必須の道程です。私はイエス様は空(くう)にまで達することが出来た方であると思っていますが、西洋社会で生きる現代のキリスト教徒が自らが神としてあることに抵抗を持つ限り空(くう)を直接知ることは難しいかもしれません。これを乗り越えるヒントとして、自らが神としてある、または自らが神になると考えるのではなく、自らを神の内に溶け込ませるというように考えれば少しは抵抗が無くなるかもしれません。キリスト教徒に限らず仏教徒であっても、或いは他の何らかの宗教を信仰している場合でも自分と神仏を分離させ外に神や仏があると思っている間、何よりも世界は実在であると考えている間は自らが空(くう)としてあることを体験するのは困難かもしれません。

 悟りの道程の初期段階では、自分と世界はつながっているという感覚であるワンネスを感じたり、万事順調な感覚を感じ引き寄せの法則などがあると錯覚したりします。そして、そのようなワンネスなどを感じる際には言いようのない幸福感を味わったりします。しかし、それは空(くう)に至る行程では第一関門のようなものでしかありません。禅の世界で言われる魔境のようなものです。求道者としては初歩の段階です。またロバーツさんが体験した自己の脱落及び生きることに対する生の活力感の喪失、つまり自己の主体性が消失し自分を含めた周囲のものに生命感や躍動感が感じられなくなったりすることや、さらに進んで自己と他者への認識作用が停止又はそれに近い状態になり境界がなくなって現象世界内の主客が合一して、あたかも全てが一つのものとしてあるかのような体験も最終段階に近いとは言えますが、まだ8合目あたりなのです。

 ロバーツさんは多少なりとも観想生活を続けていたようですが、どちらにせよロバーツさんにしてもルーシルさんにしても修行と言えるような厳しい精神鍛錬をしていたわけではないようです。二人とも精神的な葛藤を抱えながらも自然とそうなっていった印象を受けます。この事からも極端を排して自然の成り行きに任せるといった心持ちが大切ではないかと思います。だからといって、難行苦行が性分として好きな人やその過程が通らなければならない道のりとして予め設定されている人もいるでしょうから難行苦行を必ずしも否定はしません。やりたい人はやればいいと思います。

 私は原稿を書き出す前に参考にしようとマイクロソフトエッジのCopilot ( コパイロット)にロバーツさんの著書「自己喪失の体験」にはどのようなことが書かれていますかと尋ねてみました。その時の質問に対しCopilot( コパイロット)が答えてくれた内容の一部を要点をまとめてご紹介します。「この本はロバーツさんの初期の精神的体験と裸足カルメル会修道女としての旅から始まります。彼女は伝統的なキリスト教の自己喪失の枠組みについては、一般的に低い自己である自我が神との結合において、より高い真の自己に到達する際の変容または喪失とみなされていると説明します。しかし、ロバーツさんの旅では、キリスト教の伝統的な枠組みを超えた自己が全く存在しない状態へと彼女を導きました。ロバーツさんは、この無我の境地は、思索的な観想や魂が神との合一の状態に確立することとは違うと説明します。むしろ、合一を超え、自己と神を超え、未知の静寂の領域への旅なのです。彼女は、自分の体験は思索的な観想に属するものではなく、むしろ伝統的な瞑想から始まる旅に属していることを強調しています。」

 私は、このCopilot( コパイロット)の返答については質問した著作物に対して世界中の人が言及した文章の主要な点を抽出しまとめたものであると思いますが、コンピュータにしては上出来です。基本的に、この答えに異論はありません。まさに頭で考える自己や神といった、あらゆる概念を超えて静寂そのものになること、つまり空(くう)としてただ在ることだけが真理なのです。それ以外の空(くう)の悟りはありません。そこに至る過程において、ロバーツさんも体験したであろう私という主体性の消失や認識作用の停止又はそれに近い状態で自己の内外面で起こる出来事を一体として見ている意識状態を体験することがあるのです。頭を使って概念で真理を捉えようとしている時点で方向性がずれています。

 自他の区別のない非相対的な状態は無自己の中にあります。この非相対的な知を人に伝えるためには、仕方がないことですが言語を駆使するという相対的な知を持たなければなりません。しかしながら、この無自己自体があまりにも知的理解を超えているために、いかに巧みな話し方で言葉を並べ立てたところで十中八九ほとんどの人には理解されないのです。

 ロバーツさんは、著書の終わり近くになって神と自己との合一を超えて、自分や神が何者かということも消えて、「それ」だけが残ることに言及し、この合一を超えた段階について触れている歴史上の唯一の神秘家としてマイスター・エックハルトの名を挙げています。エックハルトは合一を超えた段階を神の主体への突入と呼んで、「神や真理の観念を超えたところに突入し、真と善との根源、全てのものの原初の原初に達する。」と言ったことが書かれています。

 ロバーツさんは神との合一でさえも最終的なものではないと言います。そこに「自己に基ずく感情や知見が残っているうちは、まだ最後的なものではないので、合一に伴う愛と平安と活力を捨てることになっても、これを超えて行かなければならないのです。」(175ページ)と言っています。私も全くもって同感です。「何を知りうるか」「何をなすべきか」「何を望んでよいか」という知情意に対する 問いは 、他の哲学的思想も含めてこの世があってこそ成り立つ問いであって相対があるからこそ問えるものです。絶対主体の中では、いかなる問いも生じません。なぜなら、ロバーツさんが言う不可知なものに到達するには人としての意識を完全に捨て去らなければならないからです。人としての意識でいる限り、その人にとっては生涯不可知なものでしかないのです。

 ロバーツさんは神と自己との同一化はあり得ないことと言っています。それはそうです。無自己となり主客が一体となって見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるもの、話す者と話されるものが一つなってしまえば、つまり自分の体と周囲の見えている世界との間で分離の感覚が消え一つの映像になってしまえば、そこには崇める対象の神もなければ、その神を崇める人もいないことになります。後に残るのは、一つの視野だけだからです。だからロバーツさんは自己を認識できない以上、自己と神との同一化は無いというのです。しかしながら、その一方で自分が神の一部で無くなったわけでもないと言うのです。

 これについては少なくとも空(くう)の教えに触れていれば良かったのにと私は思うのですが、いかんせん学習面での空(くう)にも達していなので、まだそこに最後に残る相対し合うものがあることを理解していないように思えます。そうは言っても神と自己との合一を超えた「それ」について言及していることから、多分本当はロバーツさんも気がついているはずだと思うのですが、ロバーツさんには見過ごしている点があります。それは、前の方で触れた、その自己が消失した後に残った一つの視野を見ている者は一体全体何者なのかという点です。おそらくロバーツさんは、その一つになった視野を見ている存在とこの世におけるバーナデット・ロバーツという人間の中にある意識を一緒のものとしたくなかったのではないでしょうか。あくまでも自分の意識は被造物という立場に置きたかったのではないかと思います。その考えに根付いた元修道女らしい神に対する謙虚な姿勢が空(くう)に至る障害になったのかもしれません。

 ロバーツさんは、「世界とその中の個々の事物は実在する」(86ページ )と思っていることをはっきりと書いています。このことから、この本を読む限りではロバーツさんは完全に自己が脱落し主体と客体の区別がなくなり世界を一つなるものと見ることが出来る無我の境地に達したものの空(くう)の段階までは至らなかったことが分かります。もしロバーツさんが真我の空(くう)の段階にまで達していれば考え方も変わったでしょうが、たとえ無我の境地に達した人であっても、それだけこの世の実在性を払拭するのは難しいということを物語っているのではないでしょうか。視聴者の方で実際に空(くう)の段階まで進みたいと思うのであれば、やはり人と神仏を区別しようとする考えを含めた一切の自他の区別の否定のみならず、この世の存在も含めた存在性そのものを否定をする必要があると思います。難しいことかもしれませんが、この世への執着を捨てた先には誰でも空(くう)を体験できるようになると私は思っていることから熱意を持って取り組んでいただけたらと思います。本当は空(くう)のほうが実在で虚構のこの世が体験の対象ですから、空(くう)が体験の対象になるような言い方は本来おかしいのですが、この世を基準にすれば空(くう)を体験するという言い方になるのは致し方ないと思います。

 繰り返しになるかもしれませんが、執着から離れる方法として通常の普通の生活を捨てる必要はありません。あくまでも物欲やこの世のものへの執着を捨てることが大事なのですから、山にこもって仙人のような生活をする必要はないのです。ただ、通常の普通の生活を送っていても空(くう)へ至る過程においては、経験上、精神的にも肉体的にも相当に苦しい時期を通らなければいけないと思うのでそれについては覚悟を要するかもしれません。空(くう)への階梯を上がるにつれ感情面の起伏は少なくなり、世の中への興味関心はほとんどなくなってきます。ロバーツさんが言う心の中の虚無性にも耐えなければなりません。むしろ何もない人里離れた環境での修行より、それまでの社会生活を続けた中での修行の方がより苦しさを感じるかもしれません。外面的には通常の社会生活の中でありながら、内面的には何も求めない生き方は心身両面において相当な苦行になるはずです。ちなみに私は新聞もテレビもない生活をしています。

 より論理的に専門的にロバーツさんが考える神人合一に向かう意識の変容をより細かく区切って理路整然と各段階の精神状態を詳しく知りたいとお思いの方は日本教文社から出版されている「神はいずこに』を読まれることをお勧めします。この本はロバーツさんが自身の同じ体験をさらに詳細に分析されたことが書かれていますが、さすが様々な経験を積んでこられた学識ある博学卓識な方だけあって沈着冷静な眼差しに基づいて行われた自己内観には確かなものを感じます。この動画をあげた時点では、ざっと目を通しただけの斜め読みですが、一連の体験内容を6段階に分けてかなり事細かく説明をされています。「自己喪失の体験」のほうは入門書的な感じで自分の生い立ちや子育てをしている中での精神的変容を人生の流れに沿って説明しているのに対し、「神はいずこに」のほうは、精神的変容の中身に焦点を絞って変化内容に応じて仕分けして順序立ててより具体的に、その変化した認識には、どのような意味を見出さるのかをロバーツさんなりの解釈をあくまでも信仰深いキリスト教徒らしい視点から試みています。彼女の生い立ち自体がキリスト教と切っても切れない関係であることから、どうしてもキリスト教的視点になるのは仕方がないことだと思いますが、そこは割り切っていただくしかありません。その点を除いてもより高度性を増した読み応えのある専門書的構成になっているので読んで損はないと思います。両方読めば尚良いかもしれません。

 ただ本当に惜しいのはロバーツさんが仏教の無我の境地を理解するところまで行っているのに、そこを超えた空(くう)があることに気づかなかったのは私としても痛恨の極みに思えます。ロバーツさんとしては自分というものがなくなり主客の違いも消えて目に映るものが一体として見える見え方そのものが、旧約聖書出エジプト記314節に神の名前として書かれている「ある」と同じものであると思い、そこに神が臨在していると感じて、それと同化することが神との合一と考えたのかもしれません。確かにロバーツさんが純粋主体と名付けた全てを一体として見ているその視野こそが神の視野であることに間違いはありません。従って、ロバーツさん自体が神の道具として神の視野として存在していることに変わりはないことなので、そこに神が臨在していると感じたのは当然でありもっともなことだと思います。しかしながら、そうであるなら更に一歩も二歩も俯瞰してロバーツさんを通して、その視野を見ているものは一体何なのかということをもっと深く追究していただきたかったと思います。ロバーツさんが5歳の時から40年ほどかけて認識が変容していく過程での内外面で感じた現象世界全体が相変わらず、まだ見られる対象だからです。つまり、自己が消失し世界を一なるものとして見る見え方そのものに同化することも、まだ見られる対象で主客は分離している状態なのです。悟りとは、この世を徹底的に俯瞰したうえで没入し相対する見え方を一つずつ剥いでいくことなのです。だから、本当の意味で主体も客体もないところを知るためには空(くう)の領域まで達しなければいけないのです。絶対主体と言えるところまで達する必要があるのです。ロバーツさんの場合、最後の最後まで、それは不可知のものとして不可侵のものとして到達してはいけないものとして考えていて、そこに自ら至ることに抵抗があったのだろうと思います。あと、もうちょっと仏教を深く学べば空(くう)という教えがあることにも気づいて、自身の深奥にある真我に至ることに対して抵抗する自我の最後の壁とも言える存在性という壁を乗り越えて聖書に示される本当の意味での絶対主体としての「ある」に至ることが出来たかもしれないと思うと残念に思えてなりません。ですが、それも今となっては致し方のないことです。結局、ロバーツさん自身には何の責任もなく最初からそういう人生として物語が設定されていたというだけのことなのです。今はロバーツさんも絶対主体としての「ある」として至福の中にあることでしょう。

 なんにせよ。ロバーツさんは少なくとも8合目あたりまでは到達したわけですからキリスト教徒の方でも空(くう)に至る可能性は十分あるわけです。そのロバーツさんが自身の体験から得た宗教の違いにこだわることなく宗教間で協力したほうが良いという教訓は大変貴重です。元修道女で熱心なカトリック信者の方の発言でもあることから軽視するわけにはいかないはずです。キリスト教にはキリスト教独自の神秘神学があるようですが、それはそれとして同時に並行して他宗教も学んでいくことも大切なのではないかと思います。 

 真理においては世界中の大昔からある宗教の間には貴賤上下や優劣高低の違いはありません。ですから私は一つの宗教にこだわることなく複数の宗教の教えを学ぶ必要性を強調するのです。その点において私は日本人は恵まれていると思います。世界中の宗教を自宅にいながら日本語で学べる環境があるのですから、その事は日本人の真理の求道者には大変有利ではないかと思います。私としては、その有利さを大いに活用しながら今以上に学びを深め絶対主体としての空(くう)の真理を究めていきたいと思います。

 随分長くなってしまいましたが、それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

鷲巣山文殊堂の三十三観音様です。

 先日数年ぶりにお参りに行ってきました。そこで三十三観音様をここでご紹介しようと思います。

 文殊堂の三十三観音は平成14年(2002)の文殊堂開山四百年を迎えるにあたり信仰篤い「奥田建設」社長の奥田和男氏が建立を計画し多くの人の協力により完成したとのことです。

 石仏は奥田和男氏からの依頼を受けた今は亡き石仏師の嶺岸信氏が2年の歳月をかけて製作されたとのことで、一体製作されるごとに滝で身を清め全身全霊を打ち込み製作されたお話しが残っているそうです。

 だから文殊堂でお祀りされている神様や仏様には魂が宿り、それを心から信じる者にはご利益があるのかもしれません。

 私にとっては、この世は空(くう)であり、全ては幻想であるのですが、それを言ってしまっては、この世は味気なくなってしまい日本の大事な伝統や文化は守れなくなってしまいますから、やはり偶像であっても手を合わせそれを貴ぶ心を持ち続ける精神は大切であると思います。

 しかしながら、何と言いましょうか、全ては空(くう)の現われであり、私も空(くう)の現われである以上、私にとっては自分自身を拝んでいることになります。

 ところで石仏は石仏で素晴らしいのですが、読者の方には看板の説明書きのほうにも目を通していただけたらと思います。人間には本当に沢山の悩みや苦しみ、望みがあるもんだなと率直に感じます。それに対応すべく人は色々な観音様を考え出したのかなと私は思いました。

 

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

     

    

    

     

    

       

    

      

    

    

     

    

    

    

    

    

    

 

 文殊堂入り口です。

    

 階段は左に曲がって108段ありました。

 

 社務所です。お札やお守りが買えます。

 

 この時お守り二つと御朱印を買いました。私はこうゆうのはあまり持ち歩かないので買ったものは机の引き出しの中です。この写真と料金表は念のために持っていった10年前の古いデジカメで撮ったものです。画質が悪くてすいません。やはりスマフォの方が画質がいいです。

 

 料金表です。

 

 三十三観音様が整然と並んでいます。境内は木々に囲まれとても静かです。

 

 参道です。

 

 西国三十三所観世音菩薩建立碑

 

 山門というのでしょうか。建物の名称がよく分かりません。

 

 山門の中には奉納された巨大なうさぎの置物がありました。おみくじは100円でした。

 

 うさぎの図柄のステンドグラスや鬼瓦の一種だと思いますがお堂の屋根の先代波うさぎが飾られていました。

 

 お堂に向かって右側にある境内社です。右が天満宮、左が竹駒神社です。

 

 伊達政宗公は卯年生まれとのことです。お堂も慶長8年(1603)の卯年に開かれ卯年生まれの守り本尊として知られているとのことです。

 

 文殊菩薩様は、釈迦牟尼世尊の左に座して知恵を司り明らかに仏性を見て、法身、般若、解脱の三徳を具足し不可思議微妙な功徳を施す仏様とのことです。

 

 右下の細長い板には文殊菩薩様のご真言「おん あらわしゃのう そわか」と書かれていました

 

 お堂の手前の左奥には誰のかは分かりませんが古そうな自然石のお墓がありました。

 

 お堂の瓦屋根にうさぎが逆立ちしている装飾瓦があります。この装飾瓦は波うさぎと呼ばれ、どうやら波に見立てた瓦を渡るうさぎを表現しているようです。何でも、うさぎは月と関係が深いようで中国の陰陽五行説では、火は太陽、月は水を表しているそうです。そこから、うさぎは水とゆかりのある動物とされ、屋根に上げて火伏せを願ったとのことです。

 うさぎが、逆立ちしている姿に「うだつ」を重ね、「うだつが上がる」の願いを込められているとの説もあります。へーという感じで面白いです。

 

 お堂に向かって左側にあります。右は延命地蔵様です。左は、たぶん白木観音様と白水観音様を合わせた観音菩薩様ではないかと思います。下にお名前の拡大写真を載せておきます。

 この時はじめて変わった漢字であることに気がつきました。上から二番目の漢字が水と木を合わせた表記をしているのではないでしょうか。だから、合堂なのではないかと思いました。次にお参りに行った時に訊いてみます。

 車で行かれる方はこちらが駐車場へ入るための通り道になります。

 

 仙台駅からバスで二十数分くらいで行けます。2024年10月現在の仙台駅からのバス料金は280円ほどのようです。お近くを通られた際にはお参りしてみてはいかがでしょうか。

 

 余談ですが、龍頭観音様の龍神様の角の根元の修繕されたところをよく見ると補修材が劣化してヒビが入っています。社務所にその事を訊いてみると修繕を考えているとのお話しでしたので、それなら些少なりとも修繕費用の足しにしてもらおうと思い2万円ほどお布施をいたしました。
















  

   

悟って不死となれ 閻魔大王は悟り人‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

youtu.be

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で31回目になりますが、原稿が長くなってしまったことからなくてもいいようないつもの前置きを省略して早速本題に入ろうと思います。今回の動画では、私が読んだヒンズー教聖典の一つであるウパニシャドの中の「カタ=ウパニシャド」についてお話ししていこうと思います。その「カタ=ウパニシャド」が書かれている私が動画の題材にしようと思い読んだ本はちくま学芸文庫から出ている岩本裕(ゆたか)さん編訳の「原典訳ウパニシャド」です。

 その本の巻末にある編訳者の岩本さんの解説やウィキペディアなどに書かれていることを参考にして説明をするとウパニシャドといわれるものは紀元前78世紀頃から紀元後16世紀頃までのインドに興った諸宗教の中で成立した約200以上ある一群の神学書、宗教哲学書の総称とのことです。

 それらの多くの宗教書が成立していったインドの歴史的背景には、まず黒い肌の色と黒い縮毛が特徴のドラヴィタ語を話すドラヴィタ人が築いたとされるインダス文明が起こり、その後、紀元前1500年前後頃に現在のパキスタンがあるインド北西部から侵入した白色系で身長と鼻が高いのが特徴のインド・ヨーロッパ語系のアーリア人諸部族が先住民と混血をしながら数百年かけてガンジス川流域へと支配を拡大し隆盛を誇るようになりました。その中でアーリア人の自然崇拝的な多神教信仰からくるヴェーダと呼ばれる一連の宗教文書群が成立していったのではないかと考えられているようです。以前の動画で取り上げたヒンズー教聖典の一つであるバガヴァット・ギーターに登場するクル族というのはインド・アーリア人の一部族同士であったバラタ族と先住民のプール族が混血したことにより生まれた人たちのようです。はっきりしていないものの気候の寒冷化が移動を始めた原因と考えられているようで、もともと中央アジアにいた牧畜民であり戦闘に長けていたアーリア人諸部族がインド北西部から侵入した後、主に五つの部族が互いに激しい勢力争いを繰り返しながら非アーリア系の先住民たちを武力で征服し吸収し混血しつつインドの支配を東へと広めていったとのことです。この辺りは複数のアーリア系・非アーリア系の部族が多数入り組んでいるので私にはよく分かりませんが、単純に日本に当てはめるならば戦国時代の覇権争いと考えればいいのかなと思いました。なんにせよ、ウィキペディアのインド・アーリア人の欄の中ほどに「バラタ族とプール族とは次第に連携し、連合してクル族という部族を形成した。クル族はさらにパンチャーラ族とも連合して、ガンジス川上流域を制覇した」と書かれています。

 以上の、そういったインド北部での支配権を巡っての人種間部族間闘争の歴史が背景にあったうえでインド・アーリア人インド亜大陸の北西部から拡大を始めた紀元前1500年頃から紀元前1000年頃までを前期、インド・アーリア人の諸部族の中で有力部族としての地位を獲得したバラタ族がガンジス川流域へと移動し広まりだした紀元前1000年頃から紀元前500年頃までを後期に分け、それぞれ前期ヴェーダ時代・後期ヴェーダ時代と呼んでいます。その紀元前1000年頃から紀元前500年頃までの後期ヴェーダ時代の紀元前8世紀あたりからウパニシャドは作られていったのではないかと考えられているようです。そして、成立した年代順に古い時代に属するものを古ウパニシャド、古ウパニシャドより後に成立したものを新ウパニシャドというように分けられて分類されています。

 次は、今回お話しする「カタ=ウパニシャド」が載っている「原典訳ウパニシャド」には他にどのようなウパニシャドが記載さているのか、またその成立した時期はいつ頃なのかをお話しします。「原典訳ウパニシャド」に載せられているウパニシャドは古ウパニシャッドに分類されているもので全訳の「カタ=ウパニシャド」を含め全部で五つです。抄訳(しょうやく)の「カウシータキ=ウパニシャド」全訳の「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」抄訳の「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」全訳の「プラシュナ=ウパニシャド」です。年代としては紀元前600年頃から紀元前300年頃と考えれば大過は犯さないと巻末の解説で編訳者の岩本さんは仰っていますが、その一方で「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」と「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」は仏教興起よりも古い成立であることは学者の間においてほとんど異論がないとも仰っています。「カタ=ウパニシャド」も紀元前45世紀頃よりも古いとされています。そしてウパニシャド文献の最古の部分は紀元前8世紀まで遡ることが出来るものもあるかと思うとも書いています。そうなると紀元前8世紀は紀元前701年から紀元前800年までのことですし、紀元前4世紀は紀元前301年から紀元前400年までを指しますので、今年は2024年ですから岩本さんの説に従えば、この本に書かれている内容は古い部分では最大2824年も前に人間が既に考えていた思想であり、新しい部分でも2325年くらい前の思想と言えるのではないかと思います。

 ウィキペディアの英語版で見てみると「カウシータキ=ウパニシャド」は紀元前800年頃のものとする説が書かれていますし、「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」では紀元前800年から紀元前600年までのものとする説が書かれています。「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」では紀元前900年から紀元前600年までの幅のある説があること示しています。このことから今挙げた三つは仏教が成立する何百年も前に既に成立していた可能性があります。「カタ=ウパニシャド」ついても年代測定が難しいようで一般的には紀元前5世紀から紀元前1世紀の間とされているようです。「プラシュナ=ウパニシャド」は、おそらく紀元前4世紀初頭頃に出現したのではないかとする説があるようです。

 要するに諸説様々ではあるものの今から二千数百年以上も前の紀元前に書かれたものであろうというところでは一致しているようです。私などは、この数字を見ただけで、そんな大昔からこんなにも深遠なことを考えていたのかと人間の偉大さを感じてしまいます。いずれにしても。それらの年代は書物として成立した時期の事ですから実際にそういった思想が生まれたのは、その年代よりもさらに遡ることが出来るのではないかと思います。それはいつの事なのか想像することも出来ないほどのはるかなる遠い昔のことと言うことが出来るのではないでしょうか。

 ところでウパニシャドという名称の意味なのですが岩本さんによると専門家の間での一致はないそうです。一般的にサンスクリット語の「近くに座る」という語根に由来し、それは弟子が師匠の近くに座り教えが伝授されることからきているのではないかと考えれているようです。それが転じて秘密の教義が書かれた神聖な文献名の総称になったと理解されているそうです。ウィキペディアには一般に奥義書と訳されると書かれています。以上がウパニシャドに関する概説になりますが、まさにウパニシャドには人類の真理を追い求める智の歴史が刻み込まれていると言えるのではないかと思います。

 それではようやく、ここから私が今理解している範囲の中で今回取り上げる本の中の「カタ=ウパニシャド」にはどのようなことが書かれているのかをお話ししていこうと思いますが、中身の話しに入る前になぜこの「カタ=ウパニシャド」を取り上げようと思ったかを申し上げますと「原典訳ウパニシャド」に載せられている五つのウパニシャドの中で全訳されているものであるということと全訳されている三つのウパニシャドの中では一番分かりやすいものではないかと思ったからです。書かれていることは簡単に言えば真の自己であるアートマンと真理を悟り解脱することによって得られる人間の本質に関する智識についてです。

 では、私の解釈と共に内容の説明を始めますが、お断りしておきたいことが一つあります。私は学者ではありませんので難しい学術的なことは一切分かりません。学問的な解説を期待されても、その期待に応えることは出来ません。私が言えるのは、あくまでも真我の直接体験をした者として理解した中での解釈をお話しするだけのことです。そのことを承知の上でお聞き下さるようお願い申し上げます。

 最初にその第1章の冒頭でウパニシャドの学問に優れたウシャトの子の才知あふれるナチケータスが確かな年齢は分かりませんが未だ幼児であるにもかかわらず父親によって死の神ヤマへの生贄にされてしまいヤマが住まう邸宅に到着したところから始まります。これを読んで物語の出だしからウシャトは何てひどい親と感じた人もいるでしょうが、しかしながら、この生贄はナチケータス自身が父親のために望んだことを否定できません。なぜなら第1章の3節と4節にナチケータスが熱望する考えとして次のような事が書かれているからです。

 第13節「乳を搾られつくし仔を生む力もなくなり、ただ水を飲み。草を食らうだけの牝牛でも、それを喜捨する人の行く諸世界は『歓喜』と名付けられる。」

 第14節「そこで、彼は父に『父上、あなたは私を誰に贈るのですか』と語った。そして二度、三度、このように訊ねた。父は彼に『死の神に贈るのだ』と語った。」

 ナチケータスは、年老いた牛を生贄にして歓喜の世界に行けるなら、なおさら、まだ年若い自分を死の神に捧げ物として差し出せばウパニシャドの学匠として名高い父親は必ず歓喜の世界に行けるのではないかと思い自ら生贄になることを望んだのではないかと思います。つまり、現代日本の価値観には合いませんが当時の価値観としては、ナチケータスは大変な親孝行をしたと言えるのではないかと思います。

 ところで3節の「歓喜」の部分は本来は『無歓喜』であったようです。巻末の注釈に『原文アナンダ「無歓喜」では意味をなさないので、アーナンダ「歓喜」に改める。』とあります。どうやら編訳者の方は、喜捨する人の行く諸世界が「無歓喜」なところではいけないと考えたようです。私は、原文が「無歓喜」で間違いないというのなら原文通りに訳すべきだったと思います。既に亡くなられた故人の名誉を傷つけるような真似をしたくはないのですが、これに対してははっきり言わなければならないと思います。かりそめにも原典訳という文言をタイトルに加えるなら聖典を勝手に書き換える行為はあってはならないことだと思います。そこには神の言葉や真理が書かれているからです。聖典に書かれている文言に対する読み手の解釈自体は、いいの悪いの、これはおかしいなど、十人十色で人それぞれあって良いと思います。しかしながら、聖典の内容をみだりに書き換えることはしてはならないと思います。聖典は深遠なものです。無歓喜とあるのは無歓喜としている理由があるからだと思います。それにもかかわらず本来の無歓喜歓喜にしてしまうと完全に正反対の意味になってしまいます。ですから、もうちょっと慎重に判断してほしかったと思います。

 ヨハネの黙示録22章の1819節に次のようなことが書かれています。

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」

 聖書にこのように厳しいことが書かれているのは、聖書に書かれていることは真理と一体であるが故に神聖であり不可侵なものだからです。これは聖書に限らず他の宗教の経典や聖典にも同じことが言えます。いかなる宗教の聖典であろうと当の執筆者以外の人が勝手に本来の意味を否定することになるような書き換えをしてはいけないと私は思います。いわんや紀元前に書かれたバラモン教徒やヒンズー教徒の方たちが信じ守り続けた聖典を正反対の意味に書き換えるなど私はあってはならない行為ではないかと心底思います。

 従って何人であろうとも、いかなる聖典に対してもヨハネの黙示録同様に加筆したり削ったりすることがないように肝に銘じていただきたいと思います。原典訳という以上は原文通りに訳したうえで、私はこう思うと自分なりの解釈を入れるなりなんなりして説明文を付け加えれば良いだけだと思います。

 これまで私の動画を見てきた人なら真我の世界、つまり空(くう)の世界がどういうところかおぼろげながらも分かってきているのではないかと思います。死んだ後の世界とは空(くう)の世界のことです。もっと正確に言うならば生まれる前も空(くう)であり、生きている間も空(くう)であり、死んだ後も空(くう)です。空(くう)は生も死も超越しているようで、そのままでも空(くう)と言えます。生も死も空(くう)より生じます。生死は幻想です。私やあなた、他の誰であろうとも空(くう)なのです。人は生まれもしなければ死にもしません。ただ、空(くう)の中で生死という幻想の物語が生じているだけに過ぎません。人は永遠の命として常にあり続ける存在です。そこには元来、生もなければ死もないのです。いつも言っているように、ただ在る存在として在り続けるだけなのです。だから無歓喜なのです。歓喜などというものがあるとする考えは、あくまでもこの世の中の幻想の物語に過ぎません。この世のどこか、或いは、あの世のどこかに喜捨する人の行く諸世界として歓喜の世界があるなどと考えるのは完全な間違いです。喜捨の有無にかかわらず死んだ人は必ず歓喜があるとか無いとかといった概念が一切なく考えることすら出来ない世界に行くことになります。だから無歓喜なのです。ただの空(くう)に戻るだけです。それではつまらないと思う人がいるかもしれませんが、大丈夫です。安心してください。すべての根源として、ただ在る存在として永久(とわ)の命として在り続けることが出来るのですから、これ以上の至福が他にあるでしょうか。そういう意味では、人によっては、それを歓喜と感じるかもしれません。私やあなた、ペットも含め愛する家族、友人知人親族一同、宇宙の中のあらゆる存在は、いかに姿かたちが変わろうとも一見すると死んだように見えようとも火葬され灰になろうとも空(くう)として永遠にあり続けるのです。これこそ本当の幸せと言えるのではないでしょうか。まさしく歓喜と言えます。そこまで分かったうえで編訳者が無歓喜歓喜と書き換えたのなら、そのように説明書きを付け加えるべきでした。編訳者は既に亡くなられている方ですが、今は永遠の命として、ただの空(くう)として在り続けていることでしょう。

 話しを本筋に戻します。ところで生贄にされたナチケータスですが、死の神の邸宅に到着はしたものの、あいにく死の神ヤマは不在でナチケータスは三夜ほどヤマに会うことが出来ず待たされることになります。紀元前の司祭階級であるバラモンは相当な特権階級のようで死の神でさえもバラモンによる怒りと呪いは恐れるようです。三日間も何のもてなしもせずに待たせてしまったナチケータスの怒りを買い呪われないようにするために死の神ヤマは償いとしてナチケータスに恩典を与え三つの望みを叶えることを申し出ます。

 そこでナチケータスが一番目に望んだ恩典は何かというと、喜んで迎えてくれる父親のもとに生き返って帰ることでした。二番目は飢えも渇きもなく不死となれる天国に行くための火の儀式についての説明を受けることでした。三番目は人の死後についてです。死んだあと人はどうなるのか。死後も人は存在しているのか、それとも存在しなくなるのかという疑問に死の神ヤマが答えることを望みました。

 一番目と二番目の望みは人間らしく分かりやすい願いです。あの世で死の神に対面することになった人間なら誰でも叶えられるのなら叶えてほしい願いと言えるのではないでしょうか。三番目については少し首をかしげたくなる願いです。なぜなら文中には生贄にされた際の経過の詳細が書かれていないので推測するしかないのですが、ナチケータスは父親によって生贄にされて多分すでに死んでいるからこそ死の神に会うことが出来た訳なのでしょうから、死者として既に存在しているナチケータスが死んだ後の存在の有無を尋ねるのもおかしな話しです。多分、死んで不安に駆られて今後におけるあの世での行く末を心配しての質問だったのではないかと思います。ところが、それに対するヤマの話す内容は広く一般に知られている通俗的なものではありませんでした。三途の川を渡った後、生前の行いで地獄か極楽かに振り分けられるという単純な話しではありません。もっと深い本質的で根源的な宇宙の根本原理をヤマは語り始めるのです。このカタ・ウパニシャドに登場する死の神ヤマには地獄の閻魔大王といった広く日本で知れ渡っている世俗的な仏教的要素があまり感じられません。この事からも物語の起源は相当古いと思いました。

 さて、ナチケータスの三つの望みを聞いた死の神ですが、一番目と二番目の願いについては難なく叶えることにします。しかしながら、三番目の願いについては神々でさえも疑問を抱いたことであり理解するのは難しいこととして最初は拒絶し、その代わりのものとして富や長寿、天界の美女といった欲望の限りを望むように求め、死については訊ねてはならぬと突っぱねます。これを聞いたナチケータスは、まだ年若いにもかかわらず老成し達観したのような物言いで次のように返します。人は富や長寿、性愛の喜びで満足することはなく、まして死の神が支配する限り長寿を得てもいずれは死ぬことから、それらのものは一時的なものではかなく、むしろ欲望への囚われは体を消耗させ寿命を縮めることになると言い切ります。さらに驚くことにナチケータスは潔(いさぎよ)く、一番目と二番目の恩典を断り、この三番目の恩典だけを望みます。

 この見事な高論卓説に感嘆した死の神ヤマはナチケータスの識見ならば人知の及ばぬ奥義でさえも理解できると判断したのか本当の意味での人の賢愚の差がどこにあるのかを説き出します。

 第2章1節「一方に精神的な幸福があり、他方に肉体的な快楽がある。両者は目的を異にするが人間を束縛する。それらの中で精神的な幸福を取る者は善いことであり、肉体的な快楽を選ぶ者は人生の目的を失う。」

 第2章2節「精神的な幸福と肉体的な快楽とは、いずれも人間に近づく。賢者は両者を審(つまび)らかに吟味して両者の差別を判断する。実に賢人は肉体的快楽よりも精神的な幸福を選び、愚者は心の平安よりも肉体的な快楽を選ぶ。」

 死の神ヤマは愛欲と物欲を拒絶し智識を選んだナチケータスを称賛し愛児と呼んで、更に続けて賢者と愚者の違いを語ります。

 第2章5節「無智の中に生活をして、自ら賢者をもって任じ学識ありと考える愚者は、あたかも盲人に道案内される盲人さながらに、あちらこちらを走りまわるのだ。」

 第2章6節「財産の妄想に取り憑かれて派手に振る舞う放埓な愚か者には、大変遷(死)は理解されない。『この世界のみあって、かの世界なし』と考えて、そのような男は再三わが支配下に入る。」 

 第2章7章「多くの人々にとって聴くことさえ不可能なもの、たとい聴いたとしても多くの人々の知りえないもの、それを語る人はまれであり、それを得る人はまことに賢者である。賢者に教えられて、それを知る人、またまれである。」

 死の神ヤマは賢者になるための資格がある者として、愛欲の満足や人が熱望する華やかなもの、宗教的儀礼をすることで得ようと望むご利益、憂えのない天国への道、世俗の人を魅了する魅力的なものすべてを放棄した者としてナチケータスを承認します。

 さらに、死の神ヤマは賢者の心の持ちようも説きます。

 第212節「暗闇に入り込んでひそかに隠れ、太古以来深淵にひそんで姿の見がたい者を、賢者は自我に関する心の統一を達成することによって、神と認め喜びと悲しみの二者を捨てる。」

 死の神ヤマは、これらの事が出来るナチケータスこそ至高の存在であるブラフマンアートマンを知るに値する賢者に相応しい者として容認します。

 しかし、ナチケータスは自分を高く評価し称賛してくれるヤマの言葉に少しも浮かれたところを見せることなく次のように死の神に懇願します。 

 第214節「正義とも異なり、不正とも異なり、為されたこと、為されないこととも異なり、また過去とも未来とも異なると、あなたが見るもの、それを語っていただきたい。」

 ナチケータスは相対を超越する宇宙の根本原理についての教えをヤマに求めます。

 ヤマは、それに呼応するかの如く答えます。

 第217節「それは最も勝れた支柱であり、それは最高の支柱である。この支柱を知るとき、人はブラフマンの世界において栄光を享受する。」

 第218節「この知者は生まれることなく、また死ぬことなし。彼はいずこより来ることなく、如何なるものにもなることはない。この古昔(こせき)以来のものは生まれず、無窮で永遠である。たとい肉身は殺されても殺されることはない。」

 カタ・ウパニシャドは万古(ばんこ)の歴史を持つ聖典です。当たり前ですが、まさに、このカタ・ウパニシャドは真理の塊です。全編一言一句見落とすことは出来ません。21ページほどの短い文章ですが二千数百年以上の長い歴史の中を耐え抜いてきただけのことはあります。短い文章であるからこそ真理の真髄がぎっしりと凝縮して詰まっていると言えるのではないでしょうか。

 おおむね頭のいい人は悟りについても思量をつくせば理解が可能と考えているのではないかと思います。しかし、それは大間違いです。考えて得られる知識なら今頃世界のほとんどの人が悟りを得ているはずです。そうなっていないということは考えてどうにかできる代物ではないという証拠です。私は過去動画でも言ったと思いますが、その頭で理解しようとする考え自体を捨てる必要があるのです。悟るために必要なことは知識や知力ではないからです。知識だけならコンピューターはとうの昔に悟っています。思惟することが大切なら偉大な哲学者や科学者も同様に悟っていいはずです。昨今はAIが進歩していますから知識と思惟の両方が出来るAIならば遅かれ早かれAIが悟りを得ることになるだろうと思う人もいるかもしれません。しかし、それも無理というものです。 なぜなら無でありながら、何かがそこに「ある」という始原まで遡らなければいけないからです。今のところ私は近現代の哲学者や科学者の中から空(くう)を悟った人が現れたという話しを聞いたことがありませんし、AIコンピューターが悟った話しも聞いたことがありません。そういう話しが出ていない以上、やはり方向性が違うのは明白です。加えて、何か特定の経典や聖典だけを読んでいれば良いというような思い込みも捨てなければなりません。この経典やこの聖典だけが正しいと言って分別を持つことさえも障害になることを理解することが大切です。

 誤解を恐れずあえて誰にでも分かりやすく説明するならば、悟りとは人ではないものになることです。人ではないものになった後で人として戻ってきて、自分は人ではないものであったことを知ることです。悟りの方向性は意識の根源に向かうことです。あくまでも譬えですが何億年という生命の進化の中で発展させてきた脳の機能の拡大を逆にたどるようなものと考えれば分かるのではないでしょうか。脳の機能の中で一番原始的な部分に帰っていくようなものだと思えばいいのではないかと思います。最終的には悟りとは何も考えることの出来ない、ただ在る存在に戻ることだと思います。それが神です。創造の根源です。お釈迦様やイエス様をはじめとする聖者たちはその根源に帰っていきたどり着いた人たちではないかと私は思います。お釈迦様は特に神を説くことはなかったようですが、それは神という概念が究極の悟りの世界では認識することが出来ないからです。およそ人が考えつくようなものは何もありません。自らを顧みることがないので自分自身にさえも気づいていません。究極の悟りとは自らが空(くう)として在ることです。そこでは、ただ在ることしかできないのです。

 ヤマは続けて説きます。

 第222節「アートマンは肉身の中にあって肉身がなく、不安定なものの中にあって安定しており、偉大であまねく滲透 (しんとう)していると考えて賢者は悲しまない。」

 第223節「このアートマンは解説によって理解されることはなく、天分によっても、はたまた多方面における学殖によっても得られない。それは、それを選ぶ人のみに得られ、その人だけにかのアートマンは自己の姿を現す。」

 アートマンは至高の存在であるブラフマンが個々の個我として現れ出たものを指して言いますが、ブラフマンアートマンも基本的にイコールと考えて差し支えないと思います。なぜなら内も外も真我の現れだからです。その真理としてのブラフマンアートマンに達するための手法として、既に二千数百年以上も前に求道者たちの絶え間ない精進によって頭で理解しようとする方向性の間違いは指摘され答えは確定しています。一方、現代の最先端の科学者たちは様々な測定器を駆使して宇宙の諸現象を説明する新たな理論を次々に構築し宇宙の始まりを解明しようとしています。しかしながら、それは宇宙の諸現象を説明する上では有効かもしれませんが、その諸現象が生じた大本の存在の説明にはなっていません。あくまでも計測できる諸現象を説明しているに過ぎないのです。どこまで行っても計測の範囲を超えることはないと言えるのではないでしょうか。悟りとは数値化できないものや理論化できないもの、計算出来ないものや機械で計測できないものを直接知ることなのです。

 様々な知識を学ぶこと自体悪いことではありません。知識は必要です。悟った内容を第三者に伝える必要が生じた時に的確に表現する知識がなければ何も伝えることが出来ませんし、自分自身悟ったことを言語化できればより理解を深めることが出来ます。ですから仏教やキリスト教ヒンズー教といった古い宗教の聖典や、それと比べて時代は新しくとも実際に悟ったと言われるインドの聖者をはじめとする人たちについて書かれた本を読むのはとても有意義だと思います。それはまた単に知識を得るためだけでなく、それらの聖なる本を読むという行為は気づきを得る手段としても大変有用であると私は思っています。なぜなら、私に二度の大きな気づきを与えてくれるきっかえを与えてくれた本は現代の悟り系のスピリチュアル本だったからです。その悟り系のスピリチュアル本の読書中に「私は無い」という気づきや自分の中にある神の目の存在に気づいたのです。

 ウィキペディアキリスト教神秘主義の欄のところには人間が神、イエス・キリスト聖霊を直接経験するための伝統的実践方法の一つとして聖なる読書があることが書かれています。ですから私は自分の体験を踏まえたうえで真理が書かれているのであれば宗教の違いに一切こだわることなく各宗教の聖典や悟り系のスピリチュアル本を紹介し、それを読むことを奨励しているのです。

 話しをカタ・ウパニシャドの方に戻します。

 第224節「悪い行為を止めない者、心の平静でない者、心の統一していない者、あるいはまた意志の穏健でない者は、単に理智だけでは彼に到達しえない。」

 私が思うに悪い行為とはまさに頭だけで理解しようとする考えそのものです。物事を論理的に考えて判断する能力は当然大切ですが、それに囚われて真理を概念的に体系的な知識として理解し、例えば数理的に計算式が成り立つなどと考えているのであれば見当違いも甚だしいとしか言いようがありません。 真我は善悪が生じる前の状態です。私やあなた、あそこやここといった彼我の差を認識する前の状態です。理性や知性、本能や感情、物質や精神、人間の存在そのものも含めた、およそ人が頭で考えられるもの、体で感じられるものが生じる前の非存在としての存在なのです。人間が普通に考える常識的な考えとは逆なのです。完全に真逆なのです。非実在と思っているそれこそが実在であり、実在と思っているこの世こそが非実在なのです。従って、それを直接体験したいと思うのであれば、人智を超えたものとしての存在を素直に認め、それを信じ自分の全てを神仏に明け渡す心も同時に必要になってくるのです。私が動画内でいつも言っているように、私は神の奴隷であり、神の操り人形であり、プログラム通りにしか動かないロボットであるという認識を心の奥底から持たなければなりません。誰かの言いなりになりなさいと言っているわけではありません。人が人を支配することなど不可能です。そうではなくて神仏に全てを任せる絶対的受動性の必要性を言っているのです。この考えは神の摂理を理解する上では必須なのです。私の考えとは少し違うのですが理解の一助にしてもらうために、この絶対的受動性についてはウィキペディア神秘主義の欄のなかほどにある神秘的合一というところを一読されてみることをお勧めします。

 本の方に話しを戻します。次に死の神ヤマは譬えを用いてナチケータスに真理を伝えようとします。

 第3章3節「アートマンは車に乗る者であり、肉身は実に車であると知れ。理性は御者であり、そして意志はまさに手綱であると知れ。」

 第3章4節「諸々の感官を人々は馬と呼び、感官の対照を馬に関して馬場と呼ぶ。アートマンと感官と意志との結合を享受者と、賢者は呼ぶ。」

 第3章7節「分別なく無思慮で常に不浄である者は、かの場処に達することなく、しかも輪廻に赴く。」

 第3章8節「しかし、分別を持ち思慮あって常に清浄である者は、かの場処に達し、そこから再び生まれることはない。」

 第3章9節「分別のある御者を持ち、心を手綱とする人は行路の目的地に達する。それはヴィシュヌ神の最高の住居である。」

 私たちの体を使って現象世界を経験している存在が真我であるアートマンです。アートマンは、この世の中のありとあらゆる全ての中に存在しています。アートマンにとっては体はただの道具です。この道具である体に一体化することにより、つまり体を自分だと思い込むことによって思考と感覚と感情までも一緒に体験できる予めプログラムされた人生という体感型シュミレーションゲームを楽しんでいるのです。だから、もし、この動画を観ているあなたが本当に真我の直接体験を望むのであるならば、すなわち、この世はただの幻想であることを見破りたいと望むのであれば、それ以上ゲームの世界に巻き込まれるのを防ぐためにも理性をもって欲望を制御し、ぶれることなく悟りを一心に念じて思慮深く心身を清らかに保ちながら熱意をもって求道しなければいけないのです。それは苦しいことかもしれませんが、そうすることにより、その人が、そうなる運命であるのなら、いずれ解脱の境地に達することになります。しかしながら、誰がそうなる運命なのか、そうなる運命だとしても、いつどこでどうやってそうなるのか、こればかりは神のみぞ知るということになります。ですから道を求める者は、ただ無心に専心するのみということになります。 

 第312節「かのアートマンはこの世に存在する一切のものの中に隠れひそみ。姿を現すことはない。しかし明敏な観察者たちによって、鋭く明敏な理性により観察される。」

 この場合の理性とは、この世に執着しようとする自我こそが真理への到達の障害と判断し、自我に囚われないように自我を制御し縮小化させようと冷静に対処しようとする心の働きのことではないかと思います。

 ヤマが死の神として冥府の王として君臨しているのは伊達ではありません。人類の始祖としてはじめて死んだ人間として悟りの精髄を心得ているからです。地獄の閻魔大王様は悟り人だったのではないかと思います。そのヤマがナチケータスに奮起を促します。

 第3章13節「理智ある人は語(ことば)と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。」

 第314節「立ち上げれ、目覚めよ。恩典を得て、覚(さと)れ。剃刀の鋭い刃は渡ることが困難である。詩人たちはそれを行路の難所という。」

 悟りを得る過程において一朝一夕にいかないことは多々あります。むしろ簡単にいくようなことはないと言えます。まさに剃刀の刃の上を歩くようなものだと思います。下手をすれば精神的にも肉体的にも障害されるおそれがあります。しかし悟りを得た際の果報には計り知れないものがあります。多分、あなたは死を恐れなくなるはずです。むしろ、死の到来を喜ぶはずです。なぜなら、生は幻であることを知ると同時に生よりも素晴らしいものがあることを身をもって知ることになるからです。しかし、ここで勘違いをしてはいけないことは覚者が積極的に死を望むという訳ではないということです。例えば大病を患い何の治療も受けないということはありません。これから津波が来ることが分かっていて避難をしないということはありません。必要な治療や避難を拒むことはありません。今出来るやるべきことをやったうえで、それでも避けられない死ならば、それは運命として決められた死ぬ時期が到来したとして、その死を覚悟して受け入れるということです。ただ覚者は自分が死んだ先の行くべき場所を知っているので悲観して慌てふためくことはなく、むしろ希望を持って死に臨むことが出来るということなのです。

 第315節「声なく、触感もなく、姿もなく、変化することもなく、また永遠に味なく、それはまた匂いもない。始めも終わりもなく、偉大なるものよりも上にあって、動かないもの、それを観想して、死の神の口より解放される。」

 第317節「この最高の秘密の教理を婆羅門の集まりにおいて、或いは祖先祭の際に専心して説く者があれば、その人にとって、それはその人を永遠の生命を受けるにふさわしい者とする。それは永遠の生命に値する者となる。」

 真我の直接体験で知ることは人の本質は死なないということです。人に限らず全ての存在は生きていようと死んでいようと永遠の命として今も在り続けています。未来永劫に永遠の空(くう)としてあり続けています。現代日本の社会において婆羅門といわれる祭祀階級を何かにあてはめようとするならば僧侶や神職、神父や牧師ということになるのでしょう。祖先祭については日本人は様々な形で昔からご先祖様をお祀りしてきていることから、お正月、お盆、お彼岸などが当てはまるのではないかと思います。私は聖職者ではないので差し出がましく何かの集まりで悟りの話しをしようとは全く思いません。しいて言うならユーチューブがその代わりといったところでしょうか。しかしながら必ずしも、どこかで悟ったことを言わなければ永遠の命が得られないという訳ではないと思います。真我に至れば必然的にすべての存在が真我の現われとして顕現していることが分かることから、自分の体も、その一部として現象世界は一体として分かつことが出来ないただの映像であることが理解されるようになります。だから全ての生きとし生けるものは人間であろうと蟻であろうと蚊であろうとダニ一匹であろうと命の重さという点では平等であることが分かるのです。空(くう)を知り、自分の体も含めて見えている世界の全ては一つのものとして分かつことが出来ないただの映像であることが把握されるようになることで、自分の本質は目を通して見えている現象世界の中の体でもなければ、体の中で感じている感覚や感情、思考でもないということが分かるようになるのです。だからこそ、人であろうとなかろうと生きとし生けるものの一切とそこら辺の石ころ一つであろうとそれ以外の何であろうと、それらすべての価値は真我の視点で見れば全く同じであり貴賤上下などあろうはずもなく、尚かつ、それと併せて私たち全てはうつろい変わる物質的なものでは決してない永遠の命であるという教えを聴衆の前で説く人がもしいたとするならば、その人は既に分かっていることを話すのであり、加えて、それについての確信もあることから、故にその人は永遠の生命に値する者であると死の神は言っているのではないかと思います。

 次も大切です。

 第41節「創造者は孔(あな)を外側にあけた。従って、人は外を見るが内部にあるアートマンに眼を向けることはない。ある賢者は不死をもとめて反対側を向いた眼でアートマンを振りかえって観察する。」

 第42節「愚かな者たちは諸々の外的な快楽のあとを追う。彼らは死の神が拡げた鎖にひっかかる。かくて、賢者は不死を知り、この世においては非実在のものの中に現実のものをもとめない。」

 賢明な視聴者諸氏なら既にお分かりのはずです。創造者が外側にあけた孔(あな)とは顔についている両目のことです。人はそこを通して見えている動画に心を奪われ熱中します。これは、まさに旧約聖書の創世記1章3節に書かれている創造主が「光あれ」という言葉と共に天地を創造されたことに通じると私は考えています。これは私たちが毎日眠りから目覚めるたびに天地が創造されていることを描写しているのではないかと思います。私たち一人ひとりが毎日それぞれの宇宙を創造していると言えるのではないかと思います。しかしながら真実は、宇宙を創造し、それを鑑賞しているのは唯一の実在である真我のみです。つまり、真我の視点に立てば今この地球上には80億人分の並行宇宙があると言えるのではないでしょうか。

 人はあまりにもスクリーンに映っている幻影に魅了され本物だと思い込み虜になっていることから、それを映し出している映写機に気づいていません。後ろを振り向けば簡単に光源や映写機があることに気づくはずなのに後ろを振り返ることが出来ることにさえ気づかないのです。世界に古くからある宗教の核心部分は譬え話や物語を通して後ろを振り向いて真理の方に眼を向けることの大切さを示そうとしているのではないかと思います。断じて宗教間で対立することを教えているわけではないのです。違いにばかり目が行く人は真理に眼を向けようとしない愚者としか言いようがありません。そういった愚者が違いを強調し争いを引き起こしているのではないかと思います。

 第49節「そして太陽が昇るところ、また太陽が沈んでいくところ、それに一切の神々は依存する。また、それを越えていく者は誰もいない。それこそ実にそれである。」

 私たち人間も含めてですが、この世の全ての神といわれるものは、その唯一の実在の中にあります。神といわれる概念は、それなくして存在しないからです。概念である神は概念を超えたものの中から生まれ、ありとあらゆる概念の存在しないものの中にあるのです。

 死の神ヤマはアートマンとはいかなるものかをナチケータスに説いたのち呼びかけます。

 第4章15節「清浄なものに注がれた清浄な水のように、それは清浄のままでいるのだ。このように真の理解を持つ聖仙のアートマンもそうである。ガウタマ仙の息子よ。」

 ナチケータスは、その呼びかけに応じるように答えます。

 第54節「この肉身を持つ者の中に住して肉体を有する者が分散するとき、すなわち肉体から離されるとき、そこに何が残るのであろうか。それこそ実にそれである。」

 ナチケータスはやはりとても優秀な少年です。一を聞いて十を知るとはナチケータスのためにある言葉です。人々の生死を超えた先にある真の実在のそれについて理解をしたのではないかと思います。

 さらに死の神ヤマは、ブラフマンについても話し始めます。

 第58節「人々が睡眠している間も眼を覚ましており、欲するがままに姿をあらわすプルシャは、それこそ光であり、ブラフマンであり、それこそ不死といわれる。一切の世間はそれを拠りどころとし、しかもそれを越えるものは全くない。」

 プルシャとは巻末の訳注では生気と書かれていますが純粋精神とか真我と解釈した方が理解しやすいと思います。私もそのように理解していますが、人それぞれ理解しやすい方を採用すればよいと思います。

 第510節「一つの風は生類の中に入って気息となり、生類の形に応じて、それぞれに相応しいものとなった。それと同様に一切のこの世に存在するものに内在するアートマンは一つであるが、それらの中に入って、それぞれの形に応じて相応しいものとなり、しかもそれらの外にあるのだ。」

 第513節「恒常のものの中でも恒常であり、智性ある者の中でも智性があり、彼は多数の者の欲望を満たせる唯一者である。賢者たちはそれが自身の中にあると観じて、彼ら自らの永遠の寂静を享受するが、他の者たちにとってはそうではない。」

 第62節「そして、この一切の世界は生気(プラーナ)の中に胎動して生じた。この大きな危険・振り上げられたヴァジラ(稲妻)を知る者たちは不死となる。」

 至高の存在であるブラフマンが至高の存在たるゆえんは、それが唯一無二の存在だからです。ブラフマン以外にブラフマンなし。全ての存在はブラフマンによって存立しているのです。アートマンこそが唯一の至高の存在であるブラフマンなのです。そのアートマンから沸き起こる息吹とも言える人生という事象に対する切望があるが故に現象世界は維持されているのです。その切望こそが私やあなたの人生を良くも悪くも展開させている原動力なのです。その原動力は存在性から生じているものでもあります。

 もし、これを視聴しているあなたが一瞬でも悟りを得ることが出来るのであれば、まさに悟りは一瞬で起こりますが、その悟りを得ることが出来れば生きている間に不死となったも同然です。死後に肉体を得ることを確約されたようなものです。今言ったことは比喩ですが、それくらいの意味があるのです。なぜなら、真我は不滅であり、その真我が真の自己であることを知ることになるからです。表現を変えるならば、この世を映し出す純粋意識は何物にも左右されることのない不動の意識です。この世は純粋意識の中で移ろい変わる現象として生じているに過ぎません。人それぞれ探究の仕方は様々であろうとも、その事を自覚できるようになるのであれば、つまり悟ることが出来るのであれば、もはや死を恐れることはなくなります。この世での自他に起こる生老病死に伴う悲喜憂苦をただの映画として捉えることが出来るようになるのです。

 第611節「感官を動かさず静止させることがヨーガであると彼らは理解する。その時、人は心を集中しうる。ヨーガとは実に起源であり、没入である。」

 ここに簡潔に悟りを得るためには人はどのような状態になる必要があるのかが書かれています。欲望に囚われ感覚器官を満足させることばかりに心が向かないようにしなければなりません。巻末の訳注にヨーガとは心の動揺の制御と書かれています。この場合の心とは自我のことです。自我を抑制し制御し最大限縮小化させ最後には一時的にでも消滅させる必要があります。真我の直接体験をするためには自我をおとなしくさせる以外に方法がないのです。

 カタ・ウパニシャドはウパニシャドの中では短い方ではありますが、それを自らの体験に基づいて説明しようとすると長尺動画になってしまいます。しかし、いよいよ終盤です。ここで真理の本当の姿が明かされることになります。

 第612節「それは言葉によっても意志によっても、また眼によっても得ることは出来ない。『それは存在する』ということ以外に、どうしてそれが理解できよう。」

 第6章13節「『それは存在する』という言葉だけで、それは理解されるのであり、また二者の真の本質によって理解されるのだ。『それは存在する』という言葉だけで得られたとき、その真の本質は明らかにされるのだ。」

 第6章14節「彼の心に拠るあらゆる欲望が解き放たれるとき、かくて人間は不死となり、彼はみずからの肉体にブラフマンを得るのだ。」

 第6章15節「この世において心の結び目がすべてほどかれるとき、かくて人間は不死となる。わが教えは以上のとおりである。」

 13節の二者とは訳注ではブラフマンアートマンのことであると書かれています。ブラフマンアートマンについてはイコールと考えて差し支えないと前述しました。どちらも真の自己である真我のことであるので、あえて別々のものと考える必要はないと思います。さらに両者は空(くう)であると理解して問題ありません。そして、それは「ただ在る存在」としか言いようがないものです。それ以上でも、それ以下でもありません。何かを付け加える必要はありません。それを真我と呼ぼうと空(くう)と呼ぼうと、はたまたブラフマンアートマンと呼ぼうと、私が時々使う純粋な気づきと呼ぼうと、多少の表現の違いはあるにせよ、その本質は「在る」なのです。キリスト教などの一神教の宗教ではそれを神と呼んだりします。呼称は何であろうと、それを直接に知ることが最高の悟りであり、かつ精神的な認識上の不死を得る方法なのです。なぜなら自分の本質が、その不滅の「在る」であることを理解するからです。自分自身がそれであることを直に知るのです。故に肉体の生死に囚われがなくなり、死に対する恐れがなくなるのです。繰り返しますが、私やあなた誰であろうと自分自身がそれなのです。ナチケータスのように、はたまたお釈迦様やイエス様のようにそれを知る可能性は誰にでも十分あるのです。お分かりいただけたでしょうか。

 カタ・ウパニシャドは誰であろうとも心底純粋に求道する者ならば悟りを得られる可能性があることを、それを読む人に教えようとしているのです。

 第618節「死の神より教えられて、ナチケータスは、この知識とヨーガに関するすべての方法を得て、彼はブラフマンを獲て情欲を離れ不死となった。他の人もまたこのようにすれば最高のアートマンをこそ知る。」

 以上のことから既に二千数百年以上も前にこの世の真理を得るための有用な方法は既に発見され確立されています。それが一般的に言われている悟りです。人間は真理を知りたいと願う一方、なんと多くの人は遠回りなことを何千年も繰り返しているのでしょうか。確かに悟るための修行は厳しく険しいものですが、これだけ教育水準が上がり悟りに関する書物を誰もが容易に入手できるようになっている現代なのですから、あと足りないのは悟りの修行に真剣に取り組もうという気持ちだけです。悟りというものについて絵空事のように考えるのではなく、実際にこの世の真理を知る方法として現実性のあることとして人々が認識し、多くの人々の関心や興味が外側の世界のことだけではなく誰もが内側に秘めている真理に向かうようになれば相当な数の人たちが悟りを得られるようになるのではないかと私は思います。科学の最先端にいる人こそ悟るための修行に取り組んでみてはどうでしょうかと言いたいですし、その修行の方法として数千年の歴史を持つ大昔からある伝統的な宗教の力を大いに活用することを提言したいと思います。悟りを目指すのであるならば、やはり歴史の重みを軽視するようなことは絶対にしてはいけないと思います。長い歴史と伝統には様々なノウハウの積み重ねもあるでしょうから、色々な意味での安心や安全面での担保が得られるのではないかと思います。実際に真理を知る手掛かりは昔からある宗教の中にこそ既にあることを少しでも多くの人に気付いてほしいと思います。だからこそ私は仏教やヒンズー教キリスト教聖典や聖書の中の真理が書かれている箇所について話しをするのです。

 ところで、それにしてもナチケータスの理解の速さは尋常ではありません。死の神ヤマの話しを聞いただけで理解ができるのはやはり父親がヴェーダの賢者としてウィキペディアにも名前が載っている紀元前8世紀頃の人物とされ有史以来最初の哲学者の一人としてヒンドゥー教で尊敬されるウッダーラカ・アルニ仙だからなのでしょう。幼いころから父親の教えを間近で学んできたナチケータスだからこそ出来る芸当なのだと思いました。

 カタ・ウパニシャドの成立時期は動画の最初の方で紀元前45世紀より古いとか、一般的には紀元前5世紀から紀元前1世紀の間とされているという諸説があることを申し上げました。物語の登場人物である死の神ヤマは人類の始祖ですから、その生没年月日は不明としか言いようがありませんが、物語の冒頭に出てくるナチケータスの父親のウッダーラカ・アルニ仙は先ほど申し上げた通り紀元前8世紀頃の人物とされています。このことから書物の成立時期と登場人物が生きた時代との間には数百年以上の開きがあることが分かります。推測するに、その当時、昔から言い伝えられてきた伝説的な話しを誰かが書物としてまとめたということなのか、それとも過去に生きた偉人の名前を借りて聖者が悟った真理を残そうと思ったことから生まれた物語なのか、この書物が実際にどのような経緯で作られたのかは分かりませんが、いずれにしても、その書かれている真理は本物です。

 そうは言っても、私が動画を使っていくら本物ですと力説したところで、真我の直接体験を経験したことのない人にとっては嘘のような話しにしか聞こえないのも確かでしょう。だからこそ繰り返しになるかもしれませんが、少しでも興味関心のある人ならば数千年の歴史を持つ大昔からあって信頼できる伝統的な宗教の教えに基づいた精神修行を行って自ら直接に真我を体験してみることを目指してみるのが良いのではないですかと申し上げているのです。伝統的な古い宗教の教えを目安にすれば怪しいお金集め人集めだけの宗教にひっかかる心配も少ないのではないでしょうか。何千年という長い歴史には、やはり人類の智慧と智識があるはずです。それを頼りの綱としてみるのが良いのかもしれません。まずは仏教・ヒンズー教キリスト教聖典・聖書を読みインドの聖者について書かれた本を読んで基本的な知識を一通り一人で学ばれることをお勧めします。どこかの宗教団体に、ことさら関わる必要は全くないと思います。むしろ関わらない方が良いかもしれません。座禅や瞑想の仕方を学ぶにしてもネットで検索すればいくらでも出てきますし本を買えば済むことです。どうしても誰かから学びたいと思うのなら、まずは家の近くで座禅や写経といった催しを行っている信頼できるお寺を見つけて利用すれば良いと思います。近くにそういうお寺がなくてもネットで検索すれば座禅会などを開いて座禅や瞑想の基本を教えてくれる僧職の方がいらっしゃると思います。私は必要ないと思いますが仮に、どこかの宗教団体に関わることにしたとしても出家は必要ないですし在家で十分だと思います。また高額な料金を取って上から目線で教えを授けますとか終了すると何かの位を認可してあげますというようなものはやめといた方が賢明です。そこにお金を出すくらいなら,沢山の宗教関連の本を読んで独学した方が身につきます。真理を知ったからといって、それをいちいち人に誇るようなものではないですし、人から認めてもらう必要も一切ないからです。真我の直接体験に基づいた真理を知っているかどうか悟っているかどうかは自分が一番分かっていることだからです。

 私の信仰は真理に対する信仰です。何か特定の宗教や人物を信仰しているわけではありません。真理に帰依はしていますが、決してどこかの宗教や人物に帰依し崇めている訳ではありません。所詮、お釈迦様もイエス様も真我の現れでしかないのです。人々に真理を説く役目を負ってこの世に現れ出た現象でしかないのです。そして現象という意味では、私やあなた、他の誰であろうとも同じ現象なのです。なぜなら極端な話し現象世界とは、ただの色の集まりでしかないからです。その色の集まりに過ぎない現象世界を実在と思い込んでいるだけなのです。もちろん歴史上の偉大な人物としてお釈迦様やイエス様には敬意を払います。当然のことです。しかし、それは尊い教えを人生をかけて人々に伝えてくれたことに対する尊敬の念からです。人物自体を信仰しているわけではありません。人物を信仰したら、それは偶像崇拝になります。お釈迦様やイエス様は自分を神として崇めなさいと言ったでしょうか。あくまでも信仰の対象は真理なのです。それゆえに、私はどこにも所属することなく、ただ真理に帰依し真理を信仰しているのです。これは、お釈迦様もイエス様も同じだったはずです。ですから、真理が書かれているのなら、どのような宗教の経典でも、そこに真理が書かれているのであるならば、そこに真理が書かれていますと単純に理解の助けにしてもらいたいという気持ちから、こうやって動画を作ってご紹介しているです。

 いかがでしたでしょうか。これで物語は終わりになりますが、カタ・ウパニシャドで語られる不死とは精神面での不死です。決して肉体的な不死ではありません。真我の直接体験をするとそれまでの認識が変容し、肉体が死ねば意識も同時に消滅するという考えが無くなるか若しくは影を潜めてしまいます。自分の意識内は、その意識は永遠であるという不死の認識で占められます。厳密には死んだ場合は感情や感覚、思考や記憶といった自我を構成する一切のものも含めた自我そのものも消滅してしまうので、純粋意識があると言っても、もはやそれは通常の人間の意識とは言えないものです。そういう意味で死ねば自我はもはやなくなってしまうので生まれ変わりも当然ないということになります。

 そもそも、人々が普通に感じている私たちは体を持った人間であるという認識も元をたどれば錯覚から生じた幻想に過ぎません。その事も真我の直接体験をすることによって分かるようになります。恐れや心配の必要はどこにもありません。事前にしっかりと必要な知識を学んでいれば自分たちの本性が思考することも感じることもなく、自己を顧みることも一切ない、ただ在るだけの純粋意識に過ぎないことを知ったからといって、それで特段ショックを感じるということはありません。180度がらりと世界に対する認識は変わるでしょうが、だからといって、それらの事は自然なこととして受け入れることが出来るようになると思います。むしろ、それは素晴らしいこととして認識されるのではないかと思います。

 それではカタ・ウパニシャドの最後に書かれた文章を言って終わりにしようと思います。予め文章内のわれら両名とは何を指すのかを言っておくと、死の神ヤマとナチケータスのことです。つまり人間とその人間に必ず訪れる死という意味です。両者は、けっして憎しみ争い対立し合う関係ではありません。両者にとっては互いに良い関係性を築くことが大事です。実際、人間と死は互いに良い関係性を築くことが出来ると私は思います。またオームとは宇宙の根本原理のブラフマンを象徴する聖音とのことです。

 それでは最後の引用です。

 第6章結文「われら両名を、ブラフマンはともに助けよ。われら両名にブラフマンはともに役に立て。われら両名はともに努力しよう。学習はわれら両名に輝かしくあれ。われらは互いに憎しみあうことなかれ。オーム、寂静あれ、寂静あれ、寂静あれ。」

 今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

阿羅漢は輪廻から解放されることはないのか?

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

youtu.be

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が30回の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 今回はユーチューブ内で私が関心を引いた動画の話しをしようと思います。それは【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という動画についてです。この動画のURL

https://youtu.be/4y5_l8xTv8Y?si=kHRMg72kXLMRv1ys

は説明欄に張り付けておきますので、まだご覧になられていない方は視聴してみてはいかがでしょうか。なぜ、私がこの動画について取り上げようと思ったかというと、その動画のコメント欄の中に「シュリハンドクの経験は素晴らしい。 しかし、阿羅漢になったからといって輪廻から解放されることはないですよ。」というコメントを見つけたからです。

 ウィキペディアで「阿羅漢」の欄を見てみると『仏教用語の阿羅漢(あらかん)とは、サンスクリット語のアルハット、パーリ語のアラハントに由来し、仏教において最高の悟りを得た尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。 』と書かれています。ウィキペディアに書かれていることはコメントの内容とは正反対です。本当に阿羅漢はコメントした人が言うように輪廻から解放されることはないのでしょうか。私はチューダパンタカは輪廻から解放されたと思っていることから、今回は、私の真我の直接体験と関連付けながら、その方向へ答えを導き出せるように話しを進めていこうと思います。それでは始めます。

 まず基本的な知識として動画の主人公であるチューダパンタカという人物は、お釈迦様の弟子の一人であり、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった十六羅漢の一人であるとウィキペディアには書かれています。どうやらチューダパンタカという人はすごい人だったようなのですが、 ウィキペディア内にも書かれている通りあまりの物覚えの悪さから経典の内容を一つも覚えることが出来ず仲間内からは愚か者と蔑まれるほどの修行僧だったことから、同じ修行僧である兄から還俗するようにと言われるほどでした。ところが、その事を知ったお釈迦様はチューダパンタカの素質を見抜いていたことから還俗するのを引き留め「塵を除く」「垢を除く」と唱えながら精舎の掃除をするようにと言われ白い布切れを渡します。それ以降、チューダパンタカは紆余曲折はあったもののお釈迦様に言われた通りに懸命に一心に掃除に取り組むことで、自身の身の上に負わされた愚鈍という困難を乗り越え悟りの光を見出し阿羅漢となって輪廻から解放されます。

 それが動画のストーリーなのですが、この話しの中での私なりの着眼点はどこかというと、この場合の掃除をする対象は一体何なのか、渡された布切れはなぜ白だったのかということになります。単に僧たちが修行を行う場所をきれいにしろとお釈迦様が言ったのではないことは誰にでも分かることだと思います。ウィキペデアの周利槃特(しゅり・はんどく )の欄には、チューダパンタカが悟った落とすべき汚れとは、必要以上にむさぼり求める心のことである貪(とん)、怒りや憎しみの心のことである瞋(じん) 、真理に対する無知な愚かな心のことである痴()という仏教でもっとも克服すべき煩悩である三毒 のことであったと書かれています。従って、動画内でも語られるとおり、この場合におけるお釈迦様が掃除をしろといった場所は心ということになります。真に意識を向けなければならない方向は外側ではなく内側の心に対してということになります。次いでお釈迦様に言われた除かなければならない塵や垢とは具体的に何を意味しているのかということになりますが、掃除をしなければならない場所は心ですから、当然取り除かなければならない塵や垢とは欲に代表される自我ということになると思います。

 しかしながら私が思うに、もしかしたら、この取り除くべき塵や垢には、欲に代表される自我だけでなく、もっと、それ以上の大きな意味が込められていたのではないかと思います。お釈迦様はチューダパンタカにそこまでの期待はしていなかったのかもしれませんが、さらにもっと踏み込んで私という観念を生み出す拠り所になっている感覚や存在性そのものまでも取り除くことを視野に入れて仰られていたのかもしれません。ウィキペデアの周利槃特(しゅり・はんどく )の欄には、落とすべき汚れが貪(とん)(じん)()であると悟ったとまでは書かれていますが、チューダパンタカが至った落とすべき汚れが落ち切った先にある本当の意味での悟りの境地は何だったのかという肝心の事は書かれていませんし、動画内でも、それを説明するまでには至っていません。ですから、それらも含めて、チューダパンタカが至った本当の意味での悟りの境地とはいったい何だったのかについて私なりの考えを自分の体験を交えて今から述べようと思います。

 私が思うに貪(とん)(じん)()とは、次のようなことが根底にあるからこそ生じるのではないかと思います。まず誰にでも肉体と言われているものがありますが、肉体が自分だと感じるのは単なる錯覚でしかありません。一番身近に見える私のものと思い込んでいる体に生じる感覚と精神活動及び基になる存在性が、目の前に展開する現象世界をあたかも実在しているかのように誤認させるのです。感覚に伴い沸き起こる感情やどこからともなくやってくる思考が、自我の基礎となる、この世における周囲から独立した存在であると認識する個としての「私」という自意識を形成するのです。その自意識が肉体と周囲の環境を支配しコントロールしているという主体性を生み出して、それが「私」は「私」という他の人とは違う「私」の人生を生きているという思い込みを生じさせるのです。加えて、何度も繰り返される感情や感覚や思考は特定の様々な事柄への執着をも生み出します。さらに、私のものと感じる体を基点として現象世界で起こる様々な出来事を鑑賞していることによって世界の中心は自分にあるという錯覚まで引き起こします。

 真理に気づいていない人は、自分の内外面で起こる事象を周囲から完全に独立した一人ひとりの人間が実在していることを前提に関連づけて考えますが、真実は個々の独立した個人などどこにもいないのです。それらは全て幻想であり単純に自動的に起こっている、ただの映画でしかないのです。お釈迦様は、当然その事を分かっているので、それらの誤った認識を含む精神活動と感覚と存在性の一切を取り除きなさいという意味も含めて仰られていたのではないかと感じます。

 次に渡された布切れがなぜ白だったのかということですが、当たり前のこととして白い布切れは使えば使うほど汚れが付いて濃淡のある暗い色へと変色していきます。これはまさに、布切れが黒く汚れていく様は自我によって変容していく純粋意識のことであり、私という存在性が様々な形をとって顕現する現象世界を汚れとして理解することが出来るのではないかと思います。つまり、最初は真っ白な淀みのない純粋な意識も自我に捕らわれ煩悩にまみれて執着心が付いてしまえば、ついにはボロ雑巾のような心に成り下がってしまうという譬えが成り立つのではないかと思います。従って、掃除で白い布切れが薄汚れていくたびに精舎の汚れが取り除かれるように、本来の清浄な純粋意識に戻れるように自身の内面の自我という汚れをその白い布切れでふき取っているのだと思って掃除をしなさいという意味合いもお釈迦様が渡された白い布切れの中には込められていたのではないかと思います。  

 お釈迦様は経典を読んで書かれていることが理解できない人に対しては、たとえ深い意味までは分からずとも実際の体の動きを通して理解しようと努力することの大切さくらいまでは分からせようとしたのではないかと思います。ところがチューダパンタカは、驚天動地と言ってもいいくらい彼を知る周囲の人々が、まさかそこまでいくとは端(はな)から思っていなかったことを成し遂げ、お釈迦様でさえも予想だにしていなかったほどの成果を出してしまったのではないかと思います。

 ところで、そのお釈迦様も含め、当の本人でさえも思いもしないことを成し遂げるに至った悟りに至る修行としてチューダパンタカが取り組んだものは掃除です。まさに馬鹿の一つ覚えのごとくお釈迦様に言われた通りにチューダパンタカは掃除に専念しました。その事で徐々にお釈迦様が仰られた言葉の深い意味を頭で考えて理解するのではなく体の動きを通して体得していったのではないかと思います。最初、チューダパンタカは、その事が何につながるのか全然分からなかったと思います。しかしながら、掃除に一意専心することで知らず知らずのうちに悟りの真髄を体現していったのだろうと思います。理解できない経典に書かれている難しい教えを読んで学ぼうとするよりも訳も分からず言われたことだけを無心に取り組んだことが奏功(そうこう)したのではないかと思います。その事で、いつものように掃除をしている最中に何ら謀(はかりごと)をせず意図することもなく悟りをことさら意識しない心的状態だったことが有利に働き、かつ機が熟したこともあって、一切の煩悩が消える忘我の極致とも言える無私の領域へと入ることが出来たのではないかと思います。それにより光のようなものに包まれたと表現される悟りの中でも最も深い悟りを得ることになったのではないかと思います。

 このチューダパンタカが経験した悟り体験を私自身の経験に照らし合わせて考えてみると、主体性や心の消失のみならず存在性の消失までもしてしまう真我の直接体験までの過程を一度の神秘体験で一気に経験してしまったのではないかと思います。私の場合は、2020年の3月頃 の読書中における私には私という主体が無いという気づきが最初にあり、次に2022年の1月には数秒か数十秒か、或いはそれ以上だったのか分かりませんが一時的ではあるものの心の消失とも言えるような完全に心の動きが停止した状態をこれまた読書中に経験するということがありました。その時の状態を説明すると、うまく形容できないのですが、もしかすると停止したものは心の動きというよりも精神の活動と言った方がより正確かもしれません。その精神の活動が一時的に完全停止する体験では、見えている事象をいいの悪いのと判断する働きがなくなったことで本当の意味で目の前に見えている世界をあるがままに見ることが出来ました。そこには、生(なま)の感覚情報しかなく心の動きが含まれていないことから目の前に見聞きしているものがあるにもかかわらず、あたかも世の中の動きと自分とは無関係のような感覚になり私の内なる活動は一時停止ボタンが押されたがごとく動きが止まり深い虚空となって精神面では寂静(じゃくじょう)と言っていいほど静かな状態になりました。五蘊に当てはめるなら色蘊(しきうん)受蘊(じゅうん)、想蘊(そううん)、行蘊(ぎょううん)、識蘊(しきうん)の中の想蘊(そううん)以降の精神活動が停止した感じだったのではないかと思います。そして、そういう状態になってはじめて、私は、私の中に私の体を通して世界を見ている感情というものや善悪というものが無く、いかなる事に対しても動じることもなく不動で無慈悲で冷徹無比な絶対の沈黙の観賞者の視点があることを感じました。それは、いわゆる神の視点だったのではないかと思います。私は私の中に神の視点があることに気づいたのでした。その事は翻って、私の中に神の視点があるというのなら他の人の中にもあるということに当然なります。この神の視点は私だけでなく全ての人間、すべての天地万物の中にあるのではないかと思います。単純に、ほとんどの人は外側のことばかりに気を取られているせいで、自分の中にある神の目の存在について気づいていないだけなのだと思います。昔から人の行動を、おてんとう様が見ているとか神様が見ていると言われてきたことは本当のことだったということが分かりました。

 ちなみに五蘊の中の漢訳で色(しき)と訳されるサンスクリット語रूपpa) ルーパについて、 原義では色彩よりも容姿、色艶(いろつや)、美貌をさしているとウィキペディアの色(しき)の欄の冒頭に書かれています。 そこでインターネット上の何か所かのサンスクリット語翻訳サイトを使ってこのरूप(ルーパ)を日本語に翻訳してみたところ、形あるいは形状と訳されました。このことから翻訳者はरूप(ルーパ)を直訳しなかったことが分かります。なぜ、रूप(ルーパ)を直訳して形(ぎょう)蘊としなかったのでしょうか。なお色(しき)という読み方は呉音(ごおん)ですので、同じく呉音で形はぎょうと読みます。色蘊(しきうん)の色(しき)とは、認識の対象となる物質的存在の総称として色(いろ)や形のあるもので一定の空間を占めて他の存在と相容れないが絶えず変化し、やがて消滅するものという説明でウィキペディアの色(しき)の欄には書かれています。このことからサンスクリット語रूप(ルーパ)を色(しき)と一番最初に漢訳した中国のたぶん僧侶の方は、目に見える形ある世界は単なる色(いろ)の集合に過ぎないことを理解していたのかもしれません。私たちが、そこにあると思い込んでいる世界はスクリーンやテレビ画面に映った単なる色(いろ)の集まりの映像と同じものなのです。だから文字通り色(しき)、いろと表記されるのです。また五蘊の中の認識対象を区別して知覚する精神作用である識蘊(しきうん)と音(おん)を同じくすれば語呂がいいということもあったのかもしれません。

 話しを私の気づきの方に戻します。三度目の気づきは二度目の気づきから1年以上経った2023年の5月に思いがけず起こりました。それは目の前の現象世界が消えてしまうどころか私という存在性までもがなくなる真我の直接体験でした。私はニサルガダッタ・マハラジやシュリー・ラマナ・マハルシといったインドの聖者について書かれた本を読んできていたことから、その人たちが言っていることの類似性や私の直感的理解からその体験が真我の直接体験であることが分かりました。真我の直接体験については過去動画で何度も言ってきているので、その事について知りたいというのであれば過去動画をご覧ください。私にとっての大きな気づきと言えるものは今挙げた三つですが、それ以外にも、過去の動画内でお話ししてきたような大なり小なりの細かな色々な気づきが合間にあり、ここ数年の間の短期間でのことではあるものの、それらの気づきの経験は階段を一段ずつ上がるように段階を経ながらやってきたと感じます。

 一方、チューダパンタカは私のように段階を経ることなく、突然堰を切ったように意識内から私という主体性や精神の働きだけでなく体から受ける色々な感覚や存在性さえ感じなくなってしまうところまで一気に進行してしまい純粋にただ在るだけの存在になってしまう体験を最初の神秘体験でしてしまったのではないかと思います。

 何度も同じ話しが重複するかもしれませんが、私の経験を例に挙げながら説明すると、真我の直接体験をしている間は存在性を感じないことから現象世界は消えさります。存在性が生じた時にはじめて感覚と共に比較できる現象世界が現れ出ます。そこには相対性があることから主体と客体があるという誤認を生じさせます。そして現れ出た現象世界の中の対象への認識作用があるからこそ心の動きも生じ、それらの心の動きと様々な感覚とやってくる思考の相乗効果によって主体を持つ私があると錯覚するのです。従って、認識作用が完全に停止し心の動きが止まれば現象世界はただの映像と化してしまい感覚もただの感覚になってしまい快不快はなくなります。チューダパンタカは、主体性と認識作用と存在性の消失という三つの消失を同時に当の本人にとっても思いもよらないこととして出し抜けに起こったのではないかと思います。

 私の場合の一番最初の気づきは、人生の中で起こる出来事はもう決まっていて物語は既に完成しているという気づきでした。それが人生をコントロールしているという私という主体性がないという考えになりました。その主体性がないという考えは以前の動画内でもお話しした通り、始発駅も終着駅も途中の停車駅も車窓から見える風景も全て決まっている鉄道に譬えたごとく、自分の人生もあらかじめ決められたレールの上を走る列車に関連づけて理解した結果として得られた認識です。それ以降、私という主体性は完全に喪失しました。もはや私には主体性というものはないのです。全ては神が定められた筋書通りの宮本昌俊という人生の物語を体験しているという認識しかありません。この私の体験を動画の流れに照らし合わせて見てみると、チューダパンタカの悟り体験の始まりは、それまでの人生の軌跡の全てには意味があり、一本の糸でつながっているように全ては起こるべきことが起こるべきこととして起こっていたことを知ったことが最初にあったことが分かります 。これは私の2020年の3月頃 の読書中に起こった最初の気づきから得られた、人生は鉄道に譬えることが出来るという理解と同じです。悟り体験は人それぞれで千差万別なのでしょうが、もしかしたら断言はできませんが真我の直接体験に至るまでの一連の流れには順番というものがあるのかもしれません。

 なんにせよ、その悟り体験が漸次(ぜんじ)的 であろうと一気に空(くう)領域に入ってしまう即時的であろうと存在性の消失体験までしてしまうと、世界は、その人の体にまつわる事柄を含め全ては空(くう)の現われとして、ただの現象でしかないという認識に変わってしまいます。

 毎日、私たちが見ていてほとんどの人が自分の外側にあると思い込んでいる世界は実在であるという見方が正常であるという視点に立てば、チューダパンタカの体験の方が普通ではない異常な意識の状態であり、それが止んだことで元からある現象世界と心の動きに気がついた、つまり正気に戻ったというように考えることが出来ますが、私からすると、この考えは全くの逆で世の中の常識からすれば通常ではない異常な状態であると一見すると考えられる私という存在性つまり自我が消え去った空(くう)こそが本来の姿ではないかと思います。真我の視点に立てば、何もない空(くう)である意識の純粋性の中に生じた存在性によって現象世界が現れ出たのであり、それに呼応するように生じた認識作用が外に向いたからこそ、光が収まった後の自分の体がいつの間にか座り込んでいたことや周囲に掃除道具が散らばっていたことにも気づくことが出来たと言えるのではないかと思います。この事から、まず存在性が生じなければ現象世界は成り立たないことが分かると思います。

 チューダパンタカの意識は真我の直接体験後、現象世界に戻ってきているわけですが彼の体験は一時的な自我の消失、私という存在性の一時的な消失だったのではないかと思います。注意すべきところは、チューダパンタカの私という存在性の消失後に復活した自我は以前の自我とは違う自我ということです。それを体験する前の自我とは明らかに違う全くの別物と言えるような自己の本質を知っている自我ということになります。そういう意味で古い自我が消滅して新しい自我に生まれ変わったとも言えるかもしれません。

 お釈迦様は、愚鈍と言われたチューダパンタカの変貌をそこまで見越して掃除をするように言われたのかどうかは分かりません。正直なところそこまで期待していなかったのではないかと思います。だからこそ、チューダパンタカが悟りを開いたことを聞いた時、満面の笑顔で「よくぞ悟りを開いてくれた」と思わず言ってしまったのではないかと思います。

 そして、ここにきてようやく最初の問いに戻ることが出来るようになりました。本当に阿羅漢はコメントした人が言うように輪廻から解放されることはないのでしょうかという問いです。答えは、ここまで私の話しを聞いてきた人にはもうお分かりのはずです。阿羅漢となったチューダパンタカは間違いなく解脱しました。彼は主体性と認識作用と存在性の全て、つまり、それら全部をひっくるめた現象世界が消失する体験をしたことで、この世の全ては私という存在も含め幻想であるということを理解したはずです。故に、この世はすべて幻想なのですから輪廻しなければならないものなど元からないと分かったはずです。身をもってそれを知った以上、幻想に過ぎない肉体が死んだからといって同様にありもしない魂が輪廻などするはずもなく、チューダパンタカは死ぬ前も死んだ後も永遠の空(くう)として未来永劫に存在し続けることになるのです。この空(くう)こそが生きとし生けるものを含む全ての有形無形を問わず森羅万象の全てにおける真の自己であり永遠の命なのです。だから、チューダパンタカは動画の中で弟子たちに対し末期の言葉として「この肉体が滅しても私の存在は永遠に続くのだ。阿羅漢として私はもはや三界には戻らない。輪廻から解放され永遠の存在となるのだ。永遠の彼方から君たちを見守り続ける。そして私の教えが君たちの心の中で生き続ける限り、私は君たちと共にあるのだ。」と言ったのです。

 どうでしょうか。私の言っていることがお分かりになられたでしょうか。この動画からも分かると思いますが、真理としての空(くう)の本質を頭で理解しようとしても全くの無駄な努力です。頭で理解しようとすればするほど空(くう)から遠くなります。心の中にある頭で考えて理解しようとする執着心をまず捨てなければいけないと思います。それが分からない限り空(くう)に到達することはないと私は思います。

 加えて、悟りを目指す探究者全員がチューダパンタカを見倣う必要があると思います。本当に悟りを目指す真理の探究者であるのなら、まずは自分は真理について何も知らない自分は無知であるということを素直に認め受け入れることから始めることが必要なのではないかと思います。賢者となる者の修行は自分の愚鈍さを素直に認め受け入れるところから始まるのではないかと思います。私は何も知らないし分らない。それに気づくことが悟りの始まりでもありますし第一歩とも言えます。

 もしかすると、もしかしなくても地球上の生物の中で一番高等な生き物は人間で、人によっては自分こそが生物種の中でもっとも神に近い存在或いは自分こそが神として相応しい存在であるというように、まさに神をも畏れぬ所業をなし自惚(うぬぼ)れている人が80億も人がいるのですから、そういう考えの人が中にはいるのではないかと思います。そういう人は確実にいるでしょう。

 私が、これから言うことを聞いてショックを受ける人がいるかもしれませんが断言します。人間は神から最も遠い存在です。人間が自分たちよりも低い存在であると見下している動物や植物といった生き物たちの方がよほど神に近い存在です。知能が低いと考えられている存在であればあるほど私は神に近くなると思っています。

 前回の動画で、私は真我である空(くう)について次のように話しました。「不思議なことに、それはそれ自体で何かを考えるということはありません。従って、真我は自分自身について何も知りませんし分ってもいません。明晰な気づきであるにもかかわらず考えることがないので自分自身の存在について気がついていないのです。なぜなら、自分自身を顧みるということがないからです。」また、その少し後に次のようにも話しました。 「真我は真我自身について何も知らないし分かっていないのです。自分の存在性にさえ気がついていないのです。神は神自身について何も知らないのです。だから、ただ在るだけの存在なのです。それを感じるのは現象世界が立ち現れた後の事なのです。究極の純粋性であるが故に神が神を感じ、神が神について考えられるようになるのは現象世界が現れた後の事なのです。 」

 これは私が真我の直接体験から得た真理の一端です。神は、ただ在るだけの存在です。神が、神ご自身について自分が何者であるのかということを考えることはありません。従って、自分が何者であるのかと考えることができる人間こそが決定的に他の生物と違う高等な生き物としての証拠であるとして他の生物種を劣等種扱いするならば、人間こそが神から最も遠い存在ということになります。更に理性や知性が高い者ほど価値があり優れた立派な人間として称賛に値するなどと考える人がもしいたとするのならば、そういう人ほど、ますます神から遠い存在になっていくのは間違いありません。

 マタイによる福音書18章の3節から4節にかけてイエス様は次のように仰られました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」同じくマタイによる福音書19章の14節「イエスは言われた。子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

 イエス様は神の本質を知っておられました。空(くう)を悟られていたのだと思います。ですから、私が誰かから森羅万象の中で最も神の純粋な性質に近い存在は何かと問われれば、それは何も考えることなく生きるためだけに生き、かつ、ただ存在するためだけに存在している赤ん坊か赤ん坊のような人間、或いは人間以外の天地万物という答えになります。もちろん人間も含めて、この現象世界の全ては神の現われであることに変わりがないのは言うまでもないことです。ただ人間は、神の純粋性から最も遠い存在というだけのことなのです。

 だからこそ、この事から必然的に導き出される真理の探究で重要になってくる精神鍛錬は何かということになると、あれやこれやと考えを巡らすことだけでなく、当然のごとく、ただ無心になることを目指す瞑想や座禅、それに類似する精神鍛錬法ということになります。

 また、それに関連付けて更に聖書を私なりに解釈したことを申し上げさせてもらうならば、ただ無心になることを目指す精神鍛錬法の実践が行きつくところはどこかというと、旧約聖書の創世記に出てくるアダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態につながるのではないかと私は考えています。アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態とは善悪を判断できる前の状態のことです。自分たちが裸であることに気づく前の状態です。自分自身を顧みることが出来る知恵を身に着ける前の状態です。私は真我の直接体験とは、神によってエデンの園を追放される前の無原罪の状態に戻ることを意味するではないのかと思っています。少なくとも一脈通じるものがあるのではないのかと感じています。なぜなら、善悪を知るとは私やあなた、あそこやここといった彼我の差を認識することでもあるからです。故に、現象世界の全てを一者の現われとして平等に見る必要があるのです。善悪を判断する個としての私など元から無いことに気づかなければなりません。私という主体がない無我の境地です。お分かりいただけるでしょうか。そういう意味において旧約聖書も物語や譬えを用いて真理を伝えようとしているところもあるのではないかと私は思います。

 いずれにせよ、チューダパンタカのように存在性そのものまでも一度にいっぺんに消滅させ一気に空(くう)の段階まで行くのはなかなか難しく無理かもしれません。人それぞれやり方は多種多様だと思いますが、まずは私という主体性のない我無しの気づきを得られることを目標にするのがいいのかもしれません。くじけることなく根気よく、それでいて執着することなく気長な気持ちで腰を据えて人生のテーマとして悟りを目指していただけたらと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

真我や空(くう)は人智を超えた深遠な存在‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

youtu.be

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が29回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 では、本題に入ろうと思います。どの回だったかは思いだせませんが、以前の動画内で私は自分の人生に対して責任はないと言ったことがあると思います。これを聞いた人は、私が随分いい加減な人間だと思ったのではないでしょうか。そう思われても仕方がないと思います。普通の世間一般の考え方しか持ち合わせていない人であるなら、私に対す評価はそれで構わないと思います。私も気にしません。しかし、悟りを目指す人ならば、私がなぜそんなことを言ったのかという真の意味を考える必要があると思います。

 私はいつも、私は神の奴隷であり私は神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っています。そこから推測できると思いますが、それから当然のごとくたどり着く答えは、主体と言えるものが私にない以上、私は私の人生において責任は全くないということになるのです。全ては起きるべきことが起こるがままに、ただ起きていることから、如何なる事であろうとも、たとえ故意であろうと過失であろうと人や物を傷つけることが起こったとしても、真我の視点からすれば、その一連の流れには一切責任が無いということになるのです。もちろん、その行為が何らかの法に触れるのであれば、それは違法なこととして刑事民事共に責任を取らされ、加えて法律以外のところでも世間一般で言われる道義上の責任を取らされることになるのは間違いありません。言うまでもなく、これが人間として生きる上での社会的なルールです。さらに外的なものだけでなく人の内面から湧き上がる感情面において罪悪感に苛まれることもあると思います。私も日常の社会生活を普通に送っている人間の一人として当たり前のことですが、それらの事は、この世で人として生きる限り避けては通れない当然の因果として認識しています。私が言っているのは、あくまでも真我の視点に立った場合、この世のことは全てただの映画だから台本通りプログラム通りに動いている登場人物には何の責任もないと言っているのです。

 ですから、そのような考え方に立てば、この世で起こる如何なる事であろうとも、それはあくまでも映画の中だけの事、幻想の世界の中だけで起きていることでしかないと言っているのです。よって、その行為の責任が幻想の世界の範疇を超えて、この世以外の例えば死後の世界とか来世といった別のところに引き継がれるなどというようなことは絶対にないのです。なぜなら、この世界は何度も言うように幻想の世界でしかないからです。唯一の実在は真我のみであり、それ以外は真我が経験したいことを経験するために作られた、ただの映像だからです。従って、この世での悪業よって死後地獄に落ちるとか来世に畜生に生まれ変わるなどという話しも単なる幻想の物語に過ぎません。単なる戒め以上の意味はないのです。

 まさに白い画用紙上に描かれた絵画のようなものです。少し図解してみます。図解といっても今のところ私にはAIを駆使した動画を作成する知識がなく白い画面をお見せするだけになってしまいます事をご了承ください。また、実際の空(くう)は、このようなものではありませんし、本来言語や映像を使って説明できるものでもありません。偶像崇拝禁止とは如何なる手段を用いようとも、それを表現することは不可能であり頭を使って理解できるようなことでは到底ないという意味なのです。従って、それを体験したことがない人が譬えを聞いたからといって、それを頭で理解できるような代物でもないことをお断りしておきます。あくまでも、疑似的なイメージを抱かせるための譬えであり、直感的な理解を呼び起こすための誘い水という事になります。

 今見ているのが空(くう)の世界です。画面いっぱいに広がった真っ白で何もない世界が空(くう)です。枠が書かれていないのは果てのない無限の世界を表しています。私がいつも言っている真我とは空(くう)の世界のことです。

 自我のない純粋意識とも言えるその真我には、肉体はありませんから感覚などというものはありません。旧約聖書出エジプト記3章に書かれている神の名前が示す通り、ただ在るだけの存在です。そこは、現象が始まる世界でもあり現象が終わる世界でもあります。だからアルファでありオメガなのです。そして、その存在は、それ以上のものが他にない究極の絶対的存在とも言えます。だから最初のものであり最後のものなのです。ですから不動なのです。だから空(くう)なのです。不思議なことに、それはそれ自体で何かを考えるということはありません。従って、真我は自分自身について何も知りませんし分ってもいません。明晰な気づきであるにもかかわらず考えることがないので自分自身の存在について気がついていないのです。なぜなら、自分自身を顧みるということがないからです。思うにそれは、それしか存在していないことに起因するからかもしれません。

 たぶん道端や荒れ野に生える雑草は自分が道端や荒れ野に生える雑草であることに気づいていないはずです。雑草が自分は何者であるのかという事を考えるでしょうか。ありとあらゆるものは空(くう)の中で生じているので雑草にも仏性はありますが、雑草は雑草としてただ生きているだけです。雑草は自分が雑草であることを知らないし自分の存在性にも気がついていないのではないかと思います。それと同じように真我は真我自身について何も知らないし分かっていないのです。自分の存在性にさえ気がついていないのです。神は神自身について何も知らないのです。だから、ただ在るだけの存在なのです。それを感じるのは現象世界が立ち現れた後の事なのです。究極の純粋性であるが故に神が神を感じ、神が神について考えられるようになるのは現象世界が現れた後の事なのです。それを体験したことのない人には全く理解できないことでしょうが、私が真我の直接体験をした際の真我とはそういう存在なのです。本当に真我や空(くう)とは、人智を超えた深遠な存在としか言いようがありません。ですから、まさしく虚空を掴むようなことになることから「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」と出エジプト記207節に書かれているのです。故にユダヤ教キリスト教では、軽々しく神の名を語るような真似をしてはいけないと教えられるのです。

 また、それに関連して今画面に出ている「יהוה 」神聖四文字は右から順に読むと י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)というヘブライ語22文字のうちの3文字で構成されています。旧約聖書新約聖書に登場する唯一神の名前を表すそうです。アルファベット表記では、御覧のようにYHWHと書いてヤハウェと読むようです。しかしながら、元々の י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の四文字は子音だけで表記されていて母音がないために正確な発音が分からず現在でも神の名前の正確な読み方は分かっていないということになっているとのことです。

 ヘブライ語については付け焼刃的知識なので今の説明が正しいのかどうかも怪しいですが、これについても私なりの私見を恐れることなく忌憚なく言わせてもらうならば分からなくて当然というのが私の考えです。

ウィキペディアの「ヤハウェ」の欄には紀元前516年から紀元後70年までの第二神殿時代より前の古い時代において自由に口にされていたものの、第二神殿時代以降では公の場でי (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)で表記される神の名前を話すことはタブーと見なされるようになり、代わりにユダヤ人はその名前を私の主という意味のアドナイという言葉に置き換え始めたようであると書かれています。

 私はこの四文字のי (ユド)、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)は神を表すただの記号でしかなかったのではないかと思います。ですから記号を記号として、どう読んでいたかなどはどうでもいいことです。これも偶像崇拝禁止の一環です。だから分からないままでいいのです。究極のただ在る存在に名前があってはいけないのです。出エジプト記3章14節に名前を尋ねたモーセに対し「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神が答えた記載がありますが、これはただ在ることしかできない存在の性質を言われたものなので神の名前と言えるものではありません。そもそも唯一の実在は神お一人だけで他に実在と言えるものはないのですから名前など必要ないのです。名前を付ける必要は元からなかったのです。もちろん、四つの子音文字には、それぞれの意味があります。そこで、文字の意味を私なりにつなげて神を意味する四文字を簡単に解釈してみようと思います。

 なお、文字の意味を解釈する上で北海道砂川(すながわ)市で空知太(そらちぶと) 栄光キリスト教会の牧師を勤める銘形秀則(めいがた ひでのり)さんという方が開設しておられる「牧師の書斎」というウェブサイトに「ヘブル語の文字に表せられた意味」というページがあったことから、そこを参考にさせていただきました。

https://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?cmd=read&page=%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AB%E8%AA%9E%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0&word=%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AB%E8%AA%9E%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88

 

 また 同じく「牧師の書斎」ウェブサイト関連の「ヘブル語アルファベット意味 」PDFも参考にさせていただきました。

 https://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_CB7Amj.pdf

 

 さらに、kirinさんという方が書かれた2022925日付けの『ヘブライ語のアルファベット(ヘイ、ヴァヴ、ザイン)』     

https://note.com/kirin_maho02/n/n00367a70aa75

 

 同じくkirinさんの202210月1日付けの『地球の平和を願うヘブライ語Yud」(ユド)の重要語句』

 https://note.com/kirin_maho02/n/n4be2c2ce3fee 、

 

 更に同じくkirinさんの2022926日 付けの「ヘブライ語のアルファベット(チェス、テト、ユド)

https://note.com/kirin_maho02/n/nc78eb2e019d2

 

という三つのブログにも大変興味深いことが書かれていたので、そこも参考にさせていただきました。参考元の銘形さんが公開されているウェブサイトとkirinさんのブログのURLは説明欄に載せておきます。是非ご一読されることをお勧めします。聖書を理解する上でヘブライ語の文字の意味を考慮しなければならない重要性を私は感じました。

 それでは、参考としたヘブライ語の文字の意味が正しいという前提で話しをします。 神の名前を表すとされるי (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の四つの文字にはそれぞれ色々な意味があります。 י (ユド)には 「ユダヤ人」「神の手 」「継続」「一点一画の一点」という意味があります。ה (ヘイ)は「ここにある」や「見張る 」「窓」「呼吸」という意味があります。ו (ヴァヴ)は、「単語の前につけて過去を未来に、または未来を過去に変換する」という意味や「決定する」「一点一画の一画」という意味があります。また、「高い階層と低い階層をつなぐシュート」を意味するそうです。 最後のה (ヘイ)は先ほどのה (ヘイ)と同じものですが、多分違う意味合いになるのではないかと思います。

 私は言語の専門家でも何でもありませんしヘブライ語の文法は全く分かりませんので全くの当てずっぽうということになりますが、先ほど申し上げた文字の意味を適当につなげて、それらしく誰にでも通じるように文章を組み立てると次のようになります。「窓から見張り決定する神の手」です。これなら意味のある文章として通用するのではないでしょうか。

 説明をします。窓とは何でしょうか。神は私たち人間の体に神であることを忘れて自己同一化しています。つまり、神は感覚器官を持つ私たちの体を通して現象世界を体験しています。ですから、私たちの体が神の窓になります。そして、この神が同一化する対象は人間だけではありません。神は私たち人間のみならず全ての天地万物に宿ることにより現象世界の全てを知るのです。故に、それにより神は全ての森羅万象に対して決定権を持つのです。従って、旧約聖書の創世記221節から19節にかけて記述されているアブラハムが愛する息子を神が命じるままに生贄に捧げようとしたように、ありとあらゆることを神の手に委ねることが大切になる所以がここにあると言えるのではないでしょうか。私は、私の体と命をとうの昔に捧げ物として神に差し出しています。だから、私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っているのです。

 以上が、 י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の神を表す記号としての意味ではないかと思います。しかしながら、これは私独自の解釈であり何の確証もない完全に当てずっぽうなので、ただのたわ言として右から左へと聞き流して忘れてもらって結構です。

 話しを白い画用紙に譬えた空(くう)の方に戻します。私は昨年の5月に真我の直接体験をしました。真我の直接体験をしている最中については過去動画を含め既に何度か申し上げた通りですが、改めて、その状況を説明しますと、その日、私は仕事で疲れて家に帰宅しました。着替えて直ぐに座椅子にもたれかかるように寝そべりました。その後のことは私にもよく分かりません。なぜそうなったのかは分からないのです。寝ていたわけではありません。なぜなら私は、在るとして在り気づいていたからです。ただ在る存在として存在していたのです。まさしく何もない空(くう)としか言いようがない状態として私は在ったのです。ただ在る気づきとして、気づいていることに気づいている純粋な気づきとしてただ在ったのです。その純粋な気づきが全てとして在ること以外には何もない空(くう)という言い方がふさわしい状態でした。そして、その一者としての空(くう)から現象世界が立ち現れたのです。その過程を申し上げるならば、自分自身の存在性に気がついていない、その純粋な気づきの状態の中に存在性がいつの間にか現れました。あるという存在性です。これは二元化、相対化の始まりだと思います。最初は左腕の方からだったと思います。その左腕の存在性が徐々に広がって頭や胴体となり足となり体全体の感覚となりました。目を開けると様々なものが比較されることで認識される現象世界が現れました。そして、それと共に私という自我もあることに気がつきました。なぜ左腕の存在性が最初に現れたのかは分かりませんが、左手首が額の上の方にあったからかもしれません。それが私における真我の直接体験の全てです。それからというもの私の意識の中には直接体験をした際の真我の感覚が離れることなく共にあります。

 この体験から現象世界は、あくまでも純粋に意識の中で生じているものではないかと思います。純粋な意識の中に全ての生老病死に伴う苦楽があるのです。私たち一人一人が自分の世界を毎日眠りから目覚めるたびに創造しているのです。それは神が神自身を知るために自分を対象化する必要性から生じたことかもしれません。多分さらなる探究の必要性があると思います。

 

 

 なんにせよ、一体全体、白い画用紙を譬えに使ったこの空(くう)の世界のどこに魂や死後の世界や生まれ変わりといったものがあるというのでしょうか。それらのものが見える感じるという人の話しを否定はしません。確かに、その人には霊が見えたり感じたりするのだと思います。

 

 

 私自身も過去に不思議な心霊体験を何度かしたことがあります。ですから心霊体験という体験自体はあると思います。しかし、それら全ては私自身の心霊体験も含め幻想です。白の画用紙の中に描かれた、その人が経験する人生の一部としての幻想の物語でしかありません。霊を感じる或いは霊が見えるという幻想の人生を生きているだけに過ぎません。

 

 そこに気づくことが、いわゆる悟りなのです。それに気づけば当然のごとく生まれ変わりなど元からないことが分かりますから輪廻などもないことも分かるようになります。それが世間で一般的に言われている解脱です。お分かりいただけたでしょうか。

 今回は真我や空(くう)は、人智を超えた深遠な存在というテーマで話しを進めてきましたが、話しがあっちに行ったりこっちに行ったりと分かりずらかったかもしれません。なるべく一貫性を持たせて話しを進めようと思うのですが何とか理解してもらいたい一心で色々な話しを盛り込んでしまいます。また最初の方で申し上げた人生において何の責任もないという話しは、あくまでも真我の視点から見ればという限定条件付きであるということを忘れないようにしていただきたいと思います。人として生きる限り全ての行為に責任が伴うことは言うまでもありません。そこら辺の線引きは、しっかりと認識しながら悟りを目指していただきたいと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。