私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

バガヴァット・ギーターは悟りには必須の書‼



 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

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 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が27回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私はキリスト教徒ではありません。何か特定の宗教を信仰しているわけではありません。従って、キリスト教に関連する題材だけにこだわるつもりはありません。私の信仰は真我に根付いたものですから真理が語られているものなら、どの宗教の聖典であってもこだわりなく取り上げます。そういうことですので、前作動画の何本かでキリスト教関連の動画が続いたことから次は違うものにしようという思考がやってきたこともあって、今回はヒンドゥー教聖典であるバガヴァット・ギーターについてお話しすることになりました。

 ウィキペデイアには、バガヴァット・ギーターはサンスクリット語で神の詩という意味があり「ラーマーヤナ」と共にインドの二大叙事詩の一つと言われる『マハーバーラタ』第6巻に収められていると書かれています。成立時期は紀元前5世紀頃から紀元前2世紀頃までの間とのことで著者は伝統的に登場人物の一人でもあるヴィヤーサとされているようです。

 バガヴァット・ギーターの内容は、「マハーバーラタ」の中で語られるクル族の領土の支配権をめぐる親族間の戦争が今まさに始まろうとしている矢先、その同族同士の争いに葛藤し戦いを躊躇するアルジュナと戦士としての務めを果たすことこそが神の意思そのものであることを諭す御者を務める神の化身であるクリシュナとのやり取りがメインになっている物語です。

 その同族同士の戦いは激烈を極め18日間にもわたり、主人公であるアルジュナは最終的に戦いに勝利はするものの両軍共にほとんどが戦死をしてしまい生き残ったのはわずか数名になってしまうほどのものでした。一族が滅んでしまうかもしれないほどの激しい戦いの発端は何かといえば人の嫉妬心です。アルジュナのいとこにあたるドゥルヨーダナが、神々の子であるアルジュナを含む5人の兄弟にあらゆる面で遠く及ばないことに嫉妬し敵意を持ったことにはじまります。ドゥルヨーダナはアルジュナたち5人兄弟を殺そうとしますがうまくいきません。しかもドゥルヨーダナの父は統治していた王国の半分を甥であるアルジュナ5人兄弟に与えてしまいます。

 この事で恨み骨髄に徹したドゥルヨーダナは賭博の達人を使って彼らを滅ぼそうと企てます。そして、この賭けに乗ってしまった5人兄弟の長男であるユディシティラは賭けに負けせっかく叔父から譲り受けた王国と全財産、ユディシティラ自身とアルジュナを含む弟たち全員、5人共通の妻であるドラウパティもドゥルヨーダナに取られてしまいます。しかし、これを見かねたドゥルヨーダナの父であるドリタラーシトラ王は全てなかったことにして全員を解放し王国も財産もユディシティラに返してしまいます。これで元に戻って一安心ということで、この一件からユディシティラが自分の愚かさに気づき二度とドゥルヨーダナの悪巧みに騙されることなく賭けをしなければ良かったのですが、またも誘いに乗ってしまいます。二度目の賭けでの敗者は12年間森で暮らし13年目は人に知られないように生活しなければならないという条件した。当然、二度目も相手は賭けの達人でしたからユディシティラは負け、共通の妻のドラウパティとアルジュナを含む4人の弟たちは共に苦行者の身なりで森に入っていくことになります。多分、この時の全員が沈痛な面持ちだったのではないでしょうか。特に、愚かな兄に付き従わなければならないアルジュナたち4人の弟たちは本当にやり切れない気持ちだったのではないかと思います。しかし、どんなに愚かな兄であっても、その兄に忠誠を尽くす兄弟の絆は何よりも強かったということなのかもしれません。もちろん妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨みから、いとこであるにもかかわらずユディシティラたちを殺そうと企んだドゥルヨーダナが一番悪いことに変わりはありません。それを分かっていたからアルジュナたち弟たちは兄のユディシティラを見限ることなく最後まで従っていたのではないかと思います。そして、その後の様々な苦難ののち13年もの長いあいだ人知れず生きていかなければならなかった生活もやっとのことで終わりを告げたことで、ユディシティラたちは当然の権利として王国の半分の返還を要請します。しかし、どこまでも憎しみに囚われていたドゥルヨーダナは聞く耳を持たなかったために遅きに失した感がありますが、ここに至ってようやく穏健なユディシティラやアルジュナたちも堪忍袋の緒が切れたということで遂に両者の間で戦争が起こることになったのでした。それにしても両者が戦争に至るまでの話しが本当に長いです。これでユディシティラやアルジュナたちが我慢に我慢を重ねてきたことが分かります。

 ここまでがマハーバーラタに書かれている戦争が起こるまでの話しですが、バガヴァット・ギーターは、戦場で両軍がにらみ合い戦いが今まさに起ころうとしているなかで親族同士が殺しあわねばならないことに苦悩するどこまでもお人好しなアルジュナに対して、戦車の御者を務めるクリシュナが二人の対話形式をとりながら、この世の真理を教え諭すことで戦いへの疑問を晴らすという話しであることは先ほど申し上げた通りです。

 ところでアルジュナが乗る戦車の御者を務めるクリシュナは神様です。それも最高神の一人です。自ら不生・不変・万物の主であると語ります。その最高神の一人であるクリシュナから直に戦いへの迷いを捨てて戦士としての義務を果たすことの重要性が説かれるのです。父が息子に、師匠が弟子に伝えるようにクリシュナは、賢者が悟る境地をこんこんと言い聞かせ、それによりアルジュナは少しずつではあるものの迷いから抜けだしていきます。何の疑問も持つことなく、すべてを投げ出すがごとく、ただ行為に専念することを教えられるのです。これは悟りの境地の一つでもあります。このバガヴァット・ギーターには真理へと到達するための極意が書かれています。インドの聖者でもあるシュリー・ラマナ・マハルシもバガヴァット・ギーターについて何度も読むようにと言っているくらいですから、あなたが、もし、悟りを得たいと思うのであるならば以前にご紹介した「アシュターヴァクラ・ギーターと共に必ず読んでいただきたい本ではないかと思います。私の過去動画を見ている人であるならば、余計なことを考えることなく今やるべきことに集中することの大切さは十分わかっているはずです。要するに、そういった教えが書かれているのです。

 ここで簡単にインドの神様についてウィキペディアを参考に説明しておくと、創造神であるブラフマーと宇宙の維持者・守護者であるヴィシュヌと破壊と再生を司るシヴァという三人の神様がヒンドゥー教の中にいらっしゃいますが、クリシュナはそのヴィシュヌ神の化身ということになっています。ヒンドゥー教では、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相を三神一体(トリムールティ)と言うそうです。そして宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能を、それぞれブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという形で神格化したものであることから、三人の神様は元々一つということで、いずれも最高神として力関係の上では同等とのことです。

 私は、この三神一体という考えはキリスト教の三位一体に通じるものではないかと思いました。また、この三神一体の神々を、純粋意識である真我と自我と顕現した現象世界というように言い換えることが出来るのではないかとも思いました。なぜなら、それら純粋意識・自我・現象世界の三つはそれぞれ分離することなく常に一体としてあり続けているからです。その真我より現れ出た現象世界の根底に常にある力は、まさに創造と維持と破壊の機能という力なのではないかと思います。

 それでは、ここから一体どの様な事をクリシュナがアルジュナに言って戦闘に専心するように諭したのかを取り上げていこうと思います。なお、今回の動画で文章を引用するのは岩波文庫から出ている上村勝彦さん訳の「バガヴァット・ギーター」です。

 その本の中の1章目から2章目にかけてアルジュナは御者のクリシュナに、睨みあう両軍の間に戦車を止めさせて次のような事を言います。1章32節「クリシュナよ。私は勝利を望まない。王国や幸福をも望まない。ゴーヴィンダよ、私にとって王国が何になる。享楽や生命が何になる。」(ゴーヴィンダは、クリシュナ神の別名で「牛飼い」という意味です。)1章34節「師、父親、息子、祖父、叔父、義父、孫、義兄弟、その他の縁者たちが。」1章35節「彼らが私を殺しても私は彼らを殺したくない。たとえ三界の王権のためでも。いわんやこの地上のためには・・・・。」アルジュナは弱気な発言を繰り返し戦車の座席に座り込み弓と矢を投げ出し2章9節「私は戦わない」と言って敵軍を前にして沈黙します。それを聞いたクリシュナは微笑してアルジュナに言います。2章11節「あなたは嘆くべきでない人について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。」と真理を語りだします。私からすれば物語の2章目において真理が端的にあらかた説かれてしまっているのでこれ以上は必要なく十分とも言えますが、アルジュナには分かりようがありませんからクリシュナは根気よく18章まで説明をし続けます。

 2章19節「彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。」2章20節「彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても彼は殺されることがない。」2章21節「彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すのか。」2章22節「人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。」

 ここに真理の言葉があります。人は誰であろうとも死ぬことはありません。もとから生まれていないのですから死にようがないのです。生まれたと思っている私たちの体は私たちではありません。ただの映像です。私たちは純粋意識の真我です。2章22節の主体とは真我のことです。純粋意識に死などというものは存在せず永遠に存在し続ける不滅の命なのです。

 主人公であるアルジュナは歴史上本当にいた人物なのかどうか、モデルになるような人物がいたのかどうか、或いは全くの空想の人物なのかどうかは分かりません。しかし、アルジュナは人と人とが争い殺しあうことへの良心の呵責に思い悩む典型的な優しい人間として描写されています。神の化身のクリシュナに分別くさいと言われるくらいですから、よほどこの世の常識と言われるものでガチガチに凝り固まっていたのではないかと思います。しかし、世間一般の普通の人であるならアルジュナのように感じるのは当然ことだと思いますし、アルジュナのような感覚を感じないほうがおかしいとも言えます。その普通の人代表としてのアルジュナに対して神であるクリシュナは、分かりやすく丁寧にこの世における神が定める理(ことわり)を説きながら進むべき道を示そうとします。

 2章47節「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。」2章48節「アルジュナよ。執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」2章51節「知性をそなえた賢者らは、行為から生じる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。」

 ヨーガとは成就のことです。つまり真我との合一の境地です。真我との合一は平等の見地の獲得でもあります。この世は相対性で成り立っています。善があるから悪があり、また、その中間もあります。誕生があるから死もあり、また、その中間もあります。それらすべては観念であり、いいも悪いもありません。そもそも、ものの善し悪しという尺度さえも変化し一定ではありません。ありとあらゆるものが可変のものです。変化するものは実在ではありません。私たちの存在意義は映像としての意義以上のものはありません。アルジュナのように私やあなたが、この世の不条理にいくら嘆き悲しんだところで映画のストーリーが変わることはありません。その感情の起伏自体が物語の一部だからです。目の前にあるもの以外のものを望んだところで物語の設定を超えたものが現れることはないのです。だからクリシュナは定められた行為に専念しろと言うのです。生きている限り決められた行為をし続けることしか出来ないからです。それに気づきなさいとクリシュナは目覚めることを要求しているのです。

 それに対しアルジュナは2章54節「智慧が確立し三昧(さんまい)に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」と問います。

 クリシュナは答えます。2章71節「すべての欲望を捨て、願望なく私のものという思いもなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。」2章72節「アルジュナよ。これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終のときにおいても、この境地にあればブラフマンにおける涅槃に達する。」

 真我の直接体験は、その人の迷いを取り払います。あると思っていた世界はどこにもなく、自分と思っていた体もどこにもないことを知るに至るからです。従って、私というものも元からどこにもなかったことを理解するのです。あるのは唯一の実在である唯あることしかできない言葉にすることなど到底できない実在の真我のみです。つまり、ここでいう至高の存在であるブラフマンだけが実在なのです。

 これを聞く人が至高の存在であるブラフマンに至ることを望むのであるならば、その人が心から信じる神仏に帰依し自分自身の全てをその心から信じる神仏に明け渡すことが必要になります。人生を生きる上で生じるどのような困難があろうとも不平不満を語ることなく、それは自分に課せられた試練としてあるがままに受け止める必要があります。本の中では放擲という言葉で語られています。

 クリシュナは言います。3章27節「諸行為はすべてプラクリティ(根本原質)の要素によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた者は『私が行為者である』と考える。3章28節「しかし、勇士よ、要素と行為が〔自己と〕無関係であるという真理を知る者は諸要素が諸要素に対して働くと考えて執着しない。」

 私の理解ではプラクリティ(根本原質)とは現象世界のことです。その現象世界が顕現するためには純質・激質・暗質の三つの要素が必要になります。幸福と知識との結合により束縛を生む純質、行為との結合によって束縛を生む激質、怠慢・怠惰・睡眠との結合によって束縛を生む暗質です。この三要素をグナと称します。現象世界が現象として現れるための法則としてグナと呼ばれる三要素が組み合わさることで現象世界が織りなされます。現象世界の根底には現象世界を規定する物質的原理と精神的原理の二つがあります。純質は汚れなく輝き照らし煩いのないものであり、激質は激情が本性であり割愛と執着を生じさせ、暗質は無知から生じ知識を覆って一切の主体を迷わします。その純質・激質・暗質の相関関係によって様々な精神活動と諸行為がなされるのです。その三要素を超越したとき人は生老死苦から解放され不死となるとクリシュナは言うのです。

 つまり、すべての行為は煩悩と因果・因縁に基づいてなされますが、しかし、その行為はあなたとは何の関係もないのです。あなたは体ではないからです。あなたは真我であり鑑賞者です。体や体が行う行為は、その定められた運命に従って動き働き続けるだけです。自我に囚われた人はそれが理解できません。悟りを得た人は真理を知るがゆえに行為に伴う様々な思いに執着することなく定めに逆らうこともなく運命に従うだけなのです。

 だからクリシュナは3章30節「すべての行為を私のうちに放擲し自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく『私のもの』という思いもなく苦熱を離れて戦え。」とアルジュナを鼓舞するのです。さらにクリシュナは言います。3章35節「自己の義務の遂行は不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。」

 アートマンとは至高の存在であるブラフマンが一人一人の個我として現れ出たものですが、ここでのアルジュナがやらなければならない義務とは戦闘に参加して戦うことです。敵を殺すことです。それが神によって運命として定められたアルジュナが遂行しなければならない行為です。だから至高の存在でもあるクリシュナにすべてを明け渡し自分の生き死にに執着することなく、たとえ親族同士で殺しあわなければならないことであっても、一族全員が滅ぶようなことがあっても運命としてやらなければならない行為はしなければいけないこととして、それが何であろうとこの世での自分の務めをしっかりと果たしなさいとクリシュナは言っているのです。

 本の中では様々なことがクリシュナを通して語られますが、全編を通してバガヴァット・ギーター内で語られることは簡単に言ってしまえば、戦士が戦士としてしなければならないことは戦うことだから、つべこべ言わずに戦いなさい。それが神の意思なのだから。人間の務めは神の意思にただ従うことだけだと言っているだけの事なのです。クリシュナは色々と論理を尽くして穏やかに宥(なだ)めすかしながらアルジュナを説き伏せ、最後の方では迷いがなくなったアルジュナは戦いの中に身を投じていくことになります。

 このクリシュナの教えを私たちが現代の生活の中で当てはめて実践するならば、それは一人一人が心から信じる神仏に対して一切の行為の全てを委ね、私が行為をする若しくは私が行為をしているという思いの放棄をして今しなければならない定められた行為を迷わず行うということになると思います。つまり心の放棄をして無心になって、やらなければならないことを唯するということです。私が私であることの放棄、あなたがあなたであることの放棄です。それが神仏への帰依です。私がいつも言っている、私は神の奴隷であり、神の操り人形であり、プログラム通りにしか動かないロボットであることを受け入れるということです。

 ウェキペディアのバガヴァット・ギーターの欄のところには小難しいことがたくさん書いてあります。同じようにバガヴァット・ギーター内にも小難しいことがけっこう書かれています。バガヴァット・ギーターの作者を含め過去多くの賢者たちが、何とかして現象世界の顕現の仕組みについて理論構築しようと苦心してきたであろうことがこれで推測できます。しかし、過去動画で何度も私が言ってきたように真我の直接体験を、その体験をしていない人に納得できるように描写するのには困難が伴います。なぜなら、いかに表現しようとも、それさえも物語の一部に過ぎないからです。その表現が数学的であろうと幾何学的であろうと文学的であろうと哲学的であろうと、いかなる学問的な表現を使おうとも全てが物語の一部なのです。この事から学問的に理解しようとする頭脳の方向性の変更が求められていることに気がつかなければいけないと思います。従って、本を読み進めていく上では最低限の用語の意味を理解しておくことは必要ですが、そのすべてを完全に理解する必要はありません。私にも今もって理解できない用語があるので何から何まで分かろうとする必要はないと思います。すべての用語の意味を理解していない私でも真我の直接体験はできたのですから、用語について頭での理解はそれほど重要ではないということになります。何度も言うように、そもそも真我は現象世界を超えたものですから、形として見えるものより、目に見えない感性や感覚を大事にすべきだと思います。実際の体験は理論を超えます。実際の体験は言語で語りつくせるものではないからです。故に実際の体験と本の中に書かれている事とは必ずしも一致するものではありません。頭で理解しようとしている限り、真我への到達はあり得ませんし真の理解もないと思ってもらって差し支えはありません。 

  

 私は、自分では意識したことはなかったのですが、人から右脳の人と言われた時があります。だいぶ前の事なので、その人が、どういう意味で言ったのか真意は分かりかねますが、左脳は論理的な思考を管理し、分析的処理に優れ言語、計算、理論などの概念的な思考を担うところと言われています。一方、右脳は記憶力や想像力を担い主に感情を管理するところと言われています。そして右脳は、視空間性や非言語性の情報処理能力を司り、直感的で全体把握に優れていると言われているところでもあります。確かに私は論理よりも自分の感性や感覚、直観というもののほうを大事にします。だから、予防接種を会社の同僚全員が2回3回人によってはそれ以上に繰り返すなかで私一人は打つことはありませんでした。打たないでいる不安よりも打った後の不安のほうが大きかったからです。より正確に言うならば私は打たないでいる方が完全に安心していられたのです。ですから、その感覚に私は素直に従い打たない選択をしました。当然、打たないことで生じる様々な不利益の全てについては引き受ける覚悟をしたうえでの決断です。結果、その決断は間違っていなかったと私は思っています。

 そして、この感性や感覚、直観を大事にする思考は予防接種を受けると判断した逆の場合にも当然当てはまります。受ける方が受けないことよりも安心する感覚があったのであれば、のちの結果が良かろうと悪かろうと、その人のその時の判断としては正しかったのではないでしょうか。予防接種を受けたことに間違いはないと考え続けることも正しいのです。予防接種を受けること受けないこと、いずれの選択であっても神が設定した物語通りにすべての人は行動しているだけなので、これについてもいいも悪いもないのです。これも平等に見る必要があります。クリシュナの教えは変わることなく現代の私たちの生活の中にも当てはめることが出来ると思います。

 もちろん、私は常に自分の感性や勘に従うというわけではありません。論理に従う必要がある場合には当然論理に従います。ただ、私の場合はその時の選択として自分の命や体に関わることだったので自分の感覚を信じて周囲に流されることはしないという選択をしただけの事です。それは世間の常識や科学的根拠と言われる理論に基づいた合理的に正しいとか正しくないといった論議を超えたものです。

 それと同じように至高の存在である真我を頭で理解しようとしても絶対に理解することはできません。頭で考えても考えるだけ無駄というものです。論理を超えているからです。感じることしかできないものだからです。しかしながら、それは感覚さえもない現象世界を超えたところにあるものですから本当は感じるということもないのです。なぜなら、それは、ただ「ある」ことしかできない存在だからです。これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが矛盾はありません。

 なぜ感覚さえもない現象世界を超えたものなのに感覚でしか感じることができないというのか疑問に思う人がいるかもしれませんが、それについては通常の意識と感覚がある現象世界の中で、私自身が真我に到達した際のことを思い返し記憶の中に残る、その時の体験を視聴者に何とかして説明しようとすると、どうしても記憶の印象から受ける感覚的なものになってしまうというわけなのです。私の真我の直接体験は言葉では言い表せない純粋で明晰な気づきとしての体験としか言いようがありません。実際、相対性を超えた比較できるものが何もない究極の存在を相対性の世界で言い表すには無理があります。むしろ、それを言葉で表現しようとすればするほど、それから遠くなり言っていることが空虚になります。ですから主だった宗教で偶像崇拝が禁止されるのはそのためです。人格を持たず二つとなるものを持たない一つなる存在だからです。従って、最終的には人としての論理的思考はもとより感性や感覚さえも超えていく必要があることから、まずは左脳で論理的に理解するようにするよりも右脳的な感性や感覚を重視した方が経験上いいような気がするので、そのように言っているのです。しかし、これさえも私の感覚的なものなので誰にでも当てはまるとは言えないと思います。

 繰り返しになりますが、至高の存在である唯一無二の実在を感じるには意識は現象世界の常識を超える必要があります。これは100パーセント真実です。だからと言って魂や幽霊や死後の世界を信じろと言っているわけではありません。そんなものは、あくまでも現象世界の中の幻想の物語の一部に過ぎません。魂や幽霊や死後の世界、生まれ変わりといった幻想さえも超えなければいけないのです。つまるところ私が言いたいのは仏教でいうところのすべては空(くう)であることの理解を目標にしていただきたいということなのです。そういう意味で空(くう)の教えを説く伝統的な仏教の教えは正しいと思います。そしてまた、私は、ただ神様や仏様を信じ拝んでいるだけで良いと言っているわけでもありません。一人一人が真我へ至るための探求をすることが大切ではないかと考えているからです。一人一人の空(くう)の悟りは本当に重要だと思います。だから私は、私が体験した気づきをお伝えすることで一人でも多くの人が真理へと至る探究の道を進むきっかけとしていただきたいと思い、おこがましいかも知れませんがそのような気持ちで動画を作製しているのです。

 話しを本の方に戻します。もしかすると、人によってはバガヴァット・ギーターが戦争を肯定し賛美しているように感じる人がいるかもしれません。そう感じる人はクリシュナが言っていることを全く理解していないと思います。この世は幻想であり、ただの映画に過ぎないことを分かっていません。そういう人は自我に囚われて、この世が実在していると勘違いしている人なのです。なぜなら、私たちは映画の中の登場人物に過ぎないからです。実際に目の前に台本があるわけではありませんが、映画の台本通りに演じ切るのが役者の務めなのだから、それに気づいて台本通りに演じなさいとクリシュナは言っているに過ぎないのです。だからクリシュナは私のうちに放擲しろというのです。物語を単純化すれば、それがバガヴァット・ギーターに書かれていることなのだと私は思います。バガヴァット・ギーターの話しを突き詰めれば、そういうことになります。お分かりいただけたでしょうか。

 多分、今回の動画は話しを端折り過ぎたうえに極端すぎてあまり参考にはならなかったかもしれませんが、真理の一端を知りたいという人でまだバガヴァット・ギーターを読んでいない人は直ぐにでも買って読んでいただきたいと思います。

 私が初めて「私は無い」という神秘体験をしたのは何気なく興味を感じた悟り系のスピリチュアル本を読んでいた時のことです。私自身のそういった実体験からも神を感じるための実践として、宗教にこだわることなく昔から聖典と言われている本を読むのは大切なことだと私は思います。ヒンドゥー教聖典の一つですので中には他宗教の聖典など読めないと拒否反応をする人もいるかもしれませんが真理に宗教の違いはありません。この本を異教の聖典、或いは非科学的などと考え、はなから相手にしない人は生涯真理を見出すことはないと言っても過言ではないと思います。たとえば科学者といわれる人たちが科学的と言われる手法で客観的事実をどれほど積み上げようと、それ自体が映画の中の出来事であることに気づかなければ何の意味もありません。映像を見るのではなくそれを映し出しているディスプレイ或いはスクリーンの存在に気づかなければいけませんし、最終的には映像の光源にたどり着き自らが自分自身の世界を映し出す光源そのものだったことに気づかなければいけないと思います。私は、たとえ一時的であっても、その光源にたどり着きました。たどり着いたからこそ、この世はただの幻想だと言えるのです。また、私は神という言葉をよく使いますが、その神という言葉さえも他に譬えようがないから便宜的に使っているだけのことで本当は世間一般で語られる有形無形を問わず神と言われるもの、その概念さえも、相対性を超えたところにはどこにも存在しないのです。しいて言うならば、この世界全てが神の姿そのものと言えるでしょう。

 私が動画内で使う神とか真我、創造主、純粋意識、空(くう)、ブラフマンという言葉は全て同じものを指しています。そこに違いはありません。その時々でふさわしいと感じた言葉を単純に使い分けているだけです。従って、通常仏教が神という概念を立てないというのも正しいのです。間違いはありません。しかし、それだと目指すべき目標があいまいになり何をよりどころとしたらいいのか分からなくなって彷徨い続けることになってしまうので視聴者が理解しやすいように当面の指針として神や真我、純粋意識、時には今回のように至高の存在やブラフマンという言葉を使うのです。真我にたどり着けば、自分自身が純粋な気づき以外の何物でもないことが分かります。その自分という思いさえもなく、何もない無でありながら有であり、有でありながら無である純粋な気づきにたどり着くことにより、世界と言われるものは元からなく、ただあるだけの存在であり、アルファでありオメガであり、初めであり終わりであり全ての全てである阿吽であることも理解できるようになるのです。世界の主だった宗教の教えの中には、その共通の真理があります。ただ、長い歴史のなかで、多くの人は違いにばかり目が行き、その共通の真理が見えなくなっています。違いにだけ目が行くから争いが生じるのです。宗教による争いを無くすには宗教間の違いに目を向けるのではなく共通した真理にこそ目を向けるべきではないかと私は思います。

 

 そういう意味で世界中の人すべてが神であるとも言えます。世界は神様だらけなのです。一人一人が自分の世界を創造している神様なのです。私も神様あなたも神様なので、そういう事からそれぞれが自分の世界を守りつつ相手の世界も尊重していかなればいけないのではないかとも思います。私などは真我に到達したことにより、やってくる思考も鑑賞対象であることが分かるようになったので自分で自分のことをいちいち神様などと考えるような不遜なことはしませんが、結局、真理を見出していない人に理解してもらうためには今言ったような人を引き付けるようなことを言いながら誰にでも分かる凡庸な言い方しかできないというのも致し方ないと思います。その辺りが、歯がゆく感じるところではありますが、そういう事もあって方便というものがあるのも分かります。

 以上の事から本の厚みとしては大したことはないけれども書かれている内容には厚みがあるバガヴァット・ギーターを読んでいただきたいと心より思います。もちろん読まないという選択があっても構いません。しかし、人によっては、もしかしたらそれで悟れるかもしれないのですから、異教の本、非科学的というだけで読まないというならば非常にもったいないなと思います。真理への気づきはいつどこで起こるか分からないのは確かです。ですから分別をつけることなく騙されたと思って、私が今回取り上げた岩波文庫のバガヴァット・ギーターは1,000円もしないものですから是非読んでいただきたいと思います。

 最後に至高の存在であるブラフマンと一体になれる人とはどういう人なのかが書かれている箇所を読み上げて終わろうと思います。14章の22節から26節に次のように書かれています。「彼は光明と活動と迷妄が現れた時それを憎まず、それが停止した時それを求めない。彼は中立者のように静止し、諸要素によって動揺させられず、諸要素が活動するのみと考え安住して動かない。彼は苦楽を平等に見て自己に依拠し(充足し)、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいものと好ましくないものを同一視し、冷静であり、非難と称賛を同一視する。彼は尊敬と軽蔑とを同一視し一切の企図を捨てる。このような人が要素を超越した者と言われる。不動なる信愛のヨーガにより奉仕する人は、これらの諸要素を超越してブラフマンと〔一体〕になることができる。」

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。