私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

体の中心が後頭部に移動した‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

体の中心が後頭部に移動した‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が16回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これを視聴されている方にお尋ねします。あなたは何かを考える際、一体どこで考えているでしょうか。そして「私」と思う中心はどこにあるとお思いでしょうか。それは頭でしょうか、それとも別のところでしょうか。もし、頭でものを考えているというのでしたら頭部のどの部分でしょうか。私自身について申し上げるのなら、私は2021年12月12日以前までは頭部の前頭葉あたりでものを考えていたという自覚があったのですが、あることがきっかけで、その日を境に私のものを考える場所が変化するようになりました。不思議なことに前頭葉あたりでものを考えていたと感じていたものが下がり出し、前頭葉より下の方で考えていると感じるようになったのです。それと共に頭部の上の方にあった、「私」の中心が頭の下の方に下がったと感じるようになりました。

 その私のものを考える場所と中心が下がるきっかけをこれからお話ししようと思います。自分でいうのも何ですが、私はもともといたって普通の人間で、結構、金銭欲や物欲が強いほうでした。中には、もとから物欲金銭欲の無い人もいるでしょうが、私の場合は、もっと沢山のお金が欲しい、もっと高価な物が欲しい、人並み以上の豪奢な生活がしたいという考えに日頃から取りつかれていました。しかし、そうは言っても私の収入はたかがしれており、たとえその金額が食べるに困らない住むところに困らない日々の生活をしていく上では十分なお金を得ていたにしても、私はお金持ちではない私の収入では不十分であり全然足りていないという思いを常時感じていたことから、私の心が望むような豪奢な生活にはほど遠いという不足感をいつも感じていました。その事から私は時折発作的にもっともっとお金が欲しいという脅迫観念的な欲求で頭が一杯になり心がとてもつらく苦しい状態に陥ることが度々ありました。

           

 その日も職場からの帰宅途上で自我が望む生活を満足させるにほど遠い収入が嫌になり、もっともっとお金が欲しいという発作的な欲求が湧いてきて心がとても苦しい状態になりました。お金が欲しいお金が欲しいという繰り返しの思考が後から後からやってきて、本当に嫌になるほどの苦しさに心が苛んでいました。もちろん、 私は、何百万分の一、何千万分の一の確率しかない宝くじなどに当たらない限り、いきなりどこからともなく大金が転がり込んでくるなどあるはずもないことを承知していることから、このお金お金という、やってくる思考は、宝くじに当たりでもしない限り大金は入らないということを確認するための思考であることを分かっていました。つまり、どういうことかと言うと、物語の創作者兼鑑賞者である真我は、現状に対して実現不可能なお金お金という思考と湧き上がる感情、体が受けるストレスを認識させ、心のうちの葛藤からくる苦しみを体験しているということなのです。私は、その苦しみの最中、どれだけ、この心の苦しみを味わえばよいのか、どれほどこの苦しみが続けば真我は満足がいくのだろうかという思いも同時に感じてもいました。お金への執着からくる何度も何度も繰り返される、この苦しみに嫌気がさし、私はほとほと私自身の自我に愛想が尽き死にたいという思いも込みあげ自我の消滅を本当に心から望むようにもなりました。

 そして、家路を急ぐ最中のお金お金という繰り返しの思考の次の思考は何かといえば、今の低い収入の人生でも仕方がないではないか。それがお前の人生設定だ。諦めろ、諦めろの思考でした。

 その思考がやってくると、今度は急に宝くじの自動購入設定を止めてしまおうという思考がやってきたのです。私はお金に執着心があることから宝くじの1等が当たればいいなという思いが以前からずっとあり、「私は無い」に気づく前から宝くじの自動購入をしていました。その自動購入を止めてしまおうという思考がやってきた途端、今度は、自動購入設定をしていることがたまらなく嫌になり直ぐにでも自動購入設定を解除したくて仕方がなくなりました。とにかく今すぐにでも自動購入を解除したいという欲求がつのり、それが重く苦しく心にのしかかり解除しないではいられなくなるに至って、帰宅途上で道路を歩いていた私はカバンの中からスマフォを取り出し宝くじの自動購入設定を解除したのでした。すると、なぜか心がとてもすっきりしたのです。欲深い自我が望む豪奢な人生を諦め現在の今ある人生をあるがままに生きる道を受け入れようと決めたことで心が軽くなるのを私は感じました。

 それから16日後の28日に気づいたことなのですが、不思議なことになぜか、いつのまにかそれまで感じていた生きる上での不安が完全に消滅したとまではいかないまでも、だいぶ軽くなっていることに気づきました。前頭葉あたりで考えていたと感じていたものが変化して、もっと下のあたりで考えていると感じるようになったのです。それと同時に頭の上の方にあった、「私」の中心が頭の下に下がったと感じるようになりました。もしかしたら、それまでの私は考えなくてもいいような生活上の不安を必要以上に考え、その不安に取りつかれていたのかもしれません。不安からくるお金に対する必要もない執着心を抱いていたのかもしれません。悟りへの必要条件としては必要のない先のことをあれこれと取り越し苦労はしない、生活上最低限必要なもの以上のものは望まないということが大切なのかもしれません。

          

 そして、ついに私の中心が後頭部に移動したことが決定的になる日がやってきました。それは2023年6月1日午前3時頃のことでした。私は小便をするためにトイレに立った後、ベッドの中でなかなか寝つけずにいました。だからといって目が完全に覚めていたという訳ではありません。眠れそうで眠れない中途半端な状態で目はつむりながら右に左に寝返りを打っていました。何度か目の寝返りをした直後のことです。それまで安定せずに頭の中であちこち動き回っていた私の中心が急にひとつのところに場所を定め落ち着いた感じを受けたのです。その場所は頭の後頭部でした。それと同時に、それまでやってくる思考でいちいち動揺していたせわしなかった心がピッタと動揺しなくなったことを感じたのです。心もまた定まるところに定まり落ち着いたという印象を受けました。物事を落ち着いた心の視点からも俯瞰して客観的に見られるようになった感じなのです。世界を頭の後頭部から見ている感じなのです。とても不思議な感じを受けます。それと同時に、全くなくなったという訳ではないのですが欲がめっきり少なくなったように感じます。なぜなら、欲に関連する思考が少なくなったからです。このことから、欲のほとんどが、やってくる思考に起因することが分かりました。

 お腹が減った、眠い、排尿排便、下半身のムラムラ、心身共に健全でいたいといった身体から直接受ける生理的な欲求以外の、あれが欲しい、これが欲しい、あれをしたい、これをしたいといった主に物質的活動的欲求というのは思考によって生じることが分かりました。

 今現在も体の中心が後頭部にあるという感覚があります。体の中心が後頭部に定まった感覚があってからというもの、そうでなかった時と比較して物質的な欲が本当に少なくなったことを感じます。それと同時に自分の体を通して見ている世界をより俯瞰してみることができるようになりました。私が人生の作者であるという作者錯覚はとうの昔にないのですが、人生は自分のものという没入感がより感じられなくなってきています。自分の体の動きや手の動きが、まるで私の意思とは全く無関係に自動的に動いているように見えるのは本当に奇妙で時には気持ち悪く感じるくらいです。体への自己同一性が薄らいでいる証拠ではないかと思います。

 更に6月23日には、その日は朝から調子が悪く頭の後頭部で軽い頭痛がしていました。胃も重苦しく気持ちが悪かったのですが、体温計で熱を測っても36.5度くらいなので平熱と言えるくらいのものです。朝起きてから時間が経つにつれ後頭部が、だんだんと熱く感じるようになり、午後に入ってからは更にとても熱く感じるのはどういうことなのだろうかと不安までは感じないものの疑問は感じていました。医者に診てもらうほどではないと思っていたので病院には行かず手持ちの頭痛薬を飲みました。頭痛薬が効いたのか夕方頃には頭痛も治まってきたのですが後頭部に感じる熱はその日寝るまで続きました。

           

 そして更に6月27日朝の7頃だったと思います。ベッドの中、眠りからは目覚めていたのですが、まだ頭がはっきりしない状態にありました。そんな時、さらなる確信が湧いたのです。それは、私は創造主の奴隷であるという絶対的な確信です。それと共に私は神の道具です。操り人形です。何なりと私にご命じ下さいという心からの望みも一緒なって湧いてきました。神の忠実なる僕としての切なる要望です。私は創造主を心から愛しています。私は神のためならどの様なことでも致します。私は神の道具として存在させていただいていることに喜びと感謝と大変な幸せを感じます。ですから、私に何なりとご命じ下さい。私は、そういう心境に至り、何とも言えない至福感に浸っていたのでした。さらに加えて、それまでの私の中心が一段と下がったように感じました。後頭部付近から口のあたりまで下がってきたようです。私は、いままで以上に安定してきているように感じます。中心が徐々に頭の上の方から下へ下へと下がってくるのと併せて雑念も減ってきているように感じます。それにより、ありがたいことにどうでもいいような思考がやってくることが更に少なくなりました。

 以上が、私の中心が後頭部、今では口当たりまで下がるまでの過程の一部始終ですが、この私の中心がこれ以上さがるのか留まるのかは分かりません。解放に到達するための直っすぐな道として真我探求を推奨したインドの聖者の一人として数えられるシュリー・ラマナ・マハルシが言うように、いずれ中心は、右胸にあるという私という想念の源であり、かつ沈みゆくところであるハートセンターまで降りていくことになるのでしょうか。どうなることやら、まだ分かりませんが、いずれにせよ、私の場合の執着は主に生活への不安からくるお金への執着でしたが、人によっては囚われるものが違ってくるでしょう。それが人であったり性的なものであったり物質的なものであったり社会的立場だったりと様々なものが考えられると思います。人それぞれの執着する対象の違いや度合いによって苦しみ方や期間の長さも変わってくると思います。

 これを視聴しているあなたがもし、執着するが故に生じる苦しみから解放されたいと思うのであれば、執着する対象物に対して諦めることが肝要だと思います。人と比較して今ある自分の現状に不満を感じるのは分かりますが、生きる上で特に支障がないのであれば現実的に変えられる以上のものを過度に望むことで苦しむのは愚の骨頂ではないかと思います。自我が要求する自分を変える努力の全てを完全に捨てる必要はありませんが、その努力をするにしても日常出来る範囲での必要最低限の努力に留めておくのが賢明ではないでしょうか。欲にあまりにもこだわりすぎると、それは執着になり苦しみの原因となります。諦められるものであるのなら、その現状をあるがままに受け入れ、それ以上のものへのこだわりを捨てるのが大切だと私は思います。それが苦しみから解放される近道ではないかと思いますし、悟りや解脱を目指すのなら諦めは必須要件の一つになります。

 諦めはすなわち人生に対する作者であるという錯覚の手放しであり、神、造物主、真我、呼び名は何でも良いのですが、私たちを創造した存在に対する完全なる信頼と人生の明け渡しがあって始めて、ようやく悟りや解脱への下地が出来たと言えるのではないかと私は思います。

              

 それでは最後に由風(ゆかぜ)出版から出ているSora Fol(ソラフォル)この世界はVR(仮想現実)であり、ゲームである。をご紹介しようと思います。ちなみにSoraとは自由でとらわれない心のことをいい、FolとはREEDOM OF LIFEのことだそうです。著者は、どうやら、この世界を仮想現実であると考えているようです。そして、そこにいる私たちは仮想現実世界のプレイヤーであり、目の前に広がるフィールドを冒険し攻略する冒険者であると定義付けしています。このゲームの世界を作り出したのは本来の自分であり、生まれる前に本来の自分が決めた約束によって、このような条件で、この様な物語を冒険すると、まるでゲームをプレイするかのように自ら作成したゲームで遊び楽しんでいるのだそうです。

 従って、この世界はゲームなのだから、簡単すぎてもいけないし難しすげてもいけない。ゲームの難易度はそれぞれに合わせて丁度いいように調整されていて「深化・成長」の法則に基づき一つでも多くの体験を通じて学び、成長し本来の自分へ最終的に帰ることを目的にしているとのことで、このゲームの最短攻略法は人生に対する考え方を否定から肯定に変えることにあるそうです。

 この本の中に書かれている私たちが現に住んでいる世界に対する見方がゲームの世界と同じようなものと考えているところまでは良いのですが既存のスピリチュアル本に書かれているようなことを踏襲していたりするので、なかなかそこまでは私も同意見とまでは言えません。しかしながら、いま私たちが置かれている幻想世界をゲームの世界としてみた場合の基本的な見方やどの様な接し方が良いのかが載っていることから参考になるところはあります。バーチャルリアリティーの人生をいかなる方法で生きていけば良いのかという生きる上でのヒントが書かれていると思います。全面的には賛同しかねるところも多々ありますが、この世界はバーチャルリアリティーの世界であるという考え方それ自体は間違いではないと私も思っていることから今回この本を取り上げようと思いました。もし、ご興味ご関心があるのでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。