私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

私が無いに気づいた後は!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

私が無いに気づいた後は!

 私が無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が1回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本を取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、私が無いをまだ体感しておらず私が無いに気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いを持って、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である神の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 

          


 では、本題に入らせていただきます。みなさんは、この本をご存知でしょうか。ヘルメス・J・シャンプさんがお書きになった「“それ”は在る―ある御方と探究者の対話」という本です。

 私は、この本をこのタブレットで呼んでいる最中に、私は無いことに気づきました。2020年の3月で、まだ寒い時期だったことから私はコタツに入っていました。どれほど読み進んだあたりだったのか、よく覚えていないのですが多分中頃よりは終わりに近いくらいを読んでいる最中だったと思いますが、それが起きた時、どういう思考状態にあったのかを申し上げると、その「私が無いに気づく」数秒前になぜか「魂の対話」「魂の絆」「魂への旅」などの著作があるマイケル・J・ローズさんが書いた、題名を忘れたので分からないのですが、とある本のある部分を突然思い出したのです。それはマイケルさんが体外離脱をして、過去の自分がいた違う場所と時間でスピリチュアリストとしてセミナーをしているところに何度か時空を超えて行き来し、その様子を見ている場面を描写している文章を思い出した時のことでした。その文章を思い出した次の瞬間には、私は無いことに気づいたのでした。

 

 その一連の私の思考の過程を説明すると、マイケルさんは十数年前の過去のA地点とそこよりは現在に近い過去のB地点に行きました。A地点からは未来のB地点までの未来の人生は分かりませんがB地点からはAからBまで生きた人生のことは分かっています。そして、それは変えようがありません。同じようにB地点から現在のC地点までの人生は分からないものの現在のC地点ならば過去の人生のことを分かっていて過去の出来事を変えることはもうできません。これを聞いた人は、そんなの当たり前だろうというかもしれませんが、私はそれで、その一瞬の思考が起こった後に、そこに「私というものは無い」ことに気づいたのです。

 現在のC地点からは未来のD地点は分かりませんが人生が終わるZ地点からは人生の全てが決まったものとして覆すことができないものとして厳然として存在しています。その終着点のZ地点からの視点に立った時、全ての物語の中に「私は無い」ことに、人生の中で何かを主体的に選択し決定し行為する私という何かは一切存在しないことが分かるのです。

 私に関連する全ての物語は既に完成しています。その物語を顕現するために、真の存在が経験したいことを経験するために幻想の私がいます。

 この私が無いに気づいた後、お釈迦様の説かれていることも自然と分かってきました。なぜなら、全ては一つなるものだからです。彼らの悟りは、私の悟りであり、彼らの気づきは私の気づきだからです。お釈迦様は、難しいことは何も言っていませんでした。

 この世での煩悩に対する執着を捨てよ。これは、ただ、この世を楽に生きるための方法を説かれていただけなのだと気がつきました。いうなれば無為自然です。老子の生き方もまた、この世を楽に生きるための教えだったのです。簡単に言えば”人生のハンドルを手放せ”です。為すに任せなさい。なるがままにせよです。所詮、全ては真の存在が設定したプログラム通りにしか進まないのですから、ハンドルを握っていても全く意味がありません。

 つまり、鉄道のようなものです。始発駅も終着駅も途中の停車駅も車窓から見える風景も大なり小なり関わり合うことになる乗り降りする乗客も全て決まっているのです。従って、「私」は、ただの幻想でしかないと気づき、自我が望む人生にしようと悪戦苦闘することをせず人生に抗うことをやめれば、この世はとても楽に生きられるようになります。しかし、「私」こそが真実で「私」に囚われている人には、とても理解できないことだと思います。

 でも、それも真の存在が経験したいと考えて、断っておきますが、この考えているというのはあくまでも方便で本当に考えているかどうかは私も分かりませんが、いずれにせよ真実の存在が執着する「私」さえも作り出しているのですから、それもまた善しということになります。楽しみたくて、わざわざお化け屋敷に入るのと同じです。不自由さを体験したくて無人島などでキャンプ生活をするのと同じです。だから、せいぜい恐怖や不自由さを楽しんだらいいと思います。   

 なぜなら、真の存在が経験したいことを経験するために、この世の苦しみや楽しみ快不快や幸不幸を生み出し、それによって感じる数々の感情でさえも生じさせているのですから、何が起ころうともそれを甘んじて受け入れ享受していかなければならないと思います。

 ヘルメス・J・シャンプさんの著書「“それ”は在る―ある御方と探究者の対話」を読めば私のように私は無いに気づきますとは言えません。なぜなら、気づく気づかないも真実の存在たる一つなるものである絶対が設定している物語である以上、これに限らず他の何かを読んだからといって必ず気づくとは私は言えません。他の何か、瞑想や断食や座禅をしている最中に起こるかもしれませんし、掃除をしている最中かもしれません。気づく方法は人それぞれで、これだと言えるものは無いと思います。結局のところ真実の存在が設定した物語次第ということになります。

 長くなるので今回は、ここまでとさせていただきます。これからも気が向いた時に不定期ながらも、これはお勧めという、これまでに読んだスピリチュアル系の本を紹介しながら私なりの解釈や私の気づきの体験談を話していこうと思います。

 最後に、この動画を見てくださった人たち及びそれ以外の全ての人や物は私であり、私は、まごうことなくこれを今見ているあなたです。なぜなら、全ては一つなるものの現れだからです。事象の顕現化の根底にある存在性への愛と共に全ての人や物たちに親愛の情を送ります。私は皆さんを愛しています。それでは、ここまでお付き合いしていただきありがとうございました。感謝いたします。