私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

私は天上天下唯我独尊‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

私は天上天下唯我独尊‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が11回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 それは2022年2月7日の午前5時ぐらいのことだったでしょうか。窓ガラスの向こうはまだ暗く厳冬の寒空でした。一方、私は毛布の中の温かさに包まれて安心しきってまどろんでいました。その時の私は、内側からあふれかえる愛により、なんて幸せなのだろうという思いで全身の細胞全てに愛が満ちていたのです。誰かから与えられる受け身で感じる愛ではなく、全てに対して開かれた与える側の愛を感じていたのです。それは全てを愛する愛です。あとからあとからとめどなく私の中から愛が沸き起こってきます。さらに、私の中から沸き起こるものは愛だけではなく、感謝の念も一緒になって沸き起こってくるのです。それは、まず自分自身への愛として感じられました。これまでないがしろにしてきた自分の体、特に顧みることなく軽んじてきた私の体。この私の体に対する感謝と愛の気持ちが後からあとから湧き上がってきていました。

 やがて、その愛は世界に対しての愛。存在に対しての愛へと変わっていったのです。私の中からあふれかえる世界と存在への愛を感じながら、私の中に次のような思考がやってきました。「世界は、私の現れであり私そのものなのだ。私でないものは何一つない。私こそが世界で唯一の存在であり、私しか存在しない。私は天上天下唯我独尊の存在だ・・・。」私は、どこからともなくやってくるそんな思考を感じながら、いつの間にか、また眠ってしまいました。

 お釈迦様は、出生の直後に7歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。私は、その事を知っていたことから、その日の午後にまどろみの中で頭に浮かんだ天上天下唯我独尊の意味をパソコンを使って調べてみることにしました。まず、ネット上のgoo辞書で唯我独尊を調べてみるとお釈迦様の出生時の先ほど言った逸話の他に、「唯我はただ自分のみということ」「独尊は自分だけが一人尊いということ」、さらに「この世で、自分ほど偉いものはないと、うぬぼれること」と書かれていました。

 これを読んでまさしく、その通りだと私は思いました。なぜなら、この世界、この宇宙には私一人しか存在しないからです。従って、この世界の中でただ自分一人のみが尊い存在であるのは当たり前のことです。だから、うぬぼれて至極当然のことなのです。

 もっと詳しく知ろうと思い今度はウィキペディア天上天下唯我独尊を開いてみると伝承の形成過程と複数の解釈が載っていました。まず、伝承の形成過程としては元来過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばしぶつ)が誕生した際に言ったとされていたものが、お釈迦様が生まれた際に他の人々がそのように讃嘆(さんたん)したという説が生じて、のちにお釈迦様自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものであると書かれていました。さらに古い仏典には「天上天下唯我為尊(いそん)」との表記が見られるとも書かれていました。

 天上天下唯我独尊自体の解釈については、一部を引用し説明すると「欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いとしている。」とする解釈があったり、「釈迦がこの世で解脱するから唯我独尊」なんだという解釈であったり、また、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」とする天台宗尼僧の露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈があるのが分かりました。

 露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈は一旦脇に置いとくとして、つまり、人々に功徳や利益を施して救済する利他の面での尊さなのか、修行により得た解脱という功徳を自分だけが受けとる利自の面での尊さなのか、時代による釈迦観の違いによって違いが現れている、とのことなのだそうです。そしてページの最後の方では、「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味に誤用されたと締めくくられていました。

 それでは、ここからは自らのうちにある真我に気づいたものの視点から見て、どの様にこの天上天下唯我独尊を解釈するのが妥当なのか、まさに唯我独尊的な私の視点からの解釈を申し上げようと思います。それは、対立しあう様々な多種多様な意見があること自体に意味がある現世的視点に立てば全てが正しく、真我的には、この世は空であることから全てはまさしく空理空論ということになります。しいていうなら幻想の私的には、後世誤用されたとする解釈の方がピッタリくるというかしっくりきます。ウィキペディアで、後世誤用されて使われるようになったと書かれている「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味としての解釈の方が相応しいようには感じます。この宇宙には絶対である真実の私、真我しか存在しないのですから、この世で真我の私ほど偉いものはないというのは全くその通りではないでしょうか。

 お釈迦様が生まれて直ぐに七歩歩いたとか天上天下唯我独尊と言ったということの真偽はともかくとして、唯我独尊をあれこれと解釈している人たちのほとんどは絶対への気づきの無い人なのだと思います。中には分かりやすくお釈迦様の教えを広めるための方便として本当は違うと分かっていながら利他や利自の解釈をする人もいたでしょうが、真の正しい解釈は間違いなく、全てが正しいと同時に全てが間違いというものです。

 この宇宙には、絶対である真実の私、真我しか存在しません。そこには功徳を与える者も与えられる者もいません。当然、うぬぼれる者もいません。功徳やうぬぼれそのものがないのです。従って、自他や利他といったへったくれなどもとからありません。それが分からないから、自他や利他など対立する二つ以上の存在を前提とした議論しかできないのではないかと思います。

 ただし、幻想の私的には「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味の解釈が一番しっくりくるという感覚があることから、あえて言わせてもらうならば、絶対である真実の私しか存在しないこの世にあって、世界は真実の私が創造したものであるのだから、故に私は「この世で自分ほど偉いものは居ない」という意味での天上天下唯我独尊ということになるのではないのかなと思います。そういう意味においては古い仏典に書かれているという「天上天下唯我為尊」の表記の方が真実の表記ではないかと私は思います。「天上天下唯我為尊」をグーグルで翻訳してみると「天上にも地にも私だけだ」と訳されました。この訳が正しいのであれば、まさに私が考えている通りのことが古い仏典には書き表されていたということになるのではないでしょうか。

 さらに、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」とする天台宗尼僧の露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈も、この世を真実の私が鑑賞している映画であるとするならば、映画の中の登場人物としての役割が、それぞれの人たちにはあるというのも、また正しい見立てであり、それを使命と捉えるのも正しい解釈であると言えるのではないでしょうか。

 どうでしょうか。この動画を視聴された方は「天上天下唯我独尊」をどのように解釈されるでしょうか。いずれにせよ。自分自身が文字通りこの宇宙で唯一の存在である絶対であることに気づけば、全ては自分の中で繰り広げられているただの物語でしかない以上、当然の帰結として全ての解釈が正しいと同時に全てが間違っている、そもそもそこに正誤の価値判断をすること自体が必要なく、そこに正しいも間違いもないという考えに自ずとたどり着くのではないでしょうか。

           

 最後に絶対おすすめの必ずあなたに読んでほしい本があります。それはナチュラルスピリットから出ている「アシュターヴァクラ・ギーター」という本です。アドヴァイタ・ヴェーダーンタという(不二一元論ふにいちげんろん)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典と言われているものです。これは悟りや解脱を目指す人なら般若心経と並ぶほどに目を通しておくべきものと思えるほどの本です。水が乾いた砂に瞬時にしみこんでいくように、この本を何の苦労もなくすらすらと理解ができるのであれば、あなたは悟りの上級者です。私から何もいう事はありません。

 私は無いや自らのうちに真我を見出した者であるなら難なく理解が可能なものです。私は、今年の4最後までとりあえず目を通してほしいのです。そして、こうであらねばならないという考えや形に囚われることなく優しい悟り系のスピリチュアル本から学んでいってもらえればと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。