私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

読書でも悟ることができる!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

読書でも悟ることができる!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が9回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私の気づきの始まりである「私は無い」はヘルメス・J・シャンブさんが書いた「それは在る」を読んでいる最中でした。そして、前回述べた2022年1月8日に起こった自らのうちに真我の視点があることに対する大きな覚性ともいえる気づきも同じく本を読んでいる最中に起こりました。

 この動画を見ている人の中には、もしかしたら悟りたい一心で難行苦行に取り組まれている人がいるかもしれません。そういう人の中には、本を読む程度のことで悟るなら誰も苦労はしない、そんなことで悟ることなどあり得ないと仰る方もおられるかもしれませんが悟る方法は千差万別です。悟りを目指す人の数ほど悟る方法はあります。自作自演で映画製作をしている真我の立場で考えれば分かるはずです。毎回同じ方法で悟りを得ていたら全然つまらない映画になってしまいます。毎回違った方法で奇想天外奇妙奇天烈な悟り方をした方が映画としては面白いですし飽きもこないというものです。悟りを映画製作と一緒にするなと怒る人がいたならば、そういう固定観念に囚われた考えこそが悟りへの気づきを邪魔していることに気づくべきだと思います。それも執着ですから私は無いという気づきを得たいのであれば私のように本を読む楽な方法にも目を向けることをお勧めします。

 なぜそんなことが言えるのかというと、本物の覚者が書いた書物には、書いている内容である果実を成らせることができるほどの木に自らを十分に成長させている者が読んだ場合で、その時が来ている者であるならば、実際に覚者と言える人物に直接会って教えを請わなくても本を読んだだけで自らを覚醒させる力が備わっているのではないのか、ということを自分でいうのもおこがましいかもしれませんが、私自身の一連の経験で分かっています。従って、気づきを得たいのであれば、たとえ疑問に感じたとしても何物にも囚われない素直な気持ちになって私の言っていることに取り敢えず駄目もとで取り組んでみるのが良いと思います。前回の動画を見ていただければ分かると思いますが、短い時間ではあったものの幻想の私は自らのうちに真我を見出した者であることから少しくらいは言っていることが参考になるのではないかと思います。

 時間の長短に関わらず、そもそも真我にすれば時間は無意味なのですから一度でも自らのうちに真我を見出した者は、その肉体が真実の私でないことを知っています。真実の私は、その肉体でも肉体の持つ感覚でもやってくる思考でも感情でもないことを知っています。それらに何の影響も受けない存在こそが真実の私であることを知っています。真我こそが私であることを知っています。見る者でも見られるものでもありません。行為する者でもされるものでもありません。私は、見る者でも行為者でもありません。私は、みられるものでもされるものでもないのです。私は一切の行為に関わっていないのです。故に、行為と結果の因果の法則から完全に抜け出ている存在であることを私は知っているのです。なぜなら私は真我だからです。

 そうは言っても、そうは言ってもですよ。それにしても、今、ここで私が動画の中で言っていることも含めて世界の出来事の全てを人間性のかけらもない眼差しで、ただひたすらに黙々と静かに観賞し続けている真我の私は、この幻想の意識と体を通して一体全体何を経験したいというのでしょうか。その究極の目的は何なのでしょうか。永遠の時間のない世界にいる真我が暇つぶしで見ている、ただの娯楽目的なのでしょうか。それとも真我が、自らの存在に疑問を感じて私とは一体何なのかを探求しているのでしょうか。それについては何となくではありますが何の目的で、こんな現象世界を作り出しているのかは分かります。それは、私は私を探そうとしているということです。真我は結局ところ自己探求をしているのではないかと思います。現象世界を創造した全知全能の創造主といえども私とは何かを問い続けているのではないでしょうか。なぜそう言えるのか。なぜなら、今言っている言葉さえも真我が幻想の私を通して言っているからです。

 なんにせよ、いかに私は無いに気づき、真我の視点に気づいて最終的に真我に常在できたからといって何か特別なストーリーでも設定されていない限り、この私の代り映えのしない人生は今後も続きます。しかも、たとえ真我に常在できたとしても、それとして、ただあることしか出来ない以上、これから先のことも依然として知りようはありませんし、幻想の私にとっては暗中模索の人生は死ぬまで続きます。だからこそ、無為自然、幻想の私も含め全てが起こるがままに、出来事が来るがままに生きることが大切になってくるのではないかと思います。この世に神も悪魔もいませんが、幻想の私にとっては、まさに創造主のみぞ知るといった心境です。つまり真我はそういう人生を望んでいるということなのです。

 もし、真我の実現ということで真我そのものになれると思い込んでそれを目指している人がいたとしたならば、それは無理な話しだと思います。私が感じた真我は本当に善悪も感情もない不変不動の存在ですから、それは非人間的な存在です。私やあなたは所詮(しょせん)映画の中の登場人物でしかありません。非人間的な存在の境地に常在なんてことは、それこそあり得ませんし、もしできたとしても、見た目は人間に見えたとしても、それはもう人間とは言えない存在です。いずれにしても映画の中のストーリーとして真我の境地に達した役を誰かが演じているということでしかありません。あくまでも映画の中の物語であって真我が見ている幻想の登場人物でしかないのです。そこには悟りはありませんし、もとから悟る人間などどこにもいないことに気づくことこそが真の悟りだと思います。何度も言いますが、あなたは、もう真我なのです。そのままで既に真我なのです。

 そういう事ですので、2500年前にはもうお釈迦様も苦行は解脱には役立たなかったと言っているように、難行苦行自体が好きな性癖を持っているのなら別ですが、あまり根を詰めずに気楽な気持ちで私のように悟り系の本の読書をすることで自分が真我であることに気づくことを目指してもらいたいなと思います。それが、悟りや解脱を目指している人に対する私の口を通して語りかけている真我の今後の意向だと思います。

 最後に本ではないのですが私が10年前に買って3年くらいの間ずっと聞き続けたヘミシンクCDをご紹介して終わろうと思います。10年前の私は、二見文庫からでいる「運命好転の不思議現象99の謎」と「運命改善の不思議な旅99の謎」の2冊の本を読んで著者自身がヘミシンクという音響技術で人間の意識を探求しているアメリカにあるモンロー研究所に行って、実際に体外離脱をし輪廻転生領域であるフォーカス27や地球生命圏の出入り口であるフォーカス35に行った話しにとても心惹かれるものを感じました。私も出来ることなら体外離脱をしてみたいと思い当時4万円くらいで購入した記憶があるのがゲートウェイ・エクスペリエンス第1巻から6巻セットというものです。

 CDの解説文には、「このシリーズでは特別に組み合わされた複数のヘミシンク周波数と更に音声ガイド、かすかな効果音を用いることで意識を全脳状態(拡大した知覚状態)へと導きます。と書かれています。私は3年くらい、ほとんど毎日と言っていいほど続けて聞いていましたが結局体外離脱は起こりませんでした。魂など存在しないのですから当たり前といえば当たり前です。それでは、なぜこれを紹介するのかというと過去に3年くらいは毎日にように聞いていたのは事実ですし解説文の中にリラクゼーション効果があるとも書かれていることから何かしら気づきの一助になりかもしれないと思い紹介をしようと思ったからです。私は本の著者である森田健さんがやっている不思議研究所というところから買ったCDを聞いていました。ご興味のある方は買って聞いてみてはいかがでしょうか。気分転換のリラクゼーション効果くらいはあるかもしれません。でも、やっぱり4万円も出すなら、悟り系のスピリチュアル本を沢山買って読んだ方が良いかもしれません。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。