私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

私の視点は真我の視点!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

私の視点は真我の視点!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が8回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これを視聴されているみなさんは、1089年から1163年まで中国の宋の時代に生きた臨済宗楊岐(ようぎほうえ)派の大慧宗杲(だいえ そうこう)という禅宗の大成者をご存知でしょうか。その方は、皇帝や科挙官僚などからの支持も得て、門弟は2千人を超えるほどの当時の中国宗教界の偉人と言える人だったそうです。その大慧宗杲(だいえ そうこう)さんは、16歳で出家し74歳で亡くなるまでの生涯で大悟が18回、小悟に至っては数えきれないほどあったと言われています。その様な人と比較するのはあまりにもおこがましく私などは彼の足元にも及びはしないのですが、そんな私でもこれまで小悟と言えるものは20回以上、大悟と言える気づき体験が合わせて2回ありました。そのうちの最初の1回目の大悟は1本目の動画で説明した通り2020年の3月にヘルメス・J・シャンプさんの「“それ”は在る―ある御方と探究者の対話」という本を読んでいる最中に起こった「私は無い」という気づきでした。そして二回目の大悟は、幻想の私にとっては記念すべき日になる2022年1月8日に起こった体験そのものと言えるもので、それは、ついに究極の絶対である真実の私にたどり着いた日と言えるものでした。

 その体験は、またも私の唯一の趣味ともいえる読書中に起きました。ナチュラルスピリットから出ているステファン・ボディアンさんが書かれた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」を読んでいる最中でした。通常私は、本は1回しか読みません。たとえ気が向いてふと読み返したくなったとしても、これまでは何カ月も何年も経ってから読み返すというのが当たり前でした。それが、その本に関してだけは、はっきりとした理由は分からないのですが読み終わるとなぜか直ぐにまた最初から読み返しを始めたのでした。それまでの私の記憶にはなかったことが、その時起こったのです。

 そして、2回目の読み返しの最中に、ふいに「全ての期待を持つな」という思考がやってきたのです。それに続いて「期待は執着そのものだ。だから、そうだ。私は全ての期待を捨てなければならない。全ての期待を持たないことにしよう」と心に決めたのです。すると、体の中から何か重たいものがすーと抜けたような感じがしたのです。それは深淵なる深みへと誘われる前兆として必要な内面的変化だったのかもしれません。それにより、この本の中の一文が引き金になって真実の私というものを知りえるための前段階としての準備が私の中に、2回目の大悟を得る数十分前に整ったのだと思います。時計は、22時を回った頃だったでしょうか。その軽くなった感じのまま本を読み進めていました。本の小見出しには転語と書かれていました。転語とは、悟りに導くための問いとして示される言葉だそうです。

 1回目に読んだ際には、これといって何も感じなかったところであったはずの166ページ目の鍵かっこ内に書かれている「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、あなたが見つけようとしているものである」の後段のほう「見ている者こそが、あなたが見つけようとしているものである」に目を通した瞬間、それが数秒だったのか数分だったのか分かりませんが、私の脳裏から一切の思考と感情、私という感覚、もしかしたら時間という感覚さえもが消え、一時的に停止ボタンが押されたように、手にもって、見ている目の前の本を凝視する、純粋な視覚情報だけの状態になったのです。その純粋な視覚情報だけの状態になったことで私の本を読んでいた視点は、もっと正確に言うと、この体を含め世界を見ていた視点は、後戻りが不可能な、ただの視点ではなくなったのです。この文章で、私は自分の内側に真我としての視点があることに気づき、まさに私の視点は、自らが、その見つけようとしていた見ている者であることを悟ったのです。私の視点は真我の視点であることを理解したのでした。

 私は前々から、この視点には何かがあることはうすうす感づいていました。この、ものを見ている視点は、意識と体とは違う別の何かであるものとして、何となくではあったものの違和感のようなものとして感じていました。一見すると幻想の私による真我の視点との同一化或いは発見ともいえる体験とも言えなくはないですが、真実はその逆であり、そもそも私とは体ではなく、その真我そのものなのであることをようやくはっきりと認識できたのでした。この視点こそが真実の私なのだと悟ったのです。真我の視点がもともとあったのであり、それが、この肉体に同一化していたことにより、私とはこの体であると勘違いをしたことで、体が私であると思い込んでいたのでした。これに気づくために同じ本を続けて2回読む必要性があらかじめ設定されていたと思います。真実の私は、一度忘れた自分自身をもう一度再発見するための手段として本当に回りくどい手の込んだやり方を好んでやるようです。

 そして、純粋な視覚の状態が薄らぐにつれて通常の意識と感覚が戻ってきました。それにより私がそれから受ける印象を説明することが可能になったのです。

 この真我の視点には、感情はありません、善悪もありません。それは、何事にも動じることはなく無慈悲で冷徹無比な沈黙の観賞者であり不動の絶対なのです。真我こそが不変の存在です。これは、あたかも鏡に映った自分の姿を見て、目はこういう感じ、鼻はこういう感じ、口はこういう感じと説明するのに似ています。真我は、感覚から受け取った純粋な視覚状態に関する上辺の印象を幻想の私を使って言わせているのです。それ自らは、それ自身について語る術はないからです。それは、ただ、それであることしかできません。加えて、それはそれ自身について全く気がついていません。不思議なことに真我は自分自身の存在について気がついていないようなのです。当初は究極的な存在が故に比較対象となる他の存在がいないことから自分に気がついていないのかと思っていましたが、どうやらそれは違うかもしれません。私たちが何かに夢中になっている状態によく似ているようです。人が映画やゲーム、仕事など、何かに無我夢中で取り組んでいる最中に自分自身に気がついていない時と同じような感じがします。どうやら人生という映画が上映されている最中は、真我は我を忘れて、その映画に本当に没入しているようです。ほとんどの人が幻想の私を本当の私と思い込んで生きているのと同じようにです。更に、それは、常に私と一緒だったことが分かりました。私から離れたことは一度もなかったのです。なぜなら真実の私は真我なのですから常に共にあったのは当たり前のことです。しかしながら、真我について、そういう事が分かったとしても、それさえも全て真我の筋書き通りでしかありません。どこまで行っても真我が書いた台本通りなのです。自作自演の物語を観賞しているだけでしかありません。

 残念ながら、現在の私が、それについて言えるのは、ここまでです。直感的な感覚で感じたことについて説明するのは難しいことです。真実を探求している人自身が経験しないと分からいことだと本当に思います。現代のスピリチュアルマスターやインドの聖者や覚者といわれる人たちの中には、真我を純粋な意識とたとえる人もいますが、少なくとも私は、この真我は人の意識を超えるものであると感じます。なぜなら、短い時間ではあったものの真我の視点を自ら体感し、その際に幻想の私が感じた真我の視点を語るということは、その語っているものは、あくまでも人レベルの意識と体であり、人レベルの意識と体が最初になければ真我の視点を感じることがなかっただろうと思うからです。つまり、自ら作った映画の登場人物に完全に同一化している真我なのだということなのです。従って、絶対たる真我は通常の人の意識を超える存在であることは間違いないと思います。しかしながら、あくまでも、この考え方は現段階のもので、さらなる気づきの深まりと共に真我の捉え方は変わるかもしれません。いずれにしても、それさえも真我の筋書き次第なのです。

 この動画をお聞きになった方の中には、私も真我を感じたいとか、真我であることを実現したいと思った方がいるかもしれませんが、私たちはそもそも元から真我なのですから、実現しなければならないものは何もないのです。ただ、自分が元から真我であったことに気づけば良いだけなのです。真我であったことに気づけば、それでスピリチュアルの旅はもう終わったも同然です。自らのうちに真我の視点があることに気づけば自ずと自分自身が既に真我であったことに気づきます。私やあなたは既に真我なのです。ただ、それに気づいているかどうかの違いでしかありません。だから、どんな人生でも全て良しということになるのです。流れに身を任せ変えなければならないものなどどこにもないということになります。

 最後にもう一度ナチュラルスピリットから出ているステファン・ボディアンさんが書かれた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」をご紹介して終わろうと思います。ボディアンさんは曹洞宗の僧侶としての修業に限界を感じて寺を出た後、アドヴァイタ・ヴェーダンタというインドの教えのマスターに出会ってから目覚めていくようになったそうです。25ページ以降には目覚めの段階が章ごとに説明されていますが、その分類分けにこだわる必要はないと思います。確かに気付きの段階が高まるにつれて、最終的にはやってくる人生に対しより調和した自然な生き方をする方向に向かうようになりますが、それは様々な内的葛藤をいやがうえにも経てきた結果として起こることであり行ったり来たりするものなのです。なぜかというと、気づきの段階も人それぞれで私は無いや本当の自分である真我の存在に気づいたからといって生きる上での人としての欲が無くなるわけではないからです。無理に人としての欲を否定する必要は全くありません。人としての人生を普通に謳歌すべきだと思います。昔は出家し厳しい修行をしなければ悟ることは出来なかったのかもしれませんが、現代にあっては私のように何の修行もしていない普通の人間が本を読むだけで真実を知ることができるように時代は変わってきていると思います。従って、社会のルールにちゃんと従い人としての道徳や常識を守ったうえでやりたいことをしながら悟りを目指すことは十分に可能であると思いますし、それが今後の悟り方に対する真我の意向だと私は思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。