私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

在るへの愛は悪さえも愛している!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

在るへの愛は悪さえも愛している!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が7回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 では、本題に入らせていただきます。

 一口に愛といっても様々だと思います。自己愛から他者愛。重たい愛や軽い愛。深い愛や浅い愛。高い愛や低い愛。それらが混ざり合った愛など、愛も重層的で複雑に絡み合い簡単に定義できるものではないということは、従来、哲学者文学者宗教家心理学者精神科医等々様々な人が語ってきたことで、そんなことを、ここでいちいち説明する必要もないほどに分かり切っていることだと思います。

 しかしながら、誰にとっても理解しやすい無条件の無私の愛だけでなく、その反対の極にあると言えるような虐待や殺戮といった人間が持つ負の一面である残虐性でさえも愛の表現だと言ったらどうでしょうか。

 この世界は愛で出来ています。全ては愛の表現です。どんなに凄惨な出来事でさえも愛の表現の一部でしかありません。それは愛が無いという愛の表現です。愛が無いがあって始めて愛が有るも成り立つからです。

 私の理解では、この現象世界は意識を意識する感覚と在るという感覚、そして在るへの愛つまり存在性への愛、何かがあることそのものに対する愛で成り立っているように思われます。存るへの愛には、前述した通り人の持つ残虐性も含まれます。善は対立する悪があって成り立つように、愛が有るの愛は愛が無いがあって成り立つのです。

 お分かりいただけるでしょうか。存るへの愛は、存在自体や存在そのもの、存在全てに対する愛です。善と言われるもの以外に、それが世間一般的に悪と言われるものであっても、たとえ血も涙もないような非人間的な悪魔の所業と言われることでさえも愛しているのです。存るへの愛とは、あらゆることに対する愛です。そうでなければ、この世にそれが存在しているはずがありませんし、存るへの愛が無ければ、この世界そのものが存在しません。在るへの愛は全てに対する愛であり、在るの中の愛の表現は愛が無いも包含するものなのです。

       

 この図を見ていただければ理解の一助になるのではないでしょうか。縦軸横軸には、大きさや高さ、純粋性や濃淡、利他や利己などの尺度をその時々によって当てはめていただければ良いと思います。

 見てお分かりにのように、たとえ縦にも横にも0であっても愛の中での愛が全く無いという表現の一部であることが理解いただけるのではないでしょうか。愛が縦にも横にも0という表現があるからこそ、逆の縦にも横にも愛が有るという表現も成り立つわけで、存るへの愛は、この縦にも横にも愛が無いという0を含めての愛なのです。愛が全く無い状態の0も愛しているのです。

 絶対の観賞者たる真実の私は、まさに今の私の在るを含めて世界の様々の在るの状態を観賞しています。その中には天国のような一般的に使われる愛そのものだけが表現されている場面から悪魔のような人間によって普通の人間には到底できない地獄絵図が繰り広げられているだけの場面まで多岐にわたる表現があると思います。いかなる、どの様な表現であっても、それは意識を意識する感覚と在るという感覚そして在るへの愛から生じている幻想世界であり、それは愛の表現の一部であることを忘れてはいけないと思います。

 もっと世俗的に分かりやすく説明するならば、ゾンビ映画やホラー映画などを制作している現場の人たちを思い浮かべればよいと思います。血が大量に流れ手足がバラバラになるような、どんなに残酷なシーンであっても、どれほど人が死ぬような映画であっても製作者たちは、それを娯楽作品として時には芸術作品として熱い情熱を傾け映画製作そのものに深い愛情をもって取り組まれています。ゾンビ映画やホラー映画製作の根底には、無から有を生み出すことに情熱を傾ける愛があり、その愛が無ければ、その映画は世界に生み出されることはないわけですし、私たちが鑑賞することもないと言えるのではないでしょうか。

 従って、背筋が凍り付くほどの無残な光景だったとしても、その現象が現れた根底には現象そのものに対する存在性への愛があるということなのです。しかも、それは単純に現象でしかなく、そこでは誰一人死ぬことも無ければ傷付くこともないのです。なぜなら、真実の私やあなたは現象として現れているそれではないからです。

 もちろん、現に悲惨な戦争や事件事故に不幸にも巻き込まれた人たちは本当にお気の毒だと思いますし心が痛みます。ですから勘違いしてほしくないのは、これまで申し上げてきた事は、あくまでも私が無いという気づきの立場から、この現象世界の顕現のあり様(よう)を説明しているだけであるので、私が血も涙もない人間だと誤解してほしくないと思います。しかし、だからといって、その惨憺たる表面的な事柄にだけ心が囚われている限り私は無いに気づくことはないと思います。私が無いに気づきたいのであれば、この現象世界の表面的な有り様だけに心が囚われるのではなく一歩も二歩も引いた視点から物事を見るようにしてもらいたいと思います。

 以上、在るへの愛は愛が無いも含んだ愛であることを申し上げてきましたが、それでは、この存るへの愛が無い状態とはどういう状態なのでしょうか。それは意識を意識する感覚と在るという感覚と在るへの愛が生じる前の絶対の状態であることも最後に付け加えておこうと思います。

 最後に、ナチュラルスピリットから出ているジュリアン・シャムルワさんという人が書いた「ワンネスの扉」という本をご紹介します。            

            

 この本には、シャムルワさんが16歳の時に見たUFO体験に始まり20代で宇宙と一体になるワンネス体験をしたことなど数々の、いわゆる神秘体験をしたことが書かれています。彼と私の共通するような体験をいくつか挙げるのならば、さすがに彼のような異性人とのコンタクトまではありませんが10代の頃から何度かUFOを目撃したことはあります。彼が高校生の時に感じた家の中に何かがいる怖い気配は私も20歳前後の時にしょっちゅう感じていました。17年くらい前の時には、当時住んでいた自宅の二階で、私がいた部屋のドアの向こうに急に背筋がゾクッとなるほどの怖い何かを感じるということがあり、今にもそれが部屋の中に入ってくるのではないかと思った瞬間、側にいた今まで一度も唸ったことのないとてもおとなしい飼っていた白猫が野太い声でドアの向こうにいる何かに向かってウ~と唸ったことにより、途端にスーっとその気配はなくなったということもありました。私はその時猫に助けられたという気持ちで一杯でした。その猫が唸ったのは後にも先にもそれ一度だけで本当に怖い気配体験だったことを記憶しています。それ以外では、私は無いに気づく前後あたりからの何度か急にやってくる世界の存在に対する感謝や愛の念、至福感などが挙げられます。

 シャムルワさんが言うにはワンネスのステージには五段階あるそうです。119ページには段階ごとの解説がされていますが、しかしながら私自身をその段階に当てはめるには少し無理があるように感じます。当てはまる部分もあれば当てはまらない部分があるからです。

 確かにワンネスを感じる段階にはいくつかあるのでしょうが、それよりも、そこで説明されている表面的な事柄の何かに囚われている限りまだまだという感じがします。なぜなら、私が無いに気づいた後には、何物にも囚われるものは無いという境地があるからです。まさに仏教用語である空の境地です。般若心経(はんにゃしんぎょう)中で観自在菩薩が般若波羅蜜多の修行によって五蘊は全て空であると見極めたようにです。ワンネスを感じるのは通過点であり自らのうちに真実を見つけようとする過程で見えてくる現象世界の諸相が現れているに過ぎません。従って、目指すべき境地は空なのです。長くなるのでその話しは、また別の機会にしようと思います。いずれにしても、シャムルワさんの「ワンネスの扉」は読み物としては結構面白いので興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。