私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

個別の人間はいない!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

個別の人間はいない!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が4回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である神ではなく創造主という方がより適切かもしれませんので、これからは創造主に言い換えて、その創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

        

 では、本題に入らせていただきます。ユーチューブ内で今も見ることができる「誰が夢のバスを運転している?WHO'S DRIVING THE DREAMBUS?」というドキュメンタリー映画をご存知でしょうか。「私」とは何かという根源的な問いに対して真摯に向き合っているとても良作な映画だと私は思いました。私は、この作品の中に登場する人たちのことは全く知りません。制作した人が映画で取り上げるくらいの人ですから、その方面ではとても有名な人達なのかもしれません。

 その登場人物の一人であるトニー・パーソンズさんが4分40秒あたりから登場し聴衆に向かって、こう言います。「今、この部屋には誰一人存在していない可能性がある。個別の人間はいないのだ。現象が起こっているだけ。全ては無だ。その無の中で物事が起こっている。人は存在しない。」

 私は、映画の中でパーソンズさんが言っていることを理解できます。なぜなら私がいつも見ている世界にも個別の人間がいないと感じているからです。ただ日常という名の映画が目の前で上映されているとしか思えないからです。私の体とそれ以外のものとの違いは単に色の違いでしかありません。もちろん、私の体の体としての感覚はあります。だからといって私の体とそれ以外の、例えば机とか、その机の上にあるパソコンやコップとの間に何の違いもなく違いは色の違いくらいにしか感じないのです。そういう意味において私の体を含めて目に見える世界は全体として一つのものとして展開されているように感じるのです。

 前々からそうだったわけではありません。特に最近のこととしてスーパーに行き雑踏をかいくぐりながら買い物をしている最中などは目に映る人々は単なる無機質な物の動きにしか感じないことがよくあります。私は人の体を通して、この現象世界を観賞している鑑賞者であると感じるのです。

 この動画はNHKクリエイティブ・ライブラリーからダウンロードしたフリーの動画素材です。これをご覧になられてどう感じるでしょうか。動画の中に映っている人たちを見て誰もその映像自体を人間そのものとは言わないはずです。動画に出てくる人や建物、看板や空、道路と横断歩道といったものの違いは何でしょうか。ご覧になられている方は、なにでその違いを見分けるのでしょうか。普通、色でその違いを見分けるのではないでしょうか。

 あなたは、今この動画で私の姿を見ています。私と私以外のものとの違いは何でしょう。色の違いではないでしょうか。もっと視野を広げて、あなたは、スマフォ、タブレット、パソコンなどで動画を見ています。そのスマフォ、タブレット。パソコンとあなたの体との違いは何ですか。色の違いではないでしょうか。あなたという体の感覚を取り除けば、あなたと周囲との違いはない、単なる色の違いでしかないと言えるのではないでしょうか。

 私は、雑踏を歩く時も部屋にいる時も、体の感覚を除けば周囲のものと私の体との違いはないと感じます。私は私の感覚を含めて見える世界を、体の目を通して客観的に観賞しているというように感じるのです。そういう感覚があるのです。

 いうなれば、私たちはとても性能の良い体感型のゲーム機の中に出てくる登場人物でしかありません。ゲームの中の登場人物は、本当は実在することなく何物でもないにもかかわらず自分は実在すると完全に思い込んでいる状態にあるのです。

 私やあなたはゲームの中のただの登場人物でしかありません。ゲームの中で起こる出来事と私たちである登場人物は、モニター内に映し出された映像で色の違いによって形になり思考し言葉を発し喜怒哀楽などの感情を表現しますが、それは全てコンピューターにプログラムされた指示通りに動かされているものにすぎないのです。ただの役者であることに気づかず、舞台上でその役に完全になりきって台本通りに演じているといった方が分かりやすいかもしれません。

 どうでしょうか。少しは私の言っていることが理解できたでしょうか。そして、さらに、その役になりきっている役者を通して観賞している本当の意味での何ものにも動じることのない不動の絶対的鑑賞者が内なる存在としているのですが、そこまで言及してしまうと、この動画を見ている人は訳が分からなくなってしまうかもしれないので、それについては別の機会にお話しする事に致します。

 なんにせよ。「誰が夢のバスを運転している?WHO'S DRIVING THE DREAMBUS?」というドキュメンタリー映画をまだ見ていない人は、説明欄にURLを貼り付けて置くので是非一度ご覧になられることをお勧めいたします。但し、哲学的であると同時に宗教色、スピリチュアル色がとても濃いので心してご覧ください。悟り系スピリチュアルの上級者編といったところでしょうか。でも、私のおかしな動画を見て耐えられる人ならば十分に受け入れられることができると思います。

        


 最後に、最近読んだスプリチュアル系の本をご紹介します。ナチュラルスピリットから出版されている金森将さんがお書きになった「バタ足ノンデュアリティー」という本です。私は以前の動画で気づいている人は気づいている人の書く文章が分かると言ったことがありますが、この本をお書きになった金森さんも気づいている方だと私は思います。この本は、とても平易な文章で書かれています。変に小難しい文章で書かれていない分、逆に分かりにくいかもしれません。だとしても、いつ、どこで、どんな時に気づくかは千差万別で人それぞれなので、私がヘルメス・J.・シャンブさんの「“それ” は在る―ある御方と探求者の対話」を読んで気づいたように、この本を読んで気づくように設定されている人が中にはいるかもしれません。いずれにしても気づきの一助になるかもしれません。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再開の時まで一時のさようならです。