私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

汝自身を知れ!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

汝自身を知れ!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は10回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これをご覧になられている人の中には自分の人生の現状に多くの不満を抱えている人がいるのではないでしょうか。辛い日常に怒りや悲しさ、やりきれない思いといった感情を抱え、どこにも吐き出すことができず精神的肉体的ストレスだけが溜まっていく苦しさをこらえて、やっとの思いで何とか一日一日を生きているという人がいるかもしれません。

 私もそうです。生きている限り自分の思い通りにならないことは沢山あります。日々の生活の中で怒りを覚えることは普通にあります。それは、人間であれば当たり前のことだと思います。しかし、そこで大切になってくるのは、ただ一方的にやってくる怒りに飲み込まれるのではなく、その怒りはどこからやってくるのか、なぜやってくるのか、その怒りを感じているのは誰なのか、その経験をしているのは誰なのか、さらに一歩引いて、そこにもし私というものがなかったとしたら一体全体、本当の私である真我はそこから何を経験したいのかを考える必要があるのではないでしょうか。

 昨年の2022年の3月のことですが、私が働いている職場で起きた自分の思い通りにならない些細な人間関係が原因で私は怒りを感じたことがありました。いくら「私は無い」や「私は真我」であることに気づいたとしても通常の人として生きている以上、人としての普通の感覚からは逃げることは出来ません。そういう自分の思い通りにならないことが起きた時は、まことに恥ずかしいことではありますが、以前の私なら面従腹背(めんじゅうふくはい)で上辺だけ取り繕い言動には表立って出さないようにしたうえで怒りを感じさせた相手を内心一方的に悪者扱いし、自らを省みることはありませんでした。しかし、その時の私は、その怒りを呼び起こした相手を責めるのではなく、沸き起こった怒り自体に対して、なぜと問いかけることができたのです。私は、怒りがなぜ生じたのかという根源的なところに視点が行くようになったのです。やがて、心に怒りを感じている私を見て、一体全体、絶対たる真実の存在は、ここから何を経験したいというのだろうかと考えるようになりました。つまり、そういう思考がやってきたということです。続いて次のような思考もやってきました。

 愛は一見して愛に見えないことを包含する。なぜなら、愛でないようなものが一方にあってはじめて、それが愛であることを認識できるからだ。私は、今見ている、経験している、一見して愛でないものを見ているが、この愛でないものを見ている者は誰なのだろう。なぜ、それが必要なのだろうか。

 ここでステファン・ボディアンさんが書いた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」の166ページ目に書かれている「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、見つけようとしているものである。」という文章を思い出し自問自答が始まりました。「見ている者?」。それは既に分かっている。究極の絶対だ。それなら絶対は、何を見ようとしているのだろうか、一体、何を見つけようとしているのだろうか。

 見つけようとしているものとは、見ている者だ。なら、探し求めているものとは探究者になるはずだ。そこで,私は、はっとなりました。探しているものとは何かを探そうとしていた探究者そのものだったことにその時、気づいたのです。それは、私は私を探していたということです。見つけようとしていたものは私、探し求めていたものも私だったのです。私は私を見つけようと探していたことに気づいたのでした。つまり、私は私でないものの中から私を見つけ出そうとして必死になって私自身を探していたのです。ここでようやく「探究者こそが、探し求めているものである。」という文章の持つ意味を理解した上で私は私をようやく見つけたことに気づいたのでした。

 これに気づくと、とても得心するようになりました。要するに、真実の私である絶対は、絶対自身をそうでないものの中から見つけ出そうとやっきになっていたということなのです。それは、言うなれば、一見すると関連のないようにみえる一連の日常の不愉快な出来事の経験の中から内省させ自分自身を見つけ出す自己探求ストーリーの中の小悟と言えるエピソードを観賞したかったのだろうと思います。

 一度に「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、見つけようとしているものである。」という文章の全部の意味を理解できれば良いのでしょうが、そう簡単に理解させてくれないのが真我です。結局、この一連の文章の意味について後段部分は1月に前段部分は3月にというように2回に分けて理解させられる経験をさせられたわけです。

 しかも、まだ話しはこれだけでは終わりません。更に続きがあります。それに気づいた後にやってきた思考があるのです。それは突拍子もなく頭の中に響いた「汝自身を知れ」でした。

 私は、その時「汝自身を知れ」という言葉についてはどこかで聞いたことはありましたが、誰が言った言葉なのか、どういう意味なのかまでは知りませんでした。私は、その時、言葉の持つ意味を知らなかったのです。後で家に帰ってウィキペディアで調べてみるとギリシャデルポイ遺跡にあるアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシァの格言であることが分かりました。ウィキペディアには、一般的なものとして「この格言は人間の理解という大きな理想を語ったものではなく、普段の生活を送る中で自分が立ち向かうところの人間的性質の諸相を知るということ、たとえば、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものである。」という解釈と、神秘主義的解釈である『「汝自身」というのは「己の分をわきまえぬ自惚れ屋」を意味しているのではなく、自己の中の自我、つまり「我あり」という意識を意味している。』という二つの解釈が載せられていました。私としては、どちらかというと神秘主義的解釈の方がしっくりきます。やはり、見えているもの感じているものが全てとしか考えることができない人にしてみれば、抽象的な自己の中の我ありという意識を認めるよりも、直接的に感じることのできる怒りの感情の抑制が大事であることを戒める言葉と捉える方が簡単なのだろうなと思います。ここで注意が必要なのは神秘主義的解釈として書かれている「自己の中の自我」とは幻想の私という意味でのいわゆるエゴの自我ではなく、本当の私である鑑賞者としての真我という意味に捉えていただきたいと思います。それが本当の意味での神秘主義的捉え方だと思います。

 もちろん人の行動を戒めるための格言と捉えること自体は何も間違いではありません。しかし、気づきの立場から言わせてもらうならば神秘主義的解釈もまた間違いではないと私は感じます。いずれにせよ、この幻想世界の創作者及び見ている鑑賞者は同一であり、ただ一つの存在である絶対だけしかないという観点からすれば、どちらであっても正しいということになり全てにおいて完璧であるストーリーが展開されているということになります。

 要するに、私の職場での人間関係から生じた不愉快な出来事は私自身の内省からスピリチュアルな気づきへと発展昇華し、そのエピソードは今回の動画の題材になったということです。一つの出来事は別の出来事へと連なりそれぞれが常に関連し合って現象世界は生じています。個々の事象が独立して存在していることはけっしてありません。私やあなたの取った言動には何かしらの理由があり、それは他の何かを誘発させて関連性は引き継がれていきます。従って動画をご覧になられている方の中には、単なる興味本位から暇つぶしに見ている人がいる一方、精神的肉体的にとても苦しい状況から抜け出たいという気持ちから見ている方もいるはずです。どういう理由からであっても、そこには何かしらの理由があるはずです。一つ一つの出来事は常に他の出来事に関連していることを念頭において、あなたの中の真我はあなたを通して何を経験したいのかを考えてみるようにしていただけたらと思います。

 そういう訳ですので、今動画を見ている人にしてもらいたいことがちょっとだけあります。自問自答をしていただけないでしょうか。自らに対して、真我である真実の私は、この体で今何を経験しているのか、何を経験したいのかを少しだけ訊いてみてもらえないでしょうか。そう自分に問いかけてみて下さい。どうでしょうか。自分の中からどういう答えが返ってきたでしょうか。ここで重要なのは帰ってくる答えの中身ではありません。答えを返してくるのは所詮幻想の私の自我でしかないので答えの中身が重要なのではありません。あくまでも自分を客観視するための自らに課す訓練だということです。やってくる思考も感情も音も、自分の体も含めて見えているもの聞こえているもの全ては、スクリーン上で展開されている人生という映画だということに気づくための練習であり、自分の人生を一歩も二歩も引いて、あたかもあなたの人生を他人が遠目で眺めているかのように客観視して見ることにより、人生という映画にのめり込まないようにすることであなたの人生を真に鑑賞している真我に近づくための練習と思って頂ければいいのかなと思います。自問自答が終わった後は静かに目の前で展開される人生劇場を何の思考も浮かばないように心がけながら淡々と日常を普通にいつも通りに過ごしていただきたいと思います。勘違いしないでいただきたいのは無感情になってくださいと言っているわけではありません。笑いたければ笑ってもらって結構ですし泣きたければ泣いてもらって結構です。怒りたければ怒ってもらっても結構です。ただ、それをしているのは、あくまでも体であり、やってくる思考や感情は真のあなたではなく、真のあなたは真我であることを頭の片隅で忘れないように最初のうちは意識しながら通常通りに生活をしていただいて、段々と意識せずとも自分にやってくる人生を客観視できるようにしていただければと思います。

 この自問自答から始める自分を客観視するための練習を是非していただいて、あなたの幻想の物語を創作し鑑賞している絶対たる真我の目的を、あなたなりに探求し解明してもらいつつ真我である本当の自分にたどり着いていただきたいと思います。

            

 最後に、セイラ―・ボブ・アダムソンさんという方が書かれたナチュラルスピリットから出ている「ただそれだけ」という本をご紹介して終わろうと思います。

 アダムソンさんはインドのアドヴァイタという不二一元論の流れを組むオーストラリア人でスピリチュアルの教師をしている人です。15歳で働きに出た以来、アルコール好きでけんかっ早いところがあだとなって職業を転々としてきた経歴の持ち主です。そんなアダムソンさんが、スピリチュアルの道に進むきっかけとなったのがアルコール依存症からの更生のために読み始めたスピリチュアル関連の本だったそうです。その後、インドのニサルガダッタ・マハラジに師事し真理と平安を得るようになったとのことです。

 私は大学までは卒業していますが、アダムソンさん同様、学校で宗教学を特に学んできたことはありません。神職や僧職に就くための専門の教育機関に入ったこともありません。アダムソンさんと私が共通しているところは専門に宗教を学んできていないにもかかわらず、霊的なものに興味と関心を持ち熱心にスピリチュアル系の本を読んでいたところです。私が思うに「私は無い」という気づきを得るために必要なことは、学歴や職歴等は全く関係なく、どれだけ熱心に取り組めるかということと既成の価値観や形に囚われないということだと思います。加えて、私やアダムソンさんは、どこかの宗教団体にどっぷりとのめり込むようなことはありませんでした。特定の宗教の教義に取り込まれていなかったことが幸いしたといえるかもしれません。何が言いたいかというと、つまり、どこかの宗教が唱える神観念や形だけに囚われ束縛されるようなことがなかったということ、それこそが最短で気づきを得るための必要条件なのかもしれないということです。

 もし、この動画をご覧になられている方の中で悟りを得るために、どこかの宗教団体に入ろうと考えている人がいたならば、それは時期尚早(しょうそう)だと思います。宗教団体に入らずとも悟ることは十分可能です。絶対入るなとは言いませんが、宗教団体に入ってしまうと、そこの教義や形をいやがうえにも押し付けられることになります。悟るためには、まず形を覚えなさいと言われることになるのではないかと思います。それでは気づきから遠のくことになり逆効果になる可能性があります。何ものにも囚われない境地こそが大事なのに形に囚われてしまう結果になってしまう虞があります。従って、私からのアドバイスとしては、前回までの動画で言ってきているように、まずは悟り系のスピリチュアル本を片っ端から読んでいくことです。併せて専門書でなくてもいいので仏教やキリスト教ヒンズー教イスラム教、新興宗教といった既成の宗教に関する入門書も読んでいくのが良いと思います。そうすることで、各宗教の根底にある根源的な共通性を自分なりに見出してもらいつつ、いずれは何がしかの気づきを得られるかもしれませんので、どこかの宗教団体に入らなければ悟れないという考えはひとまず脇に置いておくことが大事だと思います。したがって悟るために出家する必要はありませんし在家である必要もありません。どこかの宗教団体に入る必要性は全くありません。

 それと焦らないことです。いくら焦っても、その時が来ていないのであれば気づきを得ることはありません。まずは気づきという果実を成らせるほどの木に自らを十分に成長させておくことが必要です。その為には、日々を普通に生きていく中で気づきを得ていくことを心掛ける心の持ちようが一番必要なのではないのかなと私は思います。

 今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。