私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

真我探求上の心身への悪影響‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

真我探求上の心身への悪影響‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が21回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私は無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私はこれまで何度も繰り返し諦めと自分が心から信じる神仏への明け渡しの重要性をお話ししてきました。それほど諦めと明け渡しが大切というのならば、その諦めと神仏への明け渡しがないまま真我の直接体験が起こった場合やそこに至るまでの精神上の何かしかの変化が起こった場合に、どの様な悪影響があるのかを考えてみようと思います。

 みなさんはクンダリーニ症候群という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。手っ取り早くウィキペディアのクンダリーニの欄をご覧になられることをお勧めしますが、その欄の真ん中あたりにクンダリーニ症候群について書かれている箇所があります。今回は、そのクンダリーニ症候群についてお話しをしようと思います。

 まず基本的な知識としてクンダリーニとは、そこに書かれている説明ではヒンドゥーの伝統において人体内に存在するとされる根源的な生命エネルギーを意味する言葉です。そのクンダリーニをクンダリーニ・ヨガなどを通して覚醒させることにより、神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされています。そして、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じた場合に、様々な快・不快の症状をもたらすクンダリーニ症候群が生じる可能性があるようです。

 クンダリーニの覚醒には、大きく分けて能動的アプローチと受動的アプローチの二つがあります。能動的アプローチには体系的な身体運動と集中、視覚化、呼吸法、瞑想のテクニックなどがあるのに対し、受動的アプローチでは積極的にクンダリーニを目覚めさせるようなことはせず、降伏の道とも言える目覚めに対する全ての障害を手放していく方法が取られます。その受動的アプローチの主な部分が、既にクンダリーニが覚醒している指導者による注視、意念、シャクティパットとのことで、それにより一時的ではあるものの指導を受ける者に基礎となる経験を与え、その事で、その人のクンダリーニが目覚めるのを促すとのことです。

 最初私は、このクンダリーニという言葉の意味が全く分かりませんでした。クンダリーニの覚性とは何のことやらというのが正直なところでした。しかしながら、関連する項目を読み進めるうちに、どうやらクンダリーニとは真我である純粋意識のことを指しているのではないかと思うようになりました。ウィキペディアの「ヨーガ」の欄には、ヨーガはインド的・仏教的な伝統において悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法自体と、その世界をトータルに表す言葉であるとするインド思想研究者の説と共に、合一、結合、集中、努力、心の統一、瞑想といった意味もあるとも書かれています。従って、そこに書かれていることに基づいて解釈するならクンダリーニ・ヨガとは真我との合一を目指す修練法、つまり梵我一如法と言えるのではないかと思いました。

 ヨーガは、現代においては心身の健康増進を主眼に置いた身体的エクササイズになっているようですが、もともとは瞑想を主とする古代インド発祥の伝統的な宗教的行法でありバラモン教ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教等の修行法として行われてきたと言われています。当然宗教的行法であるというのであれば、そこには単なる健康法以上の宗教的意味合いがあるはずです。とあるインド哲学研究者の説としてウィキペディアには、ヨーガは基本的に意識を一点に集中する瞑想の技法であり、心の働きを止滅させることを目的とすると書かれています。それでは一体、何のために心の働きを止滅させるというのでしょうか。もちろん、それは悟りを得るためであり解脱をするためであり、至高の存在である真我に至るためです。

 私は、クンダリーニやヨーガに関する説明を読んでいるうちに、これらの説明は真我に至る色々ある方法の中の一つの方法を違う言葉で説明していたということが分かりました。現在の単に心身の健康を目的とするものではなく、それらの方法の本来の目指していたところが分かれば、私が取り組んでいた目標と同じところを目指すための別のやり方であったと気づきます。実際、ウィキペディアのヨーガの説明の中に「仏教でいう禅定や止観、またはマンダラを用いた瞑想法なども広義のヨーガといえ、ヨーガの行法は中国・日本にも伝えられた。」と書かれています。いずれにせよ、悟りや解脱に至る方法には色々あり一つではないということなのでしょう。

 そうしたことを踏まえた上で、それなら、私が過去動画の中でお伝えしてきたことは今申し上げたクンダリーニの覚醒のアプローチの仕方に当てはめた場合、能動的なのか受動的なのか、一体どちらにあたるのでしょうか。私が思うに間違いなく受動的なやり方の方だと思います。自らが心から信じる神仏に対して人生の明け渡しの大切さを私は言ってきた訳ですから明らかに降伏の道であることに間違いはないのではないかと思います。

 いずれにせよ、自分に合ったしっくりくるやり方をやっていけば良いのではないかと思います。以上、ここまででようやく前提として把握しておかなければならない基本的なことが話し終えました。ここからが今回の本題ということになります。

 ウィキペディアのクンダリーニの欄の中ほどにクンダリーニ症候群について書かれた箇所があります。そこには次のように書かれています。霊的・精神的・身体的な準備ができていないにもかかわらず意図的または事故等によりクンダリーニがある程度覚醒してしまったために様々な快・不快の症状を発症することであり、発症要因としては中毒症状や病気、過労、仙骨付近の負傷、臨死体験などにより発症する可能性がある。特に臨死体験経験者が最もクンダリーニ上昇に近い経験をしているという主張が欧米の研究者を中心になされている。他に、急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故などにより身体にかかる衝撃、出産時のショック、過度の前戯などによっても誘発されるおそれがあるという説がある。なお、LSDなど薬物を利用した覚醒は偽りのものであり、アクシデントに陥りクンダリーニが堕胎(だたい)してしまう危険性が高いとされる。症例としては、自律神経系のうち交感神経系の暴走からくる自律神経失調症をはじめ、至福恍惚感、全身の激しい脈動、脈拍数の増加と高血圧、片頭痛、急性または慢性の疲労、性欲の昂進(こうしん)あるいは減退、統合失調症的症状、幻視・幻聴、抑鬱神経症などを発症するおそれがあり、臨死体験や空中浮遊、脳溢血や半身不随、自殺などを招いてしまうなどと主張するグルもいる。元々境界例や自己愛的な病を患っていたり精神病を潜在的に抱えている患者に、クンダリーニ覚醒に先立って元々の病が押し出されるという説もある。

 今読み上げたことは全て真我探求をする上で、とても重要なことなので悟りや解脱を目指すというのであれば必ずウィキペディアのクンダリーニの欄の中に書かれているクンダリーニ症候群の箇所に目を通しておいてもらいたいと思います。

 なぜ私が、過去動画において何度も警告を発してきたのかという理由がこれではっきりとお分かりになるのではないでしょうか。真我探求は、その目的故に自我の消滅を必要とします。その自我の消滅を目指す過程においては下手をすると精神の崩壊を招く恐れがあります。特に自分一人で取り組んでいる場合などは、とても危険な行為になると私は思っています。重度の心身の疾患を患うばかりでなく最悪自分や他人に対して危害を加える可能性もあるのではないかと思います。生半可な気持ちから、特に超能力を身に着けたい有名になりたいなどといった欲を動機としている人は本当に危ないと思いますし、先ほど読み上げた引用文のなかにあった通り、もともと潜在していた精神病が真我探求をすることにより表出する可能性も考えられます。

 なぜなら、私は何かで始まる私は体ではない、私は感情ではない、私は思考ではない、私は感覚ではないというように、自分の内と外で感じていたものを少しずつ薄皮をむいていくように剥いでいきながら核となる心さえも自分のものではないと否定していくわけですから、その自分と思っている自我を小さくしていく過程おいて心身面でどの様な悪影響が生じるかについては私にも見当がつきません。

 私の場合は、感覚・知覚・記憶・思考・意図といった個々の体験の要素を「私の体験」「私の人生」と見なさない解離性や自分が自身の観察者になるような状態を感じる離人症的な感覚がありますが、それは自分の言動や精神活動を徹底的に客観視するという日々の精神鍛練に起因するものなので意識的・意図的に起こしている精神状態とも言えます。日頃から、そういった精神鍛錬をしていない普通の人は何の予備知識もないまま、また意識的に意図的に鍛錬としてその状態を引き起こすわけでもなく望んでもいないことが起こるために、それを病気と捉え苦痛に感じるようですが、私はそれを真我探求上おこなう精神鍛錬のたまものと考えているので全く苦になっていません。逆に起こる事象を遠目で見るかの如く客観的に見ることができるようになってうれしい限りです。従って、たまものと思い全く苦になっていない以上、私にとっては、それは自我意識の障害には当たらず病気ではないのです。また統合失調症の思考内容の障害にあたる妄想の症状の一つに自分は神若しくはそれに近いものなどと思い込む宗教妄想というものがあるようですが、以前にも申し上げた通り私は自分の中に神の本質があるとは思っていますが、それは地球上の80億を超える全ての人々と全ての存在にも言える事なので私だけがそうだと言っているわけではありません。私を含めた見えるもの見えないもの及び世界と宇宙の全てが神の現れであると言っているのです。これは仏教の多くの宗派で唱えられている、この世の全てのものまたは一切の衆生には仏性があるという教えと同じものであると私は思っています。もし、そう考えること自体が病気だと医学者が言うのであるのならば、それをいう唯物論に凝り固まった医学者の方が間違っていることになります。

 それ以外では、ウィキペディアの中に書かれている統合失調症の症状として挙げられる妄想・幻覚・まとまりのない思考・ひどくまとまりのない、または異常な運動行動・陰性症状に該当するものはないと自分で判断できますし、社会的または職業的機能の低下なども特になく職場の人間関係も良好です。正直、真我の直接体験をする直前まではかなり精神的に苦しい時もあったのは事実ですが、真我の直接体験をした後は自分の真の存在は何なのかを知っているので以前のような苦しさはありませんし、神仏への絶対的帰依もあることから心には平安があるのみです。故に今のところ私は自分について特に精神を病んでいるとは思っていません。

 しかしながら、そう言えるのはあくまでも私の場合に限ってということであり、他の真我探求をしている人にも同じようなことが言えるなどと絶対に言えません。やはり自分が何らかの精神疾患を患っているのかどうかを疑問に感じるようであるのならば専門医に見てもらう必要性は出てくると思います。しかしながら真我の探求上、それが本来正しい道の中で生じる乗り越えなければならない予想される通常の困難であり、悟りや解脱を目指す者にとって通らなければならない試練の途上における必然的な精神的・身体的変調であることも考えられます。それにもかかわらず正しい知識が無いがために統合失調症のような精神病であると勘違いをして精神科を受診し、加えて精神科医がクンダリーニ症候群や宗教上の精神鍛錬の厳しさと困難さと苦しさに全くの無知であった場合は、単純に症状だけをみて精神病と決めつけられ薬物治療などを受けてしまうならば、それまでの鍛錬が水泡に帰すということも考えられます。従って、何が病気で何が探求上生じる乗り越えなければならない精神上肉体上の試練であるのかを自分自身でちゃんと見極める必要性があると思います。

 まずは悟りや解脱を目指す真我探求上で待ち受ける数々の試練に伴う精神的肉体的変調にはどのようなものがあるのかを知ると同時に間違われやすい統合失調症のような精神疾患の症状にはどのようなものがあるのかも把握し、両者から生じる可能性のある心身の変化の危険性をしっかりと認識したうえで、それに対応する心構えを事前に持っていなければならないと思います。そして更に、今言った起こりえる心身の変調と危険性の認識に関する知識を踏めたうえで取り組まなければならない真我探求に不可欠と言えるものは、やはり自分が心から信じる神仏に対する帰依心だと思います。

 前述したウィキペディアのクンダリーニ症候群の中に発症要因として、「急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故などにより身体にかかる衝撃、出産時のショック、過度の前戯などによっても誘発されるおそれがあるという説がある。」と書かれています。

 事故などの不測の事態によるクンダリーニの覚性については私は門外漢なので何とも言えませんが、少なくとも意識的に行う真我探求については経験上それなりに言うことができます。それは自らが信じる神仏に対する絶対的帰依心なくして真我への軟着陸は難しいのではないかということです。

 私の場合は幸いにして自己の内側にしっかりとした信仰に基づく神仏への帰依心がありました。私の核となる部分は「私は無い」に気づく前後あたりからワンネスと根底にある愛という認識、つまり全ては一つであり、そこには愛があるという体験に基づく考えが少しずつではありましたが醸成されており、かつ私を含め全ての現象、全ての出来事は神が作ったものであり、私は神の操り人形かプログラム通りにしか動くことができないロボットに過ぎないことを理解し受け入れていました。結果的に、そういった認識が事前に保たれていたからこそ真我の直接体験をした後でも私の心は絶対的な帰依心に基づく明確な神への帰属意識へと変わることはあっても私の精神が崩壊するなどということは一切なく、体にも変調をきたすこともなく通常の社会生活を営むことができました。これは確かな事実です。この一連の体験上の流れから受ける印象をクンダリーニ症候群にならないために関連付けて私なりの考えを申し上げるならば、自分の本質は一つなるものであり根底には愛があるという認識と神仏に対する帰依心は真我探求上の必須の心得であることに間違いはないと思います。

 また、私には準備が整わないまま生じたクンダリーニ覚性後のクンダリーニ症候群と併せて危惧することが他にもあります。それは、どの様なやり方であろうとも単なる好奇心からとか、超能力を身に付けたいからとか、有名になりたいからなどの欲望の充足といった邪心からクンダリーニの覚性をしようとする人がいるかもしれないということに対してです。もし、しっかりとした神仏への帰依心もなく善なる心もなく興味本位や煩悩からくる真我探求を行い自我の消滅を試みようとした場合、一体その人はどうなってしまうのだろうかと考えてしまいます。

 たとえば私がやってきた方法である、自我を帰依心に基づいて神仏への明け渡しを行いながら、私は何かと問いつつ、私は体ではない、私は感情ではない、私は思考ではない、私は感覚ではないというように、自分の内と外で感じていたものを少しずつ薄皮をむいていくように剥いでいきながら核となる心さえも自分のものではないと否定していく方法を、善なる心が自我の根底になく、かつ十分な神仏への帰依心もない人が欲望の充足を目的に行なった場合を皆さん考えてもらいたいと思います。その人は、これまでは教育の成果として心の表層にあった上辺だけの常識や道徳心で普通に社会生活を無難にこなしてきました、しかし、ある日ふと関心が湧いた真我探求上の自我の否定の鍛錬を行うことにより上辺の道徳心や常識を守るという意識が取り払われ自我の奥底にあった悪の心がむき出しになってしまうということが起きてしまった場合、これはとても恐ろしい結果を招くおそれがあるのではないでしょうか。自制心をなくした人の悪の心は自分や他人に向けられ、様々な言動で自分を含め人や周囲のものを傷付つける可能性があると思います。

 時たま重大事件を起こした人の中に罪を犯した理由として神がそう言ったからやったという人がいますが、それと同じように自我の根底にあったものが善ではなく悪の心で、なおかつ、しっかりとした神仏への帰依心がないまま自我を消滅させていく鍛錬をすれば、むき出しとなった悪の心は悪行をする際に言い訳として神仏を口にするのは必定です。

 従って、何度も繰り返しますが、しっかりと善なるものが心の中心を成している人が鍛錬をするのなら良いのですが、もし、悪なる心が自我の中心をなしていた場合、それまで曲がりなりにも悪なる心を抑制していた外側の自制心や道徳心・常識を守る心が鍛錬によって消滅し若しくは抑制力を失って中心にあった悪なる心がむき出しの状態になってしまい、しかも十分な神仏への帰依心もないということになれば、その人は完全に悪なる心に支配されてしまう可能性があります。

 なんだかスターウォーズに登場するジェダイアナキン・スカイウォーカーがフォースの暗黒面に囚われてダースベイダーになってしまう話しと似ているように感じますが、何にせよ、悟りや解脱を目指す真我の探究中においては善なる心を核としたうえで神仏への明け渡しがしっかりと出来ていない人は、悪の道に進んだり精神の平衡を保てなくなり最悪自らを傷つけてしまう可能性があると思います。もちろん最終的に真我であることを悟れば、そこには善も悪もなく神も悪魔もいない生も死もない対立しあうものなど元からない全てが空なるものであることが明白になりますが、問題はそこまでに至る過程において精神を病んでしまう可能性があるということなのです。

 以上の事から、自分の中の核となる部分は善であるという人だけが真我探求の資格があると言えるのではないでしょうか。自分の心の中の本性を見誤(みあやま)ることなく真我探求に取り組んでもらいたいと心底思います。いずれにせよ、宗教団体に所属せず一人で真我探求をするというのであれば探究中に精神を病んでしまうことになったとしても全ては自己責任ということになりますので、クンダリーニ症候群も含めて悟りや解脱の道を歩むうえで起こる様々な心身の障害に関する勉強も行いつつ取り組んでいただきたいと思います。もし、十分な準備が整わないままクンダリーニが覚醒したためにクンダリーニ症候群に当てはまる心身の変調をきたしたり、真我探求の精神鍛錬の段階で自らの内の核となる部分は悪であることに気づいた場合には探究を直ぐに中止するのが無難です。そして、特に自らの内の核となる部分は悪であることに気づいた人は善なる心の修養に努めつつ精神科の専門医を受診した方が良いのかもしれません。ウィキペディアのクンダリーニ内に記載されているゴーピ・クリシュナの体験も参考になると思いますし、ネットでクンダリーニ症候群と検索すれば関連記事が沢山出てくることから、それらにも一通り目を通しておくことをお勧めします。

            

 それでは最後にアマゾンの電子書籍であるキンドル内において現在税込100円でダウンロードできる関カオルさんという方が書かれた「クンダリーニ症候群になってしまった時に読む本: 素人がクンダリーニ覚醒するとどうなる?」をご紹介します。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

 内容はサラリーマンの著者が太平洋上空の飛行機内で突然クンダリーニ覚醒をしてしまったというところから始まるお話しです。著者は、クンダリーニ覚性をしてしまったことでエンジニアの仕事をしているにもかかわらず電磁波過敏症になってしまいパソコンを立ち上げることすらできなくなりました。さらにはパニック発作が毎日のように起こり外出もままならなくなってしまい、統合失調症の症状とそっくりな症状に苦しまされ続け、それらの症状が完全に回復するまで8年もかかったとのことです。その自身の体験であるクンダリーニ症候群の症状と回復までの記録などが書かれている本です。

 著者が言うには、クンダリーニ症候群になる理由としては、精神や肉体の浄化が終わっていないにもかかわらずクンダリーニのエネルギーが上昇してしまうのが原因とのことで、クンダリーニのエネルギーが精神と肉体のブロックとぶつかることで様々な不思議な症状を生みだすのだそうです。また、精神と肉体の準備が出来ていない状態でクンダリーニが覚醒すると高い確率でクンダリーニ症候群になることから興味本位でクンダリーニ覚性を求めるのは、あまりにもリスクが高いとも書いています。

 私も著者の「興味本位でクンダリーニ覚性を求めるのは、あまりにもリスクが高い」という意見には同感です。本文中でも申し上げましたが真我探求では、それを求める人には資格が求められます。なぜなら真我の直接体験は、純粋に何の曇りもなく無垢な赤子のような心を持つ者であり、かつ心から真我を切望する人だけに与えられる神の恩寵だからです。故に何の準備もできていない人が何かしらの突然のきっかけで覚性をした場合には、それなりの副作用があるのは当然だと言えるのではないでしょうか。しかしながら、それもまた神の筋書き通りということなので神のちょっとしたいたずら心から生じていることにもなります。当の本人にしてみれば神のいたずら心に対しては、そんなのたまったものではないと文句の一つも出るでしょうが、本当に真我の直接体験をして、この世の真理を少しでも垣間見た人なら、私の言っている事は理解できるはずです。

 何にせよ。今回、取り上げたクンダリーニ症候群はウィキペディアにも書かれている通り、他の病気にもみられる症状を自分でクンダリーニ症候群だと思い込むケースが多いとも書かれていますし、逆に、実際にクンダリニー症候群であるにもかかわらず単なる精神病と誤診されるケースもあるとも書かれています。著者が体験したむずむず足症候群や統合失調症的症状は、クンダリーニ症候群と症状のうえで重なる点があります。著者は、クンダリーニ症候群と統合失調症を見分ける方法はきっかけにあると言っています。症状が起こる前に頭頂部または尾骶骨に衝撃を受けたことはなかったか、ヒーリングなどの自然療法で治療を受けたことがなかったか、ヨガなどでスピリチュアルなヒーリングを受けたことはなかったかなどを挙げています。

 ちなみに私はこの三つの要件すべてを満たします。私の場合は、「私は無い」に気づく2年ほど前自転車に乗っていた際に転倒し腰の脊椎を圧迫骨折するほどに尾骶骨を強打したことがあります。私は、その為に身長が1センチ縮みました。それほどの衝撃を尾骶骨に受けたことがありました。また、インドの瞑想指導者であるオショーの正式な弟子と認められている人が開催していた瞑想サークルに何回か参加したことがあります。さらにレイキヒーリングを指導している人からもヒーリングを受けたことがあります。加えて、私の小学校の時からの友人が崇教真光の信者でしつこく私を誘ってきて近くの道場に連れて行っては、その友人を含む何人かから「お静まり」と言いながら私の体に手かざしをする仕草を何度もされたことがありました。だからという訳ではないでしょうが、そういう事が「私は無い」に気づく前にあったことは確かですし、何より私には若い時から願望成就のためとはいえ神社仏閣をお参りする習慣がありました。10年くらい前からは何かをお願いするためではなくただ神仏に手を合わせるだけのために自然にお参りすることを心掛けるようになりました。はっきりと自覚できるような帰依心も「私は無い」に気づいてから徐々に涵養されてきたと思います。それにより私の場合は真我の直接体験をしてもクンダリーニ症候群になることなく依然と変わりなく社会生活を送ることができたということなのかもしれません。

 いずれにせよ、しっかりとした考えのもと全ては自己責任という覚悟を持って事前の情報収集により様々な功罪を理解した上で真我探求に臨んでいただきたいと思います。ご紹介した本にご興味ご関心のある方は、現在税込み100円でキンドルから購入できるようなので読んでみてはいかがでしょうか。

 それではいずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。