私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

神は悪さえも切望し愛している!!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

神は悪さえも切望し愛している!!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は12回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私はどういう訳か、眠りと眠りから目覚める中間のまどろみの状態の中で至福感を感じたり気づきを得ることが多いようです。気づいていることに気づいている純粋な気づきともいえる気づきそのものは、体における睡眠と夢見の状態、まどろみや起きて活動している時の状態自体には何のかかわりもなく、そこに存在し続けているのですが、なぜ体がまどろんでいる状態で気づきを得ることが多いのかについては、私もよく分かりません。

 単純にそういう物語の設定になっているということなのでしょうが、推測するに純粋な気づきの意識である真我によって生じる、意識を意識する感覚と在るという感覚、そして存在性への愛から現象世界が立ち現れる端境期であるのがまどろんでいる状態であることから、まだ十分にその本領を発揮することができないでいる自我に妨げられることなく、現象が立ち現れる根底にある作用をそのまま感じることができているということなのかもしれません。

 昨年の2022年の1月4日の早朝のことですが。私は眠りと眠りから目覚める中間のまどろみの状態の中である気づきを得ました。

 それは、どういう気づきかというと、たとえそれが、どの様なものであろうとも今のその現状を真我が切望しているという気づきです。現状が、どれほどつらく苦しく死にたいと思うほどの苦痛に満ちた毎日を送っていたとしてとも、自我が、いくらこんな現状を望んでいないと割れんばかりの声で叫び血の涙を流し主張しようとも、真我は、その経験を真に切望しているということです。しかも真我は、その現状を本当に愛しているのです。私はそれに気づいたのでした。冗談のように聞こえるかもしれませんが真我はサディストであると同時にマゾヒストであり、しかも善悪や感情がないことからサイコパスでもあるのです。自我からすれば本当にひどい存在です。

 従って、あなたの自我が直ぐにでも辞めたいと思う、毎日している仕事や職場の嫌な人間関係でさえも真我は愛しています。とても信じられないでしょうが、これは真実です。幻想のあなたの自我が快く思っていない職場の上司や同僚をはじめとする職員の一人一人、辞めたいと思っている仕事そのもの、そして苦しんでいるあなたの自我の状態を深く愛しているのです。

 肉体と精神が苦痛に満ち避ける手段が自殺しかないような状態に自我が追い込まれていたとしても、それさえも真我は切望し、その状況を愛しているのです。

              

 ニール・ドナルド・ウォッシュさんが書いた「神との対話」の中の87ページの6行目に「私は善を愛しているのと同じように悪を愛している。」という一文がありますが、まさに、それは本当のことなのです。

 真我は、この世界を作り出しています。「神との対話」に当てはめるのなら神は真我といえます。その創造主とも言える真我は、悪と言われることさえも切望し愛しています。普通の感覚の持ち主にはとても受け入れがたいことでしょうが、たとえ、世間一般的には、どんなに血も涙もない残虐な行為と言われるものでさえも真我は愛しています。つまり、山奥で隠遁生活をしている人であろうと都会で暮らす大金持ちの人であろうと病気で苦しんでいる人であろうと何人もの人を殺した殺人者であろうと事件事故に巻き込まれた被害者であろうと、どの様な状況にある人であっても真我は等しく愛していて、真我が望む形で置いた一つなるものとしての現れの中の動きとして、その人たちは愛されて存在しているのです。

 この世の個々人にまつわる現象の全ては、真我が本当に愛し切望しているからこそ世界に顕現しているものなのです。そうでなければ、私やあなたとして、その周囲の人や物として現れるはずがないのです。

 そして重要なこととして心に刻み付けておかなければならないことがあります。真我は、みなが等しく同じ楽しい経験ばかりをすることを望んではいないということです。真我にとっては、人々が喜び楽しむ歓迎できる経験と痛みや苦しみに感じる負の経験といった多種多様なそれぞれの個々の経験に対して、温度差や上下高低の差はなく同列だということです。共に全てを愛し経験することを切望しているのです。現れる行為には、避けなければならない卑しい行為や進んでやらなければならない尊い行為といった貴賤は一切ありません。全ての行為は、ただの行為でしかありません。行為は行為であって、そこには何の違いもないのです。現れては消えるただの現象でしかないのです。従って、行為をする人もされる人もいません。傷をつける人も傷つけられる人もいません。究極的には生まれる人も死ぬ人もいません。真実、私やあなたは輝きであり、気づいていることに気づいている純粋な気づきなのです。もし、私が今言っていることに対して何の反感もなくすんなり理解が出来るのであれば、あなたは悟りの領域にある人と言えるかもしれません。

            

 最後に、先ほど取り上げたサンマーク出版から出ている「神との対話」をご紹介して終わろうと思います。多分私はウォッシュさんが書いた「神との対話」シリーズを全部読んでいます。それほど、この「神との対話」シリーズは私にとって意味深いものがあります。いわゆる引き寄せの法則があると信じ傾倒していた時期に熱中していた本だからです。読み物としても結構面白いです。特に「神との対話」シリーズの一巻、二巻、三巻の三冊を読むことをお勧めします。気づく前は引き寄せの法則的なところばかりに目が奪われていましたが、自らのうちにある真我に気づいた後の目を通して読んでみると、なかなかどうしてこれらの本の中にはけっこう奥深いところが多くの箇所であり、私も納得するほどの真理といえることが書かれています。

 例えば、176ページの1行目と4行目に「最も気高い善とは、あなた自身に最高の善をもたらすものだ。」「あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。」と書かれている一方、168ページの11行目には「最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。」と書かれています。

 さらに179ページの後ろの方に書かれている「じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけだ。」という文章と前述した「私は善を愛しているのと同じように悪を愛している。」という文章とを併せて読んで、ここで書かれている善とは世間一般で言われている善ではないということを理解した場合には、一見すると矛盾することが書かれているように思われることも矛盾していないことが分かってきます。なぜなら、これまでに何度も私が言ってきたように、この世界では、善とか悪とか言われる行いの全ては創造主の計画通りに進められているただの物語りに過ぎないからです。

 注意点としては、引き寄せの法則的なことが書かれていると勘違いするような箇所があることから、欲に目がくらんでいる人がこれを読んでしまうと引き寄せの法則があると誤解してしまい、かえって気づきから遠のく可能性があります。しかしながら、たとえ引き寄せの法則があると思い込み気づきや悟りから遠のいてしまったとしても、それさえも真我が書いた物語通りということなので、それはそれで私は、私自身に対してもその人に対しても善い行いをしたことになり、私は全く気にすることはありません。

 引き寄せの法則全般にも言えることですが、真髄としては、この世は真我の自作自演の映画なので、自分が自分に対して言っているということに気づくことです。いずれにせよ読む場合には、やってくる思考や沸き起こる感情と共に現実の出来事を変えることができるのは、あくまでも創造主である真我にしかできないことであることを常に念頭に置いて、引き寄せの法則など絶対にないということとインドの聖者であるシュリー・ラマナ・マハルシが言うように真我探求こそが悟りへの最短ルートであると肝に銘じた上で、その点に注意して読んでいただけるのであれば登場する神様がとてもユニークで面白いので真理探究の入門書としては打って付けだと思います。これまでにない新たな視点での神様に関する印象を与えてくれるのではないかと思います。過去に読んだことがある人は、もう一度読んでみることをお勧めします。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。