私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

明け渡しの重要性‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

明け渡しの重要性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が20回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これまで私は諦めの重要性を何度も繰り返し言ってきました。この諦めは、単純に自分の未来における何かしらの欲望の成就に関する期待や希望について言っているのではありません。自分がかじ取りをしていると思っている人生そのものに対して、実際は一切かかわることができないことを受け入れるための諦めなのです。その上で、たとえば味噌や醤油が無くなったから買ってこなければいけないなとか、服が古くなったから新しいのを買わなければいけないなという程度の生活上必要とされる物以上の欲を抱くことなく、自分の人生の先行きに対して分を超えた期待や希望を持つことなく今をあるがままに生きるために毎日繰り返される日常を淡々と生きることは、とても大切になってきます。しかしながら、そういった自分の未来に対して何の希望や期待を持たずに、ただ生きることは時には大変つらく苦痛に感じる場合もあると思います。僅かであっても何かしらの希望があるからこそ生きていけるという人もいるでしょう。それが本当に実現可能であるかどうかを問わず、たとえそれが絶対に実現不可能なものであったとしても、また漠然としたものであったとしても、それまで当たり前のように胸中に抱いていた自分の未来に対する期待や希望を完全に捨てて今を生きることだけに集中するのは困難な場合があることは私も認めます。しかし、それは自分の人生が自分のものだという幻想があるから成り立っているに過ぎないのです。

 私は無いに気づいていない人には信じられないでしょうが、私も含め誰であろうとも人生に対して関わることは一切できません。単純に、自分のものと思い込んでいる体の感覚を経験しているに過ぎないのです。その経験の連続を私の人生であると事実誤認しているだけなのです。ただの思い込みなのです。その思い込みを断ち切るためには、出来るだけ体を通して感じる様々な情報を、それは私ではないと自分から切り離す努力をしてみる必要があります。体から受け取る情報は、あなたではありません。体の目を通して見ている映像はあなたではありません。私たちはリアルな感情と体の感覚を伴う映画の中にまさに我を忘れて没入し観賞している存在なのです。

 そして、そういった受け入れがたい真実を真実として真に受け入れていく過程においては、私は無いことに気づいたことにより空白となる主体となるべき私の部分を代わりとなる何かで埋めていくことが必要になってきます。それが、自分の身と心及び人生の全てに関して自分が心から信じ絶対的な信頼に基づいた神仏に対する帰依心から起こる明け渡しなのです。この明け渡しにより全ての行為は神仏によって自動的に起こっているという認識が、それまであった私に、とって代わるのです。つまり、それまで行為の主体となっていた私の部分が神や仏に置き換わられるということになるのです。そこには絶対的な安心があります。脳裏を横切る心配事や胸中を漂う漠然とした不安は明け渡しの度合いに応じて軽減していきます。

 以前の動画でも申し上げた事があると思うのですが、私はある日、神への絶対的な帰依心が急に起こったことがあります。私は、神の操り人形として神の奴隷としてのゆるぎない認識と共に神への絶対的服従心ともいえるものが芽生えました。その時私は、神に属する者として神の命ずるままに神の手足となって動くことを切に願いました。それ以来、生きるも死ぬも私の人生の全ては神にお任せをしていて、私の心は常に神と共にあることで安心と安定を得ています。不思議なのですが神への絶対的帰依心には心の安定作用があります。

 

 また、私は今出ている画像のように神の偉大さを前にして自然と身も心も完全にひれ伏すことが度々あります。ひれ伏すことに理由などありません。とにかく私は神の偉大さを感じると、その圧倒的な大いさに対して自然な感情と敬意の現れとしてひれ伏さずにはおられなくなるのです。神の、その大いなるものとしての存在に対して、あまりの偉大な尊さに対して畏れ敬ずにはいられない気持ちになるのです。加えて感謝せずにはいられなくなります。これらの五体投地の画像のように私の頭は、ただただ地にひれ伏すばかりとなるのです。

         

 さらに、イメージとして私の首はどんどん長くなると同時に地中に潜り込んでいき、私の頭は地球の中心を通て反対側に出てもまだ足りないほどのかしこまり方になってしまいます。そして私は、神は偉大なりと念じるのです。いかにイメージとして頭(こうべ)を垂れ地球の反対側を突き抜けるほどに首を長くしたとしても、まだまだ神に対する謙虚な気持ちを表す表現が足りないような気がしてなりません。どうすれば私の身も心も命さえも神に捧げ忠誠を誓う忠実なる僕として、それを表現すれば良いのでしょうか。私には分かりません。

 しかしながら、私は今ここで、はっきりと世界中の人々に対して明言できることがあります。それは、私は神様を心から愛しているということです。私は神様のことを思うだけで本当に幸せな気持ちになります。神様は私にとって至福そのものです。私は心から神様を愛しています。

 明け渡しの方に話しを戻します。神への明け渡しの重要性は仏教でもヒンズー教でもキリスト教でもイスラム教でも共通して説かれています。仏教では帰依とか帰命と言われています。意味は、優れたものに対して何の疑いも持つことなく信じて身も心も捧げてよりどころとすることです。

 その昔、三帰依文(さんきえもん)という、悟りを開かれたお釈迦様と、そのお釈迦様が説いた教え、その教えを奉じて学び伝える人の集まりといった三宝への帰依を唱える儀式がお釈迦さまの弟子となる際にあったそうです。この三宝への帰依は仏教徒の基本中の基本ともいえるものなので今でも宗派関係なく仏教徒であれば唱える文言になっているようです。

 そして、どうやらこの三帰依文は大乗仏教の仏典の一つである華厳経(けごんぎょう)に由来があるようです。華厳経の浄行品(じょうぎょうほん)の中に以下のように書かれています。

自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意

自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海

自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙

 私は、これをどう読むのか分からないので、手っ取り早く「音読さん」というネット上の音声読み上げソフトを使って読み上げてもらうことにします。

次に中国語です。

 この文章は過去に沢山の人が翻訳されています。ネットで検索すると様々な宗派の方のサイトが出てくることから、そのうちのいくつかを開いて見てみるのですが私には今一つピンとこなかったり、しっくりきません。なんかずれているように感じます。そこで私は、これをDeepL(ディープエル)という翻訳サイトで翻訳してみました。すると次のように翻訳されました。

 

仏に帰依する全ての衆生が大道(だいどう)を悟り、至高の心を育みますように。

法に帰依する一切衆生が経典の奥義を体得し、海のように聡明となりますように。

僧に帰依する全ての生きとし生けるものが、大いなる大衆と一体となり、あらゆる障害から解放されますように。

 

 どうでしょうか。ネット上に掲載されている他の人が過去に翻訳された文章と比較した場合、DeepL(ディープエル)で翻訳された文章の方が一番しっくりくるように私は感じます。どれがいいか悪いかということではなく、単に訳としてはDeepLの訳の方が分かりやすいのではないかと思いました。

 ちなみに私は、宗教団体のどこにも所属していません。従って、私が帰依する存在は全ての見えるもの見えないものの中にあり、同時に自分の中にもある現象世界を生み出す根本原因である唯一絶対と言える至高の存在である真我のみです。宇宙の中心、世界の中心は自分の中にあります。故に私が帰依するのは自分のみです。ですから、これを視聴されている皆さんも、外の何かに帰依するのではなく自分自身の中にある本当の自分に帰依すれば良いと思います。帰依する対象は自分自身です。

 それに関連する話しになるかと思いますが、神社にはご神体として鏡が置かれています。グーグルで「神道 鏡の意味」というキーワードで検索してみると「神社における鏡は、向き合うことで自分の心をありのまま、包み隠さずに写し出すことを意味しています。」という説明がトップに出てきます。私は、全くその通りだと思います。その鏡に反映されるのは自分の姿のみならず万物が一体となって写り込んだものです。この一体となって写っているというところがとても重要です。自分と思い込んでいる体と周囲の物すべては一つであるということを理解できるかが鍵になります。それは体を含めて一体となってこの世に現れ出た神の姿です。それを前にして柏手を打ち頭を垂れるのは、その一体となって現れ出ている現象世界の根底にある神の本質に対して礼拝をしていることになるのだと私は思います。

 次は、ヒンズー経です。ヒンズー教では、信愛とも訳されるバクティと呼ばれる絶対的帰依をすることは、自力だけではなかなか得ることが難しい解脱をする上で最高神の慈悲を頼りとする大切さとして説かれています。またバクティは、尊敬と崇拝の対象であると同時に指導者でもあるグルに対して絶対的な信頼に基づいて帰服する際にも使われる言葉でもあります。さらに、数ある聖典のひとつとして数えられるバガヴァッド・ギーターの中でも、何の迷いもなく願望もなく私という思いもなく、自分が行うべき行為をただ行うことこそが神への絶対的帰依として語られています。

 次はキリスト教です。キリスト教では、聖書の多くの箇所で神にゆだねることの大切さが語られています。神の御心のままにとか御旨のままということが書かれています。中でも最も偉大な明け渡しは十字架上におけるイエスの言葉に象徴されるのではないかと思います。ルカによる福音書23章46節、イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。これこそがイエス自身が身をもって手本を示された最高の明け渡しと言えるのではないかと思います。

 私は、この23章の描写からイエス・キリストの死に対しては手を合わせ心からの感謝をします。なぜなら、自らを犠牲にしてでも愛の尊さを示そうとしたイエスの愛の深さを感じざるを得ないからです。そして私は、神とイエスを愛さずにはいられなくなります。どうか皆さんもイエス・キリストを愛してあげてください。愛すれば愛するほど感謝すればするほど、それは自分自身への感謝と愛という形で帰ってきます。心は満たされます。イエスの復活はイエスを心から愛する人々の中に愛として甦ることになるのです。

 次はイスラム教です。イスラム教でも明け渡しはとても重要な教えとなっています。そもそもイスラームという言葉自体がアラビア語で「平安」を意味するサラームに由来するとのことで、また身を委ねるという意味があり、転じて服従や帰依という意味にもなったそうです。

             

 ところで2023年10月29日現在、楽天電子書籍である楽天Kobo内に0円でダウンロードできる「神聖なコーラン: 日本語の意味の翻訳」という本があるので、もしよろしければそれを読まれることをお勧めします。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

 話しを戻しますが、よくイスラムの過激派がジハードという言葉を使ってテロを行ったりしますが、ウィキペデアを見れば分かる通りアラビア語で奮闘努力をするというのが本来の意味です。コーランに是非眼を通してもらいたいのですが、そこかしこに「アッラーの道のために奮闘努力」という言葉が書かれています。

 たとえば、「神聖なコーラン: 日本語の意味の翻訳」から引用すると第29章蜘蛛の章6節「信仰のために奮闘努力する者は、自分自身のために奮闘努力しているのである。アッラーは、すべてのものに何一つ求めない。」とか第49章部屋の章15節に「本当に信者とは、一途にアッラーとその信徒を信じる者たちで、疑いを持つことなく、アッラーの道のために財産と生命とを捧げて奮闘努力するものである。これらの者こそ真の信者である。」などということが書かれています。時には第9章悔悟の章5節に「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第 殺し、または、これを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だが、かれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」などというように厳しいことが書かれている箇所もありますが、これは多神教徒の不誠実さのために盟約の破棄が宣言されたという話しの上でのことなので、それ以外で理由もなく異教徒の命を無差別に奪って良いなどとはどこにも書かれていないと思います。

 いずれにせよ、第2章雌牛の章21節「人びとよ。あなたがた,またあなたがた以前の者を創られた主に仕えなさい。おそらくあなたがたは(悪魔に対し)その身を守るであろう。」、22節「(かれは)あなたがたのために大地を臥所(ふしど)とし,また大空を天蓋とされ,天から雨を降らせ,あなたがたのために糧として種々(しゅじゅ)の果実を実らせられる方である。だからあなたがたは(真理を)知った上は、(唯一なる)アッラーの外に同じような神があるなどと唱えてはならない。」と書かれている通り神への帰依はイスラム教でも説かれているのです。

 帰依という話しからは少し逸れてしまいますが、ユダヤ教キリスト教イスラム教は共に同じ唯一の絶対神を信仰する宗教です。それらを信仰している当の本人たちはどう考えているかは分かりませんが私には兄弟の宗教のように見えます。今でも世界のどこかで同じ神を信じながら互いに憎しみ合い異教徒扱いをして相手を傷つけていたりしています。いつまで血肉(けつにく)を分けた兄弟同士のけんかをしているつもりなのでしょうか。長い歴史が絡むことですから、そう単純なことではないでしょうが同じ神様を信仰している者同士が相手を認めず骨肉の争いを繰り広げているのは本当に悲しいことだと私は思います。

 イスラム教自体は、コーランを読めば分かることですがユダヤ教キリスト教も認めています。第2章雌牛の章62節「本当に(クルアーンを)信じる者,ユダヤ教徒キリスト教徒とサービア教徒で,アッラーと最後の(審判の)日とを信じて,善行に勤(いそ)しむ者は,かれらの主の御許(みもと)で,報奨を授かるであろう。かれらには,恐れもなく憂いもないであろう。 」と書かれています。コーランには今読み上げたように、それら宗教の信仰者同士でいがみ合えとは書いていないのですから私としては一日も早く融和が訪れることを祈っています。

 ちなみにクルアーンコーランのことです。正確にはアラビア語で「アル=クルアーン」といいます。「アル」は定冠詞で「クルアーン」には「声に出して読むものや声に出して読むこと」という意味があるので、本来、黙読するものではなく読誦(どくしょう)するべきものということになります。

 どうでしょうか。ここまでお話ししてきたことで少しはご理解いただけたでしょうか。どの宗教においても神を全面的に信頼し身も心もそして命さえも神への明け渡しを行うことはとても重要なこととされています。それは自我をおとなしくさせ欲望を生じさせるのを減少させることにつながるからです。この神を心から信じる明け渡しの気持ちがあってこそ絶対の安心と言えるものを得られるのではないかと思います。その絶対の安心という安定した基盤があってはじめて悟りや解脱の道をしっかりと歩むことができるのではないでしょうか。欲望は自我の肥大さと正比例します。つまり、縮小させなければならない自我の大きさに反比例させながら自己の全てを神仏へ移乗していかなければなりません。それら一連の真我探求上の流れが、心から信じる自らの内にある神仏への明け渡しということになるのです。そして、その神仏を信じる心までもが消滅した時、自らがその神仏であったと気づくことになります。それが真我に到達した真我の直接体験ということになります。私の場合は、これといった大した努力をしたわけでもないにもかかわらず、それがたまたま起きたというだけのことです。その真我の直接体験は、それを心から本当に求める人ならば誰にでも起こる可能性はあると私は思っています。

 最後に少しだけ触れておきたいことがあります。宗教については、多くの人は誤解をしていると思います。宗教は本来対立しあうものではないはずです。宗教は、本来自分と世界の存在理由を解明し、創造の根幹に回帰しようとする内なる願望から生じているものです。真理の探究なのですから色々な考え方や探求方法があってもいいはずです。それぞれが自分に合ったやり方で真理を探究し神に至れば良いのです。その神に至る方法として、他の人がやっている自分とは違う別の方法をただ認めれば良いだけのことなのです。私は、とても簡単なことだと思います。そうは言っても物心両面での貧困と偏見と差別が結びついた狭量な心からくる宗教上の対立は、今でも世界のあちらこちらで根強くあるのが現実なわけですから簡単には解決しないというのも事実だと思います。やはり、そこまで人類全体の精神性の平均値はまだ成熟したレベルにまでは達していないということなのかもしれません。なんにせよ、それもまた神が望んだ世界なのですから、神の御心のままにインシャラ―ということになります。

 以上、今回はここまでとします。私は聞いている視聴者が飽きないように動画1本の時間を長くても15分以内に納めようと思っているのですが、あれもこれも言わなければならない、説明がまだ不十分で足りていないという気持ちからついつい原稿を長く書いてしまいます。何とか伝えるべき要点をしっかり捉えて15分以内にまとめようと思うのですが、しかしながら、これもまた神の思し召しのままにということになると思います。

 それではいずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。