私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

ダンテ神曲は悟り本だった‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 ダンテ神曲は悟り本だった‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が19回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 2か月くらい前だったでしょうか。私は、ユーチューブでたまたまお見かけした、まだ20代くらいとおぼしき女性がやっておられる動画にふと興味が湧き何本か拝見させていただきました。その女性は、動画の内容と話しぶりからとても信仰篤いキリスト者さんであると同時に西洋文学にもなかなか造詣が深いことが分かりました。最初は、なんとはなしに聞いていたのですが、実存主義文学の先駆者と言われるフランツ・カフカルネサンス文学の先駆者と言われるダンテ・アリギエーリの著作の内容に一般的な日本人がイメージするあの世の事を関連させたお話しを聞いた途端、そのお話しの中に一気に私の関心を沸き立たせるものがありました。それは、ダンテの神曲の中に書かれているという地獄の門に刻まれている「我を過ぎんとする者は一切の望みを捨てよ」という一文でした。私は、これを聞いた瞬間に、これはもしかしたら悟りや解脱に何か関係があるのではないかという考えと神曲を読む必要性を感じたことから直ぐに読むことを決めました。

 私はそれまで西洋文学や西洋思想には関心がほとんどなく名前くらいは知っていたもののカフカはおろか有名なダンテの神曲さえも読んだことがありませんでした。そういう事もあり、とても有名な本なのに私は今までに一度も読んだことがないことにも気がついて、これも神からのお導きだろうと思い早速アマゾンでダンテの神曲を検索しました。

   

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 当初はkindle電子書籍内に地獄篇と天国篇に分けられて売られていた本で、それぞれが0円でダウンロードできるものが二冊、税込 99円で購入できかつ地獄篇、煉獄篇、天国篇が一冊にまとめられている本が2冊あったので、それら4冊を全て購入し読み始めたのですが何せ4冊全部が文語体で書かれていたことから読みづらく頭の中に全然入ってこなかったことから、口語体で書かれていて、それでいて正確な翻訳本がないものかと近くの市民図書館に探しに行ってみると丁度うまい具合に河出書房新社から出ている平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さん訳の地獄篇・煉獄篇・天国篇が一冊に収録されている完全版があったので、それを借りて読むことにしました。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

                               

 ちなみに古文自動翻訳研究センターというサイトからウインドウズ専用の文語体翻訳ソフトを無料ダウンロード出来るので、kindleで安く手に入る本を読みたいけど文語体が苦手という人は、その翻訳ソフトを使いながら読んでみるのも良いかもしれません。下の説明欄に古文自動翻訳研究センターのURLを貼り付けておくのでご活用してみてはいかがでしょうか。http://honnyaku.okunohosomichi.net/

 本題に戻りますが、1265年にフィレンツェ共和国に生まれたダンテ・アリギエーリさんが書いた叙事詩神曲』は、安っぽい下世話な言い回しになってしまいますが当時の悟り系スピリチュアル本ともいえるもので、キリスト教を主たる信仰の基盤としていた人々が住むヨーロッパ社会に多大な影響を与えたと言われているものです。実際に神曲を読んでみると、それも当然とうなずいてしまうほどの内容が書かれていることに遅まきながら気がつきました。これを読んだことで当時の迷信深い人々が地獄の様相に心底おびえ死後天国に迎えられることを一心に願ったであろうことは容易に想像がつきます。私のように私は無いや自らの内の真我に気づいた者にとっても、これはなかなかの本であることに間違いありません。単なる宗教上いわれている、あの世の事を説明している本ではないと思いました。

 ところで、何がなかなかかをお話しする前にここではっきりと明言しておかなければならないことがあります。それは何かと言うと、私は魂を完全に否定する立場です。魂などというものはありません。魂はないという考えですから、当然、天国や地獄、死後の審判などというものはありません。誰が誰を裁くというのでしょうか。この世は純粋意識である真我が織りなす現象世界です。実在は真我のみです。死んだ後は、ただの純粋意識に戻るだけです。従って、この世における悪い行いで死後の地獄行きを恐れている人がいるのであれば、この世の行いにおける裁きは、あくまでも、この世の中でしか起こることがないので、あの世で裁かれるかもしれないと心配する必要はありません。

 とはいえ、あの世における天国や地獄、死後の審判などを否定する立場ではあるといっても、私はこの世における天国や地獄、高みに昇るための準備が出来ているかどうかの適否を判断する審判の存在までも否定するつもりはありません。それらは間違いなく存在すると思います。それなら、それらは一体どこにあるというのでしょうか。天国や地獄と言われるものは、この世から離れた外側にあるのではありません。それらは人々の心の中にあるのです。私は間違いなく人の心の中にこそ天国や地獄は在ると思っています。その心の中にある天国や地獄の境地の段階により、その人を取り巻く環境は自ずと決まるのではないかと思います。なぜなら、その人の内にある天国や地獄といった境地から生じた境涯性が人生に対して様々な形として現れ出るからです。

 愛に溢れた人であれば愛に包まれた世界に住むようになるでしょうし、怒りや恐怖に憑りつかれた人であるならば何度も怒りや恐怖に見舞われる世界に住むことになるではないかと思います。もちろん、それは神の計画に則って当然の成り行きとして進行することですが、望むと望まざるに拘わらず知らず知らずのうちに、心の中の境地に従い、そういう世界を選ばされたり、または嫌々であろうともかかわらざるを得ない世界の在りように従い心の中も呼応する境地に変わっていくのではないかと思います。

 具体的には、戦いが出来る場所を求める人は戦いを求める心があるからです。求めるものが権力ならば権力を行使できる世界に進む道を歩むでしょう。人を裁きたいと思う人は、人を裁く仕事を選ぼうとするはずです。一方、人を助けたいと思う人は人を助けることができる道を選ぼうとするのではないでしょうか。その求める対象が人であっても物であっても同じことです。各人は、心が求めるものに従い生きようと努力するはずです。それは一見すると心が求めるものを実現させようとする引き寄せの法則と言えなくもないですが、そもそも心に思うものは全て何であろうと神が設定したものであることから、本当は何かを引き寄せているのではなく逆であり、神が設定した心が思うものに引き寄せられていることになるのです。つまり、心が思うことに引き寄せられる法則といった方がより正確ですし適切なのです。なぜなら、その心に思うことは人が設定するのではなく神が設定するからです。 

 そして今、目の前で展開されている状況に不満があり嫌だというのであれば環境を変える努力が求められますが、努力すら出来ないものや努力をしても、それが叶えられないというものであれば、今度は、その事により苦しみを感じることになります。いずれにせよ、それら全ては神により設定された物語通りの展開でしかありません。

 この残酷な真実を知り、もし、あなたが、もう苦しむのは嫌だ、どの様な世界であろうとも左右されない不動の境地を実現したいというのであれば、今度は悟りや解脱をするための努力が必要になってきます。どちらにせよ、大なり小なりの努力が求められることには変わりがありません。どちらが選ばれるにせよ幻想のあなたには選択権は一切ありません。良くも悪くも、ただ経験があるだけです。

 ここでようやく私が神曲を読んでなかなかと思ったことをお話しする事が出来るところまで来ました。まず、私がお話ししたかったなかなかと思ったことと言うのは、信仰篤いキリスト者さんが仰っていた地獄篇第3歌に登場する地獄の入口の門の頂に記されているという「我を過ぎんとする者は一切の望みを捨てよ」という銘文についてです。   

 地獄の門に刻まれていることを勘案した上で、その銘文は諦めの重要性を如実に示しているのではないかと私は感じました。単純に地獄がおぞましく恐ろしいところだから希望を持つだけ無駄であることを言いたいがために一切の希望を捨てよと言っているのではないと私は思います。他にもっと深い意味があるのではないかと感じます。   

 神曲の中では、ダンテ自身が地獄界、煉獄界、天国界を巡り、最後は神の座である至高天にまで昇り詰め、そこで神は大いなる光であり、この世を動かす愛であることを知るに至るのですが、この一連のあの世を巡る物語の最初のところで示される銘文は、至高の存在である神に至る最初の関門を通る条件として、苦しみの地である地獄に入る者には希望を捨てるように求めています。

 ダンテは相当に信仰の篤い人であったようにお見受けすることから、まさに悟りの道を歩む者に欠かせない心得である諦めの必要性を知っていたのではないかと感じます。もちろん、ダンテはキリスト教信仰者としての考えに基づいて神曲を書いたのは間違いないはずです。しかしながら、どの様な信仰や立場からであろうとも、結局のところ神に至る悟りへ向かう道は同じ道筋を辿ることになると私は思います。ダンテが悟りを目指していたかどうかは分かりません。たとえ当時の彼を取り巻く社会情勢から別の目的で神曲を書いたとしても神へ至る道に入る条件として、我欲を捨て全てを神に委ねる明け渡しが大切であることは当然ながら信仰篤いキリスト者として、そのことは十分分かっていたことではないかと思います。だからこそ、ダンテ自身が気づかぬうちに物語の構成と内容が悟りへと向かう道のりに自然と合致するようになったのではないかと思います。

 私が、そのように物語りの中に感じたのは、たとえダンテ自身は地獄界・煉獄界・天国界の在りかを死後の世界にあると信じていたとしても、下から順に地獄界・煉獄界・天国界を巡りながら次第に心を純化し至高天にたどり着くまでの物語を書くことでダンテ自身が知らず知らずのうちに暗に指し示すことになったのは正に悟りや解脱に至る一連の流れと言えるものだからです。

 私が考えるところの地獄界・煉獄界・天国界と呼ばれる三界の在り処は、先ほど述べたようにこの世に住む人の心の中です。従って、自我が求める欲に囚われた人々が住むこの世こそが神曲で語られる三界が具現化する場所です。心が囚われた境涯に相応しいそれぞれの階層の中で人々は生き苦しむように見えるからです。だからこそ、禁断の木の実を食べたことで小賢しい知恵を身に付けた人間たちが至高の存在にまで到達し真理を知りたいと思うのであれば、まずは一切の希望という欲を捨て去り、どうなるか分からない、まだ来てもいない未来を考えるのではなく今この瞬間に生きなければならないのです。つまり木の実を食べたことで得た善悪を判断する知識を捨て去ることを至高の存在は要求しているのではないかと私は物語の中から感じました。それが暗に指し示されていることではないかと思います。その事を著者のダンテ自身が自覚していようといまいとです。

 キリスト教精神に基づき書かれたダンテの神曲の中においては、神に至る最初の関門で一切の望みを捨てさることが要求されています。同じような事は、前回の動画の中で私が仏教の教えの中にも諦めることが悟りに至る重要な事の一つとして見出すことができるとお話ししました。一見するとお互いに相いれることのないように思える宗教間において共通するような点があるように見えるのは単なる偶然ではないはずです。やはり、キリスト教にも仏教にも、またヒンズー教にも神へ至るために必要な共通する真理があると言えるのではないでしょうか。私は、悟りや解脱を目指すのなら最低でも今言った三つの宗教はしっかりと勉強しなければならないと思います。山があまりにも大き過ぎるので、それに応じて登山道も沢山できたと思うのですが、たとえ山の頂を目指す入り口や歩む道は違えども連なる峰々の最高峰は一つしかないと、私は、そのように感じます。

 実際、私は無いや自らの内に真我を見出すことにおいては人間の持っている知識など何の役にも立ちません。むしろ、人の持つ常識的な考えや知識は悟りや解脱には障害にしかなりません。

 私は悲惨な戦争やむごたらしい事件などをニュースなどで知ると、その関係者すべてに対して、加害者被害者両方に対して哀れを感じる時があります。なぜなら加害者被害者両方とも神が設定したプログラム通りに動いているロボットにすぎないからです。だから被害者だけでなく私は加害者に対しても哀れを感じるのです。

 ルカによる福音書23章34節〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕と、十字架に磔にされたイエスが、自分を磔刑にした人々に対して、この様に言えたのは、人々は自分も含め神の操り人形に過ぎないことを分かっていたからです。自分が神の操り人形でしかないことをイエスは自覚していましたが、それ以外の人々にはその自覚がなかった。真実を知っていたイエスだからこそ人々を赦すことができたのです。

 この世の何か、私は体であるということから始まる知識の全てを手放し、アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態、裸でも恥ずかしがることのない原初の状態までにならなければ真我を知ることはありません。今言ったことは比喩ですが、それくらい無垢な心が必要だということです。

 神曲の中では、人に自由意思が与えられていることが強調されていますが、真実は人に自由意思など全くありません。人に自由意思があると神によって思わされているだけです。その上で人には自由意思があるという思い込みを捨てさせ真実に目覚めさせる道筋として、諦めることと共に神仏への帰依や明け渡しという難所が悟りや解脱という登山コースの中に用意されているのです。そこまで手の込んだストーリー設定を人の人生劇場の中に仕組んで楽しんでいるのが神という存在なのです。これまで何度も言ってきたことですが、あくまでも自由意思は錯覚の産物でしかありません。

 神曲の中には、その錯覚という呪縛を解くヒントが書かれています。平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さん訳の完全版から引用すると453ページの天国篇第五歌26行から30行においてベアトリーチェがダンテに言った言葉としてこう書かれています。「もしお前が請願を立てれば神は必ずやそれをお受けになるでしょう。なぜかと言えば神と人の間で契りが結ばれる際には、今述べたような意志の自由の贈り物が、自発的に犠牲に供されるからです。」

 請願とは、誓いを立てて事の成就を願うことですが、まさにキリスト教でも仏教でも請願を立てるということは自らの人生の全てをそれにかけるということですから、当然の事として請願成就のためには今神曲から引用した通りに不必要となる、あると思い込んでいる自由意思は自ら捨てさられなければならないことになるのです。

 それは同書の煉獄篇の第3歌34行から36行に書かれている「三位一体の神が司る無限の道を人間の理性で生き尽くせると期待するのは狂気の沙汰だ。」という一文からも分かることです。悟りや解脱を望むのなら、すなわち神に関する真理を本当に知りたいと思うのであるのなら知識や理性を捨てなければなりません。

 ここからは神曲の中で語られているあの世を簡単にご説明しながら話しを進めて行こうと思います。あの世の最下層は地獄ですが、場所はどうやら地球の地下にあるようです。地獄は何層にも分かれていて、亡者は、それぞれの罪科に応じて異臭ただよう汚物にまみれながら未来永劫の責め苦により四六時中もがき苦しみ続けます。無数の一糸まとわぬ亡者たちが溢れかえる阿鼻叫喚の世界です。1層目は洗礼を受けなかった者、二層目は肉欲に溺れた者、3層目は大食の罪を犯した者、4層目は吝嗇(りんしょく)と浪費の悪徳を積んだ者、5層目は怒りに我を忘れた者、6層目はあらゆる宗派の異端の者、7層目は他者や自己などに対して暴力をふるった者、8層目は悪意を以て罪を犯した者、9層目は最も重い罪、裏切を行った者がいく場所です。

 亡者たちが受ける罰がどのようなものかと言うと、例えば二層目の肉欲の罪を犯した者ならば、激しく吹く風に木の葉が舞い散るように裸の亡者たちは空中を吹きまわされます。5層目の怒りに囚われた者は汚い沼の泥の中に裸でつかり、死んでもなお離れない怒りのため、お互いに殴り合いけり合い歯で相手の肉を噛みちぎり合います。7層目の暴力を用いて他人や自分を傷つけた者、神と自然に対して背く行いをした者は、熱湯とかしている血の川でゆでられていたり、奇怪な形をした木の姿に変えられ女性の顔をした鳥に体をついばまれ苦痛に苛(さいな)められていたり、熱砂の中で降り注ぐ火の雨で焼かれています。9層目の最も重い罪を犯した者や裏切者は、首まで氷に漬かり涙も凍る寒さによって歯を鳴らしています。こうした地獄の様相は人間の想像力の範疇にあり仏教の八大地獄と大して差がないように私は感じました。

 面白いという言い方が適当かどうかは分かりませんが、8層目の悪意を以て罪を犯した者の中には占いや魔法妖術を行った者も含まれています。亡者は首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す罰を受けるようですが、これは私から見ると、あくまでも悟りや解脱を目指す者ならば未来や過去に囚われることなく今に集中しなさいということを示しているに過ぎないと思います。そうでないと占いのテレビ番組が多い日本では日本人の多くが地獄行きということになってしまいます。それに私自身、気分転換や暇つぶしにユーチューブの色々な占いチャンネルを時々見ていることから占い師さんたちが地獄に行くようではかわいそ過ぎます。でも安心してください。私の過去動画を見た方は、もうお分かりでしょうが、死ねばただの純粋意識に戻るだけなので天国にも地獄にも行くことは決してありません。

 次は、正教会プロテスタントなどのキリスト教の他の教派では認めていない地獄よりは償い方が軽い煉獄です。煉獄は悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者が罪を贖うところです。煉獄は地獄を抜けた先の地球の反対側の地表に聳える台形の山で浄化しなければならない罪の内容によって幾つかの階梯に分かれています。亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄め、浄め終えるとやがては天国に到達します。また、煉獄篇21歌20行以降に書かれていますが、そこでは慣習と違うことや煉獄の山の定めに従わぬようなことは一切起こることはなく現生のような変化もなく、天自らが自分の内に受け入れるもの以外は変化のもとにならないと書かれています。罪に服し罰を受けるのも罰を解かれるのも結局のところ神の定めた通りにしか物事は起こらないということが言われているのです。

 今現在、私が経験している悟りや解脱の道に当てはめるのなら、私はちょうど煉獄を抜けようとしている過程にあると言えるかもしれません。煉獄に入れる資格のある者は悔悟に達した者または悔悛の余地のある者です。悔悟とは過ちを悔い改めることです。改悛は自分の行いや態度が悪かったと反省し,心を入れかえることです。

 私は、私は無いに気づいて以来、人生の全てにおいて、そこに私というものは一切なく私は何もかかわることができない存在であり、目の前に起こる現象を観賞し、ただ経験しているに過ぎないことを受け入れる努力をしてきました。それに対して生き残りを望む自我は頑強に抵抗し、時と場所を選ばずに、あらゆる機会に自分の人生に対するかかわりを認めさせるために自己を主張してきます。自我は、過去にまつわるありとあらゆる記憶を総動員させ心を無心に集中し安定させることを妨げようとする主張の一つとして、心の中に残る罪悪感や羞恥心などに関する後悔の念を利用し混乱を引き起こそうとしてきます。それは幼児の時の他愛のないイタズラによって生じたことかもしれません。親が大切にしていた物を壊してしまい、その事を親に聞かれて知らないと答えた事かもしれません。小学校の時、同級生がいじめられているのを見てみぬふりをしたことかもしれません。子供の時の記憶や大人になってからの記憶の中で、今になっても忘れることができずに慙愧や謝意または恥ずかしさを感じずにはいられないことが後から後からとめどなく脳裏に甦り穏やかな気持ちでいることが困難になってきます。また、過去に信頼していた者から裏切られたことに対し相手を許すことができずに怒りの気持ちが湧いてくることもあります。

 なぜ、そういった負の感情が湧いてくるのでしょうか。それは、それを行った自分を許せない気持ちと何かしらの執着がそこにあるからです。その場合、後から後から湧いてくる一つ一つの過去の嫌な負の感情に対しては絶対に逃げることなく思い出すごとにしっかりと向き合い相手の名前や顔を出来るだけ思い出し、イメージとして相手の前に立つなり正座するなりして真摯な気持ちで心の底から反省と謝罪の言葉の念を送ることが大切になってきます。自分の中で十二分に納得がいくまで反省と謝罪の念を相手に送り続ける作業を怠りなくやる必要があります。そして、自身の心が納得するまでやり続けることができれば、心は少しずつ浄化され最後はもうその事には囚われないで済むようになります。

 なぜかというと、あなたと相手の本質は同一だからです。同じ真我であり同じ神の本質があなたと相手の中にあるからです。故に、人を愛することは自分を愛することになり、人に与えることは自分に与えることになるのです。同じように人を傷つけることは自分を傷つけることになり、相手から奪うことは自分から奪うことになるのです。聖書の中の随所に自分を愛するように妻や隣人を愛しなさいと書かれているのは、その事を伝えようとしているからです。従って、何かの理由で相手を許せないというのも、自分の中に執着があるからです。その自分の中にある執着に気がつき相手を赦せば自分の囚われた心も執着から解放することができます。自分を赦したことになるのです。私やあなたは神の操り人形です。アバターといえば分かるでしょうか。神は、そういう経験を、あなたを通してしたがっているのです。本当は簡単な理屈なのです。

 いずれにせよ、それがどのような形であれ人を大なり小なり傷つけた行為は記憶の深部にいつまでも残り、とうの昔に忘れていたことであっても悟りや解脱の道を進もうとする者にとっては浄化されなければならない記憶として甦ってくることになります。

 神曲の中のダンテ自身も煉獄山を上るにつれて浄められていき天国に入る資格を得ることになりますが、それと同じように、それまで心の中にわだかまっている記憶の一つひとつを贖罪という形で浄化していく度に自我も段々と大人しくなっていくように私は思います。

 ここで私の中に今もってわだかまっていることを申し上げるならば、それは3年前に13年間一緒だった猫のフー子を急性腎不全で死なせてしまったことです。本当に悔やんでも悔やみきれません。忘れていても発作的にフー子に対する罪悪感が生じて苦しくなります。私の自我の消滅を最後まで阻むものがあるとすれば今のところフー子くらいしか思いつきません。全ては創造主が決めた筋書き通りの死であったとしても、やはり最愛の娘ともいえる愛猫が死んだことによるペットロスはなかなか癒されるものではありません。こればっかりはどうしようもないというのが私にとっての現状です。それも生き残りをかけた自我の戦術の一つであることは分かっているのですが、分かっていても手放すのは難しいです。

 あと一般論として考えられるのは性の問題だと思います。性に関することを極端に忌避する必要は全くありません。その性的欲求が単なる生理現象であるならば私は何も問題ないと思います。たとえば尿意をもよおした場合、普通トイレに行って排尿をした後はもうオシッコのことを考えなくなります。おしっこをするという行為そのものに精神的に執着したり依存するということは通常ないはずです。それと同じようなレベルにまで性的な行為を落とし込むことができていて、性に関して精神的な執着や依存がなく、その他の囚われの心がないというのであれば、その都度生じる性的欲求をその人なりに適度に解消し、解消した後は性のことを何も考えないのであれば悟りや解脱の道を歩むうえで特に支障はないのではないかと私は考えています。

 以上のように過去に関連する懺悔(ざんげ)しなければならない行為の記憶に対しては、相手がいるのであれば直接会って謝罪が出来れば一番良いのでしょうが、たとえそれが出来なくても相手を思い浮かべながらする心からの謝罪は本人を目の前にしなくても相手に通じます。なぜなら、何度も言いますが、その人の中にある真我は自分の中にある真我と同一だからです。

 神曲の中では煉獄は天国に通じる一つ前の世界として描写されています。悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者がそこで罪を贖うところです。この過去の過ちに対して悔い改める行為は悟りや解脱を目指す者にとっても経なければならない必要なプロセスになることは間違いありません。その事を、煉獄という形で示されていると私は思います。

 次は煉獄の上にある天国です。しかし、一口に天国といっても10の階層があり平等というわけではありません。生前の行いによる功徳が高い者や智恵深き者、また愛が深い者ほど据え置かれる場所も高くなります。そして彼らはみな神の僕として世界を統治する摂理に直ちに服することを旨としています。なぜなら、天国篇第9歌の103行から105行にかけてそのまま引用すると「しかし、この天では誰もが悔いもなく微笑している。罪はもはや念頭に思い浮かばないから、罪に涙せず、神の摂理に悦び笑うのだ。」つまり、それが何であろうと神のご意向に従うこと自体が悦びそのものになるのです。要するに天国は、もはや悔いることなど何もない愛に溢れた人たちばかりが住んでいる世界なのです。天国は本当に素晴らしい世界だと思います。私自身と私の周囲に関しても一日も早く神曲で描かれる天国のような世界にしたいというのが当面の私の望みですが、しかしながら、それもまた神の御心(みこころ)次第ということになります。

 また、神曲の中では重要な位置を占める天使についても詳しく書かれています。原初に創られた(地獄篇7歌95行)天使は常に過去・現在・未来の万物を映し出す神だけを見ています。新しいことに引きつけられることもなければ遠ざかった観念を思い出す必要もないことから記憶力を持ち合わせていないそうです。(天国篇29歌70行~81行)それにもかかわらず、天使は神の御心のままにその務めに専念できる力を与えられています。まさに神の手足として働く実働部隊です。もし、この様な天使を、この世の人に当てはめるのなら、どういう人が当てはまるのかと考えてみると、それは真我に常在し解脱を達成した人と言えるではないかと思います。解脱を達成した人が見ているものは常に真我のみであり他の事を見ていないからです。その場合、解脱者の意識は自分の体と世界を認識していないにもかかわらず解脱者の体は自然に動き、他人からは解脱者が普通に生活している人のように見えます。その聖者の状態をサハジャ・サマーディと言うそうですが、インドの聖者として名高いシュリー・ラマナ・マハルシについて書かれた「ラマナ・マハルシとの対話」第1巻の169ページに天使の状態によく似たサハジャ・サマーディについて書かれているので、もし、ご興味のある方は読まれてみてはいかがでしょうか。

          

 神曲の方に話しを戻します。天国の最高位は至高天です。そこには白い衣をまとった諸天使、諸聖人が集っていて、その様は、さながら光り輝く天上の薔薇のようにダンテには見えています。さらに、その内奥に入っていくと、そこには万物を映し出す(天国篇第9歌73行)神の座があり、そこでは人間の観念の極限を超えた言葉で表すことも記憶することもできない永遠に輝き続ける至高の光のみが見えます。そして、その光こそが、この世を動かす愛であったと締めくくられ長い叙事詩が終わるのです。

 重要なこととして神曲の天国篇では、たびたび父と子と精霊の三位一体についても語られます。私の考えでは、三位一体は純粋な意識である真我が父であり、そこから生まれる在るという存在性が子であり、存在性への愛が聖霊にあたるのではないかと考えています。神曲のなかでも天国篇第13歌の52行から63行まで引用すると「死なないものも死にうるものも、所詮われわれの主が愛によって、生み出す観念の[反射の]輝きにほかならない。この[観念の]活光(かつこう)は、その光を発する本体を出、それと分かれず、その両者を合(がつ)して三者で一になる。愛からも分かれない。そして自らの恩恵によってその活光は、永遠に一つでありながら、鏡に映り鏡に集まるように、その光を九つの[天使の]存在の中に集めている。ついで光はそこから発して天球を次々と最低の力まで降り、ついにはわずかな寿命しか持たぬものしか作れなくなる。」というように端的にこの世の創造の仕組みが三位一体のものとして説明されています。

 活光が子であり、光の源が父であり、愛が聖霊なのです。このダンテの説明は、私には十分すぎるほど分かります。なぜなら私が感じた光である純粋な意識は全ての源であり、そこから生じた観念こそが現象世界だからです。愛は現象世界を生み出す原動力です。そして、それは天国篇第29歌15行にある通り「われは存在す」のためにあるのです。

 ダンテが経験した光同様、私の真我の直接体験も言葉ではとてもいい表せないものです。以前お話ししたように気づいていることに気づいているただ在る気づき純粋な気づきとしか申し上げることしか出来ないものです。神曲の中で描かれる至高天の光の描写や天使も含めた天国の住人の精神性に関する事柄を読む限りでは、悟りや解脱というものについてダンテ自身も何らかの直感ともいえる気づきを得ていたように感じます。それまで本で読んだことや伝聞から単なる想像でここまで真理に近いことが書けるわけがないように思うのですが、何の神秘体験もなくここまで書けるというなら、著述に関しては天才だったのだろうということと信仰篤いが故の為せる業としか言いようがありません。そういう意味でダンテの神曲は悟りや解脱という観点から、とても興味深いものを感じます。

 何にせよ、神曲のようなあまりにも格調高い文章は普段読み慣れていなので最後まで読破するのにだいぶ時間がかかってしまいましたが本当に読んで良かったと思います。当時のイタリアのフィレンツェを中心とした社会情勢やものの考え方も何となく理解できたので、たまには西洋文学に親しむのも有意義なことだと思いました。けっこう違いがあることに気づかれると思いますので、是非、文語体・口語体の両方を比べながら読まれることをお勧めします。

 今回は動画として長くなり過ぎたきらいがありますが、神曲の中で語られている事の全てをこの世の事として当てはめて考えれば合点がいくのではないかと私は思います。誰であろうと全ての人びとの中に私というものの存在性を認めるはずです。私の存在を否定する人は誰一人いないはずです。その私という根底にある本質が「私は在る」という神なのです。故に天国や地獄、そして煉獄はこの世の外のどこかにあるのではなく、正しくこの世の中の、人々の心の中にあると言えるのではないかと思います。そして結果として、各人は心の中の境地に沿うような環境で生きることになるのではないかと思います。

 今回も真面目に神学や西洋思想を研究されている方からすれば看過できないこととしてお叱りを受けても仕方のない内容がありましたが、私はただ、諦めは悟りや解脱を目指す上でとても大切であること、キリスト教の教えの中にも容易に悟りや解脱にかかわる知識を見出すことができるということを申しげたかっただけですので、そこの所をご理解のうえ何卒ご容赦の程をお願い申し上げます。

 いずれにしましても、人生に対する自我の支配は空虚なものであるということを認め、人生の全ては創造主のプログラム通りにしか進まないものであるという受け入れがたい真実を受け入れなければ、今しかない在るに集中することはできません。従って、真理に到達するためには、どうしても諦めは必要不可欠なプロセスであり数ある関門の内の一つであることに間違いはないのです。そこの重要性を是非とも受容していただきたいと思います。加えて、全てに対し自分はただの操り人形であり無力な存在である事実を前にして絶望することも諦めと共に大切な感情であることも付け加えておこうと思います。

 いつもなら最後に私がお勧めする本をご紹介するのですが、動画がさらに長くなってしまいますし既にダンテの神曲などをご紹介しているので今回はここまでとします。また、まさに因縁として全ての現象はお互いに関連し合って現れ出るこの世にあってダンテの神曲を読むきっかけを与えてくださった敬虔な女性キリスト者さんに感謝を申し上げます。ありがとうございました。それでは、いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。