私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

魂というものはありません!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

魂というものはありません!

 私が無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が2回目の動画になります。

 このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本を取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である神の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 では、本題に入らせていただきます。みなさんは、生まれ変わりを信じているでしょうか。もし、あなたが、まだ魂とか、幽霊とか、あの世とか生まれ変わりなどを信じている人ならば、これからご紹介する本を読んでみてはいかがでしょうか。

 「CD付き[新版]生きがいの本質―いつまでも、いつまでも一緒」という本です。著者は、飯田史彦さんという方で過去に福島大学東北大学で教鞭を執られていたことのある先生です。その方が書かれたシリーズ物の中の一冊で、出版された本の全てを読んでいるわけではありませんが、私が読んだ飯田さんの本の中では一番のお勧めの本です。中身を簡単に説明すると、人は生まれてくる前に人生で起こるあらゆるシチュエーションを学びのために自ら設定してきているのだから、人間関係の全てには意味があり、人生を生きる上では他人を恨むことなく前向きに自ら課した問題に取り組まなければならないという趣旨のことが書かれている本です。しかも、それは必ず乗り越えられるように設定されているというのです。     

 この本は著者自身の超常体験である、いわゆる体外離脱的な体験を基に書かれていることから、特に、子供は自らの学びと周囲への学びを得させるために最適な親を選んで生まれてくるということについて書かれている前半部分は教育的効果があるかもしれないという意味において親子で必読かもしれません。もちろん親子共にスピリチュアルなものに抵抗がないという前提条件は付きます。この本の初版は2004年なので、今は古本しかありませんが、あの世とか生まれ変わりを信じ幻想に囚われている人にとってはうってつけとも言える読んで損はない本かなと私は思います。

 そして、私が、なぜ、この本の存在を知っているかというと、それは、私がまだ「私は無い」に気づく前に読んだ本だからです。「私は無い」に気づく前の私は、あの世とか生まれ変わりを信じていました。つまり魂というものがあると信じていた時のことですから、この手の本は大好物で目についた心霊世界の本は手あたり次第に買っては読んでいました。そして「私は無い」に気づいた後は、もうあの世とか生まれ変わりは無いと確信していることから、この手の本にはもう興味はありません。

 なぜ、あの世とか生まれ変わりは無いと私は確信するのでしょうか。その理由は、魂というものがないからです。「私は無い」と直感的に理解した以上、どうして、そこに私の何かというものがあるのでしょう。あるはずがありません。私の何かというものがないのですから、私の魂というものがどこにあるのでしょうか。どこにもあるはずがありません。私の魂が無い以上、私の死後というものもありません。私の死後がない以上、私が行くべきあの世というものもありません。私の行くべきあの世というものがない以上、あの世から生まれ変わる必要が元からないことから、当然、私の生まれ変わりなどというものもあるはずがないのです。はっきり言います。魂というものはありません。あの世もありません。死後もありません。生まれ変わりなど決してありません。全ては意識の中の幻想です。全ては意識の中で展開されているただの物語だということです。

 前述した通り、私が最初から生まれ変わりを信じていなかったわけではありません。むしろ、魂とか幽霊とかあの世といわれるものを信じていた時期の方が長いと言えます。

 初めて心霊現象についた書かれた単行本を、お小遣いをはたいて買って読んだのは小学5年生か6年生の頃でした。心霊現象に詳しい心霊研究家といわれる人が書いた本を熱心に読んだ記憶が今も残っています。それ以来、心霊ものに限らず予言ものやUFOもの未確認生物ものといった不思議な超常現象ものについて書かれた本を次から次と買っては読んでいくようになりました。ですから、私は11歳から「私は無い」に気づく57歳までの間は、魂とかあの世とか生まれ変わりはあるとずっと信じていたことになります。

 それが、今では「私は無い」と直感した気づき体験を皮切りに、それ以後の形を変えた気づき体験を何度も繰り返しながら、57歳まで持ち続けた、それまでの価値観がまさに180度転換したわけですから人生本当に何があるか分からないなと思います。

 それだけ「私は無い」という気づきは、それまでの価値観を根底からひっくり返し変えてしまうほどのインパクトがあるものなのです。しかも「私は無い」に気づいた後も、それ以前と変わらぬ人生を淡々と生きていかなければならないのですから、自分には人生について何一つ変える力はないことに気づくことは、かえって苦しむ結果を招きかねません。もしかしたら、その願いは叶うかもしれないという希望があったという意味においては引き寄せの法則があると信じていた気づく前の方が幸せだったかもしれません。 

 気づいた後の心得としては、それこそ執着を手放すことが大事になってきます。煩悩に対する執着を捨てることが必要になるのは、気づく前の人ではなく気づいた後の人だと私は強く感じます。本当の修行は気づいた後に始まるのかもしれません。ただただ、全てを起こるがままに任せ、在るがままに生きる。まさに無為自然だと思います。

 まっ、いずれにしても、そのやってくる思考や湧きおこる感情、さらには、それを発端とする言動さえも一方的に来るものなので自分には一切コントロールできないこととして素直に受け入れる心持ちが肝要かと思います。あらゆる事柄は起こるべくして起こるもののとして完全なるあきらめと受容の心持ちの境地に入ることこそが、もしかしたら悟りというものかもしれません。言うなれば、しょうがない、しょうがないという感じでしょうか。何か不満を感じてもしょうがないしょうがないと受け入れる心境かもしれません。もちろん、怒ってもいいですし、泣いてもいいんです。弱音や愚痴をこぼしても構いません。感じたままに感情を表わしても全く構わないと思います。なぜなら、そこに何かをコントロールする私というものは無いのですから、全ては起こるがままなのです。そう考えると起きる全ての現象に対して、いちいち大げさに反応しなくなりますし何か憤りを感じたとしても、全ては起こるべくして起こっていると思えば、実際そうなのですから、それほど苦しまずに生きることができるのではないでしょうか。

 起こることは必然、宇宙の全ての事象は、ただ起こるべきことが起こっているという考えに対しては何の迷いもないのですから、その世界の出来事の捉え方と受け止め方は人によっては能天気な人や極楽とんぼに見えるかもしれませんが起こる事柄をあるがままに受け入れる心のあり様を表現しているだけなので、その心のうちは様々な葛藤に現在も苦しんでいるか、若しくは過去に苦しんでいた普通の人であることに変わりはありません。いずれにせよ、ケセラセラで生きられれば、誰にとっても幸せに生きられるのではないでしょうか。

 今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再開の時まで一時のさようならです。またね。