私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

ダンテ神曲は悟り本だった‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 ダンテ神曲は悟り本だった‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が19回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 2か月くらい前だったでしょうか。私は、ユーチューブでたまたまお見かけした、まだ20代くらいとおぼしき女性がやっておられる動画にふと興味が湧き何本か拝見させていただきました。その女性は、動画の内容と話しぶりからとても信仰篤いキリスト者さんであると同時に西洋文学にもなかなか造詣が深いことが分かりました。最初は、なんとはなしに聞いていたのですが、実存主義文学の先駆者と言われるフランツ・カフカルネサンス文学の先駆者と言われるダンテ・アリギエーリの著作の内容に一般的な日本人がイメージするあの世の事を関連させたお話しを聞いた途端、そのお話しの中に一気に私の関心を沸き立たせるものがありました。それは、ダンテの神曲の中に書かれているという地獄の門に刻まれている「我を過ぎんとする者は一切の望みを捨てよ」という一文でした。私は、これを聞いた瞬間に、これはもしかしたら悟りや解脱に何か関係があるのではないかという考えと神曲を読む必要性を感じたことから直ぐに読むことを決めました。

 私はそれまで西洋文学や西洋思想には関心がほとんどなく名前くらいは知っていたもののカフカはおろか有名なダンテの神曲さえも読んだことがありませんでした。そういう事もあり、とても有名な本なのに私は今までに一度も読んだことがないことにも気がついて、これも神からのお導きだろうと思い早速アマゾンでダンテの神曲を検索しました。

   

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 当初はkindle電子書籍内に地獄篇と天国篇に分けられて売られていた本で、それぞれが0円でダウンロードできるものが二冊、税込 99円で購入できかつ地獄篇、煉獄篇、天国篇が一冊にまとめられている本が2冊あったので、それら4冊を全て購入し読み始めたのですが何せ4冊全部が文語体で書かれていたことから読みづらく頭の中に全然入ってこなかったことから、口語体で書かれていて、それでいて正確な翻訳本がないものかと近くの市民図書館に探しに行ってみると丁度うまい具合に河出書房新社から出ている平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さん訳の地獄篇・煉獄篇・天国篇が一冊に収録されている完全版があったので、それを借りて読むことにしました。(上記電子本の金額は動画アップ時の金額です。)

                               

 ちなみに古文自動翻訳研究センターというサイトからウインドウズ専用の文語体翻訳ソフトを無料ダウンロード出来るので、kindleで安く手に入る本を読みたいけど文語体が苦手という人は、その翻訳ソフトを使いながら読んでみるのも良いかもしれません。下の説明欄に古文自動翻訳研究センターのURLを貼り付けておくのでご活用してみてはいかがでしょうか。http://honnyaku.okunohosomichi.net/

 本題に戻りますが、1265年にフィレンツェ共和国に生まれたダンテ・アリギエーリさんが書いた叙事詩神曲』は、安っぽい下世話な言い回しになってしまいますが当時の悟り系スピリチュアル本ともいえるもので、キリスト教を主たる信仰の基盤としていた人々が住むヨーロッパ社会に多大な影響を与えたと言われているものです。実際に神曲を読んでみると、それも当然とうなずいてしまうほどの内容が書かれていることに遅まきながら気がつきました。これを読んだことで当時の迷信深い人々が地獄の様相に心底おびえ死後天国に迎えられることを一心に願ったであろうことは容易に想像がつきます。私のように私は無いや自らの内の真我に気づいた者にとっても、これはなかなかの本であることに間違いありません。単なる宗教上いわれている、あの世の事を説明している本ではないと思いました。

 ところで、何がなかなかかをお話しする前にここではっきりと明言しておかなければならないことがあります。それは何かと言うと、私は魂を完全に否定する立場です。魂などというものはありません。魂はないという考えですから、当然、天国や地獄、死後の審判などというものはありません。誰が誰を裁くというのでしょうか。この世は純粋意識である真我が織りなす現象世界です。実在は真我のみです。死んだ後は、ただの純粋意識に戻るだけです。従って、この世における悪い行いで死後の地獄行きを恐れている人がいるのであれば、この世の行いにおける裁きは、あくまでも、この世の中でしか起こることがないので、あの世で裁かれるかもしれないと心配する必要はありません。

 とはいえ、あの世における天国や地獄、死後の審判などを否定する立場ではあるといっても、私はこの世における天国や地獄、高みに昇るための準備が出来ているかどうかの適否を判断する審判の存在までも否定するつもりはありません。それらは間違いなく存在すると思います。それなら、それらは一体どこにあるというのでしょうか。天国や地獄と言われるものは、この世から離れた外側にあるのではありません。それらは人々の心の中にあるのです。私は間違いなく人の心の中にこそ天国や地獄は在ると思っています。その心の中にある天国や地獄の境地の段階により、その人を取り巻く環境は自ずと決まるのではないかと思います。なぜなら、その人の内にある天国や地獄といった境地から生じた境涯性が人生に対して様々な形として現れ出るからです。

 愛に溢れた人であれば愛に包まれた世界に住むようになるでしょうし、怒りや恐怖に憑りつかれた人であるならば何度も怒りや恐怖に見舞われる世界に住むことになるではないかと思います。もちろん、それは神の計画に則って当然の成り行きとして進行することですが、望むと望まざるに拘わらず知らず知らずのうちに、心の中の境地に従い、そういう世界を選ばされたり、または嫌々であろうともかかわらざるを得ない世界の在りように従い心の中も呼応する境地に変わっていくのではないかと思います。

 具体的には、戦いが出来る場所を求める人は戦いを求める心があるからです。求めるものが権力ならば権力を行使できる世界に進む道を歩むでしょう。人を裁きたいと思う人は、人を裁く仕事を選ぼうとするはずです。一方、人を助けたいと思う人は人を助けることができる道を選ぼうとするのではないでしょうか。その求める対象が人であっても物であっても同じことです。各人は、心が求めるものに従い生きようと努力するはずです。それは一見すると心が求めるものを実現させようとする引き寄せの法則と言えなくもないですが、そもそも心に思うものは全て何であろうと神が設定したものであることから、本当は何かを引き寄せているのではなく逆であり、神が設定した心が思うものに引き寄せられていることになるのです。つまり、心が思うことに引き寄せられる法則といった方がより正確ですし適切なのです。なぜなら、その心に思うことは人が設定するのではなく神が設定するからです。 

 そして今、目の前で展開されている状況に不満があり嫌だというのであれば環境を変える努力が求められますが、努力すら出来ないものや努力をしても、それが叶えられないというものであれば、今度は、その事により苦しみを感じることになります。いずれにせよ、それら全ては神により設定された物語通りの展開でしかありません。

 この残酷な真実を知り、もし、あなたが、もう苦しむのは嫌だ、どの様な世界であろうとも左右されない不動の境地を実現したいというのであれば、今度は悟りや解脱をするための努力が必要になってきます。どちらにせよ、大なり小なりの努力が求められることには変わりがありません。どちらが選ばれるにせよ幻想のあなたには選択権は一切ありません。良くも悪くも、ただ経験があるだけです。

 ここでようやく私が神曲を読んでなかなかと思ったことをお話しする事が出来るところまで来ました。まず、私がお話ししたかったなかなかと思ったことと言うのは、信仰篤いキリスト者さんが仰っていた地獄篇第3歌に登場する地獄の入口の門の頂に記されているという「我を過ぎんとする者は一切の望みを捨てよ」という銘文についてです。   

 地獄の門に刻まれていることを勘案した上で、その銘文は諦めの重要性を如実に示しているのではないかと私は感じました。単純に地獄がおぞましく恐ろしいところだから希望を持つだけ無駄であることを言いたいがために一切の希望を捨てよと言っているのではないと私は思います。他にもっと深い意味があるのではないかと感じます。   

 神曲の中では、ダンテ自身が地獄界、煉獄界、天国界を巡り、最後は神の座である至高天にまで昇り詰め、そこで神は大いなる光であり、この世を動かす愛であることを知るに至るのですが、この一連のあの世を巡る物語の最初のところで示される銘文は、至高の存在である神に至る最初の関門を通る条件として、苦しみの地である地獄に入る者には希望を捨てるように求めています。

 ダンテは相当に信仰の篤い人であったようにお見受けすることから、まさに悟りの道を歩む者に欠かせない心得である諦めの必要性を知っていたのではないかと感じます。もちろん、ダンテはキリスト教信仰者としての考えに基づいて神曲を書いたのは間違いないはずです。しかしながら、どの様な信仰や立場からであろうとも、結局のところ神に至る悟りへ向かう道は同じ道筋を辿ることになると私は思います。ダンテが悟りを目指していたかどうかは分かりません。たとえ当時の彼を取り巻く社会情勢から別の目的で神曲を書いたとしても神へ至る道に入る条件として、我欲を捨て全てを神に委ねる明け渡しが大切であることは当然ながら信仰篤いキリスト者として、そのことは十分分かっていたことではないかと思います。だからこそ、ダンテ自身が気づかぬうちに物語の構成と内容が悟りへと向かう道のりに自然と合致するようになったのではないかと思います。

 私が、そのように物語りの中に感じたのは、たとえダンテ自身は地獄界・煉獄界・天国界の在りかを死後の世界にあると信じていたとしても、下から順に地獄界・煉獄界・天国界を巡りながら次第に心を純化し至高天にたどり着くまでの物語を書くことでダンテ自身が知らず知らずのうちに暗に指し示すことになったのは正に悟りや解脱に至る一連の流れと言えるものだからです。

 私が考えるところの地獄界・煉獄界・天国界と呼ばれる三界の在り処は、先ほど述べたようにこの世に住む人の心の中です。従って、自我が求める欲に囚われた人々が住むこの世こそが神曲で語られる三界が具現化する場所です。心が囚われた境涯に相応しいそれぞれの階層の中で人々は生き苦しむように見えるからです。だからこそ、禁断の木の実を食べたことで小賢しい知恵を身に付けた人間たちが至高の存在にまで到達し真理を知りたいと思うのであれば、まずは一切の希望という欲を捨て去り、どうなるか分からない、まだ来てもいない未来を考えるのではなく今この瞬間に生きなければならないのです。つまり木の実を食べたことで得た善悪を判断する知識を捨て去ることを至高の存在は要求しているのではないかと私は物語の中から感じました。それが暗に指し示されていることではないかと思います。その事を著者のダンテ自身が自覚していようといまいとです。

 キリスト教精神に基づき書かれたダンテの神曲の中においては、神に至る最初の関門で一切の望みを捨てさることが要求されています。同じような事は、前回の動画の中で私が仏教の教えの中にも諦めることが悟りに至る重要な事の一つとして見出すことができるとお話ししました。一見するとお互いに相いれることのないように思える宗教間において共通するような点があるように見えるのは単なる偶然ではないはずです。やはり、キリスト教にも仏教にも、またヒンズー教にも神へ至るために必要な共通する真理があると言えるのではないでしょうか。私は、悟りや解脱を目指すのなら最低でも今言った三つの宗教はしっかりと勉強しなければならないと思います。山があまりにも大き過ぎるので、それに応じて登山道も沢山できたと思うのですが、たとえ山の頂を目指す入り口や歩む道は違えども連なる峰々の最高峰は一つしかないと、私は、そのように感じます。

 実際、私は無いや自らの内に真我を見出すことにおいては人間の持っている知識など何の役にも立ちません。むしろ、人の持つ常識的な考えや知識は悟りや解脱には障害にしかなりません。

 私は悲惨な戦争やむごたらしい事件などをニュースなどで知ると、その関係者すべてに対して、加害者被害者両方に対して哀れを感じる時があります。なぜなら加害者被害者両方とも神が設定したプログラム通りに動いているロボットにすぎないからです。だから被害者だけでなく私は加害者に対しても哀れを感じるのです。

 ルカによる福音書23章34節〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕と、十字架に磔にされたイエスが、自分を磔刑にした人々に対して、この様に言えたのは、人々は自分も含め神の操り人形に過ぎないことを分かっていたからです。自分が神の操り人形でしかないことをイエスは自覚していましたが、それ以外の人々にはその自覚がなかった。真実を知っていたイエスだからこそ人々を赦すことができたのです。

 この世の何か、私は体であるということから始まる知識の全てを手放し、アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態、裸でも恥ずかしがることのない原初の状態までにならなければ真我を知ることはありません。今言ったことは比喩ですが、それくらい無垢な心が必要だということです。

 神曲の中では、人に自由意思が与えられていることが強調されていますが、真実は人に自由意思など全くありません。人に自由意思があると神によって思わされているだけです。その上で人には自由意思があるという思い込みを捨てさせ真実に目覚めさせる道筋として、諦めることと共に神仏への帰依や明け渡しという難所が悟りや解脱という登山コースの中に用意されているのです。そこまで手の込んだストーリー設定を人の人生劇場の中に仕組んで楽しんでいるのが神という存在なのです。これまで何度も言ってきたことですが、あくまでも自由意思は錯覚の産物でしかありません。

 神曲の中には、その錯覚という呪縛を解くヒントが書かれています。平川祐弘(ひらかわ すけひろ)さん訳の完全版から引用すると453ページの天国篇第五歌26行から30行においてベアトリーチェがダンテに言った言葉としてこう書かれています。「もしお前が請願を立てれば神は必ずやそれをお受けになるでしょう。なぜかと言えば神と人の間で契りが結ばれる際には、今述べたような意志の自由の贈り物が、自発的に犠牲に供されるからです。」

 請願とは、誓いを立てて事の成就を願うことですが、まさにキリスト教でも仏教でも請願を立てるということは自らの人生の全てをそれにかけるということですから、当然の事として請願成就のためには今神曲から引用した通りに不必要となる、あると思い込んでいる自由意思は自ら捨てさられなければならないことになるのです。

 それは同書の煉獄篇の第3歌34行から36行に書かれている「三位一体の神が司る無限の道を人間の理性で生き尽くせると期待するのは狂気の沙汰だ。」という一文からも分かることです。悟りや解脱を望むのなら、すなわち神に関する真理を本当に知りたいと思うのであるのなら知識や理性を捨てなければなりません。

 ここからは神曲の中で語られているあの世を簡単にご説明しながら話しを進めて行こうと思います。あの世の最下層は地獄ですが、場所はどうやら地球の地下にあるようです。地獄は何層にも分かれていて、亡者は、それぞれの罪科に応じて異臭ただよう汚物にまみれながら未来永劫の責め苦により四六時中もがき苦しみ続けます。無数の一糸まとわぬ亡者たちが溢れかえる阿鼻叫喚の世界です。1層目は洗礼を受けなかった者、二層目は肉欲に溺れた者、3層目は大食の罪を犯した者、4層目は吝嗇(りんしょく)と浪費の悪徳を積んだ者、5層目は怒りに我を忘れた者、6層目はあらゆる宗派の異端の者、7層目は他者や自己などに対して暴力をふるった者、8層目は悪意を以て罪を犯した者、9層目は最も重い罪、裏切を行った者がいく場所です。

 亡者たちが受ける罰がどのようなものかと言うと、例えば二層目の肉欲の罪を犯した者ならば、激しく吹く風に木の葉が舞い散るように裸の亡者たちは空中を吹きまわされます。5層目の怒りに囚われた者は汚い沼の泥の中に裸でつかり、死んでもなお離れない怒りのため、お互いに殴り合いけり合い歯で相手の肉を噛みちぎり合います。7層目の暴力を用いて他人や自分を傷つけた者、神と自然に対して背く行いをした者は、熱湯とかしている血の川でゆでられていたり、奇怪な形をした木の姿に変えられ女性の顔をした鳥に体をついばまれ苦痛に苛(さいな)められていたり、熱砂の中で降り注ぐ火の雨で焼かれています。9層目の最も重い罪を犯した者や裏切者は、首まで氷に漬かり涙も凍る寒さによって歯を鳴らしています。こうした地獄の様相は人間の想像力の範疇にあり仏教の八大地獄と大して差がないように私は感じました。

 面白いという言い方が適当かどうかは分かりませんが、8層目の悪意を以て罪を犯した者の中には占いや魔法妖術を行った者も含まれています。亡者は首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す罰を受けるようですが、これは私から見ると、あくまでも悟りや解脱を目指す者ならば未来や過去に囚われることなく今に集中しなさいということを示しているに過ぎないと思います。そうでないと占いのテレビ番組が多い日本では日本人の多くが地獄行きということになってしまいます。それに私自身、気分転換や暇つぶしにユーチューブの色々な占いチャンネルを時々見ていることから占い師さんたちが地獄に行くようではかわいそ過ぎます。でも安心してください。私の過去動画を見た方は、もうお分かりでしょうが、死ねばただの純粋意識に戻るだけなので天国にも地獄にも行くことは決してありません。

 次は、正教会プロテスタントなどのキリスト教の他の教派では認めていない地獄よりは償い方が軽い煉獄です。煉獄は悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者が罪を贖うところです。煉獄は地獄を抜けた先の地球の反対側の地表に聳える台形の山で浄化しなければならない罪の内容によって幾つかの階梯に分かれています。亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄め、浄め終えるとやがては天国に到達します。また、煉獄篇21歌20行以降に書かれていますが、そこでは慣習と違うことや煉獄の山の定めに従わぬようなことは一切起こることはなく現生のような変化もなく、天自らが自分の内に受け入れるもの以外は変化のもとにならないと書かれています。罪に服し罰を受けるのも罰を解かれるのも結局のところ神の定めた通りにしか物事は起こらないということが言われているのです。

 今現在、私が経験している悟りや解脱の道に当てはめるのなら、私はちょうど煉獄を抜けようとしている過程にあると言えるかもしれません。煉獄に入れる資格のある者は悔悟に達した者または悔悛の余地のある者です。悔悟とは過ちを悔い改めることです。改悛は自分の行いや態度が悪かったと反省し,心を入れかえることです。

 私は、私は無いに気づいて以来、人生の全てにおいて、そこに私というものは一切なく私は何もかかわることができない存在であり、目の前に起こる現象を観賞し、ただ経験しているに過ぎないことを受け入れる努力をしてきました。それに対して生き残りを望む自我は頑強に抵抗し、時と場所を選ばずに、あらゆる機会に自分の人生に対するかかわりを認めさせるために自己を主張してきます。自我は、過去にまつわるありとあらゆる記憶を総動員させ心を無心に集中し安定させることを妨げようとする主張の一つとして、心の中に残る罪悪感や羞恥心などに関する後悔の念を利用し混乱を引き起こそうとしてきます。それは幼児の時の他愛のないイタズラによって生じたことかもしれません。親が大切にしていた物を壊してしまい、その事を親に聞かれて知らないと答えた事かもしれません。小学校の時、同級生がいじめられているのを見てみぬふりをしたことかもしれません。子供の時の記憶や大人になってからの記憶の中で、今になっても忘れることができずに慙愧や謝意または恥ずかしさを感じずにはいられないことが後から後からとめどなく脳裏に甦り穏やかな気持ちでいることが困難になってきます。また、過去に信頼していた者から裏切られたことに対し相手を許すことができずに怒りの気持ちが湧いてくることもあります。

 なぜ、そういった負の感情が湧いてくるのでしょうか。それは、それを行った自分を許せない気持ちと何かしらの執着がそこにあるからです。その場合、後から後から湧いてくる一つ一つの過去の嫌な負の感情に対しては絶対に逃げることなく思い出すごとにしっかりと向き合い相手の名前や顔を出来るだけ思い出し、イメージとして相手の前に立つなり正座するなりして真摯な気持ちで心の底から反省と謝罪の言葉の念を送ることが大切になってきます。自分の中で十二分に納得がいくまで反省と謝罪の念を相手に送り続ける作業を怠りなくやる必要があります。そして、自身の心が納得するまでやり続けることができれば、心は少しずつ浄化され最後はもうその事には囚われないで済むようになります。

 なぜかというと、あなたと相手の本質は同一だからです。同じ真我であり同じ神の本質があなたと相手の中にあるからです。故に、人を愛することは自分を愛することになり、人に与えることは自分に与えることになるのです。同じように人を傷つけることは自分を傷つけることになり、相手から奪うことは自分から奪うことになるのです。聖書の中の随所に自分を愛するように妻や隣人を愛しなさいと書かれているのは、その事を伝えようとしているからです。従って、何かの理由で相手を許せないというのも、自分の中に執着があるからです。その自分の中にある執着に気がつき相手を赦せば自分の囚われた心も執着から解放することができます。自分を赦したことになるのです。私やあなたは神の操り人形です。アバターといえば分かるでしょうか。神は、そういう経験を、あなたを通してしたがっているのです。本当は簡単な理屈なのです。

 いずれにせよ、それがどのような形であれ人を大なり小なり傷つけた行為は記憶の深部にいつまでも残り、とうの昔に忘れていたことであっても悟りや解脱の道を進もうとする者にとっては浄化されなければならない記憶として甦ってくることになります。

 神曲の中のダンテ自身も煉獄山を上るにつれて浄められていき天国に入る資格を得ることになりますが、それと同じように、それまで心の中にわだかまっている記憶の一つひとつを贖罪という形で浄化していく度に自我も段々と大人しくなっていくように私は思います。

 ここで私の中に今もってわだかまっていることを申し上げるならば、それは3年前に13年間一緒だった猫のフー子を急性腎不全で死なせてしまったことです。本当に悔やんでも悔やみきれません。忘れていても発作的にフー子に対する罪悪感が生じて苦しくなります。私の自我の消滅を最後まで阻むものがあるとすれば今のところフー子くらいしか思いつきません。全ては創造主が決めた筋書き通りの死であったとしても、やはり最愛の娘ともいえる愛猫が死んだことによるペットロスはなかなか癒されるものではありません。こればっかりはどうしようもないというのが私にとっての現状です。それも生き残りをかけた自我の戦術の一つであることは分かっているのですが、分かっていても手放すのは難しいです。

 あと一般論として考えられるのは性の問題だと思います。性に関することを極端に忌避する必要は全くありません。その性的欲求が単なる生理現象であるならば私は何も問題ないと思います。たとえば尿意をもよおした場合、普通トイレに行って排尿をした後はもうオシッコのことを考えなくなります。おしっこをするという行為そのものに精神的に執着したり依存するということは通常ないはずです。それと同じようなレベルにまで性的な行為を落とし込むことができていて、性に関して精神的な執着や依存がなく、その他の囚われの心がないというのであれば、その都度生じる性的欲求をその人なりに適度に解消し、解消した後は性のことを何も考えないのであれば悟りや解脱の道を歩むうえで特に支障はないのではないかと私は考えています。

 以上のように過去に関連する懺悔(ざんげ)しなければならない行為の記憶に対しては、相手がいるのであれば直接会って謝罪が出来れば一番良いのでしょうが、たとえそれが出来なくても相手を思い浮かべながらする心からの謝罪は本人を目の前にしなくても相手に通じます。なぜなら、何度も言いますが、その人の中にある真我は自分の中にある真我と同一だからです。

 神曲の中では煉獄は天国に通じる一つ前の世界として描写されています。悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者がそこで罪を贖うところです。この過去の過ちに対して悔い改める行為は悟りや解脱を目指す者にとっても経なければならない必要なプロセスになることは間違いありません。その事を、煉獄という形で示されていると私は思います。

 次は煉獄の上にある天国です。しかし、一口に天国といっても10の階層があり平等というわけではありません。生前の行いによる功徳が高い者や智恵深き者、また愛が深い者ほど据え置かれる場所も高くなります。そして彼らはみな神の僕として世界を統治する摂理に直ちに服することを旨としています。なぜなら、天国篇第9歌の103行から105行にかけてそのまま引用すると「しかし、この天では誰もが悔いもなく微笑している。罪はもはや念頭に思い浮かばないから、罪に涙せず、神の摂理に悦び笑うのだ。」つまり、それが何であろうと神のご意向に従うこと自体が悦びそのものになるのです。要するに天国は、もはや悔いることなど何もない愛に溢れた人たちばかりが住んでいる世界なのです。天国は本当に素晴らしい世界だと思います。私自身と私の周囲に関しても一日も早く神曲で描かれる天国のような世界にしたいというのが当面の私の望みですが、しかしながら、それもまた神の御心(みこころ)次第ということになります。

 また、神曲の中では重要な位置を占める天使についても詳しく書かれています。原初に創られた(地獄篇7歌95行)天使は常に過去・現在・未来の万物を映し出す神だけを見ています。新しいことに引きつけられることもなければ遠ざかった観念を思い出す必要もないことから記憶力を持ち合わせていないそうです。(天国篇29歌70行~81行)それにもかかわらず、天使は神の御心のままにその務めに専念できる力を与えられています。まさに神の手足として働く実働部隊です。もし、この様な天使を、この世の人に当てはめるのなら、どういう人が当てはまるのかと考えてみると、それは真我に常在し解脱を達成した人と言えるではないかと思います。解脱を達成した人が見ているものは常に真我のみであり他の事を見ていないからです。その場合、解脱者の意識は自分の体と世界を認識していないにもかかわらず解脱者の体は自然に動き、他人からは解脱者が普通に生活している人のように見えます。その聖者の状態をサハジャ・サマーディと言うそうですが、インドの聖者として名高いシュリー・ラマナ・マハルシについて書かれた「ラマナ・マハルシとの対話」第1巻の169ページに天使の状態によく似たサハジャ・サマーディについて書かれているので、もし、ご興味のある方は読まれてみてはいかがでしょうか。

          

 神曲の方に話しを戻します。天国の最高位は至高天です。そこには白い衣をまとった諸天使、諸聖人が集っていて、その様は、さながら光り輝く天上の薔薇のようにダンテには見えています。さらに、その内奥に入っていくと、そこには万物を映し出す(天国篇第9歌73行)神の座があり、そこでは人間の観念の極限を超えた言葉で表すことも記憶することもできない永遠に輝き続ける至高の光のみが見えます。そして、その光こそが、この世を動かす愛であったと締めくくられ長い叙事詩が終わるのです。

 重要なこととして神曲の天国篇では、たびたび父と子と精霊の三位一体についても語られます。私の考えでは、三位一体は純粋な意識である真我が父であり、そこから生まれる在るという存在性が子であり、存在性への愛が聖霊にあたるのではないかと考えています。神曲のなかでも天国篇第13歌の52行から63行まで引用すると「死なないものも死にうるものも、所詮われわれの主が愛によって、生み出す観念の[反射の]輝きにほかならない。この[観念の]活光(かつこう)は、その光を発する本体を出、それと分かれず、その両者を合(がつ)して三者で一になる。愛からも分かれない。そして自らの恩恵によってその活光は、永遠に一つでありながら、鏡に映り鏡に集まるように、その光を九つの[天使の]存在の中に集めている。ついで光はそこから発して天球を次々と最低の力まで降り、ついにはわずかな寿命しか持たぬものしか作れなくなる。」というように端的にこの世の創造の仕組みが三位一体のものとして説明されています。

 活光が子であり、光の源が父であり、愛が聖霊なのです。このダンテの説明は、私には十分すぎるほど分かります。なぜなら私が感じた光である純粋な意識は全ての源であり、そこから生じた観念こそが現象世界だからです。愛は現象世界を生み出す原動力です。そして、それは天国篇第29歌15行にある通り「われは存在す」のためにあるのです。

 ダンテが経験した光同様、私の真我の直接体験も言葉ではとてもいい表せないものです。以前お話ししたように気づいていることに気づいているただ在る気づき純粋な気づきとしか申し上げることしか出来ないものです。神曲の中で描かれる至高天の光の描写や天使も含めた天国の住人の精神性に関する事柄を読む限りでは、悟りや解脱というものについてダンテ自身も何らかの直感ともいえる気づきを得ていたように感じます。それまで本で読んだことや伝聞から単なる想像でここまで真理に近いことが書けるわけがないように思うのですが、何の神秘体験もなくここまで書けるというなら、著述に関しては天才だったのだろうということと信仰篤いが故の為せる業としか言いようがありません。そういう意味でダンテの神曲は悟りや解脱という観点から、とても興味深いものを感じます。

 何にせよ、神曲のようなあまりにも格調高い文章は普段読み慣れていなので最後まで読破するのにだいぶ時間がかかってしまいましたが本当に読んで良かったと思います。当時のイタリアのフィレンツェを中心とした社会情勢やものの考え方も何となく理解できたので、たまには西洋文学に親しむのも有意義なことだと思いました。けっこう違いがあることに気づかれると思いますので、是非、文語体・口語体の両方を比べながら読まれることをお勧めします。

 今回は動画として長くなり過ぎたきらいがありますが、神曲の中で語られている事の全てをこの世の事として当てはめて考えれば合点がいくのではないかと私は思います。誰であろうと全ての人びとの中に私というものの存在性を認めるはずです。私の存在を否定する人は誰一人いないはずです。その私という根底にある本質が「私は在る」という神なのです。故に天国や地獄、そして煉獄はこの世の外のどこかにあるのではなく、正しくこの世の中の、人々の心の中にあると言えるのではないかと思います。そして結果として、各人は心の中の境地に沿うような環境で生きることになるのではないかと思います。

 今回も真面目に神学や西洋思想を研究されている方からすれば看過できないこととしてお叱りを受けても仕方のない内容がありましたが、私はただ、諦めは悟りや解脱を目指す上でとても大切であること、キリスト教の教えの中にも容易に悟りや解脱にかかわる知識を見出すことができるということを申しげたかっただけですので、そこの所をご理解のうえ何卒ご容赦の程をお願い申し上げます。

 いずれにしましても、人生に対する自我の支配は空虚なものであるということを認め、人生の全ては創造主のプログラム通りにしか進まないものであるという受け入れがたい真実を受け入れなければ、今しかない在るに集中することはできません。従って、真理に到達するためには、どうしても諦めは必要不可欠なプロセスであり数ある関門の内の一つであることに間違いはないのです。そこの重要性を是非とも受容していただきたいと思います。加えて、全てに対し自分はただの操り人形であり無力な存在である事実を前にして絶望することも諦めと共に大切な感情であることも付け加えておこうと思います。

 いつもなら最後に私がお勧めする本をご紹介するのですが、動画がさらに長くなってしまいますし既にダンテの神曲などをご紹介しているので今回はここまでとします。また、まさに因縁として全ての現象はお互いに関連し合って現れ出るこの世にあってダンテの神曲を読むきっかけを与えてくださった敬虔な女性キリスト者さんに感謝を申し上げます。ありがとうございました。それでは、いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

悟りとはあきらめることなり‼

       

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

悟りとはあきらめることなり‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が18回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 今回は前回に続いて諦めの重要性についての第二弾になりますが、本動画では、たとえ仏典を全く読んだことのない人であっても、どこかで一度は聞いたことのあるだろうと思われるくらい有名な般若心経の中から諦めの教えを取り上げて諦めの重要性をお話ししようと思います。

 まず、なぜ諦めが重要なのかについては、前回の動画で今しかない今の在るに集中するためであることは既にお話しした通りです。今回は前回動画中でお話ししきれなかった、その補足的なことになります。

 諦めは自分の人生を、現象世界の創造者たる真我或いは神仏へ完全に明け渡す上で欠かすことのできない過程であります。それまで自分のものと頭から信じて疑うことのなかった自分の人生に対して、自分が本当は全く何も関わることの出来なかった無力な存在であることに絶望し、その事実を、苦しみを伴う自我との葛藤の末に受け入れ、あなたが心から信じ帰依した神仏(かみほとけ)などと呼ばれる姿かたちのない絶対的存在に自分の人生を明け渡すためには必ずと言っていいほど通らなければならない道でもあるのです。

 私は無いを知り、その私は無いを受け入れるということは、自我にとっては自分自身になされた死亡宣告を受け入れるようなものであり、生き残りを望む自我の苦悶たるや言語を絶するほどであることはそれを経験したことのない人でも容易に想像できるのではないでしょうか。

 だからこそ心の安心を得、安定するためにも自らの内にある姿かたちの無い神仏への絶対的帰依が必要にもなってきます。自らが信じる神仏があるから諦められるし、諦めがあるから神仏を完全によりどころとすることが出来るのです。従って諦めと自らが信じる神仏への絶対的帰依は切っても切れないお互いに依拠し合った関係と言えるのではないかと思います。

 そして諦めが必要であることは、お釈迦様が悟りを開かれて最初に説かれたといわれる四諦八正道(したいはっしょうどう)という教え中にもはっきりと見ることができます。

 四諦八正道ってなに、という方のために簡単に四諦八正道を説明します。四諦の諦(たい)は真理を意味します。そして諦(たい)には、四つの諦があります。一切は苦であるという真理の苦諦、つきない欲望が苦を生起させているという真理の集諦(じったい)、苦の原因を知ってそれを滅に至る真理の滅諦(めったい)、苦の滅に至る実践に関する真理の道諦(どうたい)、この四つの真理を総称して四聖諦(ししょうたい)と言います。サンスクリット語ではcatur-ārya-satya(チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)四つの尊い真理と言われています。そして八正道は、苦の滅に至る実践に関する真理である道諦(どうたい)の八つの具体的内容になります。

 その八正道のうちの一つ目は正見(しょうけん)です。正見は、正しいものの見方をすることです。二つ目は正思惟(しょうしゆい)です。正思惟(しょうしゆい)は一つ目の正しいものの見方により正しい考えを持つことです。三つ目の正語(しょうご)は一つ目の正しいものの見方により正しい言葉遣いをすることです。四つ目の正業(しょうごう)は一つ目の正しいものの見方により正しい行いをすることです。五つ目の正命(しょうみょう)は一つ目の正しいものの見方により正しい生活をすることです。六つ目の正精進(しょうしょうじん)は一つ目の正しいものの見方により正しい努力をすることです。七つ目の正念(しょうねん)は一つ目の正しいものの見方を正しく心に留めおくことです。八つ目の正定(しょうじょう)は一つ目の正しいものの見方により心を一つの対象に集中して安定させることです。

 以上が四諦八正道(したいはっしょうどう)の教えになりますが、もしかしたら、今言った説明の中のどこに諦めの教えがあるのだろうと思った方がいるのではないでしょうか。実は今言った全ての教えが諦めの教えなのです。私は、そう考えています。よく四諦八正道の文字を見てください。そこに諦めるを漢字を含めて書くときに使われる諦(たい)という字が使われていることにお気づきになられたでしょうか。この教えの根底には人生に対する「あきらめ」の境地が含まれると私は考えます。「あきらめ」の境地があって始めて真の理解が出来るようになると私は思っています。

 そしてここからが私のそもそも論の話しになります。この四諦八正道の総称には諦(たい)という漢字が使われていますが、この諦(たい)、(てい)とも読みますが、この諦(たい)にはあきらめる、望みを捨てる、断念するという意味がある一方、仏教用語として真理や悟りを意味し、ものごとをつまびらかに明らかにするという意味があります。では、なぜ、ここに「あきらめ」という意味もある諦(たい)という漢字が使われているのでしょうか。そもそも、なぜ、この諦(たい)という漢字は、真理や悟りという意味の他に、望みを捨てる、絶望する、断念する、 放棄するといった意味として使われる場合の「あきらめる」を表わす漢字として使われるようになったのでしょうか。そこには鶏が先か卵が先かの話しもあると思いますが、もしかしたら、最初から真理とあきらめるという意味の両方が諦(たい)の字にあったのではなく、当初はどちらか一方の意味しかなかったのではないでしょうか。

 私は言語学者ではないので経緯は分かりません。あくまでも当初はどちらか一方の意味しかなかったという仮定の説として私のとんでも説としてお聞きください。諦(たい)の字が真理とあきらめるという両方の意味として使われ出した理由としては、単に長い歴史の中で理由もなくいつのまにかそうなったとか、他に適当なものがなかったから便宜的に使われだしたといったものでは絶対にないと思います。そこには意識的に意図的に若しくは結果的に、はっきりとした理由があって「あきらめる」を表す漢字として真理や悟りを表す諦(たい)の字が使われたのではないかと感じます。なぜなら物事をつまびらかに明らかにして、真理に気づくという悟りや解脱に到達するためには、まだ未達ながらも私の経験上、自分の自我を放棄し世俗の中で一般的に言われる成功するというような欲を断念することが必然的に要求されることが分かっているからです。

 従って、その昔インドから中国に仏教が伝わり、その教えを中国語で書き表そうとした時、または三蔵法師さんなどが艱難辛苦を乗り越えインドから持ち帰ったサンスクリット語で書かれている経典を中国語に翻訳しようとした時、中国の仏教の僧侶たちは、当然の事として、その事はちゃんと分かっていたはずです。だからこそ諦(たい)は、真理であると同時に「あきらめる」という意味も含むようになったのではないかと私は思います。 

 1,000年以上もの昔、当時の悟りを目指す中国の僧侶たちを思い浮かべながら想像するに、諦(たい)は、最初は純粋に真理の意味として使われていたものが、真理のためには自我と世俗の欲を断つ必要があることから、僧侶のなかの誰かが「悟りとはあきらめることなり」と言い出したことで僧侶の間で「あきらめる」という意味も段々と諦(たい)の字に加味されて使われるようになり、それが次第に俗世間でも付加された形で使われ出したのではないか、というのが私の考えです。

 むさぼり、いかり、おろかさという貪瞋痴に囚われた迷いの世界である現象世界を真理の面から理解する上では「あきらめ」は切っても切れない必要な道筋として求められる精神上の作業工程であることに間違いはありません。そのことから、あきらめは真理を得る上で欠かせないこととして真理のうちに加えられることとなり、それが故にあきらめるという意味に諦(たい)の字が使われるようになったというのが事の始まりではないのか、というのが私のとんでも説です。つまるところ、「あきらめる」ことは真理を悟ることにつながるので、「あきらめ」も真(まこと)の理(ことわり)の一つになったのです。

 どうでしょうか。ご納得いただけるでしょうか。もしかしたら今回の内容には真面目に言語や思想を研究されている方からすれば看過できないこととしてお叱りを受けても仕方のない内容が含まれていたかもしれません。しかしながら、これはあくまでも諦めることは、悟りや解脱を目指す上で欠かすことの出来ない一過程としての重要性を理解してほしいがための方便です。

 従って、私の勝手な空想であり何の根拠もなくただの憶測から述べただけなので間違っている可能性は大いにあることなので本気で受け止めないようにして取り留めのない冗談ばなしとして、もしかしたらそういう事もあるかもしれないという感じで受け流していただきたいと思います。ただただ諦めは重要ですということを言いたかっただけなのです。

                                       

 それでは最後に角川ソフィア文庫から出ている「真釈 般若心経」をご紹介しようと思います。この本には般若心経を理解する上で知っておきたい基本的なことが書かれています。用語解説書として読まれるのが良いのではないでしょうか。

 般若心経には、私たちが実際にそこに居ると勘違いしている現象世界の基本的性質を知るうえで欠かせない知識が載っています。たとえ単なる知識としての理解であったとしても、これを理解できれば現象世界がどんなものかがおぼろげながらも何となく分かるのではないかと思います。

 私たちは、そこに居るように見えても本当はどこにも居ない存在です。従って、何かを感じているように思えても本当は感じる感覚などどこにも無いのです。頭の中に後から後からやってくる自分の思考だと思い込んでいる思考の全てもどこにも無いのです。同じように老いも病も死もどこにも無いにもかかわらず有ると思い込んで苦しんでいるだけなのです。本当に、どこにも無いものを有ると思いこんでいるだけなのです。しかしながら、有ると思い込んでいたものの正体が、ただの幻想であり実体はどこにも無いと知ったところで、実際に有るものは有るとして感じる以上、悟りに至る様々な方法を実践し物事の本質を知ったからといって、これといって何か物質的な得をするということもないのも事実です。故に私たちの本質が唯一絶対の存在である真我であり世界に対する無知など元々ないと言ったところで、それが分からない人々にとっては、真実は知りようがないのですから依然として人々の間から無知がなくなることはないのです。

 そうは言っても、自らが真我であることを知り自我を捨て去り真我に至ることは、無いものを有ると錯覚することにより生じる不安と恐れを消滅させ、少なくとも自らの苦しみを取り除くことにつながります。それが結果として、人々の救済にもなることなので悟りや解脱をすることは、やはり、おめでたいことと言えるのではないかと思います。般若心経には、悟りの境地に達した者にしか分からない明白な真実が書かれています。

 少し話しがそれてしまうかもしれませんが、私がユーチューブを見始めたのは2015年の春頃のことです。その時には、もう既に引き寄せの法則なるものは花盛りでユーチューブを含めネットでも本でも引き寄せの法則に関する情報が氾濫していました。昔はスピリチュアルと言えば、もっと純粋に心霊とか魂とか精神的で宗教的なものを指していたと記憶しているのですが、そういった本来の意味でのスピリチュアルな話しを含め幼い時から霊的なものに関心を持ち、その手の本をたくさん読んできた私であっても、アセッションとか二極化の時代とかゲートが閉まるなどというような話しに関しては残念ながら全く分かりません。一生懸命にアセッションの話しをされている方には本当に申し訳ないのですが悟りや解脱には何の関係もないように感じてしまいます。

 むしろ、その手の話しはこの世に属するものなので、悟りや解脱のためには、それらの話しから離れる必要があります。

 また、悟りや解脱を目指す宗教界の本流・本筋の方からすればただの自己流で得たものに過ぎないと言われるかもしれませんが、私が動画の中で言っていることは、私がこれまでに意識的に意図することなく、自然に起こった自分の体験を通して会得した私なりの悟りや解脱に関する事柄をお話ししているに過ぎません。

 そして、私は、その自分が体験した事を視聴されている方にお話しすることにより、同じように悟りや解脱に関心がありながらも、直接的に既存の宗教団体に関わることなく悟りや解脱をするにはどうしたらよいのか分からないという方の一助にしてもらえるのであるならば、という気持ちで本当に我流で申し訳ないのですが自らの内に沸き起こる思いのままに製作した動画を公開させていただいております。従って、自己流に解釈したものであっても私の話しは伝統的な悟りや解脱の話しから1ミリたりとも離れたものでは決してないと自分では思っています。おそらく何万年何千年にもわたり数えきれないほどの先人たちが成し遂げようと歩んできた悟りや解脱の道を、どうして私のようにしがない一介の探究者が、そこから離れて話しをすることができるというのでしょうか。私が体験した私は無いや自らの内に見出した真我の直接体験は、それをまだ体験していない人であっても、これからいくらでも、それを体験できる可能性は誰であっても等しく持っており、悟りや解脱の道は誰に対しても常に開かれていると私は思っています。悟りや解脱の道が狭まったり閉じるということは絶対にありません。

 そもそも、この世界そのものが元から、最初から二極化している世界なのですから、今のスピリチュアル界隈で言われる二極化が進むとか、アセッションのための時間に限りがあるとか、ゲートが閉まるなどという言葉には、少なくとも悟りや解脱を目指す人であるならば惑わされることがないようにしていただいて、たとえ私のように自己流であっても伝統的な悟りや解脱の道をしっかりと学び歩んでいただきたいと思います。悟りや解脱の道は、この現象世界の出来事に一喜一憂することではなく、恐れや不安、引き寄せの法則なども含めた欲を駆り立てる言葉などは全てこの世のものであるとして見限り、そこから離れて根源へ向かう道であることを肝に銘じて忘れないようにしていただきたいと思います。

 本の方に話しを戻しますが、わざわざ、この本を買わなくてもネットを検索すれば般若心経を解説してくれているサイトは沢山あります。しかしながら、般若心経を解説しているサイトなら何でも良いというわけではありません。元のサンスクリット語の原文の意味に近いように忠実に現代語訳されている般若心経を読まなければ、そこに書かれている本当の意味を理解できなくなります。従って、何を読むにして正確に現代語訳された般若心経以外は避けた方が良いと思います。たとえば、一般的な人間の生き方などの教えとして、いわゆる人生訓として般若心経を取り上げ解説しているものなどは暇つぶしの娯楽としては良いかもしれませんが悟りや解脱の理解には全く意味をなさないので、そのようなサイトの解説や本は避けていただきたいと思います。そして今言った、正確に現代語訳された翻訳本を選ぶ必要があるのは聖書や聖典などを読む場合にも当てはめることができるので、その点も注意していただけたらと思います。

 そういう意味で、この本の現代語訳は本来の言語の意味に忠実のようなので私としてはお勧めです。ご興味ご関心がおありでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性‼

  

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が17回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 前回の動画の最後の方で私は「悟りや解脱を目指すのなら諦めは必須要件の一つになります。諦めはすなわち人生に対する作者であるという錯覚の手放しであり、神、造物主、真我、呼び名は何でも良いのですが、私たちを創造した存在に対する完全なる信頼と人生の明け渡しがあって始めて、ようやく悟りや解脱への下地が出来たと言えるのではないかと私は思います。」と申し上げたことを覚えていらっしゃるでしょうか。

 今回は悟りや解脱を目指す上での諦めの重要性をお話ししようと思います。なぜ諦めが必要かと言いますと、今に集中するためです。今しか存在しない今の在るに集中するためです。過去や未来は存在しません。過去は常に過ぎ去り消え去ったものであり、時々過去に関する記憶が思考としてやってくるものでしかありません。人はそれを思い返しとして認識するだけです。未来は未来で、当然まだ存在しないものであり、たとえ一秒先の未来であっても創造主の胸先三寸でどうにでもなるようなものでしかありません。あなたが、どんなに先のことをやってくる思考として、あーなって欲しい、こーなって欲しいと望む未来をこい願ったとしてもあなたの思い通りになることは一切ありません。あなたが、もし未来において思い通りになった願った通りになった予想通りになったと思ったとしても、それは最初からそうなるストーリーでしかなかったに過ぎません。その時、起こったことに対して、過去に願った通り望んだ通り予想した通りのことが叶ったという思考がただやってきて、その思考とその思考から沸き起こる嬉しいという気持ちと共に達成感や満足感といった感情を認識しているに過ぎないのです。そもそも本当にその事を過去に願ったのか望んだのか予想したのかさえ怪しいものです。それは、ただの記憶でしかないからです。全ては創造主が設定したプログラム通りの状況と反応が起こっているに過ぎません。あなたが過去に願ったことを何らかの方法で記録していたとしても、その記録でさえも疑わなければいけません。あなたが今見ていると思い込んでいる目の前で繰り広げられているものは立体的に見えるただの映像であり、体で感じられる感覚と頭の中で感じられる思考と感情は自然に生じて感じるものではなく、全て創造主により計画され創作された物語通りに設定され展開される作為的な映像に過ぎないからです。あなたは物語の中の登場人物に自己同一化しているために自分が経験しているのものとして認識しているだけなのです。

 現れている現象としては今見えているものだけが全てです。それ以外にはありません。今見えている現象こそが、あなたや私にとって必要な経験すべきこととして創造主たる真我によりもたらされた最高の贈り物です。今目の前に現れている現象以外に何を経験したいというのでしょうか。他に経験しなければならないことは何もありません。私やあなたにとって経験すべきことだけが現象として現れていることに気づけば他の事を望む必要がなくなります。余計なことに神経を使い煩わされることが無くなります。どうぞ今目の前で繰り広げられている事象だけに集中し、目の前の物事だけをありのままに見続けて下さい。過去に目を向けて苦しんだり、必要以上に未来の事に目を向けて、しなくてもいいような取り越し苦労を避けるようにしていただきたいと思います。自分の言動も含め、全ては神の御業であることを知り神に全てを委ねれば、そこには安心しかありません。

 従って、誰であろうと人生に対して物語りを書いている真実の作者が他にいるというトリックを見破るためには、この人生に自分は一切かかわっていないと見切る若しくは見限ることが必要になってきます。もちろん、人生に対して自分は何も関わっていない、元から関わることはできなかったと認め諦めることは容易でないことは分かります。「私は無い」に気づいた私でさえも人生が展開されていくことに私というものが一切関わっていない事を受け入れ諦め自我がおとなしくなるのに3年以上かかったほどなので、何の気づきもない人が自分の人生は創造主が書いた筋書き通りにしか進まないものであるという真実を同じように受け入れて諦め、自分は人生に対して何も関わることができないただの操り人形でしかなかったことを素直に認めることは到底できそうにもない困難なものに思えるのは容易に分かります。事実上、普通の考えの人では自分の人生そのものへの関与はないものとして諦めることは不可能だと思います。

 そういった、人生そのものへの自分の関与の全否定が出来ない人、人生の全ては筋書きに従って完全自動で起きていることだと受け入れられない人は、せめて未来に対する期待だけでも諦める努力をしていただきたいと思います。本当は今現在の行為でさえも自動で起きていて、そこに自分というものは一切かかわっていないことを認め受け入れて欲しいのですが、それは無理でしょうから、どうしても受け入れられないというのであれば、出来る範囲で良いので未来の出来ごとに対して、あーなって欲しい、こーなって欲しいといった期待を持つことだけでもしないように心がけていただきたいと思います。未来は、まだ来ていません。存在していないからです。未来は、やってくる思考によって予想は出来てもどうなるか分からないからです。どうなるか分からないものを心配したり不安になったりしてもしょうがないのではないでしょうか。

 しかしながら、心配や不安をただ感じないようにして下さいと言っても、これも無理な話しであることも私は分かっています。考えないようにすればするほどストレスがたまり、かえって不安や心配に意識が向いてしまい余計に心が不安定化してしまうのは私も経験済みです。だからこそ、そこで必要になってくるのが、あなたが信じるあなたの内なる神仏への絶対的帰依なのです。決して外に祀られている既に何かしらの名前がついている姿形ある神仏への帰依ではありません。あなたはあなたの内なる神仏を心から信じ、その神仏に帰依することをするだけで良いのです。

 神や仏は単独で私たちから完全に分離して私やあなたの外側にはありません。神や仏は常に私たちと共にあり一瞬たりとも私たちから離れて存在したことはないのです。神仏は、私たちの内側であり外側であり、始まりであり終わりです、聖書の中のアルファでありオメガであり、今おり,かつており,これから来る者,全能者です。日本の神社仏閣で仁王 (におう)像 や狛犬 (こまいぬ)で表現される 阿吽(あうん)でもあるのです。全ての全てなのです。

 なぜ、そう言えるのか。なぜなら私は体の感覚のない状態から、体の感覚が生じる過程において真我の直接体験をしているからです。私は、私の本質が何であるのかを知っています。体は眠っていようと起きていようと、たとえ体が死んで灰になったとしても純粋な意識として気づいていることに気づいている鮮明な気づきとしての意識、在るとしての存在であることをしっかりと理解しているからです。私は旧約聖書出エジプト記3章14節に出てくる「私は在る」であり、ヨハネ福音書8章24節に書かれている「私は在る」なのです。わたしは,有りて在るものです。

 だからといって私は自分の事を神などとは全く思っていません。なぜなら、これまで何度も繰り返し言ってきた通り現象世界における私は、何一つ自分の自由意思を持つことの出来ない、ただの操り人形であり奴隷でありプログラム通りにしか動かないロボットだからです。私は、神が娯楽として遊ぶために使うゲーム盤の上に置かれたただの駒に過ぎません。私は、ゲームの一環として神が使う駒の一つとして、ゲームの進行上、自らの本質が何であるのかを神の御業により知らされただけに過ぎないのです。どこまでいっても私は神が使う、ただの道具に過ぎません。そして、その事は世界の80億を超える人々を含めた全ての存在にも等しく当てはめることができます。現象世界の全ての存在の根底には「私は在る」という神の本質があります。在るという神の本質なくして世界は成り立ちません。だからこそ神は物事のアルファでありオメガなのです。ただ、それに気づいているかいないかの違いでしかないのです。

 世界は、真実の私やあなたである真我が創造しています。現象の私やあなたが眠りについた時、当然の事として世界と共に私やあなたは消滅します。そして、目覚めた時に改めて世界は現象としてあなたや私の体と共に現れ出るのです。現象として現れている私やあなたは真実の存在そのものとは言えません。真実の存在は有りて在るもの、言葉として表現することが不可能な在るという神の本質です。仏教的には無相の法身と言われるものです。私たちは、その真実の存在の一部として現れたものです。

 従って、絶対的存在である神を信頼し全てを委ねることが大切になってくるのです。少なくとも、将来について取り越し苦労はしない。余計なことを考えて体のエネルギーを無駄に消費しないようにしていただきたいと思います。今できることを全てやったのであれば、後は天に任せて何も考えないのが良いのではないでしょうか。善くも悪くも答えがどう出ようとも、未来に対する期待を諦めるだけでもする努力をして頂けたら良いのではないのかなと思います。

 ちなみに、「私は在る」を取り上げた次いでと言っては何ですが、この際なのでヨハネ福音書8章24節前後に書かれていることについて私の解釈を忌憚なく簡単に言わせてもらおうと思います。ヨハネ福音書8章24節前後に書かれていることは仏教でいう因果応報からの解脱の話しをしているというのが私の考えです。自らの内にある真我を見出し自分の本質を悟れば、この世の業から受ける罪を背負う必要はなくなることから、故に自由を得ることになるということをイエスは話しているのではないかと思います。私はそのように感じました。イエス・キリストもまた、自分が神の操り人形であることを認識していたのではないかと思いますし、間違いなく悟りの境地にいたと思います。そうでなければ、ヨハネ福音書8章23節、「イエスは彼らに言われた。あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。 24節、だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」などということは言えないと私は感じました。だから、イエス・キリストは悟りの境地にいたと私は言えるのです。神の子ですから当然と言えば当然のことです。しかしながら言っておきますが、地球上に生まれた全ての人、全ての存在が神の子です。彼だけが特別な存在ではありません。それは間違いのないことですが、イエス・キリストが偉大なところは「有るとして在る」神の真実の姿に気づき、当時も今も無知がはびこるこの世にあって真理を知り、その真理を、勇気を持って人々に対して説いたことです。

 私のように私は無いや真我に気づくと、聖書の中や仏典の中、ヒンズー教聖典の中のあちらこちらに容易く共通する真理を見出すことができるようになります。だから私は特定の宗教を信仰する必要はないのです。私が帰依する唯一の存在は宇宙に遍在する根本原理でありブラフマンである真我であり、「私は在る」である有りて在る神であり、色・形なく常住し一切にあまねく満ちている絶対の真理そのものとして仏の中にある無為法身(むいほっしん)なのです。従って、日本中世界中のどこの神社仏閣教会に祀られているどのような神様やどのような仏様であっても崇めていいですし、あなたの親兄弟祖父母・夫や妻・子供・職場の同僚を神のように思い崇めてもいいのです。極端な話し庭に生えている草木を神として崇めても良いのです。全ては神の現れであり、全ての中に神は在るのです。それが私の考えであり真実です。

               

 それでは最後にナチュラルスピリットから出ている「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」をご紹介しようと思います。この本に書かれているマハルシさんの教えは本当に分かりやすいです。難しいことは何も書かれていません。すらすらと読んでいくことができます。しかし、それは私にとっての事なので他の人が読んで私のように理解できるかは分かりません。その人の真我についての理解がどれほどのものであるのかに左右されるのではないかと思います。この本には、真我を探求する上で知っておかなければならない基本的なことが沢山書かれています。私にとっても大変参考になることばかりが書かれていました。

 先ほど申し上げた通り私は特定の宗教を信仰しているわけではないので、それが聖書であろうとコーランであろうと大乗仏典であろうと他の新興宗教の経典であろうと悟りと解脱へ至る道につながるものであるなら、最初から理由なく拒否することなく何でも取りあえず読んでみようと心がけています。それが自分の精神の成長につながると考えているからです。従って出来ることなら、他の宗教を信仰している方であっても是非とも読んでいただきたい本であると思うので、私の言葉を悪魔の誘惑などと思わずに素直な気持ちで先入観や偏見に囚われることなく、まさに幼子の目と心で読んでいただきたいと思う次第です。

 特筆したいのは、私が体験した真我の直接体験が体験としてはどのように分類されるのかもしっかりと書かれていることです。私の直接体験は、第14章の冒頭に真我を直接体験した人の状態を三つに分けたうちの中のケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディというものだそうです。これは真我実現直前の段階で、自我が完全に消去されていないにもかかわらず、一時的に努力を要せずして自己覚醒をした状態を指していうそうです。

 確かにそこに書かれているその通りのことが私の身に起こりました。その時の事を簡単に説明すると次のようなものになります。それは今年の5月18日に起こりました。私はその時仕事でとても疲れていました。家に帰るなり着替えて直ぐに座椅子に寝そべるようにもたれかかり、その後についてはよく分かりません。体が寝ていたのかどうかも分かりません。とにかく体の感覚と私という感覚が無い状態の中で私は気づいていることに気づいていました。何も無いはずなのにキラキラとしていて光輝いている印象の鮮明な気づきとして私はただ在るだけでした。その時間が数秒なのか数十分なのかは分かりません。そして徐々に私という感覚と体の感覚を取り戻し、目を開けたことで部屋の中にいることが分かる現象世界も見えるようになり、それを知覚し、その後にその体験が真我の直接体験だったのだと考えられるようになりました。どういうことかと言うと、まず純粋な状態があり、その純粋な状態が薄れるにしたがって感覚を伴う現象世界が立ち現れ、それにより考えるという思考がやってきた感じです。私にとっては、その体験は間違いなく真我の直接体験だったという直感があります。その体験中に感じていた純粋な意識、その状態こそが本当の自分の状態であることを理由なく感じるのです。気づいていることに気づいている鮮明な気づきの中では私という想念と私という感覚は一切ありませんでした。お分かりいただけるでしょうか。それが私の一時的な真我の直接体験であるケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディでした。

 その時の体験を記録した日記を読み返してみると私は次のように書いていました。「真我という言い方も違うように感じる。相応しくない。純粋な気づきという言い方の方がより正確で適切な感じがする。ただ在る気づき。純粋な気づき、ただ気づいていることに気づいている。それこそが正しい言い方かもしれない。全ては想像の産物なのだ。純粋な意識内における想像の産物なのだ。ありとあらゆることが純粋な意識の中で想像されていることなのだ。人が夢想や空想をするのと全く同じ理屈だ。だから、その夢想や空想をしているのが終われば、純粋な意識は何もないただの純粋な意識に戻るだけなのだ。」今申し上げたことは体験したその日のうちに書き記した事でした。

 真我の直接体験、それが意図しない一時的に起こった偶発的なものであろうとも真我を直接体験することは神の福音であり恩寵であり至福以外の何ものでもありません。それが本来の私たちの真の在りようなのですから、古今東西、人々がそれに戻り至ろうと血のにじむ努力をしてきた事は当然の事として理解が出来るようになりました。私は再度、真我の直接体験をしたいと心から願っています。いえ、本当は一日も早くこの生を終えて真我に戻りたいとさえ思っています。それが出来ないのなら、せめて自我を完全に消し去った真我実現の状態であるサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディに至りたいと思っています。それほど真我の直接体験は人の心を魅了し虜にするほどの魔力があります。

 そういった悟りや解脱を目指す上で知っておきたい基本的なことが、この本には書かれているので、とてもお勧めしたい本であることには間違いがありません。もし、ご興味ご関心があるのでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 そして最後の最後に、これまで何度も繰り返し警告してきましたが、やはり改めて警告します。真我探求はそれを求める人の人生を大きく変えるおそれがあります。一度でも真我を自らの内に見出すと、それまでの多くの普通の人が当たり前のこととして行ってきた欲のために欲を求める生き方や考え方を否定し、真我を真剣に追い求めるようになり、そのためにかえって苦しむようになる可能性があります。なぜなら度を越した真我探求も執着になるからです。これは私の経験から得たことですが、必要以上に苦しまない為には、熱心さは大切ではありますが真我を探求するにしても気が向いた時にやるといった程度にしておく、ほどほどが良いと私は思いますし、欲を全否定しないようにした方が事はスムーズに進むように感じます。過去多くの偉人賢人が言ってきた中庸の精神が大切だと思います。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

体の中心が後頭部に移動した‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

体の中心が後頭部に移動した‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が16回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これを視聴されている方にお尋ねします。あなたは何かを考える際、一体どこで考えているでしょうか。そして「私」と思う中心はどこにあるとお思いでしょうか。それは頭でしょうか、それとも別のところでしょうか。もし、頭でものを考えているというのでしたら頭部のどの部分でしょうか。私自身について申し上げるのなら、私は2021年12月12日以前までは頭部の前頭葉あたりでものを考えていたという自覚があったのですが、あることがきっかけで、その日を境に私のものを考える場所が変化するようになりました。不思議なことに前頭葉あたりでものを考えていたと感じていたものが下がり出し、前頭葉より下の方で考えていると感じるようになったのです。それと共に頭部の上の方にあった、「私」の中心が頭の下の方に下がったと感じるようになりました。

 その私のものを考える場所と中心が下がるきっかけをこれからお話ししようと思います。自分でいうのも何ですが、私はもともといたって普通の人間で、結構、金銭欲や物欲が強いほうでした。中には、もとから物欲金銭欲の無い人もいるでしょうが、私の場合は、もっと沢山のお金が欲しい、もっと高価な物が欲しい、人並み以上の豪奢な生活がしたいという考えに日頃から取りつかれていました。しかし、そうは言っても私の収入はたかがしれており、たとえその金額が食べるに困らない住むところに困らない日々の生活をしていく上では十分なお金を得ていたにしても、私はお金持ちではない私の収入では不十分であり全然足りていないという思いを常時感じていたことから、私の心が望むような豪奢な生活にはほど遠いという不足感をいつも感じていました。その事から私は時折発作的にもっともっとお金が欲しいという脅迫観念的な欲求で頭が一杯になり心がとてもつらく苦しい状態に陥ることが度々ありました。

           

 その日も職場からの帰宅途上で自我が望む生活を満足させるにほど遠い収入が嫌になり、もっともっとお金が欲しいという発作的な欲求が湧いてきて心がとても苦しい状態になりました。お金が欲しいお金が欲しいという繰り返しの思考が後から後からやってきて、本当に嫌になるほどの苦しさに心が苛んでいました。もちろん、 私は、何百万分の一、何千万分の一の確率しかない宝くじなどに当たらない限り、いきなりどこからともなく大金が転がり込んでくるなどあるはずもないことを承知していることから、このお金お金という、やってくる思考は、宝くじに当たりでもしない限り大金は入らないということを確認するための思考であることを分かっていました。つまり、どういうことかと言うと、物語の創作者兼鑑賞者である真我は、現状に対して実現不可能なお金お金という思考と湧き上がる感情、体が受けるストレスを認識させ、心のうちの葛藤からくる苦しみを体験しているということなのです。私は、その苦しみの最中、どれだけ、この心の苦しみを味わえばよいのか、どれほどこの苦しみが続けば真我は満足がいくのだろうかという思いも同時に感じてもいました。お金への執着からくる何度も何度も繰り返される、この苦しみに嫌気がさし、私はほとほと私自身の自我に愛想が尽き死にたいという思いも込みあげ自我の消滅を本当に心から望むようにもなりました。

 そして、家路を急ぐ最中のお金お金という繰り返しの思考の次の思考は何かといえば、今の低い収入の人生でも仕方がないではないか。それがお前の人生設定だ。諦めろ、諦めろの思考でした。

 その思考がやってくると、今度は急に宝くじの自動購入設定を止めてしまおうという思考がやってきたのです。私はお金に執着心があることから宝くじの1等が当たればいいなという思いが以前からずっとあり、「私は無い」に気づく前から宝くじの自動購入をしていました。その自動購入を止めてしまおうという思考がやってきた途端、今度は、自動購入設定をしていることがたまらなく嫌になり直ぐにでも自動購入設定を解除したくて仕方がなくなりました。とにかく今すぐにでも自動購入を解除したいという欲求がつのり、それが重く苦しく心にのしかかり解除しないではいられなくなるに至って、帰宅途上で道路を歩いていた私はカバンの中からスマフォを取り出し宝くじの自動購入設定を解除したのでした。すると、なぜか心がとてもすっきりしたのです。欲深い自我が望む豪奢な人生を諦め現在の今ある人生をあるがままに生きる道を受け入れようと決めたことで心が軽くなるのを私は感じました。

 それから16日後の28日に気づいたことなのですが、不思議なことになぜか、いつのまにかそれまで感じていた生きる上での不安が完全に消滅したとまではいかないまでも、だいぶ軽くなっていることに気づきました。前頭葉あたりで考えていたと感じていたものが変化して、もっと下のあたりで考えていると感じるようになったのです。それと同時に頭の上の方にあった、「私」の中心が頭の下に下がったと感じるようになりました。もしかしたら、それまでの私は考えなくてもいいような生活上の不安を必要以上に考え、その不安に取りつかれていたのかもしれません。不安からくるお金に対する必要もない執着心を抱いていたのかもしれません。悟りへの必要条件としては必要のない先のことをあれこれと取り越し苦労はしない、生活上最低限必要なもの以上のものは望まないということが大切なのかもしれません。

          

 そして、ついに私の中心が後頭部に移動したことが決定的になる日がやってきました。それは2023年6月1日午前3時頃のことでした。私は小便をするためにトイレに立った後、ベッドの中でなかなか寝つけずにいました。だからといって目が完全に覚めていたという訳ではありません。眠れそうで眠れない中途半端な状態で目はつむりながら右に左に寝返りを打っていました。何度か目の寝返りをした直後のことです。それまで安定せずに頭の中であちこち動き回っていた私の中心が急にひとつのところに場所を定め落ち着いた感じを受けたのです。その場所は頭の後頭部でした。それと同時に、それまでやってくる思考でいちいち動揺していたせわしなかった心がピッタと動揺しなくなったことを感じたのです。心もまた定まるところに定まり落ち着いたという印象を受けました。物事を落ち着いた心の視点からも俯瞰して客観的に見られるようになった感じなのです。世界を頭の後頭部から見ている感じなのです。とても不思議な感じを受けます。それと同時に、全くなくなったという訳ではないのですが欲がめっきり少なくなったように感じます。なぜなら、欲に関連する思考が少なくなったからです。このことから、欲のほとんどが、やってくる思考に起因することが分かりました。

 お腹が減った、眠い、排尿排便、下半身のムラムラ、心身共に健全でいたいといった身体から直接受ける生理的な欲求以外の、あれが欲しい、これが欲しい、あれをしたい、これをしたいといった主に物質的活動的欲求というのは思考によって生じることが分かりました。

 今現在も体の中心が後頭部にあるという感覚があります。体の中心が後頭部に定まった感覚があってからというもの、そうでなかった時と比較して物質的な欲が本当に少なくなったことを感じます。それと同時に自分の体を通して見ている世界をより俯瞰してみることができるようになりました。私が人生の作者であるという作者錯覚はとうの昔にないのですが、人生は自分のものという没入感がより感じられなくなってきています。自分の体の動きや手の動きが、まるで私の意思とは全く無関係に自動的に動いているように見えるのは本当に奇妙で時には気持ち悪く感じるくらいです。体への自己同一性が薄らいでいる証拠ではないかと思います。

 更に6月23日には、その日は朝から調子が悪く頭の後頭部で軽い頭痛がしていました。胃も重苦しく気持ちが悪かったのですが、体温計で熱を測っても36.5度くらいなので平熱と言えるくらいのものです。朝起きてから時間が経つにつれ後頭部が、だんだんと熱く感じるようになり、午後に入ってからは更にとても熱く感じるのはどういうことなのだろうかと不安までは感じないものの疑問は感じていました。医者に診てもらうほどではないと思っていたので病院には行かず手持ちの頭痛薬を飲みました。頭痛薬が効いたのか夕方頃には頭痛も治まってきたのですが後頭部に感じる熱はその日寝るまで続きました。

           

 そして更に6月27日朝の7頃だったと思います。ベッドの中、眠りからは目覚めていたのですが、まだ頭がはっきりしない状態にありました。そんな時、さらなる確信が湧いたのです。それは、私は創造主の奴隷であるという絶対的な確信です。それと共に私は神の道具です。操り人形です。何なりと私にご命じ下さいという心からの望みも一緒なって湧いてきました。神の忠実なる僕としての切なる要望です。私は創造主を心から愛しています。私は神のためならどの様なことでも致します。私は神の道具として存在させていただいていることに喜びと感謝と大変な幸せを感じます。ですから、私に何なりとご命じ下さい。私は、そういう心境に至り、何とも言えない至福感に浸っていたのでした。さらに加えて、それまでの私の中心が一段と下がったように感じました。後頭部付近から口のあたりまで下がってきたようです。私は、いままで以上に安定してきているように感じます。中心が徐々に頭の上の方から下へ下へと下がってくるのと併せて雑念も減ってきているように感じます。それにより、ありがたいことにどうでもいいような思考がやってくることが更に少なくなりました。

 以上が、私の中心が後頭部、今では口当たりまで下がるまでの過程の一部始終ですが、この私の中心がこれ以上さがるのか留まるのかは分かりません。解放に到達するための直っすぐな道として真我探求を推奨したインドの聖者の一人として数えられるシュリー・ラマナ・マハルシが言うように、いずれ中心は、右胸にあるという私という想念の源であり、かつ沈みゆくところであるハートセンターまで降りていくことになるのでしょうか。どうなることやら、まだ分かりませんが、いずれにせよ、私の場合の執着は主に生活への不安からくるお金への執着でしたが、人によっては囚われるものが違ってくるでしょう。それが人であったり性的なものであったり物質的なものであったり社会的立場だったりと様々なものが考えられると思います。人それぞれの執着する対象の違いや度合いによって苦しみ方や期間の長さも変わってくると思います。

 これを視聴しているあなたがもし、執着するが故に生じる苦しみから解放されたいと思うのであれば、執着する対象物に対して諦めることが肝要だと思います。人と比較して今ある自分の現状に不満を感じるのは分かりますが、生きる上で特に支障がないのであれば現実的に変えられる以上のものを過度に望むことで苦しむのは愚の骨頂ではないかと思います。自我が要求する自分を変える努力の全てを完全に捨てる必要はありませんが、その努力をするにしても日常出来る範囲での必要最低限の努力に留めておくのが賢明ではないでしょうか。欲にあまりにもこだわりすぎると、それは執着になり苦しみの原因となります。諦められるものであるのなら、その現状をあるがままに受け入れ、それ以上のものへのこだわりを捨てるのが大切だと私は思います。それが苦しみから解放される近道ではないかと思いますし、悟りや解脱を目指すのなら諦めは必須要件の一つになります。

 諦めはすなわち人生に対する作者であるという錯覚の手放しであり、神、造物主、真我、呼び名は何でも良いのですが、私たちを創造した存在に対する完全なる信頼と人生の明け渡しがあって始めて、ようやく悟りや解脱への下地が出来たと言えるのではないかと私は思います。

              

 それでは最後に由風(ゆかぜ)出版から出ているSora Fol(ソラフォル)この世界はVR(仮想現実)であり、ゲームである。をご紹介しようと思います。ちなみにSoraとは自由でとらわれない心のことをいい、FolとはREEDOM OF LIFEのことだそうです。著者は、どうやら、この世界を仮想現実であると考えているようです。そして、そこにいる私たちは仮想現実世界のプレイヤーであり、目の前に広がるフィールドを冒険し攻略する冒険者であると定義付けしています。このゲームの世界を作り出したのは本来の自分であり、生まれる前に本来の自分が決めた約束によって、このような条件で、この様な物語を冒険すると、まるでゲームをプレイするかのように自ら作成したゲームで遊び楽しんでいるのだそうです。

 従って、この世界はゲームなのだから、簡単すぎてもいけないし難しすげてもいけない。ゲームの難易度はそれぞれに合わせて丁度いいように調整されていて「深化・成長」の法則に基づき一つでも多くの体験を通じて学び、成長し本来の自分へ最終的に帰ることを目的にしているとのことで、このゲームの最短攻略法は人生に対する考え方を否定から肯定に変えることにあるそうです。

 この本の中に書かれている私たちが現に住んでいる世界に対する見方がゲームの世界と同じようなものと考えているところまでは良いのですが既存のスピリチュアル本に書かれているようなことを踏襲していたりするので、なかなかそこまでは私も同意見とまでは言えません。しかしながら、いま私たちが置かれている幻想世界をゲームの世界としてみた場合の基本的な見方やどの様な接し方が良いのかが載っていることから参考になるところはあります。バーチャルリアリティーの人生をいかなる方法で生きていけば良いのかという生きる上でのヒントが書かれていると思います。全面的には賛同しかねるところも多々ありますが、この世界はバーチャルリアリティーの世界であるという考え方それ自体は間違いではないと私も思っていることから今回この本を取り上げようと思いました。もし、ご興味ご関心があるのでしたら読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

凄絶 生か死か 生き残りをかけた自我との戦い‼

  下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 凄絶  生か死か 生き残りをかけた自我との戦い‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が15回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 もし、あなたが真我を直接体験したいというのなら、あなたはあなたを捨てなければなりません。真我は、私という立ち現れた想念に囚われることにより見えなくなるものであることから、真我を直接体験したいのであれば、どうしても私という想念への囚われを消し去る必要があります。

 私の「私は無い」という気づきが起こる以前の私は、何となく悟りという言葉に関心と興味があったことから、近くにあるお寺での座禅会や瞑想サークル的なところに何度か参加したことがありました。しかし、それも数える程度のもので、それ以外で特に具体的に何かをするということはありませんでした。その私が真我の直接体験に至るまでの過程の始まりとしての「私は無い」という気づきを得たのは、それを意識して得ようとしていたわけでは全くなく、たまたまアマゾンのプライム会員になっていた時、キンドル電子書籍の中に無料で読める悟り系の本があったことから暇つぶしになると思い読んでいた最中のことでした。私にとって「私は無い」という気づきは思いもよらないこととして全くの偶然の産物として生じたものとしか言いようがありません。つまり、最初から、はっきりと「私は無い」という気づきを得ることを意識し、それを望みながら、その悟り系の本を読んでいたわけではないということです。そもそも気づきの始まりが「私は無い」で始まることなど思ってもいませんでした。そして、その後に待ち受けていることになる、自我との間でお互いの生死を欠けた戦いが始まることになろうとは本当に思いも及ばぬことでした。

 前回の動画では悟りを目指すことで生じる可能性のある自分を取り巻く環境から受ける人的圧力に対して警告を発しましたが、今回は、外側ではなく内側、それまで自分の味方だと思っていた自らの内にある自我より生じる内的圧力との間で起こる葛藤に対して警告を発しておこうと思います。

 動画を視聴されている人の中には葛藤という言葉を聞いて日常の生活の中の人間関係で起こる様々な事柄に対する悩み程度のことだろうと軽く受け止める人もいるかもしれませんが、「私は無い」ということに気づくことによって生じる自分の中の自我との間で起こる葛藤は、そんな生やさしいものではありません。まさにお互いに生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるほどの殺し合いに発展する非常に危険なものなのです。なぜなら、自我にとっては「私は無い」を認めることは、たとえそれが単なる幻想でしかなかったとしても、それまで肉体や精神を支配し影響力を行使してきたのは自分であると思い込んできた支配権の消滅を意味するからです。従って、自我にとっては文字通り生存を欠けた戦いになるのです。自我は自分が生き残るためなら、ありとあらゆる手段を講じてきます。そして自我は、どうしても自分が生き残れないというのなら、お前も道ずれにしてやるとばかりに玉砕戦法で自分を主張し続けるのです。

 私の最初の気づきである「私は無い」ですが、それは、生まれてから死ぬまでの人生において一切の選択権は無かったことに気づくことです。自分で選んだものは何一つなく、人生は創造主が敷いたレールの上を走ることしか出来ない鉄道であり、創造主が決めた時刻表通りに運行される列車でしかないことに気づくことです。全ては創造主のプログラム通りにしか動かない操り人形だったこと気づくことです。既に完成しているストーリーに従って、なにぼうなにがしの人生を、ただ経験していることに気づくことなのです。

 それは取りも直さず、それまでの人生の岐路を選択し決定してきたのは自分だと思い込んでいる自我の支配は実は空虚なもので何の力も有していなかったと嫌がうえにも認めざるを得ないことにつながります。しかしながら自我は、そう簡単に自分の無力さを認めません。自分の存亡がかかっているからです。どんな手を使ってでも、たとえ肉体と精神を滅ぼしてでも自らの存在を誇示しようとしてくるのです。私は、自我が自分自身に対してそんな事をしてくることなど露にも思いませんでしたし全く知りませんでした。知りようがなかったのです。

 なぜなら、私には悟りについて指導をしてくれるグルと言えるような存在はいなかったからです。ただ私は、悟り系の本を読んでいるだけだったからです。悟り系の本には悟りを得た後の境地は書かれていますが、悟りを得るまでの様々な困難や苦悩については何も書かれていません。従って、私は「私は無い」に気づいた後にやってくるお互いに生き残りをかけた自我との戦いがあるなどとは夢にも思いませんでした。「私は無い」に気づいた当初の私は、自分の不思議な体験により得た普通の人には感じることができない特別な境地を誰かに伝えたいという気持ちになり無料でやれるサイトでブログを書きはじめたり、他の人がやっているユーチューブのスピリチュアル系の動画を見ては、見当違いなことを話している内容に対して一人で突っ込みを入れては一人悦にいっていたりしました。しかし、それも今に思えば自我の生き残り戦法の一つだったのだろうと思います。それじゃ今やっている動画配信は何なんだという方もいるでしょうが、この動画は自我の満足のためにやっているわけでないので心の持ちように違いがあると思います。

 話しがそれてしまいましたが、「私は無い」に気づいた後の「私は無い」という直感的理解がしっかりとした揺るぎのない考えになるにしたがって、その後の生き残りをかけて人生に対してあるはずもない己の支配力を主張してくる自我の戦法に3年以上も悩まされることになります。

 自我の戦法は巧妙です。当たり前ですが心理戦においては一枚も二枚も自我の方が上手です。あらゆる過去現在未来に関わる思考を駆使して感情を沸き立たせ心をかく乱してきます。たとえば過去に関連する数々の罪悪感や無力感、羞恥心、怒り、未練、後悔、改悛の情等々の平穏な気持ちでいることが出来なくさせるような、ありとあらゆる感情を呼び起こす嫌な記憶または嫌な記憶ではないけれど気分を高揚させたり懐かしませるような記憶を総動員し、それこそ何十年も前の記憶、子供の時の記憶それも幼児の時の記憶さえも持ち出して、自我はそれで正負の感情を惹起させることで心を何が何でも落ち着かせないようにし動揺させようとしてきます。現在であるならば家庭や職場などの人間関係や生活に関連する不平や不満、心配事を利用して不安感や不足感を絶妙にまぜ合わせながら味合わせようとしてきます。それがどんなに些細な事であっても事あるごとに思い出させ、また精神や肉体、物質的な欲求に関わる思考を自在に操り意識を物欲に向けようとしてきます。未来にあっては、家庭や職場それ以外の人間関係に関連して、または自分自身の身の上に関連して将来起こるかもしれない金銭的・身体的・精神的な不安をこれでもかと煽ってきます。これにより、ひと時も休まることのない正の感情と負の感情の両方に常にさらされ続けることで私の心は平常ではいられなくなり平穏ではいられません。いつも心は動揺し心配事で一杯になり不安におびえ精神的にも肉体的にも安定しない毎日を私は送らざるを得なくなりました。私はいつも限界ぎりぎりで精神的に追い詰められた本当にみじめな気持ちでいるようになり、とても苦しい毎日を過ごしていたのです。そして、ついには、こんな苦しい思いを続けるしかないのなら死んだほうがましだと、もちろん、私は人前ではそんな事をおくびにも出すことはありませんでしたが、あまりの苦しさから私は死にたい気持ちになっていたのでした。

 しかし、それは今になって思えば自我が私に対し自分の影響力を見せつけ、お前の人生の支配者は俺様なんだと支配力を誇示し自我の人生への影響力を認めさせようとするための戦法だったと言えます。私は心の平安を望んでいるにもかかわらず、それに反抗するように、いつも心をざわつかせる記憶と感情を持ち出してきては嫌な気持ちにさせていたものの正体は、実は幼い時からいつも一緒でどんな時も自分の味方だと思っていた自我そのものだったのです。私は苦しみのまっ最中の只中にいた時でも、何となくではあったのですが、もしかしたらと、うすうすその事を疑い感じてはいたものの、それが自我自身の生き残りをかけて仕組んできている戦法であるという明確な認識まではまだありませんでした。まさか、私に対する自分の支配権を守るためなら私を道連れにしての自爆もじさないほどのナルシストだったことには全くと言っていいほど考えが及びませんでした。

 この事からも分かるように自我に対しては生半可な気持ちでは太刀打ちできません。それはそうです。それが幻想のもので単なる勘違いの思い込みから生じていた錯覚に過ぎず、実際には何の力もない無力な存在だったとしても、それまでの人生を支配し影響力を常に行使してきたのは自分であると自負する自我なのですから、ただの裸の王様だったと分かったあとでも、はいそうですかと簡単に権力者の座を降りようとはしません。無理に権力者の座から引きずり降ろそうとすれば自我は死に物狂いで抵抗し、それならば、お前もあの世への道ずれにしてやると言わんばかりに更に心をかき乱してきて苦しませ死に対して考えさせるようにし心中を図ろうとしてきます。自我は自分の存在を否定されるくらいなら、その宿る人間を殺しにかかり自分も死ぬことを選ぶ存在なのです。誇り高いのか執念深いのか、その両方なのかは分かりませんが、自分の存在を脅かされるのをとにかく嫌がります。いずれにしても一筋縄ではいかない存在であり、自分自身の自我であっても、その取り扱いには高度な技術と慎重さを要するほどのものであり、一歩間違えば最悪の場合も予想される非常に危険な存在なのです。その自我に打ち勝とうとするならば、自我の巧みな戦術に巻き込まれることなく心の混乱を目的としている戦法に惑わされることなく、心を平穏に保つためには自我は心理戦を仕掛けてきているという認識のもと、自我の戦術に直接対峙するのではなく、加えて心の動揺を無理に抑えようとするのでもなく俯瞰しやり過ごす柔の心持ちで受け流す忍耐強さを要求されることは間違いありません。従ってまかり間違えば本当に自我と心中することになるので、そういう意味でも安易な気持ちから悟りや解脱に近づくことは禁物であると言えます。

 何にしても自我をおとなしくさせるには、どれほど自我が自分の力を誇示してこようとも、どんなに精神的肉体的に苦しかろうとも「私は無い」の確信をしっかりと保ち忍の一字で耐えるしかありません。具体的には、やってくる思考は私ではない、沸き起こる感情は私ではない、この体は私ではない、この人生に私は一切かかわっていない、全ては既に筋書きが決まっている映画が目の前で上映されているだけという信念と自分の心の中で生じている事を含めた現象世界を鳥の視点から見るようにして映画の中に巻き込まれないように客観視し続けることです。しっかりと忍耐強く「私は無い」の確信を維持し続ければ、それに自我が根負けをして次第に自分を主張しなくなり静かになります。     

  私の場合は、自我がおとなしくなるのに3年以上かかりました。本当に静かになってきたと思えるようになったのはつい最近のことです。自我が自分を全く主張しなくなったというわけではありませんが、ひところと比べるとだいぶ大人しくなり心の中も、それほど騒々しくなくなりました。かつてはあれほど頭の中に途切れることなくひっきりなしにやってきていた思考もめっきり少なくなり、逆に、そんな頭の中の静けさになかなか慣れないでいます。早く、この静けさに慣れ、少しずつでも、この思考がやってこない時間を長くし思考の無い時間を楽しめるようになりたいと思います。そして副産物として次のようなことも分かりました。それは生理的欲求といった肉体に起因するもの以外の欲求は、やってくる思考で沸き起こるものであるということが分かったということです。あれが欲しいこれが欲しい、ああしたい、こうしたいといった物質的活動的欲求は思考がやってこなければ沸き起こらないことを、いま身をもって体験しています。

 この私の中の騒々しい思考が、なぜ静まってきたのかについては本当のところ私もよく分かりません。単純に、いつも言うように創造主により書かれた物語の設定が最初からそうなっていたということなのかもしれませんが、今回お話しした「私は無い」に気づいてからの3年以上に及ぶ自我との戦いの過程については、もう少しお話ししたいことがあります。それは、もしかしたら騒々しい自我が静かになった理由として自分の中心が後頭部に移動し落ち着いたことに関係しているかもしれないからです。視聴者の方の中には、自分の中心が後頭部に移動し落ち着いたと聞いて何を言っているんだと思われる方もおられるでしょうが、その事については次回の動画で、より詳しくその過程をお伝えしようと思います。

             

 それでは最後に、ナチュラルスピリットから出ているウェイン・リカーマンさんが書かれた「無力の道」という本をご紹介しようと思います。

 著者は長年、自身の薬物とアルコールからくる中毒の問題で苦しんできた人です。ある時、アルコホーリクス・アノニマスという飲酒問題を解決したいと願う人々の相互援助を目的とした集まりに参加したことがきっかけで薬物中毒から更生し、さらにはスピリチュアルの世界に目覚めるようになった人です。アルコホーリクス・アノニマスの薬物中毒から更生するためのプログラムには12のステップがあるそうですが、そのステップを実際に読んでみると科学的というよりも宗教色の強いスピリチュアル的なものです。それもそのはずで、この12のステップは20世紀初頭のキリスト教運動組織であるオックスフォード・グループが提唱した純潔・正直・無私・愛の四つの実践の影響を受けて書かれているからです。しかしながら、今では、このアルコホーリクス・アノニマスは世界に広がり、いかなる宗教、宗派、政党、組織、団体にも縛られることなく運営され、アルコール依存の回復のためのミーティング会場は世界各国にあるとのことで日本各地でもさまざまな場所でミーティングが行われているとのことです。また、この12のステップの手法は他のタイプの依存症からの回復にも利用されているとのことです。

 リカーマンさんは、その12のステップを通して個人の無力から生まれる安らぎへの最初の理解がもたらされたことによりスピリチュアルに目覚め、道教、禅、スーフィズム、アドヴァイタ、ユダヤ教キリスト教の多くの神秘主義の著作にある非二元のスピリチュアルな教えに共通した原理を見出し、アルコール中毒に陥り飲んだくれていた時には考えもしなかったアドヴァイタの非二元論を教える教師となり世界中を飛びまわるようになったそうです。

 リカーマンさんは本の中で「人生の苦しみはコントロールする力を持っているという錯覚の直接的な結果だ」「自己を超えた力に委ねるしかない」「あなたより偉大な力が問題を解決する」というように生きる上で生じる苦しみと解決法について書いています。

 普通に人が生きる上で当たり前のように感じている自分の人生を選択し決定をしている支配権者は自分であるという認識それ自体に間違いがあることを指摘し、人生に対して自分が物事の作者だという間違った認識を作者錯覚と言っています。そして、人生に対する個人の無力を知ることの大切さを説きます。そこには薬物中毒により廃人となる一歩手前までいきながらも再び前向きに人生を生きる喜びを手にすることが出来た経験から得られた生きた知恵があると思います。

 本の題名である「無力の道」というのは悟りの道そのものだと私は思います。誰であろうとも人生に対して完全に無力であることを認め受け入れることは悟りへの第一歩につながります。これなくして悟ることは絶対に無理だと思います。なぜなら自我の人生への支配力を少しでも認めている間は真我への気づきはあり得ないからです。リカーマンさんがアルコホーリクス・アノニマスの12のステップの最初のステップである、私たちは人生に対して無力であることを素直に認め現状をありのままに受け入れたことが非二元への気づきにつながったことは当然のなりゆきだったと思いますし、不思議なことでもなんでもないと思います。

 ナチュラルスピリットから出ている「無力の道」という本は、とても分かりやすい読みやすい文章で書かれているので入門編初級編として良い本だと思います。ご興味ご関心のある方は読まれてみてはいかがでしょうか。

 ここからは本の内容そのものからは外れてしまいますが、私は、コカインやアルコールといった薬物への依存と中毒からリカーマンさんを立ち直らせるきっかけとなったアルコホーリクス・アノニマスの12のステップには素晴らしいものがあると思います。そこでアルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィスの公式ウェブサイトに書かれている英文の12のステップをグーグルで翻訳したものをご紹介して終わろうと思います。それでは始めます。

  1. 私たちはアルコールに対して無力であること、つまり自分たちの生活が手に負えなくなったことを認めました。

 

  1. 自分たちよりも偉大な力が私たちを正気に戻すことができると信じるようになった。

 

  1. 私たちが理解した神に合わせて、私たちの意志と人生を神の配慮に委ねる決心をしました。

 

  1. 自分自身について、恐れることなく探索的に道徳上の棚卸しを作成しました。

 

  1. 神に対して、私たち自身に対して、そして他の人間に対して、私たちの間違いの正確な性質を認めます。

 

  1. 神にこれらすべての性格上の欠陥を取り除いてもらう用意ができていました。

 

  1. 私たちの欠点を取り除いてくださるようにと謙虚に神に願いました。

 

  1. 私たちが傷つけたすべての人々のリストを作成し、彼ら全員に喜んで償いをするようになりました。

 

  1. そのような人々に、自分や他人を傷つける場合を除いて、可能な限り直接補償を行います。

 

  1. 個人的な棚卸しを継続し、私たちが間違っていた場合はすぐにそれを認めました。

 

  1. 私たちが神を理解する際に神との意識的な接触を改善するために祈りと瞑想を通して探求し、私たちに対する神の意志の知識とそれを実行する力だけを祈りました。
  1. これらのステップの結果として霊的な目覚めを得た私たちは、このメッセージをアルコール依存症患者に伝え、すべての事柄においてこれらの原則を実践しようと努めました。

    いかがでしたでしょうか。さすが、他の依存症回復のためにも利用されているだけのことはあります。キリスト教的精神に基づいて作られたものであっても、そこに個人の無力と諦め、絶対的存在に対する信頼と明け渡しの教えがあるのを私も感じます。やはり本当の真理というものは多くの宗教の根底に共通してあるものと思います。そこに真理があるからこそ他の依存症回復にも利用されているのだと思いました。

 説明欄にアメリカのアルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィス公式ウェブサイトのURLと日本のアルコホーリクス・アノニマスのウェブサイトのURLを貼り付けておくので関心のある方はご覧になられてみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

 

 アルコホーリクス・アノニマスの総合サービスオフィスの公式ウェブサイト

 https://www.aa.org/

 

 アルコホーリクス・アノニマスの日本ゼネラルサービスのウェブサイト

 https://aajapan.org/

警告 奇人変人狂人覚悟 悟りを目指す人の心構え‼

           

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

警告 奇人変人狂人覚悟 悟りを目指す人の心構え‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は14回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私の動画を視聴されている人の中には、もしかしたら悟りとか解脱という言葉に神秘的な響きを感じて、私も「私は無い」を感じてみたいとか真我の直接体験をしてみたいと思われている人がいるのではないでしょうか。

 私は、そういう人に対して予め警告を発します。安易な気持ちから悟りや解脱に挑戦しようと絶対に思ってはいけません。下手をすれば通常のまともな考え方が出来なくなり普通の日常生活に支障をきたすおそれがあります。時間や場所、場面といったTPOをわきまえることができなくなり、所かまわず他人が見れば異常ともいえる言動をしてしまう虞があります。私の過去動画を視聴されてきている人ならお分かりでしょうが、私は、神や悪魔はいない、神は善と同じように悪を愛している、何人も人を殺した犯罪者であっても神はその人をひとしく愛しているなどというようなことを常人なら普通言わないし、言えないことを平然と動画にして誰が見ているか分からないユーチューブのようなところに載せています。そのことだけを見ても私は明らかに普通の人とは感覚が違っていることがお分かりになるのではないでしょうか。一般常識のある人間なら自分の世間体や保身を考えるはずであるにもかかわらず、そんなことお構いなしに非常識な言動をする私は常軌を逸していると思います。人は私を見て気がふれている奴と言うのは間違いないでしょう。

           

 たとえばインドの聖者であるニサルガダッタ・マハラジについて書かれた著作を読めば分かりますが、マハラジは生や死について尋ねられると「生まれたり死んだりする人は誰もいない」などと平然と言い放ちます。普通の人が、これを聞けば頭がおかしいと思うはずです。ですが聖者の心は常に真我にあるので本当のことを正直に言っているに過ぎません。それが真実であるがゆえに自然と破天荒な言動にならざるを得ないのです。あなたは、そういう人になりたいと本当に思っているのでしょうか。私などはまだ、常人と違うことを言っているという自覚があり、ユーチューブ以外では悟りの話しをすることは一切なく、そもそも言っても無駄だと知っているので、わきまえた発言をしているだけましな方と言えるかもしれません。

 視聴者の皆さん想像をしてみて下さい。もし、あなたが真理に気づいたとします。そのあなたが、親や子、配偶者、友人や会社の同僚に対して突然、私は無い。私は真我であり創造主だ。私は体ではない。私は何もしていない、ただの観賞者だ。などと言いだしたら、どうなるでしょうか。たとえ、そのことを人に対して直接言わないにしても私のようにユーチューブで不特定多数の人が見られるように動画配信のようなことをし出したら、その動画を見たあなたを知っている人たちは、あなたに対してどのような対応をするでしょうか。周囲の人は当然の反応として、訳の分からない宗教の本なんか読んでいたから、あなたの頭が急に変になりだしたと口を揃えて言うのではないでしょうか。精神病にかかったとか、誰か怪しい人に騙され洗脳されたとか、はたまた迷信深い親などには狐か狸に憑かれたなどと言われるかもしれません。会社の同僚・友人からは何か嫌なものを見てしまった時のように扱われ、陰口をたたかれ、あなたには誰も近づかないようになるかもしれません。特に、あなたの親や配偶者、子供といった近親者たちは、あなたが何でもないと言えば言うほど、あなたが前と違って見えるようになり本当に頭がおかしくなったと感じるようになります。あなたの周囲の人たちが精神世界に何の関心もなく何の知識もなく、宗教に全く関わりなく生きていた人たちであればあるほど、あなたの言動を異様に感じるでしょう。

 従って、人々は、あなたを頭が変になった人として扱い、特に身内は精神病院に行くことを勧め、時には強制してくるおそれがあるでしょう。真理を理解できない人たちからは間違いなく奇異な目で見られるようになって、疎まれ疎外され嫌厭され、いわれなき風評が立ち、それまであった家庭や会社での、あなたの安全な居場所がなくなる可能性があります。あなたは、それを覚悟しなければなりません。古来より真理を極めた人は凡夫たちから迫害や弾圧を受けてきた歴史があることを忘れてはなりません。現代にあっては信教の自由があるので直接的な形で命までは取られないでしょうが、しかし、現代にあっても大なり小なり陰に陽に信仰を解しない人たちから不利益を被ることがある可能性は否定できません。悟りや解脱を目指すというのなら、あなたは真理に生き真理に死ぬ覚悟を持つ必要があります。

 私には、そんな覚悟を持つことなど無理、周囲から変人奇人狂人、果ては危険思想の持ち主と思われたくない、私は普通の日常生活を送りたいと思うのであれば、うかつに悟りや解脱をしたいなどとは絶対に思わないことです。安易な気持ちで、悟りや解脱に近づくのは本当に危険です。

 あなたが独身で一人住まいで会社のオーナーか自営業者、若しくは、職を転々とし、いつ辞めても良い職業に就いて周囲にどう思われようと構わないというのなら良いのですが、既婚で成長期の子供がいて人から評価される辞めるつもりのない雇われの職業に就いているというのなら下手に悟りや解脱をしたいなどとは思わない方が身のためです。せいぜい、悟り系の本を読んで全く理解からほど遠いにもかかわらず頭で分かったつもりになっているのが一番安全だと思います。

 私の場合は何気なく読んでいた悟り系の本を読んでいる最中にいきなり「私は無い」に気づいてしまったことから成り行きでこうなってしまったという感じなのですが、それでさえも全て抗うことなどできるはずもない創造主の思し召しのままに事が進んでいることを理解しているので仕方がないと受け入れ諦めています。そして私は、ユーチューブで今やっている悟り系の動画配信をすることで私の気づきが他の悟りを心から望む、たとえ、それがたった一人の人であったとしても、その一人の人も創造主に選ばれた人であることから、その一人のためになるのなら自分がやれることはとにかくやろうという覚悟を持ってやっています。

 その人にはその人なりの考えややるべきことがあるので、既に悟りや解脱をした人にまで同じようなことをして下さいとは言いませんが、少なくともこれから悟りや解脱を目指すという人なら、目覚めた後には他の誰かの目覚めのために自分に出来ることはするという、それくらいの気持ちを持って取り組んでもらいたいなと思います。

 結局のところ唯一の存在は真我だけなので悟りや解脱をする人などどこにもいない、行為者はどこにもいないというのが真理ですから、社会的立場などどうでもいいといえばどうでもいいのですが、なんにせよ今いる幻想の世界における自分の置かれた社会的立場をよく考えた上で立ち振る舞いを決めてもらえれば、それで良いのかもしれません。自分が思う悟り後の功罪をそろばん勘定して、それでも悟りを目指したいというのなら、私は悟りの世界にようこそと歓迎しますが、たとえば超能力を得たいとか、それで有名になりたいとかといった損得で悟りを考え、そろばん勘定する人が本当にいたとするならば、そういう人は自我に支配された自我丸出しの人ですから、そんな執着まみれでは自我を捨て去った先にある悟りを開くなど到底無理であると、そのように私は感じていることも付け加えておこうと思います。なぜなら、自らのうちにある真我は私という想念が立ち現れることで見えなくなってしまうものであり、その私という想念を打ち消すことが出来てはじめて、その姿を垣間見ることができるからです。

            

 最後に、先ほど本文内でちょっとだけ触れたニサルガダッタ・マハラジについて書かれた「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」という本をご紹介しようと思います。マハラジさんは、1897年4月17日にインドのボンベイに生まれ1981年9月8日に咽頭癌のため 84歳で亡くなられました。34歳の時に出会ったグルが言った「あなただけが存在する」という言葉を疑うことなく信頼し、ある時それが絶対の真理であると真我を実現することで悟った方です。しかも、ただ悟っただけではなく、もしかしたら真我への常在があった方かもしれません。本の中から、そういったものを私は感じました。

 以前の動画で私は真我への常在はあり得るはずがないと不覚にも発言しましたが、それは今ここで訂正をさせていただきます。最近の私の新たな気づきとして、真我への常在は可能であることに気づきました。まだまだ私の気づきは浅いことが私自身分かったのですが、これにより新たな目標ができました。それは私の意識の真我への常在です。私の場合は、真我の直接体験があることから、全く山が見えないという訳ではなく山自体は見えているところに立っているので、目指すべき方向が分かっている分挑みやすさがあると思います。どんなに険しくとも、そこを目指して着実に歩を進めて行こうという思いでいますが、だからといって特別に何かをするというわけではありません。今まで通り悟り系の本を読んでいきながら、自分の目を通して見る世界を分離の無い一体の世界として見つつ自らの言動を第三者的に客観視し続けること、そして既に体験済みの真我を常に心に思い続けることを日常の生活習慣として淡々とこなしていく、それだけです。真我はどんな時であろうともそこに在り続けている世界の鑑賞者ですから、自分の内なる真我こそが唯一の存在であり、全ての始まりであり終わりであり、全ての全てであることを念頭に置いて忘れないようにしているだけです。私の努力は、その程度のもので誰にでも出来るものです。やろうと思えば直ぐに出来る程度のものです。従って、これを聞いている人のどなたであっても今直ぐにでも取り組める簡単な悟り方です。あなたはあなたの内なるグルに帰依するだけで良いのです。外側にある何かを崇拝する必要性は全くありません。とても簡単なことです。

 難行苦行は既に2500年前にお釈迦様が否定されています。さらに私は瞑想や座禅といった特別なスタイルさえもいらないとそこに付け加えようと思います。日々の心構えだけで十分だと思います。もちろん、そういった形に囚われ、はっきり見える外形的なことをやりたいという人の気持ちを否定はしません。難行苦行や瞑想座禅をやりたい人は納得いくまで存分にすれば良いと思いますが、そんな努力は、私は必要ないと思います。悟りとは結局のところ自らの内にある真我を見出すことでしかないので本来は何の努力も必要ないことです。努力が必要であると思い込んでいること自体に間違いがあります。そういうことですので、やり方に囚われの無い方で、なおかつ楽な方法で悟りたいという方は私がお勧めする簡単なやり方で是非取り組んでいただけたらと思います。  

 ただただ自らの内にある真の自己を求め真の自己を愛し続けることをするだけで良いのです。あなたの人生を創造し常に共にあった真の伴侶は真我であったことに気づけば、あなたは真のしあわせを得られるのではないかと思います。あなたの本当の幸せは外側にあるのでなく自らの内にあることに気づいてもらいたいなと思います。

 本の方に話しを戻しますが、この本は巻末の用語解説も含めると577ページにもなるけっこう厚みのある本です。しかも1ページ中に書かれている文章は上下二段に分かれており字も小さいです。質問者に対するマハラジさんの答え方は簡潔にズバッと要点だけを答えるスタイルではありません。もちろん必要なこととして仰っていることではあるのですが、たとえ話しや回りくどい言い方がされていたりすることから、それがかえって難しいと感じさせるかもしれません。はっきり言ってマハラジさんの本はかなり難しいです。気づいている人であっても相当に難易度が高いです。

 その理由としては、気づき自体にも段階があることから「私は無い」に気づいていれば分かるという代物ではありません。私の経験上、「私は無い」に気づいているだけの段階では理解に時間がかかるかもしれませんし、全く理解が出来ないところもあるかもしれません。私は時折、苦しみの矢面(やおもて)に立たされている自我の視点に立てば真我はそう見えますねという感じで真我のことをサディストとかサイコパスなどと冗談めかして言ったりしますが、マハラジさんは終始一貫して真我に立脚した視点からの発言をしていることから、この本の真の理解のためには、読者には内なる真我への気づきの段階が要求される高度な教えとなっています。そういう意味においては上級者向けと言えるものです。いずれにしても相当に読み応えのある本なので頑張って完読してもらいたいと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

体外離脱系スピリチュアル本の中の人類の未来!

   

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

体外離脱系スピリチュアル本の中の人類の未来!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が13回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 皆さんは1898年に出版された、のちに「最も驚異的な予言書」と呼ばれるようになったアメリカ人のモーガン・ロバートソンという人が書いた『愚行』という本をご存知でしょうか。この本は、のちの1912年に氷山に衝突したことが原因によるタイタニック号の沈没事故が起こるとタイトルを『タイタンの遭難 または、愚行』に変えられ内容も一部変更されて再刊されました。  

           

 この小説に出てくる氷山に衝突して北大西洋に沈没するタイタンという名前の架空のイギリスの遠洋客船と現実にあった大西洋上で氷山に衝突し沈没したイギリスの豪華客船の沈没事故があまりにも類似する点があったことから著者のロバートソンは未来に起きる大事故を予知し小説のかたちで警告していたのではないか言われるほどの有名な本です。

         

 1865年にはジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」という本の中で、3人の男たちがアメリカから月に向かって巨大な大砲で打ち上げられる物語を描いています。

          

 またSFの父の異名をもつ英国人作家ハーバート・ジョージ・ウェルズによって書かれ1914年に出版された『解放された世界』の中では、原子爆弾の使用と最終戦争、戦争後の荒廃した世界で主権国家が解体され世界政府が樹立される様子が描いているとのことです。

 三作品とも私はまだ読んだことはありませんが、どの作品も未来を予見した小説として有名のようです。機会があったら私も読んでみようと思っていますが、なぜ、このような話しをするかというと実は体外離脱系のスピリチュアル本の中にも未来を描いているものがあるからです。今回は私の直接的な気づき体験にまつわる話しがメインではないので恐縮なのですが、これまでに読んだ未来の話しが書かれていた体外離脱系のスピリチュアル本をこの動画でご紹介しようと思います。

           

 一冊目はイギリスに生まれ、のちにオーストラリアに移住をしたマイケル・J・ローズさんが書かれた「時間のない領域へ 多次元の旅」という本です。ローズさん自身は光の体と描写していますが、いわゆる体外離脱ができる人です。霊体となったローズさんは時間と次元を越えて自由自在に行き来できる能力をフルに使って遠い宇宙に行ってみたり、過去や未来さらには5次元世界といった異次元世界のパラレルワールドを縦横無尽に飛びまわり、その体験を本として沢山だされている方です。その本の160ページには22世紀の初めに行った時の話しが載っています。その時代では自然と調和したやり方で愛を基本として農業は営まれています。現在の私たちが知っている化学薬品を使い遺伝子操作された植物により農業が行われる農業関連産業はなくなり自然の秩序を基本原則としてワンネス・一体性に基づいて農業が営まれているとのことです。男性よりも女性の方が多い農業従事者たちは、大いなるセルフを知りスピリチュアルに目覚めていて農場とそこで生きる全ての生き物と一体になって植物の発芽や成長を管理しています。農業には平和と豊かさとが結合し、農業従事者の内なる平安と豊かさが反映されることになることから、それが農業に従事できる人を決める基準となっています。農業従事者たちは土地のスピリットと同調できる人たちであり土地を管理できる栄誉を与えられた人たちであることから22世紀では、とても尊敬されている人々なのです。

 この本の著者であるローズさん自身が長年、有機農法家として農業に従事してきた人です。自らに与えられた能力を使い100年後の未来で起こるかもしれない、この素晴らしい出来事を知り、ローズさんはどんなに歓喜したことでしょうか。私もそうです。ここで語られるような未来が本当に来ることを私も願いそして信じています。 

           

 2冊目も同じくマイケル・J・ローズさんが書かれた「光のかけらが降り注ぐ地球 異なる現実を旅する」という本です。その141ページ中に短くアセッションの可能性や地球の磁極の反転による大災害の可能性が語られています。ローズさんは、この事について、いずれにせよシナリオがどういうものであれ、それぞれの意識が自分たちの通る道を決めることになると言っています。

     

 また、ローズさんは未来だけを著作の中で書いているわけではありません。「次元シフトのとき」や「多次元の新たなる旅へ」の中では過去の地球のことも書いています。

     

 それを読むと過去の地球には巨人がいたことや宇宙から飛来した爬虫類型人類がいて現在の私たち人類はそういった地球外から飛来した異性人との間に出来た混血種であると書いています。確かに日本を含む世界各地には巨人伝説が多く残っており聖書の中にも巨人の話しは出てきます。イラクのテル・アル・ウバイド遺跡からはトカゲのような頭をした像が見つかったり、法隆寺には爬虫類のような頭部をした像があったりします。そういうのを見ると、もしかしたら遠い過去には、そういう巨人や爬虫類型人類が実際にいたのかもしれないと私も思ってしまいます。

 さらに「次元シフトのとき」の130ページには、現在は2万5千年におよぶ衰退と攻撃性を持った時代が終わり新しい時代が始まる時期であることから、愛があり新しさに柔軟で手放しが出来る人々には問題はなくても、かたくなに同じままであることに囚われ制限が強く恐れの強い人々は一掃されることになるとも書いています。私には、この一掃されるということが、どういう意味を指しているのかは分かりませんが、私自身についていえば、全ては生きるも死ぬも創造主の御心のままにと思っていることから、それがいつであろうと、たった今死ぬことになろうと、あるがままに死を受け入れたいと考えています。そもそも私の真の自己は真我であり、この体ではないことを知っているので、たとえ創造主により一掃される側に入っていたとしても何ら差し支えはありません。まさにイスラム教徒が良く使うインシャラ―の境地で、私は私の人生の全てを創造主に明け渡しているので自我がどう思おうとも死は幻想から完全に覚める歓迎すべき祝い事だと思っています。話しを元に戻すと「次元シフトのとき」の128ページには宇宙から飛来した爬虫類型人類は仲間同士で戦い、彼らの使う光線兵器は高熱のため地上をガラスのようにしたとのことです。ローズさんは体外離脱をし光の体となって時空間を越えて実際にその場で目撃していることを書かれているようですから、もしかしたら超古代文明による古代核戦争が本当にあったのかもしれません。レプティリアンとか巨人とかに興味がある方は読んで見られてはいかがでしょうか。

      

 3冊目はヘミシンク技術を発明しモンロー研究所を設立したアメリカ人のロバート・モンローさんです。モンローさんはある日自分が体外離脱していることに気づき、それまでの人生観が一変したことで人間の意識を研究するようになった人です。そのモンローさんが書いた「魂の体外旅行」の344ページ以降に書かれていることですが、体外離脱をしたロバートさんは西暦3,000年を越えた未来の地球に行き、そこでは道路も橋も高層ビルも飛行機も自動車もなく現代文明を象徴するようなものは一切なくなっていることを知ります。そこに住む人々は普段は体を持たない存在として生活をし必要に応じて保管してある体に入るということをしています。生きるためのエネルギーを得る方法としては、両の手から空中より取り入れる方法もあれば、手に持ったそこら辺の土をトウモロコシなどの食べ物に変える能力を使う方法もあります。まさに超能力者です。人の数は少なく暮らしている人々のコミュニケ―ションにはテレパシーが使われています。アメリカから日本までの距離でさえも乗り物を使うことなくほんの一瞬で移動できる能力を持っています。本の中には未来の日本の姿も書かれています。1000年以上も先の日本には都市や町や村、いかなる建物もなく人が生活していることを感じさせるようなものは全くありません。しかしながら、巨大な花畑のような農地は広がっているというのです。地球は花畑として使われている場所以外は人間が破壊する前の本来の姿に復元されたとのことでした。そして、残された、そこにいる人間たちは地球体験から卒業する時が来るのを待っているとのことでした。人類の魂の全てが地球から卒業する旅立ちの時は35世紀に訪れると3作目にあたる「究極の旅 体外離脱者モンロー氏の最後の冒険」に書かれています。      

           

 次はアメリカ人のブルース・モーエンさんが書いた「死後探索3 純粋な無条件の愛」という本です。モーエンさんはロバート・モンローさんが発明したヘミシンク技術を使って体外離脱をする方です。ヘミシンクとは左右の耳で違った周波数の音を聞くことにより人為的に脳波をコントロールし体外離脱を誘発する技術のことです。モーエンさんは体外離脱中に宇宙空間で大集合して地球人類を観察している地球外のテレパシー能力を持つ知的生命体と遭遇し、これから起こるアースチェンジという地球と人類の変化を観察中であるということを知ります。いつとは書かれていませんが、その地球外の知的生命体はモーエンさんに対し地球人口が大幅に減少することが起こると予想されているということと、もう一つの可能性として銀河連盟への加盟があると伝えます。そして、その後もモーエンさんと地球外の知的生命体との接触は続けられ、その間にも宇宙のはるかかなたにある無条件の愛の源と地球の核のクリスタルとのつながりが強くなり無条件の愛のエネルギーが地球の核のクリスタルに注がれ、またモーエンさんの尽力により純粋な無条件の愛を知った地球外生命体は、それまで知らなかった愛を彼らの種族全員が知るところとなるのです。それにより、それまで愛を知らず感情を知らなかったテクノロジー的にははるかに進歩した地球外の知的生命体たちは純粋な無条件の愛を知ることにより、純粋な愛で受容し合う純粋な状態で生きられるようになって、いわゆる地上の天国に移ることができたと彼らのスポークスマンが語ったと書かれています。

 スピリチュアルの世界で、よくアセッションという言葉を聞きますが、私はこのアセッションという意味がよく分かりません。次元上昇という意味のようですが私たちの真の自己は唯一、真我のみです。それ以外は意識の中の幻想の物語でしかありません。しかしながら、それでは話しがつまらなくなりますし、今回この様な話題を取り上げた訳ですからアセッションがあると一旦仮定して話しを進めようと思います。この「死後探索3 純粋な無条件の愛」に当てはめてアッセッションを考えるならば、それまで感情を知らず愛を知らなかった地球外生命体が愛を知り天国のような世界に移行できたというのですから、アセッションとは地球人類の次元上昇という意味合いよりも、むしろ地球外生命体の次元上昇の意味合いの方が強かったのではないかと感じました。もちろん、地球の核のクリスタルは純粋な愛のエネルギーの源とつながるのですから地球人類全体の愛のエネルギーも必然的に上がることは物語の設定上十分考えられます。それが、もう一つの可能性としての銀河連盟への加盟ということなのではないかと思いました。さらに、最終的なアッセッションの目的地はもしかしたらひとつ前に取り上げた「究極の旅」の中で語られる35世紀に予定されている人類の魂が地球体験から卒業する旅たちのことを指すと言えるのではないかとも思いました。その目的地に向かうアセッションの始まりが近年スピリチュアルの世界で言われていることなのかもしれません。そうやって地球人類の歴史を終焉させようと真我は計画しているとも考えられるのではないでしょうか。            

           


 最後はアメリカ合衆国精神科医催眠療法による過去世回帰についての著作を何冊も著しているブライアン・L・ワイス博士が書いた「未来世療法」という本です。ワイス博士は、ある時、催眠治療中に過去世ではなく未来世に患者の意識を向けることで治療効果があることを発見しました。ワイス博士が多くの患者に催眠術をかけ未来世治療を施している最中に、可能性のある自分の未来世と共に何百年も先の出来事について患者たちが語る未来の様子には驚くべきものがあります。複数の患者が語る人類の未来を列挙すると次のようなものになります。

 まず、100年先の未来ではそれまで偶然と考えられていた地震・竜巻・洪水・伝染病の蔓延といったことは霊的な法則を知らずに無視した人間の思考や意志によって放たれる地球を傷つけるエネルギーにより引き起こされるか、少なくとも影響を受けると信じられるようになっていて、各宗教の司祭やヒーラーが集まり人間の肉体と限界を超えて世界の全ての人々の間に平和と調和と思いやりを実現するための努力がなされるようになるようです。これにより地球の気候に良い影響が出始め癌の発生率も低下しているとのことでした。しかしながら人類の未来は必ずしも定まったものではなく暴力的だったり平和な未来だったり複数の可能性があるそうです。しかも多くの患者たちにより語られた未来にはどうやら共通するものがあるみたいです。それは、今から数世紀後には人類の人口は大幅に減少するというものでした。その人口減少を激しいものにするのか緩やかな性質にするのかは人類の思考と行動によって決めることができるようです。

 次に、100年から200年先の未来では科学技術による事故によって多くの地域で人が住めなくなるみたいです。人々は大都市国家に住むようになり、その大都市国家同士でも戦争をするようになって更に地球を汚染しているとのことでしたが、もう一つの別の可能性もあって、そこでは世界中から国境が全てなくなり、大学では若い頭脳により地球上の人々の団結を作り出す方法が探求され、お互いの違いではなく共通性を重視することが押し勧められている未来もあるとのことでした。

 2254年には太陽系内に16の宇宙ステーションができ地球以外にも何十という文明社会が存在していることが分かってきて、そのうちのいくつかと合図を送り合う初歩的な接触が行われるようになるようです。

 千年先の未来では中近東や北アフリカはそれより過去に起きた出来事による放射能か伝染病で立ち入り禁止となってはいるものの、それ以外の場所は美しく、今よりずっと少ない人間たちは高次の世界と一つになって身体的精神的な病気が消滅し軽やかで精神的な存在となり知的能力が高く体外遊離が出来る上にテレパシー能力もあって全ての人が錬金術師として幸福で満足した至福の状態でいるとのことでした。

 3200年には地球は緑であふれかえり牧場は花で一杯だそうです。人間自体があまりいなくなり小グループに分かれて住むようになった人々は皆が農民であり、非常に霊的で病気も怒りも暴力も戦争もなく、あらゆるものが透き通ているいるような感じとなって光で満ちているそうです。これらの描写はロバート・モンローさんが書いた「魂の体外旅行」の344ページ以降に書かれている西暦3,000年を越えた未来の地球の内容と大変酷似しています。

 本の締めくくりとして、人類の未来は人々の意識の総和によりいくらでも変化することができるという趣旨のことが書かれていることから、私としては霊性の高い人々が住む世界の方に人類が進んでもらいたいと心から望みます。

 以上、体外離脱型のローズさん、モンローさん、モーエンさんの未来透視本とワイス博士による患者に対する催眠術誘導型の未来透視本をご紹介してきましたが、これらの本を一通り読んで思うことは結局のところ全ては意識の中で繰り広げられている幻想の物語りを語っているに過ぎないということです。特にワイス博士の本から強く感じる印象と、私のこれまでの気づきを合わせて確信されることは、やはり魂というものはなく、この世のこともあの世のことも過去世のことも未来世のことも全ては意識の中でそのような物語りが作り出されて展開されている幻想の出来事であるということです。

 いずれにせよ、これらの本に書かれていることを総合すると1000年後の人類は、どうやらスターウォーズスタートレックのように人類は果てしない広大な宇宙をまたにかけるほどに大発展をして複数の銀河や異星人と交流し一大勢力までに成長しているというようにはなっていないようです。宇宙に出てもせいぜい太陽系内どまりといった感じに、これらの本からは読みとれます。途中大きな戦争が行われ相当な数の人々が、それにより失われるようではありますが、少なくとも1,000年後も人類は滅亡することなく生き続け、自らの本質に気づいた人々により小さな集団ごとに別れ森林におおわれた未来の地球の中で自然と共生し平穏な生き方をしている様子がうかがい知ることができるのではないでしょうか。もちろん、これが100%確実に訪れる未来の光景だとは思っていません。起こる可能性のほんの一例だと思いますが、私はそうなる確率は高そうに感じています。無論、それとは反対に銀河間恒星間宇宙を飛びまわる技術を手に入れ異性人たちとの心温まる交流により銀河連盟の一員として飛躍し、スタートレックのような人類の未来がある可能性もあるかもしれません。

 ここで、この動画を視聴されている方にお尋ねしますが、人類の未来において銀河連盟に加盟していることが書かれている体外離脱系のスピリチュアル本を読まれた方がいらっしゃるでしょうか。今のところ私は、そういった未来を描いている体外離脱系のスピリチュアル本を手にして読んだことがないので、私の中では銀河連盟に加盟していない前者の未来の到来の確立の方が高いように感じています。個人的には、どちらかというと人類の精神性が極限まで高められ、この地球体験から卒業していく未来の方を歓迎しますが、もし未来の筋書きが変わって銀河連盟に加盟する方向に進むのであれば、銀河連盟に加盟した未来を見てきたという沢山の体外離脱系のスピリチュアル本がこれから出版されるのではないかと思います。そして私たちは、これからそういう事が書かれている多くの体外離脱系のスピリチュアル本を手にして読んでいくことになるのではないでしょうか。いずれにしても真我の筋書き次第ということになります。

 なぜなら、これまで何度も言ってきているように、この世界は真我の中で繰り広げられている映画であり幻想の物語でしかありません。映画を製作し観賞している存在は真我のみです。真我こそが唯一の存在です。その真我が、自らが制作している映画の中で、これから未来で起こるかもしれない事柄において何かしらのヒントを置いていたとしてもおかしくありません。世間一般では、それをシンクロニシティ(英語:synchronicity)と呼ぶのではないでしょうか。シンクロニシティとは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指しますが、その偶然の一致というヒントを真我は本や映画その他の様々な箇所で示そうとしている可能性があります。つまりミステリー小説の謎解きみたいなものです。物語の中では偽のヒントが時には置かれていたりします。ふるいにかける目的で、それに惑わされた人を迷宮や落とし穴に誘い込んでは抜け出られないようにするものもあると思います。そうやって目的地にたどり着ける人たちの数がどんどん減っていくところを見てハラハラドキドキ感を味わいながら映画を盛り上げる趣向になっているのかもしれません。従って、数ある雑多なヒントの中で本当の真実にたどり着くための本物のヒントだけを見抜き、その謎を解いていかなければなりません。真我は意外性や手の込んだやり方が好みのようなので、本物と見えていたものが実は迷路へと誘い込む罠の道であったり、いかにも偽物と見えていたものが本物の道であったというようなことを平気でやると思います。それと同じように神だと信じていたものが悪魔の教えだったり、悪魔の教えだと思っていたものが実は神の教えだったということも普通にあると思います。当然、その教えが見た目通り感じた通りの悪魔の教えや或いは神の教えということもあると思います。思いもよらない色々な手法や技法により脚色され演出され制作されているのだと思います。その方が見ている側からすれば映画として絶対に面白いからです。最初から懇切丁寧に誰にでも見やすい分かりやすい親切な方法で、こちらですよと道順を表示しているとは到底思えません。それは多くの国々が起こっては滅亡するという人類の歴史と同じようなものだと思います。一時隆盛しもてはやされた人もいつの間にか消えている世間の流行りすたりと同じようなものだと思います。それら全てを観賞している真我の視点に立って大きな流れとして理解する必要があると思います。ここで勘違いしてはいけないのは、迷宮や落とし穴にはまり込んだ人たちは自ら望んではまり込んだ人たちではないということです。そこに自由意思というものはないのです。あくまでも物語の設定でそうなった人たちでしかありません。故に、自らの意思で選択し真実の正しい道を歩く人も間違った道を歩く人もいないのです。そこには個別の人間という人はいません。全ては真我の自作自演の物語りであることを忘れてはいけません。ただ単に、そういう物語であるというだけのことです。ですから私が言っていることは実は私自身が正しいと勘違いしているにすぎず、私が言っていることは、本当は間違っている悪魔の教えで、間違った道に迷い込ませる目的で悪魔が私の体を使って語っているのかもしれません。従って、私の言っていることの正否については、これを聞いている賢明な視聴者の皆さんに判断を委ねたいと思います。つまり、何にでも当てはまることですが人の言っていることを頭から信じてはいけないということです。誰かが言っていることや何かの宗教をただ妄信するのではなく、まずは自分の頭でしっかりと考えそれが真実なのかを自ら見極める努力が必要だと思います。悟りや解脱を目指しているのなら特に、そういうスタンスは大切だと思います。何が言いたいかというと悟りや解脱をしたといわれる人の本を読んだだけで分かったつもりになっていてはいけないということです。本当に分かりたいと思うのであれば実際に悟りや解脱のための実践をし、自らその境地に達しなければ駄目だということを言っているのです。お分かりいただけるでしょうか。

 真我は、気づいていることに気づいている気づきそのものです。私の真我としての直接体験を申し上げるならば、私自身が私という想念が立ち現れる前の純粋な意識の状態、真我であることに気づいていた間は、本当に私は純粋に気づいていることに気づいている明晰な気づきでした。いくらでも真我は輝きだとかきらめきだとか光だとかというように言葉で表現することはできますが、それそのものを表現しているわけではありません。あくまでも印象を語っているにしか過ぎないのです。理解し納得するためには自ら実際に真我の直接体験をするしか方法はないのです。これをご覧になられている方で真我の直接体験がまだの方には、一日も早く真我の直接体験ができる日が訪れることを心より願っています。

 今回は体外離脱系のスピリチュアル本の中に書かれている未来の描写から自作自演者であり、かつ観賞者である真我の思惑に少し迫ってみましたが、皆さんはここで取り上げた1000年後の未来やシンクロニシティをどのようにお考えになられるでしょうか。是非真我の視点から人類の未来の行方に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 それでは今回はここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。