私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の活字版です。

神は悪さえも切望し愛している!!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

神は悪さえも切望し愛している!!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は12回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私はどういう訳か、眠りと眠りから目覚める中間のまどろみの状態の中で至福感を感じたり気づきを得ることが多いようです。気づいていることに気づいている純粋な気づきともいえる気づきそのものは、体における睡眠と夢見の状態、まどろみや起きて活動している時の状態自体には何のかかわりもなく、そこに存在し続けているのですが、なぜ体がまどろんでいる状態で気づきを得ることが多いのかについては、私もよく分かりません。

 単純にそういう物語の設定になっているということなのでしょうが、推測するに純粋な気づきの意識である真我によって生じる、意識を意識する感覚と在るという感覚、そして存在性への愛から現象世界が立ち現れる端境期であるのがまどろんでいる状態であることから、まだ十分にその本領を発揮することができないでいる自我に妨げられることなく、現象が立ち現れる根底にある作用をそのまま感じることができているということなのかもしれません。

 昨年の2022年の1月4日の早朝のことですが。私は眠りと眠りから目覚める中間のまどろみの状態の中である気づきを得ました。

 それは、どういう気づきかというと、たとえそれが、どの様なものであろうとも今のその現状を真我が切望しているという気づきです。現状が、どれほどつらく苦しく死にたいと思うほどの苦痛に満ちた毎日を送っていたとしてとも、自我が、いくらこんな現状を望んでいないと割れんばかりの声で叫び血の涙を流し主張しようとも、真我は、その経験を真に切望しているということです。しかも真我は、その現状を本当に愛しているのです。私はそれに気づいたのでした。冗談のように聞こえるかもしれませんが真我はサディストであると同時にマゾヒストであり、しかも善悪や感情がないことからサイコパスでもあるのです。自我からすれば本当にひどい存在です。

 従って、あなたの自我が直ぐにでも辞めたいと思う、毎日している仕事や職場の嫌な人間関係でさえも真我は愛しています。とても信じられないでしょうが、これは真実です。幻想のあなたの自我が快く思っていない職場の上司や同僚をはじめとする職員の一人一人、辞めたいと思っている仕事そのもの、そして苦しんでいるあなたの自我の状態を深く愛しているのです。

 肉体と精神が苦痛に満ち避ける手段が自殺しかないような状態に自我が追い込まれていたとしても、それさえも真我は切望し、その状況を愛しているのです。

              

 ニール・ドナルド・ウォッシュさんが書いた「神との対話」の中の87ページの6行目に「私は善を愛しているのと同じように悪を愛している。」という一文がありますが、まさに、それは本当のことなのです。

 真我は、この世界を作り出しています。「神との対話」に当てはめるのなら神は真我といえます。その創造主とも言える真我は、悪と言われることさえも切望し愛しています。普通の感覚の持ち主にはとても受け入れがたいことでしょうが、たとえ、世間一般的には、どんなに血も涙もない残虐な行為と言われるものでさえも真我は愛しています。つまり、山奥で隠遁生活をしている人であろうと都会で暮らす大金持ちの人であろうと病気で苦しんでいる人であろうと何人もの人を殺した殺人者であろうと事件事故に巻き込まれた被害者であろうと、どの様な状況にある人であっても真我は等しく愛していて、真我が望む形で置いた一つなるものとしての現れの中の動きとして、その人たちは愛されて存在しているのです。

 この世の個々人にまつわる現象の全ては、真我が本当に愛し切望しているからこそ世界に顕現しているものなのです。そうでなければ、私やあなたとして、その周囲の人や物として現れるはずがないのです。

 そして重要なこととして心に刻み付けておかなければならないことがあります。真我は、みなが等しく同じ楽しい経験ばかりをすることを望んではいないということです。真我にとっては、人々が喜び楽しむ歓迎できる経験と痛みや苦しみに感じる負の経験といった多種多様なそれぞれの個々の経験に対して、温度差や上下高低の差はなく同列だということです。共に全てを愛し経験することを切望しているのです。現れる行為には、避けなければならない卑しい行為や進んでやらなければならない尊い行為といった貴賤は一切ありません。全ての行為は、ただの行為でしかありません。行為は行為であって、そこには何の違いもないのです。現れては消えるただの現象でしかないのです。従って、行為をする人もされる人もいません。傷をつける人も傷つけられる人もいません。究極的には生まれる人も死ぬ人もいません。真実、私やあなたは輝きであり、気づいていることに気づいている純粋な気づきなのです。もし、私が今言っていることに対して何の反感もなくすんなり理解が出来るのであれば、あなたは悟りの領域にある人と言えるかもしれません。

            

 最後に、先ほど取り上げたサンマーク出版から出ている「神との対話」をご紹介して終わろうと思います。多分私はウォッシュさんが書いた「神との対話」シリーズを全部読んでいます。それほど、この「神との対話」シリーズは私にとって意味深いものがあります。いわゆる引き寄せの法則があると信じ傾倒していた時期に熱中していた本だからです。読み物としても結構面白いです。特に「神との対話」シリーズの一巻、二巻、三巻の三冊を読むことをお勧めします。気づく前は引き寄せの法則的なところばかりに目が奪われていましたが、自らのうちにある真我に気づいた後の目を通して読んでみると、なかなかどうしてこれらの本の中にはけっこう奥深いところが多くの箇所であり、私も納得するほどの真理といえることが書かれています。

 例えば、176ページの1行目と4行目に「最も気高い善とは、あなた自身に最高の善をもたらすものだ。」「あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。」と書かれている一方、168ページの11行目には「最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。」と書かれています。

 さらに179ページの後ろの方に書かれている「じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけだ。」という文章と前述した「私は善を愛しているのと同じように悪を愛している。」という文章とを併せて読んで、ここで書かれている善とは世間一般で言われている善ではないということを理解した場合には、一見すると矛盾することが書かれているように思われることも矛盾していないことが分かってきます。なぜなら、これまでに何度も私が言ってきたように、この世界では、善とか悪とか言われる行いの全ては創造主の計画通りに進められているただの物語りに過ぎないからです。

 注意点としては、引き寄せの法則的なことが書かれていると勘違いするような箇所があることから、欲に目がくらんでいる人がこれを読んでしまうと引き寄せの法則があると誤解してしまい、かえって気づきから遠のく可能性があります。しかしながら、たとえ引き寄せの法則があると思い込み気づきや悟りから遠のいてしまったとしても、それさえも真我が書いた物語通りということなので、それはそれで私は、私自身に対してもその人に対しても善い行いをしたことになり、私は全く気にすることはありません。

 引き寄せの法則全般にも言えることですが、真髄としては、この世は真我の自作自演の映画なので、自分が自分に対して言っているということに気づくことです。いずれにせよ読む場合には、やってくる思考や沸き起こる感情と共に現実の出来事を変えることができるのは、あくまでも創造主である真我にしかできないことであることを常に念頭に置いて、引き寄せの法則など絶対にないということとインドの聖者であるシュリー・ラマナ・マハルシが言うように真我探求こそが悟りへの最短ルートであると肝に銘じた上で、その点に注意して読んでいただけるのであれば登場する神様がとてもユニークで面白いので真理探究の入門書としては打って付けだと思います。これまでにない新たな視点での神様に関する印象を与えてくれるのではないかと思います。過去に読んだことがある人は、もう一度読んでみることをお勧めします。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

私は天上天下唯我独尊‼

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

私は天上天下唯我独尊‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が11回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 それは2022年2月7日の午前5時ぐらいのことだったでしょうか。窓ガラスの向こうはまだ暗く厳冬の寒空でした。一方、私は毛布の中の温かさに包まれて安心しきってまどろんでいました。その時の私は、内側からあふれかえる愛により、なんて幸せなのだろうという思いで全身の細胞全てに愛が満ちていたのです。誰かから与えられる受け身で感じる愛ではなく、全てに対して開かれた与える側の愛を感じていたのです。それは全てを愛する愛です。あとからあとからとめどなく私の中から愛が沸き起こってきます。さらに、私の中から沸き起こるものは愛だけではなく、感謝の念も一緒になって沸き起こってくるのです。それは、まず自分自身への愛として感じられました。これまでないがしろにしてきた自分の体、特に顧みることなく軽んじてきた私の体。この私の体に対する感謝と愛の気持ちが後からあとから湧き上がってきていました。

 やがて、その愛は世界に対しての愛。存在に対しての愛へと変わっていったのです。私の中からあふれかえる世界と存在への愛を感じながら、私の中に次のような思考がやってきました。「世界は、私の現れであり私そのものなのだ。私でないものは何一つない。私こそが世界で唯一の存在であり、私しか存在しない。私は天上天下唯我独尊の存在だ・・・。」私は、どこからともなくやってくるそんな思考を感じながら、いつの間にか、また眠ってしまいました。

 お釈迦様は、出生の直後に7歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。私は、その事を知っていたことから、その日の午後にまどろみの中で頭に浮かんだ天上天下唯我独尊の意味をパソコンを使って調べてみることにしました。まず、ネット上のgoo辞書で唯我独尊を調べてみるとお釈迦様の出生時の先ほど言った逸話の他に、「唯我はただ自分のみということ」「独尊は自分だけが一人尊いということ」、さらに「この世で、自分ほど偉いものはないと、うぬぼれること」と書かれていました。

 これを読んでまさしく、その通りだと私は思いました。なぜなら、この世界、この宇宙には私一人しか存在しないからです。従って、この世界の中でただ自分一人のみが尊い存在であるのは当たり前のことです。だから、うぬぼれて至極当然のことなのです。

 もっと詳しく知ろうと思い今度はウィキペディア天上天下唯我独尊を開いてみると伝承の形成過程と複数の解釈が載っていました。まず、伝承の形成過程としては元来過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばしぶつ)が誕生した際に言ったとされていたものが、お釈迦様が生まれた際に他の人々がそのように讃嘆(さんたん)したという説が生じて、のちにお釈迦様自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものであると書かれていました。さらに古い仏典には「天上天下唯我為尊(いそん)」との表記が見られるとも書かれていました。

 天上天下唯我独尊自体の解釈については、一部を引用し説明すると「欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いとしている。」とする解釈があったり、「釈迦がこの世で解脱するから唯我独尊」なんだという解釈であったり、また、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」とする天台宗尼僧の露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈があるのが分かりました。

 露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈は一旦脇に置いとくとして、つまり、人々に功徳や利益を施して救済する利他の面での尊さなのか、修行により得た解脱という功徳を自分だけが受けとる利自の面での尊さなのか、時代による釈迦観の違いによって違いが現れている、とのことなのだそうです。そしてページの最後の方では、「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味に誤用されたと締めくくられていました。

 それでは、ここからは自らのうちにある真我に気づいたものの視点から見て、どの様にこの天上天下唯我独尊を解釈するのが妥当なのか、まさに唯我独尊的な私の視点からの解釈を申し上げようと思います。それは、対立しあう様々な多種多様な意見があること自体に意味がある現世的視点に立てば全てが正しく、真我的には、この世は空であることから全てはまさしく空理空論ということになります。しいていうなら幻想の私的には、後世誤用されたとする解釈の方がピッタリくるというかしっくりきます。ウィキペディアで、後世誤用されて使われるようになったと書かれている「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味としての解釈の方が相応しいようには感じます。この宇宙には絶対である真実の私、真我しか存在しないのですから、この世で真我の私ほど偉いものはないというのは全くその通りではないでしょうか。

 お釈迦様が生まれて直ぐに七歩歩いたとか天上天下唯我独尊と言ったということの真偽はともかくとして、唯我独尊をあれこれと解釈している人たちのほとんどは絶対への気づきの無い人なのだと思います。中には分かりやすくお釈迦様の教えを広めるための方便として本当は違うと分かっていながら利他や利自の解釈をする人もいたでしょうが、真の正しい解釈は間違いなく、全てが正しいと同時に全てが間違いというものです。

 この宇宙には、絶対である真実の私、真我しか存在しません。そこには功徳を与える者も与えられる者もいません。当然、うぬぼれる者もいません。功徳やうぬぼれそのものがないのです。従って、自他や利他といったへったくれなどもとからありません。それが分からないから、自他や利他など対立する二つ以上の存在を前提とした議論しかできないのではないかと思います。

 ただし、幻想の私的には「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれることの意味の解釈が一番しっくりくるという感覚があることから、あえて言わせてもらうならば、絶対である真実の私しか存在しないこの世にあって、世界は真実の私が創造したものであるのだから、故に私は「この世で自分ほど偉いものは居ない」という意味での天上天下唯我独尊ということになるのではないのかなと思います。そういう意味においては古い仏典に書かれているという「天上天下唯我為尊」の表記の方が真実の表記ではないかと私は思います。「天上天下唯我為尊」をグーグルで翻訳してみると「天上にも地にも私だけだ」と訳されました。この訳が正しいのであれば、まさに私が考えている通りのことが古い仏典には書き表されていたということになるのではないでしょうか。

 さらに、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」とする天台宗尼僧の露の団姫(つゆのまるこ)さんの解釈も、この世を真実の私が鑑賞している映画であるとするならば、映画の中の登場人物としての役割が、それぞれの人たちにはあるというのも、また正しい見立てであり、それを使命と捉えるのも正しい解釈であると言えるのではないでしょうか。

 どうでしょうか。この動画を視聴された方は「天上天下唯我独尊」をどのように解釈されるでしょうか。いずれにせよ。自分自身が文字通りこの宇宙で唯一の存在である絶対であることに気づけば、全ては自分の中で繰り広げられているただの物語でしかない以上、当然の帰結として全ての解釈が正しいと同時に全てが間違っている、そもそもそこに正誤の価値判断をすること自体が必要なく、そこに正しいも間違いもないという考えに自ずとたどり着くのではないでしょうか。

           

 最後に絶対おすすめの必ずあなたに読んでほしい本があります。それはナチュラルスピリットから出ている「アシュターヴァクラ・ギーター」という本です。アドヴァイタ・ヴェーダーンタという(不二一元論ふにいちげんろん)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典と言われているものです。これは悟りや解脱を目指す人なら般若心経と並ぶほどに目を通しておくべきものと思えるほどの本です。水が乾いた砂に瞬時にしみこんでいくように、この本を何の苦労もなくすらすらと理解ができるのであれば、あなたは悟りの上級者です。私から何もいう事はありません。

 私は無いや自らのうちに真我を見出した者であるなら難なく理解が可能なものです。私は、今年の4最後までとりあえず目を通してほしいのです。そして、こうであらねばならないという考えや形に囚われることなく優しい悟り系のスピリチュアル本から学んでいってもらえればと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

汝自身を知れ!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

汝自身を知れ!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回は10回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これをご覧になられている人の中には自分の人生の現状に多くの不満を抱えている人がいるのではないでしょうか。辛い日常に怒りや悲しさ、やりきれない思いといった感情を抱え、どこにも吐き出すことができず精神的肉体的ストレスだけが溜まっていく苦しさをこらえて、やっとの思いで何とか一日一日を生きているという人がいるかもしれません。

 私もそうです。生きている限り自分の思い通りにならないことは沢山あります。日々の生活の中で怒りを覚えることは普通にあります。それは、人間であれば当たり前のことだと思います。しかし、そこで大切になってくるのは、ただ一方的にやってくる怒りに飲み込まれるのではなく、その怒りはどこからやってくるのか、なぜやってくるのか、その怒りを感じているのは誰なのか、その経験をしているのは誰なのか、さらに一歩引いて、そこにもし私というものがなかったとしたら一体全体、本当の私である真我はそこから何を経験したいのかを考える必要があるのではないでしょうか。

 昨年の2022年の3月のことですが、私が働いている職場で起きた自分の思い通りにならない些細な人間関係が原因で私は怒りを感じたことがありました。いくら「私は無い」や「私は真我」であることに気づいたとしても通常の人として生きている以上、人としての普通の感覚からは逃げることは出来ません。そういう自分の思い通りにならないことが起きた時は、まことに恥ずかしいことではありますが、以前の私なら面従腹背(めんじゅうふくはい)で上辺だけ取り繕い言動には表立って出さないようにしたうえで怒りを感じさせた相手を内心一方的に悪者扱いし、自らを省みることはありませんでした。しかし、その時の私は、その怒りを呼び起こした相手を責めるのではなく、沸き起こった怒り自体に対して、なぜと問いかけることができたのです。私は、怒りがなぜ生じたのかという根源的なところに視点が行くようになったのです。やがて、心に怒りを感じている私を見て、一体全体、絶対たる真実の存在は、ここから何を経験したいというのだろうかと考えるようになりました。つまり、そういう思考がやってきたということです。続いて次のような思考もやってきました。

 愛は一見して愛に見えないことを包含する。なぜなら、愛でないようなものが一方にあってはじめて、それが愛であることを認識できるからだ。私は、今見ている、経験している、一見して愛でないものを見ているが、この愛でないものを見ている者は誰なのだろう。なぜ、それが必要なのだろうか。

 ここでステファン・ボディアンさんが書いた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」の166ページ目に書かれている「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、見つけようとしているものである。」という文章を思い出し自問自答が始まりました。「見ている者?」。それは既に分かっている。究極の絶対だ。それなら絶対は、何を見ようとしているのだろうか、一体、何を見つけようとしているのだろうか。

 見つけようとしているものとは、見ている者だ。なら、探し求めているものとは探究者になるはずだ。そこで,私は、はっとなりました。探しているものとは何かを探そうとしていた探究者そのものだったことにその時、気づいたのです。それは、私は私を探していたということです。見つけようとしていたものは私、探し求めていたものも私だったのです。私は私を見つけようと探していたことに気づいたのでした。つまり、私は私でないものの中から私を見つけ出そうとして必死になって私自身を探していたのです。ここでようやく「探究者こそが、探し求めているものである。」という文章の持つ意味を理解した上で私は私をようやく見つけたことに気づいたのでした。

 これに気づくと、とても得心するようになりました。要するに、真実の私である絶対は、絶対自身をそうでないものの中から見つけ出そうとやっきになっていたということなのです。それは、言うなれば、一見すると関連のないようにみえる一連の日常の不愉快な出来事の経験の中から内省させ自分自身を見つけ出す自己探求ストーリーの中の小悟と言えるエピソードを観賞したかったのだろうと思います。

 一度に「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、見つけようとしているものである。」という文章の全部の意味を理解できれば良いのでしょうが、そう簡単に理解させてくれないのが真我です。結局、この一連の文章の意味について後段部分は1月に前段部分は3月にというように2回に分けて理解させられる経験をさせられたわけです。

 しかも、まだ話しはこれだけでは終わりません。更に続きがあります。それに気づいた後にやってきた思考があるのです。それは突拍子もなく頭の中に響いた「汝自身を知れ」でした。

 私は、その時「汝自身を知れ」という言葉についてはどこかで聞いたことはありましたが、誰が言った言葉なのか、どういう意味なのかまでは知りませんでした。私は、その時、言葉の持つ意味を知らなかったのです。後で家に帰ってウィキペディアで調べてみるとギリシャデルポイ遺跡にあるアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシァの格言であることが分かりました。ウィキペディアには、一般的なものとして「この格言は人間の理解という大きな理想を語ったものではなく、普段の生活を送る中で自分が立ち向かうところの人間的性質の諸相を知るということ、たとえば、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものである。」という解釈と、神秘主義的解釈である『「汝自身」というのは「己の分をわきまえぬ自惚れ屋」を意味しているのではなく、自己の中の自我、つまり「我あり」という意識を意味している。』という二つの解釈が載せられていました。私としては、どちらかというと神秘主義的解釈の方がしっくりきます。やはり、見えているもの感じているものが全てとしか考えることができない人にしてみれば、抽象的な自己の中の我ありという意識を認めるよりも、直接的に感じることのできる怒りの感情の抑制が大事であることを戒める言葉と捉える方が簡単なのだろうなと思います。ここで注意が必要なのは神秘主義的解釈として書かれている「自己の中の自我」とは幻想の私という意味でのいわゆるエゴの自我ではなく、本当の私である鑑賞者としての真我という意味に捉えていただきたいと思います。それが本当の意味での神秘主義的捉え方だと思います。

 もちろん人の行動を戒めるための格言と捉えること自体は何も間違いではありません。しかし、気づきの立場から言わせてもらうならば神秘主義的解釈もまた間違いではないと私は感じます。いずれにせよ、この幻想世界の創作者及び見ている鑑賞者は同一であり、ただ一つの存在である絶対だけしかないという観点からすれば、どちらであっても正しいということになり全てにおいて完璧であるストーリーが展開されているということになります。

 要するに、私の職場での人間関係から生じた不愉快な出来事は私自身の内省からスピリチュアルな気づきへと発展昇華し、そのエピソードは今回の動画の題材になったということです。一つの出来事は別の出来事へと連なりそれぞれが常に関連し合って現象世界は生じています。個々の事象が独立して存在していることはけっしてありません。私やあなたの取った言動には何かしらの理由があり、それは他の何かを誘発させて関連性は引き継がれていきます。従って動画をご覧になられている方の中には、単なる興味本位から暇つぶしに見ている人がいる一方、精神的肉体的にとても苦しい状況から抜け出たいという気持ちから見ている方もいるはずです。どういう理由からであっても、そこには何かしらの理由があるはずです。一つ一つの出来事は常に他の出来事に関連していることを念頭において、あなたの中の真我はあなたを通して何を経験したいのかを考えてみるようにしていただけたらと思います。

 そういう訳ですので、今動画を見ている人にしてもらいたいことがちょっとだけあります。自問自答をしていただけないでしょうか。自らに対して、真我である真実の私は、この体で今何を経験しているのか、何を経験したいのかを少しだけ訊いてみてもらえないでしょうか。そう自分に問いかけてみて下さい。どうでしょうか。自分の中からどういう答えが返ってきたでしょうか。ここで重要なのは帰ってくる答えの中身ではありません。答えを返してくるのは所詮幻想の私の自我でしかないので答えの中身が重要なのではありません。あくまでも自分を客観視するための自らに課す訓練だということです。やってくる思考も感情も音も、自分の体も含めて見えているもの聞こえているもの全ては、スクリーン上で展開されている人生という映画だということに気づくための練習であり、自分の人生を一歩も二歩も引いて、あたかもあなたの人生を他人が遠目で眺めているかのように客観視して見ることにより、人生という映画にのめり込まないようにすることであなたの人生を真に鑑賞している真我に近づくための練習と思って頂ければいいのかなと思います。自問自答が終わった後は静かに目の前で展開される人生劇場を何の思考も浮かばないように心がけながら淡々と日常を普通にいつも通りに過ごしていただきたいと思います。勘違いしないでいただきたいのは無感情になってくださいと言っているわけではありません。笑いたければ笑ってもらって結構ですし泣きたければ泣いてもらって結構です。怒りたければ怒ってもらっても結構です。ただ、それをしているのは、あくまでも体であり、やってくる思考や感情は真のあなたではなく、真のあなたは真我であることを頭の片隅で忘れないように最初のうちは意識しながら通常通りに生活をしていただいて、段々と意識せずとも自分にやってくる人生を客観視できるようにしていただければと思います。

 この自問自答から始める自分を客観視するための練習を是非していただいて、あなたの幻想の物語を創作し鑑賞している絶対たる真我の目的を、あなたなりに探求し解明してもらいつつ真我である本当の自分にたどり着いていただきたいと思います。

            

 最後に、セイラ―・ボブ・アダムソンさんという方が書かれたナチュラルスピリットから出ている「ただそれだけ」という本をご紹介して終わろうと思います。

 アダムソンさんはインドのアドヴァイタという不二一元論の流れを組むオーストラリア人でスピリチュアルの教師をしている人です。15歳で働きに出た以来、アルコール好きでけんかっ早いところがあだとなって職業を転々としてきた経歴の持ち主です。そんなアダムソンさんが、スピリチュアルの道に進むきっかけとなったのがアルコール依存症からの更生のために読み始めたスピリチュアル関連の本だったそうです。その後、インドのニサルガダッタ・マハラジに師事し真理と平安を得るようになったとのことです。

 私は大学までは卒業していますが、アダムソンさん同様、学校で宗教学を特に学んできたことはありません。神職や僧職に就くための専門の教育機関に入ったこともありません。アダムソンさんと私が共通しているところは専門に宗教を学んできていないにもかかわらず、霊的なものに興味と関心を持ち熱心にスピリチュアル系の本を読んでいたところです。私が思うに「私は無い」という気づきを得るために必要なことは、学歴や職歴等は全く関係なく、どれだけ熱心に取り組めるかということと既成の価値観や形に囚われないということだと思います。加えて、私やアダムソンさんは、どこかの宗教団体にどっぷりとのめり込むようなことはありませんでした。特定の宗教の教義に取り込まれていなかったことが幸いしたといえるかもしれません。何が言いたいかというと、つまり、どこかの宗教が唱える神観念や形だけに囚われ束縛されるようなことがなかったということ、それこそが最短で気づきを得るための必要条件なのかもしれないということです。

 もし、この動画をご覧になられている方の中で悟りを得るために、どこかの宗教団体に入ろうと考えている人がいたならば、それは時期尚早(しょうそう)だと思います。宗教団体に入らずとも悟ることは十分可能です。絶対入るなとは言いませんが、宗教団体に入ってしまうと、そこの教義や形をいやがうえにも押し付けられることになります。悟るためには、まず形を覚えなさいと言われることになるのではないかと思います。それでは気づきから遠のくことになり逆効果になる可能性があります。何ものにも囚われない境地こそが大事なのに形に囚われてしまう結果になってしまう虞があります。従って、私からのアドバイスとしては、前回までの動画で言ってきているように、まずは悟り系のスピリチュアル本を片っ端から読んでいくことです。併せて専門書でなくてもいいので仏教やキリスト教ヒンズー教イスラム教、新興宗教といった既成の宗教に関する入門書も読んでいくのが良いと思います。そうすることで、各宗教の根底にある根源的な共通性を自分なりに見出してもらいつつ、いずれは何がしかの気づきを得られるかもしれませんので、どこかの宗教団体に入らなければ悟れないという考えはひとまず脇に置いておくことが大事だと思います。したがって悟るために出家する必要はありませんし在家である必要もありません。どこかの宗教団体に入る必要性は全くありません。

 それと焦らないことです。いくら焦っても、その時が来ていないのであれば気づきを得ることはありません。まずは気づきという果実を成らせるほどの木に自らを十分に成長させておくことが必要です。その為には、日々を普通に生きていく中で気づきを得ていくことを心掛ける心の持ちようが一番必要なのではないのかなと私は思います。

 今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。 

読書でも悟ることができる!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

読書でも悟ることができる!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が9回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私の気づきの始まりである「私は無い」はヘルメス・J・シャンブさんが書いた「それは在る」を読んでいる最中でした。そして、前回述べた2022年1月8日に起こった自らのうちに真我の視点があることに対する大きな覚性ともいえる気づきも同じく本を読んでいる最中に起こりました。

 この動画を見ている人の中には、もしかしたら悟りたい一心で難行苦行に取り組まれている人がいるかもしれません。そういう人の中には、本を読む程度のことで悟るなら誰も苦労はしない、そんなことで悟ることなどあり得ないと仰る方もおられるかもしれませんが悟る方法は千差万別です。悟りを目指す人の数ほど悟る方法はあります。自作自演で映画製作をしている真我の立場で考えれば分かるはずです。毎回同じ方法で悟りを得ていたら全然つまらない映画になってしまいます。毎回違った方法で奇想天外奇妙奇天烈な悟り方をした方が映画としては面白いですし飽きもこないというものです。悟りを映画製作と一緒にするなと怒る人がいたならば、そういう固定観念に囚われた考えこそが悟りへの気づきを邪魔していることに気づくべきだと思います。それも執着ですから私は無いという気づきを得たいのであれば私のように本を読む楽な方法にも目を向けることをお勧めします。

 なぜそんなことが言えるのかというと、本物の覚者が書いた書物には、書いている内容である果実を成らせることができるほどの木に自らを十分に成長させている者が読んだ場合で、その時が来ている者であるならば、実際に覚者と言える人物に直接会って教えを請わなくても本を読んだだけで自らを覚醒させる力が備わっているのではないのか、ということを自分でいうのもおこがましいかもしれませんが、私自身の一連の経験で分かっています。従って、気づきを得たいのであれば、たとえ疑問に感じたとしても何物にも囚われない素直な気持ちになって私の言っていることに取り敢えず駄目もとで取り組んでみるのが良いと思います。前回の動画を見ていただければ分かると思いますが、短い時間ではあったものの幻想の私は自らのうちに真我を見出した者であることから少しくらいは言っていることが参考になるのではないかと思います。

 時間の長短に関わらず、そもそも真我にすれば時間は無意味なのですから一度でも自らのうちに真我を見出した者は、その肉体が真実の私でないことを知っています。真実の私は、その肉体でも肉体の持つ感覚でもやってくる思考でも感情でもないことを知っています。それらに何の影響も受けない存在こそが真実の私であることを知っています。真我こそが私であることを知っています。見る者でも見られるものでもありません。行為する者でもされるものでもありません。私は、見る者でも行為者でもありません。私は、みられるものでもされるものでもないのです。私は一切の行為に関わっていないのです。故に、行為と結果の因果の法則から完全に抜け出ている存在であることを私は知っているのです。なぜなら私は真我だからです。

 そうは言っても、そうは言ってもですよ。それにしても、今、ここで私が動画の中で言っていることも含めて世界の出来事の全てを人間性のかけらもない眼差しで、ただひたすらに黙々と静かに観賞し続けている真我の私は、この幻想の意識と体を通して一体全体何を経験したいというのでしょうか。その究極の目的は何なのでしょうか。永遠の時間のない世界にいる真我が暇つぶしで見ている、ただの娯楽目的なのでしょうか。それとも真我が、自らの存在に疑問を感じて私とは一体何なのかを探求しているのでしょうか。それについては何となくではありますが何の目的で、こんな現象世界を作り出しているのかは分かります。それは、私は私を探そうとしているということです。真我は結局ところ自己探求をしているのではないかと思います。現象世界を創造した全知全能の創造主といえども私とは何かを問い続けているのではないでしょうか。なぜそう言えるのか。なぜなら、今言っている言葉さえも真我が幻想の私を通して言っているからです。

 なんにせよ、いかに私は無いに気づき、真我の視点に気づいて最終的に真我に常在できたからといって何か特別なストーリーでも設定されていない限り、この私の代り映えのしない人生は今後も続きます。しかも、たとえ真我に常在できたとしても、それとして、ただあることしか出来ない以上、これから先のことも依然として知りようはありませんし、幻想の私にとっては暗中模索の人生は死ぬまで続きます。だからこそ、無為自然、幻想の私も含め全てが起こるがままに、出来事が来るがままに生きることが大切になってくるのではないかと思います。この世に神も悪魔もいませんが、幻想の私にとっては、まさに創造主のみぞ知るといった心境です。つまり真我はそういう人生を望んでいるということなのです。

 もし、真我の実現ということで真我そのものになれると思い込んでそれを目指している人がいたとしたならば、それは無理な話しだと思います。私が感じた真我は本当に善悪も感情もない不変不動の存在ですから、それは非人間的な存在です。私やあなたは所詮(しょせん)映画の中の登場人物でしかありません。非人間的な存在の境地に常在なんてことは、それこそあり得ませんし、もしできたとしても、見た目は人間に見えたとしても、それはもう人間とは言えない存在です。いずれにしても映画の中のストーリーとして真我の境地に達した役を誰かが演じているということでしかありません。あくまでも映画の中の物語であって真我が見ている幻想の登場人物でしかないのです。そこには悟りはありませんし、もとから悟る人間などどこにもいないことに気づくことこそが真の悟りだと思います。何度も言いますが、あなたは、もう真我なのです。そのままで既に真我なのです。

 そういう事ですので、2500年前にはもうお釈迦様も苦行は解脱には役立たなかったと言っているように、難行苦行自体が好きな性癖を持っているのなら別ですが、あまり根を詰めずに気楽な気持ちで私のように悟り系の本の読書をすることで自分が真我であることに気づくことを目指してもらいたいなと思います。それが、悟りや解脱を目指している人に対する私の口を通して語りかけている真我の今後の意向だと思います。

 最後に本ではないのですが私が10年前に買って3年くらいの間ずっと聞き続けたヘミシンクCDをご紹介して終わろうと思います。10年前の私は、二見文庫からでいる「運命好転の不思議現象99の謎」と「運命改善の不思議な旅99の謎」の2冊の本を読んで著者自身がヘミシンクという音響技術で人間の意識を探求しているアメリカにあるモンロー研究所に行って、実際に体外離脱をし輪廻転生領域であるフォーカス27や地球生命圏の出入り口であるフォーカス35に行った話しにとても心惹かれるものを感じました。私も出来ることなら体外離脱をしてみたいと思い当時4万円くらいで購入した記憶があるのがゲートウェイ・エクスペリエンス第1巻から6巻セットというものです。

 CDの解説文には、「このシリーズでは特別に組み合わされた複数のヘミシンク周波数と更に音声ガイド、かすかな効果音を用いることで意識を全脳状態(拡大した知覚状態)へと導きます。と書かれています。私は3年くらい、ほとんど毎日と言っていいほど続けて聞いていましたが結局体外離脱は起こりませんでした。魂など存在しないのですから当たり前といえば当たり前です。それでは、なぜこれを紹介するのかというと過去に3年くらいは毎日にように聞いていたのは事実ですし解説文の中にリラクゼーション効果があるとも書かれていることから何かしら気づきの一助になりかもしれないと思い紹介をしようと思ったからです。私は本の著者である森田健さんがやっている不思議研究所というところから買ったCDを聞いていました。ご興味のある方は買って聞いてみてはいかがでしょうか。気分転換のリラクゼーション効果くらいはあるかもしれません。でも、やっぱり4万円も出すなら、悟り系のスピリチュアル本を沢山買って読んだ方が良いかもしれません。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

私の視点は真我の視点!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

私の視点は真我の視点!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が8回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 これを視聴されているみなさんは、1089年から1163年まで中国の宋の時代に生きた臨済宗楊岐(ようぎほうえ)派の大慧宗杲(だいえ そうこう)という禅宗の大成者をご存知でしょうか。その方は、皇帝や科挙官僚などからの支持も得て、門弟は2千人を超えるほどの当時の中国宗教界の偉人と言える人だったそうです。その大慧宗杲(だいえ そうこう)さんは、16歳で出家し74歳で亡くなるまでの生涯で大悟が18回、小悟に至っては数えきれないほどあったと言われています。その様な人と比較するのはあまりにもおこがましく私などは彼の足元にも及びはしないのですが、そんな私でもこれまで小悟と言えるものは20回以上、大悟と言える気づき体験が合わせて2回ありました。そのうちの最初の1回目の大悟は1本目の動画で説明した通り2020年の3月にヘルメス・J・シャンプさんの「“それ”は在る―ある御方と探究者の対話」という本を読んでいる最中に起こった「私は無い」という気づきでした。そして二回目の大悟は、幻想の私にとっては記念すべき日になる2022年1月8日に起こった体験そのものと言えるもので、それは、ついに究極の絶対である真実の私にたどり着いた日と言えるものでした。

 その体験は、またも私の唯一の趣味ともいえる読書中に起きました。ナチュラルスピリットから出ているステファン・ボディアンさんが書かれた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」を読んでいる最中でした。通常私は、本は1回しか読みません。たとえ気が向いてふと読み返したくなったとしても、これまでは何カ月も何年も経ってから読み返すというのが当たり前でした。それが、その本に関してだけは、はっきりとした理由は分からないのですが読み終わるとなぜか直ぐにまた最初から読み返しを始めたのでした。それまでの私の記憶にはなかったことが、その時起こったのです。

 そして、2回目の読み返しの最中に、ふいに「全ての期待を持つな」という思考がやってきたのです。それに続いて「期待は執着そのものだ。だから、そうだ。私は全ての期待を捨てなければならない。全ての期待を持たないことにしよう」と心に決めたのです。すると、体の中から何か重たいものがすーと抜けたような感じがしたのです。それは深淵なる深みへと誘われる前兆として必要な内面的変化だったのかもしれません。それにより、この本の中の一文が引き金になって真実の私というものを知りえるための前段階としての準備が私の中に、2回目の大悟を得る数十分前に整ったのだと思います。時計は、22時を回った頃だったでしょうか。その軽くなった感じのまま本を読み進めていました。本の小見出しには転語と書かれていました。転語とは、悟りに導くための問いとして示される言葉だそうです。

 1回目に読んだ際には、これといって何も感じなかったところであったはずの166ページ目の鍵かっこ内に書かれている「探究者こそが、探し求めているものである。見ている者こそが、あなたが見つけようとしているものである」の後段のほう「見ている者こそが、あなたが見つけようとしているものである」に目を通した瞬間、それが数秒だったのか数分だったのか分かりませんが、私の脳裏から一切の思考と感情、私という感覚、もしかしたら時間という感覚さえもが消え、一時的に停止ボタンが押されたように、手にもって、見ている目の前の本を凝視する、純粋な視覚情報だけの状態になったのです。その純粋な視覚情報だけの状態になったことで私の本を読んでいた視点は、もっと正確に言うと、この体を含め世界を見ていた視点は、後戻りが不可能な、ただの視点ではなくなったのです。この文章で、私は自分の内側に真我としての視点があることに気づき、まさに私の視点は、自らが、その見つけようとしていた見ている者であることを悟ったのです。私の視点は真我の視点であることを理解したのでした。

 私は前々から、この視点には何かがあることはうすうす感づいていました。この、ものを見ている視点は、意識と体とは違う別の何かであるものとして、何となくではあったものの違和感のようなものとして感じていました。一見すると幻想の私による真我の視点との同一化或いは発見ともいえる体験とも言えなくはないですが、真実はその逆であり、そもそも私とは体ではなく、その真我そのものなのであることをようやくはっきりと認識できたのでした。この視点こそが真実の私なのだと悟ったのです。真我の視点がもともとあったのであり、それが、この肉体に同一化していたことにより、私とはこの体であると勘違いをしたことで、体が私であると思い込んでいたのでした。これに気づくために同じ本を続けて2回読む必要性があらかじめ設定されていたと思います。真実の私は、一度忘れた自分自身をもう一度再発見するための手段として本当に回りくどい手の込んだやり方を好んでやるようです。

 そして、純粋な視覚の状態が薄らぐにつれて通常の意識と感覚が戻ってきました。それにより私がそれから受ける印象を説明することが可能になったのです。

 この真我の視点には、感情はありません、善悪もありません。それは、何事にも動じることはなく無慈悲で冷徹無比な沈黙の観賞者であり不動の絶対なのです。真我こそが不変の存在です。これは、あたかも鏡に映った自分の姿を見て、目はこういう感じ、鼻はこういう感じ、口はこういう感じと説明するのに似ています。真我は、感覚から受け取った純粋な視覚状態に関する上辺の印象を幻想の私を使って言わせているのです。それ自らは、それ自身について語る術はないからです。それは、ただ、それであることしかできません。加えて、それはそれ自身について全く気がついていません。不思議なことに真我は自分自身の存在について気がついていないようなのです。当初は究極的な存在が故に比較対象となる他の存在がいないことから自分に気がついていないのかと思っていましたが、どうやらそれは違うかもしれません。私たちが何かに夢中になっている状態によく似ているようです。人が映画やゲーム、仕事など、何かに無我夢中で取り組んでいる最中に自分自身に気がついていない時と同じような感じがします。どうやら人生という映画が上映されている最中は、真我は我を忘れて、その映画に本当に没入しているようです。ほとんどの人が幻想の私を本当の私と思い込んで生きているのと同じようにです。更に、それは、常に私と一緒だったことが分かりました。私から離れたことは一度もなかったのです。なぜなら真実の私は真我なのですから常に共にあったのは当たり前のことです。しかしながら、真我について、そういう事が分かったとしても、それさえも全て真我の筋書き通りでしかありません。どこまで行っても真我が書いた台本通りなのです。自作自演の物語を観賞しているだけでしかありません。

 残念ながら、現在の私が、それについて言えるのは、ここまでです。直感的な感覚で感じたことについて説明するのは難しいことです。真実を探求している人自身が経験しないと分からいことだと本当に思います。現代のスピリチュアルマスターやインドの聖者や覚者といわれる人たちの中には、真我を純粋な意識とたとえる人もいますが、少なくとも私は、この真我は人の意識を超えるものであると感じます。なぜなら、短い時間ではあったものの真我の視点を自ら体感し、その際に幻想の私が感じた真我の視点を語るということは、その語っているものは、あくまでも人レベルの意識と体であり、人レベルの意識と体が最初になければ真我の視点を感じることがなかっただろうと思うからです。つまり、自ら作った映画の登場人物に完全に同一化している真我なのだということなのです。従って、絶対たる真我は通常の人の意識を超える存在であることは間違いないと思います。しかしながら、あくまでも、この考え方は現段階のもので、さらなる気づきの深まりと共に真我の捉え方は変わるかもしれません。いずれにしても、それさえも真我の筋書き次第なのです。

 この動画をお聞きになった方の中には、私も真我を感じたいとか、真我であることを実現したいと思った方がいるかもしれませんが、私たちはそもそも元から真我なのですから、実現しなければならないものは何もないのです。ただ、自分が元から真我であったことに気づけば良いだけなのです。真我であったことに気づけば、それでスピリチュアルの旅はもう終わったも同然です。自らのうちに真我の視点があることに気づけば自ずと自分自身が既に真我であったことに気づきます。私やあなたは既に真我なのです。ただ、それに気づいているかどうかの違いでしかありません。だから、どんな人生でも全て良しということになるのです。流れに身を任せ変えなければならないものなどどこにもないということになります。

 最後にもう一度ナチュラルスピリットから出ているステファン・ボディアンさんが書かれた「今、目覚める 覚性のためのガイドブック」をご紹介して終わろうと思います。ボディアンさんは曹洞宗の僧侶としての修業に限界を感じて寺を出た後、アドヴァイタ・ヴェーダンタというインドの教えのマスターに出会ってから目覚めていくようになったそうです。25ページ以降には目覚めの段階が章ごとに説明されていますが、その分類分けにこだわる必要はないと思います。確かに気付きの段階が高まるにつれて、最終的にはやってくる人生に対しより調和した自然な生き方をする方向に向かうようになりますが、それは様々な内的葛藤をいやがうえにも経てきた結果として起こることであり行ったり来たりするものなのです。なぜかというと、気づきの段階も人それぞれで私は無いや本当の自分である真我の存在に気づいたからといって生きる上での人としての欲が無くなるわけではないからです。無理に人としての欲を否定する必要は全くありません。人としての人生を普通に謳歌すべきだと思います。昔は出家し厳しい修行をしなければ悟ることは出来なかったのかもしれませんが、現代にあっては私のように何の修行もしていない普通の人間が本を読むだけで真実を知ることができるように時代は変わってきていると思います。従って、社会のルールにちゃんと従い人としての道徳や常識を守ったうえでやりたいことをしながら悟りを目指すことは十分に可能であると思いますし、それが今後の悟り方に対する真我の意向だと私は思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

在るへの愛は悪さえも愛している!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

在るへの愛は悪さえも愛している!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が7回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 では、本題に入らせていただきます。

 一口に愛といっても様々だと思います。自己愛から他者愛。重たい愛や軽い愛。深い愛や浅い愛。高い愛や低い愛。それらが混ざり合った愛など、愛も重層的で複雑に絡み合い簡単に定義できるものではないということは、従来、哲学者文学者宗教家心理学者精神科医等々様々な人が語ってきたことで、そんなことを、ここでいちいち説明する必要もないほどに分かり切っていることだと思います。

 しかしながら、誰にとっても理解しやすい無条件の無私の愛だけでなく、その反対の極にあると言えるような虐待や殺戮といった人間が持つ負の一面である残虐性でさえも愛の表現だと言ったらどうでしょうか。

 この世界は愛で出来ています。全ては愛の表現です。どんなに凄惨な出来事でさえも愛の表現の一部でしかありません。それは愛が無いという愛の表現です。愛が無いがあって始めて愛が有るも成り立つからです。

 私の理解では、この現象世界は意識を意識する感覚と在るという感覚、そして在るへの愛つまり存在性への愛、何かがあることそのものに対する愛で成り立っているように思われます。存るへの愛には、前述した通り人の持つ残虐性も含まれます。善は対立する悪があって成り立つように、愛が有るの愛は愛が無いがあって成り立つのです。

 お分かりいただけるでしょうか。存るへの愛は、存在自体や存在そのもの、存在全てに対する愛です。善と言われるもの以外に、それが世間一般的に悪と言われるものであっても、たとえ血も涙もないような非人間的な悪魔の所業と言われることでさえも愛しているのです。存るへの愛とは、あらゆることに対する愛です。そうでなければ、この世にそれが存在しているはずがありませんし、存るへの愛が無ければ、この世界そのものが存在しません。在るへの愛は全てに対する愛であり、在るの中の愛の表現は愛が無いも包含するものなのです。

       

 この図を見ていただければ理解の一助になるのではないでしょうか。縦軸横軸には、大きさや高さ、純粋性や濃淡、利他や利己などの尺度をその時々によって当てはめていただければ良いと思います。

 見てお分かりにのように、たとえ縦にも横にも0であっても愛の中での愛が全く無いという表現の一部であることが理解いただけるのではないでしょうか。愛が縦にも横にも0という表現があるからこそ、逆の縦にも横にも愛が有るという表現も成り立つわけで、存るへの愛は、この縦にも横にも愛が無いという0を含めての愛なのです。愛が全く無い状態の0も愛しているのです。

 絶対の観賞者たる真実の私は、まさに今の私の在るを含めて世界の様々の在るの状態を観賞しています。その中には天国のような一般的に使われる愛そのものだけが表現されている場面から悪魔のような人間によって普通の人間には到底できない地獄絵図が繰り広げられているだけの場面まで多岐にわたる表現があると思います。いかなる、どの様な表現であっても、それは意識を意識する感覚と在るという感覚そして在るへの愛から生じている幻想世界であり、それは愛の表現の一部であることを忘れてはいけないと思います。

 もっと世俗的に分かりやすく説明するならば、ゾンビ映画やホラー映画などを制作している現場の人たちを思い浮かべればよいと思います。血が大量に流れ手足がバラバラになるような、どんなに残酷なシーンであっても、どれほど人が死ぬような映画であっても製作者たちは、それを娯楽作品として時には芸術作品として熱い情熱を傾け映画製作そのものに深い愛情をもって取り組まれています。ゾンビ映画やホラー映画製作の根底には、無から有を生み出すことに情熱を傾ける愛があり、その愛が無ければ、その映画は世界に生み出されることはないわけですし、私たちが鑑賞することもないと言えるのではないでしょうか。

 従って、背筋が凍り付くほどの無残な光景だったとしても、その現象が現れた根底には現象そのものに対する存在性への愛があるということなのです。しかも、それは単純に現象でしかなく、そこでは誰一人死ぬことも無ければ傷付くこともないのです。なぜなら、真実の私やあなたは現象として現れているそれではないからです。

 もちろん、現に悲惨な戦争や事件事故に不幸にも巻き込まれた人たちは本当にお気の毒だと思いますし心が痛みます。ですから勘違いしてほしくないのは、これまで申し上げてきた事は、あくまでも私が無いという気づきの立場から、この現象世界の顕現のあり様(よう)を説明しているだけであるので、私が血も涙もない人間だと誤解してほしくないと思います。しかし、だからといって、その惨憺たる表面的な事柄にだけ心が囚われている限り私は無いに気づくことはないと思います。私が無いに気づきたいのであれば、この現象世界の表面的な有り様だけに心が囚われるのではなく一歩も二歩も引いた視点から物事を見るようにしてもらいたいと思います。

 以上、在るへの愛は愛が無いも含んだ愛であることを申し上げてきましたが、それでは、この存るへの愛が無い状態とはどういう状態なのでしょうか。それは意識を意識する感覚と在るという感覚と在るへの愛が生じる前の絶対の状態であることも最後に付け加えておこうと思います。

 最後に、ナチュラルスピリットから出ているジュリアン・シャムルワさんという人が書いた「ワンネスの扉」という本をご紹介します。            

            

 この本には、シャムルワさんが16歳の時に見たUFO体験に始まり20代で宇宙と一体になるワンネス体験をしたことなど数々の、いわゆる神秘体験をしたことが書かれています。彼と私の共通するような体験をいくつか挙げるのならば、さすがに彼のような異性人とのコンタクトまではありませんが10代の頃から何度かUFOを目撃したことはあります。彼が高校生の時に感じた家の中に何かがいる怖い気配は私も20歳前後の時にしょっちゅう感じていました。17年くらい前の時には、当時住んでいた自宅の二階で、私がいた部屋のドアの向こうに急に背筋がゾクッとなるほどの怖い何かを感じるということがあり、今にもそれが部屋の中に入ってくるのではないかと思った瞬間、側にいた今まで一度も唸ったことのないとてもおとなしい飼っていた白猫が野太い声でドアの向こうにいる何かに向かってウ~と唸ったことにより、途端にスーっとその気配はなくなったということもありました。私はその時猫に助けられたという気持ちで一杯でした。その猫が唸ったのは後にも先にもそれ一度だけで本当に怖い気配体験だったことを記憶しています。それ以外では、私は無いに気づく前後あたりからの何度か急にやってくる世界の存在に対する感謝や愛の念、至福感などが挙げられます。

 シャムルワさんが言うにはワンネスのステージには五段階あるそうです。119ページには段階ごとの解説がされていますが、しかしながら私自身をその段階に当てはめるには少し無理があるように感じます。当てはまる部分もあれば当てはまらない部分があるからです。

 確かにワンネスを感じる段階にはいくつかあるのでしょうが、それよりも、そこで説明されている表面的な事柄の何かに囚われている限りまだまだという感じがします。なぜなら、私が無いに気づいた後には、何物にも囚われるものは無いという境地があるからです。まさに仏教用語である空の境地です。般若心経(はんにゃしんぎょう)中で観自在菩薩が般若波羅蜜多の修行によって五蘊は全て空であると見極めたようにです。ワンネスを感じるのは通過点であり自らのうちに真実を見つけようとする過程で見えてくる現象世界の諸相が現れているに過ぎません。従って、目指すべき境地は空なのです。長くなるのでその話しは、また別の機会にしようと思います。いずれにしても、シャムルワさんの「ワンネスの扉」は読み物としては結構面白いので興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。

人生は創造主の体験計画書!

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

人生は創造主の体験計画書!

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が6回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。

 では、本題に入らせていただきます。端的にはっきりと分かりやすく言うと、私やあなたというものは創造主の奴隷か操り人形でしかないということです。私やあなたは、創造主が書かれたそれぞれの「私」という人生の書で、創造主が書かれたことしか考えられないようにされているばかりでなく、創造主が書いた通りのことしか話せないし、創造主が書いた通りにしか動けないのです。加えて創造主が書いたことしか見聞きできないし、創造主が書いたとおりにしか身動きが出来ないようにされていて、何もかもが、がんじがらめでからめとられていて自分の意思で動くことなど全く出来ないようにされているのです。ありとあらゆることの全てが決まっているのです。何一つ自分の思い通りにはならないのですから、私は、まさしく創造主が経験したいことしか経験できないロボットでしかありません。ただの身代わりなのです。

 少し前にそれぞれの「私」という人生の書と言いましたが、本当はそこに「私」というものさえないのですから、創造主の体験計画書と書いた方がより真実に近いと言えます。「私」の人生を生きていたのではなく、創造主の体験の一部を生かされていたのです。

 そこにあると信じていた主体となるべき個人としての「私」はないのですから、当初、その事に気づくのは絶望でしかありません。「私」がないことに悩み苦しむことになります。しかし、それはいずれ、幻想の「私」にとって創造主の恩寵であり祝福だと思うようになります。なぜなら、幻想の「私」は創造主が望まれた体験そのものを生きているのですから、これ以上の栄誉なことが他にあると言えるでしょうか。あるはずがありません。

 絶望から抜けるには創造主の奴隷、創造主の操り人形であることを素直に受け入れ、そこに悦びを感じるか、それとも、もともと「私」というものはなく全ては一つという、いわゆるワンネスを感じるところまで到達するしかないのかもしれません。

 それを感じることができないのであれば、あるのは、絶望と人生が思い通りにならず先が見えないことに対する憂鬱と不安だけです。もちろん、人によってはワンネスを経験すれば全てが解決するわけでもないだろうことは容易に想像できます。ただ、私は無いに気づいた人のたどる道は、創造主の奴隷や操り人形でも仕方がない、ロボットとしての道を生きるしかないといった諦めの心境しか選択の道はないと私は思っています。それを真に受け入れられた時、何かが変わるのだろうと思います。

 私は、その過程を経て、先にも述べたように幻想の「私」は創造主が望まれた体験そのものを今生きているわけなのですから、それは祝福と恩寵に満ち溢れた本当に誇れる人生を送っていると思います。

 最後に、ダグラス・E・ハーディングさんが書いたナチュラルスピリットから出ている「存在し、存在しない、それが答えだ」という本をご紹介します。

 この本は他の悟り系のスプリチュアル本とは少し趣が違っていて、それは読んだ人を気づきに導く手がかりとして具体的にイラストや自ら行う実験方法が書かれているという点です。

 私が、これを読んだのは半年以上も前のことですが、私は無いに気づいてから何年も経ってのことなので、この本が私の気づきそのものに対しては、これといって何の影響もなかったのですが、私の物の捉え方や気づきの再認識をさせてくれたという点では買って良かった思う本の一冊です。

 この本を買った人が書いたアマゾンのレビューを読むと分かりづらかったと書いている人が多いようですが、確かにノンデュアリティは理論的に頭で理解するものではなく直感的に理解するものなので理解しようとすればするほど分からなくなるのは致し方のないことだと思います。

 この本に書かれていることを理解する上で、私から何かアドバイスができることといえば、それは、今あなたが、あなたの目を通して見ている世界には、世界から分離して存在していると思っているあなたの体も確実に含まれるということです。これは文字通りの意味です。あなたの体と世界は一体で不可分です。あなたの体は世界から分離したことは一度もないし、これからも分離することはありません。真実のあなたは、今、その体を通して世界を観賞している唯一絶対の存在です。つまり、唯一絶対の存在からの視点で見ると、あなたの体も観賞する対象物の一部ということです。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。