私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の文字版です。

仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識‼

 本ブログ内の文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。 

 今回は理解の一助にしていただくため静止画や動画映像を多用しております。私の動画は見づらいかもしれませんが、本編動画をご視聴されることをお勧めいたします。

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 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で34回目の動画になります。今回の動画では、仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識‼というお話しをしようと思います。

 

 これらの画像は一人称画像と言われているものです。見ている人の視点に立って環境を撮影した画像になります。私も含め普通の人は、画像に写っているように周囲を見ているのではないかと思います。そして、ほとんどの人は目を開けた時に画像の中でいつも一番近くに見えている体を内側で感じる感覚と関連づけて、それが自分であると思い込み、さらに、その体を周囲にあるものとは違う別な物と考え周囲から切り離したうえで見えている状況を認識し把握しているのではないかと思います。そのように把握された中で、あくまでも自分であると思い込んでいる体を除いた周囲のものが認識される対象としての客体であって、自分の体はそれを認識する主体であるとほとんどの人は考えているのではないかと思います。それが通常の人たちにおける世界の把握の仕方であると思います。しかしながら、それは私から言わせると錯覚です。単なる思い込みに過ぎません。

 なぜ、そのような事を私が言えるのか。視聴された方がご納得されるかどうかは分かりませんが、私が現在、この世界の仕組みについて理解している内容をお話ししていこうと思います。それでは、すね毛が生えたゴツゴツした感じが伝わってくる多分男性の足と思われるネットの中で見つけた著作権フリーの今映っている一人称画像を使って普通の人たちが世界を見ている場合の見え方と私が世界を見る場合の見え方に、どのような違いがあるのかをまず簡単にご説明しようと思います。通常、人は誰であろうと最も間近に見える、このような足を持つ人間の形を自分であると思っているのではないでしょうか。そして、周囲にある事物を認識する主体は、このような足をもつ体にあると考えていると思います。その場合、その体を中心として周りに見える布団やベッド、窓際の観葉植物や家具類といった物を認識の対象としての客体と捉えているのではないでしょうか。

 この動画を視聴している人は、パソコンやスマフォなどを通して動画を見ていると思います。視聴者は、画像の中の足の持ち主ではありません。それをはっきりと認識しているはずです。今、画面の中に見ている足を自分の足と思う人はいないと思います。でも、この画像がAI生成画像でない限り画像に写っているモデルになった足の持ち主は、たぶん、この足は自分の足であると思っているはずです。なぜなら、快不快を生じさせる痛みや暑さ寒さを感じる体に、それが自分という観念を結び付けているからです。しかしながら、その自分と思っている体が本当は自分でなかったらどうでしょうか。視聴者の方々は自分自身のことに置き換えて考えてみてください。皆さんも痛みや暑さ寒さなどを感じる体を疑うことなく自分であると思っているはずです。その自分であると思っている体が、実は、まだ見られる対象としての客体だったらどうでしょうか。

 テレビ画面を見ている人のように真実のあなたは今見ている視界の外にいるとしたらということです。 

 

 そして、本当の自分とは全く無関係であるにもかかわらず、一人称で描いた映画やドラマに登場する主人公の誕生から死ぬまでの一生の物語を自分と思い込む方法で観賞している観客だったらどう思われるでしょうか。つまり、視覚で感じる自分と思っている体を含めた目で見えているもの全てと聴覚、触覚、味覚、嗅覚で感じるもの全て、及び、どこからともなく体の内側で湧き起こる思考や感情の全てのものが依然として外側のものであって観賞される対象としての客体だったらという意味です。驚くかもしれませんが、体は主体ではありません。さらに「私は人間である」とか、「私はこの体である」などと考えている人としての思念や思惟、加えて心でさえも主体ではないのです。真実のあなたは、自分のものと思い込んでいる体を通して感じているあらゆる感覚を観賞している人ではない存在なのです。あなたは体でもなければ思考でも感情でも五感でもありません。あなたは、純粋な意識そのものなのです。

 それに関連することではありますが、ここから突然話しは変わります。私はまだ行ったことはないのですが最近の映画館は昔と違って相当に進化して、映画のシーンに合わせてシートが振動し水が降り風が吹きつけ煙も出てフラッシュもたかれ、さらには感情的に盛り上げる香りまでが出るそうです。そういった様々な特殊効果を使って、これまでの目と耳だけで観る映画から体全体で感じる映画へと観賞の仕方が変わってきているとのことです。 今のところ、その様な映画館はまだ数が限られるようですが、これからの映画館はそういった4DX(フォーディックス) デジタルシアターと呼ばれる体感型映画館が当たり前になるのではないかと思います。そして、さらに時代が進めば、これは空想になりますが50年後100年後には一時的に本当の自分の記憶を忘却させて一人称映画の主人公に完全になりきることが出来る完全没入方式の映画観賞スタイルが主流になるかもしれません。

 つまり、私たちは今言った50年後100年後に出現するかもしれない完全没入式の体感型映画館の観客席にいて、元々の自分が何だったのかを忘れるようにして一人称映画の主人公と完全に同一化したうえで物語に沿って人間が外側と内側で感じるもの全てを疑似体験している純粋意識であると、そのように思えば分かりやすいのではないかと思います。

 私について言えば自分の体の内と外で感じる感覚全てを常に俯瞰し客観視しています。私は体でもなければ、やってくる思考でも感情でも感覚でもありません。私は、それを自覚しています。もし、私が体験している人生が実は未来人が見ている過去を舞台にした冴えない人物の物語だとしたら悪趣味もいいところです。そして私の人生を未来人が見ている過去設定のうだつの上がらない男の物語だとした場合、元から自分という主体性がなかった「私は無い」という気づきは、言うなれば完全没入方式による体感型映画の鑑賞途中で本来の自分に気づいていくように最初から設定されたストーリーだったのかもしれません。または映画の終わりが近づいたことで、いきなり未来の記憶を取り戻して驚かないように徐々に本来の自分に気づいていくような仕組みなのかもしれません。若しくは何らかの手違いで間違って観賞中に自己の主体性の無さに気づいてしまったということもあり得るかもしれません。いずれにしても私のような人生を体験したいという未来人は、よほどの暇人か自虐的な変人に違いありません。何にせよ、そういった可能性が無きにしも非ずと言えるのではないでしょうか。或いは、「私は無い」という気づき自体が完全な精神異常による妄想という可能性も考えられるかもしれません。私の「私は無い」という気づき自体が妄想で精神病の症状であるかもしれないという可能性は、ひとまず脇に置いとくとして、私は全ての事柄については起きるべきことが起きるべきこととして、ただ起きているという考え方をしているので私の「私は無い」という気づきについても全てプログラム通りと思っています。いずれにせよ、この世界が未来人が体験している未来の完全没入方式の体験型映画館で上映されている物語の可能性はあるかもしれませんし、コンピューター内だけで展開されているシミュレーションという可能性もあると思います。しかしながら、これはあくまでも空想であり可能性です。

 話しを戻します。この膝から下しか写っていない足の画像を例にとれば、私は画像の中の個別のものを個別のものとして見てはいません。赤枠で囲んだ視野全体を分離なく一体のものとして常に見ています。私は一番近くに見える体と周囲のものとを分離した別々のものとは考えていません。これが一つの目としての物の見え方です。同時に内側で感じている一切のものについても付属物として画像に含めたうえで全体で一つの映像として見ています。私にとっての人の体は主体ではなく、あくまでも全体の中の一部であり客体でしかないのです。私にとっての主体は純粋意識です。私は純粋意識であるという認識のもとで世界を見ているのです。それが一なるものとしての物の見方です。その考えに立てば当然、私以外の人も本来は純粋意識として世界を見ているはずなのですが、人の体を自分であると勘違いしていることから純粋意識としての自分に気がついていないのです。

 従って、この動画を見ているあなたは私同様に純粋な意識です。その純粋意識は、それ自体で何かを考えるということはありません。考えることがないので自分自身にも気がついていません。何かを認識するということはないのです。故に純粋な意識とは一切の概念が存在しない場所です。ただ在ることしか出来ない存在です。分かりやすく表現するならば、今見ている真っ白な画面が純粋意識です。これは、あくまでも比喩的表現でしかありません。他に譬えようがないので仕方なく真っ白な画面を見せているだけです。相対の世界では如何なる方法をもってしても表現が出来ないものだからです。従って、絶対主体と言えるものです。人としての限定された意識状態では理解され得ないものです。スピリチュアル界隈で使われる高次元の自分自身という意味のハイヤーセルフという言い方は的(まと)を射た描写とは言えません。真我とか空(くう)という言い方も全くもって正確ではありません。他に言いようがないから仕方なく、そのような言い方をしているだけです。なるべく、それに近い描写をするならば、『気づいていることに気づいている純粋で明晰な気づき』といったところでしょうか。でも、これでは何のことやら、それを体験したことのない人には全く理解不能であることも分かります。私でも真我の直接体験をする前であれば何を言っているのか分からなかったと思います。頭のおかしな奴の妄言としか感じなかったはずです。ですから、「ある」というような言い方も含め「あれ」「それ」「これ」というような漠然的表現をとらざるを得ないのです。それを知るには自分自身で確かめるしか方法がないのです。

     

 なんにせよ、他に譬えようがないので今見ている真っ白な画面が皆さん一人一人の純粋意識だと思ってください。その純粋意識が曇りだします。段々と暗くなり黒くなっていきます。これは、あくまでも譬えです。何の譬えかというと皆さん一人一人の感覚を生じさせる存在性です。人としての存在性が生じたと思ってください。その存在性によって純粋意識の中に人としての存在が生じはじめるのです。実際、私の場合も存在性が生じたことにより純粋意識が薄れていき純粋な気づきとしての状態がなくなってしまいました。

 ですから、この黒は体の存在を感じる感覚と思ってください。丁度、目を開ける前の目が閉じられている状態と思っていただければ結構です。瞼を閉じて目に体が映らなくなっていても頭や胴体、手足が存在する感覚を感じるはずです。純粋意識が薄れるにしたがって体の存在感を次第に感じるようになるのです。瞼が閉じられた暗闇の中に体の感覚という存在性を伴った人生という映画が映し出されるのです。言うなれば映画館でスクリーンに映像を映し出すために照明を消すのと同じです。自我も、この存在性の中に生じるのです。存在性自体がストーリー性を持った自我そのものと言ってもいいと思います。画面は真っ黒になりましたが、これにより頭や胴体、手や足といった体の全ての感覚が感じられるようになったと思ってください。そして、ここが重要なのですが存在性が現れ始めると、それとの同一化も一緒に生じます。純粋意識は、その存在性から生じた体の感覚と一体となることで自分が純粋意識であったことを忘却してしまいます。言うなれば無明がここで生じるのです。それが世間一般の悟っていない人々の普通の状態です。

 前回の動画でお話しした存在性への愛は、この存在性の中で感じられます。存在性への愛は現象世界の存在性を支える愛です。無条件の無償の愛と言える愛です。この存在性を支える愛なくして、いかなる存在も成り立ちません。それでは存在性への愛と存在性は、いずれが先に生じるのでしょうか。それは、たぶん同時ではないかと思います。なぜなら現象世界が完全に消え去った純粋意識だけでは愛を感じることは出来ないからです。与える愛も受ける愛も、いずれの愛であろうと、いかなるどのような愛であろうと感じることは出来ません。愛を感じるには現象世界が不可欠です。純粋意識は、これまで何度も申し上げてきた通り、ただ在ることしかできない存在です。

 ですから、私たちは何を感じるにしても必ず現象世界を介さなければ何も感じることはありません。だから愛を感じるには現象世界が必要ですし、その現象世界は、現象世界を支える愛がなければ現象世界は成り立ちません。従って、両者同時に現れ出ることが必要になるのではないかと思います。いずれにせよ、現象世界が存立するためには愛が必要です。これは宇宙成立のための根本法則です。

これは動画の背景画ですが、マイクロソフトのコパイロットに
「あなたが考えるアガぺーを描いてみて下さい。」と指示して生成してもらった画像です。
興味深いのは、この中に動物がいないことです。

 もし、あなたが、この根本法則を自分自身で直に知りたいというのであるならば、前回動画でお話ししたようにあなたは愛の人でなければいけません。なぜなら、愛は愛を理解できる人でなければ愛を知ることが出来ないからです。存在性への愛についても同様に無条件の愛や無償の愛を理解できる人でなければ、それを知ることは出来ません。私が真我の直接体験をして1年以上も経ってから、愛と赦しのエネルギーの出どころである胸のハートチャクラの存在を知ったのは、それまでの私では無条件の愛や無償の愛といった高みの愛を理解出来るほどの精神性がなかったのが原因ではないかと思います。全ての存在を愛する神の愛を知るには、それを知りえるだけの高い精神性を持たなければならないのではないかと思います。無条件の愛は現象世界の全てを生じさせる始原の愛と言えるものです。従って、自らの精神性を高め、その無条件の愛に近づけば近づくほど始原に近づくことになるのではないかと思います。だから、私は帰依や悟りには愛が必要ですと言うのです。

 それでは、いつどのようなきっかけで純粋意識の中に存在性が存在性への愛と共に現れ出るのでしょうか。それは、現段階では私には分かりません。私の体験から言わせてもらうならば何の理由もなく何のきっかけもなく存在性とそれへの愛が生じて現象世界が現れ出るとしか言いようがありません。また、なぜ真我の直接体験のほうが先で、ハートチャクラから湧き出る無条件の愛を体験することのほうが後に来るのかといった疑問も感じます。体験の順序にも何か意味があるのかもしれません。私が思うに先に真我である空(くう)の本質を知らなければ、真我がどれほどまでに現象世界の全てを愛しているのかを理解するのは難しいからかもしれません。さらなる探求が必要であると思います。

 では目を開けてみます。本当は周りに医者や看護師或いは助産師さんがいて、自分を抱いて見下ろしている母親の顔が見える生まれたばかりの赤ちゃん目線の動画を使いたかったのですが探しても無料で使える、その様な動画はなかったので、やむなく今お見せしているような動画を使うことにしました。男性らしい人が自転車に乗っています。右端を走っているので外国でしょうか。赤ん坊であろうが大人の男性であろうが同じことです。その人間に予め設定された人生ストーリーに従って、思考や感情も含めて一生を通して体についている目などの感覚器官で感じる現象世界を本来の自分が何であったのかを忘れるようにして体験しているのが純粋意識である私たち一人ひとりなのではないかと思います。それでは純粋意識に戻ろうと思います。目をつぶります。この世の存在性を抜けて純粋意識に戻りました。先ほど申し上げた通り真っ白な画面を純粋意識と思ってください。このあらゆる概念が存在しない根源とも言える純粋意識にまで帰り着くことが真我の直接体験と言われるものです。ここまでが私自身が体験から現象世界の顕現について理解していることです。

 真我についての、これ以上の自分の経験を超えたお話しを何かする場合は、これは自分の経験から得られる推論ですとか、憶測ですとか、誰々さんの言っていたことですがというようにお断りを予めしたうえでお話しをすると思うので基本的に私が動画の中で話すことは、あくまでも私自身が実際に体験した範囲の中から、その時点で理解できたことに限定されます。よって、経典や聖典に書かれている内容を解釈する場合においても実際の自分の体験に基づいた、その時点での理解の中でお話しをしていることになります。その解釈は、ずっと変わらない場合もあるでしょうし変わる場合もあると思います。また、まだ自分が体験しておらず理解が及ばないところにまで安易に触れ軽々しく言及するようなことがあってはいけないとも思っています。従って、チャクラについて私自身がそれを体験するまで、その存在について分からなかったのと同様に真我の直接体験をしたからといって何でも空(くう)について分かっているなどということは全くありません。経験上、これまでの私の大きな気づき体験は大体1年以上の間隔を開けて起きているように感じられます。その事から、これからも大きな気づきを得られる可能性はあるかもしれませんし、ないかもしれません。要するに、私はまだまだ真理の探求途上にある身だということです。その事をご承知の上で、私の動画をご視聴下さいますようお願い申しあげます。

 ここで動画を観ていらっしゃる方々に提案があります。是非試してください。まず大前提として、一人ひとりの目の奥には多分まだ多くの人が気づいていない神様の視点があります。そんなこと信じられないと思うかもしれませんが、とりあえず自分の中に神様がいて、人間の体を通して世界を体験し観賞していると思ってください。その神様の視点になったつもりになっていただきたいと思います。世界を今見ているあなたの視点を移動させて目の奥にある神様の視点までずーと引いて見るように少しばかり努力をしてみて下さい。その様にイメージをしてみて下さい。神様になったつもりで今まで自分だと思っていた体を客観的に俯瞰して見るようにしてみて下さい。

 そして周囲を見渡してください。テーブルの上にあるパソコンや持っているスマフォ、本やコップといった物とあなたの体を比較してみて下さい。神様の視点に立てば自分のものと思っていた、あなたの体は周囲の物と何ら変わりがないように見えるはずです。あなたの体は周囲の物と全く同じであり、分けることの出来ない物として常に一体というのが本当のところなのですから、そのように感じられるまで何も考えずにじっと俯瞰し続けてください。遠近感がなくなり自分の体も含めて周囲の物が平面に見えるようになるまで凝視してみて下さい。体の感覚は、とりあえず無視してください。そして視界内に見えるものが全て平面的に感じられるようになったら、次に意識的に眼を閉じたり開いたりしてみて下さい。

 すると当たり前ですが眼を閉じれば暗くなり、眼を開ければ視界が開けて、そこに何かが在るように見えます。それは単純に色の違いで認識されるはずです。色というものには、その色が見える限られた範囲があり範囲には形があります。私たちは形として見る視覚情報の色を判断の対象としています。そして、形として見る色は光がなければ認識できず世界は真っ暗になります。世界は光と共にあると言っても過言ではありません。光が生じれば世界はそこにあるかの如く生じ、光が消えれば世界は消滅するのです。

 旧約聖書の創世記第13節と4節には次のように書かれています。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」「神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。」

 今読み上げた通り、聖書に書かれているそのままの事が瞼を閉じたり開いたりするたびに日々繰り返される毎日の一瞬一瞬の出来事として私たちの身に起こっていると言えるのではないでしょうか。

 多分あなたは私のこれまでの説明を聞いてもなお、今見ている目の前の直ぐ近くにある体を自分であると思っているはずです。しかし、それは単なる思い込みに過ぎません。ただの勘違いです。あなたは体ではありません。体は神様が現象世界を体験し観賞する対象の中の一部でしかありません。神様は体を含めた目に見えている世界全部を一つの映像として見ているのです。同時に自分の中で感じている感覚や感情,やってくる思考もあなたではありません。神の視点に立てば、それらすべてが観賞する対象なのです。

 ここでまた、先ほど前のほうで話した現段階では空想でしかない未来に出現するかもしれない一時的に自分の記憶を忘れるようにして一人称映画の登場人物に完全に没入するやり方で映画を観賞する体験型映画館についての続きの話しをしようと思います。

 今ご覧になられている動画も一人称で撮影されたもので著作権フリーの動画になります。人がスノーボードに乗って軽快に雪の上を滑っている映像です。そこで少し滑っている本人のつもりになって映像を見てください。映像を凝視してみて下さい。ちょっとはスノーボーダー気分になれるのではないでしょうか。ですが、これを屋内で見ている場合や一度もスノーボードをやったことがないという記憶のある人、また季節が一歩外に出れば暑い日差しが突き刺さる真夏であったなら、眼からの情報だけでは真冬にスノーボードをしている錯覚までを引き起こすことは難しいかもしれません。この映像を現実のものとして感じるようになるには、今は夏という記憶が今は冬という記憶に入れ替わり、スノーボードの経験が十分にあるという自信と屋外にいる解放感や防寒具で身を包んでいても寒いという感覚、加えて風を切る肌感覚と体に感じる大小の様々な衝撃が必要になると思います。それがなければ実際に滑っているという気持ちになるのは難しいのではないでしょうか。逆を言えば、その感覚を疑似的にでも完全に実現できる体験をすることができれば実際は屋内にいても自分はスノーボードで滑っていると脳に勘違いをさせることが出来るのではないかと思います。まさに映画のマトリックスで描かれたカプセルの中でコンピューターにつながれて脳の中で見ている世界を現実のものと勘違いするストーリーと同じではないでしょうか。 

 この場合は人間という生き物が体験者として介在しますが、もう一つの可能性として私たちが見ている世界は、私たち自身も含め生き物が一切介在していないコンピューターの中だけで全てが完結している世界かもしれないということが考えられるのではないかと思います。ただ、その場合、私が体験した一切の記憶もなく、何も考えることもなく、自らを顧みるということもなく、それ故に自分自身の存在に気がついていないけれど純粋で明晰で明白な気づきとしての、ただ「ある」という存在に自らなるという真我の直接体験をコンピューターが再現できるのか疑問です。

 加えて、前回の動画内でお話ししたような私が感じた心臓を中心として胸から湧き出し宇宙の隅々にまで行き渡るような無限大に広がる無条件の愛の感覚をコンピューターが再現できるようになるのか私は疑問に思います。そもそも創造された宇宙に対する存在性への愛や自己を犠牲にしてでも他者の存在性や尊厳を守ろうとする愛を検知し、その大きさや純粋性を測定して数値化できるのでしょうか。そのうえで感情を含め内面で感じる愛を機械が再現できるのでしょうか。それに私は心霊現象と言えるような体験を何度かしたことがあります。また、宅配で訪れた初対面の人を玄関を開けて見た途端に外見は普通なのに、その人の内面に持つ嫌なエネルギーを感じたことがあります。路上ですれ違った見知らぬ人の中にも同じような嫌なエネルギーを感じたこともありました。さらに、どれほど接種推奨を進めるCMが「大切な人を守るために」とテレビなどで言っていたとしても、いかに大多数の8割の国民が流行り病の予防接種をしていたとしても私は予防接種に対して不信感を感じたので打つことはありませんでした。ハートチャクラから溢れ出る無条件の愛を感じた今でさえも流行り病の予防接種は、この不信感が払拭されない限り受けるつもりは全くありません。この心霊現象などの体験やほとんどの人が大丈夫と考えているものに対する内面で感じる不信感というものをコンピューターが再現できるのでしょうか。世の中が、どうであろうと人の言うことよりも自分の感覚のほうを信じ、たとえ、その選択の結果が自分の死であったとしても、その全責任は自分にあることを自覚し受け入れ覚悟したうえで、自分の感じた通りに行動するというような生き方をコンピューターが再現できるのでしょうか。また聖書にはイエス様が生まれつき盲目の人を見えるようにしてあげたり、水上を歩いて見せたり、死んだ人を生き返らせたり、最後には自ら生き返り昇天してみせるといった種々の奇跡を大盤振る舞いしたことが書かれています。私は科学者ではないので全く分かりませんが、私の言動を含めて、このような一般的な社会通念に反するような合理的には考えられない不条理な事をコンピューターが再現するにはとても無理なように感じます。しかし、視点を変えれば、むしろ仮想現実だからこそ映画やゲームの世界のように何でもありの世界を創造することが出来るのかもしれません。一定数、周囲と違う行動をする個体が生まれるように予めプログラミングしておけば私のような反乱分子が出現してもおかしくはないのかもしれません。しかし、そこには心が伴っているわけですから理屈よりも心を重視する行動を機械が理解できるのか、やはり疑問です。

 何にせよ、この世界が人間を全く介在させない完全にコンピューターの中だけの仮想現実と仮定した場合にしても、または未来における体感型映画館内において予め設定された映画の中の主人公に人間の意識を完全に同一化させたうえで映画の仮想現実を体験させていると仮定した場合であっても、いずれの場合であっても、その何でもありの仮想現実を作り出した大本の存在を否定することは出来ないと思います。その大本の存在を神のような存在と考えるのか、やっぱり物質としての人間であると考えるのかは人それぞれであると思います。私は自分の体験から、仮想現実を作り出した大本の張本人は人ではない純粋意識であると思っています。その純粋意識のことを人々は、その時々で神と言ったり仏(ほとけ)と言ったり空(くう)と言ったり真我と言ったりハイヤーセルフと言ったりしているのではないかと思います。

 繰り返しになるかもしれませんが、仮想現実を作り出した大本の張本人は実際のところ言葉で説明できるものではありません。それは「ある」としか言いようがないものです。または、「あれ」「それ」「これ」としか言いようがないものです。それを知るにはやはり自分自身で確かめるしか方法が無いと思います。私は、心から真理の探究に真摯に取り組める人ならば、それを体験するのは、それほど難しいことではないと思っています。心得としては、この世の固定観念に囚われることなく目に見えないものを否定することなく心から神仏を愛すればいいだけだと思います。また、同じように平等に天地万物を愛するように心がければいいだけだと思います。それまで、うるさい気持ち悪いと言って軽い気持ちで殺していた蚊やハエ、アリや蜘蛛、ゴキブリにも、この宇宙でたった一つしかない人と同じかけがえのない大切な命が宿っていることに配慮し、憐みの心をもってなるべく殺さないように心がければ良いだけです。学習面では宗教の違いにこだわることなく満遍なく世界の宗教を学んでいけばいいと思います。その中から宗教間の違いに目を向けるのではなく共通したところから真理を見いだすように努力すれば良いと思います。なぜなら全ては一なるものであり一者の現れだからです。とりあえずは自分が取っつきやすいと感じる仏教やヒンズー教キリスト教などについて書かれた解説書やインドの聖者について書かれた悟り系のスピリチュアル本などを幅広く読んでいくのが良いかもしれません。実際、私は心得の面でも学習面でも、そのようにしてきました。

 最後に仮想現実のほうに話しをもどすと、お釈迦様やイエス様の時代にはコンピューターなどというものは当然ながら無かったわけですからコンピューターによる仮想現実というようなことまで考える必要はなかったわけです。一方、現代は科学の進歩により機械による悟りの再現性の可能性まで考えなければいけないわけですから一個人の悟りの話しで終わらないという点が今の時代における新しい特徴と言えるのかもしれません。

 いずれにしても、私の探求はまだまだですし、求道は道半ばであると思っています。しかしながら、だからといって何か特別なことをするということはないと思います。今まで通り、これまでしてきたことを、これからもしていくだけです。やること自体は、たぶん何も変わることはないと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。