下記文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。
帰依と悟りには愛が必要です❣
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で33回目の動画になります。今回の動画では帰依や悟りには愛が必要ですというお話しをしようと思います。
まず、帰依とはどういう意味なのかを調べてみました。これは既に他界している私の母が使っていたもので池田大作監修創価学会教学部編日蓮大聖人御書辞典というものです。
これによると、帰依とは「帰投依慿(えびょう)して救護(くご)を請うこと。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることをいう。信伏(しんぶく)随従(ずいじゅう)の義をもち、仏法僧の三宝に帰依することを三帰といい、仏法信仰の根本となる。」と書かれています。
帰投は帰依という意味や本拠地に帰るという意味があります。依慿(えびょう)は、 人によりかかり頼みとするという意味があります。救護(くご)は仏教的観点では苦しみや困難からの救い、安らぎや悟りを得るための教えを意味するのではないかと思います。仏教における尊者は、仏教の教えを深く理解し実践することで他者から尊敬される存在のことです。尊者は、他者を導き教えを広める役割を果たします。 勝者は、煩悩や迷いを克服し悟りを達成し慈悲と智慧の実践をして他者を助けることを重視する人のことではないかと思います。信伏(しんぶく)とは、仏教において信仰と従順を意味し、具体的には仏やその教えに対する深い信仰と、それに従う姿勢を指します。 随従とは付き従うという意味ですから、信伏随従の義とは仏教徒が仏法僧の三宝に帰依し付き従う正しい教えという意味になると思います。
ですから、それらの意味を総合して簡単に解釈するなら、帰依とは救いや悟りを求めるのなら本来あるべきところである仏法僧のところに戻って、それに絶対の信頼を置いて付き従い信心の頼りとすることなのではないかと思います。
ところで仏や菩薩が一切衆生の苦しみを救おうと願って、必ずこれを成し遂げようと誓うことを誓願と言います。誓願には、すべての菩薩が修行の初めに必ず起こす願である総願とそれぞれの仏・菩薩が独自の目的でおこした固有の別願とがあります。 別願には阿弥陀如来の四十八願 (しじゅうはちがん) 、薬師如来の十二願 、釈迦如来の五百大願などがあります。今回は別願については取り上げません。本動画では総願だけを取り上げようと思います。
総願とは何かというと四弘誓願(しぐせいがん)とか四弘行願(しぐぎょうがん)と言われるものです。宗派によって多少言い方が変わるようです。ウィキペディアには「菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。」と書かれています。。
その四弘誓願(しぐせいがん)とは、どういうものかというと「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願 」「煩悩は無量だが、すべて断つという誓願 」「法門は無尽だが、すべて知るという誓願 」「仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願」の四つです。そして、日本仏教のほとんどの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされているとウィキペディアには書かれています。
私が四弘誓願の中で注目したのは最初の「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願」と日本仏教のほとんどの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされているというところです。四弘誓願の四つの誓願の中身に対してはどれももっともなことなので、それ自体にどうこういうつもりはありません。しかしながら、その順番に目が留まったのです。なぜ、二番目や三番目、あるいは四番目ではなく最初の一番目に来るのかということです。
通常、世間一般の人々が悟りを目指すとき煩悩を何とかし抑え込もうとすることばかりを最初に考えるのではないでしょうか。一体全体、悟りを口にする人のうちの何人が、この世の生きとし生けるもの一切をどのようにしたら救うことが出来るのかを最初に取り組まなければいけない課題として考えているのでしょうか。やはり、悟りを目指すのであれば、その発願(ほつがん)は自分の救済のみならず、いえ自分のことなど差し置いて、まずは他者の救済を真っ先に考えるものでなければいけないと思います。それなら、どうして発願には自分のみならず他者の救済が含まれなければいけないのでしょうか。そして、どうしてそれが四弘誓願の最初に来なければいけないことなのでしょうか。これは、とても重要な問題です。なぜなら宇宙の根本原理に関わることだからです。
まず、地上のあらゆる生き物すべてを救済したいという考えの背景には他者を思いやる慈しみのやさしい心がなければ、それに目を向けることはないのではないかと思います。そして根底に愛があって初めて成り立つ考えなのではないでしょうか。つまり、悟りの発願の最初には愛がなければならないということを暗に示しているのではないかと思います。だからこそ、愛の重要性を分からせるために日本仏教界のほとんどの宗派では在家檀信徒に日常読経すべきものとしているではないかと思います。つまり仏教に帰依する人は、四弘誓願に書かれている愛に基づいた同じ志を持たなければいけないということだと思います。
自分だけの救済など我欲の現れです。もちろん、世界を救うためには自分が先に救われる必要があります。自分が救われなければ他者を救うことはできません。しかし、そのためには、まずは自分を後回しにする心、自分を捨てて他者を救済したいと思う心が何よりも大事になるという逆説的なことが必要になるのです。他者を一切顧みることなく動機が自分だけというのであれば、それは我欲の現れとしか言いようがありません。自分だけという考えの中に愛があると言えるでしょうか。そもそも自分だけが救われて一体何の意味があるのでしょうか。他者を顧みない自分だけの心で、いくら悟りを求めても悟ることは永遠にできません。全ては一者の現れであることから自分も他者も一体です。だから他者の救済は自分を救済することになるのです。すなわち、自分を捨てて他者を救いたいという心は即自分を救うことになるのです。故に、「地上にいるあらゆる生き物すべてを救済するという誓願 」が一番最初に来るのです。どうでしょうか。仏様に帰依するとは、これだけの深い意味があると私は考えています。
それでは次に、キリスト教における「帰依」とはどういう意味になるのかをマイクロソフトのCopilot(コパイロット)に尋ねてみました。すると次のように答えてくれました。
『「帰依」という概念は、仏教のそれとは異なりますが、信仰と献身の重要な側面を持っています。キリスト教徒にとっての帰依とは、以下のような意味を持ちます。
1. 信仰の告白: キリスト教徒は、イエス・キリストを救い主として信じ、その教えに従うことを誓います。これは、洗礼や信仰告白を通じて表現されます。
2. 神への献身: キリスト教徒は、神に対する完全な献身を示し、日常生活の中で神の意志に従うことを目指します。これは、祈りや礼拝、聖書の学びを通じて実践されます。
3. 隣人愛: キリスト教の教えでは、他者を愛し、助けることが重要とされています。これは、イエス・キリストの教えに基づく行動であり、社会的な奉仕や慈善活動を通じて表現されます。
キリスト教徒にとっての帰依は、神との個人的な関係を深め、信仰を実践することを意味します。これにより、精神的な成長と内面的な平安を得ることが目指されます。』
とても素晴らしい答えではないでしょうか。カトリックやプロテスタント、それ以外の教派で多少なりとも違いはあるでしょうが、イエス・キリストを救い主と信じ教えに従うという点では同じなのではないかと思います。もし違っていたら申し訳ありません。
それでは具体的に聖書の中で帰依がどのように語られているのかを見てみようと思います。
最初は旧約聖書のヨシュア記22章5節です。
「ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた戒めと律法を守り、あなたがたの神、主を愛し、すべての道に歩み、主の戒めを守り、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えなさい。」
これは仏教の帰依と全く同じではないでしょうか。尊者・勝者に身をゆだね、よりどころとすることや仏法僧に絶対の信頼を置いて付き従い信心の頼りとすることなど変わるところは何もありません。「すべての道に歩み」という箇所は四弘誓願の三番目にある仏様の全ての教えを学び知るに通じるところがあるのではないでしょうか。キリスト教と仏教の違いを口にするのは簡単ですし限(きり)がありませんが、私は共通するようなところに目を向けようと思います。
次は新約聖書のマタイの福音書 22章37節から39節です。
「イエスは彼に言われた、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが大切な第一の戒めである。第二もこれと同じように大切である。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』」
イエス様のこの言葉からも分かるように自分の全てを投げうって全身全霊で神を愛することはとても大切です。第二の戒めについても、人間だけに言及しているのではなく自分の視界の中にある全ての人と人以外のものを区別することなく自分と同じように愛しなさいとイエス様は仰ったと私は解釈します。なぜなら、すべては一なるものとしての現れだからです。隣人とは、その視界内に見える自分の体を含めた全てのありとあらゆるもののことです。イエス様は人間の視点でものを言っているのではありません。真我の視点、つまり神の視点から発言していることを忘れてはいけないと思います。
ヨハネの福音書 13章34節から35節
「新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるであろう。」
これはイエス様が目の前にいる弟子たちに直接に言った言葉であるとは思いますが、たとえ時代と場所が違おうとも、この言葉は現代の私たちにもそのまま当てはまると思います。私たちが一なるものとして互いに愛し合うことが出来るのなら、私たち皆がイエス様の弟子であることに間違いはないと思います。動画が長くなるので聖書を取り上げるのは次で最後にしようと思います。
ヨハネの第一の手紙 4章19節から21節
『私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛してる」と言いながら兄弟を憎むものは偽り者です。現に見ている兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。この戒めを、私たちは神から授かっている。』
これはとても重要です。私たちの人を愛する時の愛はどこから来るのでしょうか。人だけではありません。動物や単なる物であっても人は愛することが出来ます。その時の愛は一体どこからやってくるのでしょうか。私たちの中に元からあったものなのでしょうか。いいえ、それは神様からやってくるものなのです。ヨハネが言うように神様が私たち全ての存在をあるがままに認め愛してくれているからこそ私たちの中に愛が生まれるのです。私たちの中にある愛は神様の愛そのものなのです。ですから私たちは神様を全面的に信頼し自分の全てを明け渡して完全に身をゆだねなければならないのです。そして、そのように神様を愛した時、兄弟に限らず誰であろうと自分の視界の中にある全ての存在をどうして憎むことが出来るのでしょうか。
そして今度は「ヒンズー教での帰依とは何かを教えてください。」と、同じように マイクロソフトのCopilot(コパイロット)に質問しました。すると以下のように答えてくれました。
『ヒンズー教における「帰依」(バクティ、Bhakti)とは、神への絶対的な信愛や献身を意味します。これは、信者が神に対して深い愛情と忠誠心を持ち、自己を捧げる行為を指します。バクティは、ヒンズー教の重要な宗教的実践の一つであり、以下のような特徴があります。
1. 神への愛と信頼:信者は神を愛し、信頼し、全てを神に委ねます。
2. 個人的な関係:神との個人的な関係を築くことが重視されます。
3. 儀式と祈り:日常的な儀式や祈りを通じて、神への帰依を表現します。
4. 精神的な成長:バクティを通じて、精神的な成長と内面的な平和を追求します。
バクティは、特にヴィシュヌ派やシヴァ派などのヒンズー教の宗派で広く実践されており、信者が神との深い絆を築くための重要な手段とされています。』
マイクロソフトのAIであるCopilot(コパイロット)は本当に重宝します。虹色のCopilotのアイコン をクリックし出てきたテキストボックスに知りたいことを入力してクリックすれば膨大な情報の中から最も関連性の高い情報を抽出して教えてくれるのですから使わない手はありません。しかもサムネイルの画像まで生成してくれるのですからマイクロソフトさんにはとても感謝しています。ただ、完全に的外れなことをさも正しいかのように言ってくる時があるので全面的に信用するのは考えものです。必ず確認作業が必要です。Copilotは参考程度に使うのが無難です。
話しを戻します。以前、動画で取り上げたことのあるヒンズー教の主要な聖典の一つであるバガヴァッド・ギーターは、神への愛と献身の重要性を強調しています。特に第12章では、神への愛と献身が詳細に述べられています。
主人公であるアルジュナが、最高神ヴィシュヌの化身であるクリシュナに神に対して常に専心し神を念相する信者と不滅で非顕現なものを念相する人々とでは、どちらが最も至高の存在との合一を知る者であるかを尋ねた際に次のようにクリシュナは答えています。少し長いですが12章2節から8節まで読み上げようと思います。
『私に意(こころ)を注ぎ、私に常に専心して念相する、最高の信仰を抱いた人々は「最高に専心した者」であると私は考える。ただし、不滅で説明され得ず非顕現で至る所にあり、不可思議で揺るぎなく不動であり堅固なものを念相する人々、感官の群を制御して一切に対して平等に考え万物の幸福を喜ぶ人々も他ならぬ私に達する。だが、非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である。というのは非顕現な帰結は肉体を有する人々によっては到達され難いから。一方、すべての行為を私のうちに放擲(ほうてき)し、私に専念して、ひたむきなヨーガによって私を瞑想し念相する人々、それら私に心を注ぐ人々にとって、私は遠からず生死流転の海から彼らを救済する者となる。アルジュナよ。私にのみ意(こころ)を置け、私に知性を集中せよ。その後、あなたはまさに私の中に住むであろう。疑問の余地はない。』
私は究極的に最終的には偶像崇拝や特定の人格を持ち形を有して目に見えて頭で考えられる限定されるような神的存在は避けるべきものと思っています。実際、そのような神は本当の神ではありません。現象世界の一部として、私やあなた、その人をその人たらしめている自己の存在性が生み出したものです。しかしながら、今読み上げた通り、あるのか無いのか分からない不確かなものを目標にして悟りを目指すのは最高神の一人であるクリシュナが指摘するように困難が伴うと思います。ですから精神鍛錬の導入部分では当面の間、目標になるお釈迦様やイエス様、ヴィシュヌ神といった神仏や特定の人物を思い浮かべるのは有効な手段なのかもしれません。そのことをクリシュナは言っているのではないかと思います。
そして、このシュリーマッド・バーガヴァタムという聖典も神への愛と献身を中心に据えています。特に第10部では、クリシュナ神への愛と献身が美しく描かれています。いずれ、この日本ヴェーダーンタ協会から出ている「シュリーマッド・バーガヴァタム」についても詳しくご紹介しようと思っていますが、今回は帰依や悟りに必要な愛というテーマなので、それに言及した箇所をいくつか抜粋するだけにしようと思います。
「主クリシュナは、苦行によっても禁欲によっても、また、経典の研究によっても達することはできません。しかし、ひたむきな信仰をもって主を愛する者にはクリシュナは容易に見出されます。なぜなら、彼らは主に選ばれた者、心に純粋な愛を持つ者だからです。主クリシュナは無限であられますが、愛によって知ることが出来るのです。」(184ページ)
「シュリ―・クリシュナの聖なる愛を思い、クリシュナとゴービー(牛飼いの少女)たちとの甘美な交わりを瞑想する者は、情欲などの感覚的な欲望から解放されると、まことに真理は語っています。」(192ページ)
「牛飼いの少女たちは、私を自分たちのまさに魂であると理解している。彼女たちは、私のためにこの世の喜びをすべて捨て、そうしていつも私を愛そうとしている。私は、私のために他のすべてを捨てた者に私の平安と無限の幸福をもたらす。彼女たちはこの世の何よりも私を愛し、しかも、ただ愛のために私を愛している。」(196ページ)
「私は決してあなた方から離れてはいない。なぜなら、私はあなた方の自己、すべての生き物たちの内なる自己だからである。私は、いつも、あなた方とともにいることを悟らなければならない。大海はすべての川や流れの終点であり目的地であるように、私はすべてのヴェーダ、八段階のヨーガ修行、識別、放棄、義務の遂行、自己制御の終点であり、至高のゴールであり目的である。おお、いと美しき者たちよ。私があなた方から離れているのは、あなた方が私を瞑想してハートのうちに私を見出すためである。従って、心の動揺を鎮めて自らを私に託し私を瞑想せよ。そうすれば、ハートのうちに、すぐにも私を見つけだし私の存在へと至れるだろう。私に会ったことがなく、ただ私を瞑想する者でさえも私を見いだし私の存在へと至れるのである。」(198ページ)
いかがでしたでしょうか。仏教、キリスト教、ヒンズー教とそれぞれ帰依の中核には神仏への信頼と委ねることの大切さ、何よりも愛の重要性が強調されていることが分かるのではないでしょうか。ですから、私は帰依には愛が必要ですと断言したいと思います。
それでは、ここからは、もっと具体的に帰依や悟りに必要な愛とは、どのような愛なのかをお話ししていこうと思います。
ご覧になられた方もおいでになられると思いますが、私は自分の30回目の動画になる「阿羅漢は輪廻から解放されることはないのか?」の中でお釈迦様の弟子の一人であるチューダパンタカについてお話しをしたことがありました。
この30回目となる動画を作るきっかけとなったのは仏陀の教えチャンネルさん制作の【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という動画のコメント欄に「「シュリハンドクの経験は素晴らしい。 しかし、阿羅漢になったからといって輪廻から解放されることはないですよ。 」というコメントを見つけたからです。その事自体については今回の動画の本筋とは無関係なのでこれ以上触れることはしませんが、何のことか分からないという方は私の30回目の動画をご覧になられるか、若しくはHatenaブログ内の私の30回目のブログをお読みになられてはいかがでしょうか。
私の30回目の動画作りのきっかけとなった仏陀の教えチャンネルさん制作の【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という素晴らしい動画をご覧になられた方であれば分かると思いますが、チューダパンタカはお釈迦様を心から慕っていたであろうことが分かります。動画の中では直接チューダパンタカのお釈迦様への愛について語られることはありませんでしたが、たぶん自分の親以上に親しみを感じ信頼し尊敬し好意以上の信愛の情を抱いていたのではないかと思います。だからこそチューダパンタカは、お釈迦様の言いつけをしっかりと守ることが出来たうえに、様々な試練を乗り越えることが出来たのではないかと思います。チューダパンタカが悟りを開くことが出来たのは、ひとえにお釈迦様への愛があったからではないかと私は思っています。
ですから南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などの念仏やお題目をあげるにしても、そこには阿弥陀仏やお釈迦様の教えを単に信じるだけでは駄目で、信じることに加えて阿弥陀様やお釈迦様を心から愛する気持ちがなければいけないと思います。
イエス様の弟子たちについても同じことが言えると思います。弟子たちは間違いなくイエス様を愛していました。なぜなら、イエス様の母親を任せられたヨハネを除いた全員が殉教したと言われているからです。イスカリオテのユダについては裏切り者で、しかも自分から首を吊ったのだから殉教ではないという人もいるかもしれませんが、首を吊った心理的背景には、やはり単なる罪悪感に対する贖罪からだけでなくイエス様に対する愛がそこにあったからではないかと思います。イエス様への愛があったればこそ自分の罪深さに気づいたと言えるのではないでしょうか。裏切り行為をした時は、イエス様への愛にユダ自身がまだ気がついていなかっただけではないかと思います。それに私に言わせれば全ては起こるべきことが起こるべきこととして起こっていることなのでイエス様を形の上では裏切ったように見えたとしても、それもまた神のご意思に従ったことによる殉教であると私は考えています。ユダ以外の他の11人の弟子たちについても、それは同じことで、それぞれ悲惨な最期を遂げています。
シモン・ペテロは逆さ磔で死に、ゼベダイの子ヤコブとマタイ、そしてトマスは剣で殺され、アンデレはX字型の十字架で処刑されました。フィリポは逆さまに十字架にかけられて石打にされ、 バルトロマイは皮剥ぎ刑に遭い、タダイは斧で殺されました。アルファイの子ヤコブは神殿の屋根から突き落とされたうえに石と棒で叩かれて殺されたとのことです。 熱心党のシモンは、のこぎりで体を二つに裂かれて殺されたという説や、十字架にかけられたという説があります。そして、イスカリオテのユダの後任としてくじ引きで選出され使徒の一人になったマティアは石打の刑のあと斧での斬首になったそうです。
ヨハネとユダ以外のイエス様の弟子たちは、なぜ自分が殺されるかもしれないことを厭(いと)うことなくイエス様の教えを広めようとしたのでしょうか。イエス様が見せた奇跡に驚いたからでしょうか。しかし奇跡を見て驚いた人は沢山いたはずです。驚いた人すべてがイエス様に付き従ったわけではありません。なら、奇跡を見て神の子と信じたからでしょうか。それも理由の一つに挙げられるかもしれませんが、それなら、その時に奇跡を見て神の子と信じた全ての人がイエス様の教えを広めようと尽力し殉教したはずです。しかしながら、そんな事にはなっていないと思います。それでは、イエス様の弟子だったことが理由でしょうか。しかしながら、イエス様が祭司長たちに捕らえられた時、その場にいた弟子の全員は逃げ出しています。そんな情けない弟子たちが一体どうして伝道に命を懸けられるほどの気概を持つことが出来るようになったのでしょうか。イエス様の復活後の姿を見て驚いたからでしょうか。復活したイエス様から伝道するように言われたからでしょうか。私は、それだけでは不十分ではなかったかと思います。私が思うに、その時においてイエス様を心から愛していたかどうかの違いではないかと思います。殉教した弟子たちはイエス様を神の子だからという理由だけで、ただ信じていたわけではなかったはずです。神の子として信じたうえに、さらに心から愛していたからこそ、その愛する者のためなら、業火で焼かれて、すさまじい苦痛にもがき苦しんだとしても、どのような残酷な方法で殺されたとしても、それを甘んじて受け入れようとする固い決意があったと言えるのではないでしょうか。故に、殉教した弟子たちは自分の命の危険を顧みることなく逃げ出そうと思えば逃げられた状況であっても、人々を愛したからこそ死に立ち向かい人々の罪を背負って亡くなられたイエス様のように自らの死を覚悟しての伝道活動をしたのではないかと思います。そこには、ただ神を信じるといった信仰以上のイエス様への愛があったと言えるのではないでしょうか。
人は愛する者のためなら死ぬことも厭いません。愛する者を救うためなら、むしろ喜んで死を選ぶこともあります。この世には、たとえば警察官とか消防官といった仕事には職務上危険に立ち向かう義務があります。それも一種の愛ではありますが、そういった職務上の義務のない普通の人々の場合について考えてみた時、自分にとってどういう人のためなら自分の命を犠牲にすることが出来るのでしょうか。私のような普通の人が一般的に死んでも構わないと思う守るべき対象として真っ先に考えつくのは、まずは夫や妻、恋人、親や子、兄弟姉妹に友人といったところではないでしょうか。もしかしたら、中には警察官や消防官といった職務上の義務がないにも関わらず、たとえ見知らぬ人であっても自分の命を懸けて守らなければならない時もあるなどと勇ましいことを言う人も中にいるのではないでしょうか。もっと大きく地域のためや国のために命を懸けることもあるのではないかと言う人もいると思います。なんにせよ、人というのはいざという時は自分以外の何かのために命を捨てて自分よりもはるかに大きい相手に立ち向かうことが出来る存在なのではないかと思います。もちろん、これは人に限ったことではないと思います。仲間や飼い主を助けるために自分よりも強いものに立ち向かう動物たちの映像をユーチューブなどで時折見かけることがあります。
今言ったことは全ての人や動物に当てはまるわけではないでしょうが、なぜ人間も含めた生き物たちは自分以外の何かのために自分を犠牲にすることが出来るのでしょうか。単なる本能でしょうか。打算でしょうか。人間の場合は特に打算が強く働くように思えますが、それでも時には自己の利益よりも他者の利益を優先する場合があります。特に強いきずなで結ばれている関係性の中で多く自己犠牲が生じるように感じます。これは、何なのでしょうか。そこには、やはり愛というものがあると言えるのではないでしょうか。そして、その愛は一体どこから生じるのでしょうか。
仏教には四無量心という教えがあります。慈無量心、非無量心、喜無量心、捨無量心という四つの心の働きに関する教えです。浄土宗大辞典Web版
(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%BF%83 )
から引用すると、慈無量心は、いつくしみの心によってすべての生きものに楽しみを与えようとする心のことです。 悲無量心は、あわれみの心によってすべての生きものの苦しみを抜こうとする心のことです。喜無量心は、自分を愛し、他をねたむ心を捨てて他人の楽しみをともに喜ぶ心のことです。捨無量心は、私心がもたらす愛憎、好悪(こうお)の心を捨てて他に対し平等に接する心のことです 。これらの衆生を利益(りやく)するにあたって無制限に配慮する慈・悲・喜・捨の四種の心のありようは仏や菩薩のもつ絶対の境地として尊重されると書かれています。
このことから悟りとは愛であると言うことも出来るのではないかと私は思います。愛のない人に悟ることは出来ません。誰かが、もし本当に悟りたいと言うのであれば、その人は愛の人でなければいけないと思います。世界に対して、自然に対して、人に対して、動物に対して、物に対して、ありとあらゆるものに対して愛を持たなければいけないと思います。万物に対して等しく愛を持たなければいけないと思います。全ての生類に対して等しく愛を持たなければいけないと私は思います。これは真実です。
自己満足の愛や執着からくる愛ではなく、他者に対する慈悲心の基になる本当の愛が、その人にあるのなら容易く悟りを得ることが出来ると私は思います。もし、悟りを目指して真理に関する勉強をしつくして座禅や瞑想も何十年とやっているのに悟りを一向に得られないという人がいたとしたら、厳しい物言いになってしまうかもしれませんが、その人には四無量心の基になる愛がないか足りていないということになると思います。それほど悟りには愛は重要な要素ということになります。
また、あなたは、どうして悟りを得たいと思うのでしょうか。例えば超能力を身に着けたいとか、教祖になりたいとか、金銭欲や名声、優越感などの自我からくる欲求を満たそうとする気持ちが自分の中に絶対ないと言えるでしょうか。自尊心を満たすために他人より優位な立場に立ちたいというのは愛でしょうか。そういった欲の充足から悟りを目指そうと思うのであれば、何よりもそれを取り除くことが先決ではないかと思います。
ですから、悟りを得たいと言うのなら、まず悟りを口にする前に自らの愛を高める心の修養をする必要があると思います。何も大げさなことをする必要はないと思います。たとえば遠い国の戦争に対しては争っている両国民の存在性を平等に愛そうとする気持ちを持つだけで十分です。自国や地域の人々に対しては同じように、その存在性を平等に愛する気持ちを持てば良いだけです。家庭や職場において日々顔を合わせる人たちに対しては、人それぞれ好悪の感情があったとしても、その感情を表に出すことなく、その存在性に対して愛を持って平等に接すれば良いだけです。精神的に余裕があるのであれば、自分の家の中だけでなく家の周囲を掃除したり職場では誰もしないような汚れているところを掃除したりと本のちょっとした心配りをすればいいだけです。さらに金銭的物質的時間的に十分な余裕があるのであれば、自分に出来る範囲の中で慈善事業にお金を寄付したり、相手が必要としている物を寄付したり、ボランティアをすれば良いと思います。それと、なるべく無用な殺生はしないことが大切です。ベジタリアンになる必要はありません。肉を食べたければ食べればいいと思います。私も量としては少ないですが肉は食べています。ただ食べ物を粗末にしないことと出されたものはなるべく残すことなく全部食べ切るというのは大切だと思います。また、道を歩く時では地面の虫を踏まないように気をつける必要があります。家の中では入ってきた蚊やハエや蜘蛛、蟻、ゴキブリなどといった生き物をなるべく殺すことなく出来る範囲でいいですから外に逃がしてやるという心掛けも大切だと思います。つまり、今まで気にもかけなかった小さな命にも心を向けることが大切であると私は思います。私は、いつもそのように心がけています。今言ったことを動画を視聴している人にまで必ずやってくださいとは言いません。やりたくない人はやらなくても結構です。あくまでも自分の苦にならない範囲で無理をすることなく自分の中にある愛が高まるような愛の実践を自分なりに考えた自分に合った方法で行えばいいと思います。とにもかくにも全てを慈しむ愛の心は悟りには本当に大切だと私は思っているということです。
なぜなら愛は、この世界を形作る基本にあるものだからです。愛がなければ一瞬たりともこの世界は成り立たないからです。愛によって、愛があってこそ、愛あればこそ私やあなた誰であろうとゴキブリ一匹ダニ一匹であろうと塵や埃であろうと何であろうと世界のありとあらゆるものが現れ出るのです。存在性の根底には切望とも言える存在性への愛があるのです。だから、悟りを望む人は、真に悟りたいのであれば同じようにありとあらゆるものに対して一切の区別をなくして等しく、その存在性を愛さなければいけないと思います。
私は、真我の直接体験をしてからというもの自分の内側からこみ上げるような愛が沸き上がってくるのを感じることがよく起こるようになりました。この愛は異性に対する愛欲ではありません。血縁関係にある肉親に対する愛情でもありません。友人などの近しい人に対する親愛の情でもありません。私は猫好きで19歳の時から数年前までずっと猫を飼っていましたが、動物に対する愛情でもありません。何か特定のものを対象とした愛ではないのです。もっと大きな全てを包み込むような愛なのです。それには一切の差別はありません。その愛は悪と言われるものでさえも包み込む愛なのです。存在の全てを包み込む愛なのです。
そして、ごく最近の11月6日の夜明け前の午前3時頃か4時頃、トイレに行ったあと再びベッドの毛布の中に入って、またひと眠りしようとしていた時のことです。その時の内面の体験を表現するのは難しいのですが心臓を中心とした胸のあたりが目には見えないけれども膨大なエネルギーの場になったかのように感じ、まるで愛の源泉が胸の中にあるかのごとく愛というエネルギーがあふれ出る流れを感じました。絶え間なく愛がこみ上げ湧き出てはじわーと周囲のもの全てに広がっていくのをはっきりと感じました。その愛は軽いものではありません。チャラチャラした浮ついたものではありません。とても強くて重たい重量級の愛なのですが宇宙全体の隅々にまで浸透しいきわたるような愛でした。どこにも限定されることのない無辺で時間的にも際限なく汲んでも汲んでも絶えることのない無限で如何なるものにも赦しを与える正(まさ)に無償の愛そのものでした。その愛そのものである愛は存在を存在たらしめている愛であり、宇宙を存立させている愛であると感じました。
私は以前の動画でもお話したことがあると思いますが、どういうわけか微睡(まどろみ)の中で気づきを得ることが多いように感じます。現象世界の顕現の力が弱まった端境期である微睡んでいる状態は私にとっては気づきを得る絶好の機会なのかもしれません。この動画を視聴している方は、自分の眠りから目覚めた直後の微睡、或いは眠りにつく直前の微睡を注意深く観察するようにしてみてはいかがでしょうか。何か発見があるかもしれません。
ところで今ご覧のイラストのように人間にはエネルギーが出入りするチャクラと呼ばれる七つの場所があるそうです。チャクラについて分かりやすく図解されていたウィキペディアの中国語版を見てみると胸にはアナーハタ・チャクラという4番目のチャクラがあるそうです。一般的に ハートチャクラと呼ばれているところです。このハートチャクラから出るエネルギーには愛の他に寛容や許し、癒しのエネルギーなどがあるとのことです。私は、このチャクラというものには、それまで全く関心がなく、そんなものが在るのか無いのか全然分かりませんでした。なぜなら、そういったチャクラの存在を示す明確なものを自分の体の中で感じたことがなかったからです。従って、それまではっきりと場所が特定できる形で体感したことが一度もなく興味もなかったこともあって巷でよく言われるチャクラについての知識は皆無に近く、そのため、それに触れないように避けてきました。しかしながら今回の体験で、少なくとも胸のあたりには愛の源泉、それも無条件の愛の出どころと言っていいような場所があることが分かりました。イラストではハートチャクラの色は緑になっていますが、その時、私が感じた胸から湧き出す愛には色は感じませんでした。また不思議なのですが、この時以来、愛という言葉をよく耳にするようになりました。ユーチューブの動画を見ていても愛という言葉を口にする人が多くなったように感じます。私の単なる思い過ごし或いはただの錯覚なのかもしれませんが、私が見ている世界の中で愛を語る人が増えたような印象です。今まで以上に愛を意識するようになったのは確かです。11月6日の早朝に起こった胸の奥から愛のエネルギーが湧き出る体験でハートチャクラが開いたと言えるのなら、もしかしたら私の人生の軌道が、この体験で新たに変化したのかもしれません。
チャクラの話しについては今回の主たるテーマではありませんし、私はチャクラについての知識が全然ないのでチャクラの話しはこのあたりで早々に終わらせようと思いますが、ただチャクラについては実は胸のハートチャクラ以外で気になるところがもう一か所あります。それは眉間の中央部分です。この6番目のチャクラには直観力や洞察力、創造力や実現力などのエネルギーがあり、アージュニャー・チャクラ とか第三の目チャクラと言うそうです。私は「私は無い」という気づきを得るずっと以前から眉間の部分には圧迫感のような違和感を感じていました。今も眉間に違和感を感じています。しかしながら違和感を感じるというだけで、それで特別すごい神通力が使えるようになったなんてことは全くありません。この眉間の違和感は単なる思い過ごしなのか、それとも何か意味のあることなのか私にはよく分かりません。というか全然わかりません。要するに私が思うに真我の直接体験をしたからといって、それだけで話しが終わることはなく求道の道はまだまだ続くということなのだろうと思います。チャクラの話しは以上になります。
愛のほうに話しを戻します。いずれにしても、なぜそうなったのか私には見当もつきませんが、自分の胸に開かれた深淵で見通すことが出来ない底知れない深奥から滔々 (とうとう)とあふれ出る極大の愛をその時感じました。その湧き上がる愛は時間が経つにつれ徐々に薄らいできたものの、その日一日は胸から湧き上がる愛をずっと感じながら過ごしていました。そして今は平常に戻っています。しかしながら、愛がなくなったわけではありません。胸の奥には、その時の愛はちゃんと残っています。胸の奥に留(とど)まっているという感じです。それ以後、大量の愛が一気に噴き出すようなことは起きていませんが最小限の愛に落ち着いたといったところではないかと思います。もし、あのまま、その時の宇宙全体にいきわたる後からあとから湧き出るあまりにも大きすぎる愛を四六時中毎日感じていたら、たぶん私の体は消耗しきって到底持ちこたえることはできなかったのではないかと思います。それほど強い愛を私は感じたのでした。
そして今、私は自分の内面を静かに見つめるとき、私の胸の中、心臓のあたりには小さいながらも力強い愛の炎が灯っていて、そこを中心に暖かい愛の流れが体中に拡散しているのを感じます。私は、その内面から静かにこみ上げ広がる愛に対して手を合わせずにはおられません。私は自分の中の愛に感謝の念を抱きます。なぜなら、それは神の愛だからです。私という存在を存在たらしめている愛だからです。私という存在を常に支えてくれている愛だからです。ですから私は、その神の愛に「ありがとうございます」と静かに心の中でつぶやき自分の中の神に対して合掌し感謝の念を送るのです。
このことから愛は宇宙の存立には必要なものであり絶対不可欠なものであると私は明言するのです。愛なくして宇宙は成り立ちません。愛こそが宇宙成立の根本原理と言っても過言ではありません。存在は愛によって生じるのです。ですから私は、悟りたいと思うのであれば愛が必須ですと声を大にして言おうと思います。ただ、勘違いしてほしくないのは、この愛はありとあらゆるものを生じさせる愛ですから世間一般の人が思うような愛ではありません。いわゆる悪や地獄と言われるような世界をも生じさせる愛であると言えます。一見すると、誰もが口を揃えてこれは絶対愛ではないと言うようなことであっても、それを生じさせる愛なのです。愛は愛ではないものが一方にあることで、それが愛であることが分かります。愛だけなら、どうしてそれが愛だと分かるのでしょうか。愛は、対比される愛でないものがあってはじめて成り立つことから、常に愛は愛でないものと対になって生じます。存在性への愛は、必ず善と言われるものと悪と言われるもの両方の概念を生み出すのです。なぜなら、この世界は相対性の世界だからです。存在性への愛は、善と悪、真と偽、誠実、不誠実、尊卑といった相対しあうもの、その両方を愛しているのです。だから、覚醒者は世界のありとあらゆるものを等しく等価のものとして見るのです。故に、仏様たちは誰であろうと如何なる極悪非道の罪人であろうと分け隔てなくお救いになるのです。同じようにイエス様もまた、すべての人の罪を背負って十字架に自ら架けられたのです。
もし悟りを望む人が本心から願うのであればイエス様やお釈迦様を嘘偽りなく心から愛してください。たとえ愛する対象としての神仏がイエス様やお釈迦様でなかったとしても心からあなたが信じる神様や仏様を命を懸けて愛してください。ただ信じるだけでは駄目です。実の親のように、実の子のように、血を分けた兄弟のように、運命の糸でつながった夫や妻のように、寝ても覚めても思い出される恋人のように思って本当に命を懸けて愛さなければいけないと思います。本当に心から愛している人のためなら、その人のために死んでもいいと思うはずです。それと同じように自分の体と命を完全に投げ出す覚悟で、自分が信じる神仏を愛さなければなりません。お釈迦様を愛したチューダパンタカのように、イエス様を愛した弟子たちのように自分が信じる神様や仏様を愛さなければいけないのです。その愛が深ければ深いほど悟りも早まると思います。なぜならイエス様やお釈迦様をはじめとする神様や仏様は真理と同義だからです。つまり、私は真理を命を懸けて心から愛してくださいと言っているのです。但し、他者が信じる神仏よりも自分が信じ愛する神仏のほうを優位に置きたいと考えるあまり、その愛で他者を傷つけたり他者をないがしろにしたりするようなことがあってはいけないと思います。他人が心から信じ愛する神仏をけなしたり貶めたりするのはもってのほかです。それは自我のなせる業です。あくまでも世界を平等に愛する実践の象徴としての神仏であることを忘れてはいけないと思います。
私自身に関しては、私はいつも、動画内で私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っています。これは嘘や冗談で言っているわけではありません。真実そうなのです。私は神仏を心から愛しています。もちろん、お釈迦様やイエス様も尊敬し愛しています。しかしながら、その愛は限局された排他的で差別的な愛ではありません。抜きんでて、お釈迦様やイエス様だけを特に愛しているというわけではありません。あくまでも等しく万物を愛している中での愛なのです。従って、私の神仏を愛しているという愛は特定の誰かや何かに対して限定されるわけではありません。私は空(くう)の現れです。もちろん私だけではありません。この動画を視聴している人も空(くう)の現われですし、私の動画を見たことがない関心がない人も同じく空(くう)の現れなのです。ただ、私は空(くう)の万物を等しく愛する愛を知っていることから、その空(くう)の愛と同じように私の場合も特定の限られた誰かや特定の何かだけを愛するということはないのです。私は空(くう)の現れとして空(くう)を愛しているのです。故に、その空(くう)への愛は、当然そこから生じた現われ全てに対する愛ということになります。その空(くう)への愛の現れとして私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っているのです。また、同時にそれ自体が空(くう)の現れでもあるのです。つまり空(くう)は空(くう)自身を愛しているということになるのす。
真我の直接体験をしていない人にとっては空(くう)への愛と言っても見当もつかないことだと思います。それに先ほど申し上げたバガヴァッド・ギーターに「非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である」と書かれている通り空(くう)を思い浮かべるのは、それを体験したことのない人には無理なことであると思います。ですから、まずは自分が心から信じることが出来るイエス様やお釈迦様、シヴァ神様やヴィシュヌ神様、日本の神様なら天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ )様や天照大御神(あまてらすおおみかみ)様といった自分にとって身近にあって想像がつきやすく親しみやすい神様仏様を対象として愛することから始めるのが良いのではないのかなと思います。もちろん今名前を挙げた神様や仏様以外の神仏でも構いません。お地蔵様でも観音様でも、近所の神社に祀られている神様でも良いのです。自分が心底愛することが出来ると思う特定の誰かや何かである神様仏様を愛してみようと心がけることから始めるのがいいのではないのかなと思います。
もしかしたらこれを聞いている人の中には具体的に神様仏様を愛するにはどうすれば良いのか分からないという人もいるのではないかと思います。そういう人のために私が考える一つの方法があります。それは好きなアイドルを思い浮かべて、ここが肝心なところですが性的欲望の対象としてそのアイドルを見るのではなく、加えて、その人に抱いていた夢や希望が完全に打ち砕かれるひどいスキャンダルがあろうとも、その人の存在をあるがままに認めたうえで、その人の幸せを心から願う純粋な無条件の愛を膨らませたあと、その愛をそのままスライドさせるように神仏のほうに持っていくようにすれば良いと思います。もちろん幸せを願う対象はアイドル以外でも構いません。身近な誰かでも構いませんし、見知らぬ人であっても構いません。動物愛でも自然愛でも人類愛でも地球愛でも宇宙愛であっても何でも良いと思います。この場合の愛とは、なんであろうとも、その存在を無条件に認めるという愛です。その純粋な無条件の愛を膨らませることが出来る対象であるなら何でも構いません。その無条件で全てを包み込むような愛を醸成できるものなら何でも心に思い浮かべればいいのではないかと思います。そのような愛で自分が信じる神仏を愛せるようになれば良いと思います。しかしながら、特定の誰かや何かではなく人類全体、世界全体、宇宙全体を無条件に執着なく平等に愛せるようであれば、それは既に神や仏の視点、空(くう)の視点からの愛であることからわざわざ特定の神仏を愛する必要はないのかもしれません。その場合は、その愛を保持したまま、その愛で真理を愛するようにしながら真理の探究を続けてもらえればいいのではないかと思います。無論、全体愛を持ちながら神仏を同時に愛しても構いません。そこは柔軟に考えればいいと思います。こうでなければならないということはないと思います。
愛は、とても尊いものであると私は思います。愛が現象世界の存在性を支えているからです。だからこそ愛は、どのような人であろうと救うことが出来るのです。イエス様やお釈迦様は人々を愛しました。故に心から悟りを得たいと思うのであればイエス様やお釈迦様のように自分の中の愛を高めると同時に深めて広げて全てを包含する愛へと純化していかなければいけないのではないかと思います。そのためには、まずは帰依する対象である神仏に対して、自分の命を含めた全てをその前に投げ出して心から愛さなければいけないと私は思います。お分かりいただけたでしょうか。
それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。