私は無いに気づいた後は

ユーチューブ動画の文字版です。

元修道女 キリスト教徒の神人合一 空(くう)を悟る可能性‼

下記文章と画像はユーチューブ動画の原稿と挿絵です。保存のために、ここに残すものです。


元修道女 キリスト教徒の神人合一 空(くう)を悟る可能性‼

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で32回目の動画になります。今回の動画ではキリスト教徒の方でも空(くう)の境地に達することが出来るかもしれないという可能性を感じさせてくれるうってつけの本をご紹介しようと思います。それは紀伊國屋(きのくにや)書店から出版されている「自己喪失の体験」という本です。ウィキペディアの英語版で著者であるバーナデット・ロバーツさんの経歴を見てみると、1931年にカリフォルニア州において敬虔なカトリック教徒の両親のもとに生まれ 17歳で裸足カルメル会修道院に入り8年半ほど修道生活を送ったあとユタ大学の医学部進学過程で3年学んだものの、どういう経緯(いきさつ)があったのか分かりませんがカリフォルニアに住む両親の家に戻ったとのことです。その後は南カリフォルニア大学で哲学の学位を取得したあと高校で生理学と代数を教える教師となり、そこで知り合った同僚男性と結婚したようです。1969年には子供の自発性や自主性を尊重し個々の発達段階に応じた教育を重視するモンテッソーリ教育に基づいた学校を開設し、1973年の42歳の時には南カリフォルニア大学で幼児教育修士号を取得したと書かれています。1982年の51歳の時に自身の体験を綴った今回ご紹介する本を出版したとのことです。

 ロバーツさんは残念ながら2017年の11月に86歳で鬼籍に入られ既に空(くう)に戻られている方ですが、この本の中で語られる一連の知覚に対する認識の変容体験をしている最中は四人の十代の子を持つ母親だったとのことです。この本が巷にあふれる他の悟り系のスピリチュアル本との間で一線を画することが出来ると思う点は、ロバーツさんが修道院で研鑽を積んだことや、大学での医学部進学過程を経て哲学の学位や幼児教育の修士号を取り幼稚園から短大までの学校の先生もされただけのことはある才媛才女な方であったことです。もちろん学歴や職歴だけで人も本の内容も判断できるわけではありませんが、ロバーツさんの場合、自分の体験を冷静に論理だてて分析し、人の浅知恵程度では計り知ることが出来ない厚いベールに包まれた深遠な神の領域として不可知論的な宗教文学にありがちな人を煙に巻くような表現だけでごまかすようなことをすることなく、感情に訴えかけてくるような感傷的な表現も最小限に留め、自分の内側で起こる精神面での認識上の変化を脚色することなく率直に語ると共に、その事実を、それまで培った学識で何とか説明をつけようと苦心されているようなところもうかがい知ることが出来るのです。この本は、悟りの内面的変化の過程を科学的視点からアプローチしようと考えている人にも参考になる一冊なのではないかと思います。そうは言っても、この方のものの考え方の基本は信仰篤い元修道女らしくキリスト教カトリックにある方なので多少の宗教的表現があったり婉曲的表現があったり、彼女が最後まで超えられなかった宗教的信念からくる限界があるのは仕方がないことだと思います。

 まず、この人の特徴で言えることは誰もが驚くようなものすごい精神上肉体上の修行をした人ではないということです。もちろん、私も経験した目覚めの過程における精神上肉体上の多少の困難には見舞われはしますが、自ら進んで難行苦行をしたというわけではないようです。ロバーツさんは、どうやら先天的な素質を持って生まれてきた人ではないかと思います。彼女はアメリカ人でカトリックの家庭に生まれ育ったとのことですが、いくら両親が敬虔なカトリック信者といえども通常は周囲の環境の中に子供を自然と悟りへと向かわせてしまうほどの影響を与えるものなどあるはずがありません。しかも幼児の時からですから彼女自身が悟りを意識するはずはないと思います。

 そんなロバーツさんの悟りの萌芽は5歳の頃には既にあったようで神の現存を気にしていたとのことです。そして普通ではない精神状態に入るようになったのは6歳の頃とのことで、最初は海上で父親が漕ぐボートの舳先で波に揺られながら沈黙と静寂の中で安らぎと喜びを感じたことに始まったとのことです。その後、心の空白を意図的に引き起こすことが出来るようにもなり、11歳の時には心の空白の中には祝福も隠されていることも感じるようになったとのことです。これはもう生まれつきの天才的瞑想家としか言いようがありません。15歳の時には、周囲に溶け込む沈黙でも空白でもなく、私という存在の中核にあって常に不動で沈黙し平安と歓喜と活力の源泉である静寂点があることを知ったとのことで、この静寂点の周りを彼女の自己が回っていたと感じていたようです。どうやら、その静寂点を神と感じて、ロバーツさんはそれに向かって生きる決意をして修道院生活に入ったそうで、彼女に言わせると、この沈黙の静寂点も通過点に過ぎず究極の目標は無自己にあったとのことです。

 私について言うならば、過去動画で言ってきた通り、読書中における「私は無い」という気づきによって私には主体性というものが元からなかったことに気づいたことが真我探求に向かう直接のきっかけでした。私は子供のころから瞑想をしてきたわけではありませんが、座禅や瞑想の経験をある程度してきた人なら短い間でも心が静まりかえった穏やかな状態の中で自己の広がりや至福を感じたり、時間の経過が分からなくなるような感覚を経験したことがあるのではないでしょうか。もしかしたら、その事をロバーツさんは静寂点と言っているのではないかと思いました。

 ロバーツさんの瞑想に関する能力は生来のものと言えますが、しかしながら、私の小学生時代を思い返してみると、もしかしたら私も自覚のないまま瞑想状態に入っていた時もあったのかもしれません。私は10歳くらいの時に訳も分からず母によって創価学会に入信させられ、同時に創価学会日蓮正宗から破門される前のことでしたから家の近くの日蓮正宗のお寺で受戒を受けた記憶があります。現在は創価学会を含めていかなる宗教団体にも全く関わってはいませんが、私のこの世の仏縁は、その時の受戒に始まったのかもしれません。そんな訳で、私は小学生の間は毎日、お仏壇の前に正座させられて法華経の方便品第二や寿量品を読み最後は「南無妙法蓮華経 」を数十分唱えさせられていた覚えがあります。もしかしたらその毎日の勤行が私にとっての瞑想だったのかもしれません。でも私の場合は母親に言われたからやっていただけのことで自主的に好きだから始めたものではありません。勤行をするにしても始めから早く終わらせることばかり考えながらお題目をあげていたので、やはり瞑想とは言えないかもしれません。そうは言っても集中して何も考えずにお題目を一心に唱えている時もありましたから、それが瞑想になっていた時もあったのもかもしれません。なんにせよ、そのおかげで10歳くらいで長い間正座をしていても多少足がしびれる時があるくらいで平気にはなりました。今にして思えば小学生くらいの時から1時間2時間くらいは正座をして平気になることを我慢して覚えるのも大切なことなのかもしれません。

 話しを戻します。ロバーツさんは10代前半で意識しない無自覚な瞑想状態で静寂を経験し、その後修道女としての人生経験もするようになりましたが、そういう生い立ちの彼女であっても自己の喪失体験には私自身は感じることのなかった驚愕と恐怖を感じたそうです。当初、彼女はそれまで学んできていた既存のキリスト教の知識や西洋科学の知識が自らの体験を合理的に説明できないことに愕然となり困惑し色々な古今東西の思想に答えを見つけようとして、あちらこちらに迷走を続けたことが書かれています。私は、それはそうだろうと思いました。ロバーツさんが若いころに入った正統派といわれる裸足カルメル修道会には、過去の歴史を見てみると神秘思想家として知られ神との合一を説く十字架のヨハネやアビラのテレサ16世紀頃にいたようですが、たとえ、それらの神秘主義否定神学を含めたキリスト教神学をロバーツさんが学んでいたとしても実際は唯物論実存主義に凝り固まった普通の生活を現実の社会を生きる中でしている以上、いくら神秘思想を学んでいたとしても、それはロバーツさんにとっては非現実的な虚構の話しであり生きた本物の知識として身に付いていたわけではなかったはずです。譬えるならロバーツさんにとっての神秘思想とは、埃をかぶって本棚で置かれている本の中に書かれたただの文字の羅列としての意味しかなかったのではないでしょうか。ですから、どのような学問であっても切実な問題として自分の身に直接結びつけて考えることなく、それが生きた知識として活用されない単なる文字の記憶としての範囲にとどまる限り、たぐいまれな至高の知識でさえも、その人にとっては何の効力も発揮しない意味を為さないものとなってしまいます。従って、いくら心を空白にする瞑想に長けていたとしてもロバーツさんが言うところの神との合一へ向かう神秘体験の知識については無知同然の現状があったと言えるのではないでしょうか。ですから、意識内における自己が喪失するという認識上の内的変化に対して予め自身の問題として捉え漠然的であっても、そのような状態になることを希望し、つまり悟りを求めて、それに対する事前の知識や心構えを備えておくこともしないまま、ある日突然自己の虚無性に気がつけば、たとえ修道女としての経験を積んでいたとしても精神的に動揺するのは当然です。

 もし、これが普通の常識的な思考に基づく行動しか出来ない人がロバーツさんのような尋常ならざる体験を否応なく意に反してしてしまった場合、その人は、その説明を普通の人からすればオカルト的に見える神秘主義の中に見つけようとするよりも、通常の反応として社会一般的な価値観に照らし自分の精神のとてもまともとは言えない状態を病的な異常な状態と捉えたほうが安易といえども、それまで慣れ親しんだ唯物論的に理解したほうが容易く受け入れることが出来ると言えるのではないでしょうか。だからこそ、頭がおかしくなったと考え込むことを予防するためにも事前に神秘体験に関する知識なども学んでおくのは大切ではないかと思います。

 ロバーツさんの場合に関しては、次々に訪れる認識面における新しい内的変化に対する精神的動揺は最初のうちだけだったようです。そこはさすが幼いころから特異な精神状態に慣れ親しんできたことや、かつ幼児教育の修士号を持ち修道女としての精神鍛錬も含めた神学の基礎及び様々な科学分野の基礎がしっかり出来ていたことが幸いしたのではないかと思います。その文面からも論理的思考性を感じるので、それまで得た知識に照らし合わせ、さらにキリスト教以外の宗教にも手がかりを求めることが出来る柔軟性も持ち合わせていたことから、さらに学びを深め冷静に自己分析を行い自分なりの答えを見つけながら、より真理の深奥へと入っていくことが出来たのであろうことが推測できます。

 ロバーツさんは、『瞑想の道の第一段階は自己から無自己に至るものであるならば、第二段階で到達するところは無自己から特定のどこでもなく、ありとあらゆるところ』(83ページ )と言っています。『それはまた、相対的な沈黙から「それ」の絶対的な沈黙への道』(83ページ )とも言っています。『それが知られる道は「それ」が「それ」自身を知ることよりほかにない』(83ページ )とも仰っています。

 まさに、その通りです。この世は真我の現われです。その真我こそが真の自己であり、その真の自己の現われとして現象世界があるのです。全ては真の自己の現われであることから限定される特定の私というものは現象世界の中にはありません。全ては一者の現われであるので、全ては一つなのです。それを知るとは、それとしてあることです。この本の中でロバーツさんが言う「それ」とは、純粋に非相対的な面における『自分自身だけを見る目』(86ページ)とのことです。

 意識内における認識の変化を人生の流れの中で見てみると、ロバーツさんは沈黙と表現する幼少期から続いていた様々な思考の鎮静化や自分の中にあると思っていた自己の喪失を体験したあと一体性を世界の中に見るようになりました。私の場合も少なからず座禅や瞑想をやっていた過去がある中で自分という主体性の喪失があり、その後に自己と他者との境界が薄れていき、そして認識に関連した精神活動の一時停止状態を体験しました。どうやら私とロバーツさんは、やってきた未知の試練に対し誰も頼ることなく一人で立ち向かったことを含めて同じような体験をしているようですし流れ的にも一致が見られるようです。

 ロバーツさんは、選択したり体験したり行為の目的と方向を定める自由を持つ者がそもそもいないと感じるようになったことで、自らの行動に対しては、行為者も行為の対象も不可知であり、行為そのものだけが知られることから、それを純粋な行いと書いて「純粋行」と呼びました。「純粋行」は反省と努力によって意識的に維持される行為ではなく、自己の力が無くなった時に自動的に起こるもので、たとえ汗をかく労働を行うものでも自己の活力は全く関与しないものなのだそうです。そして自己が無くなった後の純粋行で何をするのかについては、草木が自然の定めに従って芽を出し花を開くのと同様、歩く方向を知ることが出来ないままに梁の上を歩くかのごとく定められていて、そこから勝手にそれることは出来ないとのことです。さらに自意識と自己を省みる機能が喪失した後は心は沈黙しますが、その沈黙は、それまでの沈黙とは違う沈黙で、そこではすべての思考は行為によって置き換えられるとのことで、思考なしの行為だけが行われているそうなのです。加えて秩序や美、調和といったものに対する感覚も脱落し、音楽は雑音となり沈黙が楽音になったそうです。個々のものへの注目が出来ないことで物は一つながりの全体として見えるようになり、特定のものに美を見出せないことから実際の用途のないものを所有する意味を見出せず、子供たちの世話をしなくて良いものなら全てを投げ出して森の中での生活をしたいと思ったそうです。ロバーツさんにとっては一なることこそが最高の美であると思われたようです。このようにロバーツさんは、現象世界における究極の一なるものを体験したとのことでした。  

 私についても言わせてもらうならば、この人生の中で何かを主体的に選択し決定し行為をするという自己が存在するという認識の恒常的な消失を迎えています。主体性を持つ自己というものは私の中にはもはや存在しません。全ては起こるべきことが起こるべきこととしてただ起こっているに過ぎません。そこに他からの助けや支配なしで物事を一人で行って自ら立つという意味での自立性と自分で立てた規範に則って自らを律して行動することが出来るという意味での自律性の二つの側面を持った私というものが存在し人生に関与する余地は全くありません。私の人生のすべては自動で起きていることなのです。つまり自由意思など、どこにもないということです。そこに周囲から独立した一個の人間というものはないのです。今言ったことは他の人にも当然当てはまることなのですが、私と他の人との違いと言えば、それに気づいているか気づいていないかだけの差でしかないのです。私も含め他の誰であろうとも、自分の体を含めた現象世界で起こる内外面の感覚全体をただ観賞し味わっている存在なのです。

 この本の前付(まえづけ)の「はじめに」のところでロバーツさんがそれまで学んだ知識としてのキリスト教的無我の観念と実際の経験との違いに一人で立ち向かう過程で分かったこととして自意識が恒常的に消失する瞑想の道には二段階あると言っています。まだ自己は失われていないものの心理面で抱く様々な葛藤から苦悩を感じる内的試練が第一段階にあり、次に来るのが自己が脱落した後に残る「それ」と共に生きる人生が第二段階です。その第二段階における自己の脱落はロバーツさん自身にとっては衝撃的な事件だったようで、自己のない生に入るという言葉だけでは片づけられない自己意識の消失に伴う意識の変化と新しい認識態様への突入には大変な努力が必要だったと書いています。その理由として、自意識のもとになる反省という機能が止まり心が瞬間に固定され不可知なものへの凝視から抜け出ることが出来なくなったからだそうです。

 彼女の表現とは少し異なるかもしれませんが、誰であろうと何であろうと人や物の動きに関しては全て完全自動で起きているというのが真実です。私はそう感じています。従って、真我の視点で見れば故意であろうと過失であろうと何かを傷つけてしまった場合、そこに一切の責任はありません。主体性の消失は確かに反省という人間らしさを失わせることになるかもしれません。しかしながら私の場合、全く反省がないかといえばそうではなく、仕事上や人間関係上のミスやトラブルに遭遇した場合には少なからず感情は残っているので当然不愉快な気持ちにはなります。幸いなことに、また同じ過ちを犯し不愉快な感情を繰り返さないように心がけるという意味での自己を省みる精神活動は多少なりともまだ残っています。ただ私の場合は、その一連の行為や感情の動き、やってくる思考でさえも、全自動で起きているという認識の下で理解がされていることから、社会的関係性の中で、例えば仕事でお客様に対して何がしかの間違いをしてしまい平身低頭な態度で私が謝罪をしたとしても、それもまたプログラム通りの型通りの反省をあたかもしているかのように他者に見える形で対外的に示しているだけということになると思います。私はあくまでも、それを鑑賞している存在なのです。

 ロバーツさんがここで言う反省の機能とは自分の過去の言動についての可否を問う行為という意味もあるでしょうが、それだけではなく、もっと大きく自己の存在性自体を顧みるという意味合いも含んだものと捉えたほうが分かりやすいと思います。不必要な思考が止み自分自身の存在性を意識しなくなったことで過去や未来、現在進行中のことに対しても考えることはなくなり今のこの時点、瞬間瞬間のみを見るようになったということなのではないかと思います。

 私もロバーツさん同様に意識は今にあるので過去や未来について考えることはほとんどありません。実際、考えることが難しいのです。先月の末頃、私はコミュニティに鷲巣山(じゅそうざん)文殊堂に置かれている石像の龍頭観音様との不思議なご縁について書きました。もう何年も前のことだったので、その時のことを振りかえり思い出しながら書く作業というのは、常に今の瞬間に意識がある私にとっては努力を必要とする厄介な仕事でした。 皆さんが悟りを得るための精神状態をどのように考えているのか分かりませんが、人としての通常の意識を捨てたところにこそ悟りがあることから悟りの状態が高度になるにつれて、つまり空(くう)に近づくにつれて日常の生活や仕事に悪影響が生じる可能性があることを悟りを目指す人は覚悟する必要があると思います。従って、重要な判断を求められる職業についているというのなら定年退職をした後に年金生活をしながら取り組んだ方が良いと私は思います。私の場合は、悟りとかに何の関心のない人からすれば異常に見える一種異様な精神状態になっていく過程を悟りには必要なものなのだろうと軽く考えて受け入れていたところがあるので自分の内側で起きている一連の認識の変容過程も自然の成り行きに任せていました。そのため個々の変化自体にはロバーツさんのように恐怖を感じたり戸惑ったりというようなことは特にありませんでした。

 ロバーツさんは自分の中心にあったと思っていた自己がなくなったことに気づいたことで当初は喜びを感じたり生きている感覚のない空虚さを感じたりと、かなり高低差のある精神的な抑揚を感じたとのことです。また、自分に生きている感じがしないことで生活上の動作についても自分で何かをしている感じもなく全て条件反射で動いているように感じたことにも相当な戸惑いがあったようです。そういう体験から分かったことは、人格的な自己がないときは人格的な神もないということだったそうです。つまり逆を言えば、人格を有する神は人格を有する人間の存在を前提としているわけですから、自分に人格があるという幻想がなくなれば人格を持った神の存在も幻想になってしまうというわけです。これは必然というか、言わずもがなの当然の帰結と言えるのではないでしょうか。

 私もロバーツさんが感じた精神面での不安定さついては経験があります。自分に主体性というものが無いという認識自体には全く抵抗なく直ぐに受け入れられたのですが、しかしながら日々を生きる実際の生活の中においては、以前の動画でお話ししたことがあるように自ら自滅する結果になろうとも、欲や感情などのあの手この手を駆使し様々な場面で自己を主張し生き残ろうとする自我との戦いは避けられないものでした。その過程においては私が取り組んでいた事物を俯瞰し客観視する精神鍛錬に抗う自我により精神的肉体的にとてもつらい苦痛を感じていた時がありました。加えて、自分自身のみならず他者の存在に対しても生きている感じがしないというような空虚感がある一方、理由もなく内側から突然沸き起こる悦びに包まれたりというようなアップダウンのある心理状態があったのも確かです。とはいえ、それも乗り越えなければならない試練と思い文字通り歯を食いしばって乗り切りました。その心身の苦しみや浮き沈みも時と共に落ち着いて平たんになり、いつの間にか苦痛を感じるような自我の抵抗がなくなって主体のない無自己の状態を自然に生きられるようになりました。もう少し正確に言うなら自我の主張が完全になくなったわけではなく、何らかのきっかけで正負の感情や欲を利用して自我が主張を始めても、それは真の私ではないということが分かっていることから、それも俯瞰して眺めていられるようになりました。そうやって自我の主張を眺めているといつしか自我の主張は沈静化して消えてしまいます。何というか、自我は自我としての役割があって、その役割を担ってくれていたわけですから一方的に敵対視したのでは自我に失礼ですしかわいそうです。自我に対しては今まで頑張ってくれてありがとうというような感じで、いたわりの眼差しで見ることが出来るようになりました。

 但し、自我の抑制は対外的な感情表現を一切しないという意味ではありません。必要に応じてその場その場で人として相応しい感情表現や実際の感情は伴わなくてもその場に似つかわしい表情を取り繕う必要は厳然としてあることから、たとえばお葬式ではお葬式に相応しい表情や言動を伴う立ち振る舞いがあるように、職場においても相応しい表情や言動を伴う立ち振る舞いがあるように、誰であろうと日常生活においては各自が置かれた状況にふさわしい顔の表情も含めた常識的な礼儀作法を守る必要があるのは当たり前のことではないかと思います。それが出来なければ通常の社会生活は出来ません。ですから、悟った人間がいつも無表情で能面のような顔をしていると思うのは大間違いです。そういうことも踏まえた上で、その場その場で世間一般的に人として求められる顔の表情も含めた感情表現と言動を自然とこなしながら、その自分を客観視し俯瞰することが出来るようにならなければいけないと私は思います。故に、普段の生活そのものが悟りを目指す修行の場になると言えるのです。そういう訳で隠遁生活をやりたい人はやればいいと思いますが、必ずしも山にこもる必要はないと思います。

 ある日のこと、ロバーツさんは救いを求めてなのか司祭に自分の存在が突き止められないことを話したことがあるそうです。けれども、その人には精神病か何かに間違えられたようで気の毒がられただけで分かってもらえることはなかったそうです。これに関しても私の考えを言わせてもらうならば、東洋思想を学び実際に悟りの修行をしたことがある人であっても答えに窮するような難問と言えるものですから、司祭といったところで所詮物質の実在性をもとにした思考しかできない凡夫に過ぎないような人に自己の非実在を尋ねたところで質問の意味さえ理解できず頭の異常性を疑われるのが落ちなだけと言えるのではないでしょうか。

 私などは最初から兄弟や友人知人、職場の人にユーチューブで話しているような私が理解した真理について話すようことを一度もしたことはありません。ユーチューブに動画を載せていることさえも話したことはありません。これからも血縁者も含め身近な人に私がやっているユーチューブチャンネルに関して一切話すつもりはありません。理解できない人間に何を話しても無理なものは無理ですから、無用な論争を避けるためにも、そこは明確に話す相手を取捨選択をする態度が必要になります。当チャンネルは、私の話しが理解できる本当にご縁のある方だけに見ていただければ十分なのです。たかだか多いときで数十人しか見ていないチャンネルですが、その中から空(くう)に至る人が一人でも現れてくれるのであればそれで良いと思っています。

 話しを戻します。ロバーツさんは、人格神としての神の観念と自分が生きているという感覚の両方の消失からの克服は精神的にかなり苦労をされたようです。しかし、その事で逆に何もかも全てが神の中にあり何ものも神から切り離すことが出来ないと考えるようになったことで、全てのものが神であり、全ては生命の中にあることが分かって自分がないという喪失感から救われたようでした。

 ロバーツさんは、捨てるという観念も含めた執着心を捨てることにより、神という概念を捨て自他という区別も捨てて全てを神の現われとしての一つなるものとして見ることが出来るようになったのではないかと思います。27ページに次のように書かれています。「神は人格的でも非人格的でもなく、内でも外でもなく、全体としてはどこにもあり、個別的にはどこにもないのです。要するに全てなのです。ただ自己を除いて。」

 この最後の「自己を除いて」を私なりに解釈すると、自意識という存在性が無くなると自分を中心とした見え方が出来なくなります。すると私やあなた、あそこやここといった彼我の差などを主体と客体に分ける捉え方もぼやけてくるので全てを一つのものとして見るようになってしまいます。そうなると、自己と他の事物が、あたかも一体のものとして見えるようになった後に残るものとして対比されるものは、それを見るという行為そのものということになりますが、ロバーツさんは、その見るという行為でさえも自分のものではないと感じたようです。だから、その時のロバーツさんは自己を認識できないが故に自己を除いた全てが神と感じたのではないかと思います。

 ここまでくると悟りとしてもかなりのものですが、この気づきでもまだ不十分です。しかしながら、観察眼に優れたロバーツさんは見えている個々のものが個別性を失い一つのものとして見える「一なること」に気がつき、次いで、それを見ている「見ること」との間の相対に気づき、さらには、その対照性から「見ること」についても疑問を抱くようになりました。

 ここでもロバーツさんは「見ること」と「一なること」との間の関係性に悩まれたようです。そこで幼児教育に関して学んだ知識を活用して、人の意識の発達段階において意識が主客未分化で、かつ記憶もないことで考えるということもない生まれたばかりの乳幼児の意識に着目し、この反省も自意識もない心をもって生まれた乳幼児の意識こそが、まさに「一なること」やそれを見る「見ること」に相当するのではないかと考えたようです。

 答えを始原の意識状態とも言える生まれたばかりの乳幼児の意識に求めたところまでは良かったのですが、それでも「見ること」と「一なること」といった相対性はまだ残っています。そして、その先にあるその「一なること」を見ている者は一体何者かということに無論なりますが、結局ロバーツさんには分からなかったみたいです。

 その原因として考えられるのは、ロバーツさんの中にある神と自分とはあくまでも別物という考え方にあるのではないかと思いました。この考えは、信仰篤い敬虔なキリスト教徒にとっては本当に悩ましい問題だと思います。特に幼いころから東洋思想に触れることなく育ってきた西洋人にとっては克服しがたいことなのだと思います。全ては神の顕現であると分かるところまで来ていながら、自分の精神も同じ神の現われの中にあることまではどうしても受け入れられないようなのです。自分の体を含めた目で見える情報と体の内部で感じる情報は一体で一つです。真の鑑賞者である真我は内にあって一体となったものを見ています。しかしながらロバーツさんは、自己と外界との区別がなくなり一体となって一つとしてある視野に気がつきながらも、結局自らの内にあって、それらを見ている真我という真の自己としての自分自身を受け入れられなかったのではないかと推察します。その抵抗感が仇(あだ)となって空(くう)を悟るところまでは残念ながら行けなかったと私は思いました。

 もしかしたら、今ロバーツさんが空(くう)まで行けなかった人と聞いてがっかりした人もいるかもしれませんが、ロバーツさんは幼児教育の修士号を持ち修道女や教師としてのスキルを持っていることから、人の心理的側面に精通した論理的思考性に基づく自身の経験に対する考察はキリスト教徒の方やキリスト教徒でなくても悟りを目指す人には十分参考になると思います。悟りを得る全ての人に同じように当てはまることはないかもしれませんが、限定的と言えども悟りの過程における精神面での内的変化を知るには最適な参考書ではないかと思います。

 本のほうに話しを戻します。私も経験した頭が異様に熱く感じたり体が周囲に溶け込む感じは私にとってはどうということはなかったのですが、ロバーツさんにとっては相当に耐えがたいものだったようです。ロバーツさんが言う自身の身体が無いと感じる状況は、よく耳にする体外離脱とは全く別のものとのことです。巷でよく聞く体外離脱で説明されるような自己が二つの部分に分けられるというものではなく、そもそも分けられるべき自己がないとのことです。人の身体などの目に見える物は全て標渺(ひょうびょう)とした仮現(かげん)的なもので、その根底に何か恒久普遍的なものがあるとすれば、それは自己が無くなった後に残っているものと感じたようです。

 これについても私はよく分かります。ファーストインパクトである私は無いという気づきにより自分の主体性が否定されることに始まり、日常の生活の中で自分の体と他の見えている人間を含めた風景が常時ではありませんでしたが無機質で平面的に感じるようになりました。次のセカンドインパクトの気づきでは目の前で見聞きしているものに対する善し悪しを判断する精神活動が一時停止ボタンが押されたがごとく完全に停止し、まるで心自体がないかのように完全に静まり静寂そのものになって見るものと見られるものは一体となり、自分の内側にある神の眼とも言える真の鑑賞者の視点を感じました。それ以外にも、これまで動画の中でお話ししてきたような大なり小なりの気づきを繰り返しながら、この世は幻想であるという認識が醸成され、そしてサードインパクトに当たる真我の直接体験が決定打になって、この世は幻想に過ぎないという認識が確定的になり、今はその認識に基づく見方が物事を判断する普段の基準になっています。私の意識は真我と共にいつもあり、或いは真我の一部として常にあり、はたまた私の視点は真我の視点という感覚があるので、自分の体も含めて眼に見えるものと体で感じるものは、私でありながらも外側のものという感じがあります。

 私は真我の直接体験をしたことで私は体でもなければやってくる思考でもなく感情でもなく、それを鑑賞している真我であるという認識が基本にあることから、感覚器官に生じる内と外で感じる一連の認知されるものは私のものでありながら真の私のものではないと感じます。さらに今言った、その真の私のものではないという感じ方も外側のものなのです。これを聞いた人は、間違いなく私のことを頭がおかしい奴と思うでしょう。二律背反するようですが、私のものでありながら私のものではないという主張は成立するのです。そして、それらは全て空(くう)の中で生じているのです。その空(くう)こそが真の自己なのです。要するに全ては私ということになります。ますますこれを聞いた人は私が支離滅裂なことを言っているようにしか聞こえないでしょう。真理とは、そういうものなのです。ロバーツさんは、それまで慣れ親しんだ神は外にあって当たり前という既成の概念を越えることが出来ないが故に神と自分とを一体と捉え、この現象世界は幻想であり、自分自身が自分自身の世界を創造している創造主であるという見方を最後まで受け入れられなかったのではないかと思います。

 ロバーツさんによると旅のはじめの最初の認識の変化では、あらゆる内面性が脱落し意識は外に向かうものの、その外側にも万物の個別性は感じられることはなく、そこには「一なるもの」しか見えず、次の変化では、その「一なるもの」として見えていた外にあるものさえも脱落したことで何を見てもどこを見ても内にも外にも何も無いという空虚で虚無な状況になったとのことです。ロバーツさんにとっては、それは精神的に大変に恐ろしくつらく苦しい状況だったようです。

 しかしながら、これは言わば通過儀礼のようなものです。全く同じ体験をしたわけではありませんが、先ほどお話ししたように私も内と外で感じる全てを客観視し俯瞰する見方が自然なものとなるまでの意図的で意識的な精神鍛錬中では、生き残ろうとする自我との戦いはどうしても避けることが出来ず、この時の私は精神的にも肉体的にも大変な苦痛を感じていました。ただ、私は、ロバーツさんが感じた一連の無我の境地を悟りと結びつけることが出来る仏教的地盤が元からある日本で生まれ育ち悟り系のスピリチュアル本を読むことで事前の知識もあったことが幸いして特に悟りの境地に向かう過程で感じる認識の変化自体に対する抵抗感は全くなく、その状態を自然に受け入れることが出来ました。違いは人為的にそういう状況を引き起こそうとしていたかどうかの違いではないかと思います。そういう認識の変化の過程では私は内外面で起こる事象を客観視すると共に思考を停止させようとする精神鍛錬の努力を要し、ロバーツさんの場合は特段そういう状況を自ら引き起こそうとしていたわけではなく幼少時に身に着けた心を空白状態にする技術を繰り返すことで自然にそうなっていったということではないかと思います。加えて無我の状況をロバーツさんは不本意で望ましくないものとして受け取っている一方、私の場合はそれを好ましいものとして感じていたわけです。

 ロバーツさんは、こうなってしまった原因として43ページに「神に対して自分を捨てたつもりで実は無に対して捨ててしまった」ことにあると言っています。ロバーツさんは、「いつも神に対して自分を放棄し過ぎることがあるだろうか、ここから先は行くべきではないという限界があるのだろうか」と考えていたそうです。私は、この考えはとても重要だと思います。神仏を絶対的に信頼し覚悟して自分の全てを明け渡すことは何よりも大切だからです。神仏に対し自分の体と命の全てを投げ出す気持ちがあってはじめて、悟りへ向かう道が開けるというものではないでしょうか。これを聞く全ての方に心に留めておいてもらいたいと思います。

 また大事なことだと思うので性的な事にも私なりの考えを申し上げておこうと思います。著者のロバーツさんは、一連の体験をしている最中は十代の四人の子供の母親として忙しい毎日を送っていたとのことです。この事からも分かるようにロバーツさんは若かりし頃は修道女であったものの普通の女性としての結婚生活も手に入れました。何が言いたいのかというと必ずしも悟りへと向かう行程においては性的行為の一切を禁忌し必要以上に遠ざける必要はないと私は考えているということです。ロバーツさんは離婚も経験することになりますが、これについては人に自由意思など元からないのですから、これも起こるべきことが起こるべきこととして起きただけに過ぎません。性行為の有無と悟りの関係、離婚の有無と悟りの関係といった密接な相関は必ずしも成り立たないと思います。円満な夫婦生活があっても悟る人は悟ると思いますし、逆に苦しい禁欲生活をいくらしようとも悟れない人は悟れません。悟る人、解脱をする人は絶対に性的行為をしない人と決めつける考えも一つの囚われではないかと思います。精神鍛錬を行う上では心身を清らかに保つ必要性はあるとは思いますが、それはあくまでも自我の呪縛から解放されるためのものですから、執着心から過度にふけるようなものでない限り性的行為をしたからといって鍛錬の障害になることはないと思います。昔は出家した僧侶の集団生活の中では一定の歯止めとして性的行為に対する厳しい規律は必要だったのかもしれませんが、だからといって今の時代においても同様に、それにならって一般の俗世の中にありながら悟りを目指す人までが厳しい禁欲生活をする必要はないと思います。まず、その行為が社会的に認められる夫婦の間で愛の行為として行われるのであるならば、なんら悟りへの障害にはならないと思います。逆に、その性的衝動を無理に抑制し、いつまでも性的欲求が消えることなく延々と欲求を持ち続け悶々とした毎日を送っている方が障害になりますし、行き過ぎた禁欲で夫婦間に亀裂が入ってしまったのでは、逆にその事が悟りを目指す上で障害になってしまいます。お互いに心に影を作らないようにした方が良いと思います。夫婦円満こそが悟りの成就に結び付くのではないかと思います。ですから夫婦間で愛の行為として行う分には私は悟りの障害にはなることはないと思います。ことさら悟りを意識して性行為を禁忌するほうが逆効果になると思うので、そこは普段通りであれば良いと思います。そして独身の場合においても同様に無理に自分の性的欲求を我慢することはしなくていいと思っています。自分なりのやり方で発散すれば良いと思います。何がなんでも禁欲にこだわるのも執着ですし、性的行為のことだけを考え続けるのも執着です。行為自体にいいも悪いもないのです。単なる生理機能でしかありません。私からすれば性欲も尿意と同じで溜まったものは、つべこべ言わずに単純に排出してしまえば良いだけです。精神的にも肉体的にもすっきりさせて改めて精神鍛錬に取り組めば良いだけなのです。従って、一時的に沸き起こる人の体の生理現象としての性的欲求の解消手段を自ら禁止したが故に性的欲求がいつまでも消えずにかえって高まってしまい精神集中が困難になるというのなら自分なりのやり方で欲求を満たして発散することも大切かと思います。当然のことですが、この自分なりのやり方というのは道徳に反することなく社会的に許されていて、かつ常識の範疇という意味です。よって精神鍛錬の妨げにならない範囲で性的欲求の発散行為をした後に、また精神鍛錬に戻ればいいのではないかと私は思います。お釈迦様は中道を説かれたはずです。快楽ばかりを追うことなく、禁欲ばかりをするのでもなくほどよい生活態度を心掛けるのが肝要ではないかと思います 。ローバーツさんの場合は離婚をする人生ストーリーの中での神秘体験が設定されていただけのことなので、他の人もロバーツさん同様に離婚をしなければ、或いは独身でなければ合一体験が出来ないと考えるのは完全な間違いです。ですから、これを視聴している人は中道的で円満な生き方を心掛けそれを保ちながら、その人なりの個々の人生ストーリーの中で合一体験を目指せば良いと思います。

 話しを戻します。ロバーツさんは当初、内にも外にも何もない無自己の静寂が神ではないかと思ったそうですが、それも違うことに気づいたようです。それはあくまでも「それ」に到達するための過程に過ぎないと語られています。83ページから84ページにかけて次のように書かれています。『覚醒をしたままで「それ」を見る力を得たのです。「それ」の前では他の一切のもの、私の身体も周囲の事物もすべて意識の外にあり、この現前の強烈さに較べれば、自己の喪失など何ものでもありません。無自己を超えた先には、この強烈な現前に出会って「それ」の中に溶け込むしかありません。』

 私は最初ロバーツさんが何を言っているのか分かりませんでした。真我の直接体験をした場合は自分が真我そのもの、つまり空(くう)そのものになってしまい人間の意識など保持しようがありません。ですから覚醒したままで「それ」に到達したというのは一体なにに到達したのか首を傾げてしまいました。そこで自分の体験を思い起こして熟考した結果、はたと気がつきました。ここで言っている「それ」の現前とは内と外で感じていた全てのものを一つのものとして在らしめるということなのではないかと思いました。無自己の先には全てを一つとして見る神の視野とも言える「それ」があり、更にその向こうには認識作用も完全に停止させることにより見るという行為さえも認識されることなく、その一なるものの中に溶け込んで「それ」としてあることしか出来ない意識状態があるのは確かなことです。

 ロバーツさんは言います。『「一なること」を見る限りはまだ相対的で、その反対のものを見る可能性があり、実際私は恐ろしい虚無を見たのです。言いかえれば、たとえ無形なものとしてでも、神を対象とする認識は相対的な面にとどまり神を見失うこともあり得るのです。神は相対的な心、すなわち主客の分離した意識では見ることは出来ないのです。』(85ページ )

 それはその通りなのです。彼女が言う通り純粋に非相対的な面では自己を無いものとして「それ」であらねばなりません。つまり、「一なること」とそれを「見ること」という相対が残っている間は本当の意味での「一なること」ではないのです。その一なるものを見ようとするのではなく、対象を捉えて判断する働きを完全に停止させたうえで自らが一なるものとしてあらねばならないのです。

 ロバーツさんは一連の瞑想の旅の流れについて94ページに以下のように説明しています。まずキリスト教でいうところの自己と神との合一から始めて自己を神の沈黙の中に永遠に消失せしめ、次に仏教でいう無我に入り、そこで自己に伴う一切のものなしに万物と本質的に一つになって生きることを学び、そして最後にヒンズー教で頂点をなすものである自己が無くなった後に残る唯一の「存在」そのもの、すなわち「それ」に達するというのが瞑想の旅の流れであるとしています。ロバーツさんは、どの宗教単独によっても「それ」に達することは出来るかもしれないけれど、体験上、宗教間で協力をしたほうが良く、宗教の違いにこだわるべきではないと語っています。

 この点についても私は全くもって同意します。さすが、ロバーツさんです。ある一定以上の悟りを得た人は、みな同じことを言うと思います。真の覚醒者は宗教の中の違いに殊更(ことさら)こだわることはありません。他の宗教宗派の悪口を言ったり貶めるようなことはしません。なぜなら共通した真理へと目が行くようになるからです。もし、宗教を語る誰かが他の宗教について悪態をついているようであれば、その時点でその人は現象世界を一つのものとして一体のものとして見ることが出来ていないということになります。世界を一なるものとして見ることが出来なければ、本当の意味で等しく万物を見ることも等しく生類に憐れみを持つことも出来ません。だから悪態をつくのです。相対の分離の概念に囚われている間は真我に至ることは出来ません。この世界の中に一なるものを見ることさえも出来ないでしょう。悟りとは概念を話すことではありません。悟りとは自らが真我に留まり真我として在ることです。悟りとは真我を体現することです。具体的には宇宙に遍満する存在性への愛を表現することです。だからイエス様やお釈迦様は愛や慈悲心を説くのです。その人が真の覚醒者であるかどうかは、他の宗教宗派への関わり方が平等であり融和的であり、かつ共通した真理を見ているかどうかという点からでも分かると思います。つまりは簡単に言えば、全てを等価のものとして見ているかどうかに尽きると思います。

 但し、私としてはヒンズー教の唯一の存在であるアートマンとロバーツさんがいう「それ」が一致しているようには思えません。しかしながら、おおむね流れの中身や順序については異論はありません。宗教間の協力についても全くもって同感です。結局、キリスト教においても仏教においてもヒンズー教においても真我の観点から言えば終着点は一つですから、それぞれの参考になる点は大いに取り入れて悟りを目指してもらいたいと思います。

 ロバーツさんは神の死を体験しました。それまで自分が持っていた信じる対象としての神の死を迎えたのです。神を外側のものである客体として考えるのではなく純粋な主体として自らの内に捉えることが出来るようになったのです。これによりキリストもまた同じように神を自らの内に捉えていたことを理解しました。これを知るには純粋主体性を直接に見るしか方法がないとのことで、たとえ直接見たところで人間の理解を超えていることから知性によって把握はできないとのことです。

 では、ロバーツさんが言うところのその純粋主体性とは一体全体なんなのかということになりますが、それは内省と対象化を伴うことなく存在と知と行為が全くの同一のものとして区別なく見聞きされることを指して言っているようです。どういうことか言うと、ロバーツさんは認識活動なく自分を含めて見える物すべてが一個のものとして感知できるようになったということなのではないかと思います。多分、読書中に起きた私の2回目の気づきにおいて感じた、対象を判断する精神活動がまるで一時停止ボタンが押されたがごとく完全停止した状態で目の前にあるものをあるがままに感じとることができた同じ状態のことを言っているのではないかと思います。確かに、その時になってはじめて見るという行為自体を意識することがなくなり、見えているものと一体になって合一したようになりました。おそらく、そのように主体も客体もなく体で受ける感覚を一つのものとして一体として見えるようになった把握の仕方が世界を見る一つの目と感じて、それを純粋な主体性を持つものと考えたのではないかと思います。そして世界を純粋主体性として見るとき、つまり全てを分離なく一体として見るとき、自己の内面では自意識もなく自省機能もなくなっていて一種の空虚な状態になっているのではないかと思いました。この空虚さをロバーツさんは無自己と言っているようです。

 これについても私は十分理解できます。私も、そのような状態で世界を鑑賞しているからです。つまり、自分の内外面の動きも含めて世界は完全自動で起きていて何が起ころうとも一切の責任は私にはないと認識しているからです。もちろん、これを聞いているあなたにも一切の責任はありません。だからといって、自明ですが何をやっても構わないと言っているわけではないので、そこは勘違いをしないようにしてください。人には自由意思がないという話しをしただけのことです。

 ロバーツさん自身は139ページに書かれている通り、神と自己との違いは当然で客体としての神を保持したいという考えを無自己を自覚するようになってもなお持ち続けていたいと考えたようですが、最後は完全に自己を失い主客が合一したことで最後に残った一つなるものである、この純粋主体性を最高の真理として神として認識するようになったようです。また純粋主体性は今ここに生きることにもかかわっていることから、今を生きることにより客体としての神を追い求めることはなくなったとのことです。

 ここまで長々と話してきましたが、結論を言えば前述したようにロバーツさんは空(くう)には至っていないと思います。私の体験に当てはめるのならば、この本に書かれていることは自らが空(くう)となる2歩くらい手前までに感じられる主体と客体の関係性が失われ個別性は全体としての総体性の中に飲み込まれ世界は一体となり一つの映像として感じられるようになったところまでを経験したことが書かれているようです。本の中では目に映るものがテレビ画面や映画館のスクリーンを見ているようになったとは書いていませんが、簡単に言えば見えている世界から生命感が失われただの映像を見ているようになって自分の体を自分のものとは感じられなくなったうえにつまらない他人の人生の映画かテレビドラマをただ見せられているような感覚になったということなのではないかと思います。

 多分ロバーツさんの文章は読みづらいというか把握しづらいと感じるかもしれません。著者の体験談なら、通常その状況を思い浮かべながら読者も読み進めると思うのですが、著者の体験は特異で常人では普通経験しないものですから読者は感情移入したり状況を自分に当てはめづらいところが相当あると思います。そのうえ分かりやすく何かに譬えながら話しを進めるタイプではないことから、自らの体験について感じた感覚についての主観的表現が多いので、私もロバーツさんの体験を自分に当てはめて考えるのが難しかったです。また、ちょくちょく聖書や昔のキリスト教神秘思想家の話しを引き合いに出すので全くの初心者には難しいかもしれません。この本を理解するには、ある程度悟り系のスピリチュアル本を読み込んできた人や神学や哲学、心理学の知識も必要になると思います。

 私が一番興味を引いたのは最後の終りの章です。ある日、ロバーツさんは図書館へ行こうとして裏隣に住んでいる85歳のルーシルという女性と出会い立ち話からルーシルさんも同じ自己の喪失体験をしていたことを知り、さらに個々の状況や対処の態度まで似ていたことに驚かされたことが書かれています。また、ルーシルさんも自分よりも40歳も若いロバーツさんが同じような経験をしていることにびっくりしお互い驚きあったとのことです。私は、そういう場面に対しお隣同士でありながらも、それぞれ同じような体験をしていながら長い間お互いにそのことに気づくことなくそれまで過ごし、そしてこの時になって二人が出会うことになった人生における不思議な縁の面白さを感じました。

 私は最近、数十年前にある出来事で一躍時の人となった方がやっておられていて幅広く東洋思想などの情報発信をされているユーチューブチャンネルを視聴しました。その中で超高齢期にある人のうち2割ぐらいの人が超越的に至福を感じる心理状態にあるということを知りました。社会学者や心理学者によって、そういう事例が報告されているというのです。80歳以上の人たちの中には死の不安や恐怖がなく我欲が減少し寛大になり今に幸せを一番感じ今日生きていられることに感謝の念を抱く、そういう人がいるというのです。

 私は学者の先生方が報告するほどなのですから、少数ながらも超高齢期における超越的精神状態にある人というのは実際にいるのだろうと思います。しかしながら、ルーシルさんが経験していた状態は今日生きられていることにただ感謝する至福の精神状態とは明らかに違うものであり、ロバーツさん同様に無自己の精神状態だったのです。

 ロバーツさんの関心は始めから終わりまで自己が無くなった後に残るものに対してでしたが、ルーシルさんの場合は6年がかりで無自己になった後で、どのように生きらるかに関心があったとのことです。ルーシルさんは、自己を含めてすべてが脱落してしまえば後には神だけが残っていて、それが自分のこの世の生の終りであることを一瞬も疑わなかったそうです。

 残念ながら書かれている内容から推測するにルーシルさんも空(くう)までは行かなかったように感じます。細かいところでの感じ方には違いがあるものの、どうやらルシールさんもロバーツさん同様に無自己となり世界が一なるものとして見える見え方に変わって、それと完全に同化するようになった精神状態が神と合一した状態であると考えているようです。  

 ロバーツさんは自身を神の一部であると考えてはいるようですが、知らず知らずのうちに幼少より培ってきた何者であろうとも神は不可侵的な存在という観念とこの世は実在するという観念の最終的な自己の存在性の抵抗に阻まれてしまったようです。当の本人は、それに最後まで気づかなかったと感じます。 

 とりあえず、その事は差し置いても自己の脱落は空(くう)に至る過程では避けては通れない必須の道程です。私はイエス様は空(くう)にまで達することが出来た方であると思っていますが、西洋社会で生きる現代のキリスト教徒が自らが神としてあることに抵抗を持つ限り空(くう)を直接知ることは難しいかもしれません。これを乗り越えるヒントとして、自らが神としてある、または自らが神になると考えるのではなく、自らを神の内に溶け込ませるというように考えれば少しは抵抗が無くなるかもしれません。キリスト教徒に限らず仏教徒であっても、或いは他の何らかの宗教を信仰している場合でも自分と神仏を分離させ外に神や仏があると思っている間、何よりも世界は実在であると考えている間は自らが空(くう)としてあることを体験するのは困難かもしれません。

 悟りの道程の初期段階では、自分と世界はつながっているという感覚であるワンネスを感じたり、万事順調な感覚を感じ引き寄せの法則などがあると錯覚したりします。そして、そのようなワンネスなどを感じる際には言いようのない幸福感を味わったりします。しかし、それは空(くう)に至る行程では第一関門のようなものでしかありません。禅の世界で言われる魔境のようなものです。求道者としては初歩の段階です。またロバーツさんが体験した自己の脱落及び生きることに対する生の活力感の喪失、つまり自己の主体性が消失し自分を含めた周囲のものに生命感や躍動感が感じられなくなったりすることや、さらに進んで自己と他者への認識作用が停止又はそれに近い状態になり境界がなくなって現象世界内の主客が合一して、あたかも全てが一つのものとしてあるかのような体験も最終段階に近いとは言えますが、まだ8合目あたりなのです。

 ロバーツさんは多少なりとも観想生活を続けていたようですが、どちらにせよロバーツさんにしてもルーシルさんにしても修行と言えるような厳しい精神鍛錬をしていたわけではないようです。二人とも精神的な葛藤を抱えながらも自然とそうなっていった印象を受けます。この事からも極端を排して自然の成り行きに任せるといった心持ちが大切ではないかと思います。だからといって、難行苦行が性分として好きな人やその過程が通らなければならない道のりとして予め設定されている人もいるでしょうから難行苦行を必ずしも否定はしません。やりたい人はやればいいと思います。

 私は原稿を書き出す前に参考にしようとマイクロソフトエッジのCopilot ( コパイロット)にロバーツさんの著書「自己喪失の体験」にはどのようなことが書かれていますかと尋ねてみました。その時の質問に対しCopilot( コパイロット)が答えてくれた内容の一部を要点をまとめてご紹介します。「この本はロバーツさんの初期の精神的体験と裸足カルメル会修道女としての旅から始まります。彼女は伝統的なキリスト教の自己喪失の枠組みについては、一般的に低い自己である自我が神との結合において、より高い真の自己に到達する際の変容または喪失とみなされていると説明します。しかし、ロバーツさんの旅では、キリスト教の伝統的な枠組みを超えた自己が全く存在しない状態へと彼女を導きました。ロバーツさんは、この無我の境地は、思索的な観想や魂が神との合一の状態に確立することとは違うと説明します。むしろ、合一を超え、自己と神を超え、未知の静寂の領域への旅なのです。彼女は、自分の体験は思索的な観想に属するものではなく、むしろ伝統的な瞑想から始まる旅に属していることを強調しています。」

 私は、このCopilot( コパイロット)の返答については質問した著作物に対して世界中の人が言及した文章の主要な点を抽出しまとめたものであると思いますが、コンピュータにしては上出来です。基本的に、この答えに異論はありません。まさに頭で考える自己や神といった、あらゆる概念を超えて静寂そのものになること、つまり空(くう)としてただ在ることだけが真理なのです。それ以外の空(くう)の悟りはありません。そこに至る過程において、ロバーツさんも体験したであろう私という主体性の消失や認識作用の停止又はそれに近い状態で自己の内外面で起こる出来事を一体として見ている意識状態を体験することがあるのです。頭を使って概念で真理を捉えようとしている時点で方向性がずれています。

 自他の区別のない非相対的な状態は無自己の中にあります。この非相対的な知を人に伝えるためには、仕方がないことですが言語を駆使するという相対的な知を持たなければなりません。しかしながら、この無自己自体があまりにも知的理解を超えているために、いかに巧みな話し方で言葉を並べ立てたところで十中八九ほとんどの人には理解されないのです。

 ロバーツさんは、著書の終わり近くになって神と自己との合一を超えて、自分や神が何者かということも消えて、「それ」だけが残ることに言及し、この合一を超えた段階について触れている歴史上の唯一の神秘家としてマイスター・エックハルトの名を挙げています。エックハルトは合一を超えた段階を神の主体への突入と呼んで、「神や真理の観念を超えたところに突入し、真と善との根源、全てのものの原初の原初に達する。」と言ったことが書かれています。

 ロバーツさんは神との合一でさえも最終的なものではないと言います。そこに「自己に基ずく感情や知見が残っているうちは、まだ最後的なものではないので、合一に伴う愛と平安と活力を捨てることになっても、これを超えて行かなければならないのです。」(175ページ)と言っています。私も全くもって同感です。「何を知りうるか」「何をなすべきか」「何を望んでよいか」という知情意に対する 問いは 、他の哲学的思想も含めてこの世があってこそ成り立つ問いであって相対があるからこそ問えるものです。絶対主体の中では、いかなる問いも生じません。なぜなら、ロバーツさんが言う不可知なものに到達するには人としての意識を完全に捨て去らなければならないからです。人としての意識でいる限り、その人にとっては生涯不可知なものでしかないのです。

 ロバーツさんは神と自己との同一化はあり得ないことと言っています。それはそうです。無自己となり主客が一体となって見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるもの、話す者と話されるものが一つなってしまえば、つまり自分の体と周囲の見えている世界との間で分離の感覚が消え一つの映像になってしまえば、そこには崇める対象の神もなければ、その神を崇める人もいないことになります。後に残るのは、一つの視野だけだからです。だからロバーツさんは自己を認識できない以上、自己と神との同一化は無いというのです。しかしながら、その一方で自分が神の一部で無くなったわけでもないと言うのです。

 これについては少なくとも空(くう)の教えに触れていれば良かったのにと私は思うのですが、いかんせん学習面での空(くう)にも達していなので、まだそこに最後に残る相対し合うものがあることを理解していないように思えます。そうは言っても神と自己との合一を超えた「それ」について言及していることから、多分本当はロバーツさんも気がついているはずだと思うのですが、ロバーツさんには見過ごしている点があります。それは、前の方で触れた、その自己が消失した後に残った一つの視野を見ている者は一体全体何者なのかという点です。おそらくロバーツさんは、その一つになった視野を見ている存在とこの世におけるバーナデット・ロバーツという人間の中にある意識を一緒のものとしたくなかったのではないでしょうか。あくまでも自分の意識は被造物という立場に置きたかったのではないかと思います。その考えに根付いた元修道女らしい神に対する謙虚な姿勢が空(くう)に至る障害になったのかもしれません。

 ロバーツさんは、「世界とその中の個々の事物は実在する」(86ページ )と思っていることをはっきりと書いています。このことから、この本を読む限りではロバーツさんは完全に自己が脱落し主体と客体の区別がなくなり世界を一つなるものと見ることが出来る無我の境地に達したものの空(くう)の段階までは至らなかったことが分かります。もしロバーツさんが真我の空(くう)の段階にまで達していれば考え方も変わったでしょうが、たとえ無我の境地に達した人であっても、それだけこの世の実在性を払拭するのは難しいということを物語っているのではないでしょうか。視聴者の方で実際に空(くう)の段階まで進みたいと思うのであれば、やはり人と神仏を区別しようとする考えを含めた一切の自他の区別の否定のみならず、この世の存在も含めた存在性そのものを否定をする必要があると思います。難しいことかもしれませんが、この世への執着を捨てた先には誰でも空(くう)を体験できるようになると私は思っていることから熱意を持って取り組んでいただけたらと思います。本当は空(くう)のほうが実在で虚構のこの世が体験の対象ですから、空(くう)が体験の対象になるような言い方は本来おかしいのですが、この世を基準にすれば空(くう)を体験するという言い方になるのは致し方ないと思います。

 繰り返しになるかもしれませんが、執着から離れる方法として通常の普通の生活を捨てる必要はありません。あくまでも物欲やこの世のものへの執着を捨てることが大事なのですから、山にこもって仙人のような生活をする必要はないのです。ただ、通常の普通の生活を送っていても空(くう)へ至る過程においては、経験上、精神的にも肉体的にも相当に苦しい時期を通らなければいけないと思うのでそれについては覚悟を要するかもしれません。空(くう)への階梯を上がるにつれ感情面の起伏は少なくなり、世の中への興味関心はほとんどなくなってきます。ロバーツさんが言う心の中の虚無性にも耐えなければなりません。むしろ何もない人里離れた環境での修行より、それまでの社会生活を続けた中での修行の方がより苦しさを感じるかもしれません。外面的には通常の社会生活の中でありながら、内面的には何も求めない生き方は心身両面において相当な苦行になるはずです。ちなみに私は新聞もテレビもない生活をしています。

 より論理的に専門的にロバーツさんが考える神人合一に向かう意識の変容をより細かく区切って理路整然と各段階の精神状態を詳しく知りたいとお思いの方は日本教文社から出版されている「神はいずこに』を読まれることをお勧めします。この本はロバーツさんが自身の同じ体験をさらに詳細に分析されたことが書かれていますが、さすが様々な経験を積んでこられた学識ある博学卓識な方だけあって沈着冷静な眼差しに基づいて行われた自己内観には確かなものを感じます。この動画をあげた時点では、ざっと目を通しただけの斜め読みですが、一連の体験内容を6段階に分けてかなり事細かく説明をされています。「自己喪失の体験」のほうは入門書的な感じで自分の生い立ちや子育てをしている中での精神的変容を人生の流れに沿って説明しているのに対し、「神はいずこに」のほうは、精神的変容の中身に焦点を絞って変化内容に応じて仕分けして順序立ててより具体的に、その変化した認識には、どのような意味を見出さるのかをロバーツさんなりの解釈をあくまでも信仰深いキリスト教徒らしい視点から試みています。彼女の生い立ち自体がキリスト教と切っても切れない関係であることから、どうしてもキリスト教的視点になるのは仕方がないことだと思いますが、そこは割り切っていただくしかありません。その点を除いてもより高度性を増した読み応えのある専門書的構成になっているので読んで損はないと思います。両方読めば尚良いかもしれません。

 ただ本当に惜しいのはロバーツさんが仏教の無我の境地を理解するところまで行っているのに、そこを超えた空(くう)があることに気づかなかったのは私としても痛恨の極みに思えます。ロバーツさんとしては自分というものがなくなり主客の違いも消えて目に映るものが一体として見える見え方そのものが、旧約聖書出エジプト記314節に神の名前として書かれている「ある」と同じものであると思い、そこに神が臨在していると感じて、それと同化することが神との合一と考えたのかもしれません。確かにロバーツさんが純粋主体と名付けた全てを一体として見ているその視野こそが神の視野であることに間違いはありません。従って、ロバーツさん自体が神の道具として神の視野として存在していることに変わりはないことなので、そこに神が臨在していると感じたのは当然でありもっともなことだと思います。しかしながら、そうであるなら更に一歩も二歩も俯瞰してロバーツさんを通して、その視野を見ているものは一体何なのかということをもっと深く追究していただきたかったと思います。ロバーツさんが5歳の時から40年ほどかけて認識が変容していく過程での内外面で感じた現象世界全体が相変わらず、まだ見られる対象だからです。つまり、自己が消失し世界を一なるものとして見る見え方そのものに同化することも、まだ見られる対象で主客は分離している状態なのです。悟りとは、この世を徹底的に俯瞰したうえで没入し相対する見え方を一つずつ剥いでいくことなのです。だから、本当の意味で主体も客体もないところを知るためには空(くう)の領域まで達しなければいけないのです。絶対主体と言えるところまで達する必要があるのです。ロバーツさんの場合、最後の最後まで、それは不可知のものとして不可侵のものとして到達してはいけないものとして考えていて、そこに自ら至ることに抵抗があったのだろうと思います。あと、もうちょっと仏教を深く学べば空(くう)という教えがあることにも気づいて、自身の深奥にある真我に至ることに対して抵抗する自我の最後の壁とも言える存在性という壁を乗り越えて聖書に示される本当の意味での絶対主体としての「ある」に至ることが出来たかもしれないと思うと残念に思えてなりません。ですが、それも今となっては致し方のないことです。結局、ロバーツさん自身には何の責任もなく最初からそういう人生として物語が設定されていたというだけのことなのです。今はロバーツさんも絶対主体としての「ある」として至福の中にあることでしょう。

 なんにせよ。ロバーツさんは少なくとも8合目あたりまでは到達したわけですからキリスト教徒の方でも空(くう)に至る可能性は十分あるわけです。そのロバーツさんが自身の体験から得た宗教の違いにこだわることなく宗教間で協力したほうが良いという教訓は大変貴重です。元修道女で熱心なカトリック信者の方の発言でもあることから軽視するわけにはいかないはずです。キリスト教にはキリスト教独自の神秘神学があるようですが、それはそれとして同時に並行して他宗教も学んでいくことも大切なのではないかと思います。 

 真理においては世界中の大昔からある宗教の間には貴賤上下や優劣高低の違いはありません。ですから私は一つの宗教にこだわることなく複数の宗教の教えを学ぶ必要性を強調するのです。その点において私は日本人は恵まれていると思います。世界中の宗教を自宅にいながら日本語で学べる環境があるのですから、その事は日本人の真理の求道者には大変有利ではないかと思います。私としては、その有利さを大いに活用しながら今以上に学びを深め絶対主体としての空(くう)の真理を究めていきたいと思います。

 随分長くなってしまいましたが、それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。